八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-4

八大教材教本 天聖経(2012年版)p152-194

【天啓の御言】(1-4)

 


6) ハナニムの解怨成就と孝子の道

 

① 真のお父様が歩んで来られた復帰の道

ハナニムのみ旨を成し遂げてさしあげようと決意したことを、私はよく知っています。ハナニムの愛がこのようなものであるということを知り、ひざまずいて感謝し、許しの道を行かなければならないということをよく知っている人物です。血が吹き出しても解放の道を行かざるを得ない恨みのハナニムだ、ということを知る者はいません。
私は拷問を受け、倒れそうな立場にあってもハナニムの前に祈祷をしませんでした。私は追い回されましたが、私を助けてくださいと、ハナニムの前に私の行く手を守ってくださいと、私を救ってくださいと祈祷するような人ではありません。
私は、男としての自分の余力をもっており、自分の気概をもっており、闘える自力をもっている人間です。私の力が足りなくて意識を失い倒れたならば助けてくださるであろうから、それまでは自分の力で・・・。私が行く前に、ハナニムが先に準備して待っていることを知っているのです。
(138-358, 1986.1.24)
統一教会にハナニムがいらっしゃいます。もしも私が、「あいつ!」と憤りをこらえられずに、口をつぐんで「今に見てろ。何ヵ月か経てば分かる!」と考えるなら、めちゃくちゃになるのです。それを見ると不思議です。ですから私は、歯を食いしばって我慢するのです。私の口でのろうことはできません。まことの父母の名をもった私が自分の口でのろうことができずに、唇をかんでいても、その怨恨えんこんをすべて天が解いてくださるのです。それを見ると、ハナニムに愛されているようですか。
(162-205, 1987.4.12)
主人としての国権をもち、アジアの5000年文化を誇り得る白衣の単一民族の権威をもち、主権国家の大統領となり、国会議員となった人は、一人としていないのではないでしょうか。解放後に。私はそのような国会議員を立て、そのような大統領を立てようと考えています。これは私一人の願いにとどまるのではなく、ハナニムがそれを願っていらっしゃることを知らなければなりません。そうなったとき、アジアは私たちの手中に収まるのです。世界は、私の指示どおりに、ハナニムの目指されるところに向かわなければなりません。それは、間違いないことだと信じてください。
(171-190)
恨みの種を抱いている私に、安息というものがどこにあるでしょうか。行く道は急がれているのです。千年史をすべて解いていかなければならない道は、忙しいのです。私は40年の生涯、涙の道を逃れられない歩みをしてきた人物です。今も同じです。北の地がハナニムの新しい愛の園を迎え、そこにハナニムをたたえられる若者たちの芽が出なければならないのに・・・。ハナニムに背いた芽として染まっているのを御覧になり、ハナニムは顔をそむけられたのですが、その顔を振り向かせることができるようにしなければなりません。


私がハナニムに侍り、それを再び正常に回復しようという思想をもっているので、そのようなことを共産世界も有り難く思うのであり、民主世界はそれ以上に有り難く思うことでしょう。そこを目指して前進すべし!
(173-116)
西大門ソデムン刑務所で、ある女性伝道師が統一教会に死を覚悟して通っていたのに、私が取り立ててあげないので出ていって、「ざまあみろ。ハナニムの息子があのざまだ」と言いました。私は、「監獄で消えるような男ではない。私は解放の世界に向けて跳躍するであろう」と言いました。その人の顔が忘れられません。以前、悲惨に死んだというのを聞き、かわいそうに思いました。私は、そのように生きている人なのです。
五大主権者が私にどのように対したか、よく知っています。しかし、知らないふりをします。復讐ふくしゅうしようとはしません。知らないからです。私が一度会って教えてやらなければならないのです。すべて話してから清算しなければならないのです。
(204-118, 1990.7.1)
先生自身は、この地に来るときに、いかなる立場に立つのか? ハナニムの恨みの心情が残された息子として完成した愛で愛することができなかったこと、兄弟として完成した愛で愛することができなかったこと、夫婦として完成した愛で愛することができなかったこと、父母として完成した愛で愛することができなかったことを、愛することによってそのハンの峠を蕩減とうげんして解いてあげる立場に立っているのです。
(234-140, 1992.8.10)
利他的なものでなければなりません。ハナニムが利他的な創造理想を中心として投入、投入、投入して真の愛を繁殖するようになっているのです。こうすることによって天下をカバーして、本郷の地へと帰らなければならないのです。帰る時には、怨讐おんしゅうだからといって足でけ飛ばすのではありません。これを愛することによって自然屈服させなければならないのです。自然屈服しなければ、ハナニムは定着することができません。私が手段、方法を使えば誰にも負けません。しかし、それを知っているがゆえに耐えてきたのです。火のような性格で今まで40年我慢するのは、どれほど大変だったでしょうか。ハナニムは私以上であろうに、いかばかりのことでしょうか。
(219-93, 1991.8.25)
私が後ろを振り返ってみると、ハナニムが私を抱き締めながら涙を流されたことがあります。「あなたは、私の愛の中心です。私は、あなたに服従します。あなたに絶対に従っていきます」と祈りつつ、振り返ると、そのように私を抱き締められるのです。その立場はどれほど偉大な立場でしょうか。
ハナニムが私に、そのようなハナニムの立場を与えてくださるように、今私も、それと同じハナニムの立場を皆さんに与えるのです。
(215-341, 1991.3.1)
歴史を振り返ってみるとき、40年前、先生は国に追われ、既成教会に追われ、すべてに追われ、荒野に追い出された孤児のような立場にありました。このような立場から歴史的な基準を再び取り戻し、世界的な版図をつくらなければならないみ旨を前にして、このみ旨を成し遂げなければならない先生の立場は、どんなに悲惨であったことでしょうか。第二次世界大戦以後に、神側として確定しておいた勝利的キリスト教文化圏と、自由世界を統治するアメリカの基盤をすべて失ってしまった立場だったのです。主人となった立場からこれを失ってしまった悲痛さと、再び40年を蕩減復帰しなければならないことを考えざるを得ませんでした。


ハナニムが有史以来、何十万、何百万年をかけても成し遂げることができなかった人類歴史を、終結させることができるという事実をはっきりと知っていた立場から見るとき、どれほど悲痛だったでしょうか。
(135-187, 1985.11.13)
私は、雨が降り、雪が降るのも知らずに、夜を早朝のように感じながら、食事をするのも忘れて、このようなことをしてきた人です。安楽に考えることができません。ハナニムを知っているからです。ハナニムを知った罪、誰よりも悲痛なハナニムであることを知ったがゆえに、私という一身がばらばらに裂かれることがあったとしても、粉になって吹き飛ばされることがあったとしても、この飛んでいく細胞はハナニムの一点の細胞であると泣き叫ぶことができるならば、男として生まれ、価値のある死だといいながら、死の道を訪ね、もがいているのです。もがいて滅びると思い、なくなると思っていると、このようになりました。
(137-178, 1986.1.1)
天と地にしみ込んだ恨みがどれほど大きいかを知っているがゆえに、血を吐く立場にあってもハナニムを慰めなければならないのです。「私は死にそうです、ハナニム、助けてください」という祈祷ができない真の父母の立場に立たねばならない悲痛な事情を、誰が知っているでしょうか。知る人は、誰一人いません。唯一ハナニムだけが、ハナニムだけが御存じでした。
いくら統一教会に従う人が多いとしても、レバレンド・ムーンの思想に一つとなっていません。このようなことを皆さんは知らなければなりません。統一家というものは、今日、解放圏に立った統一家は、安っぽいものではありません。祝福を受けたという者たちが動くその挙動が今日、悪魔のいとこの立場に立っているということを私は知っています。
(145-332, 1986.6.1)
「私の闘いがまだ足らなくて、私が涙を流す資格が足らないと感じ、私が悲しめばお父様が涙されることを案じながら、私が打たれて耐え難い悲痛な立場に立てば、天が悲惨な立場に立つのではないかと案じる私の悲痛さは何でもありません。私の苦痛は何でもなく、私の悲しみは何でもありません」と歯を食いしばって私が涙をこぼせば、天が涙をこぼすのではないかと案じ、泣き叫んで怨讐に報いる途上に立ち、先鋒せんぽうの将として勝利の旗を掲げて勇み立つ勇士がいるとするならば、その勇士の前にハナニムは100倍謝礼するのです。「お前の名を忠臣としようか、お前の名を孝子としようか、お前の名を烈女としようか。地上の歴史上に、いかなる尊い者がいたとしても、お前ほど尊い者はいないであろう」と、ハナニム御自身が頭を下げて謝礼されるのです。
(153-269, 1964.3.26)


私、ムン総裁は、今まで個人的に孤独な道を歩んできた人です。孤独でも、誰よりもハナニムをよく知っている人です。歴史時代に、孤独な立場で悲痛なハナニムの心情を中心としてそれを呪いつつ、「自分に恵みを与えてくれ」と言う人は多くいますが、私はそのようには考えません。「ハナニム、心配しないでください」と言いました。そこが違うのです。私は、個人的な試練ゆえに後退するような男ではありません。
世界の試練を越え、ハナニムを解放して死のうという男が、個人的な過程で降伏することはできません。卑怯者ひきょうものにはなれません。自分の妻が反対しても、切ってしまったのです。子が反対しても切り、父母が反対しても切り、国が反対し、4000万、6000万が反対する道を歩んだ人です。
(175-257, 1988.4.24)
時間が余りにも足りないのです。一生においてこれを直し、満たすためには時間がないのです。先生の生涯がそうなのです。ですから世俗的に見れば、先生の生涯はかわいそうなものです。ハナニムに、「先生は、どのようなお方ですか」と聞いてみてください。先生は、痛哭つうこくするしかない痛みを感じながら、心臓をえぐり出すような痛みをもって身もだえするような悲痛さを体恤たいじゅつしています。
先生は、地上では悲惨な男です。そのような苦労を誰も知りません。みな、「自分は立派な人だ」と偉そうに威張っているだけで、先生の苦労を知りません。お母様も知りません。
(213-278, 1990.1.21)
ハナニムが6000年間苦労して残された功績をすべて失い、興南フンナム収容所へ行った先生の悲痛な事情を皆さんは知りません。故郷を離れることが問題ではありません。妻子が問題ではありません。天と地の未来の希望として解放の民族が、私を歓迎しようとしていたその群れが、雲の中の地獄へと消えていく、暗黒世界に去っていくのを見て、痛哭しながら「再び会おう」と叫んだのがきのうのことのようです。「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を歩み、光明の朝日を抱き、お前たちを再び探し出して解放しよう」と宣言したのがきのうのことのようです。手錠をかけられ、叫んだその声を、忘れることはありませんでした。困難なとき、いつも祈祷した、その姿を忘れることができません。
(220-205, 1991.10.19)
「ハナニム、あなたはこのようなお方ですね。私の知っているハナニムはこのようなお方です」と言うと、ハナニムは手を握って痛哭し、「お前にはそれが分かったのか。我が息子よ」と言うことになります。その言葉を聞けば、ハナニムは痛哭されるのです。大声で痛哭されるその声は、どれほど大きいでしょうか。その因縁は1000年歴史に延長させられないことをハナニムは知っているので、涙をふき、痛哭をやめて、「我が息子よ」と言われるのです。それができる息子が必要であり、娘が必要なハナニムの立場を知らなければなりません。
(176-263, 1988.5.11)


「私はハナニムの真の勇士となろう。ハナニムのための戦場がどんなに悲惨であろうとも、私はその前線に参与しよう」というのが先生の精神です。いくら世界の迫害が押し寄せても、孤独単身で迫害を受ける立場、苦痛の立場にあっても私は、ハナニムに一度も不平を言ったことがありません。これがレバレンド・ムーンの誇りです。
(193-73, 1989.8.20)
絶対的にハナニムを信じなさい。左にも信じることができず、右にも信じることができず、東西南北、前後左右、全部信じることができなくても、絶対的に信じてみれば、中央線に行くのです。絶対的に信じれば、一つの位置を求めていくのです。絶対的な位置、ハナニムがいらっしゃる所を求めていくのです。そこから、すべてが解かれるのです。
それゆえに、信仰には独裁性があるのです。話し合うことができません。ねじれているので、強制的にでも角度を合わせなければなりません。ですからハナニムがどれほど苦痛で、私たち人類がどれほど苦痛なことでしょうか。
(188-225, 1989.2.26)

