八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 2-3

八大教材教本 天聖経(2012年版)p423-458

【天啓の御言】(2-3)

 


すべての被造物は愛の法度によって創造され、また存在しているのです。植物を見ても、花が咲けば花の中の雄しべと雌しべが授受作用、すなわち循環運動をすることによって実を結ぶようになるのです。動物世界もそうであり、人間世界も愛の循環運動によって存在しているのです。このようにすべての被造物は、愛の関係を経て完成するようになっています。
すべての存在は、愛を通してのみ完成できるといえるでしょう。人間は、ハナニムの愛の核と一致する位置に立ったとき、体と心が一体を成すようになり、ハナニムの愛の圏内に体と心を一体化させて入っていくようになれば、成熟した人間となるのです。そのとき初めて、堕落していない本然の人間として個人完成が出発するようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-314)
心と体において、心は天を中心とし、体は世の中を中心としているのですが、この心と体が一つになったというとき、その理念は、何理念といいますか。天宙主義理念といいます。天宙主義とは何か分かりますか。天と地、すなわち無形世界と有形世界が一体となる立場を成していこうという主義が天宙主義です。
この天宙を支配しようとすれば、支配しようとする人は、心と体が一体になっていなくてよいのですか。一体とならなくては、ここで滅びます。そして、ハナニムを中心として心と体が一体となるとき、ハナニムは内的なハナニムであり、自分は外的なハナニムになるのです。何を中心として一つになるのかというと、愛を中心として一つになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-314)
アダムは、ハナニムと一つにならなければなりません。これを結合させるのは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者はハナニムです。これを永遠に結合させる中心点が正に愛というきずなです。
肉体をもつ人間がハナニムと一体となるとき、その心情と感情は、無限なる体恤境たいじゅつきょうと幸福感に酔うようになります。結局、愛によってハナニムと人間は一つになるのです。愛によって人間と世界が一つになり、ハナニムの創造目的、理想世界の実現はそこから出発するのです。
(35-156, 1970.10.13)
アダムとエバは、16、17、18歳になれば自然と思春期になり、異性に目が開くようになります。花が一面に咲くとき、人がその香りに酔うように、アダムとエバが成熟すれば異性を考えるようになります。この香りにハナニムも一緒に引き込まれていくのです。ハナニムの愛とアダムとエバの体と心、この三つが一つになれば、宇宙の核が生じてすべての愛をコントロールする本軌道に入れるようになります。
ところが、ここで脱線しました。脱線しなかったならば完全に一つになっていたでしょう。このように一つになったなら、ハナニムも離れられず、アダムとエバも離れられなかったはずです。そのようにして、子々孫々に連結され、宗族、民族、国家、世界を形成したことでしょう。ここが素晴らしい世界、地上天国になるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-312)


 

7) 人間たちが誇れる最も大きな自慢の種

ハナニムは、一人の男性と一人の女性を創造されました。そのようにして、彼らが完成した状態に至ったのちに、彼らをして天的な結婚生活をするようにされ、1双の天的夫婦として立てようとされました。
ハナニムは、アダムとエバをして最初の夫と最初の妻になるようにされ、天国建設を始めようと計画されたのです。もしそれが実現されたならば、「生育し、繁殖せよ」と言われたハナニムの祝福は、そのときに成されたはずでした。
ハナニムは、彼らにハナニムの子女を繁殖できる力を賦与されたのです。そのようになっていたならば、彼らの子女も罪のない完全な人間になったのです。
彼らは、またどのようになっていたのでしょうか。罪は、絶対に人類に継承されなかったでしょう。そのような子女をもつことによって、アダムとエバは、ハナニムを中心としたまことの父と真の母となり、人類の真の父母になったでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-319)
堕落せずに完成の位置まで上がったならば、アダムとエバは、個人完成のみならず、宇宙史的な完成をしたことでしょう。また、ハナニムの愛を中心にした新しい家庭が出発したことでしょう。
このように家庭から氏族・宗族・民族・国家・世界が成されたならば、ハナニムに侍る一つの大家族社会ができたことでしょう。この大家族社会の中心は、ハナニムとアダムです。
それで、その世界では、ハナニムを中心としたアダム家庭の生活や一生の路程が歴史的伝統として残ります。彼の生活方式、風習、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは、ハナニムの愛でつづられた伝統にならざるを得ません。
ハナニムの愛は、生命の根源であり、すべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れることができず、離れたとしても再び戻らざるを得ません。堕落したこの世界でも、父母のもとで生活していた人が、その懐を離れたり兄弟のもとを離れれば、いつも寂しく感じ、父母や兄弟を懐かしく思うのを見ることができます。
このように、生命と理想の主体であられるハナニムの愛でつながっていれば、その懐を離れることができないのです。離れれば寂しくなり、悲しくなり、喜びがあるはずがないので、ハナニムの愛の圏内で一つになるほかはないのです。そのような立場で、人間たちに誇るものがあるとすれば、第一に、ハナニムは私の父だということであり、第二に、自分たちはハナニムの愛を受けることができる息子、娘だということであり、第三に、自分たちはハナニムが創造された宇宙の相続者だということです。今日、世の中の人たちは、金持ちの婿になっただけでも大きく自慢します。ところが、ハナニムが私の父であられ、その父の愛を完全に受けられるならば、それ以上に大きな誇りがどこにあるでしょうか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-319)


アダムとエバがハナニムを中心とする理想家庭を築いたならば、ハナニムのみ旨は成就されたでしょうし、アダム家庭は、上はハナニムを父として侍り、下は人類始祖の立場で、一つの結合した愛の基点を備えた家庭になったでしょう。その家庭は、ハナニムが創造されたアダムとエバの理想を完成するために、愛の結合によって一体になり得るもといとなったことでしょう。
(110-213, 1980.11.18)

 

8) 真の家庭として伝統を立てるべきだったアダム家庭

人間始祖が堕落しなかったならば、皆さんは、誰の息子、娘として生まれたでしょうか。当然、ハナニムの息子、娘として生まれたのです。
堕落しなかったならば、すべての人間は、ハナニムのまことなる息子、娘になります。今日のように、怨讐おんしゅうもてあそばれ、怨讐に支配される宗族ではなく、怨讐に讒訴ざんそされる群れではありません。絶対的な権威をもったハナニムの息子であり、どこへ行こうとハナニムの全権、全能を代表できるハナニムの息子です。その息子を中心に家庭を築くとき、その家庭は、全宇宙の存在が屈服しなければならないハナニムの家庭となるのです。また、その家庭を成した宗族が動いていくときには、あらゆる被造万物が彼らを擁護し、彼らに吸収されなければならないのです。ところが堕落したがゆえに、人間たちは、ハナニムの息子、娘になるどころか、怨讐に弄ばれる群れになったのです。
(21-35, 1968.8.1)
人類の始祖が、本来、ハナニムの法度を犯さずにハナニムと永遠に一体となったならば、その一体となった愛の因縁の中では、誰も彼らを連れていくことができません。
既に息子、娘として生まれ、また、既に成人したのちに彼らに、「おい、お前の父親は誰だ」と言って説明しても、ハナニムが父であることを否定できる理論や学説はありません。銃剣を突き付けても駄目なのです。
(21-41, 1968.9.1)
もし堕落がなかったならば、エデンの園に天の最初の家庭が立てられたのであり、その家庭は、サタンの讒訴とは何の関係もなく、ハナニムの主権のもとで繁栄したのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-330)
アダムとエバが堕落しなかったならば、ハナニムの完全な愛を受けたでしょう。このようにハナニムの完全なる愛を受ける息子と娘として、彼らがハナニムの愛で結合したならば、ハナニムの愛を中心とした息子、娘を生んだでしょう。
そうして、真なるハナニムの愛の中で、夫としての伝統、妻としての伝統、息子としての伝統、娘としての伝統を立てることができたでしょう。そのようにして、ハナニムの愛を中心とする家庭の伝統が確立されたならば、ハナニムのみ旨は成就したことでしょう。
(114-10, 1981.5.14)


アダムとエバは、ハナニムのみ旨どおりに完成して祝福を受け、家庭から始まるハナニムの国を築かなければなりませんでした。彼らの完成は、真の愛を中心として成されなければなりませんでした。ハナニムに侍り、アダムとエバが横的な相対を成したならば、創造目的の世界が出発したはずであり、その世界は、拡大されて宇宙にまで至ったことでしょう。
アダムとエバが夫婦一体となり、一つになる伝統の中に一つの世界を築いたでしょう。しかし、アダムとエバは、ハナニムのみ旨に背いて堕落してしまいました。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-332)


 

第2章 家庭を中心とした愛の法度

 

1) 家庭を中心としたハナニムの愛の法度

この地上に歴史が始まって以来、誰が父母を中心としたまことなる愛、夫婦を中心とした真なる愛、兄弟を中心とした真なる愛をしてみたでしょうか。真なる愛は絶対的なのです。
(20-40)
ハナニムの愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛の形で現れます。この3大愛が人間において絶対的な観を超越できる永遠の実存的権限をもっています。ですから、この3大愛が結合するとき、人間は幸せになるのです。これが完全であれば、幸せも完全なものであり、これが欠如すれば不幸が宿るのです。
お母さんのいない人が幸せですか。お母さんがいない分だけ不幸せなのです。また、お父さんがいないのに幸せですか。お父さんのいない人は、お父さんのいる人がうらやましいのです。幸せというものは、うらやましいものがあってはなりません。愛もうらやましいものがあってはなりません。うらやましいものがあれば、幸せだとはいえないのです。お父さんがいなくても幸せではなく、お母さんがいなくても幸せではありません。
男性がいくら度胸があり、大口をたたいても、女性がいなければなりません。妻がいなければならないのです。また、夫婦が楽しく暮らしていて、夫があの世に逝くようになれば、夫人は涙を流します。男性がいなくても駄目であり、女性がいなくても駄目なのです。
(20-38)
また、夫婦がいくら仲良く暮らしていたとしても、子女がいなければ不幸せです。息子だけが必要ですか。息子も娘も必要なのです。ところが、例えば父母に息子と娘の二人しかいないとすればどうでしょうか。
息子に関していえば、彼にはお姉さんが必要であり、またお兄さんが必要です。また、娘にはお兄さんが必要であり、お姉さんが必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。お兄さんがいなければならず、お姉さんがいなければならず、弟と妹がいなければなりません。
これがみな、そろっていなければ不幸せなのです。妹、弟、姉、兄、みなそろっていて完全に一つになった家庭は、ハナニムが保護します。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。
自分を中心としてお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、それから弟、妹、そこに自分まで合わせれば7人です。ですから、7数が完成数だというのです。ここでの完成とは、愛を中心としたものだということを知らなければなりません。どうして7数が完成数でしょうか。何ゆえに、キリスト教でいう天地創造が7数を中心として完成したのでしょうか。


