八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-2

八大教材教本 天聖経(2012年版)p79-114

【天啓の御言】(1-2)

 


この被造世界が生まれるようになった動機とは何でしょうか。ハナニムも愛が必要で天地を創造したというのです。このような事実を知らない今日の既成神学の神観は、それで間違っているというのです。絶対的な力の神、力さえもてば何でもできるというふうにです。
ですからキリスト教文化が通過する所は、血を流してきたのです。西洋文明がキリスト教文化に従って発展してきましたが、これからはキリスト教文化が終末の世界に破綻はたん的結果をもたらすだろうということを、このような論理から予測できるのです。
(209-29, 1990.11.25)
歴史は、科学の時代に来ています。すべての根源を把握して種の起源を探究し、根本を追求する科学の発展時代が来ることによって、宗教もそこに歩調を合わせざるを得ないのです。そこに主体的な観をもって、世界がどうであり創造の内容がどうだということを説明して、ハナニムを立証できる宗教が現れなければならないのに、そのような宗教がないので、神が生きている限り、そのような宗教の内容を準備しなければならないのです。
(211-139, 1990.12.30)
人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたならば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的が明かされるためには、絶対者がいかなる方なのかという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、その方の創造の目的と動機が明らかになるでしょうし、したがって平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるでしょう。
(110-253, 1980.11.27)
絶対的であり、永遠であり、唯一であり、不変のハナニムがいらっしゃるならば、そのようなハナニムによって新しい見地から、真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福の起源を要求せざるを得ないのです。このような立場から見るとき、ハナニム自身から見る神観、ハナニム自身から見る人生観、ハナニム自身から見る物質観、これをはっきりさせるところから、初めて私たちは、新たな平和と新たな幸福の世界を迎えられると見るのです。
(77-260, 1975.4.14)
宗教紛争の根本原因も、やはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは自分の絶対者だけが正しいハナニムであり、それ以外のハナニムは真の神ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立します。
したがって、すべての宗教のハナニムは相対的なハナニムにすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわちハナニムの愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわち、これまでの宗教は、混乱を収拾し得る絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これは、すべての宗教が絶対者に対する正確な解明ができなかったので生じた、必然的な結果だと言わざるを得ません。
(122-302, 1982.11.25)


各宗教ごとに、その教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は主なる神です。キリスト教の絶対者はGod、すなわちハナニムです。イスラームイスラム教)の絶対者はアッラーです。儒教や仏教は絶対者を明確にしていませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結しているので、「天」が儒教の絶対者だと見ることができるし、仏教では、諸法は常に変化していて、真理は諸法の背後にある「真如しんにょ」から探し出せるとしているので、真如が仏教の絶対者だと見ることができるのです。
(122-300, 1982.11.25)
新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個のハナニムではなく、同一の一つのハナニムであることを明かさなければなりません。それと同時に、このハナニムの属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、そのハナニムの全貌ぜんぼうを正しく把握して、すべての宗教はハナニムから立てられた兄弟的宗教であることを明らかにできなければなりません。
それだけではなく、その本体論は、ハナニムの属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと、人間が守らなければならない規範も、結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。
(122-303, 1982.11.25)
統一教会の「原理」が偉大なのは何かといえば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのか、ということが分かるようになっているのです。その次に、どのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には、歴史観があります。
歴史過程においてハナニムが堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのか、ということがはっきりしているというのです。そうして、過程を通して目的の世界に到達するということを、理論的に一目瞭然りょうぜんに明らかにしたのです。
(208-296, 1990.11.20)


 

第2章 ハナニムと創造の役事

   

1) ハナニムの創造の動機は愛

 

① 創造の役事は完全投入

ハナニムの天地創造は、生命の接着を目的としたものではありません。愛の理想を同化させるためのものです。
(188-196, 1989.2.26)
科学者は、宇宙は力で形成されており、この力によって宇宙が発生したといいます。しかし、そうではありません。電気は、先に力があって作用するのではなく、作用を通して電気が生じます。そして作用する前に、プラスとマイナス、すなわち主体と対象がなければなりません。作用は一人ではできないので、作用するためには必ず、主体と対象がなければなりません。
(197-164)
結局、プラスとマイナスがあってこそ作用し、その作用を通して電気が生じます。同じように力も、主体と対象が作用をして初めて生じます。それで今日、学者がいっているように、力から宇宙が発生したのではありません。また、力が先なのではなく、作用が先です。
(111-126, 1981.2.8)
愛が先でしょうか、生命が先でしょうか。愛が先です。地球がハナニムの生命から出たからといって、生命が一番だとはいいません。愛が一番だといいます。ハナニムが天地創造をする時、まず生命からしたといっても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生じたのは愛のゆえです。
(86-82)
ハナニムがなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だといっても、独りで喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても、喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。
(38-152, 1971.1.3)
ハナニムが御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは、力の投入を意味します。芸術家は、最高の作品を作ることが願いです。芸術家は、傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ、完全な傑作品が出てきます。これ以上できないというときに、初めて傑作品が生まれるのです。


創造は、自分を投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入せずしては、いかなるものも生じません。完全に投入するところに完全な対象が成立するという原則を考えると、ハナニムは主体として、対象を造るために完全に投入しました。ハナニム自身が、御自身のためではなく、対象のために存在しようと運動を始めたのが創造です。
(78-111, 1975.5.6)
創造するとは、力の投入のことを意味します。投入をしたのですが、どれだけ投入したのでしょうか。ハナニムがみことばによって造るときに、「こうなれ、ああなれ」といたずらに創造したかのように考えられています。違います。ここにはまことの生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも、精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものは愛しません。
それゆえ、創造する前と創造した後では違います。創造する前は自分のことを考えたのですが、創造を始めてからは対象を大事にしました。私が存在するのは私のためではなく、相対のためであり、息子、娘のためである、このようになっています。
(69-81, 1973.10.20)
ハナニムが天地を創造するということは、御自身の本質を投入するということです。結局、エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは、自分の本質の減少を意味します。対象世界の創造は、愛によってなされたのですが、ハナニムはそのみ旨をなすために、自己を投入しました。
投入したそのものが自分に実るようにしたのではなく、相対に実るようにしました。投入することにより、ハナニムが疎遠さを感じるのではなく、満足を感じるのです。それは、愛によって造ったからです。
(60-85, 1972.8.6)
私たちが朝食を食べて重労働をすれば、空腹になります。そして、すぐ疲れます。なぜでしょうか。力を投入すると消耗するからです。世の中の万事において、損をして喜ぶということはありません。プラスとなってこそ良いのです。それゆえ、ハナニムも天地万物を造って良しとするために、必ずプラスとなり得る何かがなければなりません。
それではハナニムは、プラスとなり得るものをいつ得ることができるのでしょうか。ここに、被造物の完成という標準があります。「この時まで投入すれば、その時からは返ってくる」というものがあります。同じことです。何かをしようという望みをもって努力し、その限界点を乗り越えると、必ず結果が返ってきます。これが宇宙の法則です。
ハナニムも同じです。人を造ったのは、ハナニムの力を投入したということです。力を投入しました。自分自身を消耗しました。ところが、投入できるものを完全に投入して人を創造したとするならば、その完成した人は、どこかに逃げるわけではありません。完成すれば、その次にはハナニムに戻ってきます。戻ってくるに当たって、100を投入したときに、100よりも小さい価値をもつものとして戻ってくるのではなく、ハナニムの創造の価値を加えて戻ってくるのです。
(65-20, 1972.11.13)


宇宙は、どのように出発したのでしょうか。ハナニムを見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対をつくって、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得られるならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心としてハナニムが創造を始めたのです。
ハナニムが損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、ハナニムはなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなく、真の愛が小さくなるという原理であれば、ハナニム自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は、投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。
(237-124, 1992.11.13)
愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充できる愛の力があるので、疲れ果てることがないのです。ですから、困難で苦痛でも、嫌ではないのです。それが嫌だとすれば、どうしますか。愛のための道には、永遠に嫌だという心はあり得ません。ハナニムの本質には、怨讐おんしゅうという概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。
(237-130, 1992.11.13)
ハナニムの創造理想を中心として投入、投入、投入しなさいというのです。投入すれば回っていくのです。空気を例に挙げれば、絶対低気圧と絶対高気圧があれば、その中間の気圧が生じます。誰かが呼ばなくても、天が降りてくるのです。
それゆえ100パーセント以上投入したいと思う人は、いつも天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうなっています。完全に投入して忘れるところには、永遠の運動が連結するために、その基準において永生の論理が出てくるのです。永生、永遠の生命、そうでなければ統一の原則をどこから引き出してくるのですか。
「ため」に生きれば、ぐるぐる回ります。ぐるぐる回って、どこに行くのでしょうか。だんだん小さくなって上がっていきます。ぐるぐる回って、広がれば下りていきますが、だんだん上がっていくので、ハナニムは自動的にアダムとエバの肩の上に両足を置くしかありません。
(205-95, 1990.7.7)
ハナニムが天地万物を、なぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は、力を投入したということです。力の投入です。力の投入というのは、自体の消耗を意味します。いくら全知全能のハナニムでも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ、消耗するのです。
(65-20, 1972.11.13)


ハナニムは、万物と人間を創造するためにあらゆる力を投入されました。すべてを投入し、また投入されました。他のものは、投入すればすべて消耗しますが、真の愛だけは、投入すれば投入するほどより栄え、生産するのです。真の愛は、100を投入すれば120が戻ってきます。それゆえ、真の愛を実践する者は、滅びるようでも滅びることなく、永遠に栄えて永生するのです。
(219-118, 1991.8.28)
ハナニムがなぜ存在されるのでしょうか。何ゆえにいようとされるのでしょうか。愛ゆえにいらっしゃろうとするのです。それゆえ、愛の相対が必要なのです。ですから全知全能なるハナニムは、愛の相対を創造しなければならなかったのです。本質的理想によって、愛を中心として創造を始めたということを、これまで私たちは知らなかったのです。愛ゆえに、すべての被造世界が創造されたのです。
(208-235, 1990.11.20)
ハナニムの願いは、真に与え得る世界的な足場をもつことです。ハナニムは、与えることにおいて誰も讒訴ざんそすることはできず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を望んでいます。そのような立場を世界的に広げて、万民をそこで生きるようにすることが、ハナニムの得ようとされる所期の目的です。
(13-249, 1964.4.12)

