八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-6

八大教材教本 天聖経(2012年版)p231-267

【天啓の御言】(1-6)

 


皆さんが、運があってそうなのか、福があってそうなのかは分かりませんが、このようにしてこの時代に生を受けてこの一時に出会い、統一教会に入ってきました。統一教会にどのように入ってきましたか。皆さんをこの場に入るようにするまでには、数多くの先祖たちが精誠を捧げに捧げました。数多くの人たちが滅び、善が踏まれる場で死んでいきましたが、その千人、万人の因縁を経て、回りに回ってその因縁が天につながって、日が昇る高い山のような立場に立ったために、そこで日の光を眺めて集まった人たちが皆さんなのです。
人類歴史において、愛という因縁が出てくれば、それは初めて出てくる時です。それゆえ、生命の価値を賦与することができる時があるとするなら、その時から始まるのです。国と世界の主権をより価値のある内容で肯定させ得る時も、この時しかないのです。この時は、歴史の起源であり、希望の焦点であり、万福の出発点であり、永遠の生命の発源地なのです。そのような時だというのです。
堕落した世界は、未来の希望を探してきましたが、未来にはこの時が永遠の希望の基準になっていくのです。この時を中心として、皆さんがこのように進んでいくのを眺め、この時の心情を体得していき、世界を生かさなければならないのです。この時が、そのような時です。それゆえ、そのような頂上の実体として来た真の父母は、真の父母の心情の位置に属し得る規範に従って暮らさなければならないのです。それは、皆さんには分からないでしょう。
その父母は、どのようにしなければならないのでしょうか。善の父母であるために、悪の父母と違わなければならないのです。悪の子供については、どのようにすべきでしょうか。歴史上のどの父母よりも、厚い徳をもって対さなければならないのです。
このような悲惨な運命に置かれた子供に対する父母の立場に立っても、そこに引っ掛からないで、むしろ泣きながら追いかけて、万世のハンを解くために哀願あいがんし、たとえ互いが誤ったとしても、別れるのが嫌で慟哭どうこくする姿になるべきなのではないかというのです。そのような立場に立つべき真の父母ではないかというのです。違うのです。父母として持つべき心情的姿勢がそうでなければならないというのです。
そのような父母を迎え得る子女として、備えるべき心情的な姿勢と規範はどうですか。それがなければならないのです。万国の孝行者を代表した姿でなければなりません。世界マラソン大会に出場した各国のチャンピオンと同じで、自分の宗族から選出されたチャンピオンにならなければならないのです。何をするためのチャンピオンですか。孝行するためのチャンピオンであり、忠誠を尽くすためのチャンピオンです。皆さんが、そのようなチャンピオンの群れにならなければならないのです。


子女はこうであるべきであり父母はこうであるべきだ、というそのような意味では、統一教会の先生という人は、根が違います。その時を逃すようになれば、億千万年の恨を残すでしょう。お金で買えるでしょうか。知識をもって買えるでしょうか。自分のその何かをもって合わせることができるでしょうか。絶対できません。自分が引っ掛かっている世界、自分が引っ掛かっている民族、自分が引っ掛かっている宗族、自分が引っ掛かっている家庭にある荷物を一遍に背負うといって、その場を引き継ぐことができるのですか。それもできません。
共産世界を滅ぼし、民主世界を滅ぼすことがあったとしても、これは滅ぼすことはできないのです。世界人類を全部犠牲にしたとしても、これを侵害させてはいけない、とハナニムが御覧になるでしょう。このように考えるのです。
このような焦点上にいる皆さんですが、言いたいことをみな言うことができますか。自分が言いたいことをみな言って、孝行者になる道理はありません。自分が言いたいことをみな言って、したいことをみなして、忠臣になる道理はないというのです。
(51-354, 1971.12.5)
現在の立場は、どのような立場でしょうか。真の父母を中心として、同時代に処した時です。これは、一生に一度しかないのです。歴史の数多くの流れの中で、魚の切り身でいえば、魚の真ん中のような期間です。
(46-167, 1971.8.13)
ハナニムのみ旨から見れば、韓国の一番大きな教団の教会堂が、ハナニムを代表して祈りを捧げることを願うにもかかわらず、雪の上でひざまずいて、礼拝の代わりに慟哭しながら、哀れなこの教会、この殿堂を救ってくださいと祈る立場になっています。この統一教会を立てるにあたって、悲痛な歴史の摂理的内容があったことを知るべきです。
しかし、今は各国が歓迎するのです。アメリカでも今、朝野ちょうやで問題になっています。日本でもそうです。ヨーロッパもそうです。統一教会の祝福家庭が初めて人類の希望的な家庭として、家庭の崩壊を防御することができ、青少年の淪落りんらくを防御することができる道だと、希望的な一つの灯台のように考えられる段階に入ってきたのです。そうするためには、先生の血肉がどれほど削られ、恨の涙と曲折をどれほどたくさん経たかを知るべきです。
誰も祝福家庭のカップルを離すことはできません。ハナニムがそのようなことを願うのです。その一組が祝福を受けるためには、天は多くの血族の手を経て、一時に先生に会わせたのです。それは偶然のことではありません。歴史的な事件です。
真の父母が生きる当代に、共に生きているということ、同じ空気を吸って、同じ時代に地球上で共に生活をしているということは、驚くべき事実です。それに先立って、祝福の基盤を受け継いだということは、驚くべき事実です。百万長者が問題ではありません。先生が皆さんのようであったなら、今日の統一教会が生まれたでしょうか。行く先々で監獄に直行するのです。監獄の正門を通って、裏門から出ていくのです。
先生が暮らせる家庭、先生がとどまれる教会、先生がとどまれる一族を取り戻していくにあたって、今は、世界の版図をみな築きました。そこに備え得る外的条件を、みな築きました。


世界の学界の集まりである世界平和教授アカデミー(PWPA)を百箇所以上、言論界の組織、それからこの世界を動かし得る頂上会談をみなつくっておきました。また、心を代表した宗教圏連合、体を代表した政治圏連合として、「世界平和宗教連合」と「世界平和連合」をつくったのです。
私個人で、体と心の闘争歴史として分かれたものを、今「終りの日」に来て、収拾せずには、人類の生きるべき道を収拾する道理がないのであり、平和の世界に行く道がないために、一人でこのようなことをするのです。反対されながらも一人でやるのです。
(211-336, 1991.1.1)

 

3) 「真の父母」の苦労と我々

 

① 「真の父母」は我々に絶対必要

「真の父母」が必要なのは、蕩減とうげん条件を立てるため、そして、愛で一つになった基準で、伝授されるためです。
(137-116, 1985.12.24)
アメリカは私の怨讐おんしゅうですが、私が監獄に入って、アメリカを生かすために「ワシントン・タイムズ」など、六つの団体をつくりました。この世なら、みな復讐ふくしゅうをするはずなのに、私はそうではありません。愛さなければいけないのです。蕩減復帰をするためには、必ず真の父母がいなくてはいけないのです。また、真の愛を中心として一つになるためには、真の父母がいなければならず、血統的に重生するにも、真の父母がいなくてはいけないのです。このように三つです。
(137-113, 1985.12.24)

 

② 我々は「真の父母」に接ぎ木された枝

本来人間は、横的な父母であり、ハナニムを縦的な父母として、縦横の父母の愛を中心として喜びの出発を見なければならなかったのです。それがサタンによって侵犯されたために、これを再び奪って付けて、まことの父母の息子、娘にならなければなりません。そうするためには、野生のオリーブになったために、真のオリーブの枝をもらって、接ぎ木しなければなりません。
宗教は接ぎ木することをするのです。これがキリスト教思想というものです。それで、新郎新婦の婚姻の宴が、この地上に現れなければいけないという話が出てくるのです。
(58-218, 1972.6.11)
人類の希望とは何かというと、真の父母に会うことです。歴史的結実とは何かというと、真の父母に会うことであり、時代の中心とは何かというと、真の父母に会うことであり、未来の出発の基地とは何かというと、真の父母に会うことです。そこに接ぎ木された皆さんは、枝になるのです。
今まで、歴史時代の願いは全部未来にありました。しかし、今日、皆さんの一生を中心とした真の父母との因縁は、永遠に一時しかないのです。一度しかない貴いものです。皆さんの先祖たちも持てず、皆さんの子孫たちも持てないのです。
(46-167, 1971.8.13)


堕落によって、サタンが人類を全部連れていきました。地獄に全部連れていったのです。それで、このように行くここにおいて、ハナニムが一つ、二つ、分けるのです。この世界は、サタン世界の野生のオリーブでしたが、そこで天の側のオリーブをつくりました。民主世界のキリスト教を中心として、天の側の野生のオリーブをつくって、世界をリードさせておいたのです。このサタン側の世界が弱化して、キリスト教文化圏が立つようになれば、再臨主が来て一遍に切って、完全に接ぎ木して一つにして、回して立てるのです。
今日、左翼が滅び、右翼がみな滅ぶようになりました。誰が、そのようにしましたか。ハナニムと真の父母が、そのようにしたのです。真なる父母と一つになった家庭は、世界のどこにいても、今まで真の父母が成してきた道を相続したために、そこで「強く雄々しくあれ」と言うのです。そうなれば、ハナニムとこの宇宙が先生を保護するように、その家庭を保護することによって、一国を消化するのは問題ないのです。
皆さん、「どこの信徒か」と聞かれたなら、「私は統一教会の信徒だ」と、誇らしく宣布しなさい。我々は真の父母に属した者だというのです。我々は真の父母の子女だというのです。けんかしないでください。けんかするのは、サタンを受け入れることです。宣布して回りなさい。「我々はナンバーワン・ムーニー! ナンバーワンハナニムの子女だ!」と言いなさい。そうすれば、サタンが讒訴ざんそできません。そのような考えを確固としてもって回りなさい。
(201-128, 1990.3.27)
我々のみ旨の帰着地が家庭です。家庭がなければ、ハナニムの定着地がありません。すべての家庭は、真の父母を中心として繁栄するので、家庭がなければ何も成し得ないのです。木で言えば、幹を中心として枝が伸びるのと同じです。その枝を折って挿し木をすれば、その木は繁殖していくのです。
そのような枝の使命を完遂すべきなのが、宗族そうぞく的メシヤです。幹からずっと東西南北に伸びて、大きくなることで、中心の根も大きくなるのです。その中心の根が大きくなるには、枝が大きくなることと比例して大きくなるのです。
それで、横的に大きくなれば縦的にも大きくなるのです。横的な基準を犠牲にして、ずっとこのように根が大きくなれば、枝もずっと上がります。み旨を中心として熱心にすれば、このようについてくるのと同時に、横的に拡大した力が圧縮されるために、「ため」に生きることで天宙をつなげることができる、という結論が出るのです。
それで、夫婦を中心として行くとしても、ハナニムを中心として縦的な基準で横的に奉仕の生活をすれば、そこで天宙統一圏が自動的につながるのです。このように一つになれば、必ず回ります。回っても倒れません。横的な基準があるために、倒れないのです。軸を中心として回るのです。回らなければいけません。遠心力と求心力が一つになることによって運動するのと同じです。


自分自身が無の境地になれば、自動的に回ります。回り始めれば軸も上がり、下がるようになれば、自然に反動が生じるのです。それで上がったり下がったりするのです。呼吸するように運動するのです。そのような完成型のような人間が、天上世界で家庭を成せば、天国家庭の基盤になり、そのような基盤を築くようになれば、離れません。父母が行く所において、共に永遠に侍ることができるのです。
それゆえ、真の父母を中心として、心情的共鳴圏を成し、その生活の体恤たいじゅつ基準が永遠の心情世界の基盤になるのです。
統一教会員は、真の父母と共に、ハナニムと共に生きていきます。真の父母の愛とともに生まれるのです。愛は永遠の因縁を結ぶため、愛の因縁は絶つことができません。死ぬ時まで愛を忘れられないのです。
父母は死んでいくときも愛の心情をもって、息子、娘を愛しながら死んでいくのです。夫や妻も同じです。愛を忘れて死んでいく人はいません。愛は、死を越えて、永遠とつながるのです。それで愛による生命圏を受け継いだ自分、男性と女性というものは、愛の根本である父母を忘れてしまうことはできないのです。
父母は根であり、自分自身は幹であるとするなら、息子、娘は芽です。それが共に大きくなれば、宗族圏、民族圏、国家圏に拡大するのです。
(218-127, 1991.7.14)

