八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-8

八大教材教本 天聖経(2012年版)p309-344

【天啓の御言】(1-8)

 


真の愛とは何でしょうか。真の愛は縦横を通じ90度の角度をもって、どこでも角度が合わなければなりません。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、五色人種、文化的背景、宗教的背景がみな違うとしても共に行くことのできるもの、それが正に真の愛です。
(180-86, 1988.8.7)
宇宙は、縮小し、拡張する作用をします。息をしているのです。縮小させ、拡張させるそのような作用を何が調整するのでしょうか。政治権力ではありません。知識ではありません。お金ではありません。愛がするのです。
(121-104, 1982.10.24)
愛の目でこの世を見れば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜ鳴くのでしょうか。ああ、愛するものを恋しがっているのだな」と言います。そこで詩がまれ、文学作品が出てきます。私たちの人生の歴史も、自然の中に合わせて愛の交響曲が再現されています。それゆえ、愛の息遣いも、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて好きなのです。
(112-258, 1981.4.19)
真の愛の前には、どのような悪い力も溶けてしまいます。それは、見るだけでも良く、通り過ぎるだけでもうれしいのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
人を構成する本質的な内容になる要素は、生命に先立って作動し、根源になる愛に違いありません。
(177-313, 1988.5.22)
愛のために生きる人生は、生産的な結実の人生であり、愛を知らずに生きる人生は、消耗的な滅亡の人生です。ハナニムも人間も宇宙も、愛のための人生を生きることを願いますが、それが本然の人生なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
真の愛は、絶対的であり、不変であり、永遠なものです。
(御旨と世界-219)
愛には、発展もなく、いかなる革命もあり得ません。愛は、原型そのままが完全なもので、不変なもので、永遠なもので、絶対的なものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-351)
愛は、自然な中で、最高に自然な雰囲気の中でなされるのが、真実な愛です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-353)
人間が愛の目を開けば、自分の心と体は、宇宙の中で立体的な関係を結びたがります。それで、秋風に落ちる落ち葉を見て、自然のことわりを悟ってほほえむようになり、春の山に咲く花の中で、美しさを競いたくて、一輪の花になったりもするのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-376)
世の中で一番早い作用は、愛の作用です。この地の果てと向こうの地の果てにいる人同士が互いに愛し合えば、その地の果てを越えて引き合うのです。愛は、そのような力をもっています。
(112-204, 1981.4.12)


恵みを受けた人、ハナニムの愛を受けた人は、美しく見えます。
(33-86, 1970.8.9)
私たちがハナニムの愛を感じられる境地に入れば、すべてのものと通じることができ、超越することができます。根源的な愛の感情を中心とすれば、すべてのものをもつことができます。
(33-89, 1970.8.9)
私たちの人体にあるいろいろな器官も、愛という一つの目的を中心にして生まれました。目は愛を探すために、鼻は愛の香りをかぐために、耳は愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く声の中で、何度聞いても嫌でなく、好きな言葉は、「愛する」という言葉です。すべての存在がみな喜べる主題は、愛以外にはありません。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。
(298-298, 1999.1.17)
愛の属性は、好きなものだけ愛するというものではありません。とても低いものをも、高いもの以上に愛するのが真の愛だ、と定義を下すのは妥当なことです。
(95-184, 1977.11.13)
愛は、ハナニムも微動だにできないようにする権威をもっています。ハナニムも、愛には弱いのです。全能のハナニムも、人間の愛の香りをかぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。ハナニムも、愛の話を好まれます。
(298-298, 1999.1.17)
ハナニムも、愛を願い、愛が大きいので、ハナニムも愛の中に入らなければなりません。そうしてこそ理論に合うのです。ハナニムも希望をもって願うのが愛なので、愛はハナニムより大きいのです。
(132-113, 1984.5.27)
この世で最も聖なるものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は、ハナニムから出発します。ハナニムが心から願うのは、真の愛の道であり、真の愛の道を通じずにはハナニムの前に出られないことを知らなければなりません。ハナニムは、愛を通じて、見たり、聞いたり、食べたり、触ったりしたいのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
愛を通じて生きる時、人間世界には幸福が始まります。人間自身が成そうとする完成とか理想の実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。ですから宇宙万物は、愛を基礎にして生きていくのです。創造されたすべての万物は、ハナニムの根源の愛を中心として始まりました。
(137-207, 1986.1.3)
世の中のすべてのものは、一度与えればなくなりますが、愛は、与えれば与えるほどより多く返ってきます。それで愛を好みます。愛は、いつも与えることができ、満たすことができ、いつも喜び、楽しめる内容がありますが、お金は、いくら良いといってもあげればなくなり、権力も、いくら良くても、使えばすり減ってしまいます。しかし愛は、与えれば与えるほど無限に通じるようになっています。
(121-105, 1982.10.24)


真の愛とは何でしょうか。おじいさん、おばあさんであっても、死んでも永遠にそれなしでは生きることができません。それさえつかんでおけば永遠にうれしくて、それなしでは生きられないのが真の愛です。年寄りはもちろん、男性も女性ももちろん、青少年ももちろん、そうです。
(171-67, 1987.12.6)
おじいさんたちが愛の味をみては、「ああ、昔食べたのは嫌だ。今日の文明の香りとは違う! 嫌だ! 愛の香りをほうり出して、ほかの香りだったらいいのに!」と言いますか。すべての細胞が「ああ、おいしい!」と言える味は、パンでもなく御飯でもありません。それで愛は、すべてのものの核を、焦点を成しています。精髄のようなものが愛です。そのような愛で相対すればどこでも無事通過します。
(139-197, 1986.1.31)
真の愛とは、永遠に続く愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、老年時代にもその愛、永遠な世界である霊界に行ってもその愛です。変わらない愛です。
(194-303, 1989.10.30)
愛の主人は、誰でしょうか。男性でもなく女性でもありません。正にハナニムです。愛を中心として、愛を通じてのみ、ハナニムと人間が一つになるのです。なぜならば、ハナニムにも人間にも愛は、絶対に必要だからです。
(279-246, 1996.9.15)
愛の調和を成せば、円形運動をなします。愛で一体となり愛の実を結べば、ハナニムは降りてこられ、人間は上がって中間で出会うようになります。
ハナニムがこの円形の求心点になり、球形運動がなされます。求心点は愛の調和が成される所であり、生命が胎動する所であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があります。ですから宇宙のすべての作用の力と、包容する力は、愛なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-344)
愛は、一人では絶対に感じることができません。幸福も同じです。平和というものも、一国についていう言葉ではなく、相対国家との間で成立する相対的関係をいいます。相手と同等な相対的関係を結びながら、愛することができてこそ、真の幸福を感じるのです。自由もそうです。一人では本当の自由が成立しません。
愛の中で愛と共に得られる自由が、真の自由です。真の愛の中では、たとえむちをもって独裁をするとしても、それが拘束ではなく、さらなる深い喜びと喜悦をもたらしてくれるのです。愛は、相手のために与えるもので、自分が犠牲になって人を生かすものだからです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-342)
愛とは、私の心と体が自動的に一つになる、その中心の柱です。個人、家庭、宗族が同じ点、国家、世界、ハナニムが同じ中心、一つの柱に位置します。その中心は動きません。ですから真の愛の場は、永遠の定着点です。
(230-135, 1992.5.1)


「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われたイエス様のみことばに、一つ抜けているものがあります。それは一番重要な愛です。「私は道であり、真理であり、命であり、愛である・・・」と言わなければならないのに、愛が抜けています。これを聖書に入れなければなりません。このようなことを言えばクリスチャンたちは、「おお、何と不敬な!」と言うでしょう。しかし、ハナニムに聞いてみると、「しかり、然り」とおっしゃいます。このように見る時、ハナニムは愛を好まれます。愛の中でも、真の愛を好まれます。
(149-15, 1986.11.1)

 

2) 愛は無限に与え、また与えること

愛は、自分を100パーセント投入することです。ハナニムが天地を創造する時、愛ゆえに100パーセント投入したのです。ですからまことの愛は、「ため」に生きるところから始まるのです。
(189-202, 1989.4.6)
ハナニムは独裁者ではありません。ハナニムも人間のために投入しました。ハナニムが人間の前にいるのは、ために存在するからです。ですから、千年、万年ハナニムに従っていこうとします。ために生きる天理の存在世界の前に、自分自ら存在位置を維持するためには、ために存在しなければなりません。ために生きるところにおいてのみ、東洋と西洋に通じることができ、古今に通じることができます。
(187-89, 1989.1.6)
人のために与えて、また与えるのは、再創造する上で、ハナニムが創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、ハナニムが創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は、蕩減とうげん復帰路程であり、蕩減は、再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。
(82-239, 1976.1.31)
投入し、投入し、また投入するところから永生の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さな所から大きな所に、そして大きいのが、その次にはどこへ行くのかといえば、中に回るのです。
(225-15, 1992.1.1)
愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、より大きなものに増大していきます。また、作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。
(38-326, 1971.1.8)
愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学の原則は、動けば動くほど消耗しますが、真の愛は、動けば動くほど、消耗せずに大きくなります。
(219-18, 1991.8.25)
愛の本質は、「ため」に生きようとする時は、大きくなりますが、自分のために生きようという時は、だんだん小さくなります。
(129-264, 1983.11.13)