 

② 愛を通じた創造理想の実現

愛の実現のために、この世を創造されたハナニムでした。人間と万物がハナニムの愛を中心として一つとなり、和気あいあいとした愛の世界を築くのを見て喜ぶために、そして人間がハナニムの愛を中心として真の夫婦の因縁を結び、真の愛の家庭と宗族、民族、世界を築くのを見て喜ぶために、そしてそのような人間と愛によって一つとなることで愛の喜びを味わうため、被造世界を創造したハナニムでした。正にこれがハナニムの創造の理想だったのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)
無限なるハナニムの愛が目的を中心として愛し得る本心の根本、これが正に心情です。その価値は変わることのないものです。ハナニムの存在の価値を論じようとするならば、この愛について論じなければなりません。価値というものは、相対的与件ができた中で決定されるものです。
喜びというのは、ハナニムの心情から出発するものです。その目的はどこで遂げられるかというと、人間によって遂げられるのです。見えないハナニムの心情が、目に見える人間の心情で顕現するのです。そのような心情をもった人間が横的に広がって家庭を築けば、その家庭が世界的に広がって世界の中心になるのです。そのような家庭を築くよう、ハナニムはアダムとエバに、生育せよ、繁殖せよと祝福されたのです。天宙主義は、生育し、繁殖して、万物を主管するという根本の上に成立するのです。
(27-28, 1969.11.15)


ハナニムは、なぜ被造世界を創造されたのでしょうか。ハナニムは、被造世界を通して喜びを享受しようとされたのです。ハナニムがいくら絶体者だといっても、喜びを独りで感じることはできません。喜びは、相手がいてこそ生じるからです。ハナニムが必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。ハナニム自身が絶対的であり、全知全能であられるがゆえに、そのようなものは必要とされません。
科学がいくら発達しても、ハナニムが造られたものに追いつき、越えることはできません。膨大な宇宙は、秩序の中で法度に従って運行しています。人間の考えや科学が及び得ない膨大な宇宙をハナニムが創造し、また運行していらっしゃるということを考えると、ハナニムは、絶対的な科学者でもあられます。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)
ハナニムの本然の愛に綱を結び、その愛の味を味わった人が離れるようなことがあるでしょうか。みつを吸っているはちのおしりを引っ張ると、その蜂はおしりが取れても蜜から口を離しません。皆さんがその味を感じたとするならば、どうでしょうか。行っても途中で戻ってきて、再びそこにくっつこうとすることでしょう。
(137-57, 1985.12.18)
ハナニムの愛は、統一教会の「原理」によれば、四位よんい基台の完成という結論になります。だとすれば、四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は、子女たちに伝達されて感じるようになっています。四位基台の中心は、父母の愛を中心に子女と一つとなり、男女の愛が一つとなり、最後にハナニムの愛と一つとなるのが四位基台なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)
アダムは、ハナニムと一つとならなければなりません。これを結びつけるものは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者はハナニムです。これを永遠に結びつける中心点が、すなわち愛というきずなです。肉体をもった人間がハナニムと一体となれば、その心情と感情は、無限の体恤たいじゅつ境と幸福感に酔うようになります。
(35-156)
結局、愛によってハナニムと人間は一つとなるのです。愛によって人間と世界が一つとなり、ハナニムの創造目的である理想世界の実現は、ここから出発するのです。ハナニムを中心とした新たな愛、すなわち創造の法度による愛が決定されたところから、初めてハナニムの理想が出発します。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)
私たち人間が寝て朝起きたとき、その心に願うことは何でしょうか。朝食を取ることが問題ではなく、仕事に出掛けることが問題ではなく、全世界のことを気遣うのが問題ではなく、愛の心を夜も昼も春夏秋冬変わることなく、一生の間変わらずにもつことを願うのです。そのような男性、そのような女性が完全に水平線を成し、縦的なハナニムと共に90度に連結され、人情と天情が合わさる、そのような立場の愛、そのような愛の理想郷、そのためにハナニムは天地を創造されたのです。
(213-157, 1991.1.20)


ハナニムが創造するに当たって、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱き、動かし得る愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。
(237-130, 1992.11.13)
愛を占領しようとするならば、投入しては忘れ、投入しては忘れなければなりません。なぜ、そのような愛をもたなければならないのでしょうか。愛は動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなるものだからです。
力学の世界での自然現象は、動かせば動かすほど、作用すれば作用するほど小さくなります。自然世界は動けば動くほど小さくなりますが、真の愛の世界は動けば動くほど大きくなっていくのです。ハナニムは、それを知っていたので、真の愛を中心に創造を始めることができたのです。
(237-127, 1992.11.13)

 

2) 人間を創造された目的

 

① ハナニムの愛の対象として造った

ハナニムは、人間を愛ゆえに造りました。人間は、なぜ造られたのでしょうか。愛ゆえに造られました。人間が万物と違うのは、ハナニムの息子、娘として造られたことです。ハナニムの直系の愛を受けられる対象者として造られたのです。これが人間の特権です。
(132-244, 1984.6.20)
完全なプラスであるハナニムは、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれたハナニムの対象は、誰でしょうか。これが問題です。ハナニムは、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、ハナニムの無形の内的な相対的実体存在だということです。
(129-138, 1983.10.9)
人を創造して育て、天宙の主人であるハナニムの代わりに愛をもった者として、自分よりも高い座につかせ、主人にしてあげようということなのです。
(204-221, 1990.7.11)
万有の中心は誰でしょうか。人なのです。その人は、いかなる存在か? 全知全能なるハナニムの前に相対的価値として登場したのが人間だ、と見るのです。人間は、万有の愛の表象体として、一つの灯台のように光を放てる一つの中心として現れた存在です。そのような存在が人です。
(115-182, 1981.11.15)


人とは何ですか。ハナニムの愛の対象存在です。ハナニムが二性性相である以上、プラスとマイナスの二性性相の主体である以上、その主体の前に対象となるためには、プラスとマイナスのような二性性相の形態が必要です。その形態というのは、主体の性稟せいひんとは反対の形態ではありません。すべての性稟の相対性を備えて、愛という本質にぴったりと合わさる相対的形態のことをいうのです。これが相対という存在なのですが、それは他のものには合いません。愛にだけ合うようになっているのです。ハナニムには、知識や、他のものは必要ありません。愛が必要なのです。人間がこの宇宙の中心だというのは、愛の理想を果たすために被造世界を造ったからです。
愛のハナニムに代わり、主人の前に最初に中心の位置に立って愛される特権をもっているので、「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。
(132-244, 1984.6.20)
ハナニムはなぜ、人間を創造されたのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造されたのではありません。その息子、娘と共に愛し合うために人間を創造されたのです。いくら考えても、そうとしか考えられません。人間を創造した目的は、愛のゆえです。
ハナニムの愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。言い換えれば、本来、ハナニムの心に愛が芽生え始めて、生命が始まります。その生命は愛から始まったので、結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば、私たち人間は不幸なのです。
(57-21, 1972.5.21)
ハナニムに必要なものは何でしょうか。ハナニムには、生命も必要ではありません。生命の主体であるのに、そのようなものがどうして必要でしょうか。それでは何が必要でしょうか。愛が必要なのです。なぜハナニムに愛が必要なのでしょうか。愛というのは相対的関係から成立するものだからです。ハナニムも愛を必要とするハナニムにならなければ、この創造世界や人間世界と関係を結ぶことができません。
それで、愛をもって尋ねてこなければ存在世界と関係を結ぶことができないという結論になるので、ハナニムは愛を標準に定めてきたのです。
(121-100, 1982.10.24)
ハナニムは、人を最も貴いものと思っていらっしゃいますが、なぜ貴いものと考えられるのでしょうか。ハナニムは、愛の相対を必要とするので最も貴く思われるのです。いくらハナニムが愛をもっていたとしても、愛する対象がいなければ愛を感じることができないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。ハナニムが人を最も貴く思われるのは、人間が、ハナニムが愛し得る対象の位置に、愛の対象の位置にいるからです。ハナニムが最も貴く思われるのは正に人間なのです。
(143-309, 1986.3.21)


ハナニムがなぜ人を造られたのでしょうか。それは、愛を完成するためです。その愛は、ハナニムから始まるのではありません。相対から求め得られるものです。相対がなければ見いだされることはありません。ハナニムが最高に貴いものを成就させるためには、相対が必要なのです。
ハナニムも相対がなければならないのです。それで相対を造られたのです。ハナニム御自身も、相対から絶対的な愛をつくりあげるように、相対を求めていくのです。それゆえハナニムも、愛のためにいらっしゃるのです。愛のために存在されるのです。愛の驚くべきところは、ここなのです。
人はハナニムのためにあり、ハナニムも人のためにあるのです。それゆえまことの愛というものは、「ため」に生きるところから始まるのです。本来人間は、どこから生まれたのでしょうか。ハナニムの愛から始まったのです。愛ゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。
(143-309, 1986.3.21)
ハナニム御自身が愛するための愛の対象が必要なので、人を造られたのです。独りで愛することはできません。対象圏がなければ、愛は成り立ちません。
ハナニムも愛が絶対必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造られたのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造られたのが人間なのです。ですから人間自体がハナニムの体です。
ハナニムの体となったアダムとエバの二人が夫婦になったということは、ハナニムが夫婦になることなのです。そうなれば天上世界に行って、アダムとエバの姿でハナニムが人類の祖先となり、霊界と地上世界を治めるようになっているのです。
(138-212, 1986.1.21)

 