 

③ 我々のための「真の父母」の苦労

まこと の父母が真の子女を生むことは易しいことでしょうか、大変でしょうか。失ったものを探すのが、どれほど大変かというのです。個人が反対し、家庭が反対し、宗族、民族、国家、世界、天地、霊界がすべて反対するのに、これを導いてきたのです。商売心でそうしたでしょうか。何のためにそうなのですか。愛を中心として、愛を探そうとしたためです。
今、皆さんがそのような資格をもっては、その前に立てないということを知るべきです。皆さんが、百回訪ねてきても門前でけ飛ばしてしまい、千回訪ねてきてもけ飛ばしてしまうのに、皆さんを訪ねてきて、こうしているというのです。自分が、難しい迫害をみな一手に被っているのです。
皆さんが誤ったことを、すべて先生にもってきてぬれぎぬを着せます。先生はアメリカに来て、悪口を言われるべきこと、反対されるべきことは、何もしなかったのです。それなのに、皆さんが誤って、私が悪口を言われるのです。この世なら、皆さんを捨てていくのに、捨てられずにいるのです。アメリカの法廷にも、私は、ほうっておいて、現れなくてもいいのです。しかし、皆さんのために行きました。私がいなければ、皆さんがどれほど引き裂かれるでしょうか。それで、私が打たれて、皆さんを守ってあげ、保護してあげるのです。
(116-113, 1981.12.27)


 

④ 我々に対する「真の父母」の期待

統一教会には、西洋人たち、東洋人たち、まだらの人たち、本当にたくさん集まりました。何をするためにみんな集まりましたか。何をするために訪ねてきたのですか。先生に会っても、与えるものは悪口しかありません。げんこつしか与えるものがないのに、それでもいいと言って来ているのです。それは何ですか。愛を求めて集まるのです。まこと の愛を求めてくるのです。その味を知っているのです。働きばちみつの味を知ったなら、花の香りをかいで、千里の道も遠いと思わずに飛んでいくのと同じように、そのようにするのです。
真の父母になるのはたやすくありません。私が真の父母の権限を引き継がせてあげるので、「引き継ぎます」と言う代表者がいれば、出てきなさい。私が真の父母になるということは、考えもしなかったのに、気がついてみると統一教会の責任をもって、行かざるを得なかったのです。それで、行ってみると真の父母になったのです。
最初から、私が真の父母になるだろうということを知っていたなら、万民がみな分かったという理論になるのです。知らずに人生の根本問題を掘り下げてみると、ここまで来るようになったのです。ここに曲折がこのようになったのを、みな解いてみると、真の父母のすべての解怨かいおん成就も起こり、ハナニムが解放を必要としていることが分かり、そのハナニムが私によって解放されたために、絶対的に先生を愛さざるを得ないというのです。
皆さんが真の父母に出会って、何をしましたか。しておいたものが何ですか。先生は、今まで悪魔の世界でむち打たれながらも、家庭を経て、宗族と民族を経ながら、個人編成、家庭編成、宗族編成をしてきました。この統一教会の祝福家庭は、宗族を編成したのです。世界的です。
それを今は、サタン世界がそれを捕まえてどのようにすることもできません。なぜでしょうか。その暮らしをじっと見ると、素晴らしいのです。東洋人と西洋人が出会っても、いくらもたたずにけんかをしたりしてさっさと離婚するという、そういう時勢なのに、我々祝福家庭は、10年たっても最高であり、20年たっても最高なのです。そのように仲良く暮らしているのです。
(211-323, 1991.1.1)

 

⑤ 我々が備えるべき水準

皆さんの家庭に、「三大主体思想」のその実体を備え得る、真の兄弟、真の夫婦、真の父母が出てこなければなりません。実体存在です。真の兄弟になってこそ、真の夫婦が出てくるでしょう? 真の夫婦が出てきてこそ、真の父母が出てきます。真の父母の位置に立てば、真の夫婦になるのはもちろん、真の子女になるのです。父母の意識、主体思想を中心として、そのまま対象的な立場に立って一つになるのです。愛で一つになるのです。愛だけがこのすべてを和合することができます。
すべての元素も、微小なものも、愛の道を訪ねていくのです。ハナニムと一体となることができ、愛と直接接することができる細胞を訪ねていくのです。それが人間です。それゆえ、愛のためには犠牲にならなければならないのです。投入しなければなりません。生命と財産をみな投入した伝統があるために、低い段階のものは、高い段階のものに自分のすべてを投入しようとするのです。


それゆえ、ダーウィンの進化論ではなく、愛を中心として吸収する論理です。第二の価値的な内容を創造するところに創造要素として作用するときは、微小なものである現在の立場から、どれほど価値が上がるだろうかというのです。
(204-129, 1990.7.1)
これから最後に残る宗教とは、どんな宗教でしょうか。それは父母の宗教です。それで、父母の宗教が出てこなければならないと、宣布したのです。「歴史が長くなったからといって、父母の宗教になるのではない。それは、しもべの宗教だ! 庶子の宗教だ!」と宣布したのです。
それが公式の演説内容です。「父母の宗教の使命を受けたそのような責任者が、この壇上で、この大会の主題演説をするレバレンド・ムーンであることを、皆さんは知らなければなりません」。このように発表しても、世界が粛然しゅくぜんとしたのです。ですから、キリスト教では、「統一教会ムン総裁が再臨主だとうわさが立った」と言って大騒ぎするのです。西欧社会では、人として主が来るなら、先生以外にはいないというのが結論です。
皆さんもそのように考えますか。「文総裁が再臨主だというのか、韓国語を話し、私と同じだというのに。また言葉は、なぜそのように早いのか」と、こう言っているでしょう? 忙しい歳月を治めるから、言葉まで早くなりました。言葉が早いから、逃げる者も捕まえることができるのではないですか。それで、言葉の早いのも研究したので早いのです。日本語を話してもそうであり、英語を話してもそうで、誰も私についてこられません。
では、皆さんはそのような先生に出会ってよかったですか、悪かったですか。良かったなら、良かったという人たちが立派にやらなければなりません。
(214-175, 1991.2.2)

 

4) 恩寵と自覚

 

① 「真の父母」という言葉は初めて現れた言葉

ハナニムのみ旨が成されるためには、父母が来なければなりません。堕落した父母ではなく、真の父母が来なければならないのです。
この「真の父母」という言葉は、皆さんが考えもしなかった立場で見いだされ出会える、そのような言葉、そのような内容ではありません。これは、歴史上に初めて現れた言葉です。この事実は、革命が問題ではないのです。これは、歴史にない奇跡的な大事件です。
皆さんが、「まことの父母」というこの言葉を習い、「真」という言葉を言うようになったのは、今まで生まれては死んだ数多くの父母たちの愛を凌駕りょうがし得る、たった一度しか存在できない愛をもって現れたために、可能なのです。そのような基準をもったために、「真の父母」という言葉をいうことができるのです。このときの愛の関係は、ハナニムの愛があるなら、そのハナニムの愛を人間が初めて受ける最高の基準であり、イエス様がこの地に生まれて亡くなりましたが、そのイエス様も想像できない、そのような最高に理想的な立場です。
このような立場まで来るには、歴史過程でその代価を払ってきたのです。真の父母の基準が出てくれば、自分が根本的に敗北することが分かるサタンは、これを成せないようにし、この時が来ないようにするために、偽りの父母の立場で、手段を選ばず、数多くの人を犠牲にし、数多くの血の代価を払うようにしたのです。この日が来るまで、むごたらしい犠牲が払われたというのです。


そのような思想をもって、そのような道を行こうとするすべての信仰者たちに対して、個人的に犠牲にさせ、家庭的に犠牲にさせ、あるいは民族的に、国家的に、世界的に犠牲にさせてきたサタンの歴史がありました。そこに犠牲になった我々の先祖たち、善を追求して真の道、父母の道を探してきた善なる我々の兄弟たちが、どれほどむごたらしい血の代価を払ったかということを知らなければなりません。
(67-225, 1973.6.27)

 

② 「真の父母」という言葉は福音の中の福音

皆さんがユートピア世界を探そうとすれば、どこへ行くべきでしょうか。本然の家庭の愛の圏を経ずしては、行く道がありません。先生が原理主管圏内と直接主管圏内をハナニムの愛と真の父母の愛でつないだ基準があるために、霊界と肉界が、その愛の橋を通じて往来できる道が生じるのです。
原理でいうように、ハナニムが本来つくられたとおり、直接主管圏と間接主管圏に分けられているのです。では、それをどのように一つにするのでしょうか。それは、真の愛だけが可能なのです。これが一つになるときは、人間アダム、エバが成熟するときだけです。そのようなときは、自動的に水平的な真の愛が現れるのです。
その位置で、「おお、あなたは私の同伴者です!」と抱き締めるようになるとき、真の愛がその二人の中心に現れるのです。プラスの愛が完成して現れるようになれば、マイナスはすぐに現れるようになっているのです。プラスの愛がマイナスの愛に降りてきて運行するようになれば、真の愛の標準を描いていくのです。そうすれば終わるのです。
真の愛が現れれば、すべてが自動的についてくるのです。真の愛だけが、すべてに作用するのです。それで、世界がユートピア圏に転換されるのです。
どこから真の愛が出発するのでしょうか。真の父母からです。これは、福音の中の福音です。世の中にどんな良い言葉があるとしても、夫という言葉が良い言葉で、妻という言葉が良い言葉だとしても、堕落した世界は、真の父母が現れなくては真なる夫と妻が現れないために、真の父母以上に良い福音がないというのです。
(131-187, 1984.5.1)
歴史過程において、悲しみがあれば、最高の悲しみ、困難があれば、最高の困難、血の代価を払ったなら、最高の代価を払った、その結果として見いだされたのが、この真なる家庭なのです。
この真なる家庭が見いだされることによって、歴史的な悲しみが解怨かいおん成就され得るために、歴史的な死の代価が解怨成就され得るために、歴史はこのような悲惨な蕩減とうげん条件を払ってきたというのです。したがって、この真なる家庭が、この地に顕現したという事実は、我々人類において、それ以上の喜びはなく、それ以上の価値はないのです。


そのような真なる家庭を成すためには、真なる父母がいなければなりません。真なる父母がいなければならないのと同時に、真なる夫婦が成されなければならないのです。真なる夫婦が成されて、真なる子女が誕生しなければならないのです。
この真なる父母は、サタンの前にいかなる讒訴ざんその条件をも残してはいけません。真なる夫婦は、サタンの前にいかなる讒訴条件に引っ掛かって、うめく場にあってもいけないのです。真なる家庭に属している子女もまた、サタン世界に讒訴条件を残し得る位置に立っては、真なる家庭の息子、娘になり得ません。
皆さんは、「真の父母」という言葉を話し、「真の父母」という名詞を知っています。この「真の父母」という言葉は、歴史時代に、誰も呼んでみることができず、誰も考えられませんでした。しかし、今日我々は、呼ぶことができ、知ることができ、侍ることができる栄光の位置に立っています。このように我々は、歴史時代の誰よりも幸福な位置に立っているのであり、歴史時代の誰よりも高貴な位置に立っているというのです。
「真の父母」という名前とともに、歴史において今まで苦労してきたし、真の父母の勝利の基盤を備えるために、歴史的な数多くの犠牲の代価を払ったということを考えるようになるとき、「真の父母」という名詞こそ、今日我々人類に福なるみことばの中の福なるみ言であるということを知るべきです。
この真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界に入り得る起源が生まれ、真の父母によってサタンを屈服させ得る内的な因縁が決定し、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めてハナニムを解怨成就してさしあげられる中心が決定されるのです。それゆえ、真の父母と共に暮らし、真の父母の命令に従って行動し得る、この驚くべき恩賜おんしに、皆さんがまず感謝しなければなりません。
自分の人生をみな犠牲にすることがあっても、真の父母の行く道に同調できる道があるなら、我々人類の前に、これ以上の幸福なことがないというのです。真の父母の命令に従って、敵陣に向かって行進する兵士がいるなら、彼は人類が願う最高の希望の頂上の中で、天と地が直視し、歴史が注目する神々しい勇士です。
皆さんが真の父母の心情に代わって、あるいは、国家と民族に代わって戦うことができる立場に立ったとするならば、その心情によって、国家なら国家、民族なら民族が初めて幸福の園の門を開くことができ、行進して入り、勝利の栄光の場に参席することができるのです。そのような希望の国民と国家が顕現するという事実を考えるようになるとき、真の父母の心情の旗を掲げて立ち上がる皆さんこそ、歴史を呼び起こすことができ、死亡の世界をもう一度審判することができる旗手であるのです。そのことを、皆さんは自覚するべきです。
(43-142, 1971.4.29)