そのような内容があるからです。3数は天の数であり、4数は地の数だといいました。ここで3数は、父、母、私の3数です。それでは、4数は何を意味するのでしょうか。兄弟姉妹たちを合わせたものが4数です。
(20-40, 1968.3.31)
7数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、み子、聖神聖霊)は、ハナニムを中心としたアダムとエバをいうのです。父なる神は上下、すなわち縦的な因縁をいうのであり、父母の愛は天地の代わりなのです。皆さんを中心として見るとき、兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば一体となるのです。これが愛の法度です。
ですから、科学のすべての法則も、数理に立脚した公式法度に適用されないものがないのです。ハナニムの愛の法度から根源となる創造原理的な概念が出てくるのです。このような愛の法度が定着するようになるとき、平和の起源が成り立つのです。
(20-40, 1968.3.31)

 

2) 家庭に3代が共存すべき理由

祖父、祖母、しゅうとしゅうとめ小姑こじゅうと、孫まで一緒に暮らそうというのです。暮らす場合においては、センターを中心として蘇生そせい、長成、完成、3代が定着するのです。
お父さんとお母さんだけを愛するのではなく、おじいさんを愛してこそ、ハナニムを愛することになるのです。父母の上におじいさんを置いて愛してこそ、ハナニムを愛することになるのです。
それでは、なぜ夫がいなくてはならないのでしょうか。なぜ父母がいなくてはならないのでしょうか。なぜ子女がいなくてはならないのでしょうか。彼らがいてこそ、ハナニムに侍ることができるからです。
父母がいなくてはならず、子女がいなくてはならないのが原則です。父母が必要であり、それから、夫婦が必要であり、赤ん坊が必要です。なぜそれを必要とするのでしょうか。ハナニムと関係を結ぶためには、父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要だという論理が成立するのです。
なぜ父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要なのか、はっきり知らなければなりません。これを知らなければいけないのです。自分が下にも行かなければならず、センターにも行かなければならず、上にも行かなければならず、横にも行かなければならず、四方に行かなければなりません。孫が愛をもっておじいさんを好きになれば、おじいさんは、「ああ、うれしい! うれしい!」と言うのです。それで、統一教会は、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準にしようとしてきました。宗教世界を通して、このような内容を初めて教育したという事実は驚くべきことです。
(128-17, 1983.5.29)
夫が死ねば、なぜ妻が泣くのでしょうか。子女がいなければ、なぜ泣くのでしょうか。寂しくて泣くのではありません。宇宙の根本原則においては、東西、四方をすべて備えなければならないからです。


すなわち、宇宙が存在する力は、相対理想を擁護する力で成り立っているのです。ですから、すべてが授け受けします。南北が授け受けし、北極と南極が授け受けするのと同様に、星と星が授け受けするのです。相対がなくては存在できません。
完全に一つとなった理想的な存在は、すなわち完全に授け受けする存在は、この宇宙が擁護するのです。永遠に維持できるように、それを擁護する天運が離れないというのが原則なのです。すべてそれを協助するのです。息子、娘がいなくても駄目です。
今日、西欧では、子女は必要ないという主義になりつつありますが、必要がないかどうか、見ていなさいというのです。霊界に行ってみなさいというのです。自分が立っている所には、必ず上があり下があるのです。3数を通じなければなりません。3段階を経なければならないのです。ですから、すべてのものは3段階になっています。父母に侍らなければならず、夫婦がいなければならず、子女がいなければならないのです。子女がいなくては、天理原則に合いません。
これを分けると、男性3段階、女性3段階ですが、これを合わせて、統一的な3数の形態を備えて理想世界が始まるのです。すなわち、おじいさんとおばあさんがいて、お父さんとお母さんがいて、自分がいてこそ理想的だというのです。統一教会の家庭倫理は、ここから始まるのです。
(70-76, 1974.2.8)

 

3) 父母は愛の起源

孤児は、父母と因縁を結ぶことができません。人は誰でも愛を受けたいと思います。その愛の理想型は父母です。そのような父母の愛を受けたいと思っても受けることができず、また、父母に対して愛したいと思っても愛することができない人は、不幸せな人だということができます。
いくら孤児よりも100倍、1000倍醜い人だとしても、父母に侍り、孝行して暮らせる人は、孤児たちに誇ることができるのです。「お前に父母がいるのか。いないだろう。顔が美しいからといって何になる。父母もいないのに」と誇るのです。また、「私は醜く病身だが、お前は母親もいないし、父親もいないではないか」と言うことができるのです。
(39-232, 1971.1.15)
父母とは、いったい何でしょうか。力も頭も世界的なチャンピオンの息子が、たんこぶのような存在である父母くらい指1本で片づけ、勝手にやろうとすればできるはずなのに、どうして勝手にできないのでしょうか。それを知らなければなりません。力でも一番であり、頭でも一番なので、力で「こいつらめ」とやり込めることもでき、頭を使ってもそのようにできるのに、なぜそのようにできないのですか。
愛の起源は、どこでしょうか。愛がどこから出てくるのでしょうか。自分からでしょうか。違います。それは、父母から出てくるのです。愛の起源は、自分ではなく父母にあるからです。原因のない結果は、あり得ないのです。愛を中心として見るとき、主人が自分ではないことを知っているので、そのようにできないのです。ですから、父母の前に来ては、「はい、お母さん、お父さん、そうです」と言うのです。


父母が「お前がいくら名高く、力が強いといっても、お母さんとお父さんの前では道理に外れることをしては駄目だ」と言えば、「はい、はい、はい、お母さん、お父さん、そうです」と言うのです。なぜでしょうか。愛があるからです。父母は主体であり、子女は対象だからです。主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理原則です。これを破綻はたんさせれば、その家庭は、何の価値もないものに落ちてしまうのです。いくら無知な人間であっても、天性をもって生まれているために、天理原則というものが分かるのです。ですから、いくら外的に力が強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。
(50-135, 1971.11.6)
人間の世界は、力の争いが続き、知識の争いが続いています。まだ愛の争いができる時にはなっていないのです。ですから、宗教指導者たちは、「末世になれば自分の時が来る」と言うのです。その末世になれば、こぶしの力や知識の力の時代はすべて過ぎ去り、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく「終りの日」になるのです。
力の強いお兄さんが家に帰ってきて、そこで大将になれるでしょうか。なれません。いくら力の強いお兄さんでも、家に帰ってくれば大将にはなれません。リングでは世界的なチャンピオンになれても、家に帰ってくれば大将にはなれないのです。
また、博士の学位を数百個ももったお兄さんでも、家に帰ってきて大将になることができるでしょうか。できません。なぜ、できないのでしょうか。父母がいるからです。
(50-135, 1971.11.6)

 

4) 兄弟姉妹が必要な理由

兄弟がなぜ存在するのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかというと、男性は妹や姉を見ながら、「うちのお母さんがこのようにして育ったのだなあ!」ということが分かり、また、女性はお兄さんや弟の意地の悪い姿を見ながら、お父さんが育った過程が分かるようになるからです。それが兄弟愛というものです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。
そして、父母を愛するように、兄弟を愛することを学ばなければなりません。学ばなくては愛することができないのです。
ですから、お母さんとお父さんが育ったその時の姿だと思って兄弟たちを愛することにより、あの世に行っても、いつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしがらずに愛し得る主人になるために兄弟が必要なのです。
それでは、兄弟たちが、お母さんとお父さんを愛するよりも彼ら兄弟同士がもっと愛し合うのがよいでしょうか、愛し合わないのがよいでしょうか。もっと愛し合うのがよいのです。


なぜでしょうか。子女にお母さんとお父さんの育つ時の姿を見せてあげ、彼らを愛することによって、生まれてから死ぬ時までお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心として因縁づけられたそのよう兄弟たちなので、そのように考えるのです。
それから、父母においては、子女が多ければ多いほど、お母さんが思うに、男の子たちが意地悪くするのを見ながら、「ああ、うちの夫はあのようにして育ったのだなあ」と分かるようになるのです。
ですから、子女たちを愛することは、出会う前の夫を愛する立場になるのです。また男性は、「ああ、あの女の子を見ると、妻がああだったのだなあ! 幼い時の妻の姿を見せてくれているのだなあ」と学ぶのです。彼らを愛することによって、今までの妻のすべてを愛したという条件が成立するのです。
父母は、「おい! 男の子の赤ん坊だけかわいがって、女の子の赤ん坊はかわいがるな」とは言いません。父母は、子女を同じように愛するのです。区別なく愛するのです。ですから、このように兄弟をもつのは、家庭に美しい愛の円和、丸い球形を形づくるためなのです。
父母は、兄弟たちに同じように接してあげようとします。すべての父母がそうです。ですから、兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも大きな罪です。これが家庭教育においての第一条です。
(184-60, 1988.11.13)
今まで、皆さん、兄弟同士で争って仲が悪くなっているなら、行って宴会をして満足させてあげ、「許してくれ」と言いながら、「うちのお母さんとお父さんを愛するように愛し合おう」と言わなければなりません。兄弟がお母さんとお父さんの身代わりなので、残されたお母さんとお父さんに侍ろうといって、兄弟が貧しければ自分が助けてあげ、お母さんのためにしてあげたようにしてあげるなら、それより美しいものはないのです。そこから天国が始まるのです。
(184-65, 1988.11.13)

 