 

② ハナニムの解放のための生涯

私が悔しいとすれば、どれほど悔しいでしょうか。歴史上で私以上に悔しい人はいないでしょう。「痛哭つうこくせよ」と言うとき、私以上に痛哭する人はいません。この地上で1000年歴史を抱き、失った悲しみを抱き、ムン総裁が心から流れ出るハナニムの心情を感じながら痛哭する、その痛哭には及びません。そのような根の上に意地を張って座り、そこで自分がよく食べ、楽に暮らすのですか。そのような者が倒れて死ねば、その死体は犬も食いません。
(180-50, 1988.8.20)
いつも気分の良い男の姿をして困難な蕩減とうげんの峠を平気で越え、ハナニムに侍り続け、ハナニムを慰労しながら峠を越えなければ、平和の地上天国はできません。その代表者、公的な人は孤独な人です。ある一人の人が立ち上がり、「文先生はこのようなことをされ・・・」と一言言えば、先生は痛哭する心情をもっています。
年を取って涙がかれる70のおじいさんなのに、誰もその悲しみの涙が流れるのを止められない寂しさをもっています。そのような父母がいる、ということを忘れてはなりません。
(183-86, 1988.10.29)
皆さん、考えてみてください。私は、監獄生活をたくさんしました。5年以上監獄生活をしましたが、雨が降って軒先から落ちる水滴が岩に穴を開けるということを思い、「私の愛の涙の粒が、ハナニムの胸の中にしこりとなったハンの岩を貫通することができるならば、そうできれば・・・」と思いながら、その水滴を見て痛哭つうこくした事情が皆さんには分からないことでしょう。流れていく水を見て、この水の流れが、ハナニムをお迎えし、ハナニムが沐浴もくよくできる澄んだ水の流れとなったら、どれほど良いでしょうか。そのような愛の巣、安息所を、人間としてハナニムに準備してさしあげられる子となったら、どれほど良いでしょうか。そのような心情の深い世界を皆さんが体験できないとすれば、ハナニムと関係がないのです。
(185-45, 1989.1.1)


憤りをどれほど堪えてきたことか知れません。息が詰まり、この五官すべてが一度に詰まって痛哭したことが、どれほどたくさんあったことでしょうか。皆さんに会うためではありません。人類の主権者たちを屈服させるためです。棍棒こんぼうや銃剣によってではありません。愛の血統を通して彼らを感化し、自然屈服させなければ、天地にハナニムの願う平和の園ができません。平和の王国建設は不可能です。
(197-348, 1990.1.20)
この世で生きるのに、どれほど困難なことが多いでしょうか。きょう歩いていて、どうなるか分かりません。その恐怖の環境から抜け出すことができない、かわいそうな人生です。この恐怖の環境と混乱の中に立っている私に教えてくれる師は、誰でしょうか。師がいません。ここに立っている私は、そのような問題のゆえに痛哭し、身もだえしました。ハナニムがいらっしゃるならば、なぜ師の役目を果たせないのでしょうか。知ってみれば、ハナニムは愛を原則とした師だったのです。これを知らずにハナニムを恨みました。愛を中心とした師なのです。
(203-228, 1990.6.26)
最近、疲れて夕方に帰ってきて、しばらく横になってから起きて顔を洗い、ひげを剃ったところ、それを見て、「朝でもないのに顔を洗い、髭を剃るなんて、どうしたのですか」、そうしながら笑うのではありません。そのように暮らしているのです。
心は一つです。精誠も一つです。先生がどのような方かと、ハナニムに祈祷してみてください。痛哭されます。舌が出て戻らないほど痛哭されるのです。そのような事情をもって暮らす先生であることを知らなければなりません。
(221-163, 1991.10.23)
堕落した人間の側では救世主ですが、ハナニムの側から見れば、初めに失った真の愛の創造理想を完成する真の息子であり、真の父母です。救世主は、堕落によってもたらされたハナニムの恨を解いてさしあげるため、生涯を捧げて犠牲の道を開拓してきた方です。栄光としてだけいらっしゃるお方ではありません。常にハナニムの心情と共に痛哭し、サタンを屈服させるために心を痛め、気をもむお方です。
(232-225, 1992.7.7)
誰のハナニムにするのですか。アメリカのハナニムにするのですか、大韓民国のハナニムにするのですか。私のハナニムにするのですか。どれですか。欲張りですね。私のハナニムにするには、民族以上にハナニムのために努力すべきです。ハナニムが文総裁を好きだとしても、文総裁以上のことをすれば、ハナニムは間違いなく文総裁以上に皆さんを好きになることでしょう。それは間違いない公式ではないですか。そこには異議がありません。私は、私以上にハナニムを慰め、ハナニムのみ旨のためにより奉仕をし、功労を立てられる人を求めるのです。もし自分より劣る人を望むとすれば、それは独裁者です。
(184-224, 1989.1.1)


ラソンの選手がスタートラインから80パーセントの所まで来たところで、100メートル、1000メートル差をつけているとすればどうしますか。そこで転べばおしまいです。マラソンのチャンピオンが走るときに観衆は、「ゆっくり走れ」と言うでしょうか。「速く走れ、速く」と倒れるまでそう言うことでしょう。同じです。記録を作らなければなりません。レバレンド・ムーンが最高記録をもっていてこそ、ハナニムが最高の賞を下さるときに、堂々と受け取ることができるのです。その時まで、その時まで押すのです。
(230-186, 1992.5.3)
出発において誤ったのです。あきれて言葉が出ません。出生しゅっしょうにおいて過ちがあったことは、大きくなって分かったのですが、養子といっても乞食こじきの中から、孤児院から乞食を連れてきて育てたというのです。これは、乞食よりもっとひどいのです。幼いときは自分の両親だと思っていたのに、大きくなってから自分が乞食の息子だったということが分かったのです。乞食の出だということが分かれば、その家はどうなるでしょうか。ひっくり返らなければなりません。痛哭してひっくり返らなければならないのです。
育ててくれた両親を自分の本当の両親だと思っていたのに、孤児院で育った息子だという事実を知ったならば、どれほど驚くでしょうか。私たち人間世界でも、これほど大変なことなのに、天はそれ以上なのです。ハナニムの王権、天国の王宮の皇太子が野良犬と関係をもって、このようになるとは。地獄の王になるとは。
(216-107, 1991.3.9)
文総裁と統一教会の夫婦の理念は、ハナニムの血統を受け継いで生まれた息子、娘として千年、万年、永遠の父母に侍り、永遠に我が息子、我が娘とたたえられる息子の資格、娘の資格をもつことです。その立場を通過してこそ、ハナニムの心の中に残っている堕落の傷を解くことができるのです。
そのようにハナニムにすがり、「お父様、どれほど苦労されましたか」と言えば、その一言にハナニムが痛哭をするのです。胸が張り裂けるほど痛哭せざるを得ないのです。「ありがとう、私が数千年の歴史をこのようにしてきた」と言うのです。人類創造歴史が何千万年です。6000年ではありません。それを聖書では文化史を中心としていっているのであり、救いの摂理に着手するためのみ旨を中心としていえば、事実、何千万年にもなるのです。
(232-138, 1992.7.3)
自分の欲心を中心として統一教会を利用しようという人、ありとあらゆることをした人を歴史上見かけても、知っていてもだまされたふりをしてあげました。なぜだまされてあげるのでしょうか。ハナニムが今まで、そのようにしてだまされてきました。裏切り、背を向ける姿を見るたびにあきれ驚き、「あいつ、雷を落として首を、日本刀があったら一気に首を落としてやりたい」という憤慨と悔しい思いが爆発するのですが、彼らが帰ってくることを願っている天の心があることを思うと、そうはできないのです。
かわいそうなハナニムにすがり、許そうという心をもってくると、そのたびにふしができます。分かりますか。統一教会の一つの節ができるのです。竹に節があるように、節ができるのです。そうして家庭的節目、宗族的節目、民族的節目を刻んでいくのです。
(197-312, 1990.1.20)


歴史的な師が生きてきた苦痛、ハナニムの歴史的な苦痛を流し去ってしまってはならないのです。私の心の深い愛を大切にしまい、あの世に行って出会えば首を抱いて、「あなたが悲しかった事情をみな知り、その度数に合わせて生きようとしましたが、及びませんでした。これを許してください」と言いながら涙をのんで痛哭する心が先立つときは、ハナニムにすがって痛哭するとしても、ハナニムも共に泣きながらかき抱いてくださるのです。そのような日をもてずしては解放できない、と考えている人です。妻の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばず、父母の愛がどんなに大きいとしてもその立場に及ばないのです。それを知っているので、解放のためによそ見も、寄り道もできずに歩んできたのです。
(184-246, 1989.1.1)
また会うときまで昼夜を分かたず、御飯が食べたければ先生のことを思い、御飯を食べないでみ旨のために先生がしていることをしなければならず、眠たくなったら眠らない先生を思ってみ旨のために闘っていかなければなりません。非難を受けながらも弁解せずに忍耐してきた師を考えなければなりません。それ以上の心をもち、あすの勝利に対する欲望をもち、自然屈服する怨讐おんしゅうの群れを見るために自らの実績をもって行こうという心をもたなければなりません。そうした努力をしてこそ、皆さんが生きる道があり、この民族が生きることができるのです。
(82-48, 1975.12.30)
ある時には、(ある食口シックが)死刑宣告を受けたという連絡を受けたこともありました。そのような時に、統一教会の教主であるこの私が、どうして涙なしに夜を明かすことができるでしょうか。哀れにも私という人を知らなかったならば、そんなことにはならなかったのに。国境を越えに越え、一度も会ったこともない師に従って歩み、最後に東方の韓国に向かって、「私は行きます」と両手を合わせて祈り、最後の道を行く彼らを、かき抱いてあげることもできず、助けてあげることができない心情を、皆さんは分かりますか。悪魔の前に受難を受け、苦痛を受けて捕虜となっている彼らを哀れに思う天の心情を知りながらも、昼夜を分かたず前進しなければならないと追い立てたのです。
(201-152, 1990.3.30)
私は、統一教会の教主になろうとは夢にも思いませんでした。今もそうです。私は、教主という観念をもっていません。平民なのです。きょうも背広を着ずに、ネクタイも結びませんでした。一つでも不足な装いをしてこそ気持ちが楽なのです。なぜでしょうか。統一教会の食口たちは全世界に広まって、この時間にも雨降る軒下でぬれた服を着て先生を慕いながら、「先生が御安泰であられるように」と敬拝していることを知っているからです。福を祈っている立場を蹂躙じゅうりんしてはなりません。
それで目さえ開けば眠れずに、このような罪人のような教主の生活をしているのです。それゆえに、統一教会の教会員たちが文総裁を無視できないのです。
(197-162, 1990.1.13)


 

第2巻 真の父母

 

第1章 「真の父母」とは

 

