八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-1

八大教材教本 天聖経(2012年版)p43-78

【天啓の御言】(1-1)

 


 

第1巻 真のハナニム

 

第1章 ハナニムの本体

   

1) ハナニムは無形の主体であられる

 

① 無形でいらっしゃるハナニム

ハナニムは、いかなる形体ももっていらっしゃいません。大きいといえば、無限大であり、小さいといえば、無限に小さい方です。
(35-156, 1970.10.13)
ハナニムは、果たしていらっしゃるのか? 誰かがつねって「あっ」と叫ぶよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じ得るハナニムがいるのか? 問題は、そこにあります。本当にハナニムがいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。
(89-72)
人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心は、どこにあるのか? 頭にあるのか、心臓の中にあるのか? 心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中に、ない所がありません。同じようにハナニムがいらっしゃるならば、ハナニムも、この世界がハナニムの体のようなものなので、この世界のどこにでもいます。
(38-242)
ハナニムは、見ることができません。皆さん、力が見えますか。ハナニムはエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見られません。
(89-72, 1976.7.11)
知恵のハナニム、全知全能なるハナニムは、中央で思いどおりに振る舞える無形的な存在としていらっしゃりながら主管するのが、一番便利だと考えられたのです。ハナニムは無形であるからこそ、存在世界を思いどおりに突き抜けてきても、少しも支障を感じません。皆さん、からだをハナニムが来て思いどおりに過ぎていっても、皆さんは分からないというのです。
ハナニムが、こくりこくりと居眠りしている皆さんのからだを、思いどおりに踏んでいっても、分からないというのです。それで、どんなに便利ですか。ですからハナニムは、考えた末に、見えないハナニムとしていらっしゃるのが一番便利だろうと思い、見えないハナニムになられたという論理は、妥当な論理です。
(138-167, 1986.1.21)
私たちは、空気が通ることが分かりません。空気が通っているのに、それを感じられません。空気が通ることも感じられないのに、ハナニムが通ることが分かるのかというのです。
ハナニムは、無形の神としていらっしゃるのが最高に便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのようなハナニムでなければなりません。無形のハナニムですが、ハナニムの心は、この宇宙よりももっと大きいものを要求しています。
(138-167, 1986.1.21)


皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継げる精子卵子をみなもっているでしょう? 良心ももっていますか。それでは、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていても、触れることも、見ることもできないことを知らなければいけません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ論理で、ハナニムがいるのか、いないのかという時、またはハナニムを見たのか、見なかったのかと尋ねる時、見られないとは言えないのです。
(275-13, 1995.10.30)
心の中にハナニムが入ってこられれば心が分かります。ハナニムが心の中に入ってくれば、壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠であられるハナニムが心の中に入ってくれば、そのようにできます。永遠を時間ではとらえられないが、永遠の中に時間があります。それでハナニムは見えなくても、心は分かります。
(41-285, 1971.2.17)
ハナニムはどのように愛するのかというとき、答えに困るでしょう? ハナニムは無形の神なので、どこでも通れるということを知らなければいけません。若奥様の目の中に入って、心臓の中にも入って・・・。どこにでも行けない所はなく、すべてに通じるというのです。それでは、ハナニムはどこに住んでいるのか? 家はどこか? ハナニムが住む家は、私たちの心の真ん中です。男性の心にはハナニムの男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って住むというのです。
(128-325, 1983.10.2)
全知全能なるハナニム、全天下を料理されるハナニムが、ここにいるとしましょう。力でいえば、太白山テペクサンも吹き飛ばし、地球星にも穴を開けられる能力のハナニムですが、そのようなハナニムを皆さんの目で見ながら生きるとすれば、生活できると思いますか。
ハナニムが見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは、神経衰弱にかかり、1時間も我慢できないのです。ですから、ハナニムが見えないことを有り難く考えなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は、私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人の話をしたのではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。
(38-244, 1971.1.8)
もし、この世界に、空気が1しょうしか残っていないとすればどうなるでしょうか。ハナニムが意地悪な方ならば、世界統一は問題ありません。おそらく5分以内に統一するでしょう。ハナニムが空気をそっくりもっていきながら、「お前たち、統一するのか、しないのか?」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば、いっぺんに統一できますが、ハナニムが空気をもってそのようにされないことは、有り難いことです。空気がなければ、私たちは生きることができません。このように空気は、生命に絶対に必要な要素です。ところが、空気に対して有り難く思いもせずに、どろぼうのように平らげています。
(38-244, 1971.1.8)


天宙の大主宰なるハナニムが人間の目に見えるようになれば、ハナニムを互いに奪い合おうとして、けんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを妨げる道理がないというのです。ハナニムが見えなくて良かったのです。
もしハナニムが見えたなら、アメリカとソ連が互いに、自分のハナニムだと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うというのです。その争いを誰が止められますか。ハナニムは全知で、こんな争いが起こるかもしれないと、無形でいらっしゃるというのです。ハナニムが見えるのを願うことは、ばかげた行為です。見えなくて良かったというのです。
(41-285, 1971.2.17)
この宇宙は、神秘に包まれています。その大きさが210億光年にもなる大宇宙です。1光年は、光が1年間行く距離をいいます。1秒間に地球を7周半も回れる光ですが、この光が1年間進むのが1光年です。
それでは、このように大きい宇宙を支配できる主人は、どれほど大きいか? 背が高いとすれば、どれほど高いか? ハナニムがそれほど大きければ、ハナニム自身が厄介な体を引きずり回れるか? ずるずると歩き回るとすれば、どれほど不便か? 一度動けば、宇宙がすべて驚いてひっくり返るのです。ハナニムは、知恵深い方です。それでハナニムは、「見えない主人になろう」と考えたのです。
(138-167, 1986.1.21)
ハナニムが、どれほど重いでしょうか。それを考えたことがありますか。ハナニムが、どれほど重いですか。斤数きんすうで量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければ、その体で歩き回るのは大変ですが、ハナニムは、無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩き回っても重さが感じられません。
また、無形なので、どんなに狭い針の穴でも行き来できます。思いどおりに運行できるというのです。大きいといえば大きく、小さければ無限に小さくもして、この宇宙のどこでも、思いどおりに運行できるというのです。
(136-106, 1985.12.22)
一番貴重な物があるとすれば、いつでも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。それでは、最高の宝物といえるハナニムをもっているとすれば、その方をどこにお迎えしたいのか? 安全にお迎えできる倉庫があるとすればどこか? その倉庫が、まさに私たちの心です。人間の心が、ハナニムを安全にお迎えできる倉庫です。
(41-285, 1971.2.17)
ハナニムは無形なので、有形の存在を自分よりも重要視しなければならないという結論が出てきます。そうでなければ回っていかないというのです。また、人は自分のからだよりも、見えない心とハナニムをもっと重要視しなければならないというのです。
(111-49, 1981.1.18)


 

② 本来は自然に分かるようになっていた

人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じ生まれていたなら、ハナニムがいるのか、いないのかという論難ろんなんは必要なかったでしょう。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中で、お乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれるやいなや、目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、ハナニムと人間の関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければいけない立場にあることを分かったでしょう。
ところが堕落により、みんなすっかり忘れてしまいました。それで、ハナニムがいるのか、いないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。
(20-306, 1968.7.14)
人は、この宇宙の被造万物の中で傑作品です。どのくらい傑作品かといえば、皆さんが推し量り得ないほど大きくて、素晴らしい傑作品です。それでは、絶対的なハナニムがいらっしゃり、人をつくったとすれば、ハナニム自身が言うこと、見ること、感じることを、人間が分からないようにつくれるでしょうか。
(53-51, 1972.2.8)
ハナニムに似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じ、いつもハナニムがいらっしゃるということを、歴史を通じ認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば、ハナニムに対し、疑いをもてなくなります。
堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたはずでした。そのような基準になったならば、誰が「ハナニムは存在しない」と否認するでしょうか。否認できないというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-307)
「ハナニムがいる、ハナニムがいる」というのは言葉だけではありません。原理を通じ、主体と対象の関係を中心として見る時、ハナニムは不可避的にいなければならないという立場ではなく、ハナニムは、私が考える前にいた方であり、私のすべての感覚、私の一切を主管する方である、という立場でなければいけません。それを認識することが、何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るのが原則です。
私たちが寒ければ、寒いということを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように、神がいらっしゃるなら、神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題です。
言い換えれば、体恤たいじゅつ的立場をどのように私たちが確定づけるのかということが問題なのです。
(58-291, 1972.6.25)
皆さんが寝ていても「アボジ!」と言えて、独り言でも「アボジ!」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れて、寝るのも忘れながら、その生活の裏面に、父に対する懐かしさをもって「アボジ!」と言えれば、アボジの手がつかめます。夢のような事実が起こるというのです。「アボジ!」と言えば、アボジの懐に抱かれます。


