八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 2-5

八大教材教本 天聖経(2012年版)p495-530

【天啓の御言】(2-5)

 


ハナニムを中心として一つになるとき、千態万状に回るようになるのです。ですから、兄弟間で愛することも、父母が子女を愛することに倣って兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化した家庭には、家庭愛が花咲くのです。これがまた社会愛になります。これがさらに民族を愛する民族愛になります。そして、このように愛すれば世界愛になるのです。
(28-151, 1970.1.11)
皆さん自身が父母の愛を受けるのはなぜでしょうか。夫婦であるお父さんとお母さんが互いに支え合い、愛し合うその動機が皆さんによって成されるからです。分かりますか。ですから、その動機を中心として、兄弟同士愛し合うその愛は変わらないでしょう。
それを中心として、隣人を自分の体のように思って生活するとき、正しい社会環境が展開されるのです。家庭を中心として見れば、その家庭が蘇生そせいであり、社会が長成であり、国家が完成です。必ずそのような過程を経なければなりません。家庭と家庭をみな合わせなければなりません。そのようにしてこそ、その中で愛が広がるのです。
このようにして、国家の範囲でも一つに合わさるのです。ここで社会は、いろいろな階層に分かれるようになっています。
会社には、社長という代表者がいるでしょう。そうでしょう。国家の責任者が今、何人ですか。一人でしょう。一人の責任者がいます。このような姿に統一されるのであり、形体だけが大きくなるのです。このように、分かれていても一つになるのが四位よんい基台の原則です。
(26-153, 1969.10.25)


 

第9章 真なる子女教育

 

1) 父母は子女をどう教育すべきか

父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないのでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。
天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だということを教えなければなりません。
ですから、初めにアダムとエバも、ハナニムの愛を中心として、ハナニムに愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。ハナニムが父母なので、アダムとエバは、ハナニムから愛の教育を受けなければなりません。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。ハナニムの愛の教育からです。
それでは、愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量れる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。
しかし、アダムとエバがハナニムの愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。壊れてしまったというのです。
それでは、愛のハナニムを中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには、愛の教育基準があったのでしょうか。もしなかったならば、ハナニムの理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何なのかということが問題です。私たちは、天国に行きたいと思っています。しかし、天国に行ってからは、そのような教育は受けることができません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるというのです。その教育とは何でしょうか。
(51-171, 1971.11.21)
天国は、心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。ハナニムが、この地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子、娘をつくるためです。どのような息子、娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露できる息子、娘をつくるためです。
(9-293, 1960.6.12)


それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになればどこまでも、いつでもついていかなければなりません。父母が山に登れば山についていき、谷に下りれば谷についていき、洞窟どうくつの中に入れば洞窟の中に行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。もしハナニムが息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。ハナニムは絶対的なお方ですから、絶対的に会いたいと思われるのです。絶対的なお方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「ああハナニム、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」と、これではいけません。絶対的でなければなりません。
(51-173, 1971.11.21)
もしハナニムと内外とも一つになった立場にいれば、学ばなくてもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっと博学になるというのです。天地がどのようになっているのか、霊界がどのようになっているのか、人生がどのようになっているのか(分かるのです)。生まれ出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すというのに、万物の霊長が、学ぶことによって食べ物を探したり、死ぬことや生きることを知るのではありません。接したとたんにさっと分かるようになっています。
そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落のためです。
堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いもので覆われているので、これを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。今まで人々は、そのようにできる道を追求してきました。
(56-131, 1972.5.14)

 

2) 父母は子女に何を教えるのだろうか

真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理の内容がいくら良いといっても、自分の夫に代わることもできず、また自分の妻や息子、娘たちに代わることはできません。
真理の中の最高の真理とは何でしょうか。それは、父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はありません。それでは、真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、ハナニムが真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それは、どのようなことですか。みな同じことです。真理が成立するには、愛と生命がなければできないのです。人間がまことの真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。ここでの欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。
ですから、一番の核心は何でしょうか。生命の本体、愛の本体、真理の本体はハナニムですが、ハナニムはどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。ですから、核心は父母なのです。
(21-183, 1968.11.20)


また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。ハナニムの愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが最も偉大で、この世にない相続です。ハナニムを正しく紹介しなければなりません。ハナニムの愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、ハナニムの代わりにハナニムのように愛し、自分の父母を求める以上にハナニムを求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。
(93-336, 1977.6.17)
私たち統一教会員は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。ハナニムと人類と世界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まった。
男性も女性も愛のために始まり、父母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなくハナニムの前に行っても恥ずかしくないことでしょう。
(93-191, 1977.5.29)
祝福家庭の人たちを見ると、自分の子女である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子、娘に「勉強しなさい」と言ったからといって、その息子、娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。
とんでもないことです。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させ得る愛の道理を教えなければなりません。ですから、父母が息子、娘を連れて、御飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には、「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。
父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。自分の子女を捨ててでも国を愛し、ハナニムのみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を、分別がつけばつくほど知るようになるのです。
自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子女を心配したからといって、その子女たちが良くなるのではありません。
愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていける方向感覚を教えてあげなければなりません。分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊のきんしかない山だと思っていたのに、掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになります。
(139-77, 1986.1.26)

 

3) 父母がまず手本を示すべきである

子女を教育するためには、父母が先に実践しなければなりません。父母がお手本となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そして、父母がどのような言葉を語っても、子女たちが一言半句も口答えせず、父母をおそれ敬い得る立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちがついて行かないというのです。
(31-268, 1970.6.4)


そのためには、天の教育をしなければなりません。教えてあげるには、父母が先に手本にならなければなりません。子女に親孝行しなさいと教える前に、先に親孝行しなければなりません。
皆さん自身がまず天の法度に従って親孝行な息子、娘になってこそ、そこから天の伝統的親孝行の因縁が成立するのです。お父さんが家庭で親孝行するように、お前も親孝行しなければならず、お父さんが国のために追われながらも闘争の歴史をつづってきたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。
(30-113, 1970.3.17)
父母が子女に親孝行しなさいと教えてあげて親孝行な息子をつくるのではありません。自ら親孝行しようという心がわき出るようにしなければなりません。ですから、そのようなことは、一朝一夕にしてできるものではなく、長い期間を通じて影響を及ぼさなければなりません。ここで影響を及ぼすというのはどのようなことでしょうか。お父さんがしたとおりに子女がついてくることができるように、生活を通して子女に手本を見せてあげなければならないのです。このようなことを実践する専門家にならなければなりません。
(29-99, 1970.2.25)
自分の子女に教える時は、「お前は立派な人になりなさい」とばかり言わないで、「立派な人になるためには、このような道を経てからなりなさい」と言わなければなりません。お父さんはお父さんなりに責任を果たし、お兄さんはお兄さんとしての責任を果たさなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての責任を果たさなければなりません。
言い換えれば、まことの男性、真の女性の道を行ける因縁をわきまえ得る、法度からそれない皆さんになってこそ、順理的な路程を経て一国の民になれる道が生じるのではありませんか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1041)
父母はどのようにしなければならないのでしょうか。父母が互いに愛し合うように、兄弟姉妹同士愛し合えるように教えると同時に、私が国を愛するので、お前も国をこのように愛しなさいと教えなければなりません。そのようになれば、他の教育は必要がありません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1041)
祈祷する時も、私がこのようにするので、私の子女もこのようにするようにしてくださいと祈祷しなければなりません。
自分が先に標準になったのちにこそ、子女をそのような位置に立てることができます。自分が先にそのような位置に立てば、ハナニムは自然にその子女もそのような方向に導いていくのです。ですから、ここで私たち自身を中心として、その方向を変えることができなければ、霊界に行っても責任追及を受けることになるでしょう。
(13-103, 1963.11.1)
皆さんの家庭で、子女たちが、うちのお父さんとお母さんは世界のどのような王宮の王や王妃よりも素晴らしいと思うようにしなければなりません。また、子女たちにお父さんとお母さんの関係が天下にない近い関係だということを見せてあげなければなりません。祝福家庭の皆さんがそのような伝統を立てなければなりません。


そのようにして、「うちのお父さんとお母さんは、世の中の誰よりも誇らしいお父さんとお母さんだ」と言えるように、子女たちの骨髄にその伝統を植え付けてあげなければなりません。世の中の親たちを見れば、子女たちがその横で、「お父さん、お母さんどうしてけんかするの! どうしてけんかするの?」と言ってもけんかします。
その時に、涙を見せない家庭で育った皆さんの子女たちが、そのような世の中の姿を見て、「やはりうちのお父さんとお母さんは、世の中で一番だ! 本当に素晴らしく聖なる両親だ」ということが感じられるように、皆さんは、子女たちにお手本を見せなければなりません。父母は、子女たちが骨髄からあふれ出る心情であこがれる父母と子のきずなを立て、黙々と天の家訓、家法を立てていかなければならないのです。そのようにすることによって、子女たちも後代において自分のお父さんとお母さんのような立場に立とうとするのです。
(23-184, 1969.5.18)

 