真の愛とは何でしょうか。与えて忘れるものです。与え、また与えて、また与えるのです。
(240-298, 1992.12.13)
愛の世界は、与えても、与えても、与えても、無限に続くものです。
(121-173, 1982.10.24)
愛という言葉は、本当に偉大です。「一言の言葉で千両の借金も返す」という言葉があります。一言の言葉で蕩減できるという話です。億万の借金があったとしても、愛の言葉一言で蕩減して余りあるのです。
(227-254, 1992.2.14)
無限大のこの宇宙を中心として牛耳って生きられる権限は、真の愛の家にしかありません。愛のために生きるところから、それが出てくるようになっています。ハナニムがいくら大主宰で偉大だとしても、愛の前には頭を下げるのです。
(162-287, 1987.4.17)
愛は、ハナニムも一人で成すことができません。愛は、必ず相対的基盤を通じて成されるのです。愛は、どこから始まるのでしょうか。自分から始まるのではなく、相対から育ち上がっていくものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-342)
真の愛とは、根をどこに置いていう言葉でしょうか。ハナニムがいくら全知全能なる方でも、その根をハナニムに置いていません。全知全能なるハナニムは、真の愛の主人公なのに、その愛の根をハナニムに置こうとしません。愛の対象になれる人に根を植えようとされます。
(177-269, 1988.5.20)
愛は、与えれば与えるほど生じるものであり、終わりがないのです。さらに加重して与え得る余裕が生じるのです。しかし、ほかのものは、みな終わります。お金も終わるものであり、知識も終わるものであり、権力も終わるものです。世の中の万事、あらゆる人間の事情、人情を通したものはみな終わりますが、永遠の真の愛は、いくら与えても終わりません。さらに無限に近い内容が永続的に継続される、驚くべきものです。
(121-243, 1982.10.27)
愛というものは、自分を中心とするようになっていません。愛は、私から始まるのではなく、相対を通して成されるようになっているということです。したがって、相対なくして愛は成されません。
(145-215, 1986.5.11)
愛は、一人で成し遂げることはできません。いくら優れていても、一人では成し遂げることができないのです。 これは、主体がいれば対象との関係において設定されるものなので、いくら全知全能のハナニムでも、自己中心に愛を成せば刺激と衝動を感じられません。ですから、相対的条件が必要なのです。
(219-15, 1991.8.25)
宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命です。生命の根本は愛で、愛の根本はハナニムです。しかし愛は、一人でいては成立しません。必ず相対的関係を必要とします。ハナニムが愛の根源地ならば、その愛に相対する資格をもっている存在は、人間しかいません。
(48-205, 1971.9.19)


愛という言葉は、一人についていう言葉ではありません。希望という言葉も、一人についていう言葉ではありません。生命も、一人独断的に出てくるものではなく、連結された立場から出てきます。
(69-61, 1973.9.10)
さあ、一つ尋ねてみましょう。人間にとって永遠に残すべきものがあるとすれば、生命と愛を残さなければなりません。それでは、生命が先ですか、愛が先ですか。どちらですか。ハナニムには、存在する前から愛があるのではなく、存在してから愛があるのです。ハナニムには生命が先であり、愛が2番目ですが、人間には愛が1番目であり、生命が2番目です。
(105-75, 1979.9.23)
ハナニムは、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。ハナニムの絶対、唯一の価値をもつ、愛の相対者として造りました。ハナニムにとって宇宙を与えても替えられない高貴な価値をもち、愛の相対圏として男性を造り、女性を造りました。人は、愛から生まれて愛で大きくなり、愛によって生き、愛で死にます。しかし、ただなくなるのではありません。主体であるハナニムは永遠、不変、唯一ですから、その前に相対的愛の場に立つ時は、永生するのです。
(142-143, 1986.3.8)
アダムとエバを造った目的は、喜ぶためです。見て喜ぶためではなく、話して喜ぶためではなく、触って喜ぶためではなく、愛を中心に喜ぶためです。したがって、喜びを成就するために人間を創造したのです。
(114-12, 1981.5.14)
ハナニムは、絶対的存在ですが、愛の相対になれる存在がいなければなりません。ハナニムの相対者は、正に人間なのです。ハナニムの愛の相対者として人間が、完成された愛をもってハナニムの前に現れる時、ハナニムは幸福なハナニム、喜びの理想を取り戻したハナニムになるのです。
(145-267, 1986.5.15)
ハナニムの夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。しかし愛の理想の実現は、ハナニムが一人で成すことはできません。愛や幸福、喜び等は、一つの個体を中心として成されるのではありません。相対圏がなくては絶対に成立できません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-302)
愛は、どこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-342)
愛はどこから出てくるのでしょうか。私から出てくるのではなく、相対から出てくるのです。相対から出てくるので、私が頭を下げて、相対のために生きなければなりません。「ために生きよ」という天理がここから出てくるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてきますが、それを受けるには、「ため」に生きるべきだという「ために生きる哲学」を成就しなければなりません。
(143-277, 1986.3.20)


私が生きて動くこと、私が活動することは、無意味なことではなく、ある目的があるのです。その目的とは何でしょうか。愛の世界を具現することです。人間は、愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
人は、自分の愛する相対が自分より何千倍、いや無限大の価値的な存在として現れることを願います。このようにハナニムも、御自身が愛する相対である人間が無限の価値的な存在になることを願われます。人間が完成すれば神性を成して、天の父が完全であられるように、完全で神的な価値を成すのです。
(277-196, 1996.4.16)
真の愛とは何でしょうか。相対に出会い、百年、千年共にいたいと思い、永遠に愛したいと思う愛です。そこには、地獄があり得ず、サタンが付け込むこともできません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
ハナニムが絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を選んで立てるでしょうか。正に人間です。したがって創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーは、永生するという論理が出てくるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて重要な話です。
男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。ハナニムに永生があるのではありません。ハナニムの愛に永生があるということを、はっきりと知らなければなりません。
(218-210, 1991.7.29)
愛の主体がいなければ、誰もいないように感じます。しかし、愛の主体がいれば、すべてのものが満たされます。愛が満たされてこそすべてのものが満たされるので、無限に与えることができ、真実に与えることができる、という結論が出てきます。与え受けるのが理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど早いのかといえば、光もついていけません。一番早いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満たされるのも愛です。
(95-39, 1977.9.11)
生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。
(174-15, 1988.2.23)


私が五大洋六大州をさまよいながら切実に叫んだのは、正に愛の道でした。愛のない砂漠のような人類の前に、愛の光を照らしてあげようとしたのです。人間が究極的に行くべき道が愛の彼岸だとすると、人類の前に何よりも重要なものは「愛の灯台」でないはずがありません。正にその愛の灯台のみが、人間を本郷の地に導くことができるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-404)
ハナニムと一つになる時は、千態万状(千差万別)に回ります。ですから、兄弟間でも、父母が子女を愛するのを見習い、兄は弟を愛さなければなりません。そのような愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛になり、さらに民族愛になります。このように進めば世界愛になります。
(28-168, 1969.8.3)
ハナニムは、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐おんしゅうではありません。人は愛から始まり、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。
私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、ハナニムの愛、内的な愛の世界にいたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。
(83-198, 1976.2.8)
ハナニムは、真の愛の土台の上で生命を備え、真の愛の土台の上で全知全能でなければなりません。それでこそハナニムは、私たち人間にとって歴史を超越した立場に立った理想的主体になれるのであって、生命の力だけで主体的立場に立てば、すべての万物が一つにならないようにするのです。ごく小さな動物も、植物も、すべて愛の主人が自分を育ててくれることを願い、愛のみ手が来るのを喜ぶというのです。「誰よりも私が強い。あなたは私の思いどおりにしなければならない、こいつ!」と、このように言ってはいけません。愛が内包された、そこに生命が動くのです。 生命の根源は愛です。ハナニムが存続し始めた起源は、生命ではなく、愛なのです。
(173-86, 1988.2.7)

 

3) 愛が介在する時、調和が成される

愛は、考えでも良く、形でも良く、味でも良いのです。これが愛です。
(統一世界 1980, 2-10)
愛とは、東西が合わさるものであり、南北が合わさるものです。その次は、天地が合わさるものです。ですから愛は球形を成すようになります。
(225-46, 1992.1.1)
まことの愛とは、垂直と水平が連結した中心の愛です。
(195-244, 1989.12.1)


口が真の愛に酔っているならば、ほほえむその唇がどれほど恍惚こうこつの状態となるか考えてみてください。人間の五官が真の愛によって動く姿、ハナニムに向かって動く五官の調和がどれほど美しいかを想像してください。美しさを通じた喜びは、ハナニム一人では体験できないものです。美しさは、相対がいてこそ体験できるもので、それがハナニムの人間を創造された目的です。
ハナニムは、天地を創造された以上に、美しい内容を所有した人間の心情世界を旅行したいのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
ハナニムも息をします。真の愛の呼吸をされるのです。ハナニムも宇宙の拍子に合わせるので、真の愛を中心に宇宙が永遠に続くのです。ですから皆さんがここまで行ってこそ、ハナニムの呼吸圏内に入って永生するのです。
(201-191, 1990.4.1)
宇宙は、丸い形をしています。太陽も、丸い形です。すべての丸いものは、何を中心とするのでしょうか。自分一人では丸くなることができません。誰かを中心として関係を結んでこそ、丸くなることができます。このような関係圏を集約させる一つの物体、一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤としています。ここで、この円形をつくることのできる母体とは何でしょうか。調和の母体は、愛の作用だというのです。
(164-78, 1987.4.26)
愛は、神経のようなものです。私たちが髪の毛1本を引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引かれてくるし、愛さえ動かせば宇宙がみな和して、回るようになります。
(89-90, 1976.3.2)
人は、酔って生きなければなりません。酔って生きる人が、幸福な人です。芸術家たちは、芸術に酔って生きます。文学をする人たちは、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人が、幸福な人です。ですから人間の四肢五体は、立体的なハナニムの理想的な愛に酔って生きなければならないし、その方だけについて回らなければなりません。
(59-316, 1972.7.30)
男性が求め、女性が求めている最も貴いものとは何でしょうか。愛です。愛は、人も永遠に好み、ハナニムも永遠に好まれます。愛とは、全宇宙が永遠に一番好むものです。
(179-33, 1988.7.3)
愛は、見えませんが、最も貴い宝物です。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の色、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の色があるので貴いのです。しかし、宝物には生命がありません。真の愛は、生命がある宝物なので、もっと貴いのです。
(201-143, 1990.3.30)
愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
(60-80, 1972.8.6)