5) おじいさんは家のハナニムの立場

今日のアメリカの制度は、すべて若い人たちの天国であって、おじいさんとおばあさんの天国ではありません。幼児たちの天国ではなく、おじいさんとおばあさんの天国ではなく、若い青年男女たちの天国なので、すべて滅びる地獄の穴を掘っているのです。それは、本然の形態に合わないからです。
(107-328, 1980.6.8)
アメリカの家庭では、おじいさんが息子たちの家に行くとき、電話をして行きます。人間なら、どちらを好むでしょうか。皆さんはどちらを好みますか。美しい嫁が白髪交じりのおばあさんとおじいさんに、愛らしい気持ちをもって愛する夫よりも良いものを買ってあげようとすれば、それがどれほど美しく、どれほど愛らしいかというのです。


美しい嫁が、老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃであるにもかかわらず、何かを買うのに、自分の愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげるその場面が、どれほど素晴らしいかというのです。
そのようになれば、おじいさんとおばあさんは、隠してあったすべてのものを、愛に関するすべてのものを与えるのです。
世の中で年をたくさん取ったおじいさんは、誰でしょうか。ハナニムです。ですから、そのおじいさんのために尽くす愛を自分のおじいさんから学ぶのです。このような伝統を学び、おじいさんであるハナニムの秘密の倉庫にある愛の宝物をすべて自分がもらうことができるのです。どれほど素晴らしいかというのです。
(107-329, 1980.6.8)
世の中で一番経験が豊かで、豊富な経歴をもったハナニムが誰かというと、おじいさんとおばあさんです。年を取っているので、たくさんは寝ないのです。ですから、「ああ、おじいさんは我が家を寝ずに守ってくれるハナニムだなあ! 私たちを守ってくれるために、こんなに年を取ったのだなあ! しわを見ると年を取ったなあ!」と、そのように考えなければなりません。それが美しいのです。
そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに仕えるなら、火事にもならず、どろぼうにも遭わないのです。
おじいさんとおばあさんが寝ないで何をするのでしょうか。祈祷をするのです。「ハナニム、うちの子女に恵みをお与えください。恵みをお与えください」と祈祷するのです。祈祷して、「おい、誰それや! お前、きょう、出歩いたら危ないよ。言うことを聞きなさい」と、このようにすべてを教えてくれるのです。「きょうは出掛けてはいけない! けんかをしてはいけない! 息子よ、どこかに行かないようにしなさい、娘よ! 嫁よ! きょうは遠くに行ってはいけない」と、このように教えてくれるのです。
ですから、孫たちにそのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか。必要ではないでしょうか。愛をもてば、おばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。
このような形態を備えて暮らす人は、宇宙が保護するのです。誰かがその人を殺そうとすれば、自動的に宇宙が防いでくれるのです。
(107-327, 1980.6.8)
父母は、孫をどこかに送ろうとすれば、必ずおじいさんの承諾を得なければなりません。父母の勝手にはできません。おじいさんがハナニムの立場になるのです。
(107-326, 1980.6.8)

 

6) 祖父母と孫との関係

よちよちと歩き回る孫が家に入ってきて、「ああ、おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った」と言えば、どうですか。
お母さんとお父さんも座っていて、自分の兄弟たちもたくさんいますが、入ってくるやいなや、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」と言うなら、それはふさわしいですか、ふわしくないですか。それは、ふさわしくありません。言葉も、そんざいな言葉です。「おじいちゃん、どこ行った」と言います。
それでは、その言葉を考えてみてください。今、80歳を超えたおじいさんとおばあさんに、小さな子女が大胆にふんぞり返り、突っ立って、お父さんとお母さんもみないるのに、お兄さんとお姉さんが自分よりも立派なのに、そこにふんぞり返って、「おじいちゃん、おばあちゃん、どこ行った!」と言っても、すべて目をまん丸くして、「おい、こいつめ! この子は! 何だ」と、しかる人はいません。


それは、なぜでしょうか。普通ならば、ほかの所から他人が来て、そのように言ったなら、「うちのおじいさんに向かって、お前、そんなことが言えるのか」と、大騒ぎになるはずですが、孫がふんぞり返り、そのような話をすれば喜びます。「そうか、そうか、おじいさんに会いたいのか」となるのです。それが何かというと、おじいさんに対して、「どこに行った」というのが、餅をくれということですか、御飯をくれというのですか。その内容が問題です。内容とは何かというと、おじいさんに会いたいということです。そのようになれば、会いたいと思うのは良いことですか、悪いことですか。それは良いことだというのです。
天下が会いたいと思い、また、会いたいと思うと同時に、その次には、どうしたいのですか。じっと四方を見渡しても、お兄さんをじっと見て、お姉さんをじっと見ても、今、どこかのひざのところに行って少し座りたいのに、こちらを眺めても、あちらを眺めても、お兄さんの顔色をじっとうかがって、行って3分だけ座れば、追い払われるのが分かりきっているのです。また、お父さんもよく見ると、忙しくて疲れたお父さん・・・。それはみな、経験を通して知っているのです。行っておしりを載せて10分だけ座っていても、嫌がります。それはみな、測定感覚が早いのです。
しかし、おじいさんは、おじいさんをよく見れば、おじいさんのように年を取った人たちは、膝に座れば、1時間座ってもじっとしていて、2時間座ってもじっとしているのです。
そのように座っても、家族の中で一番自分をたくさん抱いてくれるのです。抱いてくれて、「この子は鼻がどうで、この子は耳がどうで」と言いながら触ってくれるのは嫌ではありません。整えてくれ、なでてくれ、触ってくれ、あるときは、触らないところがないくらい、すべて触ってみますが、それでも嫌ではありません。それがどれほどすてきですか。どれほど素晴らしいかというのです。それは、木の一番てっペんが、木の幹のてっペんが根と一つになろうという話と通じるのです。それでは、中心の根と中心の芽とが愛し合うようになれば、どのようなことが起こるでしょうか。そこにつながったすべての根とすべての枝は、愛し合うまいとしても愛し合わざるを得なくなるのです。
それを考えてみなければなりません。中心の芽と中心の根とが愛し合うようになれば、それが何かというと、全体を抱き得る因縁だというのです。このように見るとき、根の中で中心の根が家庭の中で誰ですか。孫、長男の長男だというのです。
ですから、おじいさんは、いつも目を開けて長男の長男を見上げ、また見下ろすのです。これを知らなければなりません。
(139-15, 1986.1.26)

 

7) 家和万事成の真の意味

東洋の教訓の中で「家和万事成カワマンサソン」という言葉がありますが、それは、とても良い言葉です。家といえば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子女、このようにいますが、それだけではありません。


家自体は万物を縮小したものです。そこにすべて集まっているのです。
そのように考えるとき、我が家といえば普通、「そこは父母がいる所であり、妻子がいる所である」と考えるのです。しかし、我が家といえば、それだけではないというのです。おじいさんとおばあさんがいて、そのほかにも家があり、庭があり、すべてのものを縮小したものの中で環境がよく調和しています。そのようにしてこそ気分が良いのです。合わない環境に、うちのおじいさんとおばあさんがいれば、気分も良くありません。
おばあさんとおじいさんが互いに向かい合いながら笑う姿は、若い夫婦がうれしくて、大声で「へへへ」と笑う姿とは比較できません。「ほっほっほっ」と言う、しわの寄ったおじいさんとおばあさんの笑みは、すてきだというのです。
知らないからそうなのであって、すべてが和合する、互いが相応する立場で笑うそのおじいさんとおばあさの笑いがあることによって、すべてのものが和動するというのです。おじいさんの笑いは深くて、「はっはっはっ」と笑います。手ぶりをしても、動作は遅いのですが、広く、気高く、深く、大きくするのです。すべてのことが上・中・下の3段階で連結されて、すべての調和が始まらなければなりません。ですから、調和というものは、一線上の2点では成されません。
2点を通過するものを線といいますが、2点上では調和の美がありません。直線なのにどうして調和の美が生まれますか。ねじれ、曲がっていてこそ調和が生まれるのです。ですから、3点以上を経る、ここに調和が生まれるのです。
ですから、おじいさんがいるかと思えば、中間にお父さんがいて、次にはその下がいます。家庭を4代として見るのです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、それから自分たち夫婦、それから子女がいます。
層々侍下チュンチュンシハ(注:父母・祖母など世話すべき人が元気でいること)という言葉があるではないですか。層々侍下とは何層になるのでしょうか。いくら多くとも、もちろん4代、5代まで暮らす家庭が時々あるかもしれませんが、普通は4代です、4代。おじいさん、お父さん、それから私たち、子女、このようになっているのです。
このように見れば、私たち統一教会の「原理」は3段階です、3段階。蘇生そせい、長成、完成。ですから、和する家庭、「家和万事成」といいますが、その「家和」になれば、なぜ「万事成」なのでしょうか。
「家和」になれば、すべてのことが成されるというのですが、なぜでしょうか。言葉だけなのでしょうか。詩的に詠みたいと思ってそのようにいうのですか。そういうことではありません。違います。「家和」、これは、おじいさんとおばあさんを中心とした4代が、上に下に、東西南北に、前後左右上下に和合して、笑顔の花が咲くことをいうのです。
(139-12, 1986.1.26)


 

第3章 家庭は天国の中心モデル

 