② 愛と生命の核心をすべて投入

ハナニムは、あらゆる万物を造り、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造るのに、ハナニムがいたずらに造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでのハナニムの苦労と精誠は、言葉では到底表すことができないという事実を、私たちは知らなければなりません。
ハナニムが人間を造るとき、ありとあらゆる精誠を尽くし、心血と、御自身の生命の核心をすべて注いで造り、愛と心情をそっくりそのまま注いで造られたのです。どのような力をもっても離すことができず、離れようにも離れることのできない因縁の中で造られたのです。
このように造られた人間なので、その人間を見つめられるハナニムに初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。
(20-205, 1968.6.9)


ハナニムは人間の父であり、人間はハナニムの息子、娘です。ハナニムが骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり注いで造られた人間なので、このような人間がハナニムを引っ張れば、引っ張られるしかなく、またハナニムが人間を引っ張れば、引っ張られるしかないのです。
ハナニムは、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間として造られたのです。もし、そのように造った人を見てハナニムが賛美する、あるみことばや詩があるとすれば、それは、この世のいかなる詩人や文人にも表現できない最高の作品となることでしょう。その対象は、ハナニムでもなく、万物でもなく、唯一万物を代表した人間なのです。
(20-207, 1968.6.9)
被造万物の中で、ハナニムの愛の対象となり得る存在は、私たち人間です。ハナニムは、愛の対象を造るため、全心全力を尽くして、自己のすべてを投入されたのです。
ハナニムは、このように御自身の全体を投入して何をされようというのでしょうか。宇宙の愛の核を設定しようというのです。それが創造理想でした。
(166-147, 1987.6.5)
「愛」について語るとき、ハナニムには、そのようなものはありません。ハナニムが造られた創造物にはありますが、ハナニムには、そのようなものはありません。あったとしても心の中に内的にあるのであり、形として表れることはありません。それで何をするのでしょうか。それが誰にあるのかというと、人間であるアダムにあり、エバにあります。ですから、ハナニムよりも、もっと貴いものを人間がもっているということを知らなければなりません。
(206-125, 1990.10.3)
人間の欲望の最終着点、人間は欲望の最大の完成基準に向かう方向性があるのですが、それが私たちに作用しているという事実を発見しなければなりません。聖書には、「私たちの体はハナニムの聖殿である」とあります。それがどういうことなのか解釈できずにいるのです。
それは偉大な言葉です。たとえハナニムでも、ハナニムと私が愛をささやける愛の対象圏となり、その愛の対象圏と一つとなれば、宇宙を相続し得る権限が生じるからです。愛という原則基盤を通してハナニムの造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、宇宙の相続権を獲得することができるのです。残念なことにこの驚くべき事実を知らずにいるのです。
(137-67, 1985.12.18)

 

3) アダムとエバを通じた愛の理想

 

① アダムを無形のハナニムの体として造った

ハナニムはなぜ、アダムとエバを必要としたのでしょうか。二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようということです。二つ目は、無形のハナニムが形状をもって現れるためです。それゆえ、無形のハナニムが有形の形状をまとって有形世界と関係を結ぶためのその基礎、その核心がアダムとエバなのです。それでアダムとエバが完成して霊界に行けば、アダムとエバはハナニムの体と同じであり、ハナニムはアダムとエバの心と同じ位置で見えないのです。一人の人、霊的世界で完成した一人の人を、実体世界の体と心のような一つの結果としようとしたのが、ハナニムがアダムとエバを創造された目的です。
(92-147, 1977.4.1)


天の国に無形のハナニムが一人でいて、何をするというのでしょうか。見えないハナニムだけでは、どうすることもできないのです。私たち人間の父母となるためには、体をもって感じることができなければなりません。人間のような体を着なければならないので、体をまとうために、仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかった、ということを知らなければなりません。
(133-91, 1984.7.10)
なぜ、アダムとエバを二重構造で造るしかなかったのでしょうか。無形のハナニムと同じようになるには、心と体が一生を通じて生きながら、あの世に行くまでに一つとなったという基準を立てなければなりません。そうせずしてあの世に現れれば、その形状がハナニムと一つとならないのです。実体的王権をもった父母が無形の父母であるハナニムと一体となり、永遠の天上世界に体をもった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造で造りました。
ハナニムも、アダムとエバに連結しなければ世の中と関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバと関係を結んでこそ、アダムとエバの息子、娘と関係が結ばれるのです。
(133-91, 1984.7.10)
ハナニムが人を造った理由は、同じ父母の位置に立てるためであり、体をもつためなのです。「同じ父母の位置」というのは内外をいうのです。ですから、外的なハナニムはアダムとエバであり、ハナニムは内的なハナニムなのです。体的なハナニムがアダムとエバであり、心的なハナニムが無形のハナニムです。そのハナニムが人類の父母です。本来の父母です。その父母が何人もいるのではありません。一人です。一人なので、その一人の方が入れるアダムとエバを、男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておき、ハナニムがそこに入るのです。ハナニムが臨在し、作用してこそアダムとエバの二人が理想的作用をするのであって、ハナニムが作用しなければ、ハナニムのみ旨も何も分からないのです。
(133-91, 1984.7.10)
ハナニムは父の位置、父母の位置に立ったお方です。人間を地のハナニムとして立て、創造主であるハナニムは天のハナニムとして縦的なハナニムとして立てて、これが天地合徳し、こうして愛によって生きようというのです。ハナニムも独りでは寂しいのです。
(221-113, 1991.10.23)


創造主は、縦的なまことの愛を中心とした縦的な父であり、堕落していない本然の人間祖先であるアダムとエバは、完全に90度で一つとなり得る位置に立った完成した父母、横的な体の父母なのです。創造主は、真の愛を中心とした心の父母であり、アダムとエバは、横的な体の父母なのですが、この二つが合わさって天の父母と地の父母が一つとなり、天と人が合わさって息子、娘が生まれたならば、この地に生まれるすべての人々に宗教は必要ないのです。そのままでハナニムの国へ行くのです。堕落ゆえに、このような複雑な問題が生じたのです。堕落しなかったならば、私たちの体と心が分かれることはなかったでしょう。
(210-139, 1990.12.17)
ハナニムが男性と女性を造られた目的は、二人が愛し合って一つとなるためでした。アダムはアダムのために、エバエバのために造ったのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのために造られたのです。また、ハナニム御自身の愛と喜びのためにアダムとエバを造られたのです。ハナニムがアダムとエバを造られたのは、知識、お金、権力のためではありません。全知全能なるハナニムはそのようなものが必要だったのではなく、唯一、愛が必要だったのです。
ハナニムがアダムとエバを造られたのは、知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、たくさんの財物を与えて裕福に暮らさせるためでもありません。彼らを創造した目的は、愛の実体として立てるためだったのです。
ハナニムが人間を創造された目的は、家庭を通して愛の基盤をつくろうとされたのです。愛のない被造世界は地獄であり、ハナニム御自身もまた存在価値が無意味なものとなるからです。ハナニムが人間を創造された目的は、愛のためだったというのが創造の絶対法であることを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-307)
ハナニムがなぜ人間を創造されたのでしょうか。男性は東であり、女性は西なのですが、縦的なハナニムを中心として東西、四方、平面が必要です。そこでは360度なので無限な面があるのです。その面を通して何をしようというのでしょうか。天国の民を生産する工場、出発地がこの地球です。
それゆえ天国の民は、この地球で生きてから行った人です。行ってみてください。地球ぼしのほかに国はありません。宇宙に人がいるなどといっていますが、いったい何が住んでいるというのでしょうか。宇宙はすべて、人のために造られたものです。
(206-209, 1990.10.7)
私たち人間は、ハナニムより優れているでしょうか、劣っているでしょうか。ハナニムが人間を創造するとき、縦的なアダムとエバしか造ることができませんでした。しかしながら私たちは、息子、娘を生もうとすれば、20人以上も生むことができます。それは、ハナニムにはできないことです。ハナニムは、アダムとエバしか造れませんでした。なぜでしょうか。縦的なものは絶対的な基準が一つなので、絶対的男性一人、絶対的女性一人しか造れないのです。
(236-259, 1992.11.8)
アダムとエバは、ハナニムの息子、娘として生まれましたが、ハナニムの中にあった双胎が実体として現れたものです。無形の男性、女性の双胎が有形の男性、女性の実体として現れたのがアダムとエバでした。ハナニムの息子、娘がこのように始まったのです。ハナニムの無形の心情圏の内容を実体心情圏として完成させ、無形と有形が一つとなるためのものが創造理想です。創造理想は、愛を中心として対象圏を成そうというものです。
(237-160, 1992.11.16)


アダムとは何でしょうか。ハナニムの内在的性稟せいひんの半分を実体として展開した表示体です。エバは何でしょうか。女性の性稟を実体として展開した表示体であり、表した存在です。表したというとき、表したということは、実体をもっている表示体であるということです。表れる前に、表れていない動機があって表れたということです。その表れていない動機が何であるかというと、私たち統一教会では無形の実体であるハナニムです。このように見るのです。
(140-123, 1986.2.9)
一男一女は、無形であられるハナニムの実体対象として表れた息子、娘です。男性は、ハナニムのプラス(+)性稟を、女性は、ハナニムのマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としていらっしゃるハナニムの性相を二性に分立したのちに、再びハナニムの本性相に似た姿に合性一体化することです。
一人の男性と一人の女性は、それぞれハナニムの一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は、ハナニムのプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち、ハナニムに似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は、ハナニムの全体を表象する結合体なのです。
(9-83, 1960.4.16)

 