愛は、個人の心にも通じ、家庭の真ん中にも通じ、その民族の真ん中にも流れていき、どこでも主流を行くのです。流れても、すべてが歓迎するのです。それを妨げる道がないということです。すべて、より高いものを望みますね。愛の力によって因縁が結ばれるようにつくりました。ですから、愛のひもによって宇宙と呼吸して生きた人は、ハナニムの宮殿に行っても、お辞儀が必要でしょうか。好き勝手に扉を開け、ハナニムをお迎えする至聖所に行って、「ハナニム!」と言えば、ハナニムが「おお、お前か。よく来たな」と言われるのです。
(164-47, 1968.8.11)
人間世界で、ただ一つの問題は何ですか。愛の光が明るくなければなりません。愛の光が明るくなるためには、内的にも外的にも燃えなければならないのです。何に燃えなければならないのでしょうか。愛するために、その発動力に燃えなければならないのです。そのようなことをすべて知って見てみると、世間万事は、過ぎゆく一つの旅の宿です。
(194-56, 1989.10.15)
ハナニムは、どこにいらっしゃるのでしょ うか。「無所不在」という言葉は、ハナニムがどこにでもいるのではなく、愛のある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては無所不在です。私も愛を中心としては無所不在になります。愛を所有すれば、そのような特権があるのです。
(149-23, 1986.11.1)
平等という言葉は、愛を抜けば何でもありません。愛を中心として「ため」に尽くす時、真の平等が成されるのです。
(140-142, 1986.2.9)
愛をもてば、男性と女性が対等になることができ、愛をもてば、息子が大統領でも、その息子と母は、対等になれるというのです。愛をもったすべてのものは、平等になれる内容があります。私たちは、これを知らなければなりません。
(129-49, 1983.10.1)
万物の中心は、人間です。人間の中心は、何でしょうか。真の愛です。ハナニムの愛は、垂直線1本です。天地の中心を立てるためのものが男性の愛の線であり、女性の愛の線ですが、女性は男性のところに行き、男性は女性のところに行って、その線が回るようになるのです。男性と女性が真の愛をもって現れる時に、ハナニムの前に完全なマイナスの愛が生まれるのです。完全な真のマイナスの愛が生まれる時には、縦的なハナニムのプラスの愛が自動的に臨みます。宇宙のすべての原則がそうなっています。
(120-210, 1982.10.16)
私が宇宙と授け受ける関係に置かれるには、愛をもってこそ可能です。愛でなくては、永遠に与え受けることができません。愛が温柔で謙遜けんそんなものだと言ったのも、抵抗なくそれをもっと多く、完全に運動させるためです。温柔で謙遜で犠牲になれば、どこでも通じるようになっています。どこでも抵抗なく行くようになります。これは犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの方法が「ため」に生き、犠牲、奉仕することです。それではなぜ犠牲、奉仕しなければならないのかといえば、第2の生の呼吸気管を完成させるためです。
(122-329, 1982.12.1)


繁殖するすべての存在は、必ず対が連合して繁殖しますが、繁殖の調和を起こすその内容が愛です。自然界におけるすべての存在物の繁殖は、みなそうです。水も、陰性の水があり陽性の水がありますが、陰性の水と陽性の水が混ざった所には、魚がよくみます。寒水と温水が和合する所には、魚がたくさん棲むようになっています。それが理想的です。和合しなければならないのです。
(177-274, 1988.5.20)
北に棲む鳥が南に行ってひなを産み、南に棲んでいた鳥が北に行って雛を産みながら交流するのも、みなリズムによってそうするのです。そこで生まれたので、そこに行って雛を産むのです。冷たい水にいる魚は、温かい水の所に行って産卵し、温かい水にいる魚は、冷たい水に接してこそ産卵するようになっています。陰陽の一致の和合が成されなければなりません。それで移動するのです。
(132-74, 1984.5.20)
愛は、相対的関係がなければ成立しません。絶対的なハナニムだといっても、一人では愛に出会う道がありません。相対者を立てずして出会うことができないので、絶対的創造主の前に絶対的相対の資格者を備えておくためのものが創造であり、創造の傑作品が正に私たち人間です。ハナニムも、愛を探すために相対が必要だからです。
(140-282, 1986.2.14)
ハナニムの愛に酔えば、砂の一粒を千年見つめても嫌になりません。
(83-198, 1976.2.8)
私たち自身が愛の宇宙の中で生まれたと思えば、無限に幸福になるのです。
(298-300, 1999.1.17)
真の愛は、無理になされるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛する時も、もらおうとだけしないで、互いに授け受ける作用になってこそ理想的な愛が成立するのです。
(66-123, 1973.4.18)
もし愛が誰でも描くことができ、触ることができ、形態がどうだと分かるようになっているならば、そのような愛は、1日もたたないうちに嫌になるでしょう。しかし愛は、あるようでつかめず、ないようであるのです。悪いと思えば良く、良いと思えば悪い、千態万状(千差万別)の奇怪な蜃気楼しんきろうのような内容を作動させるのが愛です。
(175-198, 1988.4.17)
宇宙統一理想を完成させる内容とは、真の愛です。いくら名作だといっても、その中に真の愛の味がなければ吐き出してしまいます。夫婦間の真の愛においても同じです。
(112-165, 1981.4.12)
人間が愛を一番好むのも、愛が全体を統一させ、私のものにすることのできる主体だからです。人々には、愛がどれほどいいものかを知るすべがありません。
(18-328, 1967.8.13)


愛は、父母が子供を愛するように、すればするほど喜びが膨れ上がるのです。愛は、一つになることです。もしハナニムの愛と一つになった人がいるとすれば、その人は、どこの誰も切り離すことができません。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。
(18-329, 1967.8.13)
花の中に入っているばちたちは、みつを吸おうとおしりを上にもち上げ、頭を埋めています。それをピンセットで引っ張っても離れません。強く引っ張っておしりが外れても離れません。その蜜の味がどんなに良くて、そうするのでしょうか。蜜の味がそうならば、愛の味は、どうでしょうか。愛の味と蜜の味では、どちらがより良いですか。
(137-57, 1985.12.18)
愛でなくては、一つにすることができません。二つを一つにするには、言葉をもってはできません。二人が一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。物質をもって一つになったならば、物質がなくなれば逃げていくのです。第三者の紹介により、何かの事情を通じて一つになったなら、その人がいなくなれば去ってしまうのです。二人が一つになるためには、そして永遠に一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。愛がなければなりません。
(51-74, 1971.11.1)
愛のみに、あらゆる色の刺激を統一できる力があります。その愛が何かは分かりませんが、世間の人が「嫌だ」と言うおじいさんのにおいが、おばあさんの鼻には心地良いというものです。おじいさんの顔と手に皮しかなくても、おばあさんはその顔と手が良いというのです。まさしく愛がそのようにします。
(148-318, 1986.10.26)
愛の風が吹いた時は、天下がすべて美しく見えます。愛のふろしきに詰め込めば、詩人でない人がなく、風流でない人がいないというのです。
(148-319, 1986.10.26)
愛の味というものは五味子オミジャの味です。五味子は、酸っぱくて、渋くて、味気ないのです。五つの味を合わせたので、渋くて味気なく、ごつごつした味ですね。ところが、一度のみ込んでみれば、のみ込むときは気分が悪いのですが、のみ込んだあとは絶えずのみ込みたいと思うのです。
(173-89, 1988.2.7)
春の季節を抱いて余るほど余裕のあふれる愛、冷たく寒い冬の季節においては、雪と氷を溶かす愛、高さで見ても広さで見ても、私たちが推し量れない無限の愛、そのような愛が私と関係を結び、私から永遠に離れずに安定した中心の位置を決定しなければなりません。そのような愛が無限に感じ取られ、感覚されるとき、その愛こそ宇宙と競って余りあります。世の中のいかなる価値も、その愛を離れては見いだすことができません。始まりと終わりが同じ絶対的な愛を自分のしんの真ん中に定めた人は、たとえ個人でも宇宙と競うことができます。
(33-76, 1970.8.9)
私たちは、一つの草を見つめてもハナニムの立場で見つめられなければならず、花を見つめてもハナニムの心情の代身としての立場、ハナニムの心情と通じることのできる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見る時も、ハナニムの心情と因縁が結ばれる、そのような内的な感情を体得できなければなりません。
(6-340, 1959.6.28)


ハナニムの愛と共に生きる人がハナニムの息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管できる全天宙の主人公です。人間が子供の立場に置かれ得る本質的な内容は、愛です。
(9-173, 1960.5.8)
心情で私たちの心は、無限に大きくなれますが、知識で無限に大きくはなれません。愛の心情は、宇宙を含んでも余りあるので、このように偉大な本然の地を開発すれば、ハナニムもその中に来て昼寝をしたがります。知識によってはハナニムを包括できないので、そこにおいて愛の心情の偉大さを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1053)
愛は、国境を超越します。ハナニムの愛には、国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人、白人、黄色人種と言って差別しません。それでハナニムの愛は、偉大なのです。愛の流れにおいて環境を意に介さず、流れていけば環境が同化され、発展するのです。そうできる思想的な内容を備えてこそ、ハナニムが好まれるのです。そのため、愛の道を行かなければなりません。
(164-93, 1987.4.26)

 