1) 家庭はすべての存在の中心モデル

人は、空間の世界に立つようになれば、必ず上下が必要であり、左右が必要であり、前後が必要です。そうであってこそ、私の存在位置が確定するのです。皆さんが上下を正しく備えているか、 左右、前後を正しく備えているかによって、様々な姿になるのです。
皆さんの上下、左右、前後関係、そして、家庭の問題や国の問題、世界の問題を扱うにおいて公式は一つです。
個人を中心として上下、左右、前後があるように、家庭でも父母と子女がいなければならず、夫と妻がいなければならず、兄弟姉妹がいなければならないのです。
これと同じように、国にも国の主人を中心としてすべての家庭が東西の文明、南北の文明をすべて抱き、その次に世界万民を兄弟姉妹のように抱き、結局一つの家庭モデルを実現するのです。
モデルは同じです。そして、私自身がそのモデルの中心です。自分がいて、次には自分の家庭がなければならず、国と世界と天と地、そして、ハナニムまで行かなければならないのと同じ道理です。皆さんは、宇宙の中心になりたいという思いがあるだけでなく、みなそのようになることができます。
このように、宇宙においてその核のようなものが家庭の概念です。天を父母と見れば、地は子女です。東西を見れば、東方は男性を象徴し、西方は女性を象徴するので、女性は結婚することによってどこでも夫の位置に従っていくのです。西方が太陽の光を浴びて光り輝く時、東方と同じ価値をもつのと同じです。
兄弟関係も同じです。長子であるお兄さんを中心として行動するとき、弟たちが協力するようになるのです。ですから人間は、親子の関係がなければならず、夫婦関係、そして、兄弟関係がなければなりません。
すなわち、この三つの関係が一点で結ばれなければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が違ってはいけないというのです。この中心点が違えば、上下、左右、前後関係の均衡がみな崩れるというのです。それで結局、上、下、左、右、前、後、そして、一つの中心点まですべてで7数を成すようになるのです。このように7数を成すというのは、正にハナニムを中心として完全なまことの愛で一つになり、このすべてが完全に球形になって調和と統一を成す家庭になるというのです。私たちがよくラッキーセブンというのも、このような観点から一理あるというのです。


真の愛が永遠に変わらない限り、この中心核も変わらず永遠に回るようになり、真の家庭の理想が成されるようになります。また、すべてのものが核から連結されるので、この中心核から一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、すべてが同等です。おじいさんが願えば孫が反対せず、息子、娘もそれを願うようになり、3代がみな共に願うようになるのです。おじいさん、おばあさん、夫婦、息子、娘、みな中心に合わせるようになります。
この愛を中心として見るとき、親子の関係も一つなので一体といい、夫婦関係も一体といい、兄弟関係も一体といいます。一つの体です。何を中心としてこのような関係を一体というのかといえば、愛の中心であるハナニムの真の愛を中心としていうのです。真の愛を中心として父母と子女が一つになり、夫婦も一体となり、兄弟姉妹も同じです。このようになることによって、すべての価値が同等になります。
(299-114, 1999.2.7)

 

2) 家庭は宇宙の愛に接することができる愛の教材

宇宙とは何でしょうか。被造世界のすべてのものは、ハナニムが愛する息子、娘が愛の理想を求めていけるように教材としてつくっておいたものです。それで、すべてが相対的な構造です。
鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなくては存続することができません。運動せずしては永続、存続ができないというのです。
ですから宇宙は、人間を中心としてその中心点に到達できるように創造された世界だというのです。
(137-59, 1985.12.18)
宇宙とは何でしょうか。家庭を拡大したものです。家庭の愛を完全に成した家庭を見れば、上中下(父母・夫婦・子女)がいて、左右がいて、前後がいます。これが原則です。それで上下をいうときは父母と子女のことをいい、左右をいうときは夫と妻のことをいい、前後をいうときは兄弟のことをいいます。
このような全体が何によって一つになるのでしょうか。力でもなく、知識でもお金でもできません。ではどのようなものでできるのでしょうか。愛です。間違いない真理です。そうでなければ球形にならないのです。
それでは、上中下は私たちの家庭において何なのでしょうか。愛の教材です。宇宙の愛に接することができる愛の教材です。そのようなことを社会に出てしなさいというのです。
どのように愛さなければならないのでしょうか。イエス様も、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言いましたが、どのようにすればよいのでしょうか。漠然としています。世の中に出ていっておじいさんに接するときは、皆さんのおじいさんのように対しなさいというのです。お母さんのように対し、お父さんのように対し、息子のように対しなさいというのです。世の中に出れば、みなそのようにしなければなりません。


上中下と前後左右の人が世界という展示場に展示されています。人の博覧会が世界だということを知らなければなりません。皆さんがそのような愛をもってすべてのものを愛することができれば、その中にハナニムが共にいらっしゃいます。
(128-23, 1983.5.29)
天国とは何でしょうか。自分の家庭のように世界の人々を愛せる所が天国であり、そのような人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分の妻、兄弟、子女、この4代は何でしょうか。天の国の民として愛を、宇宙のまことの愛を体験するための教材としての家庭です。教材として私に教えてくれる基盤が家庭だというのです。
(129-98, 1983.10.1)
私たちは、宇宙の愛を学ばなければ生きることができません。ハナニムは、教本や経典のようなものを作られて、「あなたのおばあさんとおじいさんを愛しなさい。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさんとおじいさんを代表して送ったので、そのおばあさんとおじいさんを愛することは全体を愛することにしてあげよう」と公約されるのです。
その次には、「あなたがお母さんとお父さんをこの上なく愛することは、この世界の数多くのお母さんとお父さんを代表する教本のように愛するモデルになるので、全体を愛した条件にしてあげよう。また、男性として女性を愛したことは、世界の男性が世界の女性をまとめて愛したものとして見てあげよう」とおっしゃるのです。
またその次は、「あなたの息子、娘を愛したことで全体の息子、娘をみな愛したことにしてあげよう」とおっしゃるのです。ですから家庭は、その訓練を受ける訓練所です。
経典による世界愛の訓練過程ですが、その訓練を受けた人に、「今から世の中に一度出て、皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりに、世の中のおばあさんとおじいさんを愛することができるのか」と言うとき、「イエス」と言えば、それは、世界を救うことができるのです。
(130-273, 1984.2.5)

 

3) 愛の王国に入籍するための愛の訓練場

愛の王国を実現したいというのがハナニムのみこころです。愛の理想世界を発展させ、世界化させようとするのがハナニムのみ意だというとき、小学校の卒業から大学の学士、博士卒業までパスできる実験場がどこかといえば、家庭です。
家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見てみると、おじいさんとおばあさんが住む世界、それからおじさんとおばさんが住む世界、お兄さんとお姉さんのような人たちが住む世界、青少年たちが住む世界、子供たちが住む世界があります。ですから、老年から壮年、中年、青年、少年たちが住む所は、形が大きいだけ、数が多いだけであって、家庭を拡大させたものです。
(147-281, 1986.10.1)


家庭は、天国に入るための最小単位の修練所であり教材です。そこには、おじいさん級、お母さん級、夫婦級、兄弟級がすべてあります。これをおばあさんとおじいさん、あるいはお母さんとお父さんの年齢、その次には、自分の年齢、息子、娘の年齢に拡大させたのが世界人類です。この人類を自分の妻のように愛し、父母のように愛し、息子、娘のように「ため」に生き得る家庭だけが天国を相続できるのです。これは驚くべき事実です。ハナニムが造られた天と地のすべての権勢を相続できる特権が、ここにあるのです。
(143-285, 1986.3.20)
家庭は、死ぬときに天の国や平和の王宮に入籍する手続きの権利を得られる愛の教科書です。家庭が愛の修練場だというのです。この家庭を拡大したものが世界です。
おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、夫のような世界があり、妻のような世界があり、息子、娘のような世界があるというのです。これを拡大すれば、そのまま世界になるというのです。
ですから、自分の家庭を愛するように、その家庭を中心としてハナニムを愛するように全世界の人々を愛すれば、それが天国にまっすぐに行く道になるのです。したがって、「心をつくし、思いをつくし、精神をつくして主なるあなたの神を愛せよ」というのが第一の戒めです。
第二は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というものです。ハナニムを愛して人類を愛すればすべて終わるのです。それができなければ、いくら修養しても意味がありません。宗教でいくら修業を積んだとしても、ハナニムを愛することを知らず、人類を愛することを知らず、全宇宙を愛することを知らなければ、すべて落第になるのです。
家庭において、全体宇宙を縮小させた修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を愛さなければなりません。そのようにできる訓練場として引き継いだのが、皆さんの育った、お母さんとお父さんが住む家庭だというのです。
ですから、自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子、娘を愛し、自分の妻を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上にハナニムを愛するなら、すべてOKです。
だからといって、自分の妻を捨てなさいというのではありません。そのようにすべての人を愛するようになれば、その愛を受けたすべての人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上の栄光の場がどこにあるでしょうか。自分の妻を愛そうとするならば、そのようにしなさいというのです。
(142-242, 1986.3.11)

 

4) 家庭は天国のモデル教科書

子女の立場にいる人は、どのような運勢を受けなければならないのでしょうか。祖父母と父母の運勢を引き継がなければなりません。祖父母は、なぜ必要なのでしょうか。過去を代表するからです。祖父母は、過去の生きた歴史を代表します。その次に、父母は現在を代表します。それから、子女たちは未来を象徴します。そこには東西も人っていて、南北も入っています。


そして、全体の中心です。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、ハナニムの中心、このすべてのものがまことの愛を中心としたものです。ですから、おじいさんを愛し、おじいさんを尊敬するのは、過去をすべて引き継ぎ、過去の世の中を学ぶことです。
お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは未来を学んでいくことです。おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのでしょうか。真の愛を引き継ぐのです。
おじいさんとおばあさんは年を取っていますが、二人が真の愛で一つになっていて、お母さんとお父さんが一つになっているので、私たちもあのようになって未来を引き継ごうというのです。
ですから、真の家庭にならなければ、絶対に未来を引き継ぐことができないのです。家庭のこの三つを見る時、それは、宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は、現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。動物世界を見ても、雌を愛し雄を愛しますが、これは宇宙の愛を学ぶことができる教科書です。
おばあさんがいなければ不安定です。おじいさんがいなくても不安定であり、どちらがいなくても同じです。このようになれば、そのまま天の国へ移っていくのです。祖父母、父母、子女がそのまま天国に行くのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女、真の家庭、真の国家、真の宇宙を愛した人が天国に行くのです。そのモデル教科書が家庭です。
(162-140, 1987.4.5)
家庭は、天国をつくるための教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさんの年齢の人を、みな自分のおじいさんのように愛すれば、その人は、天国に行くようになっています。
自分の父母のような年齢の人を自分の父母のように愛すれば、どこに行っても通じます。万国共通です。霊界に行っても境界線ができないのです。万国の若者を自分の子女だと思う心をもてば、彼は、12の真珠門があって12の方向があっても、天国のどこでも通じるのです。ですから、家庭というのは、天国と因縁を結ばせるための教材です。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天地を中心とすればハナニムの子女、聖子せいしになるのです。人はみな、そのような欲望をもっています。
(137-78, 1985.12.18)
皆さんは、五色人種の子女を抱き、その孫たちを抱くことができなければなりません。ですから、ハナニムの真の愛をもって真の父母として世界人類を愛する家庭の主人になったという立場に立たなければなりません。
ハナニムの愛を中心とした本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表できる立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。
(176-210, 1988.5.9)