 

③ 「真の父母」により未来が保障される

統一教会でいう「まことの父母」という言葉は、偉大な名詞です。もちろん原理の内容も深みがあります。ここから未来に対する確信と価値を保障することができるのです。また、現実舞台に、価値を保障することができる一つの原点があるなら、それはその言葉から来るのです。
ここで我々は、どのようにしなければならないでしょうか。一つにならなければならないのです。誰を中心として一つになるべきでしょうか。自分を中心として一つになってはいけません。自分の家庭を中心として、真の父母を率いて一つになろうとしてもいけません。真の父母の前に率いられていかなければならないのです。率いられていくには、自分だけ率いられていくのではありません。自分の父母なら父母、夫なら夫、妻なら妻まで率いていかなければなりません。それだけでなく、自分の子供たちも率いていかなければならず、家庭にある物質までも率いていかなければならないのです。そうして一つにならなければなりません。
(35-274, 1970.10.25)

 

④ 「真の父母」の価値

ハナニムの摂理の目的とは何かというと、一つの焦点です。ハナニムの理想が実現される場も、正にその場です。我々が、失ってしまった父母、失ってしまった真の父母様に出会うことができる所も、正にそこです。それで、その基台がすべての中心です。その立場、それが真の父母というものです。歴史上に多くの立場がありましたが、この立場が最も価値のある立場です。
それが、どれほど重要なものなのか考えてみなさい。すべての聖人たちがこの基台、この問題のために戦いました。ハナニムがこれを重要に考えられ、霊界にいるすべての霊人たちも、そのように考えています。それゆえ、この地上の全人類も、これを重要と認識しなければなりません。
皆さんは、この本当の価値を知ることができませんでした。これは、数千個の国土を与えられても替えられません。国土ほどのダイヤモンドを与えられても替えることができません。アメリカ全体をハナニムに祭物として捧げたとしても、皆さんはそれを得ることができません。
皆さんの目で直接その立場を見ることができるなら、どれほど幸福でしょうか。また、見ることができなければ、皆さんはどれほど不幸な人になるでしょうか。もう一度、じっくりと考えてみなければなりません。それで、ハナニムの目、すべての霊人たちとすべての人たちの目が、ここに焦点を合わせなければいけません。
このような観点で歴史を見るようになれば、歴史というものはないのです。歴史は、これと何の関係もありません。この立場は、堕落する以前における人間の最初の先祖のための立場であるために、これ以後には堕落したいかなる歴史もあり得ません。
ここから新しい内容が出発します。すなわち、すべての中心、すべての内容、そしてすべての結果がここから出発するでしょう。ここに参与し得る者たちが、地上の最初の勝利者になるでしょう。ここから、ハナニムの愛を中心として、家庭を成し、サタンの主権を追い出し、この地上に新しい天国を建設するために、出発することができます。また、ここから歴史の実が結ばれるようになるでしょう。この立場が全世界の中心点です。


この位置が未来のための出発点になるでしょう。ここから過去の歴史の完成が成されるであろうし、現在の歴史の完成が保全されるであろうし、未来世界の完成が始まるでしょう。この点、この位置をつかめるなら、皆さんは一人の人間として、すべてを征服した征服者になれます。
では、価値がどれほど大きいでしょうか。それがどれほど素晴らしいものであり、皆さんがそれをどれほど愛し、どれほどたたえ、どれほど尊重し、また、どれほど好むようになるでしょうか。この位置は、最高に高い位置になるべきです。歴史において最高の高い位置に置かれなければなりません。そのすべての偉大な人たち、彼らがいくら偉大だとしても、これには比較することができません。皆さんがこれを見るようになれば、間違いなく、うれしくて感激するでしょう。
皆さんは、眠る間に、夢の中で踊りを踊ったことがありますか。皆さんがこの場、この位置を思うようになれば、そのたびに皆さんがそのような感情をもつようになって、眠りながらでも踊りを踊ることができるようになります。皆さんは他のどんな位置よりも、皆さんの生命や、他のいかなるものよりも、この位置に心がもっと引かれるべきです。再び見たいと思い、共に暮らしたいと思い、これなしには生きられないという、そのような感情をもつべきです。
(52-95, 1971.12.23)
父母になるには、天地が和答(注:互いに応じて答えること)しなければなりません。天上世界に行ってハナニムに勝ってこなければなりません。アダムは、ハナニムが「そうではない」とおっしゃることを「そうです」と言って、事実を事実ではないことにしたので、事実でないことを事実として肯定させなければ、本然の基準に入れないのです。
天地間で真の父母になるための過程において、すべての問題を実体的に解決することのできる内容が、天地を明らかにするのであり、すべての歴史的な曲折を解放させるのであり、ハナニムの心中に打ち込まれたくぎを抜くのです。ハナニムが願う愛の解放は、このような息子と娘を抱いて愛しながら、喜び、踊り、笑うことです。すべての存在が歓喜に満ち、千年、万年その喊声かんせいが、被造万物から全天地に満ちなければならないのです。
否定するそこにおいて、肯定的内容を提示しないことには、地上に来られないのです。ですから、どれほど深刻ですか。天上世界で孔子釈迦しゃかとイエス様が集まって、このような試験をするのです。それをみな握りつぶしてしまい、ハナニムの前に来て、談判するのです。
ハナニムの創造理想には、言葉で言えない心情があります。このみ旨をアダムが完成期に自ら悟って、悪魔を屈服させなければならないのです。解放の主権者にならなければなりません。万国の統治者であり、万民の救いの主人であり、兄弟の長子権を備え得る人がアダムなのです。サタン世界が反対するようにして、40日間霊界が混乱の中に陥るのです。ハナニムが審判官であるために、ハナニムから正義の判定を受けなければなりません。そこでムン総裁の勝利の判決を受けて、地上に来るのです。
(215-86, 1991.2.6)


 

⑤ 感謝すべき我々

ハナニムに対する感謝を、どのように捧げることができるでしょうか。まことの父母に対する感謝を、どのように捧げることができるでしょうか。我々の教会に対する感謝を、どのように捧げることができるでしょうか。皆さんを再創造してくれたことに対する感謝を、どのように捧げることができるでしょうか。
私が経てきたのちには、真の家庭が現れるのです。さらに1段階進めば、真の宗族が現れ、さらに1段階進めば、真の国家が現れるのです。さらに1段階進めば真の世界が現れ、さらに1段階進めば真の宇宙が現れ、さらに1段階進めば真の天宙が現れ、さらに1段階進めばハナニムが現れます。これが我々の最終目標なのです。
人間は、堕落した以後にサタンの血統を受け継ぎました。これが問題です。数千万代を経て、ハナニムの血統でないサタンの血統を受け継いだのです。それで、どのようにこのサタンの血統を清算するのでしょうか。アダムとエバが堕落した以後に受け継いだ汚れた血統を、どのように清算するのかというのです。
そのような内容を清算するために、真の愛、真の生命、真の血統を中心として現れた方が真の父母です。サタンの血統を肥料にして、生命を育ててきたのです。しかし、新しい復活の時代には体がハナニムの愛と、生命と、血統を中心として、真の愛を肥料にして育ててきたのです。そうしながら、一方は消え、一方は繁栄してくるのです。ここからハナニムが共にいらっしゃり、サタンとは永遠に離別するのです。
ハナニムの心の中に苦痛があるとは、誰も思わないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通じて現れ、その深い使命を明らかにしたから分かるのであって、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実かというのです。イエス様もそれを知りませんでした。知っていたとしても、心にあることを言うことができなかったのです。また、宗教指導者のうち、誰もそのように隠された宇宙の秘密が分かりませんでした。歴史上初めて、世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。
今から個人的基盤でなく、国家的基盤に方向を変えなければならないのです。一国家の指導者も、過去を悔い改めて振り返れば、ハナニムが許されるのです。それはハナニムの新しい伝統に属するのであり、新しい血統を意味するのです。そうでなくては、サタンを分立することができないのです。それはまた、統一教会の祝福式以前にある、血統転換式を意味するのです。
天地創造の時に堕落しながら、真の愛、真の生命、真の血統が堕落世界の汚いものとつながりました。しかし、今は、ハナニムの真の愛、真の生命、真の血統を中心として、横的につながっているのです。これは180度転換したのです。サタン側とつながったアメリカや、この世界には、希望をかけることができません。全世界の人類が、初めから最も邪悪なサタン側の父母についていったのです。しかし、今は初めてその方向が180度転換したのです。そこは、出発点ですがゼロ点です。そこには何の意味も、存在も、観念も、伝統も、文化もないのです。これが再創造です。


ハナニムが、初めにすべての環境的なものを創造されてから、土と水と空気で一つにして人間を造りました。その時、人間は何の観念もなかったのです。ゼロ点なのです。このサタンの伝統から、180度転換するのです。
180度転換して生まれ変わるのです。生まれ変わるということは、再び生まれるということです。その最初は国ではなく、父母です。その次は、兄弟です。3番目は夫婦、夫と妻です。4番目は子女です。
ハナニムは、3世代を願われるのに、この3世代をもつことができませんでした。1代はハナニム、2代はアダムとエバ、3代は今までもてなかったのです。今までハナニムを中心として、人類が繁栄できず、ただサタンに属すようになったのです。そのサタンは、愛の怨讐おんしゅうです。
どうすれば、この血統を清算できるでしょうか。「私」は日本人でもなく、どの国の人でもない、ハナニムの民として生まれたのです。何を中心としてですか。ハナニムの愛、ハナニムの生命、ハナニムの血統、この三つの根源が標準なのです。
ですから、感謝するのに、何を感謝するのでしょうか。豊かに暮らすことを感謝するのではありません。十字架を背負ったことを感謝すべきなのです。戦争で負けた敗残兵が血を流し、倒れ、腐ってにおいがしているなら、それを誰が葬りますか。誰が敗残兵を教育して、再び正規軍にするのでしょうか。また、食べるものがなければ、その人たちをどのようにするのですか。ただ殺してしまうのですか。違います。勝てばみな良いと思ったのに、もっと大きな十字架を背負うようになるのです。それをみな解決してから、それを再び建設したのちに初めて、自分の時が来るのです。自分が、新しい家庭を立て、新しい国家を立て、新しい世界を立てたのちにこそ、幸福に暮らせるのです。
いくらそれが難しいといっても、永遠の世界、本郷に汽車のレールがあるなら、このレールと、この地に暮らすレールと同じでなければなりません。霊界に入るレールと同じでなければなりません。皆さんはどうですか。現在自分の暮らしているレールが、霊界のレールと同じだと思いますか。ただそのままハナニムの前に走っていけますか。そのレールを同じようにするために、真の父母が必要なのです。
(215-171, 1991.2.17)

 

⑥ 「真の父母」との因縁は宿命的な業

我々人間は、100パーセント愚かな立場に立っていますが、100パーセント以上知恵深いハナニムが友達になり、無限の霊界の先祖たちが、自分の同伴者になり、後援部隊になっています。そのようなことを考えるとき、有り難いのです。先生は一線で冒険の場、ゴリアテの前にダビデが立ち上がるときのその気分が、本当によく分かります。堂々としているのです。ハナニムが保護されて、百戦百勝することができるのです。「打てばお前が裂けるのであって、私は裂けない!」という心をもって暮らしてみると、本当にそのようになったというのです。