1) 「真の父母」という言葉の意味

我々統一教会員が平素使う言葉の中に、「真の父母」という言葉があります。それは簡単な言葉ですが、その内容は実に驚くべきものです。歴史始まって以来、どの本にもありません。真の父母は、最も易しい言葉ですが、それは我々だけがもっている言葉であり、我々だけが使う言葉です。人類の先祖が堕落したとするなら、堕落した父母は偽りの父母、悪い父母であり、堕落しない父母は善の父母であり、真の父母だということが一遍に分かったはずなのに、キリスト教は2000年の歴史を経ながらも、それを今まで発表できなかったのです。それを発表できる、この時を待ってきたのです。
過去の歴史に、「真の父母」ということを考えた人がいたかもしれませんが、その背後の内容までは解くことができなかったのです。統一教会の膨大な『原理講論』全体の内容を備えずしては、それを確実には解き得ないので、誰も簡単に「真の父母」という言葉を使えなかったのです。「原理」のみことば、あるいは、我々が知っている統一教会歴史観、また人類の根源に対する事実を明らかにしたということは、驚くべき事実です。
「真の父母」という言葉を確実に知ることによって、何が分かるのでしょうか。我々人類の始祖の堕落が不倫の関係によってなされ、ハナニムと関係のない、創造理想を立てようとした真なる父母と関係のない、血統的因縁を残したということです。すなわち、誤った血筋を受け継ぐようになったということです。
それゆえ、「真の父母」という言葉は、人類始祖から歴史的にすべての人間が誤った血統の中に生きたことを清算してしまい、「ハナニムを中心として、新しい本然の根を中心とした、愛と、生命と、血統がつながる」という意味を中心として使う言葉です。これは本当に驚くべき言葉です。
(201-60, 1990.3.1)

 

2) 真の起源

 

① 「真」とは

この天地間に真なる方がいらっしゃるなら、その方は誰でしょうか。絶対者です。この「絶対者」を、今日我々の韓国語で言うと、「お一人しかいらっしゃらない御主人様」ということです。一人(하나ハナ)しかいらっしゃらない御主人様をもっと縮めて言うと、ハナニム(하나님ハナニム)になります。お一人しかいらっしゃらない御主人様が、ハナニムだということです。


では、ハナニムはどのようなお方でしょうか。ハナニムは、地上の良い人からも好まれ、悪い人からも好まれるお方です。罪を犯して死刑場に出て死ぬようになる死刑囚も、「ハナニム! 私をかわいそうに思って下さい!」と言って死にます。
では、悪いことをして死んでいく立場にある人も、どうしてハナニムの前では、良い心で犠牲になり、希望をもって再出発することを誓いながら、そのハナニムに最高に寄与し、また頼り、彼と共にいたいと思うのでしょうか。内心では切に、「父母から離れ、兄弟から離れても、誰よりも近くで事情を通じたい」と思うのです。これは、ハナニムがまことであるために、そう思うのです。
真なる人は、 好きな者だけを好むのではなく、自分を殺そうとする怨讐おんしゅうまでも好きにならなければなりません。また、彼の前には、すべてを任せることができ、すべてを相談したくもあり、すべてを願うこともできる立場にある人であってこそ、真なる人です。
皆さんは今まで育ってきた過程で、憎い人がいたはずです。では、憎い人がいる人は、真なる人ですか、偽りの人ですか。偽りの人です。間違いなく偽りの人です。この世界には偽りの人が多いのです。
真なる人になろうとする人なら、両面を備えているべきです。統一教会の群れの中でも、「私」を好む人はとても好きで、「私」を憎む人を積極的に憎むとすれば、良い連中ですか、悪い連中ですか。悪い連中です。
それで、「私」を憎む人をも好きになろうというのです。「私」を憎む人を「私」が好きになれば、その人も好むのです。「私」を憎む人に「私」が3回以上良く接してあげれば、彼は頭を下げるようになるのです。3回だけ良くしてあげれば、頭を下げます。そうか、そうでないか、一度やってみてください。人には良心があって、自分が誤ったのか良くやったのか、分かるのです。
(39-302, 1971.1.16)

 

皆さん、我が国(韓国)には良い人が多いでしょう? 世の中には立派な人がたくさんいます。偉人もいます。それなら、大韓民国の偉人は誰ですか。「大韓民国の偉人」と言えば、大概李舜臣イスンシン将軍をいいます。李舜臣将軍も偉人です。皆さんは李舜臣将軍を好みます。
では、李舜臣将軍は真なる人ですか、そうではないですか。それは分からないのです。分からないのに、「好きだ」と言うのです。しかし、それほど先生は好きではありません。私がこう言うから、「おかしい。あの方はなぜああ言うのか。我が国の忠臣を嫌うとは! それでは、あの人は共産党か、民族反逆者か」と言うかもしれませんが、私は李舜臣将軍が嫌いです。なぜ嫌いなのか答えてあげましょう。
李舜臣将軍」と言えば、韓国人すべてが、忠臣として知っています。しかし、日本人はどう思っていますか。怨讐ではありませんか。日本人は、李舜臣将軍を怨讐と思うのです。これは、日本の歴史の本にも明らかにされています。李舜臣将軍は、日本人の前には怨讐であり、韓国人の前には忠臣だということです。それで先生は、彼があまり好きではないのです。


「真」ということは、イギリスに行っても真であり、ドイツに行っても真であり、アメリカに行っても真であり、韓国に来ても真であり、アフリカに行っても真であり、日本に行っても真になるべきなのです。ですから、真には怨讐がないのです。真は、好きでない人がいないのです。一方では好きで、他の一方で嫌うのは、完全な真になれないのです。
李舜臣将軍が完全な「真なる人」であるなら、日本人も韓国人と共に、偉人、真の人として崇拝すべきです。しかし、真なる人の基準で見ると、李舜臣将軍は完全な真の人ではないということです。少しは真の人になれますが。大韓民国では真の人ですが、日本ではそうではないのです。ここに異議はないでしょう。私は真なる人を願うので、李舜臣将軍のように真になりきれない人は、好きではないのです。
では、この世の中で真なる人とはどのような人でしょうか。前に言ったように、悪い人からも好まれ、良い人からも好まれる人です。悪い人は良い人が一番好きな人を一番憎むべきですか。悪い人も一番好きな人でなければなりません。ここには良い人と悪い人が混ざっていますが、共に願って希望することは、すべて最高のものです。最高を、みな好むのです。みな好むということは、良い人も好み、悪い人も好むということです。
それゆえ、「彼は悪い人だから悪い」と言っていては、真ではありません。悪い人からも最高に好まれ、良い人からも最高に好まれるべきなのです。これが真なる人の定義です。真なる人とは、悪い人も一番好み、良い人も一番好む人です。そのような者がいれば、その方が真なる方です。
(39-301, 1971.1.16)

 

② 真の起源

まこと」ということは、個人に限ってだけあるのではありません。全体を越えに越えて適用され、全体を越えに越えて価値的な因縁を結ぼうとするのが真なのです。真は、誰もが好み、誰もが求めるものであるために、どこにでもなければならないというのです。
(63-88, 1972.10.8)
我々は、個人の目的のために集まったのではなく、全体の目的のために集まりました。それゆえ、自分個人より家庭のために、家庭より民族、民族より国家、国家よりまず世界のためにあるべきです。また、自分個人が真になる前に、家庭が真になるべきであり、さらには国家と世界が真になるべきです。
人間は、自分個体としては、いかなる福の動機にもなり得ない、復帰路程の途上に立っているのです。では、その動機とは何でしょうか。真です。人間が真なる姿を成すには、すべての生死禍福センサファボクの根源であられるハナニムと関係を結ぶべきです。その関係を結ばなければ、人間個体内では真なる姿を成し得ません。


真は、必ずハナニムが中心となるべきです。それで人間は、全体的に収拾して、主管し得る決定的な基盤をもつようになるとき、真が成されるのです。その基盤をもてなければ、「真」という名詞は成立し得ないことを知るべきです。
真の起源は、ハナニムです。ハナニムがいらっしゃることによって、真が成されます。ハナニムが離れるようになるとき、真も離れるようになります。そこには真ではない、悪の起源が生まれるのです。
真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、ハナニムがいらっしゃることによって、ハナニムの願いが成され得るということです。それゆえ、「真」、「善」という名詞は、人間を主にして立てられたのではなく、ハナニムを主にして立てられたのです。
このような観点から見ても、真は、人間が勝手に考えられるものではありません。すなわち、堕落した人間が勝手に管理する、そのような位置に従属しているのではなく、真が我々を主管している、ということを知るべきです。それゆえ我々は、いつも真の前に屈服すべきです。真を立てて、そこに順応すべきです。皆さんの現実的な生活や、あるいは良心を探ってみても、真は完全に天に属しているという事実を否定する道理はないでしょう。
(24-315, 1969.9.14)
我々は、祈るとき、「真なるハナニム、天にいらっしゃる聖なるハナニム」という言葉を、漠然と習慣的に言う場合が多くあります。しかし、本当の意味での真は、今までありませんでした。それがなかったので、真の起源は、人間たちが歩んできた歴史の背景にあるのではなく、これを超越した位置にあるのです。そこから出発するのです。すなわち、その起源は、環境を超越した位置から追求しなければならないので、宗教は、人を中心として信じていくのではありません。
もちろん、教祖を中心として信仰の標準を立てる人たちもいます。しかし、それを超越した立場でハナニムを介在させ、真を追求してくる人たちもいるのです。これを見るとき、歴史過程を経てきた数多くの人間の生活路程においても、また、現実社会においても、真の起源をもち得なかった、ということです。
人間自体に連結された位置からは、真の起源を備えることはできません。真は、絶対的な基準です。それゆえ、「ハナニム」、「絶対者」、「神」という名詞がここに登場せざるを得ません。それはなぜそうなのでしょうか。今まで地上に真の愛がなかったので、そうなのです。それゆえ、真を指向しながら生きる人自体では、真の動機になり得ません。その動機は、ハナニムでなければなりません。必ず、宗教や人類歴史上において、最後の重要な分岐点に行き着くと、ハナニムが登場します。絶対者が必ず必要になるのです。
哲学が追求する目標、すなわち、真理を通じて最後の目標について追求し、あるいは、存在の起源を掘り下げていっても、必ずそこには「神」や「超越者」、「絶対者」という名詞が介在するのです。それはなぜそうなのでしょうか。絶対者と関係を結ばなくては、いかなる学問や、存在価値も、その起源の問題が解決できないからです。それで人間は、深刻な場では必ず、真を通じて解決しようとしたのです。このような事実を、我々は否定することができません。


それゆえ、真の起源は、人間だけでなるのではなく、必ず絶対者、ハナニムが介在すべきなのです。真を主張する宗教は、ハナニムを離れては考えることができません。真を主張する人倫道徳も、ハナニムを否定できません。
ですから、孔子も「順天者はおこり、逆天者は滅ぶ」と言いました。天を中心として言った言葉です。必ず天を介在させなければなりません。その興亡盛衰が、人間によって左右されるのではなく、天によって左右されるのです。このような事実について見るとき、天が動機になり得る起源が備えられなくては真になり得ないので、この地に生きている人類の中で、真なる人がいるかということが問題になります。
では、真がとどまり得る場所はどこでしょうか。もちろん、天を起源として真の位置を地上に立てようとされるでしょう。これは、ハナニムの願いです。それで、どこにとどまるか、ということが問題になります。我々の生活の周辺にとどまるのです。それでイエス様も、「天国はあなた方の中にある」と言われたのです。真なる国の天国は、心の中にあるのです。何の邪心もない、深々とした谷に位置しているのです。
我々の心の基礎を分析してみると、知、情、意になっています。その中でも、どこにとどまるのでしょうか。知、情、意のうちで何が根本であるかというとき、意でもなく、知でもなく、情です。
皆さんは、自分に一番貴いものがあれば、それをどこに置きたいですか。自分だけが知っている所に置きたいでしょう。そこは誰にも触れられず、関与できない、すなわち自分だけが管理し得る所です。そこはどこでしょうか。心の深い所です。心の深い所に埋めておくのです。「ここであれば安心だ」と言える所に置くのです。すなわち、人々がよく貴重品を入れておくタンスのような所に置くようになるのです。このような点から見るとき、真がとどまり得る所は、自分の心の深い位置です。
(24-317, 1969.9.14)

 

3) 真の原器

真なる心は、変わりません。それゆえ、それがなくては、皆さんは基準を立てることができません。「ああだ、こうだ」と評価できないのです。絶対的な基準で公証を受けることのできる内容の根をもてないのです。そこに及び得ないと評価される存在は、流れていってしまうのです。メーターのようなものも、その原器があります。
それを中心として、「合うか、違うか」ということを判定できるのです。いかなる問題が起きても、ここに合わせてみて、ぴったり合えば、万事に不平を言っていた人たちも一時に、みな離れていくのです。
(186-65, 1989.1.29)