② 夫婦は第二創造主の位置

夫婦が一つとなって息子、娘を生むことにより、永続することができます。ですから、創造した創造主の位置に上がって息子、娘を生んでみることにより、ハナニムが創造した喜びを平面の世の中で感じることができるのです。それゆえ自分の妻は、息子、娘のようでなければなりません。息子、娘と兄弟の立場を合わせたものです。それで別れることができません。愛は、そういい加減にはできていません。このようなすべての伝統を通過した後に息子、娘を生んでこそ、ハナニムが本来の創造理想として願った本然的基準に到達するのです。それゆえ、家庭が天国の基盤です。
(223-24, 1991.11.7)
このように夫婦が息子、娘を生んで父母の位置に上がることにより、ハナニムの位置でハナニムが人間を創造するときに、どれほど喜ばれたかを体恤たいじゅつするのです。天地の大主体であられるハナニムの権限の、すべてを相続できる位置に入り得る体恤的環境を、体恤的内容として伝授してあげるのが息子、娘を生産することです。息子、娘を生んで大切に育て、結婚させるまでが母親と父親の責任です。ハナニムがアダムとエバを育てて結婚させなければならなかったのですが、できなかったのです。アダムとエバも、息子、娘を生んで結婚させることができませんでした。このハンを解かなければなりません。これが教育の原論になるのです。結論は簡単です。
(223-196, 1991.11.10)


人間は、横的な父母の立場に立つのです。アダムとエバは、子供であると同時に兄弟です。兄弟であると同時に夫婦であり、夫婦であると同時に、のちに息子、娘を生むことにより、ハナニムの位置に上がるのです。息子、娘を生んで愛するということは、ハナニムが人間を創造して喜んだすべてを相続することなのです。
(223-267, 1991.11.12)
ハナニムがアダムとエバを創造したのと同じように、創造主の立場でその喜びを感じさせるためのものが子女なのです。子女は、アダムとエバによる第二創造物です。無形のハナニムは、有形の実体としてアダムとエバを造りました。
アダムとエバが完成すれば、ハナニムの有形実体の完成として愛の中心代表となります。そのハナニムがアダムとエバを創造して喜びを感じたのと同じように、実体的にハナニムの創造の喜びを感じることができるように、体験させるために与えたのが子女だというのです。
(238-62, 1992.11.19)
ハナニムが理想的な宇宙の円満な家庭理想を完成しようと、子女と、兄弟と、夫婦と、父母の立場を備えて自分の愛を相続させようとされるのです。愛をもっているがゆえに、私を第二の創造主の立場に立てるのです。それが息子、娘です。息子、娘は、それほど貴いのです。
(238-40, 1992.11.19)
女性が子供を妊娠すれば、新しい世の中が生じるのです。その子供が活動を始めると、たくさんの夢を見ます。女性は、そうでなければなりません。ハナニムが創造をされていた時のその夢、夢は多いのです。「将来この子が大きくなって、こうなったらいいのに」というのは、ハナニムが創造をしながらアダムとエバの準備をした、その思いに似たものです。女性の立体的夢は、そのようなものです。「私一人ではない。天下が私の息子、娘の手の中にあり、私の懐で育つのだ」と、このように考えながら、愛を中心として天下を呼吸しているのです。
(228-263, 1992.7.5)
子供を生む立場に立つことは、結婚から上弦世界を占領することです。ハナニムの位置に上がって子女を愛することは、ハナニムが創造以後に、人間をどれほど愛したかという内縁を体恤させることです。
(224-28, 1991.11.21)
アダムとエバがハナニムのように愛してこそ、そこにハナニムが臨在するのであり、アダムが勝手に、エバが勝手にしてはならないのです。完全に一つとなってこそ、無形のハナニムがここに往来するのです。そうしてハナニムの愛の冠を、愛のふろしきをかぶせようとするのです。それが理想です。そうしてこそ、ハナニムがにおいをかぎ当てるのです。ハナニムは、どこへ行ってもくんくんとにおいをかぐのです。
(112-103, 1981.4.5)


それでは、ハナニムも口づけするのを好むでしょうか。無形のハナニムは、二つが合わさっているので刺激を感じません。愛も、一つとなったり離れたりします。夫と妻が最初、死ぬか生きるかというほど愛しているときは、雷が鳴り、稲妻が光るように愛するのです。次は、雨ののちに雲が晴れるように、愛が一度燃えたのち、再びゼロに戻るのです。
(224-36, 1991.11.21)
ハナニムは、二性性相の中和体であると同時に、格としては男性格をもっています。ハナニムの父格の愛に対し、相対的立場にあるのが男性であるので、これは垂直関係です。垂直関係。女性は垂直関係ではありません。女性は何でしょうか。垂直の相対となる横的関係なのです。
ハナニムの人格を中心として格に従って見るとき、男性は縦的関係である上下関係であり、女性は左右関係である横的関係です。それでは、縦が先でしょうか、横が先でしょうか。縦が先なので、先の位置に近づこうとするのが、すべての自然の道理が追求して求める道なのです。それゆえハナニムの愛を中心とすると、娘よりも息子なのです。こうしてこそ、すべて整理されるのです。
(177-324, 1988.5.22)
女性には1ヵ月に1度ずつ生理がありますね。誰のためですか。子孫がどれほど貴いかを知らなければなりません。アダムとエバを造られた目的は、天国の民を生産することです。霊界では生産ということがありません。
ハナニムは縦的な愛の主人であられるので、縦的なことにおいて軸が一つしかありません。一点しかないのです。一点では生産できないので、横的な面積が必要なのです。それで、人間と一つとなり、天国の民をたくさん繁殖し、移譲するというのがハナニムの創造目的です。
(222-72, 1991.10.28)
天国の民の生産地が夫婦である、ということを知らなければなりません。それで、人間を創造しないわけにはいかないのです。これが天国の息子、娘、ハナニムの息子、娘です。天の皇族を中心として連結し、天国の民を拡大するのです。この地上は、私たち人類始祖の肉身を通じて天国の民を生産するための基地だった、ということを誰が知っているでしょうか。
(219-49, 1991.8.25)
アダムとエバの二人が愛し合うのを御覧になったハナニムは、孤独な存在ではありません。御自身の中に内在した愛の素性そせいというものが、こんなにまで強力なものだったのかと、相対的な喜びを感じるのです。
(御旨と世界-279)
皆さん、愛し合うのをハナニムが見るでしょうか、見ないでしょうか。天下時空を超越するハナニムがこの世界50億人類が愛し合う夜に、目を閉じるでしょうか、どうでしょうか。見ているとすると、気分はどうでしょうか。善い妻、善い夫がどれくらい多いでしょうか。考えてみてください。ありとあらゆることが起きるというのです。仕方なく妻の役割を果たし、仕方なく引かれていき、仕方なく機嫌をとり、そのように暮らすのではありません。それがどうして「愛」と言えるでしょうか。それが人生ですか。世の中がすべて、ハナニムの願った創造理想どおりに、花の香りが漂うエデンの園のようにちょうはちが飛び回り、天地が和動しながら暮らせる環境となって、ハナニムがそこに心酔して眠ることができれば、どんなによいでしょうか。そう考えたことはありますか。一度そのように暮らしてみてください。
(222-252, 1991.11.3)


ハナニムは、夫婦の立場に至ることができず、父母の立場に至ることができませんでした。これを復帰しなければなりません。そのためには、まことの父母が来なければなりません。真の父母が来て、縦的な父母と横的な父母となって初めてハナニムが創造当時に理想的子女を繁殖したのと同じように、そのすべてがここで実るのです。
ハナニムは縦的創造だけをしましたが、霊肉の実体が完成した位置にあるアダムは、横的創造をすることができます。ハナニムは、息子、娘の二人しか創造できませんでしたが、ハナニムに代わって実体の父母の立場に立った人間は、アダムとエバを無数に生むことができるのです。10人生むこともできれば、20人生むこともできるのです。しかし、ハナニムはそうすることはできません。このように横的な拡大の道を中心として多くの民が生まれて、天国の民として移っていくのです。
(236-146, 1992.11.4)
真の父母様は、数多くの宗教の結実です。ハナニムの創造の偉業を代表できる結実です。歴史の終着点であり、宗教の目的であり、人類の最高の希望です。すべてがここに帰結するのです。ここは自由です。個人解放、天上天下がすべてここで解放されるのです。これらすべては、愛から統一天下が繰り広げられるのです。
(220-221, 1991.10.19)

 

4) 愛の理想は家庭を中心に完成する

 

① ハナニムの創造理想は四位基台完成

ハナニムの創造目的は、何でしょうか。アダムとエバを造り、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通してハナニムを中心としたまことの地上天国を建設するためでした。ハナニムを中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで、男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。
それゆえ、彼らは二人ですが、彼らが横的に一つとなれば天と地が統一されるのです。ハナニムの愛を中心として二人が統一されれば、天宙は自動的に統一されるのです。
(21-43, 1968.9.1)


ハナニムは、アダムとエバを創造されたその当時よりも、彼らを通して繰り広げられる未来に、より大きなみ旨を置かれました。最も貴いものが来るようにしました。それは創造目的を完成することです。愛を中心とした四位よんい基台を完成するのです。
(御旨と世界-533)
ハナニムは、個体の性稟せいひんを中心としてプラス的性稟の代表として息子のアダムを造り、その息子を最高に愛されました。息子を愛するときに、女性的な愛を合わせて愛されました。また、娘であるエバを愛するときも、男性的な愛を合わせて愛されたのです。このように分立した二人が一つとなるので、第3の出発の起源が生じるのです。それが子女です。それゆえ子女は、より新しい希望を触発してくれる愛の対象だというのです。
アダムとエバは、ハナニムの愛と父母の愛を代表した実体として生まれました。したがって、その息子、娘をハナニムも好み、アダムも好み、エバも好むのです。皆さんは、三対象目的ということを知っています。その三対象目的は、このようにして完成するのです。
(32-238.1970.7.19)
人間に対するハナニムのみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想の実現とは、男女が結婚して愛で一つとなることで終わるのではありません。その次には息子、娘がいなければなりません。なぜそうなのかというと、天地の道理は上下、前後の関係が連結することだからです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。連結しなければなりません。
それゆえ夫婦だけでは、きょうはあっても、あすはありません。あすがなければ、すべてが終わるのです。夫婦が上ならば下(子女)がいなければなりません。下がなければ終わるのです。それゆえ天地の道理は、上下があってこそ左右があるのです。
父母はその息子、娘を結婚させて初めて、「自分の責任を果たした」と言えます。夫婦である父母と、息子、娘が結婚してこそ上下関係となるのです。上下関係ができてこそ理想がかなうのです。左右として夫と妻が合わさり、上下関係の父母と子女がいてこそ縦横が連結し、この宇宙の理想的球形世界を実現することができます。
また、ここに兄弟姉妹がいて初めて球形が繰り広げられるのです。それで理想実現が完成すれば、横的に縦的に連結する十字的円形を描かなければなりません。その二つの理想実現圏を男性と女性が感じるとき、初めて自ら理想的な立場で暮らしているということができます。それが統一教会でいう四位よんい基台です。それゆえ、創造理想完成は四位基台完成であるというのです。
(85-178)
人は、自分だけにとどまっていてはなりません。自分から始まって3段階を経ていかなければなりません。これが、私と相対と子女なのです。ハナニムを中心とした私と相対と子女の関係、これが四位基台です。そして、この四位基台を完成することがハナニムの創造目的なのです。
(19-106)