4) 父母は友達の中の友達、先生の中の先生

愛というものはどこから来るのでしょうか。愛は、自分から来るものではありません。愛とは、相手から来るものです。相手がいなくなれば、愛も来ることができません。私たち人間を中心として見れば、男性の前の女性も相対的であり、また父母の前の子女も相対的です。愛というものは、相手なくしては成されないのです。これを「三対象の愛」といいます。
三対象の愛を体得できない者は、完全なハナニムの愛を体験したという立場に立つことができません。「ハナニムがアダムとエバを創造して喜ばれたように、私も息子、娘を生んで、それくらい喜ぼう」と、これが統一教会の「原理」の教えです。
ハナニムがアダムとエバを造られて、「これから世界を主管するのだ。世界の中心家庭になるのだ。早く大きくなれ、早く大きくなれ」と言いながら希望をもって保護育成する中で、喜びと満足を感じながら、彼らが大きくなって結婚する日を願われたのです。それがハナニムの願いです。
これと同じように、お父さんとお母さんは、息子、娘をよく育てて素晴らしい相対を選び、良い夫婦の縁を結んであげなければならないというのです。良い夫婦の縁を結んであげれば、その家は栄えるのです。
(57-119, 1972.5.29)
友達の中の友達とは誰でしょうか。近所のもじゃもじゃ頭の若者が自分の息子、娘の友達ではありません。友達の中の友達は誰かといえば、正にお父さんとお母さんです。そうならなければなりません。さらには、友達よりもっと好きな父母にならなければなりません。そのように考えなければなりません。ですから、父母は、友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。
父母が「こらっ、お前、そのようにしたらいけない」と言ったり、先生が「こらっ、こいつ、やらなかったらふくらはぎをたたくぞ。そのようにしてはいけない」と言ったりしながら教育してはいけません。愛の教育をしなければなりません。「こら、お前、それでいいのか」と言えば、「そうだ、ぼくがこのようにすれば、お父さんとお母さんが悲しむからいけない」と言えるように教育しなければなりません。ですから、父母は、子女の友達の中の友達であり、先生の中の先生にならなければなりません。


エデンの園にいたアダムとエバに友達がいたでしょうか。アダムに友達がいたとするならば、エバしかいませんでした。その次には、ハナニムしかいません。天使長とは友達になることを願われませんでした。天使長はしもべです。それなのに間違って友達になって滅びたのです。ですから、父母は、先生の中の先生であり、友達の中の友達であり、愛の中の愛にならなければなりません。
愛はハナニムから始まります。ですから、結局、相対の愛も誰によるものかといえば、父母によるものです。ですから、父母が「おい、お前たちが愛し合うのは、お前たちによるのではなく、父母の恩徳によるものだ」と言う時、子女たちは、「うちのお父さんとお母さんが私をこのように育てて、このような相対を得てくれなかったら大変なことになるところだった」と、このようにならなければいけません。
ですから、恋愛結婚は落第だというのです。その愛の教育は、誰から受けなければならないのでしょうか。父母からです。お父さんとお母さんが一つになって、はとのように楽しくクゥクゥクゥと愛し合うのを見て、それを見習わなければなりません。
「ああ、うちのお父さんとお母さんがあのように愛し合うのを見ると、自分一人では寂しい。私もうちのお父さんとお母さんのように、クゥクゥクゥと愛せる、そのような相対が必要だ」。このようにならなければならず、父母はそのようになるように教えなければなりません。そのようになれば、その息子、娘たちがお父さんとお母さんがしてきたことを繰り返すので、世界は善なる世界になるのであり、人類歴史は善なる歴史になるのです。統一教会でこれをしようというのです。
(57-121, 1972.5.29)

 

5) 愛のむち

ヨハネの黙示録を見ると、「冷たいか熱いかであってほしい、中途半端ではいけない」とあります。
愛の世界で中途半端な態度はいけないのです。愛の心をもてば、むち打ってもよいというのです。子女を育てるとき、愛を与えたのにその心を忘れてしまった時は、冷たく対すべき時もあります。子女が間違った時、皆さんがしかってあげなければ分別力を失います。先生は、優しく見えても、一方では厳しいということを知らなければなりません。悪に対しては無慈悲です。しかし、善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱いのです。
(103-32, 1979.1.28)
最近、アメリカの学校で先生が学生をたたいたという理由で刑務所に行ったという話を聞いたとき、「アメリカはもう駄目だな」と思いました。自ら進んで、「たたいてでも、善なる方向に導いてください」と言わなければなりません。
韓国のことわざに、「憎い人には御飯をあげて、かわいい人にはむちをあげなさい」という言葉があります。正しい伝統を受け継いでいくためには仕方がありません。父母のむちが痛いのを忘れて、その愛の前に涙を流せる人にならなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1027)


人は近ければ近いほど賞金をあげるのではなく、「こら、お前どうしてそうしたんだ?」と、かえって懲らしめるのです。
隣近所の子なら、間違ったことをしても知らないふりをするかもしれませんが、自分の子女なら「ふくらはぎを出しなさい」と言ってたたきながら、「お前、良いことをしたのか、悪いことをしたのか」と言います。それは、たたくことよりももっと多く考えてあげているからです。しかし、その思いよりも多くたたけば、それは罪です。自分が思ってあげるよりも、もっとたたけば怨讐おんしゅうになります。怨讐の中でも、大きな怨讐になるというのです。
愛するとしても、棍棒こんぼうを持った以上の愛をもってたたかなければ、すべて台無しになります。
しかし、それ以上の愛をもってたたくなら大丈夫です。つまり、10愛して5むち打てば、5の愛が残っているので有り難く思うというのです。
(26-32, 1969.10.18)
子女が受け入れなくても、子女を悔い改めさせるためには、昔愛したその愛よりも大きな愛をもって現れ、愛するようになれば、その不良のような子女でも悔い改めて帰ることができます。
しかし、子女に対して、自分が育ててきた功労を自慢しながら3回でもとがめれば、その子女はふろしきを包むのです。しかし、その子女に対して骨髄が溶けるほど涙を流し、もっと大きな愛をもって愛するようになるとき、その子女は帰ってくるのです。もっと大きな愛は、小さな愛をすべて消化、統合し得る主動性があるからです。
この世でも、子女が疲れたからといって、「勉強するな」と言う父母は、本当に子女を愛する父母ではないというのです。むち打ちながらも、「寝ないで勉強しなさい」と言わなければなりません。なぜですか。今、良くなろうというのではなく、未来に良くなろうというのです。父母は、子女の未来に大きな夢をかけてそのようにするのです。
子女を生んで育てるためには、まことの愛で生んで育てなければなりません。そのようにして家庭が一つになり、家庭を中心として国を愛せば、彼を愛国者だというのです。
ですから、父母は、子女の成長を見守りながら教育し、正しく成長しなさいと「愛のむち」を加えたりもします。間違ったという理由で父母にしかられたり、たたかれたりしたといって、不満をもったり抗議してはいけません。それを教訓としてひそかに自重しながら反省し、奮闘努力して間違った点を直していかなければなりません。そのような人は、正しく成長し、ハナニムがいらっしゃる中心に接近していくことができるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1028)

 

6) 勉強は何のためにするのか

勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか。みな初めは、仕方なく通うのです。中でも、特に小学生たちは、親が怖くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通うのではありません。初めはみな、そうだというのです。仕方なく通ってみると、あとでその味を覚えて、学ぶために通うようになるのです。そのようになると、お父さんとお母さんは驚くのです。


その味を感じ、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知れば、勉強するのがおもしろくなるのです。そのおもしろさということから見れば、最初は悪いものです。
しかし、勉強してみると、自分が思いどおりにできる範囲が広くなるので、そこに味を覚えて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人は一人もいません。勉強することによって、自分の活動できる範囲が広がるので好きになるのです。
(36-120, 1970.11.22)
学校に行く学生に対して、親は「一生懸命勉強しなさい」と言います。それは簡単ではない道です。苦痛の道です。しかしそれは、未来のために準備しなさいという予告です。教授たちが壇上に立ち、弟子たちに一生懸命に教えるのも、未来のための準備です。農夫が田畑へ行って一生懸命に働くのも、未来のための準備です。この国に天国を建設するための準備です。
(147-205, 1986.9.21)
皆さんは、学校へ何のために行きますか。学校へ行って勉強して、どこに役立てようと思いますか。それは幸福のためでしょう? 幸福は、愛を抜いてはあり得ません。
ですから、学校へ行くのは、愛の道を短縮させるためだといえるでしょう。
人間にとって幸福の門が開かれる時とは、結婚の時です。幸福の門を開くために勉強するのは、とても良い方法だといえるでしょう。
しかし、その勉強がお金もうけのために、権力をもつためにするのなら間違いです。勉強は、まことの愛で愛することができるように学ぶものでなければなりません。お嬢さんたちが大学へ行って学士になろうとするその理由とは何ですか。良い新郎を得ようというのです。それ以外に何もありません。
そして、ある男性がいくら立派になったとしても、その家庭が一つにならなければ、その男性は不幸な人です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-372)
勉強するのも、真の男性に出会って真の母になるためにしなければなりません。真の母になるためには、まず国のために勉強しなければならず、夫を真の夫として待り、真の夫に侍る真の妻にならなければなりません。
このような自分になることができなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子をもつこともできないのです。女性は、真の妻となり、一家庭の主婦として夫と百年偕老かいろう(注:夫婦になって仲むつまじく共に老いること)しなければなりません。お嫁に行くために勉強するなら、大学を出た人たちはみな百年偕老しなければならないでしょう?
しかし、百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか。調べるまでもないことです。文字を1字も知らない者たちが、もっと長く共に生きるというのです。
(25-79, 1969.9.30)