愛には革命もなく、変化もないのです。変わるものに、貴いものはありません。ダイアモンドは、堅さにおいて変わらないために宝物としての扱いを受け、金は黄金色が変わらない特異な権威をもったために貴いのです。また真珠は、調和した色、優雅な色をもっていますが、それが変わらないために貴いのです。貴いという宝物を、なぜ変わらない特性を中心として策定したのでしょうか。それが、宇宙の万物の存在価値を比較できる基準だからです。
では、この宇宙のすべてのものを測定し得る価値の基準において、一番の基準となるのは何でしょうか。それが問題です。金でしょうか、ダイヤモンドでしょうか。それは変わらない愛、壊れない愛です。壊れるようですが、壊れません。勝手にできるようですが、勝手にできないのです。そこに自分が含まれるのです。そこに策定されるのであって、自分では策定できないのです。
この宇宙において、そのような原因の中の原因になり得る度量衡どりょうこうや原器とは何かと考えるとき、どうでしょうか。それはある測定器の原器ではなく、変わらないある物質でもありません。ハナニムもその標準を変更させることができず、人間も変更させることができません。永遠不変でありながら、宝の価値をもち、地の果てや、地獄や、天上世界や、どこでも昼夜を克服し、地域を克服し、距離を克服し、絶対的な測定の基準、比較の基準になり得るものとは何でしょうか。
地球にも緯度、経度においてゼロ点基準があります。それはイギリスのグリニッジ天文台を中心として、ゼロ点になっています。どんなに変わらせようとしても、変わらないのです。そのような基準がなければなりません。それがなければ、秩序の世界が形成されないのです。
この宇宙で測定し得るすべての存在が、その等差と位置を決定したいその本来の基準、ハナニムもそこに従うことができ、全体がそこに従わざるを得ない一つの基準とは何でしょうか。それはお金、黄金のかたまり、ダイヤモンドのようなものではありません。それらはすべて、ハナニムがつくり得るものです。ハナニムが一人で、勝手にできるものです。
愛ももちろんハナニムがつくれると見ますが、その愛を所有するのは、一人では不可能です。二人で所有すべきです。愛は、ハナニムも一人では見いだせないのです。それゆえ、その基準、測定原器とは何でしょうか。宇宙万象の存在世界だけではなく、永遠の世界ですべてのことを測定し得る基準、絶対的に一つしかないその原器とは何でしょうか。根本問題です。
それが、愛というものです。それで、愛は春夏秋冬、季節の変化に影響を受けないのです。
(137-235, 1986.1.3)
皆さんは、距離を測る尺度があるのを知っているでしょう。もし、1センチメートル単位なら、そのモデルというものは絶対的です。それは一つしかありません。そこに比較して、同じなら、それはみな正しいというのです。しかし、いくら「自分が一番だ」と言っても、その原型ときっちりと比較してみるとき、合わなければ不合格者なのです。


また、1センチメートルは10ミリメートルです。ですから1ミリメートルというものも絶対的です。それが10であれば1センチメートルになり、100であれば10センチメートルになります。このように上がっていくのです。それでこそ、それが連結して、どこへでもそれは共通的であり、統一的な内容をもつようになるのです。では、人々の世界には、そのようなものがないでしょうか。人々の世界が統一されるには、原則的な基準から体と心が闘わず、一つになった形、「こうであるべき」というフォームがあるでしょう。
(128-78, 1983.6.5)
皆さん、メートルがあれば、そのメートルが1メートル、100メートル、いくら大きくても、問題ではありません。そのメートルの基本単位とは何でしょうか。1ミリメートルです。1ミリメートルはあまりにも小さいので、大概1センチメートルにします。どんなに大きくてもその単位は、1ミリメートルからすべて合わなければなりません。これが、すべてきっちりと合って、「すべてが1ミリメートルだ」と言うようになるとき、我々は、それを世界の標準として使用するのです。それは、アメリカの1ミリメートル、韓国の1ミリメートル、あるいはイギリスの1ミリメートルも、すべてが同様です。変わりがありません。それが真理です。
皆さん、真理とは何ですか。真です。真とは何でしょうか。それ以上の基準として立てられないという位置に立ったものを、真理と言います。ここに、物理学博士も来ていますが、物理学を勉強するには、自然世界のすべての動きを知らなければなりません。その動くものは、漠然とは動きません。
皆さん、この地球が、どんなに大きいでしょうか。この膨大な地球が、1年に1回ずつ太陽系の周囲を巡回するのに、それが1分も違いもありません。1秒の違いもなくぴったり合うのです。差異があれば、大変なことになります。差異があれば、どんどん小さくなるか、どんどん大きくなるという問題が起こるのです。そうなれば、陸地と海がすべて分かれるのです。
地球の年齢を45億年としていますが、45億年間、異常なく、公式基準上に連結された運動をしてきたのです。そこには原理というもの、公式というもの、公理というものを中心として、測定する単位を必要とするのです。同様に、真とは何でしょうか。真とは、1にも合いますが、千万を合わせても、きっちりと合うのです。
金の中で純金といえば、24金です。24金は、真の金です。25金、26金はないでしょう。中央に立てて、バランスをとれるそのような位置、我々が視覚的に最小単位に立ち返るとき、それに垂直的な平衡線上に合ってこそ真です。これが垂直なら、これが平衡となるのに、このようになってはいけません。このようなものは、真ではありません。
それでも、24金までは、これが直線になるのです。そのような基準圏内に立っているために、「24金が真だ」と言うのです。そこは垂直をもって合わせても、縦的基準をもって合わせてもすべて合うのです。宇宙的な縦の前に平衡線として立ち、宇宙的な横の前にも平衡線を成すのです。


宇宙の大運動を見れば、それが漠然と動くのではありません。みな法度を中心として動きます。主体と対象関係の運動をするところは、必ず垂直です。
その垂直が変わるものは、飛んでいってしまいます。流れていってしまうのです。壊れてしまうのです。垂直がしっかりと確定してこそ、空間世界に自分の位置を確定し、存続の基盤をもつようになるのです。このような言葉は、少し難しいでしょう。
同様に、我々人間のはかりとは何でしょうか。人間にもはかりがなければならないでしょう。数学の問題を解くには、世界的に共通の数理的基準を中心として解くのです。ある基準に合格した共通的な基盤が世界的な舞台に立つようになるとき、そのようなものを「真理」と言うのです。
真理の中には、何があるでしょうか。真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理があるときは、必ず環境があるのです。では、環境が先ですか、真理が先ですか。これが問題となるのです。環境が先なのです。
我々人間を見るとき、どうですか。真なる人間とは、どのような人間かというのです。縦横の標準にならなければなりません。「縦から見ても合う。ペチャンコにならなかった。横から見ても合う」と言える基準にならなければならないのです。
縦横が一致してこそ、公式的法度上において、前後、左右、上下の差異がありません。同じです。これを、どこにもっていって合わせても、きっちりと合うのです。東にも合い、西にも合い、北にも合い、南にも合い、地上世界にも合い、霊界にも合うとき、「真である!」と言うのです。ところが、いくら大きいものでも、ミリメートルで測定して半端が出たとすれば、それが半ミリメートルにもならなかったとしても、それはすべて否定されるようになります。不完全なのです。それはごみ箱に入るべきです。そのような何かがなければならないのではないですか。測定する基準がなければならないのです。
(180-14, 1988.8.20)

 

4) 真と真の人

皆さん! 「まこと」という言葉は何の言葉ですか。それは丸いものですか、角張ったものですか、平たいものですか。その定義とは何でしょうか。そして、真に対する定義を下すのに、何を中心として下すのでしょうか。それが問題なのです。私たちが「真の人」と言うとき、その真の人とはどのような人ですか。真の人にも目、鼻、口、体が、みなあります。
では、真ということは、ある一定の場所の制限を受けることをいいますか、一定の場所を超越することをいいますか。超越することをいいます。どうしてその制限線を超えなければならないのでしょうか。それは何を意味するのでしょうか。我々は、すべてを代表して測り得る内容をもたなければならないということが分かります。
数学なら公式をいい、物理なら公理をいい、それらの定義をいうとき、その定義とはどのようなものでしょうか。公式というもの、公式の単位というものは、簡単なものですが、その公式的というものは、すべてのものを比較できる主体性をもつべきです。それでこそ公式や単位の基準が設定されます。これを知るべきなのです。それが違えば、膨大な宇宙にぴったり合わないのです。


私たちが尺度のようなものを見ても、12進法とか10進法などがあります。それは小さいですが、形態はみなぴったり合うのです。そうでなくては、これがかみ合いません。全体がかみ合って回らないのです。ある部分では合っても、全体が合わないようになるときには、これが成立しないのです。全体存在の成立が喪失されるということを知るべきです。
それは、人間世界も同様です。真なる人とは何でしょうか。人間が生きていくにおいて、スケールとメジャーのようなものがあって、力を連結させて、世界に拡大していくのです。それがすべて、バランスをとって拡大するということです。人間の生涯、人間が生きていく道にも、そのような公式的な道がなければならないという言葉が出てくるようになるのです。
(133-9, 1984.7.1)
今、人間世界には、数十億の人類が暮らしていますが、この地球村に暮らす人たちの先祖たちは、どれほど多く地上で生きては死んでいったでしょうか。それを考えてみましたか。少なくとも現在暮らしている人々の何百倍、何千倍の人々が生きて死んだでしょう。では、その人たちの中で、人類が願う真なる人が何人いたでしょうか。真ということは、1000年前も、今も、いつでも真です。
「純金」と言えば、24金です。それは、空間や時間によっては変わりません。どんな立場に処しても、変わらないのです。それは、王の手に行っても、どんな不良の手に行っても、どんなに変化する環境に行っても、変わり得ないのです。そのようなときの黄金色を、「真なる色だ」と言うのです。
人々は黄金色を好むでしょう? 光というものは何に似ているでしょうか。黄金色に似たのです。明るい色は、黄金色に近い色です。太陽の光も黄金色です。夕焼けは、もっとそうです。
それと同じように我々人間において、千年、万年、億万年変わり得ない色をもった、そのような真なる男性がいるでしょうか。これが問題です。真なる女性がいるでしょうか。どう思いますか。
宗教界では、人間は堕落したと見ています。もちろん、背景が異なる宗教もありますが、すべて救いを受けるために、価値のある新しい人間を探しています。その言葉は、どういう意味をもっているのでしょうか。真なる本然の人間、真なる本然の人間像に及ばなかったために、それをいつも追求するというのです。それは、1000年前も、何億年前も、今日も同じです。今日以後にも人類が存続するどんな環境でも、どんな時代でも、それを追求するようになっています。
皆さんも、その真なる人を探しているのです。真なる男性、真なる女性を探しているのです。歴史時代に生命をもって生まれた男女たちは、自他を問わずそこに命を懸けて考えるようになっています。それゆえ、ある村で暮らすようになれば、その村で一番進んだ真なる人になろうというのです。
(177-99, 1988.5.17)


5) 「真の父母」とは何か

 