ハナニムが先生をこのように育てたのと同様に、先生も皆さんをそのように育てるべき責任があります。それゆえ皆さんは、「智者にならなければならない」という宿命的な課業を相続しなければならないというのです。因縁的な課業ではありません。宿命的な課業です。
真の父母と真の父母の子供ということは、永遠不変の宿命的な業です。これを誰も分けることができないのです。千年、万年その道を行かなければなりません。行くべき道は二つではなく、一つです。ほかに方法はありません。秘法はありません。その道を行かなければなりません。
(203-192, 1990.6.24)

 

⑦ 責任をもつべき我々

霊界に行き、12の真珠門を経ていくためには、どのようにすべきでしょうか。地上でサタンからどれほど天の民を取り戻してそこに入ってくるかということが問題です。
そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに、血と汗とともに交差するその過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数に比例して、あの世の栄光の位置、ハナニムの近くに行くすべての条件の成立が決められるということを知るべきです。
先生は、生涯をかけて、国だけでなく世界のために生きました。なぜでしょうか。霊界に行っている人たちまでも、全部真の父母の恵沢を受けるべきなのです。ダンベリーの監獄に行き、2月1日、地獄と天の門を開く式をしました。それを開門するために、すべてのことを準備しなければいけません。ですから監獄にも行かなければならないのです。
このように、千辛万苦、ハンの峠を越えに越えなければなりません。大洋が広いといえばそれを泳いで渡っていくがごとく、山が高いといえば、裸足でも白雪が積もっているヒマラヤ山頂を越えるがごとくにです。そのように、歴史の悲惨さ、それ自体を越え、すべての勝利の覇権的基盤を立てたのです。悪魔自体がついてこようとしても、ついてくることができず、離れまいとしても、離れざるを得ない受難の道を経てきたというのです。
自分の家の自分の息子、娘は厳粛な立場にいるのです。第二のハナニムです。おじいさん、おばあさんは、昔を代表したハナニムに代わり、お父さん、お母さんは、この時代を代表し、息子、娘は、未来を代表したのです。この3時代の代表を過去、現在、未来のハナニムの顕現者として侍るすべを知るべきです。息子、娘をたぶらかし、妻をたぶらかし、夫をたぶらかし、父母をたぶらかす人は、地獄に行くのです。「ため」に生きる愛、生命までも投入して忘れることができる真の愛の核を中心として、家庭と国家と天地がつながるようになっているのであって、それ以外にはありません。


そのような核を通じた心情的内容をもって、天国の民をどれほど復帰するかということが、私の国の統一を解決する秘訣ひけつです。他の所へ行っても、私の国を統一するという同様の立場でその国を、あらゆる精誠を尽くし、どの国にも負けないよう、まず天の前に奉献しなければなりません。
旧約時代は万物、新約時代は息子、娘、成約時代は夫婦、その次にはハナニムです。堕落によってハナニムを地上に迎えられず、サタンを迎えてハナニムと離別したので、今はハナニムを迎えて、全部つなげなければなりません。
それゆえ、皆さんの物は、皆さんの物ではありません。万物は旧約時代に該当するのであり、息子、娘は新約時代に該当するのです。旧約時代に万物を犠牲にして、息子、娘の行くべき道を築きました。そして再臨主、真の父母がこの地に来て苦労することは、ハナニムをこの地に迎えるためなのです。しかしサタンを地に迎えたので、これは地獄です。ハナニムを迎えなければなりません。これは「真の愛」でしなければなりません。
再創造は、投入して投入して忘れる真の愛の起源を通じて成されます。ハナニムを迎えられる物質と子女と自分の実体全部を真の愛で結合させて、このすべてが真の愛とつながったハナニムのものである、という言葉が設定されたのちに、再び分配されて、子女の所有時代につながるのです。父母の所有、子女の所有として分配されるのです。
(211-352, 1991.1.1)

 

5) 我々の成すべきこと

 

① 我々の責任

復帰の道を行く皆さんは、個々人ですが、皆さん個人だけが行く道ではありません。復帰の道を行く皆さんは、いつもまことの父母に代わって行くのです。そうでなくては、宗族的、民族的、あるいは国家的な真の父母の勝利の基盤を備えることができないのです。
皆さんが真の父母に代わって正しく行くためには、真の父母が世界的な霊的勝利の基準を立てるために行くので、皆さんは国家的勝利の基準を立てるために行かなければならないということをはっきり知るべきです。霊的には真の父母の勝利の基準が立てられたので、地上にも真の父母の勝利の基準を立てるべきですが、皆さんが民族的な基準を越えるべき真の父母の責任を代行しているのです。
これを他の面で説明すれば、皆さんが民族的な基準を越えて世界的な基準に向かっていくなら、来られる真の父母は霊的に天宙的な勝利の基準を立てなければならないのです。真の父母の因縁をもって来られる主は、我々が背負っていくべき十字架を霊的に開拓し、実体的に勝利され、すべてに責任をもっていかなければならないのです。これが父母復帰の難しさです。


では、天と地と人間を振り返ってみるとき、天がある一時でも、勝利の真の父母に侍ることができましたか。まだ侍ることができませんでした。地が侍ることができましたか。まだ侍ることができませんでした。人間が侍ることができましたか。まだ侍ることができませんでした。その途上にいるのです。では、真の父母だけに侍ればいいのでしょうか。そうではありません。真の父母に侍ったのちは、真なる家庭、宗族、民族、国家、世界を復帰しなければなりません。そのために準備したのが、イスラエル民族でした。
真の父母の前に真の子女として立つためには、子女の個人的な復帰路程があるのであり、子女の家庭的な復帰路程があるのであり、子女の宗族的な復帰路程があるのであり、子女の民族的な復帰路程があるのであり、子女の国家的な復帰路程があるのです。父母の個人、家庭、宗族、民族、国家的な復帰路程と、子女の個人、家庭、宗族、民族、国家的な復帰路程を完結し、父母と子女が一体となり、勝利したという基準を立てておいてこそ、初めて民族復帰を終結して、世界的な舞台に向かって新しく出発することができるのです。
では、統一教会の使命とは何であり、統一教会に入教した皆さんは、どんな立場にいるのでしょうか。先生を中心としたこの統一教会に呼ばれてきた皆さんは、悲痛な6000年の縦的歴史を横的、実体的に展開しなければならない立場にいるのです。
我々は、今、何の決心をすべきでしょうか。我々が行くべき目標はどこですか。世界的な基盤の上に真の父母の国を立てなければならないのです。世界的な真の父母の国を立てなければならないのです。いまだ悲しみと苦痛と涙がこの世界に残っているのですから、これらを我々が1日も早く清算しなければなりません。これが、今日統一教会が担っている責任であり、使命なのです。
それゆえ、皆さんは今、行くべき道に立ち上がったので、イスラエル民族がカナンに向かっていったときと同様に、後ろを振り返ってはいけないのです。心でもそうすべきであり、体でもそうすべきなのです。
我々が抱くべき希望とは何でしょうか。天に代わってこの地に来られる真の父母様に、本当に侍ることを希望しなければなりません。侍るには勝利の基盤が成されたのちに、万民が仰ぎ見、万民が恭敬きょうけいするようになった位置で侍ることを願ってはいけないのです。悲しい歴史を経られる真の父母に侍ることを願わなければならないのです。
悲しい歴史を経てきた真の父母に侍ることができないことを、先祖たちはハンと考えているのです。真の父母に本当に侍ることを、すべての人類が希望するのです。それゆえ、栄光の場で侍ろうとするより、悲惨な場で侍る真の孝子、真の孝女にならなければなりません。
そのような真の孝子、真の孝女になるためには、難しい立場、失望し得る立場、悲惨で悲鳴をあげ得る立場に立っても、「天よ、私を導かれる天よ、真の父母様はイエス様よりももっと苦難の十字架の道を行かれるので、父母に侍る私としては、いかに加重された十字架を背負うようになっても当然です。私はそれをたたえますので、天は私のゆえに心配しないでください」と言えなければなりません。自分に及ぼされる心配と苦痛と悲しみを天に背負わせないで、自ら蕩減とうげんしていくすべを知る人にならなければなりません。それでこそ、個人的な基準で、個人的な父母の勝利の因縁を接ぎ木することができるのです。


現在、我々祝福家庭が韓国の至る所に広がっています。なぜ祝福家庭を韓国の至る所に広げておいたのでしょうか。天は韓民族韓半島を中心として摂理され、真の父母はこの韓国民族、韓半島に来られるのです。そして、来られる真の父母様に、韓半島のすべての村々が、谷から谷が、山野はもちろん、全部が侍りたいと思うのです。それは、真の父母に侍ることが歴史的な願いであるためです。
それゆえ、子女の立場で個人的な蕩減基準を立て、家庭的な蕩減基準を立て、真の父母の代身となり、その村と部落が、後悔なく侍りたいと思う、真の父母の実体の代身者にならなければならないのです。来られる真の父母は、もちろん中心の位置にいらっしゃり、霊的にすべてのものと関係を結ばれますが、実体は一つなので、全体に対することはできないのです。それで真の父母の実体に代わって、万民に対する立場に立てられたのが祝福家庭なのです。
真の父母には、この民族を越えて世界的な十字架を背負って行くべき責任があります。それゆえ、民族的な十字架は、地方に広がっている真の子女の立場にある祝福家庭が背負っていかなければなりません。祝福家庭全体が一つの宗族的な基盤、民族的な基盤になってこそ、天の役事は、この民族を中心として勝利の峠を越えることができるのです。
(13-288, 1964.4.12)
父母様を愛して、本然の愛の基準を中心としてサタンを分別し、責任分担の世界完成基準を越えなければなりません。
(137-116, 1985.12.24)

 

② 我々の使命

これから我々が成すべきことは、まことの父母に侍ることができる基盤を築き、その方の前に世界の兄弟を糾合することです。また、このような責任を背負った先祖たちとして、子孫たちが背負う十字架と迫害の道をなくしてあげようということです。これが我々の本然の使命です。
(20-135, 1968.5.1)
ハナニムが人類世界に統一された父母の位置、アベル的世界とカイン的世界が互いに一つになった基盤の上に立って初めて、万有の主人公として、父母として登場することができるのです。
今日この地上に暮らしているすべての人たちは、今まで父母がいなくて暮らしている子供たちと同じです。そうして、戦っています。それゆえ、ハナニムは父母の立場で現れて、初めて彼らを教育して、「お前と今、戦っているあの人が、お前の兄であり、お前の弟だ」ということを教えてあげなければならないのです。それは、ハナニム以外には分からないのです。


悪なる父母によって、真なる理想的父母が去ってしまい、理想的子女の因縁を失った基盤で、サタンのいけにえになったために、理想的な父母が出てこなければなりません。また、理想的な子女の教育を天が再びすることができる時にならなければならず、そのような使命を受け継ぐ一つの宗教が出てこなければなりません。そのような宗教が統一教会です。
それで、統一教会では何を誇るのでしょうか。真の父母の歴史を誇るのです。その次には、真なる子女が結束しなければなりません。「真の父母」といえば、自分の一族だけを愛するのではなく、世界的であり、宇宙的でなければなりません。真の子女とは何かというと、「私はアメリカの国民しか知らない」と言う者ではないのです。
そうであってはいけないのです。ここでは民族感情を超越しなければなりません。誰の名で? ハナニムの名で。堕落は誰の名で? サタンの名で。我々はハナニムの名で堕落線以上にジャンプして上がらなければなりません。そうして、アダムの頭の上にハナニムがいらっしゃったのと同じように、我々の頭の上にハナニムがいて、その方が直接指揮しなければなりません。
それゆえ、堕落しなかった真の父母とハナニムを中心として、真なる血肉を世界的に糾合して新しい世界に編成していくのが統一教会の道です。そうすれば、一家庭が宗族になるのであり、宗族が民族になるのであり、民族が国家を成して世界を制覇するでしょう。
堕落した世界が、このように落ちるようになったのを、我々は新しく出発して上がっていかなければなりません。このようになった世界と、このようになった世界的基準で、接触する接線地を逆さまにひっくり返しておく一時がなければなりません。その中間線に接続する時が、どんな時かというのです。皆さんは、それを知らなければならないのです。
(86-229, 1976.3.31)
我々統一教会には、真の父母がいますが、その真の父母は、どのような立場での真の父母ですか。統一教会の中での真の父母であって、国を越えず、世界を越えなかったというのです。ですから、国家、世界のサタンが残っているために、いまだに鋭い視線を送っているのです。
それで、我々統一教会は、教会に真の父母を迎えることを、国家と、世界と、霊界まで拡大させる運動をするのです。これが我々統一教会の運動です。今、時が近づいてきているのです。国家の父母として迎え得る環境が、今近づいてきているのです。
(124-309, 1983.3.1)