男性や女性が生まれて、長い教育期間を経て成熟した人格者になるのも、愛の理想的相対者に出会って幸福な暮らしをするためです。
最近の世の中では、結婚相手に出会うために勉強するのではないといいますが、結局は素晴らしい相対者を得るためのものであり、相対者と美しく愛し合いながら幸福に生きれば、財物も、名誉もついてくるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-373)

 

7) 真の父母と先生の教え

父母は、自分の息子、娘のために働きます。自分が食べるために仕事をする父母はいません。子女の多い父母が、農村で、あるいは仕事場できつい仕事をする時、貧しくとも背負子しょいこを背負って畑の草取りをし、畝間うねまや田んぼを耕したりするのは、千年、万年、子女の幸福のためです。
父母の額から流れる苦労の汗は、自分のためのものではありません。その汗の結実が子女を愛する心と共に絡み合えば、そこには新しい創造の役事が展開されるのです。いくら畑で草取りをして、仕事場で荷物を背負っても、その足取りには新しい役事が宿っているのです。
(25-97, 1969.9.30)
我が国(韓国)に4000万の国民が住んでいますが、子女を愛さない親もたくさんいます。彼らの中で、誰よりも子女を愛する気持ちを、10年、20年以上持続できる父母がいるなら、そこには親孝行の子女が出てこざるを得ません。息子と娘たちは、その父母の顔を見るだけで、手を見るだけで、自分たちのために苦労したということを知るようになるのです。
このように、骨髄からわき出る父母の愛を感じるとき、そこからは長い歳月の深い事情が流れてくるのです。このように、子女を国のために貢献させることによって、その父母は国家的な父母、あるいは世界的な父母になるのです。また皆さんが、父母の願いをかなえてあげようとする心情にあふれて勉強するようになるとき、新しい担い手になるのです。
皆さんの中に、そのような感情と思いをもつことができない人がいるとすれば、その人は、勉強するといっても、まともにすることはできません。もし、父母が子女に、「私がお前を愛し、お前のために骨を折り、お前のために苦労して汗を流すのは、私を思うよりは、この国をもっと愛しなさいという意味からだ」という愛国の志士の心情をもって教育すれば、そのような父母のもとで愛の教育を受けた子女は、父母が願う愛国の志士になるために努力することでしょう。彼は、父母の愛を回想するたびに、4000万民族のことを思うことでしょう。そして、民族のために勉強するはずであり、自分の民族が悲惨な目に遭う時は、自分の父母以上に悲惨さを感じることでしょう。
しかし、そのような立場にだけ立ったからといって愛国者になるのではありません。そのような立場に立って成し遂げた土台がなければなりません。それでこそ、国民が千年、万年慕い得る要因になるのです。そうでなければ、それはすべて過ぎ去ってしまいます。このようなすべての問題を考えれば深刻です。皆さんの学校に、どのようなことがあっても、自分の弟子たちに正しい思想を引き継がせるために苦労する先生がいるならば、彼は大韓民国という国家の運命を心配しながら、皆さんの手をつかんで涙を流し、次のように勧めることでしょう。


「私に対して従うのではなく、国に対して従いなさい。私のために尽くすよりも、国のために尽くしなさい」。このような教えを受けた弟子たちは、その先生が果たせなかった意志を果たすことでしょう。このように、先生は、自分の生涯を捧げて弟子たちのために精誠を尽くし、父母は、自分の価値よりも国家と世界の価値を大切に思いながら子女のために精誠を尽くせば、その先生の弟子とその父母の息子、娘たちは、棟梁(とうりょう)の器(注:一国を支える人材)になることでしょう。
(25-98, 1969.9.30)

 

8) 世界と共に生きる教育

宗教とは元の教えです。ハナニムの元の教えは、人類を教育し、人類を愛そうというものです。それ以外にはありません。ですから、まことの父母は、子女に対して、世界が喜び、ハナニムが喜ぶことを教えてあげます。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1046)
人倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。
皆さんは、誰のために父母を愛さなければならないのか考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。ハナニムは無限の愛を語られました。最後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛はハナニムの愛です。皆さんは、慕い求めるその目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。ハナニムのためです。ハナニムのために愛さなければなりません。
自分のために愛する者は、どこへ行くのか死んでみてください。皆さんが子女を生んで乳を飲ませ、「かわいい」と言いますが、誰のためにかわいがるのですか。それは、天と地に代わって、かわいがらなければなりません。この国、この世界のために、ハナニムのためにかわいがらなければならないのです。
ハナニムの愛に従った天倫の運勢は、世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのに、その因縁を通じて生まれた息子、娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。子女を抱いて乳を飲ませる母親は、天と地に代わってハナニムの愛する息子、娘を抱くという、切実な心情で自分の息子、娘を抱かなければなりません。
(8-105, 1959.11.22)
皆さん、恵みを受けることを願いますか。永生することを願いますか。そのようにするためには、公的な人にならなければなりません。子女を教育するとき、自分の息子、娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を胸に抱いて乳を飲ませる時には、この地球上の人類を代表した母の立場で、人類を代表した赤ちゃんに乳を飲ませるという心で与えなければなりません。


そして、自分の子女にだけかわいいといって乳を飲ませるのではなく、他人の子女にも自分の子女だという心情で対するお母さんになってください。そのようなお母さんの乳を飲んで育つ赤ちゃんたちは、必ず偉大な人物になることでしょう。
(31-167, 1970.5.24)
すぐにはならなかったとしても、1代、2代を経ていくうちに、必ずその子孫の中に世界を動かし得る人物が生まれることでしょう。これが公式です。そのようになるのです。
素晴らしいお母さんたちは、子女を胸に抱いて、世界を動かせる善なる存在になるためには、どのような困難な立場でも耐えることができなければならないとその子女に教えます。それは、お母さんたちが、善は滅びないという天理を知っているからです。
(13-238, 1964.3.24)
善は何によって動くのでしょうか。私のためにではありません。御飯を食べるのも、私のために食べるのではなく、天宙のために食べなければなりません。花嫁を迎えるのも、自分のためではなく、み旨のために結婚しなければなりません。
世界を目標にしなければなりません。経験するのも、世界を中心としなければなりません。そのようにする人は、格好が悪く見えても、本当に味のある素晴らしい人です。70年ないし80年のまばたきするような人生を過ぎれば、永遠に生きる道があるのに、人間はそれを知らずに生きています。
永遠に生きる世界の時間圏内に入って、その世界と連結させ得る道を知れば、その永遠は私のものになるのです。
(36-185, 1970.11.29)
御飯はあわ飯を食べ、服はたとえみすぼらしいふろしきのようなものをまとっていたとしても、世界を中心として、「昔、家がこうだった時、このような人はこのように生きてこのようになった」と言える、幅広く絶え間ない話題をもっている人が住んでいる所ならば、そこにいる子女たちは、優秀な人になるというのです。
(28-188, 1970.1.11)


 

第10章 復帰すべき人類の真の家庭

 

1) ハナニムの救援摂理の目的

ハナニムにとって最も必要なものとは何かが問題です。ハナニムは何と言いますか。ハナニムは、まことの愛の王であり主人です。もしも、真の愛の王であり新郎であられる方がハナニムならば、相対者になる王妃が必要だということが絶対的原理なのです。
それでは、ハナニムという絶対的なお方の前に、真の愛の相対になり得る方は誰なのかと尋ねてみると、それは真の人間です。それがハナニムの愛と一体になるアダムとエバだったのです。
皆さんは、お金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければすべて無駄なことです。夫には妻が必要であり、子女が必要です。妻は夫が必要であり、子女が必要なのです。そのような愛の対象が暮らす場所が家庭という所です。
良心の欲望をいっぱいに満たし得る愛の主体であるハナニムに侍り、そのハナニムの愛の相対である男性と女性が一つになり、その愛の中で息子、娘をもち、幸せに暮らせるその家庭が、ハナニムの真の愛を中心とした地上天国の最初の出発基地にならなければならないのです。
私たち人間も、愛する相対が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れるのを願うのと同じように、ハナニムも自分の愛する相対が無限の価値ある存在になることを願われるのです。そのような人が真の人間なのです。
皆さん! そのような男性と女性が、正に堕落しないで完成しなければならないアダムとエバだったという事実を知りませんでした。
(270-238, 1995.6.7)
ハナニムは、堕落によってアダム家庭の真の母と息子、娘をすべて失ってしまいました。ハナニムが所有できる真の息子、娘がいなかったのです。ハナニムの真の愛を中心として、血統的な因縁をもてるハナニムの家庭がなかったというのです。
堕落した父母によって、偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結んでしまったので、私たちの心と体の闘いが起こりました。アダムとエバ怨讐おんしゅうになったのです。アダムの息子、娘の間に殺戮さつりく戦が起こりました。
ですから、このようになったことを復帰するためのハナニムの救援摂理は復帰摂理なので、失った真の心と体が一つになった息子、娘として、絶対的に一つになる夫婦、息子、娘がハナニムの真の愛を中心として絶対的に、完全に一つになり、ハナニムと永遠に共に暮らせる真の家庭を築き、新婦宗教格であるキリスト教と連結させ、ハナニムと血縁関係を結ぶことによって、ハナニムの真の愛によって統一された家庭、宗族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのがハナニムの救援摂理の完成なのです。
(270-243, 1995.6.7)