このような表現的圏において、体恤的感情をどのように体得するかということは、信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんが、その人の信仰基準になり得るのです。
そのような愛の心情をもったならば、どこかに移っていって「私がこれをしなければならない」となる時は、「天よ、共にいてくださいますように」という前に、既にハナニムは共にいるのです。そのようなことを皆さんが感じるようになる時は、「有り難いハナニム」というようになるのです。
(58-299, 1972.6.25)
統一教会の「原理」は、ハナニムを無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だといいます。二性性相であられるハナニム自身の分性的実体としてアダムとエバをつくっておいて、彼らが成長し愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかといえば、アダムとエバが成熟するようになれば、ハナニムの男性性稟はアダムの心の中に、ハナニムの女性性稟はエバの心の中に入っていくというのです。
だからといって、ハナニムが分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃるハナニムなので、アダムとエバの心の中に臨在できるというのです。
(138-245, 1986.1.24)
ハナニムは二性性相の中和的存在だというでしょう? 中和的立場で愛を中心とした統一的存在だということは、今まで話をしませんでした。そこに、愛を中心とした統一的存在だというそのことを付け加えなければなりません。
(223-268, 1991.11.12)

 

2) 無形のハナニムは体が必要

 

① 体をもつためにアダムとエバを創造

ハナニムは、どうしてアダムのような形を必要とするのか? 万物は形状的な格好をもっていますが、ハナニムは無形の存在でいらっしゃいます。ハナニムは、どのような形ももっていません。大きいといえば無限大であり、小さいといえば無限に小さい方でいらっしゃいます。そのような方の、いかなる標準的な形を形成して、形体を現したとしても、実体をもった万物は、そのハナニムに直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がいなければならないのです。ハナニムは、この地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するには、その中心的タイプ、すなわち形状が必要なのです。それでハナニムは、アダムを創造されたのです。
(35-156, 1970.10.13)


アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管なさろうとするのが、ハナニムの人間創造の目的です。したがって、一つの人格的実体と関係を結ばなければならないために、アダム完成とともにハナニムの形状完成、すなわち形が完成するのです。ハナニムは、アダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが、無形世界の中心にいらっしゃるハナニムのような姿にならなければいけないという考えをもって、アダムをつくりました。形がなければ、形の世界を主管できないのです。
(35-158, 1970.10.13)
ハナニムがなぜ、アダムとエバを造ったのか? ハナニムは、無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父、母になれなければ、形状の子女を愛せないので、体をまとうためなのです。アダムとエバの創造目的は、第1に、アダムの体でもって無形のハナニムが体をまとうことであり、第2は、体をまとうことにより震動的な衝撃が来ます。言葉だけではならないのです。
この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。第3は、ハナニムは中心軸をもった垂直の父であるので面積がありません。面を探そうというのです。
(232-210, 1992.7.6)
霊界に行ってもハナニムを見られません。ハナニムは見えないのです。力が見えるでしょうか。ハナニムはエネルギーの本体なので、霊界に行っても見られません。体がないというのです。ですから、実体世界を指導して主管するためには実体をつかわなければなりません。ハナニムは、どのようなハナニムか? アダムが堕落しないで完成し、地上で暮らして天上にいけば、アダムの形状をまとうハナニムになります。それで、見えないハナニムと見えるアダムが一つになるのです。そのようになれば、アダムが「ははは」と笑うのは、ハナニムが「ははは」と笑うことであり、それはすなわち、宇宙が「ははは」と笑うことになります。
(105-193, 1979.10.21)
無形の神としていらっしゃるハナニムでは、この宇宙を相手に刺激を感じられません。心、それだけでは、どんなに刺激しても、形体がなければ感動がありません。同じように、そのように刺激が来ないというのです。これが互いに相容れないもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう? そのような刺激が必要だというのです。
(141-37, 1986.2.16)
ハナニムは、霊界でも無形です。モデルがありません。それで、かたちをもった人間の父母になるためには、かたちをもたなければ中心になれないのです。
(222-337, 1991.11.7)
ハナニムの最後の創造目的は、体を用いることです。実体世界を主管するためには無形のハナニムではいけないので、万民の父として、母として体を用いて現れなければいけません。感覚器官をもって刺激を感じ得る主体と対象として立つためには、体をまとわなければなりません。
(25-342, 1969.10.12)


実体世界をたてられたハナニムが無形であっては、実体世界を支配できません。それで体が必要です。(アダムとエバを)創造された目的は、ハナニムも実体を用いて、実体の父母になることです。その実体がアダムとエバです。
アダムとエバが完成したならば、ハナニムは、アダムとエバの心の位地に入り、ハナニムを中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権がなります。今日の次子権は必要ありません。アダム自体が長子の中の長子で、エバも長女の中の長女です。そのようになれば二人の息子、娘は、人類の父母の中の父母になります。父母であると同時に、永遠なる世界の王になるのです。
(214-39, 1991.2.1)
なぜハナニムは、人として体をもつようにしたのか? 体のないハナニムがいらっしゃったなら、どれほど良いかというのです。ハナニムが一人でいらっしゃれば良いのに、なぜ体をもって、問題となるようにつくったのかというのです。ハナニム自身は無形の神です。無形のハナニムが、体をまとった人間の先祖にはなれません。体をまとってくる息子、娘に対そうとするので、体をまとったハナニムの位地に出ていかなければならないのです。
それでアダムの体がハナニムの体のようになるのです。しかしハナニムは、アダムの心のような位地より、一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。
(223-183, 1991.11.10)
ハナニムは無形で形体が見えないので、形体をまとって現れなければならず、また、形体をもつ人間と万物を主管するためには、ハナニムがアダムとエバの形体をまとって現れなければいけません。そのようになれば、アダムとエバはハナニムと一体となるので、ハナニムはアダムとエバの心のような方になるのです。
アダムとエバの心の位地にハナニムが臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダムのような方がハナニムであることを知らなければいけません。
(90-194, 1977.1.1)
なぜ人を創造したのか? この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理、主導し得る立場に立つためです。ハナニムは、霊界において無形であられるので支配できず、実体の仮面をかぶり、実体の体をまとうことによって、あの世で、地球星で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を、実体をもって支配し得る王になるために人をたてたのです。
その王の顔がアダムの顔です。王をつくったので王妃が必要です。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは、地上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。
(199-144, 1990.2.16)

 

② アダムは第一の祖先、有形のハナニム

ハナニムは第1に、体をまとうためにアダムとエバを創造され、第2に、愛を完成するために創造されました。このようなアダムとエバが完成し、二人が一つとなり得る愛の実体となればハナニムが臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、ハナニムの形状的実体父母になったアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって理想世界が成し遂げられるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させる目的のためにも、人間を造られたのです。


それでハナニムが愛を中心としてアダムとエバに臨在されることにより、人類のまことなる父母、実体の父母としていらっしゃり、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体を用いられて、父母の位地に顕現できるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-307)
実体を用いた、ハナニムの体としてつくったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体のハナニムです。無形のハナニムが実体の世界を主管するためには、実体のからだがあってこそ、見たり聞いたりできるので、ハナニムの実体としてたてたのがアダムなのです。それでは、エバは誰か? エバは、アダムの妻です。実体の妻です。
それゆえ、アダムが実体を用いたハナニムならば、エバは実体を用いたハナニムの妻です。神聖なるハナニムが妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体を用いたハナニムのからだです。エバは実体を用いたハナニムの妻として創造されたのです。
(22-279, 1969.5.4)
ハナニムがアダムとエバを必要とするのには、二つの目的があります。第1は、愛の理想を成就しようということです。第2は、無形のハナニムが形状を用いて現れるためです。ですから無形のハナニムが、有形の形状を用いて有形世界と関係を結べる基礎、その核心がアダムとエバなのです。
(92-147, 1977.4.1)
天の国に無形のハナニムが一人でいて何をしますか。見えないハナニムでは、どうしようもありません。人間の父母になるには、体をもって感じ得なければなりません。このような人間と同じ体をまとわなければならないので、体をまとうためにやむなく、アダムとエバを二重的存在としてたてざるを得なかったということを知らなければいけません。
(133-91, 1984.7.10)
体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから、ハナニムの形状に似たそのような体を備え得る姿に、アダムとエバをたてたというのです。
そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座に上がらせ、その王と王妃の心の中にハナニムがいらっしゃり、地上世界と無形世界を統治するのです。ハナニムの王国をつくるのです。王国は、愛の王国です。愛を中心としてのみ、霊と肉が一つになるのであって、他のものをもってしては一つになり得ません。
(143-93, 1986.3.16)
エバは未来において、ハナニムの王女です。王女であると同時に、将来のハナニムの相対でした。エバを愛の相対としてつくろうとしました。ハナニムの夫人になるのです。