 

5) 家庭は3時代の愛が結集した核心体

歴史を抱き、時代を抱き、未来を抱くことができるのが家庭です。ですから、ハナニムが今まで6000年を経ながら求めてきた最後の基点とは何でしょうか。家庭です。その家庭は、愛が連結された、愛によってすべてが結束された家庭です。
存在するすべてのものは、みなこれに主管を受けるのです。根源的な愛、絶対的な愛との関係を離れることはできません。このような家庭をつくることが、ハナニムが創造当時にアダムとエバに下さった本来の使命だったのです。
ハナニムは、男性のアダムと女性のエバで終わるのではなく、互いに結合した新しい家庭を夢見られたのです。これが、ハナニムが男性と女性を立てられた第一次的な出発の起源です。ですから、家庭を求め、家庭圏内において、ハナニムの愛を中心としてこの世で充足感を感じられる境地に入って生きてこそ、天国も無事に通過するのです。そのようにしてこそ、この世界も越えることができます。
(30-86, 1970.3.17)
愛の家庭圏を形成するためには、絶対的でなければなりません。父母は歴史に代われるものであり、夫婦は時代に代われるものであり、子女は未来に代われるものです。
自分が一つの時代で一人の相対を愛することは、ハナニムが世界に対されるのと同じことです。ここで父母と夫婦と子女が一致し、天宙を代表して「私たちの愛を見習いなさい」と言うことができ、子孫たちに対して「私たちに従いなさい」と言うことができ、内心でも外心でも主張できる心の本郷、そのような天情が通じる所は、天地に記憶されることでしょう。
(30-80, 1970.3.17)
今までハナニムは、何を探してこられたのでしょうか。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。ハナニムに似て、御自身がつくられた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。
このような結果的な一つの基点とは何でしょうか。家庭です。家庭以上に宇宙を代表できるものはありません。父母と一つになることは、歴史と現実が出会うことです。ここで「私」は、父母を愛することで過去を愛することができ、相対を愛することで現実を愛することができ、子女を愛することで未来を愛することができます。ですから、私は、3時代の愛を体験することができるのです。3種類の愛が結集した核心体が正に家庭です。
(30-80, 1970.3.17)
では、天国生活はどこからでしょうか。家庭からです。他のところから始まるのではありません。天国は、家庭を立体的に拡大させただけであって、家庭圏を離れたものではないというのです。ですから、皆さんが自分の妻や夫を抱くときには、これは世界の男性と女性が一つになるのだと思わなければなりません。このように、世界人類を愛したという条件を立て得る場が、正にこの家庭なのです。


皆さんは、そのように生きていく道を求めなければなりません。父母を愛することは歴史と現在を連結させることであり、ハナニムが訪ねてこられる道を整えることです。
ですから、父母を愛さなければなりません。歴史的な存在と時代的な自分を連結させること、すなわち過去と現在を一つにすることが父母を愛することです。また、自分を中心として子女を愛することは、現実と未来を連結させることです。そして、このような愛を千年、万年たたえるようにしようという思想が「統一思想」です。
(30-83, 1970.3.17)

 

6) 家庭は心情的な訓練場所

私たちは、心情を離れては生きることができません。自分が大統領だとしても、あるいは世界的なすべての権威をもっていたとしても、心情的な喜びを表せるところがなければ生きていけません。
自分が率いる人たちや閣僚たち、あるいは追従する人たちには、心情的な満足は感じられません。それは、家庭で感じなければなりません。家庭に帰ってきて夫婦が互いを通じて喜びを感じ、また子女を通じて喜びを感じられなければなりません。そのようにして、その喜びを他の人に誇れなければなりません。その喜びは、第一次的な喜びであって二次的な喜びではありません。
ハナニムも同じです。この世界をすべて復帰したとしても、家庭のないハナニムは喜ぶことができないのです。結局、家庭がなければならないのです。
(25-86, 1969.9.30)
家庭では父母を中心としなければならず、社会を代表する教育機関では先生を中心としなければなりません。父母は自分に乳を飲ませて育て、すなわち生理的な発展を助け、それで情緒的な面を助けてくれるのです。
それでは、学校は何でしょうか。社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練させるのです。家庭が情緒的な訓練場なら、学校は社会においての実験的な訓練所です。
社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのでしょうか。国に帰結します。国には国王がいます。人々がみな大統領を慕い、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか。家庭から社会まで、すべてのことを知ってからどこに行くのかというと、もっと大きな所に行くのです。
大統領といえば、蘇生そせい・長成段階を越えて三つ目の段階の結実です。種が根から始まって循環作用をして分かれます。分かれてここで統合され、花が咲き、実を結ぶのです。ですから、学校も国のための貴重な中心人物になり得る人、人材を養成し、国に必要な人を育てなければならないのです。


学校でする勉強とは何でしょうか。訓練です。ですから、学校は訓練場所、実験場です。訓練は、実戦ではなく準備段階です。準備を誤ってはなりません。
家庭とは何でしょうか。心情的な訓練場所です。愛を中心として心情的に訓練する場所です。ですから、情をもって兄弟のように学校で生きなければならず、情をもって国でも兄弟のように生きなければならないのです。父母のこのような教育は、学校のための教育であり、社会のための教育であり、国のための教育になるのです。
父母は、情緒的なすべてのことを子女たちに伝授してあげなければならないのです。父母が生きたのと同じように家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないという情緒的な土台を築いてあげなければならないのです。
(180-130, 1988.8.22)
皆さんが家庭を見るとき、家が良く、その周りの環境が良いからといって良いのではありません。反対に、いくら環境が悪く、家がみすぼらしくても、それを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のすべての基準を因縁づけようとする家庭が、良い家庭なのです。そこには、親と子の間に、互いに「ため」に生きようとする心情があります。これが思い出の本郷であり、すべての生活の動機になるので、私たちの生活において幸福を左右する基礎になるのです。
(29-17, 1970.2.15)

 

7) 人間の永遠の本郷は家庭

家庭、家庭は良い所です。どうして良いのでしょうか。お母さんとお父さんがいるから良い所であり、お姉さんとお兄さんがいるから良い所であり、弟妹がいるから良い所であり、親戚しんせきがいるから良い所なのです。
ですから、人間なら誰でも本郷の地、故郷を懐かしく思う郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷にもっと思いをはせます。大韓民国で暮らしながらも、懐かしく思う所が故郷です。大韓民国が好きで大韓民国に住みたいと思いながら、また大韓民国で暮らながらも懐かしい所はどこでしょうか。故郷です、故郷。
故郷は、どのような所でしょうか。私の心情を四方に、立体的にすべて引き上げる所です。その心情とは何でしょうか。愛で結びつけるものです。上には父母が結びつけられ、左右には夫婦の因縁が結びつけられ、下には子女、親戚が立体的な愛で固く結びつけられている所が本郷です。
人は、愛を中心とした幸福の基点を最高に望むので、本郷を慕わざるを得ないのです。ではハナニムの本郷はどこなのでしょうか。この地球ぼしにおいて、ハナニムの本郷の地はどこなのでしょうか。これは考えなければならない問題です。
愛のハナニムなら、この地上で生きていける基点を必ず準備されたはずですが、その基点はどこでしょうか。それを知るためには、ハナニムがその基点を準備するためにどのようにしてこられたのかを知らなければなりません。


ハナニムの家庭を準備することができ、本郷の基点になり得る所はどこなのでしょうか。他の所ではありません。ハナニムを本当の父だと思う息子がいる所です。すなわち、ハナニムの愛を独占できる息子、ひとり子がいる所です。また、そのような娘がいる所です。
そのようにして、その息子、娘が結婚して完全な家庭を築く所です。
(23-151, 1969.5.18)
ではその本郷の地には、誰がいなければなりませんか。会いたい人たちがいなければなりません。父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。また会いたい方がいなければなりません。また、そこで一緒に住みたい人たちがいなければなりません。それでは、会いたいし、一緒に住みたいのに、一瞬会うだけでよいでしょうか。ちょっとだけ会って済むでしょうか。彼らに会い、彼らと共に住むにおいては、永遠に永遠に一緒に住んでも嫌になってはいけません。そのような所を探していかなければなりません。そこが今日、宗教で目指す天国なのです。
(23-81, 1969.5.11)
今日、私たちが本郷の地を慕うのは、その本郷にはどこの誰よりも近い父母がいるし、兄弟がいて、親戚がいて、いつも私を導いてくれ、また私がいついかなる時に訪ねていっても、私を昔のように迎えてくれ、私に困難なことがあれば、その大変な事情に同情し慰労してくれ、私を喜んで迎えてくれるからです。もしそれがなければ、本郷が懐かしく、好きで訪ねていっても、切実に慕っていた当時の心情はなくなり、かえって嘆息の条件をもって帰ることになるということを知らなければなりません。本郷の地には、必ず迎えてくれる人がいなければなりません。
(23-80, 1969.5.11)

 

8) 家庭は天宙主義を完結させる最終基準

すべてのものは、一つから多くのものに分かれ、結局、一つの大きなものに統合されます。すなわち、一つからいくつかに分かれ、そして一つに統合されるのです。ここでまた分かれて、より大きなものになるのです。
そこには家庭がありますが、形態は統合される前と同じです。家庭は、夫婦を成した所であり、その夫婦を一つにする所です。宗族は家庭を一つにする所であり、民族は氏族を一つにする所です。民族が集まって一つの国家の前にすべて入ります。ここにおいては、どこまでも家庭が中心になります。この家庭を展開させれば横的な世界になるのです。
ですから、どのような社会であったとしても、家庭を除くことはできないのです。家庭を復帰できなければ、世界を復帰することができません。その次には、その家庭を中心として天宙主義を成就しなければなりません。天宙は、天と地を総合したものです。天と地は、人間において心と体のようなものです。心と体が一つにならなければなりません。
一つの主体があれば一つの相対が必要なように、一人の男性には一人の女性が必要なのです。