 

6) 生命視すべきこと

 

① 自己主張不可

皆さんが持ったものは、黄金の粒は黄金の粒ですが、砂の中に入っている黄金の粒、何かの鉱石や土の中に入っている黄金の粒なので、それらを全部溶鉱炉にほうり込んで、溶かしてしまわなければなりません。焼き出さなければなりません。それが標準の過程です。では、そのときに体が溶けて水になってなくなるのに「ああ、いい」と言いますか、「ああ、私は死ぬ。私は死ぬ」と言って一大事が起こりますか。それは、皆「死ぬ」と言っても、黄金の粒は死なないのです。


皆さんが、純粋になるためには、98パーセントまでは否定しなければなりません。我々のものは2パーセントにしかならないのです。ですから、どうしなければならないでしょうか。どれほど悲惨ですか。ムーニーの生活は悲惨か、幸福か、考えてみなさい。では、ムーニーの中心であるレバレンド・ムーンは幸福ですか、悲惨ですか。初めは不幸でも、あとには幸福だという、そのような希望をもっているのです。
「迫害すれば溶鉱炉に入る。私がまだでき上がっていないからこうなのだ」、このように考えるのです。迫害が来るなら、来いというのです。迫害できるなら、せよというのです。純金になるまで、溶鉱炉に入っていることを願うのです。それが、早く純金になる方法です。
それゆえ、98パーセントを捨て100パーセント純粋な金になるための道を行く人は、我慢するのがどれほど大きくなければならないでしょうか。苦痛がどれほどひどいでしょうか。それでも行くべきだという信念をもたなければなりません。
世の中の人たちが、100パーセント純金だと鑑定したのに、ハナニムがピンセットでつまんで鑑定するとき、100パーセントになるのかというのが問題です。それが心配です。ハナニムが100パーセント純金だというのと、私が100パーセント純金だというのを比較するとき、私が100パーセントだと主張するのがもっと大きければいいのですが、どうですか。私は、私が主張するものがもっと大きくあってほしいと願います。そうするには、自分を主張する不純分子が一つでもあってはいけません。では、ハナニムは御自分を主張しないのかというのです。ハナニムも御自分を主張するのです。ハナニムも御自分を主張し得る素質があるのです。
自分がもっと純粋になるためには、自分を主張するものが一つでもあってはいけません。そうなれば、自分が100パーセント純金になり、ハナニムが鑑定する純金以上の位置に行くのです。そのように考えられるのです。自分を主張する心、自分がセンターだと思う心が、永遠に何もないというときは、100パーセント以上純粋なものになることができます。
では、純金とは何でしょうか。不純な要素が一つも介入しない、ただそのままの姿をいうのです。ですから、完全に自分がない、百年、千年、愛に酔って暮らす人たちがいる国は、愛において純金の中の標準になることができます。そのような愛の所有者は、偉大な女王や王と同じです。
先生は、皆さんにそのような妻、そのような夫になりなさいというのです。そうして、純金になれば、ハナニムが必要ですか。ハナニムがその中に既にいるのです。必要ではないのです。それゆえ、皆さんはそのような人にならなければなりません。
(128-206, 1983.6.26)


皆さんは本物の純金ですか、偽物ですか。先生が皆さんを見ると、本物ではありません。皆さん4、5人を合わせてたたいて、再びつくり出せば本物になるか、このように見るのです。先生が本物の市場、本物の商店に皆さんをそのまま置いて、「本物だ」と言って売れないのです。売り出すことができないのです。そのように見るのです。ですから、鍛錬と試練、製錬の過程がまだたくさん残っているのです。
「お前たちは純金か」と言うとき、私は純金だと見ません。まだ錬磨れんまを受けるべき過程が残っているから、嫌でも良くても、製錬所に全部突っ込まなければなりません。突っ込んで悪いものは焼いてしまい、純粋なもの、一つの結晶体として連合したもの、表も中も間違いなく一つに現れ得るその形態を備えるまでは、統一教会員だとは言えません。
(138-200, 1986.1.21)
我々には、自分を調整するための調整装置、調整する期間、調整する時、調整する時間が必要です。標準の時計に合わせておかなければなりません。はかりも、標準のはかりがあります。それは世界に一つあるのです。メートルならメートルの原器というものは、二つでなく一つです。
では、本来は人間の調整の基準がありますか、ありませんか。では、人間のその絶対基準と、現在勝手になった自分の基準がゼロ点の調整で自然に合う自分ですか、無理にしても合わない自分ですか。無理に合わせても合わないのです。
このような自分が本来の原器、メートルならメートル原器のように、自分を認めてくれというのです。それでは、それを認めてくれる人が狂った者です。そのような者は、殴って捕まえなければなりません。ハナニムが、「おい、こいつ! お前は顔つきがそうなのに、認められると思うのか。否定し、殴って捕まえなければならないのに、同情して協力しろというのか」と言うのです。今日、祝福家庭は、家庭という名詞は尊重し、家庭の内容は無視するやからが多いのです。
(127-202, 1983.5.8)

 

② 一つになりなさい

皆さんは、まことの父母の心情的な内容をどれほど知っていますか。また、血統問題、人格問題、みことばの問題、生活問題、そして国家観、世界観、天宙観が、真の父母とどれほど一つになっていますか。これは、皆さんが本当の意味でハナニムの真の息子、娘になり得るかという問題を決定づける母体になるのです。皆さん自体だけでは不安なために、どのように皆さんを真の父母とつなげるかというのが問題です。根源がなければなりません。すなわち、その核心がなくてはならないのです。
(28-247, 1970.1.22)
「真の父母」とは何かというと、皆さんの父母の代わりです。本来の父母が真の父母です。皆さんの父母と皆さんは、一つにならなければなりません。では、おじいさんは誰ですか。ハナニムです。ハナニムの命令に対しては、真の父母も勝手にできません。父母は自分の息子、娘を、おじいさんが願う道に連れていかなければなりません。それが、父母の行く道です。


真の父母が復帰の道を行くなら、皆さんも復帰の道を行かざるを得ないのです。最小限度の責任分担である5パーセントを完遂しなければなりません。それを知るべきです。皆さんの妻を愛する以上に、父母を愛する以上に、ハナニムを愛さなければなりません。皆さんの息子、娘を愛する以上に、ハナニムを愛しなさいということです。それを基盤として、世界に拡大するのが、統一教会の理想世界です。本然の世界です。
(128-30, 1983.5.29)
先生は、もう一次アダムの根、二次アダムの根をみなもっています。それゆえ、皆さんは第一アダムと第二アダム、第三アダムを接ぎ木さえすれば、すべて終わるのです。根は一つなのです。それで、愛、生命、その次には血統です。縦横のハナニムの愛が生命の交流をすることによって、血統が生まれるのです。
それゆえ、皆さんは、誰よりも先生を愛さなければなりません。誰よりも真の父母と一つにならなければなりません。真なる愛を中心とした血統であるために、そこには相続権があり、同位権があり、同参権があるのです。それで、サタンが接近し得ないのです。
(189-223, 1989.4.6)

 

③ 「真の父母」を愛しなさい

まことの父母は、どれほど多くの愛を受けているでしょうか。それを一度考えてみましたか。ハナニムが死んだということに対して、抗弁する人がいたなら、彼は真の父母をハナニムが愛する以上に愛するでしょう。
もし皆さんが、「このような人に会えるようにしてほしい」と、ハナニムに祈るなら、それで皆さんがこのような人に会って、真の父母を愛するようになるなら、ハナニムも喜ばれるでしょう。「その人が一番賢い人だ」と皆さんが思うなら、皆さんは霊界にいる霊人たちに絶対に負けません。皆さんが真の父母を愛するなら、絶対に負けません。もし、皆さんが霊人たちに、「私は『真の父母』をこれほど愛するのに、皆さんは何をしましたか」と言いながら、彼らを讒訴ざんそすることができるなら、皆さんが一番の金持ちになるでしょう。
もし、真の父母を互いに「もっと愛する」と食口シックたちの間にけんかが起きるようになれば、ハナニムがそのけんかを御覧になって何と言うでしょうか。そのようにけんかして、もし一人が死ぬようになれば、ハナニムがどのように審判するでしょうか。ハナニムが彼を絞首台に引っ張っていかれるでしょうか。疑いもなく、ハナニムはその二人を呼んで、彼らを真の父母を愛するモデルとして立てられ、他の人たちにも彼らが愛したように真の父母を愛しなさいと言われるでしょう。これが正に基準です。
すなわち、ハナニムと霊人、すべての人たちは、真の父母を注視しなければならないのです。今、我々は我々の生活の中で、これを考えなければなりません。先生の言うことが事実なら、その問題は重要です。皆さんは、その基準からどれほど掛け離れていますか。今からでも我々は、このことのために祈らなければなりません。


真の父母に従うすべての人たちは、涙なしには行くことができません。それゆえ、我々の表情が明るくなり得ません。我々は「ため」に生きなければなりません。そして、たとえ我々が最善を尽くすとしても、我々は天に対して申し訳ない心をもつべきです。我々の行動がどうでなければならないかを、皆さん自身が想像できるでしょう。
(52-97, 1971.12.23)

 

④ 「真の父母」に侍りなさい

皆さんが荒野路程を歩み、ヨルダン川を越えたとしても、カナン7族と戦う途上で倒れれば、それは勝利の死になれないのです。カナン7族を屈服させておいて、そこに新しい国イスラエルを立てておいてこそ、ハナニムの前に立てられる本然の人になるのです。そうでなければ、楽園にとどまるのと同じなのです。天国に入ることができないのです。
(13-296, 1964.4.12)
我々が知っている「真の父母」とは何でしょうか。人間の先祖です。ですから、真の父母に、自分の父母に侍るように侍らなければならないのです。
(118-147, 1982.5.23)
父母様に3年以上侍らなければならないのです。父母様に3年以上侍るには、家庭が侍り、その次には国家が侍り、世界が侍らなければならないのです。事実はそうでなければならないのです。そうであってこそ、世界復帰圏まで出ていくようになるのです。3数を中心として見るとき、3年以上を侍らなければいけないのです。それゆえ、3年間は父母様を中心として、御飯も一緒に食べて、共に相談しながら、共に暮らさなければならないというのが原則です。皆さんの家がそうでなければならないのです。父母に侍って暮らす家庭として平和で、幸福で、言葉を話すにも良い言葉だけを話し、互いが喜びながら暮らす3年の期間がなければならないのです。
(44-169, 1971.5.6)

 

⑤ 従順でありなさい

本来、ハナニムの名をもってきた父母に子供は絶対服従しなければなりません。そこには異議がないのです。これは、強制で言うのではありません。愛を中心として、そうすることができるよう、環境をつくるのです。妻は夫を愛し、夫は妻を愛するのです。愛を中心とした父母になり、愛する子女を自然、絶対屈服させ得る環境を築いていってこそ、天国基盤が崩れないのです。
(101-282, 1978.11.7)

 