ハナニムが宗教を立てられた目的は何でしょうか。「ハナニムが最も愛する息子、娘、ハナニムの骨と肉を一つにすることができる、そのような愛する息子、娘を中心とした、愛する家庭、宗族、民族、国家を形成することが、ハナニムのみ旨だ」と言わざるを得ないことを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。次に、メシヤはどのような方なのかを、皆さんは知らなければなりません。
永遠なハナニムの真の愛を根として初めて地上に来られ、すべての宗教が願う理想を完成する方が再臨のメシヤだということを私たちは知らなければなりません。そのようにして真の父母になり、失ってしまった真の愛を中心として、真の生命と真の血統による理想家庭を、すべての地上に立てようというのがハナニムの救援摂理の目的でした。
(270-242, 1995.6.7)

 

2) サタンの所有物になったアダム家庭

アダムとエバが堕落することにより、ハナニムは、彼らをまことの人類の祖先として、人類の父母として、御自身の息子、娘として対することができなくなってしまいました。アダムとエバは、ハナニムの前にかけがえのない息子、娘であったにもかかわらず、ハナニムが息子、娘として対し得ない位置に立ってしまったのです。ハナニムはまた、アダムとエバが成人したのちには、夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとされました。
ところが彼らは、息子、娘として慰労の対象になることができないのはもちろん、新郎新婦としても慰労の対象になることができませんでした。
ハナニムも、願われた所願が大きいので、彼らに無限なる価値を賦与されたのですが、彼らが堕落することによって、ハナニムは、彼らから子女としての慰労の心情を感じられず、新郎新婦として、すなわち夫婦としての慰労の心情を感じることができなかったのです。
ハナニムは、アダムとエバが未来における希望の祖先として、全人類の前にただ一人の王として、ハナニムの前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われたのです。
しかし、このようなハナニムの前に、彼らは慰労の対象となることができなかったという事実を、皆さんは知らなければなりません。
(20-80, 1968.4.28)
堕落は、どこから始まったのですか。家庭で堕落したというのはどういうことですか。善悪の実を取って食べたのですか。家庭的に堕落するというのは愛以外にありません。善悪の実を取って食べて堕落しますか。善悪の実を取って食べて原罪が生じますか。


父親が善悪の実を取って食べたことが罪だというのですが、何千代、何万代の子孫が罪人になる善悪の実とは何でしょうか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝の法則によって永遠に続くのです。そのようなものは愛の問題だけです。誤った愛が堕落の原因です。
(23-167, 1969.5.18)
不倫な淫行いんこう関係によって、エバは天使長と一つになり、アダムもまた、天使長と一つになったエバと一つになることによって、アダムとエバは、結局、ハナニムを中心にしたのではなく、天使長を中心にした夫婦関係を結んで家庭を築くようになったので、アダムとエバの子孫であるすべての人間は、サタンの血筋を受け継ぐようになったのです。
したがって、本来のアダムとエバの息子は、ハナニムの長子、次子にならなければならなかったにもかかわらず、エバが不倫な情で天使長と関係を結んだために、ハナニムの息子である長子と次子はサタンの所有物になってしまったのです。本来、創造理想の中で、愛は所有を決定するようになります。愛の関係を結べば、その愛を中心に主体と対象は、必ず互いの所有権をもつようになるのが原理です。
したがって、この原理的な基準から見るとき、エバが天使と不倫なる愛の因縁によって堕落するようになったので、エバの子孫として生まれる人間の所有権は、天使長であるサタンがもつようになったのであり、サタンはその所有権を堂々と主張できるようになったのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-325)
アダムとエバが堕落することにより、ハナニムの創造理想は成就されず、むしろ堕落した父母になったことによって、原罪のある子女を繁殖するようになりました。
そして、堕落したアダムとエバの家庭を中心にして、宗族、民族、国家、世界へと発展してきたのが人類歴史なのです。
ですから、堕落以後、今日まで、ハナニムの本然のみ旨を完成した立場に立った真の父母の理想が残されてきたのです。そして、真の父母を中心とした真の家庭と真の宗族、民族、国家、世界は、今でも理想として残っているのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-325)

 

3) 堕落人間の願い

人間始祖アダムとエバは、堕落することにより、堕落の血統をつくってしまいました。
彼らは、ハナニムが願う本然の理想世界、堕落していないその世界でハナニムと一体となり、ハナニムの直系の血統を受けて息子、娘を生むべきまことの父母の立場になることができず、サタンと因縁を結んで死んだ子女を生んだサタンの魁首かいしゅになったのです。
ですから、今日人類は、すべて偽りの父母に出会ったのです。ゆえに、偽りの父母の血統を否定して真の父母に出会わなければなりません。
(14-279, 1965.1.3)
堕落人間の願いは、ハナニムの息子に出会うことです。カインの息子として生まれた無念さをもって嘆息し、ハナニムの真の息子を探し求めてさまよっています。私たちは、ハナニムの息子を探し出さなければなりません。しかし、個人的なハナニムの息子、家庭的なハナニムの息子を探し出そうとすれば、人類はどれほど苦労するでしょうか。そこでハナニムは、国家的基準の息子圏を代表したメシヤを送られたのです。


ですから、人間たちがこのメシヤを迎える日には、個人的なハナニムの息子、家庭、宗族、民族、国家的なハナニムの息子まで探し出すことができるのです。
このように、ハナニムの国家的な息子まで探し出すことができるという喜ばしい知らせを伝えてあげるのがメシヤの降臨だということを、皆さんは知らなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-480)
堕落の因縁をもって生まれた私たちは、サタンの讒訴ざんそ条件を超越することができる、ハナニムの息子に出会わなければならないのです。
ハナニムの息子に出会ったのちは、父母に出会わなければなりません。皆さんは、堕落した父母はもちましたが、堕落していない真なる父母はもつことができませんでした。
それで、ハナニムが愛し得る真なる父母を探し出さなければなりません。次に父母の家庭を探さなければなりません。父母の家庭を探し出したのちにハナニムの愛を探さなければならないのです。そして、ハナニムの愛を探し出したのちにはハナニムに出会うのです。
このように、堕落人間は、ハナニムを中心として兄弟を探さなければならず、父を探さなければならず、母を探さなければならず、私の家、私の故郷を探さなければなりません。このような道を歩いていかなければならなかったのが、この地上の人類だったという事実を皆さんは知らなければなりません。
それで、ハナニムの愛を受けることができる父母と、ハナニムの愛を受けることができる息子、娘が、ハナニムの愛を中心に互いに愛し合う家庭を築くようになれば、「家和万事成いえわしてばんじなる」と言い得る環境において、愛の歌を歌いながら自動的に栄えることができるというのです。そのようになれば、自動的にハナニムの愛を中心とした民族が形成されるのです。
ところが、アダムがそのような家庭を失ってしまったので、宗教を通じてそのような家庭の基準を探さなければならないのです。家庭を探し出さなければ、宗族や民族、国家、世界は探し出すことができないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-480)
人間の理想、願い、希望は何かというと、次のように結論づけることができるでしょう。第一に、ハナニムを私の父として侍ることが最大の希望だというのです。
第二に、ハナニムの愛を受ける息子、娘になることであり、
第三に、ハナニムが所有していらっしゃるものすべてを相続することです。それ以上に大きな人間の願いは、あり得ないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-481)

 

4) 復帰の最終目標はアダム家庭を復帰すること

復帰の目標は、アダム家庭復帰にあります。ハナニムは、アダムとエバが堕落すると、すぐに救援摂理を始められました。しかし、カインがアベルを殺害し、アダム家庭を中心とした救援摂理は、ノア家庭に移されました。


ハナニムは、ノア家庭を中心として、世界のすべての人々を洪水審判で滅亡させ、サタンの侵犯条件を越えた家庭を立て、地上摂理の基盤を構築しようとされました。それが、再びアブラハム、イサク、ヤコブを経てモーセの時代に移り、イエス様につながれて私たちの時代まで来たのです。ですから、復帰摂理の最終目的は、失ったアダム家庭を探し立てることです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-483)
今まで、ハナニムは何を探してこられたのでしょうか。主体を探してこられたのではありません。理想的な対象を探してこられたのです。ハナニムを模範とし、ハナニムが造られた世界の内外の内容を備えているものを探してこられたのです。
このような結果的な一つの基点は何でしょうか。家庭です。家庭よりも宇宙を代表できるものはありません。
(30-80)
歴史全体が何で帰結されるのかといえば、物質と子女と父母、言い換えれば、家庭の基準に帰結されるのです。
これが宇宙の根本です。父母がいなくては子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として万物を主管しなければなりません。アダムとエバも万物を主管しなければなりません。これが、すべて一度に適用されるのです。
(35-276, 1970.10.25)
結局、ハナニムが6000年の間復帰摂理をされたのは、何を探し出すためだったのでしょうか。一つの国を探し出す前に、あるいは民族と教会を探し出す前に、何を探し出さなければならないのでしょうか。家庭です。つまり、御自分の相対を探し出し、家庭を探し出すことでした。一つの国が形成されるためには、家庭がなくてはならないのです。ゆえに、全体の根本とは何かといえば、家庭です。
(22-302, 1969.5.4)
人類の祖先であるアダムの家庭が破壊されたので、これを復帰しなければなりません。イエス様は、堕落しなかったアダムとして来られなければなりません。ですから、イエス様は第二のアダムとして来られた方です。
人類の最初の祖先であるアダムが堕落した祖先となったので、ハナニムは、本然のみ旨を立てるために、堕落していないまことの祖先としてイエス様を送られたのです。そのような真の祖先を中心に、アダム家庭を探し出さなければなりません。
(20-334, 1968.7.14)
聖書を見れば、人類始祖が堕落したとなっています。それでは、その始祖が堕落する時、一人だけ堕落しましたか、二人とも堕落しましたか。二人とも堕落しました。それが問題です。堕落したとしても、一人だけ堕落したというなら問題は簡単です。一人だけ堕落したとすれば、ハナニムは創造のハナニムでいらっしゃるので、もう一度造ることができるのです。
(23-33, 1969.5.11)
なぜ家庭から出発するのですか。すべての事件が家庭から広がったからです。つまり、アダムとエバの家庭から始まったのです。ハナニムを失ったのも、天使世界を追放したのも、万物世界を失い、人間の価値を失い、人間の愛を失ったのも、すべてアダム家庭で男性と女性が誤って出会ったからです。
(100-275, 1978.10.22)