四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。
(185-178, 1976.3.3)

 

② 創造理想は家庭完成によってなされる

人間祖先を通じたハナニムの理想は、男性と女性が結合して理想的な家庭を築くことでした。そうなれば、理想的な家庭の中心は男性でもなく女性でもありません。家庭というのは父母と子女、夫婦の結合からなる一つのまとまりなのですが、その結ばれた中心がすなわちハナニムの愛です。ハナニムの愛を中心として家庭を完成することがハナニムのみ旨である、という結論が出てきます。
(127-9)
家庭は、永久不変の起源であり、礎です。これは父親も変えることはできず、兄弟も変えることはできず、どの国のいかなる制度によっても変えることはできません。また世界的にも変えることはできず、天地も、ハナニムも変えることはできません。それゆえ、家庭というものに「革命」という名詞は、永遠に必要ないのです。
(25-85, 1969.9.30)
人間には父子関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわちこの三つの関係が一点になければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が異なれば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上下、左右、前後、そして一つの中心点まで合わせて7数となるのです。このように7数となるのは、すなわちハナニムを中心として完全な真の愛で一つとなり、このすべてが完全に球形を成し、調和と統一を成す家庭になるということです。
(299-114)
父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹がみな、真の愛を中心として合わさることを願うところが私たちの理想家庭です。ここから永遠な世界的平準化が始まることにより、地上天国が出発するのであり、また地上天国も自動的に築かれるのです。
(300-226)
ハナニムは、真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体となります。父母は、ハナニムに代わる生きたハナニムであり、夫と妻は、お互いにもう一方のハナニムであり、息子、娘は、もう一つの小さいハナニムです。このように、3代が真の愛を中心としてつくられた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤をつくらずしては天国が築かれません。家庭というのは宇宙の中心です。家庭完成は、宇宙完成の基礎であるがゆえに、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合にハナニムは、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心にいらっしゃいます。
(298-306, 1999.1.17)
ハナニムを中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、ハナニムの愛がすべて含まれています。このように消化された位置において父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をすることができます。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-942)


一つの家庭は、社会の倫理的基盤であり、人間世界において最も見本となり、根源的であり、1次的な組織です。このような家庭において、愛が最善の価値基準となるのです。
人の一生で最も重要な時はいつかというと、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは、生まれる時はどのように生まれるべきでしょうか。良く生まれなければなりません。次には結婚する時です。結婚というのは、生きるためにするものです。すなわち四位よんい基台の造成のためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててこそハナニムのみ旨が完成し、人間の志が遂げられるのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。
(24-230, 1969.8.17)
ハナニムの創造理想は、人間始祖であるアダムとエバが善なる子女を繁殖して、ハナニムを中心とした一つの世界をつくり上げることでした。
(御旨と世界-137)
家和万事成いえわしてばんじなる」という言葉があります。その家庭が平和であれば、万事がうまくいくという意味です。完成した家庭は、平和の家庭であり、これは天国の基礎です。
家庭の原動力はまことの愛です。私よりもハナニムを、そして対象を命のように愛する純粋で美しい愛、これが真の愛です。ハナニムはこの宇宙に、真の愛の力よりも大きい力は創造されませんでした。真の愛は、ハナニムの愛です。
(219-118, 1991.8.28)
この地球上にハナニムのみ旨が成し遂げられたならば、アダムを中心とした単一文化圏が形成されたことでしょう。今日のように多くの民族がそれぞれ異なった文化と文明を形成するのではなく、アダムを中心として一つの単一文化、単一思想、単一文明をもった世界となったことでしょう。そのようになったとすれば、文化、歴史、風習、言語、伝統などがすべて統一されていたことでしょう。
ハナニムの愛圏の中で理想的な家庭を築き、宗族を築き、民族と国家を形成し、さらに拡大されて、アダムの理想が実現された一つの理想的世界を築いたことでしょう。
木の根、幹、葉が一つの生命につながっているように、愛を中心として、上にはハナニムを父として侍り、下には万民を兄弟のように一つの生命体、愛の生命体となるようにして、ハナニムを中心とした永遠の理想世界を築くことこそが、ハナニムのみ旨から見た世界観です。
このような世界の人間には、救いは必要なく、メシヤも必要ありません。なぜならば、その世界に暮らす人間は、ハナニムの善なる息子、娘だからです。
(110-213, 1980.11.18)


5) ハナニムが万物世界を造られた目的

 

① 万物を造られた目的

本来、ハナニムは天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、いかなる理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは、大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微小な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、ハナニムの心情を通じた理念が宿っているのを、私たちは否定することができません。
それでは、このような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。ハナニムの愛を中心とした理念の世界、すなわち愛と共に通じ、愛と共に喜び、愛と共に生き、愛と共に死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。
私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して、何か分からないけれども間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微小な物でも、必ず私たちと因縁が結ばれていて、関係しています。私たちが無視しても、その万物はその日その日、天倫の理念によって存在の価値を示し、人間と関係を結んでいるのです。
なぜそうなのでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管し得る万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、ハナニムの大宇宙の理念に通じ得る愛の理念圏内に入っているからです。それゆえ、小さなものは大宇宙の目的を達成するに当たり、大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さなものは大きなものに吸収され、その材料となり、一つの要素となり、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。
歴史は、このように進展していくのであり、存在世界は、天倫という原則の軌道に沿って一つの目的のために動くという事実を、否定することはできません。
(9-164, 1960.5.8)
なぜハナニムは、万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象を、対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が食べて生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠なハナニムの愛の本国に来て生きるようにするためです。
(142-76, 1986.3.1)
聖書には、天地を創造したことが簡単に述べられています。みことばによって天地万物を創造したというのです。「星ができよ」と言うと星が生じ、「地球ができよ」と言うと地球ができたということになっています。しかしながら、そこには無限な秩序と法度に従って前進的な原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたことを、私たちは知らなければならないのです。そうして、このすべての万物を造り、万物の精髄として集約したのがアダムとエバ、人類の祖先です。
(65-21, 1972.11.13)


今日のキリスト教信者が考えるところでは、ハナニムは全知全能なので一言、「このような天地となれ」と言って、「このようになった」と言います。しかし、そうではありません。ハナニムがすべてを投入したのです。もてる精力をすべて投入したのです。もてる愛の力をすべて投入し、未来に自分の愛する息子、娘、自分の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてすべての物を造ったのです。それゆえ私たちは、そのような観念をもって万物を見なければならないのです。
(112-306, 1981.4.25)
創造するとき、何をもってしたのでしょうか。初めにハナニムのみ旨がありました。ハナニムの考えがありました。ハナニムの考えと共に計画がありました。
人間を創造し、こういう人間世界を造ろうという、本来のハナニムのみ旨と計画があったことが分かります。
(76-92, 1975.2.1)
一つ知らなければならないことは、ハナニムが世の中を造るとき、環境を先に創造したということです。環境の創造を先にしたのです。これを知らなければなりません。そこは必ず主体、対象を中心として作用する世界です。結果がそのようになっているのです。主体、対象が合わさって作用する現象の世界として、自然界は展開されています。
(131-217, 1984.5.4)
天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて・・・。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。
現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。天地創造の道理がそうなのです。今日、人間創造を考えても、体を先に造り、それから霊を造ったのです。
(152-319, 1963.8.18)
ハナニムは、六日間造った万物を御覧になり、誇りたかったのです。すべての被造物を御覧になり、無限に喜ばれたのです。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたそのみ言は、誰に向かってのみ言なのでしょうか。 万物に向かって言われたみ言だったのです。万物に向かって、それほどに懇切な気持ちを抱いて言われた、ということを私たちは知らなければなりません。
(5-238, 1959.2.8)
ハナニムが被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。
造られた万物にハナニムの目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に、ハナニムは喜びを感じられたのです。それでは、復帰の世界は、どのような世界なのか? 一言で言えば、森羅万象のそれぞれの個体を見て、ハナニムを賛美できる心情的な因縁を立体的に備えた人々が住む世界です。


天から見た人格の価値は、そこにあります。それゆえ昔、聖フランチェスコのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし、夢ではなく事実です。
(9-168, 1960.5.8)
愛は、独りでいるときにもありますが、愛の作用は、相手がいなければ生じません。ハナニムでもどうすることもできません。ハナニムが最も好む愛なのですが、その愛は独りでは完成しません。独りでは、愛の喜びを感じることができず、愛の衝動を感じることはできません。そのような理由から、ハナニムが宇宙を造られることになりました。ハナニムが愛し、喜び得る相対として宇宙を創造されたのです。そうして宇宙を創造されてから、その宇宙の主人としてアダムとエバを創造されました。
(143-81, 1986.3.16)

 