① 二つの石板と「真の父母」

イスラエル民族を荒野で導くとき、火の柱と雲の柱がありました。昼に導くのが雲の柱で、夜に導くのが火の柱でした。それは何を意味するのでしょうか。男女を代表して「終わりの日」に父母が来て、イスラエル民族から侍られるのを象徴的に見せてくれたのです。この火の柱と雲の柱の導きに従わない人は、みな滅亡するのです。
また、イスラエル民族が荒野に出て40年間さすらい、方向をつかめずにいるので、ハナニムはその民族が滅亡するのを心配して、モーセシナイ山に呼び上げて、40日断食をさせ、二つの石板を与えました。それは、アダムとエバまことの父母を象徴するのです。
契約の箱の中に、どうして二つの石板を入れたのでしょうか。二つの石板は、ハナニムのみ旨を終結できる中心としてのアダム、エバを象徴したのです。それで、契約の箱の中に入れたのです。
(134-172, 1985.4.7)
我々の願いとは何でしょうか。ハナニムは縦的な父母であり、アダムとエバは横的な父母ですが、縦横の父母が一つになって喜び得る場において、愛され得る息子、娘になるのです。ところで、そのようにできなかったのがハンです。そのような愛を一度受けてみたいという熱望をみなもっているというのです。宗教も全部そのようなものです。
縦的なハナニムと横的な面で一つになって、愛し得る父母がこの地上にいたでしょうか。いませんでした。人類の初めの先祖が堕落したために、偽りの父母になりました。アダムとエバが偽りの父母になったために、そのような父母がいませんでした。それで、真の父母が出てこなければなりません。真の父母が歴史上に出てこなければならないのです。
そのような歴史的使命を代行する一つの名詞をかぶせて呼ぶ、その存在とは誰でしょうか。これが「救世主」という存在であり、「メシヤ」という存在です。救ってあげるには、何を救ってあげるのですか。体を救ってあげるのではなく、理想的な愛の願いを成してくれるのです。
そうするには、どのようにしなければならないでしょうか。その救いを成してあげるには、メシヤはどのような存在として来なければならないでしょうか。間違いなく、真の父母として来なければなりません。メシヤは、真の父母として来なければなりません。イエス様を、キリスト教ではメシヤ、救世主として信じます。救世主として信じます。真の父母として来るには、どのように来なければならないでしょうか。一人では駄目なのです。真なる父に代わり得る、一人の男性として出てこなければなりません。


今まで、数多くの宗教は、一人の男性を探してきたのです。男性の中でも、生活を良くする男性を探してきたのが儒教の教えだと見ることができ、霊界を主にした男性を探してきたのが仏教の教えだと見ることができるのです。
では、キリスト教とは何でしょうか。ハナニムの息子になって、愛する家庭をつくろうというのです。もっと具体的な内容をもって来たのがキリスト教です。それゆえ、ハナニムの前において「私はひとり子だ」とイエス様が言われたのです。
ひとり子が出てきたのに、ひとり子が一人で暮らしたなら大変です。ひとり娘がいなければなりません。それで、ひとり娘を探して、ハナニムを中心として、ひとり子とひとり娘が互いに好む場で結婚しなければならないのです。それで、ハナニムが縦的な父母として喜び、そのハナニムのひとり子とひとり娘が横的な父母として喜び得る新郎新婦になって、地上で息子、娘を生まなければなりません。そうしてこそ初めて、一族が広がり始めるのです。
それゆえ、イエス様においてイスラエルの国に背いてでも、ユダヤ教に背いてでも一番必要としたものがありましたが、それは何だったのでしょうか。正に女性です。男性の前に女性がいなくてはなりません。イエス様は、そのみ旨を成せなかったために死んでいきながら、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言ったのです。こうして、キリスト教では2000年間、新郎であられるイエス様を待ち、キリスト教信者たちが新婦になろうともがいてきたのです。その標準とは何でしょうか。それがメシヤですが、真なる父母の位置をもって合わせるのです。それが「小羊の婚宴」です。
(58-218, 1972.6.11)

 

② 「真の父母」の定義

統一教会でいう「まことの父母」とは何ですか。これが問題です。アダム、エバが堕落しなかったなら、どのようになったのでしょうか。堕落しなかったなら、ハナニムが縦的な愛となり、アダム、エバは、ハナニムの体になったのです。ハナニムの体と同じなのです。ハナニムは骨のようであり、アダム、エバは肉のようなものだというのです。ハナニムにも心があり、体があります。
ハナニムは、内的な場で内的な父母になり、アダムとエバは、外的な場で外的な父母になります。内的な父母と外的な父母が愛で一つにならなければなりません。ハナニムと人間が愛で結ばれることにより、真の父母、完成した人間が成就されるのです。愛で結ばれなければ、完成した人間はいないのです。
それが何かというと、本然的な我々の先祖なのです。ハナニムが創造された本然の人間です。そのような人から我々が生まれるのです。そのような神性をもった人により、我々が生まれなければならないのです。それゆえ、我々は神性を帯びたハナニムの性稟せいひんをもち、人性を帯びた父母の性稟ももつのです。
ですから、アダム、エバの完成は、どのように成るのでしょうか。ハナニムの愛に結ばれてこそ完成するのであって、これが結ばれなければ駄目なのです。ハナニムの縦的な愛と横的な肉的愛が、一点で結ばれたのが、正に我々の先祖の血統の根です。そこが、我々先祖の血統です。そこから全人類が生じるのです。


ところが、堕落のために、男性の愛、女性の愛、ハナニムの愛がみな分かれました。堕落によって、男性の愛、女性の愛、ハナニムの愛が結ばれませんでした。
堕落しなかったなら、自動的に結ばれます。男女は自動的に愛で結ばれます。なぜ、男女が一つになろうとしますか。愛のためです。愛で一つになったのちに、何をしようとしますか。ハナニムの祝福を受けようとするのです。それが目的です。
(184-71, 1988.11.13)
摂理の時代を見れば、復帰摂理は、「終わりの日」を通じて成されます。「終わりの日」に近づけば近づくほど、宗教の目的が成される時代が来るのです。その宗教の目的が成され得る最後の時が、父母様が現れる時だというのです。
その父母は、真の父母ですが、真の父母という方はどのような方でしょうか。これが問題です。真の父母という方は、我々の原理が教えてくれているように、原理結果主管圏と直接主管圏、すなわち間接主管圏と直接主管圏を経て、責任分担を完成した位置で、ハナニムの愛を中心として一体の理想を成した父母です。歴史上初めて、ハナニムと人間が愛を中心として一体の理想を成した父母ということです。ハナニムの愛の理想が、初めて地上に真の父母の家庭を中心として着陸し始めたのです。
堕落することによって、この真の父母の理想が壊れてしまったのです。アダム、エバが責任分担という使命を前にして原理結果主管圏、すなわち間接主管圏から直接主管圏に橋を架けて、これをすべて完結しなければならなかったのに、そうできなかったのです。
それによって、サタンがこの間接主管圏内を侵害し始めたのです。これを知らなければなりません。これを知らなければ、あの世へ行って登録できないのです。
(143-75, 1986.3.16)
真なる父母とはいったい何でしょうか。この宇宙が生じて以来、初めて真なる愛、理想的な愛がスパークし得る出発点だというのです。それで「真なる父母」と言うのです。では、真なる父母の前には、何の息子、娘がいなければならないでしょうか。真なる子女がいなければなりません。では、真なる子女とはどのような子女でしょうか。その真なる父母の最初の愛を受けるに十分な内外の美をもった息子、娘だというのです。
(125-164, 1983.3.20)
統一教会で言う「真の父母」という言葉は、何ですか。ハナニムが真の父母を指名されたのです。それはどういう意味ですか。それは、ハナニムの愛が初めて人間世界に着陸したということです。真の父母が起点だということです。
(130-111, 1984.1.1)
「真の父母」とは何でしょうか。ハナニムの愛を核としたその愛を中心として、アダムとエバが完全に絶対的に一つになって、出発し得る最初の我々人間の先祖だったのです。それをはっきりと知るべきです。真の父母を知らなければ、「真の子女」ということは分からないのです。
(135-160, 1985.11.12)


歴史の核心となり、時代の核心となり、未来の核心となる思想とは何でしょうか。言い換えれば、歴史について見るときは、歴史的な実であり、時代について見るときは、時代の中心であり、未来について見るときは、未来の起源になり得る、世界の思想の中心とは何でしょうか。それは、真なる男性と、真なる女性です。
では、その真なる男性と真なる女性の生活観とは、どんなものでしょうか。世界のために生きがいをもって生きるのです。二人が愛するのは、世界のために愛するのであり、息子、娘を生むのも、世界をもっと愛し得る動機をつくるために生むのです。このような思想が、我々が今、主張している思想なのです。このような内容を皆さんが細密に知っているか分かりませんが、私が知っている立場で見るときは、横的に、すべての立体的な世界を見ても、縦的な世界、歴史全般を見ても、必ず歴史は、その基準で解明されなければならないのです。それは、自動的な結論として出てくるのです。
(25-145, 1969.10.3)
堕落の起源になる所はどこですか。アダムとエバ、すなわち一つの父母から始まりました。アダムとエバが堕落して、偽りの父母になったことにより、すべての問題が起きるようになったのです。このために、心情問題、血統問題、人格問題、言語問題、生活問題、国家問題、世界問題が生じたのです。
では、これを一度に蓄積させることができ、このすべてを総合することができる真なる基準は、どこから始まるのでしょうか。これは、ある宗族そうぞく圏内で成されるのではなく、社会圏内とか、国家圏内で成されるのでもありません。世界圏内でも絶対不可能なものです。すべての問題の起源が、偽りの父母から始まったために、真なる父母の因縁を中心としてのみ、復帰され得るのです。
真の父母を中心としてこそ、初めてハナニムの心情と一致し得るのです。真の父母を中心として本然の血統が始まり、真の父母を中心として本然の人格が始まり、真の父母を中心として言語が本来の位置に帰り、真の父母を中心として生活が本然の形態に帰り、真の父母を中心として本然の国家が形成され、真の父母を中心として本然の世界が成されるのです。
では、この全体を総集約した核心的な母体とは何でしょうか。真の父母です。真の父母お一方によって、すべてが決定されるのです。
それゆえ、その方のすべての思想を自分が全部引き継がなければなりません。その心情、その人格、その生活観、その国家観、その世界観を全部引き継がなくては、中心となる位置に立てないのです。
(28-247, 1970.1.22)


真の父母を抜いては、教育もあり得ず、生活の基盤もあり得ません。真の父母と完全に一つにならなければならないのです。「『真の父母』の生活が私の生活であり、『真の父母』の理念が私の理念であり、『真の父母』の仕事が私の仕事であり、『真の父母』の愛の圏が私の愛の圏である」と、このようにならなければならないのです。皆さんはそうなっていますか。
(44-142, 1971.5.6)

 

③ 「真の父母」は人格の実体

歴史上の聖賢たちの中で、「私は人類歴史において、人間たちを代表して、心と体が闘わず完全に統一を成したので、私を見習いなさい」と言う人がいましたか。
体が重要ですか、心が重要ですか。心も重要で、体も重要です。もっと重要なことは、私の心と体の統一圏です。それが重要なことです。それが駄目な人は、いくら世界が統一されたとしても、その世界と何のかかわりもない人です。
(142-324, 1986.3.14)
今、皆さんは、心が違い、体が違います。では、これがいつ一つになるのでしょうか。今まで、人類歴史路程において、「心と体の闘い、これを統一させる」と言える人が出てこなかったのです。
パウロのような人も嘆息しました。「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ・・・わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだからわたしを救ってくれるのだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」(ローマ7:22~25)。正にそう思ったのです。主イエス・キリストの中にいるハナニムの愛によって解放されるのです。
(164-41, 1987.5.3)
心と体が一つになれない原因はどこにあるのでしょうか。ハナニムはどのような方かといえば、この宇宙の根本となる縦的な愛のおもりです。その錘が地に降りてくるようになるときに、ハナニムお一人では駄目なのです。いくらハナニムといっても、愛を下ろすには、水平線でこの基準を引き出せる力が必要です。
電気が強ければ、マイナス電気が地上近くに来るようになると、近い所で雷が落ちるのです。降りてこなければなりません。高い所にあっても、降りてこなければなりません。同様に、高い愛が降りてくるには、地上にマイナスの愛がまず生じなければなりません。マイナスの愛がまず生じたならば、プラスの愛は自動的に生じるようになっています。それがペアになっています。
作用するこの世界には、必ず「対応」と「反作用」があるのです。互いに対応し、互いに作用する反面、反作用があるのです。一般の人たちは、「この反作用は、対応する力の作用に反対する」と見ますが、そうではありません。反作用というのは、対応した存在を保護するために作用します。こうしてこそ、理論的に善悪のすべてが解決するのです。「善を中心として、悪というものに対して保護すべきである」という論理を見いださずには、善悪対決の歴史を処理する方法はないのです。