男性と女性が一つになるのが家庭です。この一つの家庭を中心にしなければハナニムの愛の基盤が定まりません。
(26-189, 1969.10.25)
天宙主義というものは、体と心を合わせたのち、ハナニムの愛の本体となる家庭を築き、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の「宙」の字は家という意味です。それで天宙主義という言葉を使うのです。天宙は無形世界と実体世界を合わせたものです。
これが、私たちとどのような関係があるのでしょうか。私たちには家庭が必要です。皆さんが家庭で一つになれなければ、天宙主義とは関係ないというのです。
家庭が天宙主義を完結させる最終基準になるのです。ここで平和の歌を歌うことができず、幸福を称賛できない人は、この地上でも霊界に行っても不幸な人になるのです。
(26-189, 1969.10.25)
天国は、どこから成されるのでしょうか。私たちの家庭から成されます。では、私たちは何主義でしょうか。家庭主義です。私たちが標榜ひょうぼうする天宙主義は、天という字に家を意味する宙という字、すなわち天の家主義だというのです。このようになってこそ、天宙という意味がはっきりするのです。
ですから、聖書66巻は、すべて理想的な家庭を願ったみことばです。また万民が願うものは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。
また女性として生まれて最も願うことは理想的な夫に出会うことです。女性がいくら学士、博士になって世界に大言壮語たいげんそうごするとしても、その願いは理想的な男性に出会うことです。愛することができる理想的な男性に出会い、恵まれた子女を生むことです。これが幸福の根です。統一教会の理想は、他の所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。
(26-103, 1969.10.18)
それでは、天宙主義とはどのような主義でしょうか。まことの父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これは、我が家の主義であり、我が国の主義であり、皆さん個人の主義です。
人間が堕落しなかったならば、世界は誰の主義になるのでしょうか。アダムの主義になるのです。そのアダム主義が、正に真の父母主義です。父母主義だというのです。これ以上の主義はあり得ないのです。
ですから、統一教会は、この本然の理想的な家庭の範囲の中で、心情的な問題を真の父母という理念を中心として天の主義と結びつけなければなりません。このような理念で制度化された家庭の因縁が残っている限り、統一教会は滅びません。
(26-201, 1969.10.25)


 

第4章 愛を中心とした人生行路

 

1) 人間はなぜ生まれたのか

生命が先か愛が先かというとき、互いに「先だ」と言うことができますが、果たしてどちらが先でしょうか。愛が先です。宇宙の根本は、存在の起源に先立って愛の流通がなくては、存在価値は出てこれません。
(143-277, 1986.3.20)
私たちの生命の起源がどこなのかを考えるとき、生命が先か愛が先かということが問題です。今までこれを見分けることができませんでした。生命が先ではなく愛が先です。あとになったものは、先になったものに順応しなければならないので、愛のためには生命を棒げるのが当然なのです。このように、これは収拾しておかなければなりません。
そのようにすれば、人生をまことに生きる道はどこなのかということが出てきます。人生が愛から生まれたので、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければならないという結論が出てきます。小宇宙ではなく大宇宙が歓迎できる愛を探して、ハナニムが公認され、天使世界が公認し、万物が、ひいては父母が公認できる大宇宙の愛の中に生まれ、その中で愛し、死んでいくのが人間が生まれた目的だと見るのです。
(83-164, 1976.2.8)
人間とは、自分が希望して生まれた存在ではありません。それでは、お父さんとお母さんの希望によって生まれたのでしょうか。そうではありません。ハナニムの希望によって生まれたのです。ハナニムの代身である父母の愛を通して生まれたのです。ハナニムの代身である父母の愛を通して、新しい生命体として生まれたのが「私」です。
そして、愛は全体を創造する力をもっています。宇宙の愛のすべてを受けて、全宇宙の中心的な存在として生まれたのが、正に「私」です。
愛によって生まれ、愛によって育てられ、愛によって生き、また愛を残すのが人生における最高の目的です。
自分の家庭で、宇宙の中心である愛の使命を果たすことが最も価値あることです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1063)
人がなぜ生まれたのか、ということを知らなければなりません。人は、知識や権力ゆえに生まれたのではありません。人は、愛のために生まれました。また、愛から生まれました。それでは、愛は何ゆえにそのように偉大なのでしょうか。それは、生命の源泉であるからです。


皆さんは、父母の愛の中から生まれたのです。お金を数えたり、知識を追求する所から生まれたのではありません。このように愛の中で生まれたので、愛によって結実しなければならないのです。ですから、子女が必要なのです。
夫婦が一つとなり、息子、娘という相対がいるとき完全なのです。人間自身も愛を離れては存在することができません。ですから、「私」という存在は、愛を根本として生きていくのです。すべての万物も、その存在の始まりがハナニムの愛から出発しています。
万物の存在が愛を根本として始まったとすれば、被造世界の中心存在である人間は、より一層愛によって出発した存在であることを否定できないのです。人間は、愛から出発し、愛によって円熟するので、愛の基準を離れては生きることができない存在なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1062)

 

2) 愛を中心とした創造本然の人生

人間というものが存在するようになった原因は何でしょうか。人間は愛から始まったのです。それでは、人間存在の目的は、どこにあると思いますか。人間という存在の目的は、愛の理想を完成することです。人間が愛を原因として存在するようになったので、愛の基台を成して、拡張させ、連結して完成することが目的となるのです。
すなわち、出発が愛なので、目的も愛をもって到達しなければならないというのです。そのようにするためには、相対的関係にある男性と女性が愛を中心として一つになり、前後、左右、上下に連結できなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1064)
私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこで喜ばなければ何の意味もありません。生きて生活するのが喜びでなければなりません。
生活するのは目的のためにするのです。その目的を成就したとき、そこには存在、それ自体以上の新しい何かがあるのです。それは何でしょうか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何よりも貴いものは何でしょうか。愛です。
愛だけが、これと連結させ得る幸福の要因となるのです。人が目的をいら良く立てたとしても、その目的を主管すべき主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、再び新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点が愛より上にはなり得ないのです。
(29-130)
皆さんは、何ゆえに生きていますか。食べるために、と答える人もいるでしょうし、あるいは仕事をするために、または何の目的もない生を生きているという人もいるでしょう。
人間は、何のために生きるのでしょうか。愛のために生きるというなら、どれほど素晴らしい答えかというのです。人間は、愛の結実として生まれ、愛し合いながら生き、永遠なる愛であるハナニムの懐に帰るようになっているというのが創造本然の生なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1064)


愛によって生まれ、愛の中で成長し、さらに異なる次元の愛に連結されるのは、父母の愛を離れ、相対の愛を求めていくことなのです。父母の愛は蘇生そせい的愛ということができ、夫婦の愛は長成的愛ということができます。夫婦同士がいくら愛し合っても、子女がいなければ愛の完成を見ることはできません。ですから、子女を願うのです。これが完成的愛です。ですから、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が生涯の根本であり、ハナニムの創造的愛の理想の根本となる道です。
(48-12, 1971.8.31)
生命は愛から生まれます。愛から生まれ、父母から愛を受け、愛によって成長して、愛する妻に出会ってまた愛し合い、その愛の中に死んでいきますが、これが人生なのです。ですから、悲しみと苦痛はあり得ないのが本来の人生なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1065)
本来の宇宙の根本位置は、愛を中心として総合的に縦横、同時に結合できる基準となることによって、父母の愛と夫婦の愛、子女の愛が結合できる根本位置となります。その位置は、全宇宙が集中する位置となり、全宇宙の細胞の方向が集中する位置となります。霊界の善霊たちがすべてここに集中します。
それだけでなく、この位置を誰も侵犯できないように保護するようになっているというのです。ですから、この位置が破壊されれば、大変なことが起こるようになります。ですから、完全に保護されるためにはある形態が必要なのですが、その形態を統一教会の用語で「四位よんい基台」というのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1066)

 

3) 人間の永遠なる生命の要素は愛

人間は、胎児の時、お母さんから供給される栄養を受けただけでなく、愛を供給されたことを忘れてはならないでしょう。それと同じように、地上で暮らしている人間たちも、宇宙(自然)から物質的な栄養を供給されているだけでなく、生命の本質的要素である愛をハナニムから供給されているのです。
すべての植物が太陽の光を生命の要素として吸収するのと同様に、人間たちには、愛が生命の要素となるのです。私たちの希望は、永遠に愛と共に欽慕きんぼしながら暮らせる地上天国や天上天国が建設されることです。
人間は、生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。
しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは足りなくなり、兄弟間の愛と宗族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天地間のすべての愛を受けながら成熟していくのです。


特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていけるようになるのです。男性や女性が行く道は、愛ゆえにあるのであり、愛のためにあります。「私」の道は、愛の道です。愛を得るために、愛を守るために、愛の環境圏を成すために行くのです。女性が化粧をしたりマッサージをするのも、愛のためです。何かを願うのも、仕事をするのも、すべて愛のためなのです。高貴な愛を得るために苦難に打ち勝っていくのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1066)
私たちは、生まれる時から父母の愛を受けるのであり、父母が生存している限り、少年時代、青年時代、壮年時代などの時代を問わず愛するのです。父母の愛を受けて成長するようになれば、横的な夫婦の愛が各自に生じるようになっています。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1067)
結婚とは何でしょうか。男性は女性について知らなかったことを学ぶために、女性は男性について知らなかったことを学ぶために家庭という学校に入学するのです。すべての履修単位がAプラスになってこそ、夫も喜び、妻も喜ぶのです。息子、娘を生むのは、世界を愛する方法を学ぶためなのです。息子、娘がいなければ未来と連結されません。未来の世界と連結するための教育の材料として息子、娘を与えたのです。
そして、先祖たちやおじいさん、おばあさんの前に孝行の道を行くのは、霊界からの教育を受けるためであることを知らなければなりません。このすべてのものが、愛を中心として連結されます。おじいさんとおばあさん、夫と妻、息子、娘が一つの愛を中心としてすべて連結されているのです。
人体の血管のように、霊界の千万代の先祖までも上がっていって降りてくることができ、遠い子孫までも通じることができるのです。つまり、これが霊界の組織であり、宇宙の組織だということを知らなければなりません。すべてがそこに征服されてしまうのです。愛のしもべとなり、愛の奴隷となるのが最大の幸福だということができるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1067)