今日まで、宗教団体、特にキリスト教が目標とし信仰してきた個人の救いは、完成ではなく第1段階の始まりにすぎない原初的な救いなのです。
救いの目標は、家庭の救いを単位とするのですが、その家庭の救いの基盤というのは、世界を指導でき、世界の救いまで責任を負うことができる家庭のことをいうのです。そのような心情圏が確立された家庭を築くことが、信仰生活の最高の理想にならなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-484)

 

5) イエス様が立てるべき復帰の家庭

エス様は、何をしに来られたのでしょうか。家庭を探しに来られました。救いの歴史は復帰歴史です。病気になれば治さなければなりません。イエス様は、堕落した人間を救うために来られました。
それでは、救いとは何でしょうか。家庭を失ったので、それをもう一度探し出すことです。もう一度探し出そうとすれば、どのようにすべきでしょうか。失った本来の場所に帰らなければ探し出すことができません。それでは、どうして人間が家庭を探し出さなければならないのでしょうか。イエス様は、どうして家庭を探しにこなければならないのでしょうか。それは、本来の家庭を失ってしまったからです。病気になったので、病気を治さなければなりません。つまり、堕落したので復帰しなければならないのです。
(23-18, 1969.5.11)
ハナニムは、原理原則に従って運行する方でいらっしゃるということを知らなければなりません。アダムを失ったために、サタン世界からもう一度探してこなければなりません。
アダムが誤って夫の役割を遂行できなかったために、アダムはエバを支配し、治め得る位置にいたにもかかわらず、エバをサタン世界に奪われました。それで、サタン世界からもう一度探してこなければならないのです。ですから、エバを再び探してこようとすれば、闘わなくてよいでしょうか。
国の基盤から教会の基盤、宗族の基盤、家庭の基盤をハナニムは準備されました。そのようにしてヨセフ家庭を立てられ、ザカリヤ家庭を立てられました
ですから、ヨセフ家庭のイエス様と、ザカリヤ家庭の洗礼ヨハネが一つになったならば、短い期間でハナニムのみ旨が成されたはずです。
洗礼ヨハネがイエス様を信じたならば、どのようになったのでしょうか。また、洗礼ヨハネの妹をイエス様が新婦に迎えていたならば、どのようになっていたでしょうか。み旨は成就できたはずです。このように言えば、キリスト教徒たちは、すぐさま反対するでしょう? 大変なことになったと大騒ぎするでしょう。しかし、いくら反対してみても仕方ありません。皆さんは今、反対していますが、霊界に行ってみれば、レバレンド・ムーンがうそを言っていなかったことが分かるはずです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-490)
元来、アダムとエバが、実体の父母として一体となり、ハナニムの創造理想である家庭の完成、すなわち愛の家庭理想を完成しなければなりませんでした。ところが、これができなかったので、それを完成させるために、イエス様が来られなければならなかったのです。


そして、イエス様が来られ、新郎の位置で新婦を迎えなければならなかったのです。そして、ハナニムの愛と一つになり、エデンの園で堕落せず完成できた本然のアダムの位置を復帰し、その愛で結ばれれば、誰も二度と堕落させることはできないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-489)
ハナニムのみ旨とは何かといえば、男性完成の基準と女性完成の基準を立てておき、アダムとエバがハナニムの愛を中心としてハナニムの家庭を築くことでした。ところが、ハナニムの家庭は築かれましたか。ハナニムの家庭は築かれませんでした。イエス様は、このようなハナニムのみ旨を知っていらっしゃり、また信じていらっしゃいました。
しかし、ユダヤ民族の不信によって、イエス様のためのイスラエル民族の4000年歴史の基盤とユダヤ教が崩れ、イエス様は十字架で惨めに亡くなられました。このような胸の詰まるイエス様の事情を、今まで誰が知っていましたか。誰も知りませんでした。今日、このムンという人が、このような話をしてあげるので皆さんが知るようになったのです。これが事実ならば、イエス様がどれほど喜んでいらっしゃるでしょうか。
新郎になられたイエス様が、新婦になられるまことの母を探し立てなければ、ハナニムの家庭完成は不可能です。イエス様の家庭が築かれない限り、ハナニムのみ旨は永遠に成されないのです。
ハナニムを中心とした家庭を復帰できなければ、国も探し出せず、世界も探し出せないので、イエス様も、この地に来てハナニムが愛する家庭を築こうとされました。
ですから、一人の新郎として、新婦を探し出さなければなりません。一人の男性を中心として、真の父母も現れ、真の夫婦も現れ、真の兄弟も現れることができるので、これを決定的に成すと預言したのが、「小羊の婚宴」の時に新郎新婦を迎えようということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-487)

 

6) 再臨主を中心とした復帰の家庭

復帰の家庭とはどのような家庭でしょうか。歴史的な願いの実体です。ハナニムは、今まで6000年の間、この一つの家庭を探し出すために摂理されました。この歴史的な願いの実体は、どこで築かれなければならないのでしょうか。とりもなおさず、この現世の、現実社会で築かれなければなりません。未来に築かれてはなりません。
これが歴史的な願いの基準であり、現世万民の願いの基準です。人類の過去、現在、未来の願いの基準です。人間として生まれ、行き来した数多くの聖人、賢哲たちも、この家庭を慕いました。
(21-51, 1968.9.1)
再び来られる主が、新婦を迎えることによって、初めて復帰の家庭という言葉が現れます。再び探し出さなければならない復帰の家庭、それは、人類が願う家庭です。6000年の歴史の中で、信じて現れた数多くの宗教指導者たちが、数多くの怨讐おんしゅうの執権者たちや為政者たちに犠牲にされながらも懇切に願ったのは、主が来られ、自分たちの恨みと怨讐に報いてもらうことでした。しかし、彼らの怨讐を討つにしても、主お一人ではできません。一人でできるのであれば、既にやっていたでしょう。ですから、天の家庭が現れなければなりません。


天の家庭が編成され、地上に新しい足場を築くのです。そして、心情のダイナマイトをもってサタン世界を爆破させられなければなりません。
(21-25, 1968.9.1)
復帰の家庭といいますが、その復帰された家庭の中心に誰がなるのでしょうか。ハナニムがお探しになるまことなる息子、娘によって築かれた一つの家庭が、ハナニムの創造目的ですから、その家庭の中心は、ハナニムの本当の息子、娘でなければなりません。それでは誰でしょうか。この宇宙を相続できる全権をもってこられるお方です。そのお方が再臨主です。その再臨主が来られて、家庭を築かなければならないのです。
(21-46, 1968.9.1)
今日、私たちの恨みは何でしょうか。アダムとエバエデンの園で、真の父母として真の家庭を築いて歴史を出発できなかったことです。これは、人類の恨みである前にハナニムの恨みです。
ハナニムが人間をお造りになった目的は、そのような家庭を立て、この地上に平和の王国を創建することでした。それにもかかわらず、その家庭が壊れることによって、ハナニムは、6000年という長い歳月の間、恨みを抱かれ、復帰の歴史を繰り返してこられたのです。その過程で、数多くの恨みの峠を限りなく踏み越え、今までの歴史を築いてこられたことを皆さんは知らなければなりません。
そのような歴史に責任を負い、解決するために来られる方が再臨主です。
それでは、再臨主は何をしなければならないのでしょうか。家庭を築かなければなりません。家庭を築くのも、空中ではなく地上で築かなければなりません。そのようにしてこそ、そこから宗族が現れ、民族が現れ、国家が現れ、世界が現れるのです。
(21-51, 1968.9.1)
来られるイエス様は、必ずハナニムが願われる家庭を立てなければなりませんが、その家庭は真の家庭でなければなりません。今まで人類は、真の愛を追求してきました。いずれにせよ、偽りの愛の形態が家庭や社会にあってはいけないのです。
ですから、万民が共有できるハナニムの愛を中心とした、人類全体が願う最大の愛を中心とした、一つの真の家庭が出現しなければなりません。
そのような家庭が現れなければ、宗族を編成することができないのであり、そのような民族が現れなければ、国家や世界を築くことはできないのです。
ですから、ハナニムが人類の前に提示された救いの摂理において、人間が対し得る最高の基準と、ハナニムとして願われる最高の理想的基準点は、家庭にあると見るのです。
(32-197, 1970.7.15)

 

7) 統一教会は本然の真の家庭を探すためにある

歴史時代のすべての宗教は、今まで何をしてきたのでしょうか。今まで、男性一人を探してきたのです。今までの宗教は、相対の因縁を許しませんでした。新しいものを許しませんでした。そのようにしていけば滅びるようになります。