4) 愛の特権は同位権、同参権、相続権

絶対的なハナニムの前に、私がどうしたら相対的な立場で出ていけるのでしょうか。努力でできますか。力を使ってできますか。何をもってしてもできません。しかし愛の因縁を結んでいけば、一度に同等な立場に行けるのです。
(69-75, 1973.10.20)
愛の核を掌握する時には、ハナニムをコントロールすることができます。素晴らしい夫の妻がたとえ出来が良くなくても、その妻が愛の因縁をもって引っ張れば素晴らしい博士も仕方なく引っ張られてコントロールされるのです。愛には、そのような力があります。
(137-61, 1985.12.18)
ハナニムと同等な立場、同位権の立場に立つには、ハナニムの愛を所有しなければなりません。
(145-269, 1986.5.15)
愛には同参権があります。父が高ければ、子供は低い所にいても、すぐに父の立場に飛び上がることができます。同参権が愛に内在しているという驚くべき事実のゆえに、互いにかけ離れていたとしても、それが可能なのです。愛は永遠なのです。
(143-277, 1986.3.20)
まことの愛を体得した人は、ハナニムの本来の理想的な世界で、ハナニムが願うすべてのものを、すぐに所有できる能力と権限をもちます。そのような資格は、地上で成されなければなりません。ハナニムの真の愛は、同胞を愛するとか、世界の人々を愛するとか、万物を愛することにより、感じることができます。
(112-204, 1981.4.12)
ハナニムの愛を所有した人だけが、ハナニムが造られた天と地のすべての権勢を相続し得る特権をもつことができます。
(149-272, 1986.11.27)


ハナニムと愛の因縁を結べば、必ず主管性と同位権、その次は相続権をもち得る特権が与えられるのです。
(143-277, 1986.3.20)
愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では、ハナニムのような能力行使を可能にするのです。
(126-142, 1983.4.12)
ハナニムの愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は、一つになろうとするのです。男女が互いに慕い合う理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通じてのみハナニムを所有することができるからです。愛は、互いに好きになることです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-334)
生命と愛のうち、どちらがより貴いのでしょうか。人間の生命は、(人間の)至聖所の代わりとなることはできません。男性の生命があっても、女性の生命があっても、その生命には至聖所が連結されていませんが、愛には至聖所が連結されるので、愛が生命より貴いのです。
(132-72, 1984.5.20)
誰が主人になるのでしょうか。より「ため」に生きる人です。より「ため」に生きる人が支配し、より「ため」に生きる人が主管し、より「ため」に生きる人に相続がなされるのです。それが天理です。愛には、同参権があります。昼でも夜でも、どこにでも同参することができるのです。自分の息子、娘の部屋に許可をもらって入りますか。自分の部屋に許可をもらって入りますか。そうではありません。ハナニムを愛するそのような愛の作用をもったならば、ハナニムがどこに行っても、私が同参できるのです。
(170-199, 1987.11.15)
真の愛と権勢とは、何が違うのでしょうか。真の愛は、愛して忘れてしまいます。記憶しません。善と悪の基準は何でしょうか。悪は、与えて利益を全部もらおうとするもので、善は、自分のものを与えても忘れてしまうものです。家においても、より「ため」 に生きる人が善なる側です。「ため」に生きる人は、結局その家の主人になることを知らなければなりません。10人の友達がいるとして、その中で一番いい友達は誰でしょうか。10人の友達のために尽くす友達です。そうすれば10人が、「ため」に生きるその友達を中央に置いて侍るようになるのです。宇宙は、そのように相続されていきます。
(141-253, 1986.2.26)
人間において、永遠に残すべきものとは何でしょうか。第1に愛であり、その次が生命です。愛と生命を残さなければなりません。ハナニムにおいては、存在する前から愛があるのではなく、存在してから愛があるのです。ハナニムにおいては生命が先で、愛が2番目ですが、人間においては愛が1番目で、生命が2番目です。
(105-75, 1979.9.23)
すべての元素から人間に至るまで、この宇宙全体に対して、「お前はどこの何をもった人の所有になりたいか」と聞けば、みな同じように、「愛をもった人の所有になりたい」と答えます。すべての万物は、愛の主人を求めるというのです。
(132-158, 1984.5.31)


ハナニムは、すべての権勢を人間に与えようとします。このようになるためには、ハナニムと人間が愛で一つにならなければなりません。ハナニムの創造理想は、一体理想です。愛を中心とした一体理想が創造理想です。
(39-340, 1971.1.16)
人間は、実体をもったハナニムの体です。ハナニムの実体をもった体なので、人間は、外的なハナニムです。ハナニムは、そのような特権を人間に賦与しようとされます。
(39-340, 1971.1.16)
なぜ「善なることをしなさい」と言うのでしょうか。善なることをしようとすれば犠牲にならなければならないし、犠牲は、自分を投入することです。投入すれば、なぜいいのでしょうか。天運の根本、原因と結果、すべての力の主体、主流に接続できる場に入るからです。それで、無限な力を受けることができるからです。善なる人には無限の力が供給されるので、万事がうまくいくのです。
(164-323, 1987.5.18)

 

5) 愛で完成する

ハナニムの創造目的は、神人愛一体の愛の理想世界です。人間は、ハナニムの最高最善の愛の対象として造られました。ですから人間は、創造物の中で唯一ハナニムの実体をした対象です。人間は、無形のハナニムの見える体として生まれました。完成すればハナニムの聖殿になります。ハナニムが自由に、また平安に、いつでも入ってきて臨める有形の実体です。ハナニムの絶対的なまことの愛の理想は、人間を通じて父母と子の縦的関係で実現、完成されます。
(277-198, 1996.4.16)
人間は、何のために生きるのでしょうか。「愛のために生きる」とすれば、どれほど素晴らしい答えでしょうか。 人間は、愛の実として生まれ、愛しながら生きて、永遠の愛であるハナニムの懐に帰るようになっているのが創造本然の人生です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
生まれたのは、愛の実を地上で結ぶためです。地上でハナニムがお望みの愛の実を結ぶことが、人が地上に来た目的です。ですから短いのです。一つの季節です。短いということです。
(130-158, 1984.1.8)
人間は、愛で出発して、愛によって完熟するので、愛の基準を離れては生きていけない存在なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
人の命は愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出ます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探し出し、ハナニムが公認し、天使世界が公認し、万物が、さらには私たちの父母が公認できる大宇宙の愛の中で生まれ、その中で愛して死んでいくのが、人の命が生まれた目的だと見るのです。
(83-164, 1976.2.8)


人間は、ハナニムの愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体を成すようになり、ハナニムの愛の圏内に体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。
そのとき初めて、堕落していない本然の人間として個人完成が出発するようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-313)
ハナニムは、真の愛の王であられ、主人であられます。もし真の愛の王であられ、新郎であられるハナニムならば、相対者となるきさきが必要であるのは、絶対的な原理だというのです。それではハナニムの前に、絶対的なその方の前に、真の愛の相対になれる方が誰かと問うならば、それは真の人間です。ハナニムの愛と一体となる、アダム、エバだったのです。
(275-53, 1995.10.31)
男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。私の道は、愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を築くために行くのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられない時には、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が、愛より上であることはないのです。
(29-130, 1970.2.26)
アダムは、ハナニムと一つにならなければなりません。これを結び付けるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者はハナニムです。これを永遠に結び付ける中心点が、正に愛というひもです。
(35-156, 1970.10.13)
貧しい田舎の農夫として草取りをし、農業をする立場にいたとしても、その農夫に心と体に膨れ上がる愛の情熱が燃え上がっているとすれば、心の五官と体の五官が完全に合わさり、この上もない喜びを味わうことでしょう。 このようにハナニムの愛が皆さんに臨む安着点をもっているなら、時計の振り子の振動のようにハナニムの胸が一度だぶんと揺れれば、皆さんの胸が一度だぶんと揺れ、それで皆さんとハナニムが共に回るというのです。一度回り始めれば、ひっきりなしに回ります。行けば行くほど加重された力は、遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-376)
すべてのものを包容して許す愛は、誰から始まると思いますか。愛は、人間から出発するのではありません。愛は、主体であられるハナニムから始まります。ハナニムは、愛で人間を創造されました。そうして、人間から愛を迎えることを願われます。その愛をまた人間に返すことによって愛を完成するようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)


愛は、絶対的です。その絶対愛の前には、絶対知識、絶対能力、絶対権限をもったハナニムも、絶対服従します。
(206-24, 1990.10.3)
真の愛というものは、1から始まって360度を回りきって到達しなければなりません。そうしてこそ真の愛です。到達する前には、真の愛になれません。
(178-309, 1988.6.14)
人生の目的は、ハナニムの愛を占領することです。ハナニムの愛を占領できなければ、人間がいくら願いをかなえたとしても、それは成就したことになりません。いくら幸福だとしても、その幸福は永遠な幸福になれません。
(38-326, 1971.1.8)
それで、愛すれば永生を成すことができます。永遠によく授けよく受けられるようにする動機が、ハナニムの愛です。
(38-273, 1971.1.8)
この世で一番聖なるものとは、真の愛です。真の愛は、ハナニムから出発します。ハナニムが存在するならば、それ以外の道はありません。ハナニムが本当に願うものは、真の愛の道であり、真の愛の道を通らずしては、ハナニムの前に出ていくことはできません。ハナニムは、愛を通じて見て、聞いて、食べて、触ってみたいのです。人間も、ハナニムから愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。ハナニムの願いは、ここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有して「うれしい」とは言われません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
私が生きて動くこと、すなわち、私が活動することは、無意味なことではなく、ある目的があるのです。その目的は愛の世界を具現することです。人間は、愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)
ハナニムの愛の本質と和合できる人とは、どのような人でしょうか。自分を中心としていく人は、価値がないのです。相手のために自分の生命を投入し、自分があらゆる精誠を投入し、自分のすべてのものを投入しながら、死のうとする人だけが、ハナニムの愛の圏内に存続することができるのです。歴史上の偉人も、聖人もそうでした。
(46-36, 1971.7.18)
ハナニムの愛は、「ため」に生きる愛、ひたすら「ため」に生きようとする愛です。このような愛、真の愛があれば、回るようになっています。宇宙は、どこから始まったのでしょうか。回るところから始まりました。存在するすべてのものは、回るようになっているのが本質です。それでは、どのようなものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えるということ、永遠に愛を中心として、永遠に与えようとする愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力が一つになり、よくあげようとするので、拡大する以外にありません。
(128-291, 1983.9.11)