 

4) ハナニムの愛はどのようなものか

皆さんがハナニムの愛を一度調べてみてください。ハナニムの愛をどのように表現することができるでしょうか。
それは、ちょうど暖かい春の日和に、空には白い雲がふわりと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ち上り、虫が歩き回り、ありたちも世の中を見物しようとい出たり、戻っていったり、さらさらと流れる小川のほとりには柳が芽を出し、かえるが春の日和の新しい歌を歌い、花々が、群れを成して飛び交うはちちょうを喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境では酔って眠り込んでしまうようですが眠り込まず、気分が良くて永遠に「いいなあ」と言える、そのような味だというのです。


ハナニムが求められる理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これは、考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それを知らないでしょう。それは、気分が良いというのです。懐かしい人に会えば、手をぎゅっと握って握手をします。握手するとき、懐かしくて、「ああ、これは久しぶりだ」と言いながら手をぎゅっとつかめば、気分が良いですか、悪いですか。気分が悪いという人がいれば、「えい、こいつめ」と言って足でけ飛ばしてしまいなさいというのです。懐かしければ、手をぎゅっと握りますか、握りませんか。皆さんはそうすれば喜びますか。(「喜びます」)。喜びたいと思っているだけでしょう。どうして「喜ぶ」と分かるのですか。知ってこそ喜ぶのであって、分からずにどうして喜ぶのですか。そのように喜んでつかめば、手をほどくことができないというのです。ここにいる若い女性たち、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。一度考えてごらんなさい。良いでしょうか、悪いでしょうか。
人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中にうらやむものはないのです。いつも夫の横にぴったりくっついて暮らすのです。男性が牛の前足のような手で、女性の手をぎゅっと握ってあげることは良いことです。
映画を見ても、そのような映画を見たいと思うのです。女性が男性に、「まあ、あなたの手は本当にきれいね」と言えば、気分が悪いというのです。そのようになっています。
愛は、永遠です。愛は、二つではなく一つです。一つになるということです。男性と女性がカップルを成して愛し合えば、ぴったりくっついてしまうのです。そこまではいかなくても、これ以上の心情まで行くというのです。それが正にハナニムの愛だというのです。そのような愛をもって暮らせば、一つになるでしょうか、ならないでしょうか。考えてごらんなさい。すべて一つになるようになっているのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1068)
男性と女性の間で愛し合うようになれば、ありとあらゆることが起こります。そうでしょう? しかし、ハナニムを尋ね求めていく道を知り、ハナニムの愛を本当に味わえば・・・。そのハナニムの愛は、この世のどのようなものとも比べることができないのです。そのような愛を味わった人がいれば、どのような苦難も彼を占領することはできず、どのような悲しみも彼を占領することはできないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるのではないですか。これを見いだすことが問題となるのです。
(39-240, 1971.1.15)
ハナニムの愛は、大きく3大愛として現れます。それは、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この3大愛が一つに一致する中心はハナニムの愛です。
(173-278, 1975.11.23)

 

5) 愛と喜びの相続のためのハナニムの祝福

ハナニムにおいて、一番の栄光の時は、肉体をまとうことができる時です。その次には、愛することができる人(夫婦)をもつ時であり、その次には、孫を愛せる時です。息子、娘より孫を愛せる時が一層栄光の時です。


ところで、ハナニムがアダムを造られて、どれほど良かったかということを、どのように教えてあげたのでしょうか。「やあ! 私はお前を造ってこんなに良かった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子、娘を生むことによって教えてあげられます。分かりますか。人は、幼い時、父母の愛がどのようなものかを知りませんが、あとで家庭を築いて赤ん坊ができるようになれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるというのです。自分の父母が私を育てるとき、このように愛してくれたのだと知るようになっています。
ですから、子女が相対を得る日が栄光の日であり、その次には、その息子が子女を得る日が栄光の日です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-936)
ハナニムの愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ることができなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ることができなければなりません。子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令をするだけではなく、待ってみることもできなければなりません。理解することもできなければなりません。そのようにしてこそ、ハナニムの愛が理解できます。子女がいなくては未完成状態です。ハナニムの愛を知ることができません。
ハナニムが子女としての人間を、どれほど愛したのか分かりません。また、夫になってみなくては妻が分からず、妻になってみなくては夫が分かりません。子女も、父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分かりません。ですから、息子、娘がいなければ、まことなる父母になれないのです。
(133-138, 1984.7.10)
父母が子女の結婚を願うのは、子女たちに父母の愛をすべて相続させ、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、子孫にその実体を残しておきます。ですから、子孫が必要なのです。
愛は永遠に続くのです。愛は、人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げ、相続しようとします。その愛を残しておくことにより、霊界でも堂々とハナニムの前に出ていくことができます。
そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち、そこにおいて愛の一体圏が成されるということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-937)
人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種をき、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべて整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そのようにしてこそ、再び春を迎えるようになるとき、また種として植えることができるのです。
これは何の話かといえば、これから皆さんは、父母となり、皆さんのような息子、娘を生まなければならないということです。皆さんの息子、娘を、皆さんのように育てなければならないというのです。
(26-158, 1969.10.25)
皆さんは、息子、娘がいなければなぜ寂しいのですか。それは、サークルラインを形成できないからです。鳥たちがひなえさを食べさせてあげるのを見たとき、母のこの上ない愛を知るようになります。西洋の人たちは知りませんが、東洋では大人より子女たちを好みます。大人たちに向かっては礼儀正しく敬いますが、息子、娘たちにはこの上ない愛を惜しみません。息子、娘を生み育ててみることによって、父母が子女をどれほど愛したのかを悟るようになります。


人間は誰でも、結婚をしたのちに子女を生み育ててみなければなりません。そのようにしてこそ、子女の愛と父母の愛を所有することができます。
しかし、西洋の人々は、そうではないようです。息子、娘を生み育てることを忌避しています。息子、娘が、結婚して離婚するのに妨害になるという考えゆえに、自分の子女をもつことをはばかっています。しかし、人間は、生まれて四位よんい基台を成せなければ、ハナニムが人間を愛する心情を知り得ないので、天国に行けません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-937)

 

6) 愛の中心を求めていく人生行路

人間は、愛によって生まれ、父母の愛の中で大きくなり、横的に愛を広めながら成熟するようになります。横的な愛は、異性の相対に出会うと1段階、愛を完成するようになり、天地の愛を代表できる基準に入れば、その実を結んで子女を身ごもるようになるのです。子女は、核心的な心情の立場から生じた愛の結果として生まれるようになります。
男性と女性が心情的に愛し合って生まれた息子は、愛の核心に通じる道をつくってくれ、その中心を通過すれば、正にハナニムと出会うようになるのです。人間は、愛の実として子女を身ごもることによって、ハナニムが万物を創造し、人間を創造されたときの愛を体恤たいじゅつするようになるのです。また、父母の愛として生まれて受けた愛を、子女を愛してみることによって、父母の心情を体恤するようになるのです。父母が子女に注いできた愛は、物質的な愛ではなく、本質的な愛です。
天地が変わっても、歴史時代が変わっても変わらないのは、父母が子女に与える愛です。父母になって子女を愛することによって、ハナニムが人間をどのように愛してこられたのかを考えることができるようになり、体験を通して確認するのです。父母になって子女を愛することによって、父母が私をどのように、どのくらい愛してくれたのかを感じて悟るようになります。
そして、老いた父母に対してさらに敬い、愛によって孝行の道理を立てるようにするのです。そのようにできなければ、父母としての資格がないだけでなく、子女に対する愛も偽善だといわざるを得ないでしょう。
人間は、父母になって子女を愛してみることによって、ハナニムが人間をどれだけ愛してこられたのかを感じて悟らなければなりません。また、ハナニムを一層心から愛さなければなりません。子女に対する愛よりも老いた父母をもっと愛さなければならず、老いた父母に対する愛よりもハナニムをもっと愛さなければならないのが愛の秩序であり、法度であることを知らなければなりません。


人間は、生まれる時、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると、父母の愛だけでは不足になり、兄弟間の愛と宗族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。
すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら成熟していくのです。特に思春期に近づくと、異性間の愛を求めるようになりますが、異性間の愛によって総合的な愛の圏内に進入するようになり、初めて愛の中心を求めていくことができるようになるのです。天地は球形の世界なので、横的な愛を授受し、回転しながら円形を一次的に成すようになります。
特に異性を相対者として選び、愛し合うとき、その結実として子女を身ごもって父母になりますが、このときお互いが愛を授受して回転するようになれば、横的な愛に続いて縦的な愛も実現するようになり、球形世界を成すのと同時に愛の中心を求めるようになるのです。
愛の運動を通して生じた愛の中心は、すべての被造世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛の中心を中心として運動を続けているからです。そこは、愛の中心運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じた中心は、間違いなくその場にハナニムがいらっしゃる所でもあります。
ですから、世の中に存在するすべての被造物は、ハナニムの愛によって創造されて存在し、ハナニムの愛の中心を求めていくのです。ハナニムは、正に愛の溶鉱炉であられるのです。
(126-245, 1983.4.24)

 

7) 3時代を行く人生路程

人間は、お母さんのおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間は、この世に生まれる前には、お母さんのおなかの中で10ヵ月を過ごします。おなかの中にいる時、幼い胎児の自由には限界があります。胎児は、お母さんの栄養をへその緒で受け取って育つとき、2つの手を開いたりとじたり、口を開けたりすぼめたり、2本の足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児には、お母さんのおなかの中が自由天地であり、生の全領域なのです。その胎児は、10ヵ月目にこの世に生まれて育つようになりますが、それ以後の世界が、今日、私たちの生きている現在の地上世界であり、人間社会なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1071)
人は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれました。ですから、まことなる父母の愛に根を張り、お母さんとお父さんの保護と愛の懐である腹中で育ち、20歳まで分別なく父母から大切に育てられ、汚い物でもそれを忘れ、すべてを喜んで消化できる愛の中で成長してから、愛の相対者に出会い、互いのために天理の愛に接ぎ木されなければなりません。そのような人生の過程を歩みながら、ハナニムの愛がどのようなものかを体験すれば、ハナニムの対象愛の実体圏が完成するので、息子、娘を生んで愛するようになるのです。
(143-285, 1986.3.20)