しかし、一人の男性を探し求める歴史時代において、男性を見つけ出したと言える基準まで行くようになれば、そのあとは女性を探し出さなければなりません。ゆえに、統一教会は何をする所かといえば、家庭を探し出す教会です。
(30-218, 1970.3.23)
今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも家庭の救いを目的としているのです。救うのも家庭を救い、天国に行くのも自分一人では行かないというのです。
統一教会の救援観は、夫は天国に送って、妻は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというのです。また、お母さん、お父さんを地獄に送るのではなく、お母さん、お父さんに侍り、また息子、娘も連れて天国に行こうというのです。
統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する宗族まで、みんな連れて天国に行ける道理を教えてくれる宗教なので、他の宗教とは次元が違うのです。ですから、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は、家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、ハナニムのための家庭です。これが、統一教会の信徒たちが行くべき道であり、今後、皆さんが生活していくべき道であることをはっきりと知らなければなりません。
(34-358, 1970.9.20)
法を超越し、制度を超越し、環境のすべての背景を超越し、自分も超越し、永遠に共にいたいと思う因縁を結ぼうというのが父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛なのです。これを無視した社会制度はあり得ないし、これを無視した国家は形成され得ないのです。ですから、統一教会は、個人の救いを願うのではなく、家庭の救いを願うのです。
統一教会は、個人の救いを目的とするのではなく、家庭の救いを成就しようというのです。統一教会はこの点が違います。
(34-328, 1970.9.20)
すべての人間たちが、最後にもつべき共通の目標であり、行くべき共通の関門とは何でしょうか。国でもなく世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。共産主義世界がある前に、本然の家庭がなければなりません。また、民主主義世界がある前に、民主主義世界を創建できる、本然の家庭がなければなりません。
それでは、今までこれに対する秩序がどこにあり、これに対する教育がどこにあり、これに対する目的、基準がどこにあったのでしょうか。このような決定的基準が、この地上に現れなかったというのです。これが現れる前には、平和の王国、平和の理想国家、平和の国はあり得ないのです。
ですから、私たちが願うのは、このような理想的家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し出すべき家庭がこの地球上に必ず現れ、人類歴史と共に、運命を共にできる一時が来ることです。そのようにしてこそ、地上に対するハナニムの摂理が成就されるのであり、安息の福地、安息の巣が出発するというのです。
(23-31, 1969.5.11)


私たち統一食口シックの願いは何でしょうか。復帰の家庭になることです。私たちの願いもここにあり、万国の平和の起源もここにあり、天上天下てんげの幸福の基点もここにあり、一つの摂理の基点もここにあります。天と地がひっくり返る天地開闢かいびゃくの基点もここにあり、すべての人生の価値の根源もここにあり、願いの出発もここにあります。すべてここです。それでは、復帰家庭の中心は誰でしょうか。まことの祖先です。真の祖先は、真の父母です。
(21-46, 1968.9.1)

 

8) 真の家庭主義と真の父母宗教

堕落した父母の因縁によってハナニムから離脱した伝統を受け、この世界がこのような姿になりました。ですから、まことの父母が来られて、新しい主義を立てなければなりません。それは、どのような主義でしょうか。世界主義でしょうか。天宙主義でしょうか。真の家庭主義です。真の家庭主義が現れなければ、世界主義が現れることができません。この真の家庭主義の代表者は、ハナニムの真の息子でなければなりません。彼は、ハナニムの心情的なすべてのことを相続する内情的相続者であり、外形的相続者、そして、万物所有権の相続者にならなければなりません。
言い換えれば、ハナニムの心を相続できる方であり、体を相続できる方であり、万物を相続できる方でなければならないのです。そのような息子であってこそ、ハナニムの代身者になることができるのです。その息子が来られてこそ、初めて天国が築かれるようになります。
真の家庭主義とは、どのような主義ですか。真の家庭主義とは、ハナニムの愛の主義です。簡単でしょう? 愛がなければ、いくら世界一だと腹を出して歩いても、その人は不幸な人です。そうですか、そうではないですか。真の家庭主義は、父母が行けば、息子、娘は父母のあとを永遠についていく主義であり、また、兄さんが行けば、弟が永遠についていく主義であり、弟が行けば、兄さんが永遠についていき、兄さんの国があれば弟の国もついて行こうという主義なのです。
(21-49, 1968.9.1)
ハナニムの愛の主義は、どのような主義でしょうか。国境を超越し、このすべての平面的な世界を超越し、互いに授け受けする場合において、互いがまず与えよう、受けることはあとにしようとする主義です。そのような主義の世界が、今後、来る理想世界です。理想世界は何か大きな権勢をもって「この野郎!」と怒鳴りつける世界ではありません。理想世界というのは、自動的に心が動いてハナニムの愛に和することができる万民兄弟主義の世界です。
今後、そのような世界になるでしょう。これからは、家庭救世主の宗教が現れなければなりません。それが真の父母主義です。真の父母の宗教です。真の父母の宗教というのは、四位基台を成す真の父母の生活宗教です。そのようになれば、お父さん、お母さんがその家庭の息子、娘の救世主になるのです。


皆さんが、黙示録の一番後ろを見れば、復帰歴史が出ています。ですから、聖書は偉大だというのです。このような復帰の原則があったので、聖書の終章に復帰の内容を入れるようになったのです。
ヨハネの黙示録第22章17節を見ると、「御霊みたまも花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここ来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」と記録されていますが、花嫁と聖神聖霊)が何か分かりますか。
花嫁は、主の妻になるのであり、聖神聖霊)は霊的なものなので、ここから霊肉が合わさった母が現れなければならないのです。イエス様は、人類の父として男性なので、女性の中から母を探し出し、新しい世界へと救わなければなりません。これをキリスト教徒たちは知りません。教えてあげるといっても「嫌だ」と言い、かえって「異端だ」と言うのですから、ただあきれるばかりです。
(21-49, 1968.9.1)
天宙主義とは何でしょうか。家庭についていえば、私が住んでいる家庭に、金銀財宝が天下をぎっしり埋めて余るほどあるとしても、そこに酔って生きるのではなく、それを忘れていつでもハナニムの愛に酔って生きられるそのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものはハナニムのものとして、そっくりつなぐことができなければなりません。
(35-280, 1970.10.25)
天宙主義とは、どのような主義でしょうか。真の父母主義です。結局、この二つの主義は父母の主義です。これは、我が家主義であり、我が国主義であり、皆さん個人の主義です。
(26-201, 1969.10.25)


 

第11章 家庭は永遠の幸福の土台

 

1) 家庭はなぜいいのか

家庭はなぜ良いのですか。家庭では、愛を互いに授けて受けることが自然にできる基盤になっていて、栄えることができるからです。
ですから、人は自分の故郷が懐かしく、父母と兄弟がいる所を恋しく思うのです。
(38-328, 1971.1.8)
家庭は良い所です。なぜ良いのでしょうか。お母さんとお父さんがいて良い所であり、お姉さんとお兄さんがいて良い所であり、弟と妹がいて良い所であり、親戚しんせきがいて良い所です。ですから、人間なら誰でも本郷の地、故郷に対して懐かしい郷愁の心情をもっているのです。国よりも故郷をもっと考えます。大韓民国に住みながらも、懐かしい所は故郷です。
(23-151, 1969.5.18)
皆さん! 家庭がなぜ良いのですか。それは、父母の愛を中心として自由活動の基地になるからです。同じように、ハナニムが自由に活動できなければなりません。どれほど見た目にはみすぼらしくても、光る愛の核をもった内的な人間が成し遂げた社会になれば、ハナニムは自由です。皆さん、そうではありませんか。ある家に客として行けば不自然でしょう。なぜですか。それは、愛の因縁がないからです。愛の因縁が四方性を備えられていないので、ぎごちないのです。ですから、私たちが行くべき道は、人格の道です。
(99-305, 1978.10.1)
一つの家庭を中心として、最も良いものは何かというとき、最も良いものは皆さん自身で決定することではないのです。
それでは、家庭の最上の価値とは何でしょうか。父母です。皆さん一個人を見ても、皆さんにとってあらゆる権力や知識、あるいは名誉やお金が貴重なものになるかもしれませんが、そのあらゆるものよりも大切なものは「父母」以外にはないのです。次には、皆さんの妻や夫であり、また次には、皆さんの子女でしょう。事実、皆さんの家庭において、皆さんの父母や妻、そして、子女たちよりもさらに大切にしているものがありますか。ないのです。
それでは、なぜ父母が良いのでしょうか。そして、また夫と妻、そして、子女がなぜ良いものになるのでしょうか。「愛」があるからです。父母の愛、これは子女にとって絶対に必要なものです。