なぜそうなのかといえば、愛を分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世に行ってみれば、ハナニムは無形です。空中で太陽のような光が24時間、いつも浮かんでいます。空中でハナニムが、すべて無形で管理するのです。その無形のハナニムが、実体をもった人間の愛の対象では、むなしいです。
ですから無形のハナニムが、愛の理想の絶対作品であり、パートナーとして、体をもったアダムとエバをたてたのです。ハナニムは誰のかたちかといえば、アダムとエバのかたちです。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母なのです。
(199-361, 1990.2.21)
ハナニムは、愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形のハナニムが永遠なる愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。皆さんは、真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には、真の父母の教理があります。
(38-173, 1971.1.3)
ハナニムが、アダムとエバをなぜつくったのか? 無形の神では、実体世界を主管できません。無形の神では、見えない神では、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配できないというのです。
ですからハナニムは、愛を中心として体をまとわなければなりません。それで創造をしたのです。愛を中心として体をまとえば、内的外的刺激が広がります。刺激が広がるというのです。
(166-232, 1987.6.7)
無形のハナニムは実体がないので、その形体を代身したのが真の父母です。真の父母は、個人的な父母であり、家庭的な父母であり、宗族的な父母であり、民族的な父母であり、国家的な父母であり、霊界に行っても、これから真の父母の形状でハナニムが現れるのです。
(98-224, 1978.8.1)
統一教会が偉大なのは、まさにそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かといえば、レバレンド・ムーンの形状をハナニムが用いられるというのです。
(166-232, 1987.6.7)
ハナニムは、無形のハナニムです。無形のハナニムが、有形のハナニムとして現れたというのです。有形のハナニムとは何か? 堕落していない、私たちが言う真の父母です。
(201-83, 1990.3.4)
究極的にハナニムは、霊的で無形あられるので、人間は直接ハナニムから、教えと重生の体験ができません。それでハナニムは、中心人物を立てて、人間が、彼を通じて教えを受け、重生を体験できるようにされました。この方がまさに有形、無形の真の父母です。
(91-101, 1977.2.3)


ハナニムが、アダムとエバをつくった目的がどこにあるのか? 私たち人間の形状を見れば、体をもっています。しかし無形のハナニムは、体がありません。体をまとわずには、体をもたずには、霊界や地上世界を統治できないというのです。それで、ハナニムがいらっしゃるとしても、ハナニムが人間の父母として現れるためには、体をまとわなければいけないというのですが、その体をまとった代表が誰かといえば、アダムとエバです。堕落していないアダムとエバの体をまとって現れるのです。
それゆえ、アダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰するハナニムです。実体をもったハナニム、すなわち永遠なる無形世界のハナニムの形状を代わりにまとって現れた位地で、父母の位地で世界を統治する責任がアダムとエバにあったというのです。
(133-91, 1984.7.10)
ハナニムは、ハナニムと人間が主体と対象として、縦的な愛の関係を完成することだけを目標にしてはいらっしゃいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。
その瞬間がまさに、内的父母であられるハナニムが外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられるハナニムが、アダムとエバの形状を用いて有形世界に永存される父母となるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖となるのです。
(135-10, 1985.8.20)

 

3) ハナニムは人格的な神

 

① ハナニムは知情意をもった人格神

今日、多くのキリスト教信者たちは、ハナニムは唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善なる位地にいらっしゃるので、被造人間、すなわち被造物と創造主は関係をもち得ないとみます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方なのです。しかし、愛の概念を中心として見るとき、どんなに至高至善なるハナニムであり、どんなに低俗な被造物であっても、愛の関係を結ぶためには、人格的な内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければいけません。人格を備えた人間と性稟せいひんが同じでなければならないというのです。
(138-245, 1986.1.24)
ハナニムは、どのような神か? 人格的神です。知・情・意を合わせた内容を備えた人格的神です。そのような人格的神が最高に願うものが愛なので、その愛の対象として私たち人間をたてたというのです。これは驚くべき事実です。
(143-149, 1986.3.17)
ハナニムは第一原因的な存在ですが、それが人間をどのようにつくったのか? ハナニムと同じようにつくったというのです。ハナニムと同じようにつくるには、ハナニムの形状をかたどって、その形状どおりにつくりました。その言葉は何を意味するかといえば、私が父に似ていると同時に、父は誰に似ていますか。私に似ているというのです。それで答えになります。ですからハナニムを模索して見るとき、ハナニムは、どのような方か? 私のような方だといえば、さっと入ってくるのです。
(127-233, 1983.5.15)


ハナニムは誰に似ているのか? ハナニムの必要とするものが愛ならば、ハナニムが愛するのに、ハナニムに似たものを愛するでしょうか、ハナニムと似ていない動物を愛するでしょうか。ハナニムは、好むことができて、愛を分かち合える相対的なものを必要とされます。ですから人間がそのような相対ならば、人間を中心として見るとき、神は人格的な神でなければならないという結論が出てきます。そうしながら、人間とはすべての要素が100パーセント和合しなければなりません。体と心の素性において、すべてが和合し得る神でなければいけません。ですからハナニムは、知情意をもった神でなければいけないというのです。
(162-271, 1987.4.17)
ハナニムがいらっしゃるのならば、人間といかなる関係にあるか? ハナニムが人間と関係をもつためには、人格的神でなければならないというのです。人格的神になるには、人間と同じでなければならないというのです。
人間には心があり、体があるのと同じように、このような素性そせいがあるからこそ人間をたてられたハナニムも、人間とともに共同目的をもち得るその本体ならば、人間に似ていなければならないというのです。二性性相という概念は、ここから出てくるのです。
(167-243, 1987.7.21)
ハナニムは、人間のような人格をもっているでしょうか。人と同じならばハナニムは男性でしょうか、女性でしょうか。それでは、男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、ないでしょうか。ハナニムは何性相といいましたか。二性性相の主体ですが、凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。それを考えてみましたか。
(181-203)
ハナニムが笑うでしょうか、笑わないでしょうか。ハナニムが笑うのを見ましたか。ハナニムも目があるでしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、からだがあるでしょうか。
既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。ハナニムに目があるのかということも知りません。「目を本当に見たか?」といえば知りません。「ハナニムは誰に似ていますか?」「誰に似た、ハナニムに似た」というのです。そのような答えがどこにありますか。ハナニムは誰に似ていますか。息子、娘に似ているでしょう。それでハナニムは、人格的神でなければいけません。人格的神としてハナニムが私に、人格的最高の基準を要求するのです。人格的最高の基準とは何ですか。それはお金でもなく、権力でもなく、愛です。
(182-59, 1988.10.14)
ハナニムがいらっしゃるのならば、ハナニムも人格的神でなければなりません。人と同じでなければいけません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければいけません。
(174-162, 1988.2.28)
ハナニムは、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、無所不在です。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンド? それは、いつでもつくれます。黄金? 宝石? 違います。ハナニムが必要なものは愛です。ハナニムが一人で、「ああ、私の愛があって良い」といって「ひひひ」、そうしますか? ハナニムが必要とするものは何か? ハナニムも人格的神ならば、口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的神ならばです。
(142-30, 1986.3.3)


ハナニムはいったい、どのような方か? 全知全能で、何、無所不在で、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする・・・。そのようなハナニムを私たちは必要としません。私たちの本心は、どのようなハナニムを願うか? 「愛をもって、私の母、父以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいれば、義なる大統領がいれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、このような方を願います。大統領は4年ごとに入れ変わるので、別に尊敬するほどでもありません。
(147-271, 1986.10.1)
今日、この世界を探し求めてこられたハナニムがいらっしゃるとするならば、そのハナニムは、知・情・意を備えたハナニムであるに違いありません。なぜ? 人間がそうだからです。
それは人倫を中心とした知・情・意ではなく、天倫を中心とした知・情・意です。
(9-291, 1960.6.12)
絶対的なハナニムは、悲しみ得るか、得ないか? 全知全能なるハナニムが、悲しみの位地を避け得るか、得ないか? その悲しみとかかわり得るか、得ないか? これは深刻な問題です。私たちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的なハナニムは、絶対的に悲しみがあってはならないというならば、そのハナニムは知・情・意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父にはなれません。論理的に矛盾します。ですからハナニムは、私たち人間よりも多くの喜怒哀楽を感じ得る主体とならなければなりません。
(203-288, 1990.6.27)
ハナニムに対して正しくあかしした宗教団体はありません。仏教や儒教、みな同じです。ハナニムといえば、すぐに唖然あぜんとします。彼らは人格的なハナニム、知・情・意を兼備けんびしたハナニムを知らないというのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しています。それが偉大だというのです。
(227-112, 1992.2.11)
統一教会が誇れることは、ハナニムをよく知っているということです。ハナニムをはっきりと知っているというのです。ハナニムは、知・情・意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体です。それを私たちは、はっきりと知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の中心位地は、行ったり来たりできません。
(210-314, 1990.12.27)


 