真の愛の起源であられるハナニムを父母として、人間は息子、娘の位置に立たせられました。父母は、子女のための愛の最高の主人です。父子の関係が縦的な垂直関係であるのに比べ、夫婦関係は横的な水平関係です。したがって、父子の関係と夫婦の関係が互いに直角(90度)をなし、ここに前後関係である兄弟の関係が合わさることによって、愛の関係は球形を成します。それで、愛で構成されたすべての存在は、球形です。宇宙全体が球形になっているのです。
(34-215, 1970.9.13)
人間がハナニムに会うことを望むように、ハナニムも真なる人間に会いたいと思っていらっしゃいます。ところで、人間のうちで、男性と女性のどちら側かに先に会いたいといえば、互いに不平を言うことでしょう。ゆえに、ハナニムは、愛を掲げざるを得ません。愛さえ掲げれば男性と女性が共に会うことができ、共に触ることができ、共に分け合うことができるためです。世の中で、貴いものは互いに争って自分の物にしようとしますが、愛というものは、二人の人がお互いに一つとなり、相手のために所有しようとするので、争いがありません。
愛は、誰もが好むだけでなく、愛のみが欲望を均等に充足させることができるので、この原則を置いてこそ、ハナニムの救援摂理も可能なのです。
(統一世界 1986, 9-17)
真の愛を探さなければなりません。真の愛には、どこに行けば出会えるのでしょうか。真の愛は、昼夜なく不変で永遠なものです。自分一人だけのためのものが真の愛になることはできません。真の愛が私個人だけの所有にはなり得ません。真の愛は、万民のものであり、宇宙共有のものです。真の愛は、家庭、社会、国家、世界、宇宙まで連結されるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
真の愛とは、根をどこに置いて言う言葉でしょうか。ハナニムがいくら全知全能なる方でも、その根をハナニムに置いていません。全知全能なるハナニムは、真の愛の主人公なのに、愛の根をハナニムに置こうとしません。愛の対象になれる人に根を植えようと考えます。
(177-269, 1988.5.20)
愛は、どこから始まったのでしょうか。ハナニムから始まりました。ハナニムが愛の理想相対を必要とされてこの世を造ったので、天地創造も愛を起源としています。
(213-79, 1991.1.14)
心の力の源泉は、愛です。ですから心が授け受けて生じる爆発的な力をハナニムに連結しさえすれば、それは何百倍、 何千倍も統一できるでしょう。そして、世界万民が待ち焦がれた願いを成就できるでしょうし、永遠に共に生きることもできると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣ひけつが正に愛です。
(18-328, 1967.8.13)


人間がハナニムと一体を成す時、その心情と感情は、無限な体恤たいじゅつの境地と幸福感に酔うようになります。結局、愛によってハナニムと人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、ハナニムの創造目的である理想世界の実現も、ここから出発するのです。
(35-156, 1970.10.13)
人間が神霊的境地に入れば、小さな砂粒一つにも宇宙のことわりが入っていて、一つの原子にも無尽蔵な宇宙の調和が宿っていることが分かります。存在するすべてのものは、ある複合的な力を通じて現れた結果であることを否定できません。
分子を越えて原子、原子を越えて素粒子に至るまで無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在しています。ですから存在するすべてのものは、必ずハナニムの愛のみ手を経ており、必ずハナニムとの心情的な関係のもとに存在しています。喜びは、ある目的を成し遂げた時に感じます。造った万物にハナニムの目的意識が内在しているので、創造された万物によってハナニムは喜びを感じるのです。
(9-166, 1960.5.8)
ハナニムの愛の圏に進んでいくためには、どれほど強い愛でなければならないのでしょうか。今日、人間世界の間違った愛は、天使長級以下の愛です。堕落したこの世の愛は、サタンが侵入した愛です。このような愛の圏で生まれて生きながら、愛ゆえに死ぬか生きるかと大変です。この愛は、秩序もなく方向もない渦巻きです。渦巻きには、汚いものだけが集まります。しかし、人間がハナニムの愛と関係を結べば、その愛の方向を教えてあげなくても自然についていきます。
(130-23, 1983.12.11)
ハナニムを中心とした新しい愛、すなわち創造の法度による愛が決定された場で、初めてハナニムの理想が出発します。
(19-314, 1968.3.17)
愛をなぜ好むのでしょうか。好まざるを得ないようになっているからです。お父さん、お母さんを完全に一つに結び付けるのは、愛のロープです。鉄でできたロープは時間が過ぎればさびて切れてしまいますが、愛のロープは永遠のものです。そして父母と子の間は、法でもお金でも結ぶことができません。ただ愛によってのみ結ぶことができます。
(18-329, 1967.8.13)
人間の完成は、知識や権力、あるいはお金によって成されるのではなく、愛によって成されるのです。その愛は、 俗化された愛ではなく、本来の愛であり、その愛によってすべてのものが完成します。
(御旨と世界-697)


 

第2章 愛の実際

 

1) ハナニムの愛

① 愛はハナニムから始まる

ハナニムは、愛のハナニムです。パウロは、「キリストの中にあるハナニムの愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、ハナニムの愛がなければ何でもありません。それで、ハナニムの愛を何よりも好むのです。ハナニムの愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。霊的体験をしてみれば、これが分かります。
(24-324, 1969.9.14)
ハナニムの愛は、太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は、太陽に向かいます。これと同じように、 ハナニムの愛は、生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。
(99-230, 1978.9.25)
ハナニムは、愛の実体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。真正な愛は、始めと終わりがあり得ません。
心情の世界で一時間生きるのは、千年の歴史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の歴史に誇ることができるように、高貴なことを体験できるようにするのがまことの愛です。愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界が、ハナニムの愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのは難しいのですが、あたかも、のどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚こうこつな世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような気分になる世界です。
(20-25, 1968.3.31)
ハナニムの愛をどのように表現できるでしょうか。それは、ちょうど暖かい春の日に、空には白い雲がふわふわと浮いていて、地にはかげろうがぼんやりと立ち上り、虫が歩き回り、ありたちも世の中を見物しようとい出たり、戻っていったり、さらさらと流れる小川には柳が芽を出し、かえるが春の日の新しい歌を歌い、花々が、群れを成して飛び交うちょうを喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境では酔って眠り込んでしまいそうですが、眠り込まずに、気分が良くて永遠に「いいなあ」と言える、そのような味だというのです。ハナニムが求める理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、はちが飛び交う花園のようなものです。これを考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それをよく知らないでしょう。
(37-29, 1970.12.22)


ハナニムがいらっしゃる所には、愛が充満します。与えれば与えるほど、もっと与えたいと思い、受ければ受けるほど、 そこに千万倍加えてあげたいと思う所です。ですから、そこが天国ですか、地獄ですか。そこでは、もっと与え、もっと受けられるので、爆発的な刺激を感じるようになるというのです。すべての細胞が噴き出るような刺激を感じるのです。ハナニムの愛がそうなのです。
(39-335, 1971.1.16)
天地を創造したハナニムは、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。 ですからハナニムは、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。ハナニムは、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのまま譲りたいのです。
(13-247, 1964.4.12)
ハナニムは、どのような味を一番好まれますか。ハナニムがにおいをかぐならば、どのような匂いを一番好まれますか。聞くならば、何を聞くことを好み、感じるならば、何を感じることを好まれますか。ハナニムが好まれるものは、一つしかありません。それは愛です。ハナニムの五官を集中させ、喜びを充満させ得るものがあるならば、それは愛よりほかにありません。
(136-116, 1985.12.22)
ハナニムが絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは、間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから、「万物之衆マンムルチジュン 唯人最貴インチェ(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。
(218-211, 1991.7.29)
ハナニムの愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには、兄弟の愛も入り、これを拡大すれば、国家や世界の愛も入ります。ハナニムの愛は、父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。
(67-171, 1973.6.3)
ハナニムが必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶対的愛を願われます。私たちも同じです。ハナニムが絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべてハナニムに似なければなりません。
(279-246, 1996.9.15)
ハナニムは、愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性がお互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですからハナニムは、存在世界の前に現れる時、愛の本質として現れます。
(86-82, 1976.3.7)
ハナニムが今まで人間に愛を与えたからといって、「私はすべてを完全に与えたのに、あなたはなぜ与えないのか」と、このように言うことができるでしょうか。絶対的な愛をもったハナニムは、いまだに与えたいと思う愛をすべて与えることができずに、残念に思われています。自我を主張できないハナニムです。完全な愛を与えようと思ったのがハナニムの人間創造の目的ならば、ハナニムは、今まで完全な愛を与えることができなかったので、人間世界に対して愛を与えたいと思われるのです。そのようなハナニムなので、考えるほどよいのです。「私はすべて与えたのだから、今はあなたがもってきなさい」と言うハナニムならば必要ありません。