ハナニムは、どこを通じて往来するのでしょうか。縦的な愛が設定されなければなりません。その縦的な愛が縦的な価値をもつためには、横的な基盤が築かれたところに入ってこなければなりません。
男女もそうではないですか。皆さんが分別のない時は何も分かりませんが、大きくなると、女性も世界をもとうとし、男性も世界をもとうとします。そのように世界をもとうとするときはどうなるでしょうか。そのように進んではいけません。どこへ行って会わなければならないでしょうか。すっかり大きくなり、成熟して、会わなければならないのです。そのためには、「世界が自分のものである」と言える位置まで至らなければなりません。
「世界を占領しよう」と言いますが、占領するには、自分の力をもってしてはできません。愛でなければ駄目なのです。その愛の力があるために、男性にも女性にも世界征服のための理想と夢があるのです。皆さん、世界全部を自分のものとしたいでしょう? 天があれば、見えない世界があれば、その見えない無限の世界までも自分のものとしたいでしょう? なぜそうですか。縦的な欲望、横的な欲望があるためにそうなのです。
横的な欲望は、横的な世界である地球ぼし全体を自分のものにしようとし、縦的な欲望は、この宇宙を自分のものにしようとします。体は制限されています。地球星の限界線を脱することはできません。しかし、縦的な世界は、いくらでも大きくなります。
そのようなことを見るとき、心の位置を代表し得る父がハナニムであり、体の位置を代表し得る父が、堕落しなかった、まことの愛を中心とした人類の始祖なのです。
統一教会では、歴史時代には分からなかった、このような事実を探り出して「真の父母」という言葉を使うのです。ですから、横的な真の父母の位置が、本来創造した理想観として見たハナニムの息子、娘の位置なのです。すなわち、アダム、エバの位置なのです。ですから、ハナニムとは何でしょうか。体のようなものがアダム、エバなら、縦的な心のような父の位置にいるのがハナニムです。
心のようなハナニムと、体のようなこの方が一つになるには、何によって一つになるのですか。力ではなく、知識でもなく、権力でもありません。愛です。
我々の心的な人格、体的な人格が本来一つになり得る原則的モデルに似たのが私個人であるために、原則的な根本を訪ねてみるときに、体のような父がいなければならず、心のような父がいなければならないのです。そこで、心的父の位置がハナニムの位置であり、体的な父の位置が人類の始祖になるのです。
では、人類の始祖と心的父であるハナニムは、どこで一つになりますか。真の愛を中心として、愛の球形の中で、核の位置で一つになるべきなのです。縦的なものを中心として、男女は訪ねていくのです。
(177-337, 1988.5.22)


6) 我々が知るべき「真の父母」の語義

 

① 「真の父母」という言葉は貴い

皆さんは、「まことの父母」という言葉がどれほど重要な言葉であり、どれほど貴い言葉であるかということを知るべきです。皆さんの国と大統領、先生、父母、兄弟は信じられなくても、真の父母だけは信ずべき義務があるのです。「真の父母」という観念の中には、地獄とか、悪なるサタン世界を救う、救いの観念がこもっているという事実を知るべきです。
皆さんはサタン世界で死ぬしかない立場にいるのに、父母が、皆さんの死の前に盾となり得る力となってあげることで、天地が公認し、歴史が公認し得るとすれば、それはどれほど誇らしいことでしょうか。ハナニムが保障し、歴史が保障する真の父母なのです!「真の父母」という言葉がどのように出てきたか、それを知るべきなのです。
レバレンド・ムーンは、真の父母になろうと思ってこのことを始めたのではないのです。レバレンド・ムーンでなければできないので、仕方なく進み出て、この仕事をしているのです。
(116-113, 1981.12.27)

 

② 「真の父母」という言葉は誇らしく途方もない

今まで代を継いだ我々の立場は、どのようなものでしたか。我々の千万代の先祖たちがみな復活して、その復活した栄光を褒めたたえるとしても、それは堕落圏を脱し得ない栄光であり、堕落圏を脱し得ない賞賛でした。
しかし、今日統一教会で言う「まことの父母」という言葉は、どのようなものでしょうか。たとえ皆さんの立場は悲惨であっても、数限りない先祖たちと共に、あるいは万民解放圏をもった栄光の位置で褒めたたえられること以上の価値をもった、誇るべき言葉であるという事実を皆さんは知るべきです。父母様に出会った中で、ハナニムに会うことができる道が連結するのであり、統一教会に出会ったこの位置は、遠くない将来に、神の国と父母様の願う祖国を探し得る道が連結されています。
今まで人類は、文化背景が違い、国境を境にして「自分たちの祖国だ」と言いながら暮らしてきました。過去の先祖たちが暮らしてきて、今の我々も暮らし、子孫たちも暮らすでしょうが、それはすべてが堕落圏であることに間違いないのです。
その堕落圏をけって出て、今日の勝利を先祖たちと共に、自分の一族と共に、未来の子孫たちの前に誇り、高く褒めたたえ得る、愛の祖国を探すべきです。その愛の祖国の中で、愛の父母をもつことができ、それだけでなく、祖国の中心であるハナニムがいらっしゃるなら、そのハナニムに侍ることができるというときは、それ以上の栄光の位置はないというのです。
(138-105, 1986.1.19)
メシヤは、ハナニムの愛を完成したアダム格であるために、本然の父の資格者として来るのです。それゆえ、その父を中心として母を選択し、ハナニムの本然の愛を中心としたその基盤を中心として、個人・家庭・宗族・民族・国家基準までの所有権が、真の愛を中心としてメシヤのものとなった以後に、国家のものであり、国民のものであり、家庭のものであり、個人のものであるという所有権版図が広がらなければならないのです。


ですから、メシヤの本然の愛が、個人から国家まで初めて形成されて、ローマと世界までその波紋が伝播でんぱされていたなら、今日の再臨の思想は必要なかったのです。
このように見るとき、アメリカはハナニムの愛の圏に属した国でしょうか。違います。この地球上に、そのような過程を通過した国はないのです。キリスト教を中心とした数多くの教会が、このようなハナニムの愛の原則に一致した所有権に属していないのです。絶対的にありません。天国が地上にはないのです。このように考えるとき、「真の父母」という言葉がどれほど偉大で、どれほどとてつもないかというのです。これだけが、堕落圏のサタン世界を貫き、上がっていくことができる一つの基地になります。
ですから、「真の父母」という言葉が現れるようになったことを有り難く思うべきです。その言葉だけを千回聞いても、万回聞いても感謝して余りある内容だというのです。
(129-193, 1983.11.5)

 

③ 「真の父母」という言葉は驚くべき言葉

我々は、人類始祖の堕落によって、我々の故郷を失ってしまいました。また、国を失ってしまい、世界を失ってしまったのです。さらには、ハナニムまで失ってしまい。ハナニムの愛までも失ってしまったのです。このような膨大で、とてつもないすべてを、再び探し得る一つの起源が何かというと、まことの父母だというのです。
ハナニムが、今まで歴史的に願ってきた摂理の目的とは何でしょうか。真の父母の基準です。人類が堕落した以後、今まで蕩減とうげん歴史をしてきたのは、何をするためでしょうか。真の父母を探すためです。数多くのキリスト教徒たちが、今まで再臨の日を待ち焦がれてきたのもこのためであり、数多くの宗教が、すべてこの一日を願っているのもこのためです。このような事実を考えるとき、真の父母が生まれたのは、恐ろしくも驚くべき事件なのです。
皆さんが故郷に行こうとするのは、そこに父母がいて、兄弟がいるためです。父母を中心として連結した愛がある所なので、故郷をしのぶのです。そのような故郷を抱いている国、そのような故郷の愛が連結し得るその国を、人々は「自分の祖国だ」と言っています。一般的に、祖国というのはそのようなものです。
そのような面で、本然の愛を中心として見るとき、我々には故郷もなく、祖国もないのです。過去にもなく、現在にもないのです。あるといっても、それは悪とかかわりのあるものであって、我々とは何の関係もないものです。真とは関係がないのです。
(67-226, 1973.6.27)


統一教会の「真の父母」という言葉は、驚くべき言葉です。偽りの父母は、サタンの愛を中心として落ちましたが、真の父母はハナニムの愛を中心として上がるので、愛の世界に前進していくのです。では、なぜ我々がその愛を探そうとするのでしょうか。愛というものは、偉大なものです。永遠に平等なものです。愛という名前だけ聞けば、いくら高い位置にも、一度に同参することができる資格をもつのです。
(144-241, 1986.4.25)
統一教会では、「真の父母」という言葉を使っています。これは驚くべき言葉です。「真の父母」とは何ですか。偽りの父母が生まれたので、真の父母が出てこなければなりません。真の父母は何をすべきでしょうか。サタン世界の根となる誤った血統を正すべきであり、誤った生命を取り返すべきであり、誤った愛の道を正しく開かなければなりません。
(169-37, 1987.10.4)
先生はハンサムではありませんが、変わらない希望があります。それはハナニムのみ旨を追求しようとすることです。その理想的な目的の基準、その定着点が何かといえば、真の父母です、真の父母。では、ハナニムのみ旨の完成とは何でしょうか。創造理想の完成とは何でしょうか。アダムとエバが愛の理想を成して、直接主管圏内で父母の位置に立つことが、理想的な基準です。それがみ旨の完成の位置です。
先生がこの地上に「真の父母」という名前をもって来たことが、どれほど驚くべきことかを知るべきです。
「真の父母」という言葉! 世の中の言葉の中で一番福となる言葉とは何でしょうか。堕落した人間においては、国を失って捜すことよりも、世界を失って捜すことよりも、「真の父母」という言葉を捜すことが、一番福となるのです。それは、天地の何よりも貴い言葉です。
(127-220, 1983.5.8)

 

④ 「真の父母」という言葉は恐ろしい言葉

統一教会の恐ろしい一つの教えとは何でしょうか。それは「まことの父母」という言葉です。これは、ハナニムも恐れる言葉であり、サタンも恐れる言葉です。我々人間は、堕落圏内にいるので、真の父母を中心として見るとき、その真の父母に従っている人たちは、その方のみことばによって審判を受けるのです。
このような方が出てこなければいいのに、出てきたために審判をしなければいけない立場に立つので、ハナニムがその方の言葉を聞いてあげるのです。また、サタンがなぜ「真の父母」という言葉を恐れるのですか。この言葉を信じて従おうものなら、自分のすべてが破壊されてしまい、破綻はたんしてしまうためです。それで、彼には極めて恐ろしい言葉になるのです。サタンは、いつも真の父母の行く道を妨げ、倒れるのを願い、悪くなることを願うのです。ですから、皆さんがこの道に従っていくのに、どれほど信じて従うかということが問題になるのです。
皆さんが、そのような先端の場に立ったなら、一歩一歩、行動一つ一つに千年以上の精誠を尽くして、感激しながら行こうとしなければならないのです。
(65-276, 1973.1.1)


(祈り)私は、「真の父母」の名前が、どれほど恐ろしいかということをよく知っています。私は平穏な位置を探すために生きる道を取ったのではなく、このみ旨の使命を完結させるために、今まで闘ってきました。過去を回想すれば、事情も多く、無念なこともたくさんありましたが、あなたの事情、あなたの無念さに比べられないことが分かったので、ひざまずいて涙をあなたの前に見せられない、恥ずかしい姿であることが分かるのでございます。そのようなことを感じる私の心をお分かりになり、この日を期して、天上世界と地上世界の門を開いてくださいませ!
(134-112, 1985.2.25)
「真の父母」とは何でしょうか。「真の父母」という言葉は、そんなに簡単な言葉ではありません。一番恐ろしい言葉です。その言葉が、どれほど恐ろしい言葉か分かりません。
この「真の父母」という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を見つけ出すために、今まで数多くの烈士が犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身もだえし、絶叫しながら希望を抱いて探し出した名前が、「真の父母」という聖なる名前です。
真の父母の前には、真の子女がいなければなりません。それで、皆さんが真の子女になりましたか。考えてみてください。真とは、過去にも、現在にも、未来においても、変わらないものです。
(33-109, 1970.8.9)