② 神人一体の人格神を要求

ハナニムも知・情・意をもった方であられるからこそ、それゆえの願いがあり、事情があり、心情があります。ハナニムの願いが何で、ハナニムの心情が何で、ハナニムの事情が何か? 人間の事情よりも先にこれさえ知ればなります。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かります。なぜか? 人の目的はハナニムであり、ハナニムの目的は人間なので釣り合います。人間の事情をよく知り、願いをよく知り、心情をよく知る人は、ハナニムの願い、ハナニムの事情、ハナニムの心情と通じ得るのです。
(151-208, 1962.12.15)
愛を論じるならば、人格的な神でなければなりません。情緒、人格的に人と同じ素性そせいをもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教は、キリスト教しかありません。ハナニムを「父」だといったことは偉大な発見です。ハナニムを「父」だといったというのです。ハナニムが父であることを発見したという事実は、今先生が話す、ハナニムを内的父と外的父とみて実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そのような内容を暗々裏に解明し得る標題をあげたという事実は、驚くべきことです。
そして唯一神を論じました。ですからこの宗教は、世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心として一つになり得るというのです。この宗教によって世界が一つになり得る道を立てていく、このように見るのです。
(139-239, 1986.1.31)
今日、数多くの道がありますが、心情を通過できる一つの道が歴史路程において現れませんでした。そのような道が必ずや、現れなければなりません。もしそれが現れないとするならば、ハナニムはいらっしゃらないのです。人間が守らなければならない社会的な倫理と道徳を教えてくれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合し、一つの心情の骨子の上におく宗教がなければなりません。そのような宗教を探してみると、キリスト教でした。キリスト教は、心情の宗教です。
人間は、堕落することによってハナニムを失ってしまい、ハナニムが私たちの父だということが分からなくなりました。実体を備えたまことの父母を失いましたが、キリスト教は、その真の父母を紹介でき得る宗教です。
(9-140, 1960.5.1)
哲学の最後の終着点は、神を発見することです。その神は、どのような神か? 絶対的な神、不変の神、唯一の神です。神を発見するにおいて、その神は、私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。
私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、み旨(意志)を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての面で通じ得る、情緒的な面や意志的な面や、または知識的な面で私たち人間と通じ得る、完全に関係を結び得る神でなければ、どんなに「神がいる」といっても、私たちとは完全にかかわりをもち得ないというのです。このように見るとき、人格的神でならなければならないという標題のもとで哲学は、神をあがめ尊んでこなかったというのです。
(138-142, 1986.1.21)


ハナニムは誰に似ていますか。息子、娘に似ています。皆さんは誰ですか。ハナニムの息子、娘です。ハナニムに似ました。そしてハナニムは、人格的神です。ハナニムがあいまいならどうなりますか。キリスト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知・情・意を中心として情緒的な人格的神を論じたということです。これが偉大です。そして、唯一神を論じました。
(177-274, 1988.5.20)
ハナニムが人格的神ならば、ハナニムに愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間がハナニムの息子、娘として生まれ、ハナニムに対して「父だ」というなら、父が必要なように、私も必要なのです。私が必要なように、父も私が必要なのです。
(184-199, 1989.1.1)
人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何が連結されるべきか? 皆さん、ハナニムといえば、尊く神々しいでしょう? そこに私のからだが連結されるでしょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であられる、第一原因なる存在のハナニムを中心として、人間が、垂直な心を中心として生きていくのであり、地球ぼしが太陽系を中心としてその角度を合わせて軸を成して公転しながら、1日、2日、365日を回るのと同じように回りながら生きていくのであり、このようにみなければならないというのです。
(194-154, 1989.10.22)
ハナニムがいらっしゃるならば、ハナニムの摂理を通じて行かなければ、世界が未来に希望を残す何ものもないという論理で、結論を下すようになっています。
ここにおいて統一教会が出てきて、ハナニムがいるという実存性と、知・情・意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圏を中心とした理想世界を実現しようとしたのです。
統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にしたというのです。
(213-302, 1991.1.21)

 

4) ハナニムは父であられる

 

① ハナニムと人間は父子の関係

ハナニムと人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのか? 神秘の境地に入って、この宇宙の中心が何かと尋ねるならば、父子の関係だと答えを得るようになります。宇宙の中心が何か? 一言で、父子の関係です。
(48-208, 1971.9.19)


「天地の中心と宇宙の根本が何ですか」とハナニムに祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だといいます。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係であると思うでしょうが、ハナニムとの根本関係を言うのです。
(19-158, 1968.1.1)
ハナニムがなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは、相対関係によってわき出るものです。一人では喜びの刺激を得られません。ハナニムの相対的位置に立って初めて、最高の愛を得られるのです。そのようになれば、ハナニムの性相がそのまま実体化されます。ハナニムが悲しくなれば、人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間とハナニムとの関係は、離そうとしても離せない不可分の関係です。どんなに研究してみても、結論はここに到達するようになります。
(御旨と世界-279)
ハナニムと人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けばハナニムも愛であり、私も愛であり、ハナニムも生命であり、私も生命であり、ハナニムも理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。
(69-78)
ハナニムは私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたいと思われるのか? ハナニムの愛はこれくらいならいいだろうという限界をおいて与える、そのような愛ではありません。無限に与えようとする愛です。ハナニムはそっくり与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」といいます。そのようにさせる本質が何か? 愛です。ハナニムも愛の中に入っては、しもべでも良いというのです。父は、愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんちをしても、それを眺めて喜びを感じます。愛は法を超越します。
ハナニムが今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、あなたたちはなぜくれないのか。こんな仕打ちがあるのか」とはいいません。絶対的な愛をもったハナニムは、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしく感じます。自我を主張できないハナニムです。完全な愛を与えようとしたのがハナニムの人間創造の目的ならば、ハナニムは今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたいというハナニムなのです。そのようなハナニムなので、考えるほど良いのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってきなさい」というハナニムならば、必要ありません。
(36-77, 1970.11.15)
ハナニムは人間の父であり、人間はハナニムの息子、娘です。ハナニムの骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり投入して創造した人間なので、人間がハナニムを引っ張れば、引かれてこざるを得ません。
(20-207, 1968.6.9)


ハナニムは、愛ゆえに創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が互いに愛するのを見るのはもっと良いのです。それゆえ、ハナニムは存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。
(86-82, 1976.3.7)
子供は、お母さん、お父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。また、お母さん、お父さんの理想の具現体です。子供は、お母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母は、その子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対です。
(69-78, 1973.10.20)
ハナニムと人間は、絶対的な相対として、愛の関係を中心として生まれた存在です。その位地は、ハナニムが父となり、私たちは息子、娘となる位地です。もしそれ以上の位地があるならば、人間の欲望は、またその位地を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあるとすれば、私たち人間に与えなければなりません。このような点から見るとき、当然ハナニムは人類の父で、人間はハナニムの息子、娘です。
(48-205)
ハナニムが人間をたてるとき、無価値にたてたのではないということがわかります。無価値にたてたのならば、ハナニムは異常なハナニムです。ハナニムは絶対的な方なので、何でもみな分かります。それなのにそれを知らずにたてたならば、そのハナニムは不完全なハナニムです。ハナニムは絶対的な方なので、私たち人間をたてるとき、絶対的な相対としてたてました。
(54-87, 1972.3.20)
天地を創造したハナニムは、どのような方か? この上なく善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですからハナニムは、天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。
ハナニムは、自身が本当に信頼でき、愛することができ、すべてのものを任せ得る人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま譲り渡したいのです。
(13-247)
ハナニムが私たちの父ならば、息子、娘をたてるのに、くだらないものとして、劣るものとしてつくりたくなかったのは間違いありません。ハナニムは人間を全知全能なるハナニムのような同等の位地、同位の位地に立て得るようにつくられたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。
(53-224, 1972.2.28)
ハナニムが絶対的な方であられるなら、その絶対的な方が、なぜ人間をたてたのか? お金のためにたてたのでもなく、知識のためにたてたのでもなく、権力のためにたてたのでもありません。ハナニムの愛を感じ得るただ一つの道のために人間をたてられました。このような観点から見るとき、ハナニムは父であり、人間は息子、娘であることが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間とハナニムが愛によって一体になった関係に、たとえどのようなものが作用しても、絶対に離せないというのです。
(137-57, 1985.12.18)


ハナニムは人間を創造するとき、完全に投入することによって、より価値があり理想的な完全形で展開しました。ハナニムはアダムとエバをたてておいて、彼らのために生きるというのです。ハナニムのためではありません。自分のために生きた時から、相手のために生きる時に展開されました。理想的な存在は、自分のために生きません。理想的な存在は、他の人のために生きる所に、対象のために生きる所にあります。この原則が宇宙の根本です。
(69-81, 1973.10.20)
ハナニムがどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であり、全知全能なる方であったとしても、一人では良いはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という言葉は、一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた位地にあってこそ良く、幸福であるという言葉を語ることができます。一人でいて幸福であると言う人がいるか? どんなに全知全能なるハナニムであっても、一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいない所で歌を歌ったとしましょう。それで幸福だろうか? 相対がいなければいけません。やり取りすることができてこそ良いのです。それゆえハナニムも、良くあるためには必ず対象がいなければいけません。
(65-20)
ハナニムは、完全に投入して、愛の対象を創造しました。そのようにしたのは、ハナニムも愛の対象が必要だったからです。ところが、愛は一人ではできません。いくら絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛し得るので、その愛の対象として人間をたてました。
それゆえ人間をたてるとき、いい加減にたてたのではありません。聖書に、みことばでたてたとありますが、いい加減ではありません。千辛万苦せんしんばんくの果て、自身の120パーセント、何百倍を投入してたてました。
(197-164)
既成教会の信者たちは、ハナニムの天地創造を考えるとき、「ハナニムは全知全能であられるので、み言でたてた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのようにたてたのではありません。知性の限りを尽くして、自分の一身をすべて投入して息子、娘を創造しました。
(65-20, 1972.11.13)
ですからそれを愛します。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体の中の全体を投入したので希望の対象とするのです。
ハナニムは、創造の理想的出発点をどこに置いたのか? ハナニムの前に、すべてのもの「ために生きよ」というのではありません。「お前、私の所に来てしがみつけ」という吸収ではありません。投入です。「しがみつけ」ではなく、投入です。その言葉を振り返っていえば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いたというのです。ですからハナニムは、人間のために投入しました。ハナニム自身は、人間のために存在するというのです。
(78-111, 1975.5.6)