ハナニムは、私たちに愛を与えるとき、どれだけ与えたいと思うのでしょうか。ハナニムの愛は、このくらいならよしとする限界をおいて与える、そのような愛ではありません。無制限に与えようとする愛です。ハナニムはそっくりそのまま与えても、「お前によって、お前の中で暮らしたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質は何ですか。愛なのです。ハナニムも、愛の中に入ればしもべの生活をしてもよいというのです。 父親は、愛する息子が自分の食卓の上にあがってきてうんちをしても、それを見つめて喜びを感じます。愛は法を超越するのです。
(36-77, 1970.11.15)
ハナニムは、全知全能であられ、遍在される方として惜しむものがなく、備えられないものがありません。すべてのものを備えていますが、そのすべての価値よりも貴いものとして先頭に立てたいと思い、誇りたいものがあるならば、それは何でしょうか。ハナニムは、愛以外には必要ないのです。愛以外には必要ないというのです。
(108-223, 1980.10.16)
ハナニムが「私は愛だ」と言われたのですが、それは何ですか。夜にもうれしく、昼にもうれしく、仕事をしながらもうれしく、休みながらもうれしく、踊りながらもうれしく、泣きながらもうれしいというのです。ですから、「私には愛がある。そっくりそのままある」と言われたのです。「そっくりそのまま」という言葉は、その中にすべて入るということです。愛を一番好む方が誰かといえば、ハナニムです。そのような愛をそっくりそのままもっているハナニムなので、その愛を味わえば、死んでも手放すことができません。
(44-188, 1971.5.7)
ハナニムは、真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だというのですが、それはどういうことですか。すべて同じ話です。真理が成立するには、愛と生命がなくてはできないのです。ですから、最も核心の生命の本体、愛の本体、真理の本体はハナニムでいらっしゃるのですが、そのハナニムはどのような方なのでしょうか。私たちの人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、ハナニムは簡単な方です。
(21-183, 1968.11.20)
子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、ハナニムは、そのすべての段階における愛の主人として位置を確立することができるのです。ゆえに、そのようにハナニムを愛の主人にさせた人間こそが、ハナニムより貴い存在であると見ることができます。ちょうど、愛する人のことを、自分自身より何千倍も価値あるものとして、貴く思うのと同じです。
ハナニムは、愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、ハナニムの愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのようなことわりになっています。
(181-206, 1988.10.3)


愛とは何でしょうか。回ることができるように潤滑作用と軌道作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も、動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから、最高の喜びの潤滑作用ができるのは、愛しかありません。それは、根が永遠のハナニムなので、なくなりません。作用すれば発展するようになっています。
(180-161, 1988.8.22)
ハナニムの愛は、変わらないところに現れます。ハナニムの愛は、不変なので永遠です。ハナニムの愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、ハナニムの愛は現れます。そうでなければ、この宇宙の公約全部がむなしいものです。
(83-179, 1976.2.8)
ハナニムは、私たちの父です。夜も昼も子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反対の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として、ハナニムの完全な愛を受けなければなりません。
(57-85, 1972.5.29)
ハナニムは今まで、御自身と近い側にいる人たちと、宗族、国家にまで愛を与えました。「少ない」と言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくださいました。それも不足で、愛する息子の生命までも与えました。ハナニムは、一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えて与えようとされます。ですから、その愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天国に変わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちがハナニムに百の愛を捧げるならば、ハナニムは千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。
(38-166, 1971.1.3)
ハナニムの愛さえもてば、ハナニムの胸の中に入っていてもいいし、ハナニムの鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。
(91-227, 1977.2.20)
ハナニムから愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。ハナニムの願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとは言われません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
ハナニムと人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子関係の位置です。このように見る時、ハナニムは愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女に対しては威信と体面を超越します。
いくら罪人のできの悪い子供でもハナニムをつかめば、ハナニムが「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、ハナニムが抱き締め、ほお擦りして愛してくださるのです。このようなことを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。
(69-79, 1973.10.20)


ハナニムは、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃる方です。そのような方なので私たちがハナニムを求めるのであって、与えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商売人のハナニムなら、そのようなハナニムは必要ありません。
(36-290, 1970.12.13)
ハナニムの愛に接すれば、どうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。100パーセントその愛に酔えば、ひっくり返るのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びにおのの柄の腐るのも気づかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」ということわざがあるように、それほど人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があります。
(59-316, 1972.7.30)
ハナニムがいらっしゃる所には、愛が充満します。与えれば与えるほどもっと与えたいし、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて与えたいのです。ですからそこが、天国ですか、地獄ですか。そこでもっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。ハナニムの愛は、そのようなものです。
(39-334, 1971.1.16)
愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出し、鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。
(81-18, 1975.11.23)
ハナニムは人間の父であり、人間はハナニムの息子、娘です。ハナニムの骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄を丸ごと投入して創造した人間なので、人間がハナニムを引っ張れば、引いてこられざるを得ず、またハナニムが人間を引っ張れば、引いていかれざるを得ません。
(20-207, 1968.6.9)
人間は、なぜハナニムが好きで、ついていくのでしょうか。ハナニムは、千年、万年すべてのものを与え、また与えても恥ずかしがりながら、「今はこれしかないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょう与えることで満足するのではなく、未来にもっと多くのものを与えると約束する心をもっていらっしゃる方だからです。
(36-290, 1970.12.13)
人間は、なぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶対的主体者であられるハナニムの前に、愛の対象としての価値をもつことができ、絶対的な愛のハナニムの前に永遠であらざるを得ないので、私は、永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同様にハナニムであり、私になります。愛で一体となりさえすれば、ハナニムを私のポケットの中に入れることもできるのです。
(137-67, 1985.12.18)
ハナニムの愛は、太陽より強いのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は、太陽に向かいます。これと同じように、 ハナニムの愛は、すべての生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。
(99-230, 1978.9.25)


私たちがこのようなハナニムの愛の圏に通ずれば、どのような気分がするでしょうか。春の日に、いい香りのする園で美しい花々を見つめ、香りという香りをすべていで、酔った気分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。
(24-324, 1969.9.14)
ハナニムの愛が縦的な愛ならば、男女間の愛は横的な愛です。男性と女性が出会うには、横的な愛を縦的な愛に接ぎ木しなければなりません。90度の角度に合わせなければなりません。これに合わない愛、縦的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破壊されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と関係を結べば、知識も権力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。
(136-203, 1985.12.29)
ハナニムはアダム、エバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。ハナニムが人間に対して願う終着点とは何でしょうか。息子、娘に会って愛する場です。そして人間が願う終着点もハナニムを父として侍り、息子、娘として愛される場です。
(56-145, 1972.5.14)
ハナニムにとってアダムは、自分の中の自分であり、未来の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは、ハナニムの体です。またエバはハナニムの夫人であり、体です。アダムは、ハナニムの体に相対する霊的相対であり、エバは肉的相対です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。ハナニムと共に愛するのです。それで結婚は、極めて神聖なのです。
(102-208, 1978.12.31)
ハナニムに知識は必要ありません。ハナニムは、知識を創造した方です。ハナニムに権力は必要ありません。全知全能だというのです。ハナニムにお金は必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思うままに造ることができます。ハナニムに必要なものは、たった一つです。それが何かと言えば、愛です。ハナニム一人で愛を受けることができますか。「ハナニムは愛を思うままにできるのではないか」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。ハナニムにおいて一番必要なものとは、真の愛を分かつことのできる対象者だというのです。人々はこれを知りませんでした。
(137-52, 1985.12.18)
ハナニムは、私たちに愛を与える時、限りなく与えようとします。ハナニムはすべて与えても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。ハナニムも愛の中に入れば、「僕の暮らしをしてもいい」と言うのです。愛は、法を超越します。
(36-77, 1970.11.15)
ハナニムの愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを総合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によれば、いくらでも満たすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。
(81-18, 1975.11.23)


ハナニムは、愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚しんせきの愛、民族の愛がわき出ました。
(50-267, 1971.11.8)
愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高に広くあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキー山脈のようだ。愛はナイアガラの滝のようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃるハナニムも貴い方です。その貴いハナニムを探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならない、という言葉が正しいのです。ハナニムは、私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えない静かな世界にいらっしゃいます。
(96-261, 1978.2.12)
男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし、ハナニムを訪ねていける道を知り、ハナニムの愛の味を本当に知れば、ハナニムのその愛は、この世のどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。
(39-240, 1971.1.15)
ハナニムは絶対的な方なので、そのようなハナニムに他の所で待ることはできません。愛する人同士は、共に行きたいし、共にいたいし、共に住みたいと思うのです。どのように共に住みたいのでしょうか。ハナニムに深くしみ込んで一つになって、共に住みたいと思うのです。それが愛の本質です。
(56-147, 1972.5.14)
心は、狭いですか、広いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は、無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に数百億円をあげても、またあげたいのが心です。 心は、このように素晴らしいものです。ですから人間は、無限の愛、無限の希望の花として咲くことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限にハナニムの性稟せいひんに似たからです。
(27-59, 1969.11.23)
皆さんの心は、どれほど大きいでしょうか。これは、測定できないほど大きいというのです。また、小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は、大きく広げれば、無限に広げることができるし、狭めれば無限に狭めることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ、心がそのようになっているのでしょうか。それは、ハナニムが臨在できるハナニムの家になっているからなのです。
(145-312, 1986.6.1)
愛は、一番近い距離を通ります。簡単な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、バランスをとらなければならないのでしょうか。愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。 矢のように直行しますか。夜も昼も関係なく、春夏秋冬いくら歴史が長いといっても、愛は直短距離を通ろうとします。
(187-50, 1989.1.6)


愛だけは万有において、直短距離を通れるようになっています。ですから、上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。
(187-50, 1989.1.6)

 

② 愛の目的は、神人愛一体理想

天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入ってハナニムに祈ってみると、父と息子、娘の関係、すなわち「親子の関係である」とおっしゃいました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の関係だと思っていますが、それは、ハナニムとの根本関係をいっているのです。
(19-158, 1965.1.1)
父と息子が出会える最高の場所とは、どこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けばハナニムも愛であり、私も愛であり、ハナニムも生命であり、私も生命であり、ハナニムも理想であり、私も理想になるというのです。
それを決定できる最初の因縁と最初の統一の場所が親子関係の成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事実です。
(69-78, 1973.10.20)
ハナニムが絶対的な方ならば、その絶対的な方がなぜ人間を造ったのかということが問題です。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、ハナニムの愛を感じ得るたった一つの道なので、人間をお造りになりました。このような観点から見るとき、ハナニムは父であり人間は息子、娘だということが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結したならば、人間とハナニムが愛で一体となった関係を、何が作用しても絶対に離すことができないということです。
(137-57, 1985.12.18)
本来はアダム、エバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。そこで花のように咲き、その香りが全天下を覆っても余りあり、ハナニムがその花を見つめ、花の香りをぎながら自らそこに酔うことのできる、そのような愛をハナニムは夢見ていたのです。
(104-45, 1979.3.28)
ハナニムが創造当時、理想として願ったまことの愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは、「天国だ、地獄だ」と心配することもなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。
(275-54, 1995.10.31)