そして、兄弟間の友愛などや、子女が父母に対してもつ孝行の心も、一つの家庭に絶対的に必要なのです。
(112-290, 1981.4.25)
皆さん、家で一番良い人は誰ですか。父母でしょう? なぜ父母が一番良いのですか。愛を中心として、一生涯関係を結べる最も近い立場にいるからです。その次は、愛する夫と妻になるでしょう。その夫と妻の愛は、ある条件的な愛ではなく、無条件的な愛です。この愛は、たとえ絶対的に天が下さった永遠の愛と密接に関係した愛ではなくとも、夫婦間の相対的関係において結ばれる愛になるならば、その愛が、その家庭に幸福と和睦わぼくをもたらす最も良いものではないだろうかというのです。
その次は、父母に対する子女の愛、父母のための子女の愛です。絶望ではなく、あすの望みとして芽生え得る理想的な環境を慕いながら、明るい肯定的な姿勢で子女が父母のために犠牲になり、愛することができれば、その子女の愛は、その家庭の幸福のための純粋で真実な価値としての愛となるでしょう。このように、父母のまことの愛と夫婦の真の愛、そして、子女の真の愛が完璧かんぺきに具備された家庭があるなら、その家庭は、私たち人間世界の中で、最も理想的な家庭だと言わざるを得ないでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-914)

 

2) 家庭は永遠なる幸福の基盤

人間の生活で、ある人を幸せな人だというとき、何を基準として幸福といいますか。外的にある能力、権勢、権威を備えたなら、幸福な人だということができますか。そういうことはあり得ません。また、何不自由のないお金があったとすれば幸福な人ですか。そうではありません。また、世界的な知識をもっていて、世界を思うがままにできる位置にいるとして、彼が幸福な人になることができますか。決してそれだけで人が幸福なのではありません。
(23-11, 1969.5.11)
ある人が、これくらいなら天上天下てんげにうらやましく思うものはないといって幸福をうたうとしても、そのような外的なものは幸福になり得ません。幸福を見いだす条件にはなり得ますが、幸福それ自体にはなり得ないのです。
それでは、何が決定すれば、幸福を感じることができるのでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これは、どこの誰も否定できません。ここにその一つだけでもなければ、そこに該当する比例的な悲しみを感じるのであり、比例的な不満がその胸の中に残らざるを得ないでしょう。
(21-140, 1968.11.17)
この地のすべての人間が、幸福の基盤は家庭だと一般的に感じています。家庭には父母がいなければなりません。世の中では、父母がいない子女は孤児と呼ばれ、その孤児はかわいそうな人として扱われます。家庭には、父母がいると同時に夫婦の因縁があります。父母がいないのもかわいそうなことですが、夫婦で片方がいないのもかわいそうなことです。


どんなにいとおしく暮らした夫婦でも、愛する配偶者を失うときは、この上なく悲惨で不幸になるのです。それだけでなく、夫婦が子女を身ごもることができなければ、それもやはり不幸でないわけがありません。
(23-11, 1969.5.11)
家庭には、必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。そのようにしてこそ、その家庭が幸福の土台となるのです。ハナニムが人類を探し求めてきた目的も、ハナニム御自身の幸福を模索するためだということは間違いありません。ですから、ハナニム御自身が幸福の土台を探し求めるには、人間から離れた場ではそのような理想はあり得ないというのです。人間と関係を結んでこそ、その一致点をもたらすことができるのです。
私たちが家庭において、情緒的なすべての内容を備えた立場で幸福を感じるのと同様に、ハナニムもやはりそのような立場で幸福を感じられるのです。
(32-197, 1970.7.15)
幸福はどこから来るのでしょうか。鼻歌を歌いながら迎えられる、そのような環境はどこから来るのでしょうか。家庭から来るのです。家庭の幸福は、情緒的に問題があれば成すことができません。また、心情、愛がなくても、成すことができないのです。
(23-120, 1969.5.18)
父母の前に子女がいないときには、その父母の幸福はあり得ません。子女に父母がいなくても、子女の喜びはないのです。あるいは、ある男性がいれば、相対となる女性がいなくてはならないでしょう。女性も同様です。ある夫婦がいれば、その夫婦の願いは、彼らの主体と対象の関係において、より高い次元で愛を維持することです。
そして、夫婦には、必ず子女がいなければなりません。そのようにしてこそ一つの家庭が築かれますが、上には父母がいて、下には子女がいなければならず、また夫婦がいなければなりません。このようにして、一つの家庭は、縦と横が一つにならなければならないのです。それでは、誰を中心として一つになるのでしょうか。
人間だけでは不可能です。人間だけでは、より高い価値を追求することができないので、絶対的な愛の主体がいるなら、父母は、その主体を中心として一つになることを願うでしょう。そこで、夫婦と子女が、その主体を中心として愛で一体となった場が幸福の場であり、望みの場となるでしょう。すべてのことを一つに帰結させ、より価値的で刺激的な面で統括させなければなりませんが、それは、私たち人間の愛だけではできないのであり、絶対的な立場でこそ可能なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-913)

 

3) 家庭は天国完成の基本単位

私たちの家庭と天国は、類型が同じです。私たちの家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。私たちの家は、愛で一つにすることができます。ここでは統一が成され、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから皆さんは、夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ、天国に行くことができる資格者となり得ます。祖父母は、父母に愛を相続してあげます。ここでどの愛を否定しても天国は成されません。


自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛し、自分のお母さんとお父さんを愛する以上におじいさんとおばあさんを愛さなければならないという結論です。これがすべての天国の核心となり、理想的モットーとなるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)
天国の起点は、個人でもなく国家でもありません。家庭なのです。ですから、イエス様は、新郎新婦の因縁を求めてこの地上に来られるのです。個人が天国の起点ですか。家庭が天国の起点だというのです。
(30-82, 1970.3.17)
家庭は天国完成の基本単位です。天国は、一度行ってみれば帰りたくないし、10回、100回会ってもまた会いたい、そのような方がいらっしゃる所です。万民共通にそこに行きたいと思い、その方に会いたいと思い、その方と共に暮らしたいと思えば世界は統一されるでしょう。
しかし、それは、一度に成されるのではありません。まず個人の基台が立ち、その次に家庭の基台が立ち、その次に民族、国家、世界に伸びていかなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-942)
天国はどこにあるのでしょうか。空中からどさっと落ちてくるのではなく、お父さんとお母さん、そして、子女の間に授受するその生活的な舞台を育て、また、その中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件に利用するおもしろみ、そのおもしろみを100パーセント享受し得る所が天国です。
(78-35, 1975.5.1)
皆さんの家庭は、天の国の主権に代わる立場であることを知らなければなりません。父母は主権に代わるものであり、子女は国民に代わるものであり、物質はその国の地に代わるものなので、父母に孝を尽くすことが、国に忠を尽くすことであり、父母に孝を尽すことが、聖人の道理を果たす道と通じるのです。今、家庭があらゆる醜態の起源になっていますが、ハナニムは、家庭が聖なる土台となることを望んでこられたのです。
(35-305, 1970.10.30)
人間たちは、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心として見れば、家庭には父母がいて、子女がいて、物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代においての縦的な歴史全体を、横的に展開させて身代わりできる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子女と彼らの所有物です。これらは、家庭の一つの囲いの中で必要なものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-943)


ハナニムの愛を中心として、二人が一つとなる所でのみ夫婦天国は成されます。一つとなったものを誰も引き離すことができず、別れたり離れたりする心配がありません。
皆さんは、どのような愛を求めましたか。ハナニムの愛を求めたなら、皆さんの心と体が完全に一つとなって、ハナニムの愛が臨むことができなければなりません。ですから、夫婦天国が生まれ、家庭天国を成さなければなりません。
お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し合うようになり、その息子、娘もお母さんとお父さんのような対象を得てこそ、家庭天国が実現されるのです。
父母がプラスとなり、息子、娘がマイナスとなれば、家庭天国となるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-943)

 

4) 愛の理想実現は家庭から

愛の理想実現は、どこからしなければなりませんか。私たち統一教会からですか。国からですか。世界からですか。世界をどれほど統一したとしても、自分の家庭を統一できない人は不幸な人です。愛の理想実現は家庭からしなければなりません。家庭は幸福の住みかです。ですから、天国は家庭から始まるのです。
この地上に天国を築こうとして来られたイエス様が、「私は新郎であり、あなたがたは新婦である」と語られたのも、家庭を標準として語られたのです。
家庭には誰がいますか。第1に父母がいて、第2には子女がいて、第3には夫婦がいて、その次には兄弟姉妹がいます。では家庭は何で絡み合っていますか。愛によって絡み合っています。ゆえに、家庭は何によって一つにできるのですか。
愛で一つになります。愛は変わらないので、祖父母の愛が一つになり、父母の愛が一つになり、夫婦の愛が一つになることができます。愛には統一性が介在しているので、一つになることができるのです。また愛には、人の生命の動機が共にあるので、おじいさんとおばあさんの生命が連結できるのです。そして、理想がここに連結できるのです。祖父母は、父母に相続してあげるのです。すなわち、子女に相続してあげるのです。
祖父母の子女は父母であり、父母の子女は私たちです。このように、愛を中心とした所が天国です。ここで何を否定しても天国は成されません。
ハナニムは、愛の主体であられ、過去、現在、未来を統合できるお方なので、自分たち夫婦同士が愛し合う以上にお母さんとお父さんを愛さなければならず、自分のお母さんとお父さんを愛する以上に、おばあさんとおじいさんを愛さなければなりません。
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。男性は主体なので、誰かの干渉を受けることを嫌います。女性は、愛するよりも愛されることを好みます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するので、男性と女性が一つになることは宇宙が一つになることです。