ハナニムが「私は愛である」といいましたが、それは何か? 夜も良く、昼も良く、働いても良く、休んでも良く、踊っても良く、泣いても良いというのです。それで、「私には愛がある。そっくりある」といったのです。「そっくり」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方が誰かといえば、ハナニムです。そのような愛をそっくりもっているハナニムなので、その愛の味を占めれば死んでも離せません。
(44-188, 1971.5.7)
ハナニムは全知全能であられ、遍在されるお方として惜しむものがなく、備えていないものがありません。すべてのものを備えていますが、その全部の価値よりも貴く立てたい、誇りたいものがあるとすれば、それは愛です。愛以外は必要ないというのです。
(108-223, 1980.10.16)
創造理想完成は、どこから始まるのか? それはハナニムから始まるのではなく、人間から始まります。創造理想完成なので、創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、ハナニムの完成はあり得ません。神人一体なので、そうなのです。
(149-9, 1986.11.1)
神と一致できる、神のみ旨に一致できる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致できるものが何か? それがハナニムの全能性か? 全能性をもってもなりません。全権か? 違います。
それでは、遍在する素性そせいか? それも違います。それが何でなければならないか? ハナニム自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって、時空の関係を超越した位地で生きていくのです。生きていくには、何を中心として生きていくのか? 無限の力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。ハナニムも、愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。なぜならハナニムも、まことなる愛の対象を備えるようになれば、うれしいからです。
(126-223, 1983.4.24)
ハナニムは絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え、与えて、また分け与えても、限りなく補充できる愛の倉庫をもっています。それでは、ハナニムの倉庫から愛を多く盗み、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え、分け与えるとき、ハナニムが「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能なるハナニムなので、「そのようにしろ、してもよい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それだから私がハナニムだ。それだから私が主体だ!」といわれるというのです。「私が主体なので客体に与えても、余りあってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても、余りあってこそ主体としてのハナニムであって、そうでなければハナニムになれない。私がそうなのだ!」といわれるのです。「私から愛を盗んで、ハナニムの愛の発電所のように限りなく分け与えてあげるならば、いくらでも補給してあげよう」といわれます。


それで、「これが全部なくなれば、私がまたもっていきたいのですが、ハナニムの愛のパイプに私を連結してはどうですか」というとき、「そうしたければしなさい」といわれるというのです。
(116-240, 1982.1.1)

 

② ハナニムは一番近くにいらっしゃる方

真理中の最高の真理が何か? それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はありません。それでは、真理の中心は何か? 愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心は何なのか? ハナニムは真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だというのですが、それが何の言葉ですか。みな同じ言葉です。真理が成立するには、愛と生命がなくてはならないのです。ですから最も核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体はハナニムであられますが、ハナニムは、どのような方でいらっしゃるか? 私たち人間の、父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、ハナニムは簡単な方であられます。
(21-183, 1968.11.20)
ハナニムは、白いひげを生やしています。それが似合います。そのハナニムが髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きです」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きです」と言えば短い髭になるのです。
全知全能なるハナニムなので、ハナニムの顔は男性に対するときは荒くれて見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が好む姿に見せるでしょう。
(110-281, 1981.1.1)
ハナニムは、天地創造以前からいたでしょうか、いなかったでしょうか。それでは、ハナニムの年は何歳でしょうか。そうです。70しか知らない人は「70だ」といっても構いません。そのような人には、ハナニムが「ほほ、私は70だ」というのです。五つしか知らない人が「ハナニムは何歳か」といえば、ハナニムも「ほほ、五つだ」というのです。それ以上知らないからです。
数がどんなに多くても、その数で数えられるハナニムではありません。数以上の位地にいます。それは気分が良いでしょう? 私たちのハナニムがそうだというのです。
(173-252, 1988.2.1)
ハナニムも、冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王が誰かというとき、それは誰でしょうか。ハナニムです。全知全能なので、ユーモアも上手でいらっしゃいます。笑うときも、ごろごろと転がって笑い、またごろごろと転がって笑い、ねじれて笑い、のけぞって笑わせ得る大王とは誰ですか。ハナニムです。そのような大王がハナニムなのです。
(171-148, 1988.1.1)


ハナニムは、外的に男性に似ているとすれば、内的には女性に似ているというのです。ハナニムは強く、全知全能でもありますが、釈迦牟尼しゃかむにのほほえみに花を添えられる、慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければならないというのです。そうしてこそ、両面がみな生きるのです。
(206-49, 1990.10.3)
ハナニムは、宇宙の大主宰であり全知全能であられ、持たざるものがないくらい能力が多い方ですが、たとえそうであっても、愛の因縁をもって孝子の位地に立った息子が、尋ねもしないで胸をさっとかきわけたといって、「おい、お前! 誰に向かってこんなことをするのか」としますか。「誰に向かって」と言ったとしても、知らないふりをして何度もかきわけて、昔、自分の父の胸に触ったようにこうして・・・。「私は昔、父の胸に触ったように触りたくてそうしたのです」といえばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。
お父さんは本当に幸福を感じるでしょう。だんだん大きくなれば自分のもとを離れ、塀を越え、川を越え、山を越えようとしますが、越えていった息子が、塀を越え、敷居を越え、服を越え、昔のように自分の胸に触ろうとする時、父は気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそうするでしょう。
(169-76, 1987.10.25)
ハナニムは創造主ですが、付け足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かが付け足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきて付け足してくれるかしなければなりません。ところがハナニム自身において、付けるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなれる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば、皆さんがむやみに話して困るので、話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい。私が点数をつけてあげます。
(218-264, 1991.8.19)
本来、絶対者なるハナニムはどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。そのようなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒涜ぼうとくも普通の冒涜ではない。」と言うのです。悪ふざけはやめなさいというのです。ハナニムが生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。
ユン博士。どのように出てきましたか。物理学の博士がそれを知らなければならないではないですか。博士がそのように顔を隠せば、恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく、「自然にいらっしゃる」と言うでしょうが、違うのです。ハナニムも発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。
(218-263, 1991.8.19)
調和の無限の力をもっているのは何ですか。ハナニムも研究したことでしょう。ハナニムが人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。ハナニムがいつも、目をまっすぐに開き、「こいつ、昼夜休まずに蕩減とうげん復帰をしろ」と、このように言うことができません。ハナニムも、道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。ハナニムも働けば、休まなければなりません。ハナニムが働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。ハナニムも、そのすべてのものが相対的授受関係の因縁になっています。
(164-70, 1987.4.26)


では、ハナニムがいらっしゃるというとき、そのハナニムは、いったいいかなるお方か? 全知全能な方、遍在される方、それもよいです。全知全能で、遍在され、できないことがない方・・・。
しかし、どんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立場に立っていたとしても、「自分だけのために生きよ」というハナニムならば、どうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人々、おそらく数千億になるでしょうが、その人々が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界においてハナニムが「ああ、私は全知全能で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたならどうでしょう。すべてハナニムだけのために尽くさなければならない立場に立ったならば、どうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反します。皆さんの心においては、いつでも相反するしかないのです。
(138-75, 1986.1.19)
ハナニムが愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、ハナニム自身が、また別のハナニムを造ることはできないのです。どうしてですか。全知全能なるハナニムなので、ハナニムと同じ、もう一つのハナニムを造るだろうと、それも可能だと思いますが、ハナニムがそのように造ればどうなりますか。同じハナニムが御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立って、ついて回りながらです。ハナニムが座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。1日もたたずに、目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。
(141-26, 1986.2.16)
宗教の中心とは何でしょうか。神です。ハナニムです。もちろん神に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神は、二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。
(210-199, 1990.12.23)
天と地自体も、自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、そこからさらにさかのぼり、必ず中心的な主体性を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を、私たちは「ハナニム」と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において、億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。
(154-298, 1964.10.5)


5) 法度の中での全知全能である

 

① 原則的基盤の上で全知全能である

ハナニムが天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。ハナニムは、お金が必要ではありません。お金のためでもありません。知識のためでもなく、知りたくて造ったのでもありません。何かの権力のためでもありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王です。ダイヤモンドも、いくらでもつくることができます。
しかし、ハナニムにはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのに、それが必要ですか。なかったら必要でしょう。また、知識というものも、この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する、一つの構成体をすべてコントロールできる法理、法度をつくられたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究したところで、自然界の法則一つ発見して、それをもって博士になったと威張ったりしても、そのようなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが、他の所にあるのではなく、すべて自然から学んできたものであって、自然には、ないものがないのです。
(182-121, 1988.10.16)
ハナニムは全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かせる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから、力は必要ないのです。歴史上の英雄や豪傑がいくら偉いとしても、歴史において大国を統治した君王や帝王はすべて流れていきました。彼らはみなハナニムの権威の下に、踊りを踊って消え去った人たちです。ハナニムは、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。
(176-165, 1988.5.9)
ハナニム自身は、絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのように、すべてのものを備えた主体として絶対的な位地にいらっしゃるハナニムにとって、何が必要でしょうか。ハナニムが絶対的な主体だとしても、主体自体が、主体となると同時に相対になりたいと思う心もなければならないのです。なぜそうでなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は、球形を標準にして動くのです。
(201-12, 1990.2.28)