ハナニムは愛を好まれるのですが、ハナニムが最も好まれる愛とは、どのような愛ですか。真の愛です。それでは、真の愛は、愛の根をどこに置くのですか。その根をハナニムに置いていないということです。それは不思議な話でしょう? 全知全能のハナニムが真の愛の主人公であるにもかかわらず、その愛の根はハナニムから始めたくないということです。その愛の対象となれる人間に根を植えようと思われるのです。
(177-269, 1988.5.20)
では、動脈が偉大なのか、静脈が偉大なのか、どちらが偉大ですか。同じです。それでは、ハナニムが偉大なのか、人間が偉大なのか。同じです。愛を中心として、ハナニムが動脈的ならば、私たち人間は静脈的な存在なのでハナニムと対等になる、そのような特権をもった人間の価値があるのです。「天上天下てんげに唯我独尊であり、全知全能であり、無所不在であり、私を経ないものがない」、それは何を中心としてですか。愛を中心としてです。それが理解できるというのです。
(109-146, 1980.11.1)
愛が先ですか、生命が先ですか。愛が先です。宇宙がハナニムの生命から出てきたからといって、生命が一番とはいいません。愛が一番といいます。ハナニムは、天地創造を生命からしたとしても、その生命の発源地、動機は愛です。命が生まれたのは、愛からです。
(86-79, 1976.3.7)
真の愛を中心として、男性と女性がハナニムの代身となった立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、ハナニムのすべてのものが私のものになるのです。真の愛が偉大な理由は、真の愛によって私自身がハナニムの対象になることができ、ハナニムも私自身になれるからです。
聖書に、「ハナニムが私の中にいて、イエス様が私の中にいる」という内容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは、孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんはハナニムのような立場にいるので、ハナニムのように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに、横的に展開するのです。人間の完成は、ハナニムと縦的な関係を結ぶところから出発します。
(298-308, 1999, 1, 17)
ハナニムが絶対的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために、知識のために、権力のために造ったのでもなく、ハナニムの愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。このような観点でハナニムは父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。もし軸が連結されれば、人間とハナニムが愛によって一体となった関係を、何が作用しても絶対に切り離すことはできません。ハナニムの本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。ばちは春にみつの味を味わいます。蜜を吸っている蜂のおしりを引っ張れば、おしりが離れても蜜から口を離しません。
(137-57, 1985.12.18)


ハナニムから愛を受けたいと思う、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場は、まさしく息子の場であり、娘の場です。ハナニムには天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点は、どのようなところでしょうか。そこは絶対的なハナニムも願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。
(39-9, 1971.1.9)
愛の巣の中で抱かれ、愛の巣の中で生まれる息子、娘には、どれほど価値がありますか。ハナニムが毎日のように訪ねてきて、見物したいし、触ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど価値があり、幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。
(163-114, 1987.4.19)
アダムとハナニムが一つになり、互いに愛があふれる時、アダムはハナニムになることができます。アダムが愛によってハナニムと完全に一つになる時に、ハナニムはアダムの中にいらっしゃいます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊みたま が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ, 3:16)とあります。私たちがハナニムの聖殿だというのです。
(48-230, 1971.9.19)
私たち人間は、ハナニムが造った創造的な傑作品としてハナニムに似ています。ハナニムが永遠であられるので、私たちも永遠の性稟せいひんをもたなければならないので、私たちの心は、年を取らないのです。人は、永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在的価値をもてるのです。ですから人間は、万物の霊長になるのです。
(159-279, 1968.5.19)
ハナニムの愛は、ハナニムの愛だけで終わりません。その愛は必ず、人間によって横的に広がります。電気のプラスとマイナスがやり取りすれば、反応する極ができます。そのようなものが他の所でまた展開します。このようにハナニムの愛は、横的に広がっていきます。
(34-235, 1970.9.13)
この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは真の愛です。真の愛はハナニムから出発します。ハナニムが存在されるのならば、その他の道はありません。ハナニムが心より望むのは真の愛の道であり、真の愛の道を通さなくては、ハナニムの前に進めないということを知らなければなりません。ハナニムは、愛を通して見て、聞いて、食べて、触ってみたいということです。
人間もハナニムから愛のキスを受けたとすれば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。ハナニムの望みはここにあるのであって、「ダイヤモンドや宝石を所有してうれしい」とは言われないということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-380)
人類は、世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバがハナニムの前に直系の王子と王女の立場を備えれば、 彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし、堕落することにより、占めなければならない長子権王子、長子権王女の立場を失ったのです。これが人類歴史にハンとして残りました。それで人類は、ハナニムの真の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道を歩んできたのです。
(226-48, 1992.2.1)


堕落していないアダム、エバの体は、ハナニムが臨在できる家です。アダム、エバがハナニムを心の中心として真の愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体は闘わなかったことでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血筋を引き継いだことです。ですから、この血筋を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造してこそ、救援摂理の完成が成されます。
(226-48, 1992.2.1)

 

2) 真の父母の愛

① 原罪のない真の先祖、人類の救世主

まことの父母とは何でしょうか。堕落していなければ、ハナニムは縦的な愛になり、アダムとエバはハナニムの体になるのです。ハナニムの体と同じだということです。ハナニムは骨と同じであり、アダムとエバは体と同じだというのです。ハナニムにも心があり、体があります。ハナニムは、内的な位置で内的な父母になり、アダムとエバは外的な位置で外的な父母になるのです。内的・外的父母が一つになったその場で愛によってつづられて内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。ハナニムと人間との愛の結託によって真の父母、すなわち完成した人間が成就されるはずだったというのです。愛と結託できなくなれば、完成人間はないということです。
(184-71, 1988.11.13)
今日まで歴史は、何を求めてきたのでしょうか。時代は、何を求めてきたのでしょうか。未来は、何を求めていくべきでしょうか。真の父母です。ですから全体がここに帰結されずしては、幸福の基準は、歴史過程や宇宙の中では見つけることができません。
(26-199, 1969.10.25)
真の父母とは、どのような存在でしょうか。真の父母は、全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に、絶対的な希望の象徴なのです。彼は、歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界に連結され得る未来線上においての出発点です。
(35-236, 1970.10.19)
참부모チャムプモ(真の父母)」というその名前の3文字を考えるとき、真の父母によって歴史が統治され、真の父母によって新しい世界へ帰ることができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させ得る内的な因縁が決定し、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服し、初めてハナニムを解怨かいおん成就してさしあげられる中心が決定するのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令に従って行動できるこの驚くべき恩賜おんしに、皆さんがまず感謝しなければなりません。
(43-144, 1971.4.29)


人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が、真の父母だというのです。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の子孫をすべて失うようなことがあったとしても、真の父母に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。そのような方が、正に真の父母だということを知らなければなりません。
(35-236, 1970.10.19)
皆さんは、ハナニムと真の父母のために涙を流さなければなりません。涙を流さずしては、誰も復帰の道を行くことはできません。ハナニムは、今まで人間を救うために涙の道を歩んでこられたからです。
(御旨と世界-163)
皆さんは、先生がこの地上に真の父母という名前をもってきたことが、どれほど驚くべきことかを知らなければならないというのです。真の父母という言葉がありますが、世の中の言葉の中で最も福のある言葉は何でしょうか。堕落した人間にとっては、失った国を取り戻すことよりも、失った世界を取り戻すことよりも、真の父母という言葉が最も福のある言葉です。それは、天地の何よりも貴いことを知らなければならないというのです。
(127-221, 1983.5.8)
「真の父母」という言葉一言のために、歴史が左右されます。この言葉を探し立てるために、今まで数多くの先烈たちが犠牲の道を行きました。連続的な血の闘争を経て、身もだえしながら、絶叫しながら、希望を抱いて探し立てた名前が、「真の父母」という聖なる名前です。真の父母の前には真の子女がいなければなりません。では、皆さんが真の子女になったでしょうか。 真とは、過去にも、現在にも、未来にも変わらないことです。
(33-109, 1970.8.9)
ハナニムの復帰歴史は、真の父母を立てるための歴史とも見ることができます。したがって、カイン、アベルから今日に至るまで、天は内的に真の父母を復帰するために摂理してきました。誰でもこの目的を成し遂げるための根本摂理に敵対したり妨害すれば、彼は天道の前に捨てられるようになり、結局滅びるほかはないでしょう。
(9-10, 1960.3.27)
メシヤは真の父母です。私たちは真の子女です。同じ運命圏に立って、そこに加わらなければなりません。
(55-99, 1972.4.23)
メシヤがこの地上に来られるとき、その方は個人として来られますが、個人ではありません。その方の価値は、全世界人類が信じている信仰の結実体であり、全世界人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。その結実体には、すべての歴史路程が連結しています。すなわち、過去、現在、未来がすべて連結しています。そして、個人から家庭、宗族、民族、国家、世界がすべて連結していて、天と地がすべて連結しているのです。
(13-143, 1964.1.1)