② 神秘の宇宙、その規模と構造

被造世界のすべての物は、ハナニムの愛する息子、娘が愛の理想を見つけていくことができるように、教材として造られたものです。それゆえ相対的な構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないのです。運動しなければ永続、存続できません。それゆえ宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達できるように創造された世界なのです。
(137-59, 1985.12.18)
宇宙とは何でしょうか。ハナニムの体のようなものです。目に見える体と同じようなものです。ハナニムの分身です。ですから、私が本当に愛することができる、という観念が成立するのです。宇宙を愛するということの実感がわくのです。皆さんも頭をなでてあげたりするでしょう。服にも何かがついていれば、取り除くでしょう。それはなぜですか。私のものだから、私と一緒にあるから、このような観念があるのです。
皆さんが今後どうすべきかといえば、心の中にハナニムを迎え、心が一つとなり、体が一つとなり、万物が一つとなる、そのような統一の世界を築かなければなりません。
(86-174, 1976.3.28)
この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年です。光は1秒間に30万キロメートル進みます。その30万キロメートルとはどれほどかというと、地球を7回半回れる距離です。その距離を1秒間に走る光が、1年かかって進む距離を、天文学では1光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きい宇宙です。
(127-213)
グリニッジ天文台では今まで100億光年離れた世界の星まですべて発見しましたが、今では、150億光年離れた世界の星も見ることができる時代となり、それ以上の時代となってきているのです。


この宇宙がどれほど大きいかというと、それも原理的な数です。210億光年、 それほど大きいのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、これが出発して1秒間に3億メートル・・・。光の速度で1秒間に3億メートル行きます。 距離でいえば地球の7回り半にもなる距離です。あっという間に7回半も回ります。それほど速い光が1日かかっただけでも、腰が曲がって考えも鈍くなり、「私には分からない」 ということになるでしょうに、それが100年でもなく、100の何万倍です。100の100万倍、それが1億ですが、1億光年。出発して1億光年。行っている途中なのに、人が100歳まで生きるとすれば100万人が死んでいくのです。1億光年ですから、(100)人が生まれて、100年生きては死ぬのを続けて、100万人が死ぬときになってもまだ続くのです。
それでは、210億光年ならばどれほどでしょうか。人がずらっと並んで生きては死に、また生きて、100歳まで生きて、このように2億1000万人が生きて、それほど行ったのにまだ続くのです。その遠い距離は直線ではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙なのです。
(181-195, 1988.10.3)
宇宙の完成とはいったい何でしょうか。宇宙を完成するには、私が完成しなければなりません。いくら宇宙が完成したといっても、私が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくら良くても、外的世界が良くて踊りを踊るとしても、自分が今苦痛にさいなまれているとすれば、その外的世界の喜ぶべき環境もすべて、自分と関係のないものであるということを私たちは知っています。
(166-210, 1987.6.7)
宇宙の完成は、外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私にとっても良くなければなりません。良いというのは、心にとっても良く、体にとっても良くなければなりません。私の細胞で言えば、すべての細胞にとって良くなければなりません。目の細胞と足の裏の細胞とでは異なりますね。異なります。その細胞がみな喜び、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心、どれ一つとして残すことなく全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つに連結され、連体的な内容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じることができる、そのような世界となってこそ、宇宙の完成がなされるのです。
(166-210, 1987.6.7)

 

③ 自然は愛の理想を教えてくれる教材

祈祷する人は、自然は第1の聖書だといいました。第2ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国のことわざ:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断し、前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりもハナニムの造られた自然の世界が一番だというのです。
(20-271, 1968.7.7)


因縁というのは、極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も、400兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。ハナニムの愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、ハナニムの心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば、偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て、天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。
私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、ハナニムの愛と共に存在しているという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子一つにも無尽蔵の宇宙の調和があるのを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分かりませんが、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定できません。分子を経て原子、原子を経て素粒子・・・。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、ハナニムの愛の手を経てできたものであり、必ずハナニムと心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。
(9-168, 1960.5.8)
修道者とは、いかなる人か? 一株の草をつかんでも、「ハナニム!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の修道者だといえます。そのように、その価値をうたい得る人が最高の芸術家だということができます。
様々に存在する万象を見て、ハナニムの様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しめる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表できる人だといえます。そのような人が万物の霊長です。ところが、食べること以外に能のない人が万物の霊長といえるでしょうか。
(9-168, 1960.5.8)
子供たちを見れば、子犬だとか、何かの虫だとか、飛ぶもの、動物といった、動くものを中心に好みます。それはどうしてでしょうか。本来、人はそのようになっているのです。それがどういうことかというと、人間は、自然世界や、この地球の動きを見て興味をもつということです。もちろん相対基準は違うかもしれませんが、それを鑑賞することに人間はおもしろさを感じ、興味をもつのです。そうすることで、自分自身の愛の属性をすべて学ぶのです。
虫たちが生き、昆虫が生き、また動物たちが生きるのを見ると、すべてがつがいになっているのが分かります。このように考えると、自然とは何かというと、人間一人を愛の対象として、相対理想を教育するために展開させた教材、博物館なのです。
(137-211)


ハナニムは宇宙を、被造世界のすべての物を愛する息子、娘が愛の理想を求めていけるように、教材として造りました。それで、すべては相対構造になっています。鉱物も、主体と対象の関係によって作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続することができません。運動せずしては、永続し、存続することができません。それで作用しなければなりません。
人間は、成長しながら自然を見て習得します。「昆虫の世界は、こうなのだなあ」と学ぶのです。月が照らし、星が光る秋の夜にじっと耳を澄ませると、昆虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏として聞こえます。なぜ昆虫たちは、そのように鳴くのでしょうか。それは相手を求めて理想を歌うのです。愛をささやくのです。鳥やその他の動物たちも悲しい声、喜びの声を何で示すかというと、愛という共通分母に従って声を出します。レベルは低く、軸から離れていますが、その軸を中心として平衡線を描きながら回っています。すべての存在は、そのようになっています。
(137-59)
鳥たちの歌には、三つの種類があります。一つは、空腹の信号の歌であり、次は、愛する相手のための歌であり、次は、危険なときの歌があります。それらは、みな異なります。私たち普通の人には分かりませんが、鳥たちの世界では、みな分かるのです。空腹で鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活は、何を中心としているのでしょうか。空腹なのは、一度食事をすれば解決します。だからといって、毎日のように危険な場にいるのでもありません。大部分の歌は何を中心としているかというと、相手と授け受けする関係で、歌が行き来するのです。
(137-211, 1986.1.3)
人間は主体と対象、すなわち相対的なペアとして造られ、また、人間のためにある万物世界も、すべて愛の原理のもとに調和を成し、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の教材であり、愛の神髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。
(135-12, 1985.8.20)
すべての鳥や動物は、つがいになっています。互いに愛を中心として和動します。花とちょうは極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動するようになります。渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいき、地域を越えて愛します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、ハナニムの造った博物館の教材を通じて学びます。
人間とハナニムが好きで愛すれば、天下のすべての万物はそこに調子を合わせて和動します。ハナニムが愛し喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜んで拍手を送り、賛美を送ります。歌を歌える鳥は、歌を歌って賛美し、美しい花は、香りを漂わせて賛美します。


最高の愛の主人公たちが楽しめる雰囲気を拡張するためのものが、この被造世界です。見た目には気持ちの悪いひきがえるも、愛するときには「ウッウッウッ」と言います。どれほど素晴らしいことでしょうか。足を打ちつけて後ろ足を上げたり下げたりしながら愛するその姿は、どんなに素晴らしいことでしょうか。それは最高の芸術です。
(142-273, 1986.3.13)
アダムとエバは成熟するに従って、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ」と分かるようになります。ハナニムは万物世界を、人間の愛の理想を成熟させるための教材として展開しておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って、「ああ、昔は妹のように、兄さんのように暮らしたけれど、こうしてみると・・・」このように感情が変化してくるのです。「ああ、そうか」と学んでいくのです。それで、「お前と私は死んでも会わなければならない。ほかへは行けない」と平衡線で直行しつつ、ぶつかるようになるのです。
(137-59, 1985.12.18)
最初はハナニムの子女として生を受けたアダムとエバも、ハナニムの保護圏内で幼いときから成長するに従って、だんだん大きくなっていくのです。そうして知能が発達するので、ハナニムがなぜ被造世界を造ったのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。
被造世界の動くものすべては、私たち人間始祖、本来の祖先となるべきアダムとエバが生活するためのすべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバではなかったので、理想生活をしていくに当たっての標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。
(137-128, 1986.1.1)

 

④ 自然に対する私たちの姿勢

朝、目を覚まして自然を見れば、その自然が、かすかに私の本性ときずなを結び、新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間の世の中を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情が高まるという事実がよく分かることでしょう。本来、堕落していない本然の人間が住む世の中であれば、人間の価値は、見る人をして悲しみを感じさせるようなものではないのです。一株の草や一輪の花、一本の木と同じぐらいの価値のものとして造られた人間ではないのです。いかなる被造万物とも替えることのできない高貴な人間であり、その何ものとも比較し得ない価値ある姿で、天上に代わって出てくるべき人間でした。
(9-97, 1960.4.24)
ハナニムの愛が宿っている自然を見て、「この世の王、あるいはある有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができようか。骨董品こっとうひんと比べられようか。ある有名な婦人が着ている豪華な服などが比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ、私たちは自然世界の前に、我知らず罪を犯しているのです。


一つの生命体を見て、「人間がつくった、いかなる物と比べられようか。どんなに立派な人でも、ハナニムよりも立派であるはずはない」と、ハナニムが心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。ハナニムのように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。
(9-175, 1960.5.8)
人間は、自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべきハナニムの造られた万物をかわいがらないのです。このような人々がハナニムの息子、娘でしょうか。嘆息する万物のハン解怨かいおんすべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも、6000年前それらを造られたときのハナニムの心情と創造のみ手を体恤たいじゅつしなければなりません。そのような心をもたなければなりません。
それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私は、たくさん泣きました。岩をつかんで泣いたりもし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、みことばを聞いたので、もう理解できるでしょう。
(9-176, 1960.5.8)
「ハナニムが造られた価値ある万物が、ハナニムと永遠の因縁を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で国宝だの宝物だのと、貴く思われている物ほどの扱いも受けていない悲しみを私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければならない」と考えてきました。「この地で暮らす世界人類が誰も分かってあげなかったとしても、私は分かってあげなければ」という思いを皆さんがもったならば、その民族は今後、世界人類を支配し得る新しい民族となることでしょう。これは観念ではなく、事実です。どこの誰が万物を、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物よりも、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドよりも貴く思い、しっかりとつかんで離すまいとするでしょうか。そのような人は、どこにいますか。ハナニムは、御自身が造られたものを心情的に分かってくれて、それにすがって涙する人を見て、「よし、よし」と言われるのです。
(9-176, 1960.5.8)
自然とは何でしょうか。ハナニムが私のために、「ため」に生きる愛をもった息子、娘が生まれたときに、「ため」に生きる万物としてプレゼントとして下さった展示品です。鳥の声一つ、一株の草さえも、愛の息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。道に転がっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知って、その国の装飾品として造られたのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、この上なく調和した和合の園、愛のための世界を見てそれを相続し得る夢の王子、希望の王子とするために創造されたのです。