⑥ 伝統を受け継ぎなさい

今まで人類は、人間がどのようになるかを知りませんでした。自分がどのようになるかを知りませんでした。歴史を知らなかったのです。今現在がどこで何になるかを知りませんでした。これからどのようになるのか、目的を知らなかったのです。
なぜそうなのでしょうか。真なる父母、先祖をもてなかったためです。しかし、我々は真の父母に侍ることによって、「ああ、私は歴史が分かった、ハナニムと私がどうだったという歴史が分かった」と言うのです。また、現在が分かり、未来が分かったというのです。分かっただけでなく、そのような伝統を受け継ぐことができるというのです。歴史に勝ち、未来に勝ち得る伝統を今、自分がもつことができるというのです。誰からでしょうか。なぜでしょうか。真の父母に出会ったためです。真の父母が教えてくれることを学び、その方がすることに自分がついていって、その方が願うことを自分が願い、これを受け継ぐのです。それを引き継ぐのです。
(71-21, 1974.3.24)


今まで、この宇宙には父母がいませんでした。父母といっても、子供を利用して滅ぼす父母です。そうすることによって、何が壊れたのでしょうか。完全な兄弟が壊れていったのです。その次には、完全な新郎新婦が壊れていきました。その次には、完全な父母が壊れていきました。それで、善なる子供をもてませんでした。結局は、家庭を失ってしまったという話です。その家庭は、宇宙史的な代表です。世界を代表し、天国を代表し、国を代表し、家庭全体を代表した家庭でした。
その中心点をハナニムは探そうとされるのです。人類歴史もそれを探してくるのです。今日の人類、現在生きている人たちも、この中心に連結されなければなりません。言い換えれば、ハナニムと人間が願う共同目的がこれ一つであり、過去、現在、未来が結束し得る道は、ここしかないのです。
では、それを誰がすべきでしょうか。アダム、エバがすべきことを、真の父母がしなければならないのです。それゆえ、今、皆さんがもつべきものは、サタンがもてなかったものとして、悪なる世界にはない兄弟の中の兄弟、サタン世界にはない兄弟をもたなければなりません。皆さんはそうでなければなりません。それは、20代、結婚する前までなのです。そのような伝統を皆さんが残さなければなりません。
皆さんの息子、娘の前に、このように暮らさなければならない、という伝統を残さなければなりません。皆さんがこのように各国に行き、骨の折れる戦いをして暮らすことは、これから皆さんが子孫に伝統を残すためのものです。「我々はこのように難しい中で働いた」と息子たちに教育することができ、遺言を残すことができる伝統的資料を収拾する立派な、一度しかない期間なのです。それゆえ、伝統が問題です。これは、変更することができないのです。永遠の伝統です。
我々は世界を超越する人たちなので、白人と黒人が兄弟にならなければなりません。それはどういうことかというと、堕落しなかった人類、アダム、エバの兄弟圏に、我々は訪ねて入っていくのです。
では、そこにそのような伝統を立てる基本の思想とは何でしょうか。「ため」に生きればいいのです。ここから皆さんの息子、娘は、このような環境で苦労しないで育って、天国に直行することができる、サタン世界を凌駕りょうがする一つの実績圏をもった、天と直通する子孫になるのです。その次には、そのような兄弟たちが結婚をするのです。我々における結婚とは、超国家的です。「黒人としなさい」と言えばして、「白人としなさい」と言えばして、「黄色人としなさい」と言えばすることができる、このような圏内に入ってきました。


このような伝統が、今から成立しなければなりません。今は、できていません。今からつくらなければならないのです。このようになったために、その資料をもって、皆さんの子孫と世界を指導しなければなりません。その代わり、二人が一つになれば、悪なる息子、娘を生んではいけません。善の息子、娘を生もうとすれば、夫妻が完全に一つにならなければなりません。一つにならなくては、善の息子、娘が出てこないのです。それゆえ、ハナニムのみ旨を中心として、完全に一つにならなければならないのです。
(71-19, 1974.3.24)
皆さんは先生を平面的に見ては、先生がどのような顔つきで、どのような姿であるかということが大体分かるでしょう。しかし、先生がこの場に来るまで、その背後でどのような道を経てきたかは知らないのです。
この道を出発するときから、確かな信念がなく、ただ従ってきただけでは、み旨は成されないのです。確かな信念がなければなりません。絶対的で間違いない道と知り、間違いない勝利を誓って出発して、このような勝利の結果をもたらしたのです。このような信念を曲げ、この道を妨げるために、数多くの個人から、家庭、宗族、民族、国家が反対し、世界まで反対したのです。そのような道が繰り広げられていました。
そのような伝統を、皆さんが受け継がなければならないのに、それを知らずに受け継ぐことができますか。そのような驚くべきものを受け継ぐときは、新しい決心をして受け継がなければいけないのです。言い換えれば、「世界の果てまで、天の果てまで走っていっても余りある」という信念をもって、強く雄々しい場で、ハナニムが御覧になるとき、驚くほど感謝する場で、受け継がなければならないのです。
そのような皆さんの姿勢を見て、それを相続してあげたいのが、天の心であり、先生の心です。何も知らない者たち、世の中がどのようになるかを知らない者たちを連れてきて教えるということ自体がびしいのです。
(67-228, 1973.6.27)

 

⑦ 「真の父母」を誇りなさい

皆さんが誇るべきものとは、ハナニムの愛、真の父母の愛です。これを自分や国や世界の何よりも誇らなければなりません。この愛は、ハナニムの愛と父母の愛が一つだというのです。これは何でしょうか。直接主管圏という愛の理念を中心として、家庭という基盤の上に一つになり得る出発を地上に実現しようというのが統一教会であり、父母様が行く足場であり、版図なのです。直接主管圏です。
(131-48, 1984.4.1)

 

⑧ 「真の父母」に借りを返しなさい

「真の父母」という観念が明白でなければなりません。皆さん、真の父母に負債を負いましたか、負いませんでしたか。その負債を返す道理がないのです。負債を負ったものを計算すれば、返す道理がないのです。
しかし、ただ一つの小さな愛の表示だけあれば、みな返すことができます。それを必要とするのです。
(116-121, 1981.12.27)


 

第7章 「真の父母」を中心とした生活

 

1) 「真の父母の日」と「真の父母」

皆さんは、みんな先生に関心があるでしょう? 先生がどこかに行き、何か言葉を話すようになれば、すべて電話線をつけて回りながら聞かなければならないのです。皆さんは、この「まことの父母の日」を迎え、今、父母様の苦労がどれほど大きかったか、父母様の心がどれほど苦痛を受けたかということを知るべきです。今、父母様について、知るべき時が来たのです。そうでなくては、伝統が分からないのです。伝統をもつことができないのです。
(131-62, 1984.4.1)
本来、「真の父母の日」の理念は、ハナニムの創造理念の中でも中心理念でした。ハナニムが万物を創造されたのち、その万物を主管する人間を創造され、人間に万物を主管せよと祝福された目的も、正に真の父母を立てるためでした。本来は、アダム、エバがハナニムを中心として一体となり、真の父母になるべきでした。そうすれば、「真の父母の日」が立てられるようになるのです。そうなれば、全宇宙が父母の名前とともに、頌栄しょうえいを捧げるようになるのです。このように、「真の父母の日」は、全宇宙が父母の名前とともに頌栄を捧げる喜びの日なのです。
この日を迎えることが、ハナニムの願いでした。しかし、人間始祖が堕落することによって、このような「真の父母の日」を天も失ってしまい、地も失ってしまいました。それでハナニムは、本来計画されたことを成されるために、「真の父母の日」を探されるために、今まで経綸けいりんしてこられたのです。「真の父母の日」を迎えるには、まず真の父母を迎えなければなりません。その真の父母は、歴史を審判し、現在を主管し、未来を開拓なさるべき中心存在であられます。それで、人間が歴史的に羨望せんぼうしてきたのも、真の父母を迎えることでした。
(13-280, 1964.4.12)
我々が民族を探そうとするのは何のためでしょうか。この民族をして、勝利された真の父母に侍らせるためです。そして、サタン世界から讒訴ざんそされず、天に代わって、地に代わって、人類に代わって国家基準の上に万天宙の前に、孝子、孝女として自由天地を成し、真の父母に真実に侍るためです。
今までは、我々が悲しい立場で侍り、苦痛の立場で侍りましたが、今からは喜びの立場で、自由な立場で侍らなければなりません。ハナニムが我々の心と共にいらっしゃることができてこそ、我々が喜べばハナニムが「そうか、お前の喜びは私の喜びだ!」と言われるのです。そして我々は、全人類が「あなた方の感謝は、我々の感謝です!」と言う、その基準を立てなければなりません。


今日は、「真の父母の日」です。この「真の父母の日」を、皆さんが本当に皆さん自身の「真の父母の日」として立てなければならず、皆さんの家庭の「真の父母の日」として立てなければならず、社会の「真の父母の日」として立てなければならず、国家の「真の父母の日」として立ててこそ、世界の「真の父母の日」として立てられるのです。世界の「真の父母の日」として立てられ、天宙の「真の父母の日」として立てられてこそ、本来ハナニムが真の父母を立てようとなさった創造理想が完結するのであり、人間が堕落によって「真の父母の日」を立てられなかったハンを解くことができるのです。さらにこの全天上天下てんげに「真の父母の日」を立ててこそ、復帰の恨が完全に解怨かいおんされるのです。
我々が「真の父母の日」を立て、「真の子女の日」を立てましたが、個人的な「真の父母の日」から家庭的な「真の父母の日」、民族、国家、世界、天宙的な「真の父母の日」として立てられていません。「真の子女の日」もそうです。「真の万物の日」もやはりそうですが、「真の父母の日」と「真の子女の日」と「真の万物の日」が、世界性をもち、勝利したという基準の前に主管され得る圏内に入ってこそ、初めて天地を創造されたハナニムの、本来の創造目的が完結するのです。
そうなってこそ初めて、「真の父母の日」が人類の「真の父母の日」になると同時に、天の「真の父母の日」になるのです。また、「真の子女の日」と「真の万物の日」も、人類の「真の子女の日」と「真の万物の日」になると同時に、天の「真の子女の日」と「真の万物の日」になるのです。このような立場に立つようになるとき、初めて天から「みな成した」と言われ得る時が来るのです。 個人的な「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」を立て、家庭的な「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」を立て、民族・国家的な「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」を立てなければなりません。
一国家基準で「真の父母の日」、「真の子女の日」、「真の万物の日」を設定してこそ、この日々がその国家の中心の日になり、世界的な日になり得るのです。これが問題です。
(13-294, 1964.4.12)

 

2) 「真の父母」という言葉を完全に知るべし

我々統一教会には、貴く使う言葉があります。初めて聞く人もいるでしょうが、それは「まことの父母」という言葉です。「我々の真の父母様!」と言います。イエス様の時に真の父母がいましたか。イエス様がもつことができなかったものを、我々はもったのです。
エス様に真の父母がいましたか。子供を保護しないのが父母の責任ですか。父母なら子供を保護しなければならないのです。サタンに対する垣根になって、「お前は私の懐の中で幸福でありなさい」と、そう言わなければならないのです。イエス様がそうでしたか。30年の生涯を、かわいそうな連れ子として育ったのです。