あの星の国には、どんなものがあるでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なるハナニムが宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星を一つだけ造ったでしょうか。
(49-294, 1971.10.17)
ハナニムが一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も、大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、ハナニムが造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。
ハナニムは、学者も好きではないというのです。その次は、大統領ですか。レーガンアメリカ大統領をハナニムが好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方がハナニムです。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力もハナニムは好まれません。その次には何ですか。お金ですか。話にもならないのです。
(141-247, 1986.2.26)
ハナニムは全知全能なる方です。憤って一度この地を打つならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちであっても、一度叫んだならば、漏れなくすべて流れ去ってしまうでしょう。そのお方には権力が必要でしょうか。ハナニムには、権力は必要ありません。それは、ちんぴらが好むものです。誰が好むのかといえば、悪魔が好むのです。
(210-18, 1990.11.30)
ハナニムは、天地創造をなぜされたのでしょうか。「力を誇ろうとして、全知全能性を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきでしょうか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「ハナニム、ありがとう。力でもって造ってくださって!」と言いながら有り難いと言うでしょうか。ハナニムが、「知恵が多くてお前を造ったのだ」と言うとき、気分は良いですか。「能力が多くてお前をこのように造ったのだ」と言うとき、気分は良いですか。「能力や知恵で造ったならば、私の喜びと何の関係があるでしょうか。それはハナニムの能力であって、私の能力ですか。ハナニムの知恵であって、私の知恵ですか。私を見れば、無気力この上もない私なのに・・・」と、このように考えるのです。それで問題となるのです。
(175-150, 1988.4.16)
今日、キリスト教で「天の父、全知全能なる父」と言いますが、全知全能なるハナニムも原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にするハナニムではありません。法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠のものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。
それに順応して越えていこうとするそのハナニムの権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対にハナニムがまず踏んで越えていったのちに、万民が従うようになっていて、宇宙が従うようになっているのであって、それを2番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。
(162-184, 1987.4.12)


ハナニム一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は、「全知全能のハナニムが、創造能力をもったハナニムがいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。天地すべての存在物は、法則、大原則によって作用するのです。いくらハナニムでも、この法則を破壊して行動することはできないのです。この国の大統領でも、憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。
(166-99, 1987.5.30)
このように言えば少しおかしいですが、ハナニムが愛したいならばつくれば良いでしょう? なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは、思いどおりにつくったならばハナニムが立つ位地がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。何のことか分かりますか。「ええ! ハナニムは全知全能なのにつくれないとは・・・。」
そうなると二元論や多神論という結論になってしまうのに・・・。しかし疑えばそうなるのです。
(173-211, 1988.2.18)
最近人々は、ハナニムの属性について、ハナニムは絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だ、というのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。ハナニムが唯一なのと、私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。ハナニム自身には良くても、私たち人間には何ら関係がないならば、それはむなしいことです。必要ないのです。盲目的な信仰は、できないというのです。このようなことを、すべて分別してあげなければなりません。
(223-261, 1991.11.12)
ハナニムは知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのに良いですね、知らないものがないので私をすべて精密に分析して、身動きできないように造ったのですね」と、ハナニムが私を全知全能で支配されるとすれば、良いことがあるでしょうか。
(130-209, 1984.1.22)
ハナニムは天地を、何をもって主管しますか。法をもって主管しますが、その法も、愛で統治する法です。そして、統治する方向を後援するために、宇宙の法も、存続するのです。ハナニムが人間創造をした理由は、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればよいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。
(121-103, 1982.10.24)


 

② 愛のみが絶対基準である

ハナニムには一つだけ、どうすることもできないものがあります。ハナニムは全知全能でしょう。全知全能ですが、一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。きんがつくれないのでしょうか、ダイヤモンドがつくれないのでしょうか。力がないのでしょうか。全知全能なる方が一つだけ思いどおりにできないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはありますが、自分一人で、「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになります。
(142-269, 1986.3.13)
ハナニム一人で愛をなすことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられるハナニム独りで、「ああ、気分が良い!」と、そう言いますか。そうすれば、「ハナニムも気が狂った」と言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって、一人で、「ああ、うれしいな! ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、「気の狂ったやつだ」と言われるのではないですか。
しかし、相対となる紙の切れ端でも、このような手ぬぐいを中心として、「愛するお前、手ぬぐいよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場できる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。
(142-31, 1986.3.3)
どんなに絶対者のハナニムだとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛は必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能なる方だとしても、愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性そせいをもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。
(138-245, 1986.1.24)
寡婦と男やもめを「かわいそうだ」と言いますが、なぜそう言うのですか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。ハナニムがいくら全知全能で遍在するハナニムだとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られたハナニムは、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。
(130-21, 1983.12.11)
ハナニムは愛が好きですが、ハナニムが一番好きな愛が、何の愛か? まことの愛です。真の愛ですが、いかなるものが真の愛ですか。真の愛とは、愛の根をどこにおいていますか。その根をハナニムにおいていないのです。それは、おかしな話でしょう。全知全能のハナニムが真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根はハナニムから始めたくないというのです。その愛の対象になり得る人に根を植えたいと考えるのです。
(177-269, 1988.5.20)


ハナニムが天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。ハナニム自身のためにしたのでしょうか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。ハナニムは、もちろん自分のために造ったと見ることができますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたことを知らなければなりません。その相対の主体が誰かといえば、人間です。人間を中心とし、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。ハナニムご自身はもともと、全知全能なる方ではないですか。
(109-268, 1980.11.2)
ハナニムは絶対的であり、また全知全能で遍在するハナニムですが、ハナニムも愛だけは思いどおりにできないのです。ハナニムも愛の支配を受けます。
それでは、ハナニムは何ですか。ハナニムは全知全能ではないのではないでしょうか。「ハナニム、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。ハナニムがなぜそうなのですか。
(98-38, 1978.4.8)
ハナニム独りではハナニムの本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、1時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なるハナニムであり、どんなに威張ったハナニムでも、おもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで、ハナニムも仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、そこに行ってみるというおもしろ味がなければならないのです。
(161-116, 1987.1.11)
ハナニムは、何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに、ハナニムは何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。
創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。ハナニムに何がなかったのでしょうか。愛の基盤がなかったのです。ハナニムも、やはり独りでいては愛をなせないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。
(149-149, 1986.11.21)
ハナニムに何の愛が必要なのでしょうか。ハナニムも愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは、相対が現れなければ作用しないのです。
これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なるハナニムでも、愛の相対がいなくなれば孤独なハナニムであり、悲しいハナニムなのです。
(94-262, 1977.10.1)
ハナニムがどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能なる方だとしても、独りでは良いことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という言葉は、独りでいて設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位地にいてこそ良いのであって、そうでなければ「幸福」という言葉はあり得ません。


どんなに全知全能なるハナニムだとしても、独りでじっとしていてごらんなさい。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければいけません。授受するものがあってこそ良いのです。それと同じです。ハナニムが喜ぶためには、ハナニムが独りでいてはならないのです。
(65-20, 1972.11.13)
ハナニム自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。ハナニムが存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに。一人でいる両班ヤンバンが絶対的権限をもって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば、知識があって何をするのですか。ハナニムの本質が何かということが重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。
(218-263, 1991.8.19)
全知全能なるハナニムも、真の愛の前ではどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。
宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻が、どこから来たのでしょうか。その人がいないと考えれば、四肢がすべて麻痺まひします。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなに良いですか。良いので大統領でも仕方なくひれ伏して、「思慕する人よ、愛したまえ! 愛します!」と言います。そのようなとき、小柄な女性が座って見ていれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。
(211-83, 1991.12.29)
ハナニムがどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、そうであるなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着ほうちゃくするのです。ですからハナニムも絶対的な中心存在として自分自身の愛、ハナニム的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。
(208-233, 1990.11.20)
ハナニム自身も相対が必要なのです。ハナニムも愛を独りでは成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱烈に語るならば、「気が狂った」と言われるのではないですか。
しかし、相手がいて熱心に語ったなら、筋道に合い、環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能のハナニムでも、独りで、「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。ハナニムも愛をなすためには、独りでは駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です。
(141-106, 1986.2.19)


世の中に存在するものの中で、ハナニムと相対となる力はありません。ハナニムは全知全能であり、絶対的だからです。また、永遠不滅の自存じそんの方がハナニムです。そのようなハナニムが願われるものがあるとすれば、何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。ハナニムが絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、ハナニムにも絶対に必要なもので、それが真の愛です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)

 