それゆえ、万物を通して学ぶのです。雄と雌が「チュンチュン」と鳴くときには、これは主人であるおばさんも学べというのです。お互いに「ため」に生きる世界に向かって自分の人生を、命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できなければなりません。そうなれば、その家の垣には、小鳥もやって来てもうとするのです。ひなを産もうとするのです。
(175-187, 1988.4.16)
博物館のある作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に優るでしょうか。ハナニムの作品であるこの地球の万物博物館を、誰がハナニム以上に愛したでしょうか。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。
道端で踏みつけられる一輪のたんぽぽと、博物館にある新羅しらぎ時代の金の冠を比べることができるでしょうか。ハナニムが直接造られたものであるのに。そのようなハナニムの心情をもって、「ハナニムのための本然の王の立場から、愛を受けていたその立場から、お前を愛することのできない私が申し訳ない。恥ずかしい」と言える心をもって「ため」に生きる、そのような王がいたとするならば、一株の草もその王に従って永遠不変に一緒にいたいと思うのです。そのように生きるべき人間なのです。
(175-187, 1988.4.16)

 

⑤ 自然を愛し、人を愛しなさい

自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することのできない人は、ハナニムを愛することができない、ということを知らなければなりません。万物はハナニムの象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛せる人は、ハナニムを愛するようになるのです。
(70-182, 1974.2.9)
いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「私は白人だけがいい」。ハナニムはそう言うでしょうか。それならば、みな白い服だけを着なければなりません。色のついた服は、すべて捨てなければならないのです。黒い服をなぜ着るのですか。色のついた服をなぜ着るのですか。矛盾しています。
(133-30, 1984.7.1)
元素も微生物も、すべて愛の道を行くのです。ハナニムと一体となれる愛と、直接に接し得る細胞を求めていくのです。それが人間です。ですから、愛のためには犠牲にならなければならないのです。
投入しなければなりません。生命と財産をすべて投入した伝統があるがゆえに、低級のものはより高級なところへ、自分のすべてを投入しようとするのです。それゆえ、ダーウィンの進化論ではなく、愛を中心として吸収する論理です。第2の価値的な内容を創造するときに、その創造要素として適用されるならば、今の小さなものとしてよりも、どれほど価値的な内容が上がるかというのです。
(204-129, 1990.7.1)


ハナニムの造られたすべての存在を、愛の対象として感じなければなりません。すべての微生物まで愛し、人はもちろん、天にあるものまですべて、無形のもの、有形のものを愛し得る、愛され得る皆さんにならなければなりません。
朝、鳥が「チュンチュン」鳴くならば、「このすずめめ、ゆっくり寝ようと思ったのにどうして『チュンチュン』鳴くのか」と言うのではなく、「ああ、有り難い。私を起こしに来てくれたんだ。大事なお客さんが私を迎えに来るのを、お前が知らせてくれるのか」と考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。
(112-219, 1981.4.12)
ハナニムは、人間世界を造ると同時に天使世界を造りました。それでは、天使世界は、どのような世界なのか? 人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放ち現れるときに、初めて愛の巣が完成するのです。それゆえすべての生命力は、そこから出発するようになり、すべての生命の因縁をもった存在が、そこから和動できるようになるのです。このように和動できるようになる起源が、正に人間なのです。
そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、ちょうはちのように互いに授け受けることができる和動の主体圏を成すようになれば、それこそハナニムが喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったことでしょう。また、春のうたげが始まったことでしょう。
(31-124, 1970.5.3)


 

第3章 復帰摂理歴史と神観の変遷

   

1) 旧約時代、ハナニムは天使であった

 

① 旧約時代は僕の時代であった

人間が堕落することで無原理圏内に落ちました。どの程度落ちたのでしょうか。ハナニムのしもべである天使にも劣る世界に落ちました。主人となるべき、王子、王女が、僕にも劣る位置に落ちたのですから、再び上がらなければならないのです。
それゆえ僕の僕の道理から始めて、僕の道理、養子、庶子、こうして直系子女まで、次に母を通じてアダム(父)の位置に戻らなければならないのです。復帰です。救いの摂理とは、病気になる前の健康だった基準に再び戻すのと同じです。病んでいなかった位置に戻らなければならないのです。それゆえ、救いの摂理は復帰摂理です。復帰摂理は、いい加減にするものではありません。「とにかく信じれば救われる」、そのようにはなっていません。
(222-144, 1991.11.3)

 

人間は、堕落しましたが、ハナニムに背くことはできないので、僕の僕の立場から上がっていかなければなりません。それでは、「僕の僕」というのは何を意味しているのでしょうか。主人がいないということです。堕落した人間は、「僕の僕」の立場からハナニムに忠誠を尽くさなければなりません。サタンは天使長だったのであり、ハナニムの僕でした。その僕の前に引かれていった人間なので、人間がハナニムの前に戻ってくるには、「僕の僕」の立場からハナニムの前に忠誠を尽くしたという基準を立てなければならないのです。
(17-73, 1966.11.12)

 

旧約時代は祭物を犠牲にして、ハナニムが僕として使える人を探し求める時代です。これが旧約の歴史です。人を失ったので反対になったのです。
人が万物よりも低くなりました。人が万物よりも悪くなったので、ハナニムの前により近い万物を二つに裂いて、お前の所有物、私の所有物として分けたのです。このように分別的な祭物を立てなければならなかったのは、誰のせいかというと、ハナニムのせいではなく、サタンのせいでもありません。人間が責任分担を果たせなかったからです。それを知らなければなりません。サタンの血統を受け継いだのは、人間が責任分担を果たせなかったからなのです。
(136-228, 1985.12.29)


摂理的に見ると、旧約時代前、ヤコブ以前は僕の僕の時代であり、ヤコブからイエス様までは僕の時代であり、イエス様以後は養子の時代であり、再臨の時期は息子の時代です。息子の時代が来るので、息子に父母がいなければなりません。それゆえ父母の時代を経て、ハナニムのもとに帰るのです。
(74-121, 1974.11.25)

 

旧約時代は、僕の時代でした。僕の僕の位置にいる人間を僕の位置に復帰してくる時代でした。それゆえ、アブラハムも僕であり、息子にはなれませんでした。ハナニムは僕の僕を立てて、忠誠の道理を立てられました。そして、この歴史的な世界人類を引っ張って糾合させ、世界的な悪の舞台を天の側に占領しつつ、ハナニムの摂理を発展させてきたのです。
ヤコブも、ハナニムの息子として勝利したのではなく、僕の立場で勝利したのです。ハナニムがこのように僕の僕から、僕の位置に復帰し、僕の位置から養子の位置へと復帰しながら摂理してこられたのです。
(15-325, 1965.12.7)

 

歴史的な復帰路程を総括的に見ると、ハナニムは今まで蘇生そせい、長成、完成の3段階を通して摂理してこられたことが分かります。旧約時代の僕の時代、新約時代の養子の時代、成約時代のまことの子女の時代を越えて、真の父母の時代になる復帰路程なのです。
旧約時代の全人類に対する救いの摂理は、僕の立場での救いでした。それゆえこの時代は、初めから終わりまで残って勝利し得る中心を立てなければ、僕としての復帰基台を立てることができませんでした。それゆえハナニムは、ノアやアブラハムなどの中心人物を立てて4000年という歴史を導いてきながら、多くの犠牲を払われました。
(15-49, 1965.2.7)

 

旧約時代は何をしたのでしょうか。この世がサタン世界となったので、万物を犠牲にして天の側の人を立て、僕を探しました。ハナニムの僕、養子を探すこともできません。僕の僕を探し出すのです。
サタン世界の人々はみんなサタンの息子、娘となっているのに、それを奪ってくることができるでしょうか。ですからサタン世界で希望を失った人を集め、引っ張ってくるのです。惨めですが廃品を収拾してきます。廃品を収拾してくるので、そのままではできません。犠牲にならなければなりません。祭物の過程を経なければなりません。
(136-222, 1985.12.29)

 

天はサタン世界の僕にも劣る人間を連れてきて、ハナニムの世界の僕の僕にしようというのです。それが旧約の役事です。ヤコブエサウを闘わせたのも、それです。
ノアもそれです。遠い異国に連れていき、隔離された位置、疲れ果てる所に、天はサタン世界の僕の僕を連れてきて、ハナニムの僕にするのです。
(154-334, 1964.10.5)


サタンは、人間を怨讐おんしゅうのように扱います。人間は、サタンの僕にもなれません。このような人間をハナニムの僕にする役事をしたのが旧約時代です。ここから再び僕を養子に、養子を直系子女に、子女を兄弟に、兄弟を新郎新婦として祝福し、真の父母の位置にまで行くようにしようというのです。ハナニムを中心とした真の家庭を失ったので、これを取り戻すのが復帰です。イエス様を真の父母の位置に登場させるのが、「小羊の婚宴」です。
(12-29, 1962.7.15)

 

ハナニムは、僕を立て、「私がお前の父だ」と教えてあげました。僕を遣わし、天使を遣わして教えてあげました。そのような時代が旧約時代です。次に、息子に役事をさせました。その時代が新約時代です。その次は、聖神聖霊)に役事をさせてきました。
(10-197, 1960.10.2)

 