ですから聖書に、「真の父母様」という言葉は出てこないのです。「真の父母」、「真の兄弟」という言葉は出てきません。この言葉は統一教会の用語なのです。それは、ムン先生が作り出した言葉ではありません。本来の天理原則にあったものを探し出した言葉です。
我々は「真の父母」という言葉を言い、「真の子女」という言葉を言います。真の子女はどのようにしなければならないかということを知るべきです。息子に対して自分の生命を捧げることができ、自分のすべてをその前に捧げることができ、自分は地獄に行っても感謝することができなければならないのです。そのような過程を経なくてはいけないのです。そうして、真なる子女の因縁を通じて、父に帰ることができます。
(76-73, 1975.1.26)
我々は、「真の父母」という言葉を言っています。真の父母に侍っていこうと、ハナニムに侍っていこうと言うのです。その次には、真なる兄弟になろうと言うのです。何を中心としてですか。それは、イエス様を中心として言った言葉です。イエス様の父母がイエス様に侍れなかったのを蕩減とうげん復帰して、侍ることができる父母、それ以上の父母の位置に立つことができなければならないのです。
(67-326, 1973.7.22)
私がハナニムに対して「父母」と言うのと、皆さんが先生に対して「父母」と言うのと、どちらがより易しいでしょうか。先生がどれほど苦労したか知らないでしょう。どれほど障害が多く、どれほど複雑だったか知らないでしょう。今まで数多くの人たちが、その道においてもがき、すべてどん底に落ちたのです。皆さんは、統一教会に入ってきて、先生を理論的に見ると、「ああ、この方が『真の父母』だな!」という言葉をたやすく言うことができたでしょう。
では、ハナニムが真の父母だということを私が知ったときの喜びと、皆さんが知ったときの喜びでは、どちらが大きいでしょうか。先生は死ぬほど苦労をしたので、「父」という言葉を言うことができますが、皆さんは苦労もしていないのに、みな教えてあげたのです。ですから、「『真の父母』が分かった、それだけのものか!」と言うでしょう? 誰がもっと喜ぶでしょうか。先生がハナニムに父子関係で会ったときの喜びと、皆さんが先生に会ったときの喜びと、どちらが大きくなければなりませんか。
先生は、苦労して初めて会いましたが、皆さんは苦労をしないで会ったから、もっとうれしくなければならないでしょう。私は、億千万ドル払って買ったのです。皆さんは1銭も払わなかったからうれしいでしょう? 皆さんが何を払いましたか。やって来て「原理」のみことばを聞いてみると、みんな分かって、「真の父母」と言えば、「そのようになっていたのだな」とすべて分かるのです。
(116-121, 1981.12.27)

 

3) 「真の父母」の言語を学びなさい

何よりも言語が一番問題なのです。今、韓国人たちが来れば、韓国語の分からない人たちは、それは実にあきれるのです。かわいそうに見えます。ですから、言語が一つになれば、どれほど良いですか。先生もアメリカに初めて来て、本を通じて勉強しましたが、それまではイエス、ノーしか知りませんでした。ですから、どれほどもどかしかったでしょうか。言語統一がどれほど必要か分かるでしょう。


皆さんは先生の言葉を通訳を通して聞きたいですか、先生から直接聞きたいですか。 韓国語で聞きたいのです。どうしてですか。韓国語が原語であるからです。それゆえ、原理を勉強するにあたって、原語を知らなければその言葉の意味が分からなくなります。
そして、これから皆さんが霊界に行って、「ああ、私は先生の言葉をそのまま聞いて話して生きた!」というのが誇りでしょうか、「ああ、通訳を通して私は話を聞いた!」というのが誇りでしょうか。どちらですか。しかも、それは愛の理想世界を表現する言葉だというのです。愛という言葉を通訳を置いてささやけば、それが通じますか。
我々が前に覚えた誓いの文を見ると、5番目に「一つの文化を誇る」となっていますが、一つの文化がどのようになるのかが問題です。心情世界では、一つにならざるを得ないという事実を知るべきなのです。本当に一つの心情世界を願う人ならば、これを知らなくてはいけません。
「私がお前たちをこのように愛する」と言って、このように行ってタッチするときは、愛をどのように考えるだろうかという考えよりも、既に足が出ていくのです。足が先であって、愛するという考えが先ではないのです。それがどれほど愚かですか。食べ物でいえば、食べ残したかすを食べて喜ぶということです。
理想家庭の伝統と精神がなくては、理想世界は顕現することができません。
(118-238, 1982.6.6)
霊界に行っても全部真の父母、真のおじいさんが使う言葉を使うのであって、「ああ、私はそれを知らない!」と言って通じますか。外国人の皆さんは、東洋人たちが英語を習うのにどれほど大変かということを、その時に分かるのです。先生の年がもう60を越えたのです。この年に英語を習うことが易しいですか。皆さんは言い訳ができません。
それで、統一教会には、若い人たちが入ってくるのです。ですから勉強しないといけないのです。道を歩きながらブツブツ言ってでも習いなさい。韓国語をトイレに行ったり来たりしながら反復して習いなさいというのです。これは、ほかに方法がありません。
先生が「韓国語を習いなさい」と言うのは、先生が真の父母になったから仕方がないのです。韓国人でも、どこの国の人でも、「何がどうだ」と言っても仕方がないのです。
それゆえ、統一されれば、「『真の父母』の栄光だ! 世界言語を瞬く間に統一してしまった!」と言うのです。表彰するなら、何の表彰をすべきでしょうか。韓国語を世界のどの国の言葉よりも一番尊敬しなければならないのです。韓国人が頭が良いのは、この言語のゆえなのです。そのような意味で、韓国語では、発音できないものがありません。日本語は、足元にも及ばないのです。「メクダナルドゥ(Macdonald)」をちゃんと発音できずに「マクドナルド」と言うのです。それ、聞き取れますか。
ですから、新しい文化に通じなければなりません。先生が韓国人だからそう言うのではなく、それが原則だからです。原理原則に通じないのに、「韓国語を習いなさい」と言うなら、最初から追い出されるのです。原理原則を話すから、皆さんはじっとしていながら、「理論が合うので仕方がない」と言うのです。これから学者たちにとって、原語は韓国語になるでしょう。韓国語が原語になるのです。
(130-272, 1984.2.5)


 

4) 民謡の中の啓示

皆さんがハナニムに侍り、「千年、万年も生きたいものだ」と言うならどれほどいいでしょうか? 今日、我々の童謡にもある「月よ、月よ、明るい月よ、李太白イテベクが遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉のおので突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶきの3間の家を建てて両親父母を迎えて・・・」と、このような良い言葉です。
ところで、両親父母がどこにいますか。その父母が、自分の欲のための父母なら、みな流れていきます。天地の大道たいどうを明らかにして、伝統を植えておける両親父母がどこにいますか。今日、我々の民謡にある、そのような歌の節回しに合うような、その道を世界の前につくっておいて死んでみようというのがレバレンド・ムーンの生涯です。
(127-281, 1983.5.15)
宗教指導者たちがひれ伏して祈祷して、「福を受ける」と言いますが、私は福を受けようとして祈ったことはありません。旧約時代は、万物を立ててハナニムの人たちを探すための時代であり、新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母を探すための時代であり、成約時代は、父母様の家庭を犠牲にしてハナニムを解放するための時代です。本然の父母をこの地上に迎え、その方と千年、万年暮らそうというのです。
韓国の童謡の中で「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ・・・」というのがあります。かつらの木が刺さったから、どうのこうの、両親父母を迎えて千年、万年生きたいものだというのです。それはみな、韓民族の啓示的な話です。天の父母を迎えて千年、万年生きたいものだという、その歌を思うたびに、私はいつも胸の痛む思いを忘れることができません。
(137-185, 1986.1.1)
皆さんは、韓国人として生まれたことを絶対に嘆かないでください。過去には、韓国人として生まれたことを嘆いたでしょう?「はからずもこの貧しい韓国の民、5000年歴史を過ぎてきたと誇るが、あのわらぶきの3間の家に生まれた」と言うのです。
また、歌うのを聞いてもそうです。「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中に、どうのこうの、わらぶきの3間の家を建てて、どうのこうの、両親父母を迎えてどうのこうの・・・」。わらぶきの3間の家を建てて、千年、万年生きる? 私はそのような民謡を聞くようになるとき、気分が良くありません。やっとわらぶきの3間の家ですか。そこに何の民族の願いがありますか。
ですが、「わらぶきの3間の家を建てて、両親父母を迎えて、千年、万年生きたい」と言うとき、その両親とは何かというと、「人間の理想的な父母である」と言うことができるのです。キリスト教でいえば、再臨思想と通じるのです。万民、万国を通じて見れば、救世主思想と通じることができる、このような内容になっているのです。
(85-80, 1976.3.2)


韓国に次のような歌があります。「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉の斧で突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶきの3間の家を建てて、千年、万年」何を迎えて? 両親父母を迎えて。それは民族的な願いをたたえたのです。
それゆえ、まことの父母の思想があるのです。「千年、万年生きたい」と言うことができる愛が、真の父母から出てくるのです。両親父母を迎えて生きようというのです。
(126-190, 1983.4.19)
真の父母が、ハナニムのチャンピオンの権威をもった男性を代表し、女性を代表した、そのような表象的な人物であるなら、真の父母の息子、娘の権威も、その影ぐらいにはならなければなりません。サタン世界で拾って食べた習慣性をそのままもって、欲の包みをそのままもって、ここの統一教会に入ってこようとしてはいけないのです。既成教会とは違います。愛の祭壇を集め、愛の矢をねらっていきながら、生死の圏の勝負をすべて決める所がここだというのです。
神の国に行き、ハナニムが直接あの空中で審判するのではありません。ここに座って、我々の1日1日の生活を審判しています。ハナニムに侍ることによって、ムン総裁と共にハナニムと苦楽を共にする生活を経たために、波瀾はらん万丈な曲折と、艱難かんなん時代に滅びずに死ななかったのです。ハナニムが死ぬことができますか。生き残ったのです。
そうして、今日世界的覇権をみな処理して国に帰ってきて、国が二つに分かれているので、これを統一国にしなければならないというのです。統一国をつくるのと同時に、皆さんの国を立てなければならず、民を立てなければならず、宗族を立てなければならず、家庭を立てなければなりません。
統一教会の信徒たちは、父母様がすべての蕩減とうげんの使命を果たしたために、今は簡単なのです。本当にハナニムを知り、本当に真の父母様を知り、本当に真の妻と真の夫を知り、本当に真の息子、娘を知れば、みな終わるのです。
その息子、娘を知ろうとするので、妻と夫を知ろうとするので、戦って勝たなければなりません。彼らを愛さなければなりません。愛してサタン側的兄弟、12弟子、120門徒を解放することによって、千年、万年生きたいほどに自分の息子、娘を愛することができるのです。
「月よ、月よ、明るい月よ、李太白が遊んでいた月よ、あそこ、あそこ、あの月の中にかつらの木が刺さったから、玉の斧で突き刺して引き出し、金の斧で切り取って整え、わらぶきの3間の家を建てて、両親父母を迎えて千年、万年生きたい」。それがみな、韓国の民が選民権を受け継ぐことができる、選民が歌を歌うことができる、永遠をかけてたたえる祈りです。
両親、父母を迎えて、千年、万年生きるのです。どこでですか。わらぶきの3間の家で。わらぶきの3間の家とは、どこだか分かりますか。どん底から上がらなければなりません。わらぶきの3間の家で父母を迎えられなくては、王の父母を探すことができません。わらぶきの3間の家の家庭から迎え、宗族を編成し、宗族から民族を編成し、民族を編成してこそ王権が生まれるのです。国を探さなければなりません。


既に世界と国では、先生が勝利の立て札を持って、垂直の立場にいます。先生が横に行くことはできません、垂直の立場に立っているからです。先生を中心としては、個人的垂直、家庭的垂直、宗族的垂直、民族的垂直、国家的垂直、世界的垂直、天宙的垂直が、ハナニムを中心として一体的にぴったりとなっています。
(212-51, 1991.1.1)
人間の愛とハナニムの愛の合徳の基地とはどこですか。ハナニムを愛するために人間を創造したのであれば、ハナニムはなぜ愛のために人間を創造したのでしょうか。ハナニム一人では孤独です。愛を中心として、千年、万年生きたくて、人間を創造したというのです。
「わらぶきの3間の家でも、両親父母を迎えておいて、千年、万年生きたい」。そういうのです。理想的なハナニムも同じです。わらぶきの3間の家より、もっと小さい所に入っても、天下を抱いて息をして生きるのは、驚くべきことです。その家が小さい家ですか。ハナニムが入っていらっしゃるならば、天国の王宮であり、宇宙の王宮になり得るのです。
(204-106, 1990.7.1)

 