メシヤがこの地に来て、代行しなければならない立場とは、真の父母の立場です。それでは、真の父母とは何でしょうか。縦的な真の父の代わりに、横的な真の愛を中心とした横的な父母です。キリスト教では、「メシヤがハナニムであり、ハナニムがメシヤだ」と言いますが、それは違います。ハナニムは縦的な真の父です。これは一つしかありません。他の道に行くことはできません。メシヤは、横的な真の父母だというのです。
(186-40, 1989.1.24)
真の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが想像もできない涙ぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知らないところで、どれほど多くの涙を流したか知れません。その内容は、ハナニムだけが御存じです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-449)
私たちが知っている真の父母とは何ですか。人間の先祖です。ですから、真の父母を自分の父母のように待らなければならないというのです。
(118-147, 1982.5.23)
真の父母がこの地上の人間たちの前に、何をしに訪ねてくるのですか。人間が最も喜ぶものをつくってあげるために来るというのです。それは何かというと、皆さんを真の父母、小さい真の父母にすることです。
(125-117, 1983.3.14)
どこから真の愛が出発するのですか。真の父母からです。これは福音の中の福音です。世の中に何か良い言葉があるとしても、夫という言葉が良い言葉であり、妻という言葉が良い言葉だとしても、堕落した世界は、真の父母が現れなくては真の夫と妻が現れないので、真の父母以上に良い福音はないというのです。これをはっきりと知らなければなりません。
(131-187, 1984.5.1)
人類は、真の父母が必要です。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結され得る原則的なことが、歴史始まって以来初めて起こったのです。歴史始まって以来、以前にもなく、これからもありません。これをはっきりと知らなければなりません。軸は一つです。二つではありません。その軸とは何かといえば、真の愛です。今皆さんの父母が愛し合うのは、真の愛ではありません。
(137-107, 1985.12.24)
ハナニムの摂理の目的とは何かといえば、一つの焦点です。ハナニムの理想が実現される場も、正にその場です。私たちが失った父母、失った真の父母に出会えるところも正にそこです。それで、その基台がすべての中心です。その場、それが「真の父母だ」というのです。歴史上、多くの場がありましたが、この場が最も価値ある場です。それが、どれほど重要なのか考えてみてください。すべての聖人たちもこの基台、この問題のために闘ってきました。
(52-95, 1971.12.23)
人類が願うものは何でしょうか。真の父母に侍ることです。6000年前にアダムとエバが成婚して全人類がハナニムの子孫になるべきだったにもかかわらず、堕落によって人間たちは、サタンの子孫になってしまいました。


ですから私たちは、6000年前に失った天の側の真の父母を、再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ、天国の民になれるのです。
(19-203, 1968.1.7)
ハナニムは、真の父母を絶対的に必要とされます。全能なるハナニムも、真の父母なしには摂理を成し遂げることができないからです。霊界に行っている数億の霊人たちも、真の父母を絶対的に必要としています。真の父母が生まれない以上は、天使長界の霊人たちも、地上でみ旨が成就できるように役事したかい・・を見いだすことができないからです。ハナニムの前に立つためにも、真の父母が必要なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-454)
すべての歴史は、真の父母を迎えるためのものです。宗教も真の父母を求めてきて、世界も真の父母を求めてきて、国家も真の父母を求めてきました。 真の父母を探す道を模索してきたのです。
(御旨と世界-75)
人間は、歴史時代に真の父母を失って孤児になったので、一つになる道がありません。本然の父母の愛からすべてのものが解決されなければなりませんが、そのようにできませんでした。ですからすべての人が必要とする方が、真の父母です。
(128-107, 1983.6.5)
今までの歴史的な願いとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。ハナニムがイスラエルの国とユダヤ教を立てられたのも、メシヤを迎えるためのものでした。メシヤは、どのような方かと言えば、真の父母です。また、キリスト教キリスト教文化世界をつくったのは再臨主を迎えるためでしたが、再臨主は、第三アダムとして来られる真の父母です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-75)
すべてのものは、どこに帰結するのでしょうか。真の父母に出会うところに帰結します。人類の真の父母が現れることが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。それで真の父母が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後の時なのです。
(51-354, 1971.12.5)
真の父母とは何ですか。肉親の父母と真の父母と、何が違いますか。愛を中心として言う時、その肉親の父母と真の父母とは何が違いますか。愛に対する概念が違います。愛の概念が違うのです。肉的父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれるのであり、霊的父母は、霊的な世界を中心とした愛を教えてくれるのです。内容が違うのです。
(129-99, 1983.10.1)
民主主義は兄弟主義ですが、その上が父母主義です。これから父母主義時代が訪れてくることを知らなければなりません。父母を選挙で選出しますか。再臨主を選挙で選ぶことができますか。ハナニムを選挙で採択できますか。できません。民主主義は不信の風潮を造成する基台になっています。なぜですか。自分の利益のためにはあらゆることをするからです。財力を動員して、人材を動員して、謀略、中傷など、あらゆることをするというのです。
(211-343, 1991.1.1)


 

② 真の愛で人類を生んでくださる

皆さんは、まことの父母と関係のない場で、天の前から追い出された偽りの父母の血筋を受けて生まれたので、真の父母の血筋に生まれ変わるためには、偽りの血筋を踏みつぶし、完全に抜き取ってしまわなければなりません。そうして、血統を根本的に替えずしては天の国に行くことができません。
(22-271, 1969.5.4)
血統的転換を成し遂げるためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入って、将来の子供になるその種に、ハナニムの愛と結束した勝利的条件を充足させなくては、将来ハナニムの子女として生まれることができません。これは理論的に間違いないというのです。聖書にそのようにしてきた記録があるでしょうか。そうだとすれば、聖書はハナニムのみことばだというのです。
(35-163, 1970.10.13)
堕落した人間が要求する救世主とは、どのような救世主でしょうか。堕落した父母の立場からではなく、堕落していないアダムとエバのような立場でハナニムのみ旨と一致し、ハナニムの愛を受け、ハナニムの祝福を受け得る真の父母の立場で、人類を生んでくれる救世主でなければなりません。そうでなければ、人間が原罪と関係のない立場に上がることができないのです。
(22-269, 1969.5.4)
血統を転換するのは、メシヤがするでしょうが、転換するように行動するのは、自分自身でなければならないといいました。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至れません。それは決してたやすく成されず、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。40日断食祈祷だとか、血を吐く死の境地に行ってこそ血統転換が可能です。
(御旨と世界-62)
真の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝が全部違います。ここで新しく根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。ここで幹と枝が出てきて接ぎ木するのです。切り取って接ぎ木するのです。接ぎ木して、それが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切らなければならないというのです。
(164-155, 1987.5.10)
今日、万民が願うものとは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようとするのです。また未来の子孫たちは、誰から出発したいと思うのでしょうか。皆さんの息子、娘は、皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血筋を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新しい未来の出発点になるのです。
(35-237, 1970.10.19)


真の父母は、何をしなければならないでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、 間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。
(169-39, 1987.10.4)
私たちが完全な新しい生命として再創造され、根本的に生まれ変わるのは、真の父母の体を通してのみなされるようになります。真の父母によってのみ霊肉が共に救われる完全な救援が可能になるのです。このようにして誕生した私たちの子女は、原罪がないので、救援の過程を通さないで天国に行くようになります。
(御旨と世界-125)
真の父母と真の父母の子女というものは、永遠不滅の宿命的な業です。これを誰も分けることができないのです。千年、万年その道を行かなければなりません。行くべき道は、二つの道ではなく一つです。他の方法はないのです。秘法がありません。その道を行かなければならないのです。
(203-192, 1990.6.24)
真の父母は、世界の人々を呼び、父母の立場から結婚させてあげます。ここでは人種の違いを越えるだけでなく、善人と悪人も共に結婚させてあげるのです。
真の父母は、悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統をすべて否定しますが、アベルを殺したカインは、取り除いてしまわず、同じ位置で祝福してあげます。海の潮の干満を見るとき、出ていく水と入ってくる水が合い、水平を成した時のように、救援摂理(蕩減とうげん復帰)が終結する善悪の転換期で、善人と悪人をすべて共に祝福してあげることにより、サタンを完全に追放するようになるのです。
エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今や真の父母が正しく結婚させてあげることをもって、もう一度ひっくり返すのです。偽りの父母が犯してしまったことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫 たちの家庭基盤を通して、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋がお互いに連結されます。
(300-224, 1999.3.14)
養子は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の息子に接ぎ木されなければなりません。野生のオリーブの木を切って、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければなりません。重生するためには、真の父母の血統を引き継がなければなりません。 それで人類が願うのは、真の父母であり、イエス様と聖神聖霊)が願うのは「小羊の婚宴」です。
(19-164, 1968.1.1)
まず何よりも、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として父母に侍らなければ、救いを受けられないのです。皆さんは、そのように侍ったことがありますか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなくてはなりません。
(30-238, 1970.3.23)


肉的な父母さえいればいいのに、霊的な父母がなぜ必要なのでしょうか。 堕落したからです。今まで堕落した父母が何を教えてくれたのでしょうか。大きいものを半分以上みな取ってしまい、自分を中心として降りていくことを教えてくれました。それで、父母の愛を中心としてサタン世界に永遠にいさせるための一つの決定的な線が引かれました。これを切る道がありません。
それでは、真の父母とは何でしょうか。そのような基盤で、もっと大きなものをだんだん教えてあげるのです。それで天の国、永遠の国に合うように教えるのです。永遠の国に行って拍子が合うように教えるのです。呼吸に支障のないように教えるのです。
(129-99, 1983.10.1)

 

3) 父母の愛

① 父母の愛は本質の愛である

子供は、父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生み、愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子に対して、「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。
(69-78, 1973.10.20)
子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。
(69-78, 1973.10.20)
父母は、変わることができますか。父母の愛を革命することは、歴史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶対に必要とするのです。唯一に必要とし、不変に必要とし、永遠に必要とするのです。
(74-18, 1974.11.10)
子供は、なぜ父母を恋しがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。
(137-141, 1986.1.1)
父母の愛を、なぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず犠牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで満足し、それで幸幅だというのです。与えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。与える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。 神側の代身となることができるからです。
(46-36, 1971.7.18)