今までハナニムの願いは、人間が万物と因縁を結び、ハナニムと因縁を結ぶことでした。それゆえハナニムは、堕落した人間を僕の立場から始めて養子の位置を経させ、子女の位置、そして父母の位置まで引っ張り上げるということをしてこられました。それは、嘆かわしい堕落の因縁を切り捨て、万物と人間とハナニムが一体の因縁を結び、ハナニムの喜びが人間の喜びであり、人間の喜びが万物の喜びになるようにしようというのです。ハナニムは、息子、娘のために生き、息子、娘を万物世界と天使世界にまで誇り、見せてあげたかったのです。
(11-279, 1962.1.3)

 

考えてみてください。旧約時代は、イエス様が来るまでの4000年です。当時、「祝福」という言葉がありましたか。ハナニムの名で家庭を祝福することができましたか。僕の時代だったので、僕である天使長圏内にいるのです。天使長は、結婚することができないのです。独身生活をしなければなりません。ハナニムが家庭をもつことができず、ハナニムの息子、娘が結婚できないのに、僕が結婚することができますか。できないのです。
(90-97, 1976.12.19)

 

② 旧約時代は天使がハナニムに代わって役事した

ハナニムは、汚された地を再び回復しようと、天使たちを通じて人間と関係を結ぶ救いの摂理をしてこられました。堕落によってハナニムに背いた立場にいる人間、万物とも比べられないほどに落ちに落ちた人間に、ハナニムが再び対するために救いの摂理をしてこられたのです。
サタンが支配し、サタンが讒訴ざんそする人間をハナニムが主管するために、橋を架けて役事してこられたことが、旧約時代を経て、新約時代を経て、今にまで来ています。
(1-282, 1956.12.16)

 

旧約時代には本来、ハナニムが直々に役事しなければならず、ハナニムの栄光で人間に対すべき時代でした。ところが堕落によって摂理が完成しなかったので、悲しみを抱き、第2次として天使を通じて人間に対する道を開拓してきたのが旧約時代なのです。ハナニムは、天使に役事させる基準を立てられました。天使も神的な存在なので、イエス様が来るまでの方便として人間にハナニムのように現れ、仲保の使命をなしたのです。
(1-283, 1956.12.16)


旧約時代を見ると、天使たちを御使みつかいとして立て、ハナニムの自由の園、解放の天国を建設してきました。しもべの立場からハナニムの息子へと解放される恩賜おんし圏に入るには、命を失っても喜ぶことができなければなりません。そのような自由の心情をもった人だけが、僕の位置を越え、息子の位置を取り戻して入っていくことができます。
(4-321, 1958.10.12)

 

皆さん、聖書を見てください。ハナニムは今まで霊界にいる天使長に、息子に、聖神聖霊)に役事をさせてきました。ハナニムが直接心情を接続させる役事ではありませんでした。旧約時代は、天使に役事させ、新約時代は、息子に役事をさせました。旧約時代は、天的に見ると、民を収拾するための時代であり、新約時代は、子女を収拾するための時代でした。
(10-170, 1960.9.25)

 

皆さん、見てください。イスラエル民族を立てるために、天上世界の天使たちが来て働きました。僕が来て働きました。次に、息子が来て働きました。今は、父が来ます。皆さん、来たるべき主は、父として来られます。まことの父母として来られ、真の子女を率いて愛するのですが、その時にはどうなるでしょうか。皆さんは、一人を前にしても夜を明かすことでしょう。
ハナニムは、アブラハム一人を堕落した世界の全人類以上に愛し、モーセ一人を全人類以上に愛し、イエス様一人を全人類以上に愛されました。それゆえ皆さんは、ハナニムの愛する息子、娘の一人がどれほど貴いかを知らなければなりません。
(10-354, 1960.11.27)

 

アブラハムに現れた主なる神も、天使の姿で現れました。本来、ハナニムは無形のハナニムであり、目に見えないハナニムなのですが、創世記では3人がハナニムとして現れ、2人はソドム、ゴモラの審判をするために行き、残る1人はハナニムとなってアブラハムと対話する場面が出てきます(創世記18:1~18)。しかし、彼らもハナニムの遣わした天使であり、天使を立てて方便としてハナニムのように摂理されたのです。それを知らなかったのです。
ヤコブが21年間修道して、1日の願いを成し遂げるためにセイルの地、兄のいる故郷の山河を訪ねていくのですが、21年間、その1日を待ちわびていたのですから、ハナニムは喜んで「行きなさい、行きなさい」と言うべきなのに、天使を遣わしヤボク川で、「おい、こいつ!」と闘いをさせたのです。ここで天使に負ければ、21年間の苦労が水の泡になるのです。それでヤコブが天使にしがみつき、「勝つまでは離さない」と言ったのです。「腕が折れても離せない」と言ったのです。どんなに執念深いでしょうか。
(51-344, 1971.12.5)


イサクの手を通じて祝福してくださったハナニム、すべてを捨てて故郷に帰るように命じたハナニムが、ヤコブの行く道を案内し、平坦へいたんにしてやることができず、さらには、ヤボク川で夜を徹し、切ない思いで天に訴えるヤコブに勧告のみことばを下さるどころか、むしろ天使を遣わしてヤコブを打たせるという、こんな非情な環境を準備されたのです。
(3-334, 1958.2.9)

 

旧約時代に生まれて死んでいった私たちの信仰の先祖たちは、どのような人々だったのか? ハナニムが無形のハナニムで現れても分からないので、ハナニムの形状として、ハナニムに代わって、その時代時代に合うように、その歴史の因縁を再現し、因縁を結ぶために送られた人々でした。それゆえ、私たちがハナニムの養子の位置にまで上がるためには、多くの人の歴史的因縁を連結して、個人的な世界代表、家庭的な世界代表、また、宗族的な世界代表、民族的な世界代表、国家的な世界代表、このような多くの数を経て、終着点を代表する一つの代表者として、すべて結束させなければならないのです。
(77-132, 1975.4.6)

 

③ 天使がなぜ人間の救いに加担するのか

天使は、いかなる存在か? しもべの立場でハナニムの前に忠誠の道理を尽くし、アダムとエバの囲いとなってあげるべき存在です。万世に、天の世界に、栄光の雰囲気をつくり、ハナニムの愛を中心としてアダムとエバと共に幸福に暮らすべきだったのです。言い換えれば、天使長は、アダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバの父であるハナニムが天使を創造した目的は、アダムとエバのためだったのです。
(15-238, 1965.10.17)

 

天使長が堕落して、アダムとエバが人類世界をこのようにめちゃくちゃにしたので、天使がその仕事を代行しているというのです。したがって、天使世界がサタンと対決しているというのです。悪なるサタンと善なる天使が対決しているのです。その闘いで善なる天使側が勝利してこそ、一歩前進するのです。ハナニムの思いどおりにすることができないというのです。原理がそうだというのです。
(109-18, 1980.10.26)

 

ハナニムは、堕落していないアダムとエバの前に、僕として3人の天使長を造りました。誰にアダムとエバを保育させ、保護して育てさせたかというと、天使長に任せました。なぜそうしなければならないのでしょうか。主体と対象の関係です。地上が主体で天使世界が相対となる、主体者と対象的な関係だからです。二重的な環境を中心として、ハナニムのまことの愛の前に平衡的な相対圏を拡大させることが、天上天下を創造したハナニムの理想だったのです。
(208-256, 1990.11.20)

 

アダムは誰が教育しなければならないのでしょうか。ハナニムが教育するのではありません。天使長たちが教育しなければなりません。保護育成しなければなりません。結婚する時まで大切に、傷がつかないように管理し、指導して教育すべき責任が天使長にあったのです。その原則に統一教会も従わなければ、蕩減とうげん復帰が完成できないので、私は36家庭を立てて自分の息子以上に愛しました。
(121-240, 1982.10.27)


ハナニムは、生命の母体です。父母は、その子供の生命を育ててくれるというのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれ、育ててくれ、愛してくれるというのです。それゆえ、幸福はどこから出てくるのでしょうか。保護圏が成立しなければ、命が危機にさらされるのです。命が危機にさらされると、愛も成立しないのです。今死ぬというのに愛が成立するでしょうか。できないのです。
それゆえに、保護圏がなければならないのです。それで保護圏を造りましたが、保護するのは誰かというと、天使長だというのです。アダムとエバは、生命の起源であられるハナニムから生命を受け、天使長の保護を受け、愛の教育を受けている途中だったのです。
(51-173, 1971.11.21)

 

2) 主なる神の正体

 

① 主なる神の属性

モーセが愛のハナニムを紹介することができず、全能のハナニム、能力のハナニム、審判のハナニムを紹介した理由は、イスラエルの民に律法を与え、律法によって天の民を保育するためであり、乳とみつの流れるカナンの地に連れていくための復帰のみ旨を成就することに、その目的があったということを知らなければなりません。
(35-276, 1970.10.25)

 

乳と蜜の流れるカナンは、荒野で十戒と律法を受け、契約の箱を担いだ、生まれ変わった人だけが行く所です。ハナニムは、出エジプトをしたイスラエル民族に、ハナニムの民として再創造するためのみことばを下さったのですが、彼らがみ言どおりに行わなければ、むちで打ち、怖い刑罰を加える恐ろしい神として現れたのです。
サタンが王になっていた旧約時代は、メシヤが現れるまで悪魔が権勢を握る時代なのです。モーセにとって主なる神は、恐ろしい恐怖の神、復讐ふくしゅうの神、嫉妬しっとの神として現れ、罪あるしもべとなった人間を律法でむち打ち、法度に反すれば容赦なく刑罰を加えた時代が旧約時代です。
旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として、自分以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬されるハナニムであり、イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍なハナニムであり、律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲なハナニムです。宇宙を創造された愛のハナニムであるのに、このように嫉妬と、復讐と、恐怖心と、カナン七族を無慈悲にも滅ぼすという、このような性稟せいひんがあっていいのでしょうか。旧約時代は、天使が仲保となってハナニムに代わった時代だからです。