 

第2章 メシヤと「真の父母」

   

1) 歴史と「真の父母」

 

① 堕落と「真の父母」

今日、我々が暮らすこの世界に、まことの父母を迎えましたが、この地には真の父母の息子、娘だけが暮らしているのではなく、堕落した父母の息子、娘も暮らしています。本来は、真の父母の血肉を通してハナニムの愛する息子、娘になるはずだったのですが、堕落によって堕落した息子、娘になってしまいました。それで、我々人類始祖が誤ったことを解怨かいおん成就してあげるために、再び来られる父母が再臨主であり、救世主というものです。
その方が来られたならば、前もって生んでおいた長子を復帰しなければなりません。その長子が庶子のようになりました。血筋が変わりました。本然の愛を通してハナニムの血統を受け継ぐべきでしたが、堕落することによって他の血筋を受け継ぎました。だからといって、ハナニムは捨てることができません。
これは、庶子のようです。野生のオリーブの木です。この野生のオリーブの木の畑を悪魔が支配するので、ハナニムが野生のオリーブの木を自分の所有にしなければいけないのです。これを強制的に強奪するのではありません。銃剣でするのではありません。自然屈服できる環境を中心として、冷遇されて打たれ、一つずつ奪ってくるのです。
今日キリスト教が世界的な版図を成すまで、どれほど犠牲の代価を払ったか知れません。殉教の祭壇に絶えず犠牲になった悲惨な祭物の悲鳴が、地球上に響き渡らなかった所がない、そのような歴史を経てきたのです。
その血の祭壇が連続し、今日、目前にまで到達した歴史的なハンがもつれているということを知るべきです。これを受け継いで解怨すべき厳粛な歴史的な課題を抱いている我々は、ハナニムを解放し、キリスト教を再度解放しなければなりません。
(210-360, 1990.12.27)
堕落とは何でしょうか。悪魔の偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統がかれたものです。人には愛があります。生命があります。先祖から受け継いだ血筋があります。それで、一人の人は、歴史の初めの先祖から受け継いだ愛の結実であり、生命の結実であり、血統の結実だというのです。それが何かというと、サタンの愛と、サタンの生命と、サタンの血を受けた、ハナニムの怨讐おんしゅうになり得る立場にあるものだということです。これを払いのけて脱ぎ捨てなければ、地上に平和はやって来ないのです。


それで、レバレンド・ムーンが真の父母の理想をもって出てきたのです。真の父母は、何をするのですか。この偽りの愛をきれいに清算して、個人、家庭、宗族、民族、国家が分立し得るよう、平和と反対となる悪魔の要素をきれいに清算するために闘争しているのです。
(217-185, 1991.5.27)

 

② 歴史の願い

我々統一教会では、「まことの父母」という言葉を使っているのです。皆さんが今、この堕落した世界の歴史について見るとき、この世界には堕落した父母が生まれた、堕落した父母が生まれて堕落した世界を成した、ということが分かるでしょう。
この世界は、どんな世界でしょうか。堕落した父母と因縁づけられた世界であって、真の父母とハナニムが理想とした本然の世界とは、関係のない世界です。それゆえ、長い人類歴史を経てきながら、この世に多くの人たちが生きては死にましたが、彼らの中で、幸福を謳歌おうかしながら「ああ、私は人間として生まれて幸せで、人間としてすべての面において成功した一人だった」と、宇宙の前に誇って生きていった人は一人もいないのです。
それで、「人間の歴史は苦海と同じだ、悲哀の歴史だ、戦争の歴史だ、疾病の歴史だ」と言うのです。なぜこのようになったのかというと、堕落の結果によって、このようになったのです。
人類の希望とは何でしょうか。人間がどのように完成した人になるかということです。神がいるならその神の前に、完全な絶対者がいるならその絶対者の前に、完全であり得る人をどこで探し、どこで成すかということです。それで、今まで哲学を通じて、宗教を通じて、人間たちはそれを探しに探しましたが、その解決点を誰も見いだせず、今はすべて放棄した状態に至ったのです、それが現世の人間の立場だというのです。
(137-81, 1985.12.24)
今まで人間たちの歴史的な願いとは何だったかというと、真の父母に侍ることでした。真の父母を迎えることでした。ハナニムがイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのは、メシヤを迎えるためでした。メシヤとは誰かというと、真の父母です。また、キリスト教キリスト教文化圏をつくったのは、再臨主を迎えるためでした。再臨主とは誰かというと、第三次アダムとして来られる真の父母です。真の父母が来られる時になれば、世界のすべての国家が兄弟の因縁をもつので、第二次世界大戦後に、戦勝国家が敗戦国家をすべて解放させるということが起こったのです。そのような非正常的な歴史的現象が起こってきたのです。歴史が願いつつ訪ねきたこととは何かというと、真の父母に出会うことでした。宗教が出てきたのも真の父母に出会うためです。世界が出てきたのも真の父母を探すため、国が出てきたのも真の父母を探すためです。真の父母の道を備えるために出てきたのです。
(51-354, 1971.12.5)


 

③ 歴史と「真の父母」

今まで宗教は何をしてきましたか。真なる息子一人をつくるための努力をしてきたのです。ハナニムは、真なる息子一人をお探しになるために、今まで苦労されたのです。それゆえ、宗教の教祖たちの中には女性がいません。宗教の教祖はみな男性です。これは、真なる息子一人をつくるために、つないできたということを意味します。1段階、2段階、3段階、100段階、このように上がって、最後のバトンを受け継いで勝敗を決定し得る一人の主人公、息子を探してきたのです。これが今までの歴史です。
(41-27, 1971.2.12)
ハナニムが宗教をつくって何をするのでしょうか。何をしようというのでしょうか。ハナニムが宗教をなぜつくったのでしょうか。世界のぼろきれ、大きなぼろの版図をつくるためのものではありません。目的は簡単です。ハナニムが真なる愛で愛し得る一人を探すためなのです。愛の環境的要件の中で、ハナニムが守って、相対的な一人を探せば、おしまいです。
(173-33, 1988.2.1)
ハナニムの復帰歴史は、真の父母を立てるための歴史であるとも見ることができます。それゆえ、カイン、アベルから今日に至るまで、天は内的に真の父母を復帰するため、摂理してきました。誰でもこの目的を成すための根本摂理に敵対したり、妨害したりすれば、彼は天道の前に捨てられるようになり、結局滅びるしかありません。
(9-10, 1960.3.27)
歴史に通じるものとは何でしょうか。ハナニムの解放は、真の父母と一つになり、すべてのサタンの讒訴ざんそ条件を清算してこそ可能なのです。それを清算しなければ、不可能です。皆さんが、どのようにハナニムの心情的所有権に逢着ほうちゃくするのですか。
皆さんの父母と、皆さんと、万物が、平衡線上で、ハナニムの所有として決定し得る場をもてなかったのです。これを蕩減とうげん復帰すべきです。
(137-268, 1986.1.3)

 

④ 復帰摂理歴史は「真の父母」を探すための歴史

ハナニムのみ旨に代わって、この地上に現れるべき「まことの父母」とは、どのような方でしょうか。
サタン世界と闘い、万物を主管し得る立場を収拾して、人間世界を主管しているサタンを壊滅させなければならず、霊界とも対決して、数多くの霊人たちまで主管できる絶対的な位置を構築しなければならない方です。真の父母には、そのような使命があります。
それでハナニムは、万物から人間、天までつながった一つの世界を復帰するために、今まで真の父母を送れる道を築いてこられたのです。
真の父母が現れるためには、真なる息子、娘がいなければならず、真なる息子、娘が現れるためには、真なるしもべがいなければなりません。
そして、ハナニムの復帰歴史路程を見ると、僕の時代を経て、子女の時代を経て、父母の日を迎えられるように、ハナニムが役事してこられたことが分かります。また、僕の時代から、養子の時代、子女の時代を経て、父母の時代まで復帰してくる間、霊界にいる霊人たちも協助してきたというのです。


外的に一国家の基準を超えて、世界的な基盤が備わる前には、真の父母はこの地に来ることができません。それでハナニムは、ノアとアブラハムを経る2000年摂理歴史の期間があったのち、ヤコブをして初めてイスラエル民族を形成し得る基盤を築くようになさいました。そして、その民族を通じて国家を形成するようになさいました。それまで、数多くの歴史路程を経てきながら、御苦労されたのです。
そうするためには、個人の立場でハナニムに代わってサタンと対決して勝たなければならず、養子の立場でハナニムに代わってサタンと戦って勝たなければならず、直系の息子、娘の立場でもハナニムに代わってサタン世界と戦って勝たなければなりません。そうでなければ、真の父母を迎えることはできません。それゆえ、摂理歴史は旧約時代から新約時代を経て、今日まで長い歴史を経てきているのです。
このように、僕の立場を復帰し、養子の立場を復帰した基盤の上で、直系の息子、娘の立場を復帰し、すなわち勝利の基盤を築いておいたのち、真の父母の因縁を立てようとすることが、ハナニムがこの地上にメシヤを送られた目的でした。
イスラエル民族の不信で、ハナニムが4000年間準備なさった僕の基盤が崩れ、養子の基盤も崩れました。それで、2000年前に来られたイエス様は、僕の立場で戦って勝利され、養子の立場で戦って勝利され、直系の息子の立場で進まなければなりませんでした。これがイエス様の立場であったことを我々は知っています。
養子の立場と直系の息子の立場を経たのち、イスラエル民族を基盤として、真の父母の因縁を立てておくのが、ハナニムがイエス様を送られた目的でした。またそれは、イエス様がこの地上に来てなさるべき使命でした。ところで、イエス様が十字架にかかって亡くなられることにより、全体的な基準で勝利の基盤を築くことができず、霊界を中心として真の父母の因縁を開拓してこられたのです。
ところで、まだ個人的な位置、家庭的な位置、民族と国家的な位置をつかめずにいます。ただ、天のみ旨に対する個人と家庭と民族と国家を立てて、今まで回りに回ってきたというのです。
この世界的な時代を迎えて、天は必ず、約束されたように新郎となる主を送ってくださるでしょう。それで、新婦を選ばれ、真なる勝利の基盤を築かれることでしょう。真の父母の位置は、本然の創造目的の位置であるために、そのような位置を築くため、ハナニムは今まで6000年闘ってこられたのです。それゆえ、6000年の復帰摂理歴史は、この真の父母を迎えるための歴史だと言っても過言ではありません。その真の父母は、6000年の摂理史全体に代わる方です。それで、その真の父母を探し出せなかったことが、人類全体の悲しみであり、苦痛であり、悲哀であったということを、我々は知るべきです。