③ ハナニムも愛の前には絶対服従である

ハナニムも愛が好きなのですから、愛に夢中になることができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしいハナニムが愛に夢中になることができるでしょうか。家の中でとらみたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは、何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですからハナニムも、愛の前ではどうすることもできません。
(137-84, 1985.12.24)
能力が多く、全知全能なるハナニムがいらっしゃるならば、ハナニムは、どんなものを好まれるのか? ハナニムは、人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論が理論的に最も妥当なのです。それでは、ハナニムの愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から、永遠に「ため」に生きる愛をもっていらっしゃり、そのような愛をしようとする方がハナニムだというのです。
(90-86, 1976.12.19)
皆さんは、ハナニムを中心として息子にならなければいけません。ハナニムを中心として息子になるには、何を中心としてなりたいですか。お金ですか。ハナニムが「私は全知全能のハナニムなので、大きい権力を中心として、父子の関係にならなければならない」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。ハナニムは愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが最高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多いハナニムでも、「うん、うん」と言われるのです。
(69-181, 1973.11.12)
いくらハナニムが全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私もまことの愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こう言ってこそ父なるハナニムとして堂々たるハナニムになるのであって、ハナニムは守らずに、「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。
真の愛の位置にいるハナニムが、独裁者のハナニムになるのです。ハナニムも同じように、「私が真の愛に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには、「お父さんは自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのですか? ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、ハナニムも真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。
(211-84, 1990.12.29)


どんなに全知全能なるハナニムでも、真の愛には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのは良いですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。
(211-75, 1990.12.29)
絶対的な力を主張するハナニムも、愛が定着できる所、愛が立つことができる所を探されるのです。ハナニムも愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。ハナニムは、すべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。
「ハナニムは人類の父である」と言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きなさい」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ、ハナニム自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。
(207-261, 1990.11.11)
絶対的なハナニムも、「ああ、私は絶対的で全知全能で遍在し、すべてをもっているが、私も絶対的なその何かに従って生きてみたい」と言うのです。
ハナニムも、「ため」に尽くしたい心があるのです。そのようなハナニムなので、私のために尽くせという愛をしないのです。「ため」に尽くせという愛は、いけないのです。
(201-115, 1990.3.27)
統一は何を中心としてするのでしょうか。「ハナニムは全知全能だ」と言うのですから、それは全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができる、そのような時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それがすべて枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に迎えていなければいけません。
そこにおいて春夏秋冬を克服することができます。それ以外はできません。それは何のことかといえば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士でけんかしている場面において、父母の伝統であられるハナニムがそこに入ってきて中心となり、「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は、狂った者です。
(221-190, 1991.10.24)


今日、現代神学が滅びざるを得ない内容とは何かといえば、「ハナニムは全知全能なるハナニムなので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんがいなくて、できますか。「できる」と言う者は、狂った者です。それでは、ハナニム独りで愛することができますか。
(209-81, 1990.11.27)
ハナニムは全知全能ですが、ハナニムのように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界は、どんなものだと考えますか。バランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中に挟まれて身動きがとれないのです。弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願います。
女みたいな男が好きな女性は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女性は、死んでしまってもいいというのです。女性が女性の手に触れれば気分が良いですか。女性同士で手を握ると気分が良いですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは、死ぬよりもっと嫌なのです。ですから、死んでしまえというのです。
(167-300, 1987.8.20)

 

6) 愛によって遍在される

 

① 愛だけが境界を出入りする

ハナニムの心は、ハナニムのみことばの中だけにあるのではなく、ハナニムが造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行っても、そこにハナニムの心があるというのです。ですから天は、いらっしゃらない所がないのです。すなわち「遍在する」と言いました。
ハナニムの心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中にハナニムの心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば、ハナニムの心に所有された人です。飛ぶ鳥1羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌う境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、ハナニムの心の中にあるのです。
(8-180, 1959.12.13)
それでは、ハナニムの遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気をハナニムの息吹のように感じなさい。台風がきたら、それをハナニムがこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知り、ハナニムの愛を太陽に学ぶのです。


ハナニムの心情を体恤たいじゅつする一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て、自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。
(59-101, 1972.7.9)
ハナニムが遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、ハナニムが全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、ハナニムが唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身がハナニムに似たので、私をハナニムに似るようにつくりたいのです。私自身が全天下を治めたいのです。これがすべて、同じようにハナニムに似たのです。
(26-167, 1969.10.25)
愛を通じて体恤的な生活をしなければならないのです。それで、ハナニムが悲しまれるときに私が悲しみを感じ、ハナニムが喜ばれるときに我知らずうれしくなるのです。孝子は千里、万里離れていたとしても、父母の愛はいつもその孝子のそばにあるのです。ハナニムの遍在性において、ハナニムはどこにいらっしゃるのでしょうか。知識的内容に存在するのではありません。
しかし、愛はそうではありません。極と極を越えて遍在を妥当に、可能にするのが子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心です。愛を通じるその道に、父母の愛は遍在します。どこでも、ない所がないのです。それは愛だけが可能です。愛だけが、その息子を完全に支配し得るのです。全能の権限は、そこに該当するのです。このようになっています。
(59-101, 1972.7.9)
愛には偉大な属性があります。ハナニムの絶対的な愛、不変的なまことの愛と一致した立場に立つようになれば、ハナニムがいらっしゃる所に私が加勢することができ、いつでも同居し得る権限をもつようになります。そのようになれば、私が目をつぶらなくてもハナニムに出会い、ハナニムの悲痛な心情を体恤した者は、道を歩いていても立ち止まって痛哭つうこくする、そのような体恤的世界があるのです。堕落した世の中でも、母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとしたら、第六感で分かる場合が少なくないのです。寝ていたとしても、「あっ! 誰々よ」と叫んで起きるのです。
(201-356, 1990.4.30)
動脈が偉大か、静脈が偉大か、どちらが偉大ですか。同じです。それではハナニムが偉大か、人間が偉大か。同じです。愛を中心として見れば、ハナニムが動脈的だとしたら私たち人間は静脈的な存在なので、ハナニムと対等になることができる、そのような特権をもった人間の価値があるのです。
「天上天下てんげ唯我独尊であり、全知全能であり、遍在し、私を通じないものはない」。それは何を中心としてそうなのですか。愛を中心としてです。それでこそ理解できるのです。
(109-146, 1980.11.1)


ハナニムは、いかなる方か? ハナニムは、欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらない所がない、遍在されるハナニムです。いらっしゃらない所がないハナニムなので、どれほど欲張りですか。「欲張り者」とか「欲張り」と言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。
(121-70, 1982.10.24)
ハナニムには絶対服従できる道があるでしょうか、ないでしょうか。絶対主管しようとするそのような絶対、独裁者的な性格をもったハナニムが、絶対服従できなくなるときには、高いものは主管することができても、低いものは主管することができません。「遍在性」という言葉自体が、矛盾した言葉になります。ハナニムも私たちに似たので・・・。父母は自分の息子、娘に似ているでしょう? そうではないですか。ハナニムを「私たちの父だ」と言います。ハナニムも絶対服従して生きたいのです。そういう道がなければ、ハナニムはどれだけ孤独でしょうか。
(192-29, 1989.7.2)
ある画家が描いた作品をもって、夜も昼も心酔し、眺めて涙を流し感嘆する人がいるならば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し、「どうしたのですか」と、その事情を聞いてみたくなるのではないですか。「いやあ、うれしいなあ。実に慕わしい。ずっと一緒にいたいものだ」と言ったからといって、「気でも違ったのですか」と言われるでしょうか。皆さんは、ハナニムを知りませんが、全宇宙に満ちあふれているハナニムの遍在性を見ると、知識的な主体としてではなく、愛(の主体)としていらっしゃいます。ですから、「いかに各分野で同感圏を体恤し得るか」という立場でハナニムを再認識し、再発見しなさいというのです。
(59-103, 1972.7.9)

 

② 宇宙には愛がない所がない

ハナニムは絶対的なハナニムですが、なぜ絶対的なのでしょうか。愛に絶対服従するからです。気分が良いですか、悪いですか。また、ハナニムは遍在します。遍在。ハナニムの愛がない所がありません。
(223-246, 1991.11.10)
ハナニムの愛は、宇宙を抱いても余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きい基盤を包容する愛の中心者がハナニムです。もしハナニムが動く場合には、小さいものも全部ついて動かなければなりません。一つの大きな円の中に、全部入っているでしょう。それで、「ハナニムが全世界、全宇宙をカバーする」と言っても、理論的な言葉になるのです。
(205-33, 1990.7.7)
ハナニムがいなくなるときは、宇宙がすべてからになるのです。空のようになるのです。しかし、ハナニムがいるようになれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。なぜですか。愛があるからです。ですから私が一人でいても、ハナニムがいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。それで、愛の中にいて遍在の感動を知ることができるのです。しかし、私がハナニムを分からなくなるときは、すべてのものが空になるのです。ないのと同じだというのです。
(91-323, 1977.3.1)


愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし、愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど速いのかといえば、光もついていくことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。
(95-39, 1977.9.11)
愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるものです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かそうとすれば油を入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとすれば、潤滑作用をしなければなりません。ですから、最高の喜びの潤滑作用をするものは愛しかありません。それは根が遍在するハナニムなので、なくなることはありません。
(180-161, 1988.8.22)
愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛1本を引っ張れば体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引っ張られ、愛が動けば宇宙がすべて和して回るようになります。
(89-90, 1976.10.4)
この宇宙に、すべての人々の心を満たしてくれる一つの主体があるとすれば、それはいかなる主体か? 絶対的な一つの中心者でないわけにはいかないのです。愛をどのような心の位置にも、いっぱいに満たせる絶対者がいなければなりません。ですから彼は、無限な絶対者でなければなりません。今日、数十億になる人類の心を、すべて満たしてあげなければならないハナニムのその愛の量が、どれほどでしょうか。それは絶対的でなければなりません。「全知全能で遍在」という言葉が、だから必要なのです。その言葉は、ハナニムに必要な単語だというのです。
(116-240, 1982.1.1)