5) 「真の父母」の名で祈祷

ハナニムは、我々堕落した人間にとって、師の中でも一番大きな師です。先生の中でも、大王先生です。それは、ハナニムが知らないことがないためです。また、父母で言うなら、父母の中でも第1の父母です。すなわち、まことなる父母です。王としては万王の王です。
ハナニムは、先生の中でも最も優れた先生であり、父母の中でも第1の父母です。第1の父母なら、その父母は偽物の父母ですか、真の父母ですか。真の父母だと言うのです。そのような真の父母が、人間が堕落することによって真の父母になれませんでした。
統一教会では、祈祷を終えるとき、「真の父母の名によってお祈りします」と言います。ハナニムを中心として見るとき、一番初めの真の父母はハナニムです。それで、祈祷しながら願うときに、誰を通じて願いますか。何かをするときも、父の名で呼ぶようになっています。
皆さんが水におぼれているとき、誰によって救ってもらうのを願いますか。救世主が来て救ってあげるというとき、隣の町内のおじいさんが救世主になって救ってくれるのを願いますか、自分の弟が救世主になって救ってくれるのを願いますか。自分を救ってくれる救世主がお兄さんだったら良いでしょうか、弟だったら良いでしょうか。
誰が来て、救ってほしいでしょうか。自分の父母が来て救ってくれることを願うのです。救世主のうちでも、1等救世主である父母が来て、救ってくれるのを願うのです。父母は、子供の苦痛を自分の骨髄に徹して苦痛を知る方であるために、子供は父母である救世主を探すのです。
(41-307, 1971.2.17)


皆さんが祈祷するとき、「真の父母」の名で祈りますが、その「真の父母」とは何ですか。その言葉を、先生とオモニだけについて考えないでください。より高い次元で世界を抱き、民族感情や国家感情を超えて、万民を真実に等しく愛せる母、父という境地の真の父母の基準を考えなさいというのです。それで先生も、「真の父母」の名で祈るのです。
(33-141, 1970.8.11)

 

6) 「真の父母」の名の威力

聖書で見ると、人間は堕落しました。ですから、ハナニムを解放しなければなりません。堕落によって、自分の所有のすべて、息子、娘、自分の夫婦、国と世界まで一遍に失ってしまったのです。それを真の父母が来て、万物と、子女と、家庭と、国と、世界を収拾して、ハナニムに返さなければなりません。所有者がハナニムだったのですが、愛の道理において失ってしまったことにより、偽りの愛になってしまいました。
愛を中心として、所有され得る原則でつくりましたが、敗亡の愛によって破綻はたんしたのを、真の父母の愛で収拾して、万物と、子女と、夫婦と、国と、世界を、再びハナニムの前に奉献してさしあげなければならないのです。
そうして、ハナニムが「ハナニムの宇宙は、真の愛を中心としてハナニムの所有として取り返すのだ!」と、このように勝利をたたえながら、その捧げられた万物を真の父母の前に下さるのです。ハナニムの所有になって、真の父母の所有になるのです。真の父母の所有を中心として、真の息子、娘の所有になり、これを東西、四方に再び分配される世界になるまでには、地上に天国は顕現し得ないのです。今日、我々がする統班撃破トンパンギョッパとは何でしょうか。南北を統一して、ハナニムの名で、「真の父母」の名で、万国の勝利の版図を中心として、大韓民国を全人類の祖国として、ハナニムの前に捧げなければならないのです。
それゆえ、我々はそのためにすべて投入してきました。ですから、乞食こじきやからだというのです。なぜ乞食の輩ですか。既に何十年前にみな捧げました。今、南北を一つにして、ハナニムの名で、「真の父母」の名で、歴史的なすべての所有権をサタンから奪ってこなければなりません。そうして、ハナニムの本然的父母の位置に所有権を返還して、そこから歴史的なすべての国の中で、最初の先祖の国として登場させるようにしようというのが、ムン総裁の終着的愛の目的です。
(211-126, 1990.12.29)

 

7) 「真の父母」の名でいつまでも栄光を極める

捧げたというのであれば、ハナニムの名と共に、再びハナニムの名からまことの父母に来なければなりません。真の父母だけではいけません。創造主であるハナニムの名から真の父母に回ってこなければなりません。アダム、エバの所有にならなければなりません。再び返してもらわなければならないのです。真の父母の家庭を中心として、相続が起こらなければならないのです。


それで、その次から、第1に再分配時代が来るのです。永遠の天国になるのです。そこはサタンの分立がありません。
第2は、創造理想の生活が可能なのです。サタンの讒訴ざんそがありません。そこには闘争だとか、決裂があり得ないというのです。真の愛を中心として完全に統一された体制において創造理想の生活が始まるのですから、完全な地上天国が生じ、ここで暮らしてそのまま天上天国に行くのです。宗教は必要ありません。
第3は何かというと、真の愛のための天上天国、地上天国が実現されるのです。その次に、結論は全部ハナニムの名で、「真の父母」の名で、我々の名で、いつまでも栄光を極めるだろう! ハナニムの名、「真の父母」の名、我々の名で、いつまでも栄光を極めるだろう! 永遠、永遠、無窮に、栄光を極めるだろう! そこには宗教もありません。終わりです。
(212-143, 1991.1.2)

 

8) 「真の父母」の心情伝授と相続

 

① 心情の伝授

皆さんは、真の父母の心情とハナニムの愛とその心情をどのように体恤たいじゅつするのですか。これが問題です。その境地にどのように入るかというのです。そうするには、堕落しなかったアダム、エバにならなければなりません。サタンが讒訴できてはいけません。では、サタン世界でどのように解放されるのですか。サタンと戦って勝たなければならないのです。そうするには、どれほど苦労して、どれほど苦しくなければならないかというのです。
ヤコブも10回だまされ、モーセも10回だまされ、イエス・キリストもそのようにだまされました。先生も同じです。それを克服していかなければなりません。そのときに、ハナニムの心情を知るようになるのです。父母様の心情を知るようになるのです。そうでなければ、絶対分からないのです。そうでなくては、サタンが離れないのです。サタンの前に勝利できない限り、父母の心情を知ることができず、ハナニムの心情を知ることができません。ですから、我々は一線に行かなければなりません。全員が一線に行かなければなりません。
このようにしないで楽な考えをする限り、ハナニムの愛と父母の愛、父母の心情圏、ハナニムの心情圏に訪ねていくことができないのです。ですから、一線に送り出さなければなりません。全部迫害され、蔑視べっしされ、殴られ、ありとあらゆることをされてこそ、そこで心情が伝授されるのです。伝授式が、そこで起きるのです。
ですから、先生のように、いつも先頭に立って行かなければなりません。一線で受ける迫害が、どれほどひどかったか! しかし、それは当然なのです。皆さんがそれを消化すれば、ハナニムが保護するでしょう。同じ立場に立つことによって、同じ心情を体恤することができるのです。


その心情をどのように体恤するかが問題です。真の父母が本当の父母であり、ハナニムが自分の父であるということを、どのように自分が知るのかというのです。どのようにこの骨肉が知るのかというのです。自分が考えなくても、この細胞、肉体が分かるかというのです。サタンの讒訴を受け得る立場を克服しなければなりません。それが一番大きな問題です。どのように父母様の愛を体恤するかが問題ですが、それは簡単なのです。世界的舞台でサタンに勝利した、本然のアダム、エバと同じ立場に立ち得る自分にならなければならないのです。
そうするには、血と汗をどれほどたくさん流し、サタンの前にどれほど讒訴されるでしょうか。蕩減とうげん路程を経ていき、勝利してこそそれが起こり得るので、どれほど苦労なことでしょうか。その立場が嫌で、いくら祈っても、いくら何をしても駄目なのです。直接体恤しなければならないのです。その立場に行けば、すぐ体験するのです。直接指導するのです。父母の心情を知るためには、一体ということをどのように感じるか、ということが大きな問題なのです。サタンに勝利するまでは、絶対にできません。来ないのです。
一つの送電所を造っておいたというのです。個人的、家庭的、宗族的、民族的、国家的、世界的、天宙的、ハナニムまで、このような塔を造っておいたというのです。それなら、今、心情の電線を歩かなければなりません。これは、誰が歩くべきですか。先生がするのではなく、ハナニムがしてくださるのでもありません。皆さんがしなければならないのです。
(125-204, 1983.3.20)

 

② 息子、娘は父母のものを相続

ハナニムが人間に与え得る贈り物があるなら、その最高の贈り物とは何でしょうか。皆さんが人類の先祖になり、真の母、真の父になることです。それ以上のものはないのです。長官や大統領も、みな追いつけません。それが、ハナニムから人間に下さる最高の贈り物です。真の父母になれば、真の子女が出てきて、真の家庭が出てきて、真の宗族が出てきて、真の国、真の世界がここから自動的に生じるのです。ですから、一番重要な名前とは何ですか。「真の父母」という名前、「真の父母」という用語が一番重要です。
(125-117, 1983.3.14)
堕落とは何ですか。自分勝手にしたのが堕落です。それゆえ、ハナニムと真の父母を中心として、そのようにできなかったことを砕かなければならないのです。それで、男性たちはお父様の分身にならなければならず、女性たちはお母様の分身にならなければなりません。ハナニムが皆さんの目の中に入っても、どこに入っても、皆さんが喜んであげるべきであって、「ああ、入れません」と言うことはできません。皆さん、垣根を残したいですか。ハナニムの愛は、皆さんを通じて来るのです。それをみな研究しなければならないのです。おろそかにしてはいけません。皆さんがそのようにしなければなりません。
皆さんがその伝統を受け継げば、真の父母なら真の父母が、皆さんを訪ねていくのです。真の父母がハナニムの使者として皆さんのところに来て、相続させてくれるのです。
(118-271, 1982.6.13)


今まで真なる父母が出てこなかったので、真なる子女が出てくることができませんでした。まだ地上に真なる人がいなかったために、真なる父母が出てこなかったのです。それで、統一教会では、真の父母を認め、その真の父母を発見して侍ろうというのです。真の父母の息子、娘になろうというのです。
その息子、娘になれば、何をするのですか。真の父母がもっているものを相続するのです。真の父母がもっている相続権は、天地、ハナニムまでです。ハナニムまでも相続しようというのです。天地に主人がいなければ、その天地は何の価値もありません。その天地の価値を100パーセント認めることができ、その価値を永遠に主張することができる自分にならなければなりません。また、それを公認してあげられる方に出会わなければなりません。その方がハナニムです。それゆえ、真の父母の相続権をもたなければなりません。では、真の父母の相続権とは何ですか。天地だけでなく、ハナニムまで相続されるのです。
(24-322, 1969.9.14)
我々が行く道は、まだ終わっていません。皆さんは天の前に感謝することで、祝福を受けるでしょう。皆さんは、個人的に感謝するだけでなく、自分の宗族を代表して、キム氏なら金氏、パク氏なら朴氏を代表して、さらには3000万(韓国)民族を代表して、世界人類を代表して祝福を受けたという、その価値を忘れてしまってはいけないのです。また、真の父母が地上で果たすべき責任を相続した、ということを知るべきなのです。
祝福家庭は、なぜそれを相続しなければならないのですか。祝福家庭が民族復帰の過程を経ていっているなら、真の父母は世界的な復帰の過程を経ていかなければならないからです。すなわち、一段階先に進まなければならないのです。しかし、民族復帰の勝利的基準が立てられなければ、真の父母は世界的な路程を行けないので、真の父母様が世界的な路程を行かれるようにするため、民族復帰の責任を相続しなければならないのです。それで、皆さんは死ぬまで、この民族のハンが除かれる時まで、民族復帰の責任を背負っていかなければなりません。
(13-293, 1964.4.12)

 

9) 留意すべき内容

我々は、心情圏に入らずしては復帰ができないのです。それゆえ、復帰の責任者は父母の名をもって行かなければなりません。イエス様も、真の父母を通じなくては、行く道がないのです。皆さんは、真の父母を中心軸にして、真の父母の愛を中心として、ぴったりと水平線になっていなければなりません。皆さんに、不平はあり得ないのです。不平は言えないのです。不平を言えば、ぺちゃんこになるのです。
(136-67, 1985.12.20)
皆さんは、真の父母に対して、「こうしよう、ああしよう」と言っています。皆さんが、真の父母を皆さんの部落にいる有名な金持ちの父母ぐらいに考えるなら、それは大きな間違いです。


世界を一つにするには、真の父母を迎えなければなりません。世界を一つにする道を、人間としては発見できません。
「真の父母」という方は、歴史の希望の結実体です。望みの結実体です。すべてを蕩減とうげんした勝利の結実体です。これを知るべきです。真の父母は何ものとも換えることができません。
(55-155, 1972.5.7)