人類歴史は何の歴史かといえば、真の父母を復帰する歴史であるということができます。真の父母を復帰せずには、真なる子女が存在し得ず、真なる子女の因縁を立てる前に、真なる家庭と真なる宗族と真なる民族、国家、世界、天宙が存在し得ません。ハナニムは、今までこの基準を立てるため、6000年という長い歳月を苦労してこられました。
今から2000年前に来られたイエス様は、この地上に初めて真の父母の栄光として来られた方でした。ところで、イエス様が真の父母として現れるためには、すなわち、真の父母は歴史的な結実体なので、イエス様が歴史的な結実体として立つためには、一面的な勝利をしても駄目なのです。息子の使命だけを果たしても駄目なのです。父母の使命を果たさなければならなかったのです。
エス様はこの地上で、肉的には息子の立場を復帰する路程を経ていかなければならず、霊的には父母の立場を復帰する路程を経ていかなければなりませんでした。このように、両面的な立場で責任を果たし、ハナニムと一つになり得る起点を立てなければなりませんでした。
そうするとき初めて、その起点は、個人的イスラエルの基盤になり、家庭的なイスラエルの基盤になるのです。民族的なイスラエルの基盤になり、国家的イスラエルの基盤になり・・・。このようになっていたなら、霊的・肉的に真の父母の基準を立て得たはずなのに、イスラエル民族がイエス様を不信することにより、そうすることができませんでした。
本来真の父母は、創造原理を見れば、霊的・肉的にハナニムの祝福を受けた人でなければならないのです。ところで、イエス様はイスラエル民族の不信によって真の父母になれませんでした。イエス様は、霊界に行かれても、真の父母を迎えるための基盤を築いてこられたのです。
この言葉は、どういう意味ですか。この地に再び来られる主は、霊的な父母の立場を復帰しなければならず、肉的な父母の立場を復帰しなければなりません。それで、これを御存じのイエス様は、今まで2000年間、霊界に行き何をされたのかというと、再び来られる主が霊界から迫害を受けず、蹂躙じゅうりんされることのない基盤を築かれました。イエス様を中心とした霊的な社会・国家・世界的な基盤を築かれました。
エス様は、地上ではなく霊界で摂理してこられたので、キリスト教を信じる人たちはすべて、霊的な父母と因縁を結んできたのです。
この地に再び来られる主は、イエス様が洗礼ヨハネからすべての祝福を相続されたのと同様に、イエス様からイエス様の霊界で築いておかれた霊的な個人、家庭、国家、世界的な基盤を相続しなければなりません。そのような立場を経ずしては、真の父母の因縁をこの地に立てることはできないのです。
地上で霊的な相続の基準を立てるのが原則です。イエス様が、再び来られる主に霊的な基盤を相続しようとするとき、地上のキリスト教徒たちが再び来られる主と一つになれば、地上で相続の基準を築けるはずですが、今までキリスト教徒たちがそのような基準を立てておくことができなかったために、霊的な勝利の基盤を、来られる真の父母の前にそっくりそのまま移すことはできなかったのです。


それによって、再び来られる真の父母様は、再度霊的な相続の基準を復帰し、肉的な相続の基準を復帰する闘争歴史を経ていかなくてはならなかったのです。
本来、ハナニムが6000年間摂理されたことは、来られる真の父母の基盤を備え、当代に勝利の基盤を築かせるためだったのに、この地上にいる聖徒たちが霊的な父母の命令に一致団結して従うことができず、その命令に歩調を合わせられなかったことにより、今までイエス様の築いておかれた霊的な基盤を、再び来られる主が相続する基準が立たなかったのです。
それで、再び来られる主、真の父母となられる方は、再び霊的な世界から、個人的試練から、家庭、宗族、民族、国家、世界的な試練を受けなければなりません。その試練に勝って、内的勝利の基準を立てずしては、地上に実体的な勝利の基準を立てられないので、内的な闘いをしてこざるを得ないのです。
(13-280, 1964.4.12)
なぜハナニムは、復帰摂理をなさるのでしょうか。本然の父母、すなわち真の父母の因縁を立てるためです。では、「真の父母」とはどのような方でしょうか。真の父母は、ハナニムが臨在し得る実体聖殿です。皆さんは、これが実際に実感できないことでしょう。その価値が、どれほど大きいでしょうか。
ところが、ハナニムを知ることが、たんすの中にあるアクセサリーよりも劣ると思っている人たちがいるのです。そのような人たちが、ハナニムに「福を下さいませ!」と言っています。そのような人たちを通じて、ハナニムのみ旨が成され得るでしょうか。
(22-43, 1963.1.19)

 

2) メシヤは「真の父母」

 

① メシヤは「真の父母」である

来られるメシヤとは、どのような方でしょうか。個人はもちろん、家庭、宗族、民族、国家、世界、天宙すべてにかけて、信仰と希望と愛の実体として立ち得る方です。その方が、このような場に立ってこそ初めて、人類の歴史上に残っている信仰が結実し得るのであり、希望が結実し得るのであり、愛が結実し得るのです。
そうでなければ、信仰と希望と愛は結実することができません。その方が言う言葉は、個人的な言葉ではありません。皆さんもそのような信念をもって叫ぶようになるとき、その言葉は個人の口から出てくる言葉ですが、世界史的な内容と因縁を備えた言葉になるというのです。


知恵深い人とは、どのような人でしょうか。まず、世界的な時、希望の時を区別するすべを知る知覚をもった人です。それをあらかじめ知って、分析して、批判して、実践して、自分のものにする責任を負える人が、知恵深い人です。
メシヤがこの地上に来られるとき、その方は個人として来られますが、個人ではありません。その方の価値は、全世界の人類が信じている信仰の結実体であり、全世界の人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。
その結実体には、すべての歴史路程がつながっています。すなわち、過去、現在、未来が、すべてつながっています。そして、個人から家庭、宗族、民族、国家、世界が全部つながっていて、天と地がすべてつながっているのです。
(13-142, 1964.1.1)
メシヤはまことの父母です。我々は真の子女です。同じ運命圏に立って、そこに加わらなければなりません。
(55-97, 1972.4.23)

 

② メシヤの顕現過程

今まで数多くの宗教が出てきていますが、その使命とは何でしょうか。一人を探そうということです。数多くの宗教が救いを得て何がどうだと言いますが、世界的によりすぐって、最高の位置に上がり得る人、その位置を超えたその一人を探そうというのです。その一人を立てようというのです。
このように、すべての宗教の中心は一人ですが、その存在とは誰かというと、メシヤというものです。言い換えれば、すべての宗教が一人を探してくるのに、その一人の中心存在が誰かといえば、メシヤ、救世主というものです。メシヤが来るのに、その場に直ちに来るのではありません。7年路程を経なければなりません。メシヤは男性です。そのメシヤが来て、サタン世界で血統的な関係を超越して、サタンに勝たなければなりません。
勝ったその男性を中心として、家庭的にも勝たなければならず、宗族的にも勝たなければならず、民族的にも勝たなければならず、国家的にも勝った基盤をつくっておかなければならないのです。男性一人だけをもってしてはいけません。すなわち、サタン世界よりも立派にならなければなりません。サタン世界に属した家庭より優位に立たなくては、メシヤは彼らを率いていける立場になれないのです。
サタン世界の最高の基準とは何かというと、国家というものです。サタンは、いつも国家を中心として反対してきました。サタンは、国をもったために、その国を中心として個人的にも天を打ち、家庭的にも天を打ち、宗族的にも天を打ち、民族的にも天を打ったのです。いつもこの国を中心として、天が築いてきた道を妨害してきたのです。
結局、反対されて迫害されるのは、劣っているためであって、勝っているなら、反対に迫害することができ、支配することもできるのです。人間が堕落したことによって、この世界はサタン世界になったために、この世界には、サタン側の個人もいくらでもいるのであり、家庭もいくらでもあるのであり、宗族もいくらでもあるのであり、国家もいくらでもあるのです。しかし、天の側はいないのです。個人はいますが、その基準に上がった家庭や、宗族や、民族や、国家がないのです。


結局、メシヤ個人として家庭に勝ち、メシヤ個人として宗族に勝ち、メシヤ個人として国家に勝ち得る基盤がなくては、一般の人が上がる道がないということです。それでハナニムは、この地上にメシヤが来るようになれば、メシヤに従って共に上がり得る圏を、個人から家庭を経て準備しておきました。それがイスラエル民族です。そして、その思想が選民思想なのです。
しかし、イスラエルの国は、まだここに上がることができませんでした。線に引っ掛かったのと同じです。それゆえ、選民の希望とは何かというと、この線を越えることです。この線を越えるべきであって、越えなければ大変なことになるのです。しかし、この線を越えようとしても、自分たちだけでは越える道がありません。
ですから、ハナニムは、イスラエル民族にメシヤ、すなわち救世主を送るという約束をしたのです。ハナニムがこれを国家的に越えるために、数千年間準備されたのがメシヤです。メシヤを送るという約束をされたのです。
それで、イスラエル民族の前にメシヤが来るようになれば、死んだとしても、そのメシヤを中心として共に死のうという立場になって、サタンが離そうとしても離せないように完全に一つになれば、そこから個人的に接ぎ木して、家庭的に接ぎ木して、宗族的に接ぎ木して、民族的に接ぎ木して、国家的に接ぎ木して、彼らをみな一時にここまで引き上げることができるのです。
それゆえ、この世界には選民思想がなければなりません。そうして、ハナニムが選んだ民族を中心として、ハナニムが選び得る国家を形成しなければならないのです。選民がいるという言葉自体は、ハナニムがいるという事実をあかすものなのです。メシヤを送るという預言があるということは、このような原則で見るとき、ハナニムがいることを証すものです。
では、我々がメシヤを必要とするようになったのは、何の目的があってでしょうか。それが問題です。堕落することによって、我々は偽りの父母をもちました。ハナニムと一つになった父母がなくなったということです。ハナニムと一つになり得る父母の位置を、我々にもってきてくださる方がメシヤです。これが第1です。
第2は何かというと、我々を再び生んでくれるのです。結局は、我々の体にサタンの血があるから、その血を抜いてサタンの息子、娘でないという立場で、我々を接ぎ木して再び生んでくださるということです。
第3は何かというと、メシヤは、サタン、悪魔をしもべとして使える人に、我々人間をつくり上げるということです。すなわち、我々人間たちの前にメシヤが来て、我々をしてサタンを屈服させて僕にし得る、サタンを屈服させて彼を処断し得る資格者にしてくれるということです。
結局、人間が堕落したために、第1は父母を失い、第2はサタンの血を受け、第3はサタンの支配を受けるようになったのです。ですから、それを復帰するためには、逆さまに上がっていかなければなりません。原理を見ると、信仰基台があり、実体基台があります。信仰基台を成して実体基台を成してこそ、メシヤを迎えることができるようになっているのです。これが原理なのです。それゆえ、信仰基台と実体基台まで成そうというのです。
(54-182, 1972.3.24)


メシヤは、それ自体が信仰の目的体であり、希望の目的体です。信仰と希望が成された目的体です。では、メシヤを主として、目的を完成したその時には、何だけが残るのでしょうか。目的がみな達成されたので、愛だけ残るしかありません。
それゆえに、最後に残るのは愛であると言いました。その愛は、信仰の完成実体を通じた愛であり、希望の完成実体を通じた愛です。その愛一つを主にした代表者として来られる方がメシヤです。
(13-140, 1964.1.1)

 

③ メシヤの使命

メシヤのみ旨とは何でしょうか。縦的な基盤完結を見て、横的基盤の出現を成立させることです。そうであるなら、メシヤとは何でしょうか。天倫のすべてを、ハナニムと人類が行くべき公義の目的を縦的な基準に一致させ、個人的な縦的完成標準、家庭的な縦的完成標準、国家的な縦的完成標準、世界的な縦的完成標準を完成させるために、その内的計画をすべて掌握して来られる方が再臨主だというのです。
(71-79, 1974.4.28)
宇宙をじっと見ると、「偉い」という存在が二つあります。「ハナニム」と「サタン」です。善悪の主人が戦っているのです。人間を中心として善悪の闘争をしています。
サタンがどれほど偉いですか。今までの人間の歴史を人類学的に見るなら、150万年だといいますが、歴史以来、悪の闘争をする総大将として、ハナニムまでひどい目に遭わせ、びくともできないようにしたサタンが、どれほど偉いかというのです。
この戦いを誰が終えなければならないのでしょうか。ハナニムもその戦いを終えることができず、サタンも終えることができません。このような話は、初めて聞くでしょう? 悪神と善神の戦いを誰が終わらせることができるのでしょうか。それはハナニムでもなく、サタンでもありません。では、誰が終わらせることができるでしょうか。人間は人間ですが、まことなる人間がこの闘いを終わらせることができます。
世界万民がついていける愛の主人公にならなくては、ハナニムとサタンの戦いを終えることはできないのです。この戦いから解放されない限り、歴史世界において、「平和」という言葉は妄想的な言葉になるのです。「理想」という言葉は、抽象的で、感傷的な言葉にすぎません。
では、誰がこの戦いを解決できるかというのです。それでハナニムは、この代表者を送りましたが、その主流の思想を「メシヤ思想」というのです。救世主は、人間だけでなく、ハナニムまで解放する人をいいます。また、悪を処断するのです。ハナニムを解放し、悪を決算するための総責任者が救世主です。