 

7) 既存の神観の問題点

 

① 既存の神観は二律背反的である

宗教の教えに対する反問には、いろいろあります。「ハナニムは果たしているのでしょうか」。「ハナニムが全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しますが、そうだということをどうやって知ることができますか」。「じっとしていてもいいはずのハナニムが、なぜ宇宙を創造したのでしょうか」。「ハナニムの創造の目的は何なのか」。「創造には方法があったであろうが、その方法は何なのか」。「絶対的なハナニムが創造した世界に、なぜ弱肉強食という現状が起こっているのか」。「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全なハナニムが創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」などがそれです。
(122-302, 1982.11.25)


ハナニムは問題が多いのです。「全知全能だ」と言いながら、なぜイエス様を十字架にかけるようにしたのでしょうか。十字架の道理でなくては救援することができませんか。それにどうやって答えるのですか。「全知全能だ」と言いながら、十字架上のイエス様を救うことができないのなら、そのようなハナニムは、残忍なハナニムです。人間の前から追放しなければならないハナニムです。何を信じるというのですか。
(136-128, 1985.12.22)
ハナニムは人間を堕落するようにしておいて、なぜ悲しまれるのかという根源を明らかにして、人間とハナニムとの関係がどのようになっていて、また全知全能だというハナニムが、なぜこのように無能なハナニムになっているのか、ということを知ろうとした人がいませんでした。
(133-216, 1984.7.19)
今まで神学者たちや霊界に通じる数多くの人たちは、サタンがいることは知っていましたが、全知全能なるハナニムの前に反対するサタンを、なぜ防御できなかったのかという問題は分かりませんでした。これが霊界に通じていても問題です。いつでも神側に行こうとすれば、必ずサタンが妨害するようになっているのです。多方面から、一方ではなく八方から反対するようになっているのですが、それをなぜハナニムが干渉できず、制裁できないのでしょうか。このような問題が今でも謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。
(133-86, 1984.7.10)
全知全能なるハナニムが、今まで数万年の歴史を通じて人類を導いてきましたが、どうして善の目的を成し得る世界に導くことができず、しまいにはこのような失望と絶望の世界に向かわなければならなくなったのでしょうか。これは深刻な問題です。神がいないと断定し得る内容にもなるのです。
神がいないならば、私たち人間が願う理想とか、あるいは平和な世界、人間が追求していくユートピア的な内容が、未来に可能なものとして人間の前に到来するのでしょうか。今まで長い歴史路程を通じて考える人、あるいは無数の哲人たちがそのような世界を追求したのにもかかわらず、それにまだ到達できず、現在にとどまっているという事実を見るとき、私たちの未来に、そのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えられないのです。
(130-18, 1983.12.11)
全知全能のハナニムが、なぜサタンをそのままにほうっておくのでしょうか。一朝にして首を切って処断してしまえばいいのに、なぜほうっておくのでしょうか。それが宗教において一番の難問題なのですが、それは簡単な内容でしょうか。
(127-112, 1983.5.5)
今、数多くの宗教人たちは「ハナニム」と言えば、栄光の玉座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっていらっしゃる方だ、このように考えているのです。それで、ハナニムは苦痛とか悲しみとか、そのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そうしながら、キリスト教ではハナニムを、いかなる方だというかといえば、「天の父だ」と、このように呼ぶのです。そして「お父様」と呼ぶすべての信者は、「罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならない」と言います。父子の関係にあるのに、ハナニムと人間がこのように二律背反しているというのです。
(123-154, 1983.1.1)


今日、キリスト教で「ハナニムは聖なる方であり、全知全能なる方として、公義の審判主として玉座に座って万民を審判する審判長だ」と言うのですが、皆さん、裁判長がいいですか。裁判長を10年したら、病気にかかって死にます。死ぬというより、病気になって、のけぞって倒れます。病気にならなければ偽物です。人の命を奪う死刑宣告を下したりもしたのですが、自分が下した判決が、絶対的ではあり得ないというのです。論法、解説法はいろいろな方向があるのに、自分の判決によってその人の生死の問題を決定するようなことをしたので、そうだというのです。それは深刻な問題です。宇宙の公法に照らしてみるとき、法は絶対的ではあり得ません。ですから、考える人であれば、10年判事をしたら病気にならないといけないというのです。
(198-285, 1990.2.5)
さあ、それでは、この天地の大主宰なるハナニムがいらっしゃるならば、一度尋ねてみましょう。ハナニムを中心として、今日、既成教会では、全知全能なるハナニムは、この玉座に座り、審判主として来られ、悪いやつは地獄へ送り、善い者は天国へ送り・・・。それを見て喜ぶハナニムならば、狂ったハナニムでしょう。ハナニムは、善悪を超越した絶対善の立場にいらっしゃいます。
(194-32, 1989.10.15)
既成教会の牧師たちは、ハナニムは玉座に座って、全知全能であり、遍在者だといいますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。宝座に、王座に何万年もただ座っていたとしたなら、お尻が全部ぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。
(192-29)
それでハナニムは、何をしているのですか。キリスト教でいえば、ハナニムは玉座に座って永遠に栄光の中で・・・。独り座っていて何が栄光でしょうか。永遠の以前から今日まで1箇所に座っていて、「おお、私の権力はすごいな。私のこの全知全能で邪悪な・・・」。そのように言うのでしょうか。そして何をするというのでしょうか。ハナニムも愛を中心として、今まで生きてこられたのです。このような論理を否定することはできません。
(191-22, 1989.6.24)
ハナニムが自分勝手にするようであれば、今日までの数万年の歴史、人類歴史をいえば、85万年、150万年と見てきましたが、そのように長久なる歳月の間、なぜ人間をこのような姿に造ってきたのでしょうか。そうであるなら、ハナニムはいないという結論を出すことができるのです。「全知全能のハナニム」という言葉も使えません。これはみな、荒唐無稽むけいな論法です。なぜできないのかというのです。なぜできないのですか。条件に引っ掛かったからです。
(162-186, 1987.4.12)


堕落していなかったら、どのようになるのでしょうか。今日、既成教会では、「ハナニムは全知全能で、聖なる方であり、我々人間は俗なる者だ」といいますが、間違っています。あの世に行ってみなさい。今日、この世で自分たちも、「天のお父様」と言っていますが・・・。
この父というのは何なのでしょうか。神々しく相対できない関係から「父」という言葉が出てきますか。それは既に初めから論理的矛盾だということです。矛盾だらけです。しかしムン総裁が言うことは、事理にかなっています。
(240-191, 1992.12.13)
私がこのような話をなぜするのでしょうか。ハナニムが初めて、人間を息子、娘として造られたのですが、この息子、娘がハナニムを褒めたたえながら歌い踊る、そのようなことを見たでしょうか、見られなかったでしょうか。人間が堕落して追い出されたので、いまだにこのような日を迎えることができないのです。このようなハナニムであることを既成教会の人たちは知りません。
ハナニムが栄光の中にいながら全知全能であり、何でもすべてできるハナニムだと思っているのですが、このようなハナニムならば、なぜ数千年の間このように人間を救うことができなかったのかというのです。それを、どのように答弁するのですか。それは人間が罪を犯したからです。人間が罪を犯したので、罪の清算も人間がしなければならないのです。
(226-304, 1992.2.9)
ハナニムが絶対に願うことは何でしょうか。これが問題になるのです。ハナニムが願うことは何ですか。ハナニムが絶対的に願うことは何でしょうか。能力ですか。今日、既成教会の既成神学では、ハナニムは全知全能であられるので、公義の審判主として来られ、善なる人は天国に送り、悪なる人は地獄に送るといいます。そのような裁判長がいいのですか。裁判長が好きですか。意地悪なハナニムになって地獄へ送り、天国へ送るように造りましたか。論理的に全部不当な仕打ちだ、という結論になるのです。
(211-75, 1990.12.29)
既成神学では、創造主なるハナニムは聖なる方であり、ハナニムから創造された被造物は俗なるものであるという論理をもって出てきます。これは、宇宙生成の本性的原理に違反する論理です。キリスト教の伝統的主流思想が愛だといったのに、俗なる罪人と聖なる神とは、どのように一つになれますか。理論的根拠を出してみなさいというのです。理論を提示できないなら、むなしいことです。偽物です。
ですからハナニムにも、絶対的な神自身が絶対服従して、絶対者である神の生命を捨ててでも、「ため」に尽くしたい相対がいなければならないというのです。
(204-100, 1990.7.1)
今日、既成神学者は、「信仰全体を我々が批判する時だ。今までの神観、人生観に対するすべてのものを再検討する時が来た」と言います。今までの神学思潮は、「聖なる創造主と被造物は対等な立場に立てない」ということでした。それでは、愛はどのようにしますか。ハナニム独りで愛しますか。平和だ、幸福だというものは、何ですか。ハナニム独りでしますか、と尋ねたなら、答えはどのようにしますか。対象がいなくてはいけません。
(77-317, 1975.4.30)