この世に生まれた人間は、胎児期のお母さんのおなかの中に比喩ひゆされる宇宙で、生を生きているのです。一言で言って、お母さんの懐のような宇宙で、人間の100年の生涯を生きているのです。胎児がお母さんのおなかの外にある人間の世界を知らなかったように、今日、地上世界で生きている人間たちは、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいるのです。
ただ推測して、お母さんのおなかの中では人間世界を知らなくても、実在として人間世界があったように、死後の世界もあるだろうと、漠然とした心証をもっているだけなのです。
しかし、はっきりとしていることは、人間の死後の世界に対する心証的な存在可否にかかわりなく、確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知できる五官作用外にあるので、宗教を通した信仰をもって不信を克服しなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1071)
人間には3時代があります。動物界にも水中時代があり、陸上時代があり、空中時代があります。すべてのものが3時代を経なければならないのです。
ところで、人は、万物の霊長であり、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どのような存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸上時代においても、どのような動物よりも最高の資格をもった存在でなければなりません。次に、空中時代がなければなりません。
しかし、人間には翼がありません。翼がないのにどのようにして飛ぶことができますか。飛び回るのは、どのような鳥よりも、どのような昆虫よりも、高く飛ぶことができ、遠くまでも飛ぶことができなければならないのです。そのためには、どのようにすればよいのでしょうか。それは、実体である肉身ではできません。いくらジャンプしても、あまり行かないのです。
しかし、人間は、万物の霊長であり、ハナニムが霊的な存在なので、主管圏や相対的な立場に立つためには、その活動舞台がハナニムと同じでなければなりません。
今日、電気や光でいうならば、光の速度は1秒に30万キロメートル行きます。それよりも、もっと早く作用することができるのが人間です。それが正に霊人体です。
(112-202, 1981.4.12)
私たちは、この世に住んでいますが、この世の中だけがあるのではなく霊界があります。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って住むべき所はどこでしょうか。霊界です。霊界とは、愛の空気が充満した永遠の世界です。ですから、一生は永遠の世界に入るための準備期間です。
(140-121, 1986.2.9)

 

8) 地上生活は霊界の拍子に合わせるための訓練場所

私は、霊界での体験をたくさんもっていますが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上で、空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようになってはいません。霊界で授け受けする愛はまことなる愛なのです。
(146-267, 1986.5.15)


皆さんが霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。すなわち、父母、兄弟姉妹、夫婦、子女に対する愛を十分にもった者、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受することができるでしょう。彼は、何の制限もなく、どこでも、どの方向にでも行くことができます。その反対に愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人孤立していて自由が全くありません。
父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係なのです。この三つの関係は、互いに異なります。ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で深い愛の経験をもってこそ、制限なしに縦的、横的に行くことができ、円で旋回することができます。
例えば、父母が早く亡くなることによって父母の愛を味わうことができなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、少なからず悲劇的な人であり、同じように家庭生活、すなわち夫婦関係を経験できなかった者は、生の重要な部分が不足するので、霊界ではとてもみすぼらしい人になります。
また、兄弟姉妹がいない人は、すべての分野の欠乏によって完全な生を生きることができないので、霊界でみすぼらしい立場に立つようになります。
皆さんはなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するために結婚するのです。
それでは、それがなぜ必要なのでしょうか。そのような愛の空気が充満した所が霊界だからです。霊界の拍子に合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。これを感じないで行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような愛の空気をかぐための鼻がない人と同じだというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1067)
皆さんは、お父さんとお母さんから生まれました。次にさらに根本的なことは、お父さんとお母さんのおなかを借りてハナニムから生まれたという事実です。
皆さんは、宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を見いださなければなりません。肉身の父母は通過の父母です。ですから、死の瞬間は、真なる父母に会いにいく歓喜の時間です。
そこには、真なる父母の真なる愛があります。そこを天上天国といいます。そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で充満しています。その愛は「私」のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもとに、すべての法度を通り得る愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練の場所です。
(105-108, 1979.9.30)


この地上での生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間なのですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩ひゆすると、これは一点ほどのわずかな時間にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この瞬間の時間内に、肉身生活を越えて霊界のために準備しなければならないのです。
(207-99, 1990.11.1)


 

第5章 創造本然の男女の愛

 

1) 創造本然の男女の愛

男性と女性が愛し合っても、それがハナニムが立てようとされたみ旨と一致するか、またハナニムが人間に願われたその基準と一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、ハナニムが考えられるモデル的な愛と一致するかということです。
ハナニムを中心として最初の男性と女性が愛で一つになったならば、それは、愛を中心にした宇宙のモデルになったという結論が出るのです。ハナニムも人間にそのような愛を願われたのです。男性と女性も、お互いに相手に対してそのような愛を願ったのです。そのようなまことの愛は、宇宙の核にならざるを得ないというのです。メートル法と同じ一つの標準型になるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-335)
ハナニムの愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は、一つになろうとします。男性と女性がお互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性、女性は男性を通してのみハナニムを所有することができるからです。すなわち、男性と女性が愛で一つになる所に、ハナニムが臨在されるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-336)
二性性相の母体がハナニムであることを考えるとき、男性と女性の尊厳なる価値を褒めたたえると同時に、ハナニムの尊い価値を一層褒めたたえられる人にならなければなりません。
男性の心の中には、ハナニムが愛していらっしゃる女性がいて、彼の相対である女性の心の中にも、ハナニムが愛していらっしゃる男性がいて、共にたたえるようになる場合には、ハナニムもそれを見て喜ばれるのであり、すべての万物も互いに喜ぶようになるのです。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値ある内容になります。
男性と女性が互いに愛し合い、抱擁するそのこと自体が、宇宙が一体となる場となるのです。ハナニムの理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものなのです。本来、男性は、自分が喜べる女性を迎えなければならず、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、人間の喜びというその限界を越えて、ハナニムも喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。
そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥たちは、彼らのために歌を歌い、ちょうは、喜びひらひら舞うようになるのです。ハナニムも喜ばれ、人間も喜び、すべての万物も喜ぶようになるのです。このような立場で人間始祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-336)


 

2) 男性と女性が生まれた理由

本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか? それは、女性のために生まれたということを否定できないのです。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できないところに問題が生じるということを、私たちは知らなければならないのです。
これを天地創造の大主宰であられるハナニムが、創造の原則として決められたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界へ入ることができないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-338)
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれたのでしょう? これが最高の真理です。ですから、このような原則に従って祝福圏を探し出さなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。
(21-201, 1968.11.20)
男性と女性は、生理的にすべて反対です。女性は一方的なのに比べて、男性は三方・四方的です。また、女性は家の中に居ますが、男性はあちらこちら世の中を巡るのです。
このように性格がすべて反対なのです。このような主体的な男性と相対的な女性が何を中心にして一つになるのでしょうか。愛を中心にして一つになるのです。人間とハナニムを一つにさせようとするのも愛なのです。
(38-255, 1971.1.8)
男性が生まれたのは何のためですか。学問やお金、権力のためではありません。女性のためです。女性のために男性が生まれたということです。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。
男性がもっている器官と女性がもっている器官は、それぞれ違います。それを誰のためにもっているのですか。それは、自分のためにもって生まれたのではありません。男性のものは、女性のために生じたので女性のものです。女性のものは、もちろん逆に男性のものです。そのように考えてみましたか。(笑い)。笑い話ではありません。
(143-275, 1986.3.20)
男性と女性の愛の象徴は何ですか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性を一つの体に成さしめる性の器官です。
それは、愛を中心として心と体が完全に一つになれる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっていて、女性は男性のものをもっています。ですから、生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相手のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。
(132-146, 1984.5.31)
なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。ハナニムは知恵の大王であられるために、男性と女性の愛の器官をそれぞれ取り替えてくださったのです。


男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差しおいて自分の思いのままに行動した人は、愛に背いたことに対する審判を受けなければならないのです。法の中でも一番恐ろしい法の罰を受けることを知ったならば、自分の妻を差し置いて、どうして他の女性を考えることができますか。反対に夫人たちは、夫をほうっておいて、どうして他の男性を考えることができますか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-340)

 

3) 男性と女性は互いに絶対的に必要な存在

皆さん、愛は絶対に必要なものでしょう? そうでしょう? その愛に絶対必要な要素は、人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要なのです。
どれだけ必要なのでしょうか。大韓民国よりも世界よりも、さらにはハナニムよりも必要なのです。また、女性がいなければ、100年以内に人類はすべて滅亡するのです。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ100年以内にいなくなるのです。ですから、女性は絶対に必要なのです。
(25-180, 1969.10.4)
「人」といえば、男性と女性をいいます。一人の男性を考えてみると、女性がいなくてはならないのであり、女性を考えてみても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性にとって必要なその女性も、自分が願って生まれたのではないのです。生まれてみると男性になり、女性になっていたのです。
(67-267, 1973.7.22)
男性として生まれたとき、女性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。生まれてみて、男性一人だけだと気分が悪くないですか。また女性として生まれてみて、女性だけだと気分が悪いのです。そうではないですか。ですから、女性が生まれたとき男性がいることを知って生まれましたか、知らずに生まれましたか。自分はたとえ知らずに生まれたとしても、自分を生んでくださった方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるためなのです。
同様に、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性がいるから男性として生まれたのです。そうでしょう? すべて知った上でそのように生まれていたのです。
(37-19, 1970.12.22)
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。ハナニムを絶対に必要とする前に女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからでした。同様に、女性にとって絶対的に必要な存在が男性であることを知らなかったのです。
まことの愛の味を感じるためには、理想圏をもたなければなりませんが、そのためには、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要なのです。真の愛のための絶対的な男性と女性は、一生懸命努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、ハナニムが二人の中に臨在されるようになることを知らなければなりません。