愛することによってのみ宇宙を主管できるので、愛することによってのみ宇宙の主体になれるのであり、自分の相対を宇宙よりも大きいと考えなければなりません。天と地、この二つの世界を連結できるのは変わらない愛です。
地上で愛によってはぐくまれた人生を生きた人は、天国に行くことができます。愛を中心とした世界が霊界なのです。
ハナニムと人間の個人個人が完全に一つになれば、自動的に男性と女性が一つになるようになり、完全な夫婦が生まれれば、天地は統一されるようになっています。
ハナニムは、どこにいることを願われるのかというと、愛は男性と女性の二人の中から生じるので、まことの男性と真の女性が愛し合う所にいることを願われるのです。ハナニムがいらっしゃるので、その愛が永遠であることができ、その愛が永遠の統一を成すことができ、その愛が永遠の生命をもつことができ、その愛が永遠の理想をもつことができます。ですから、その愛をつかむ者は、すべてのものを占領できます。真の愛を中心として成された家庭の目的は、家庭だけのためではなく、天国を築くためのものです。宇宙が一つになるための、このような目的に一致するための標準を中心として、家庭から民族、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。そして、世界まで行って再び帰ってこなければなりません。
(48-10, 1971.8.31)

 

5) 天国は家庭単位で入る所

天国とは何でしょうか。極楽または天堂に行くといいますが、自分一人で行く所ではありません。自分の父母と兄弟が一緒に行かなければならない所が天国です。
(15-278, 1965.10.30)
天国に行く秘訣ひけつは何でしょうか。天国は、個人だけが入るのではありません。家庭単位で入らなければなりません。家庭単位で入らなければならないだけではなく、血族を率いて入らなければなりません。この地上でハナニムの前に多くの血族をもったということは、福を受けたということです。
ある家庭に息子、娘が多く、財物が豊かなら、福を受けた家庭だというでしょう? このように福を受けて、天国に入ろうとすれば、個人が一人で行くのではなく、家庭単位で入らなければなりません。
(22-166, 1969.2.2)
天の国には、絶対に個人では入れません。先生が探ってみると、天国は、今までキリスト教徒たちが信じてきた妄想のような所ではありませんでした。
本来、天国は、家庭単位で行くようになっている所です。家庭が行くようになっているのです。家庭が行くのです。お父さんとお母さんと息子、娘が共に行き、ハナニムを中心として共に暮らせる所が理想的な世界なのです。ところで、お父さんは地獄に行き、お母さんは天国に行き、兄姉は地獄に行き、弟妹は天国に行く、そのようになれば、自分は天国に行ったとしても、うれしいでしょうか。天国は家庭で行くのです。家庭が行くのです。
(22-271, 1969.5.4)


天国とは、人間が堕落せずにこの地上でハナニムの愛の懐において聖婚し、ハナニムが好まれる息子、娘、ハナニムが喜び得る孫たちを迎え、ハナニムの愛を受けてその家庭がみんな一緒に入る所です。子女が入ることができなくても、自分だけ入れば天国ですか。
しかし、楽園は、いくら仲むつまじい夫婦や父母、子女でも、別れて入る所です。家庭とは何の関係もありません。そのような所が天堂ですか。父母に侍り、すべての家族が入り、ハナニムを中心として授受できるその世界が天国です。息子が地獄で死ぬと騒いでいるのに、父母は天国で満足に生きればよいのですか。そのような所が天国ですか。
(19-104, 1967.12.31)
統一教会でいう天国は、一人で入る天国ではなく、家族が一緒に入る天国です。ハナニムの創造理想を見るとき、男性と女性が別れて入る所が天国でしょうか。違います。二人で入る所が天国です。お父さんが入ればお母さんも入り、父母が入れば子女も一緒に行く所が天国だというのです。お父さんとお母さんが一緒に行ってこそ天国であり、お父さんは天国に行くのにお母さんが地獄に行けば、天国になるでしょうか。
(34-208, 1970.9.6)
本来、創造原則による天国は、家庭を中心として入る所です。父母が入り、子女が入り、自分の一家全体、一族が入ってこそ幸福なのであり、父母は地獄に行き、子女だけが天国に行くなら、それがどうして天国でしょうか。
ですから、統一教会がこれから天国に行ける道を立てるためには、家庭的な基準を立てなければなりません。そうでなくては天国に行くことができません。家庭を中心として、サタンが讒訴ざんそできる基準から脱しなければなりません。歴史的な讒訴基準、時代的な讒訴基準から脱しなければなりません。
(21-62, 1968.9.1)
本来ハナニムは、夫が天国に入り、妻が地獄に入るように創造なさったのではありません。創造当時の理想の主人公たち、すなわち、父母と息子と娘が宗族を成し、民族を成し、国を成そうというものでした。そうでなければならないのではないですか。ところが、人間が堕落したために地獄が生じたのです。
(16-33, 1965.12.26)

 

6) 天理法度は四位基台原則になっている

愛する人が死ぬと、なぜ悲しいのでしょうか。愛する人が死ぬと、それをすぐに感じますが、それは、この宇宙に満ちている超人的な力の作用によってです。
人は、自分にこの力が入ってくれば入ってくるほど、ハナニムとの縦的関係を中心として、宇宙的な力を感じるようになるのです。
しかし、愛する人が死ぬと、その力が自分から離れるようになります。そして、離れた結果をすぐに感じるようになるのです。これは悲痛なことです。自分が完全な合格品にならなければならないのに、それによって不合格品として決められるのです。


私たちの人生は、完成を追求します。ところが、それと反対の不合格の要素をもつときは、それに比例して宇宙の力がそれを追い出すのです。そのようになれば、それが苦痛として現れるのです。皆さんはこれを、はっきりと知らなければなりません。
(30-85, 1970.3.17)
愛する父母を失えば、言葉にできない悲痛さを感じてこそ孝子です。父母も、子女を失えば悲痛さを感じます。夫婦同士も同様です。私たちの子孫たちも同様です。これは千年、万年変わりません。
(30-82, 1970.3.17)
皆さんの夫や妻が死んでしまえば悲しむでしょう。なぜなら、宇宙の原則は、父母と夫婦と子女の3段階が一つとなって、ハナニムを中心とする四位よんい基台を形成するようになっています。この宇宙の原則によって、不合格者は合格圏内から追放されるので、苦痛と悲しみを感じるようになるのです。
(96-28, 1978.1.1)
皆さん、妻が死ねば、夫がなぜ涙を流すのでしょうか。第3目的である息子、娘を得る道がふさがれたからです。それを成すことができなければ、倒れるしかありません。死ぬしかありません。ですから、泣くしかないのです。
電気を見れば、陽(+)電気と陰(-)電気がありますが、この二つのうち一つがなくなれば、残りのものも何の作用もできないのです。人が行く道もそれと同様です。
(27-345, 1970.1.1)
自分の息子、娘がいなければ、不幸を感じるのです。「息子、娘がいなければ、夫婦だけで仲良く過ごせばよいだろう」と考えるかもしれませんが、そうではありません。
天理法度が四位基台原則になっているので、男性と女性が出会って一つとなったなら、必ず息子、娘を生んで四位基台を成さなければなりません。これが宇宙の公法です。四位基台を成すことができなければ、合格できないのです。また、息子だけいてもいけません。息子だけいれば、息子に対する愛の味は分かりますが、娘に対する愛の味は分からないからです。
皆さん、みつの味がどうだと誰かが説明して理解できますか。それは、説明だけでは駄目なのです。説明する前に、直接口を開けて食べさせてあげてから、これが蜜の味だと教えてあげなければならないのです。
それでは、息子がいなければなぜ寂しく不幸だというのでしょうか。娘だけをもった人は、息子をもった人を見れば、この世でそれ以上望むものはないといいます。西洋の人々は、そのような面で少し鈍いのです。彼らは、個人主義思想を強調して、そのような感情をすべて失ってしまったのです。失ってしまったために、再び探さなければなりません。ですから、今、それを再び探すために、東洋思想に帰ってくるようになるのです。
ですから、夫がいて、妻がいて、息子、娘がいる家庭にならなければならないというのです。そして、彼らが完全に一つとなって、初めから目的地点まで天運と歩調を合わせていけば、この家庭は永生するのであって、一人では永生できないのです。たとえ永生するとしても、永遠の世界で苦労というふろしきを包んで行き来するようになります。幸福という要件を受けることができません。
(24-223, 1969.8.17)


 

7) 家庭を通して人間が行くべき天道

人間は、自分の父母を愛するように隣村の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように隣村のおじいさんを愛さなければならず、自分の息子、娘を愛するように隣村の息子、娘を愛さなければなりません。そのようにすれば、上下関係が広がり、左右が広がり、前後関係が広がるのです。それが繰り広げられ、この縦的な心情の基準が築かれて天道が生じるのです。ですから、それを実践しようというのです。
私たち統一教会は、それを実践するために理想的な家庭を建設するのです。そのようになるのです。
教会という所は、その縦的な基盤を横的に四方化させ得る所です。その数が多くなるほど良いのです。なぜ多いと良いのですか。家庭時代から宗族圏を越えて、宗族圏から民族圏を越えていくからです。ですから、伝道をたくさんするほど天的な基盤が自分を通して繰り広げられるので、ハナニムの前に人格的価値の基準が前進するのです。
ですから、私たちは、この縦的中心で何をしなければならないのですか。これを横的に再現させようというのです。
(70-152, 1974.2.9)
お父さんとお母さんが一つになる日には、その家庭は発展し、子女と父母が一つになる日には、より次元の高い家庭に発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚しんせき間において一つになる日には、どのようになるのでしょうか。そこには新しい民族の意気が高まることでしょう。
それがより高い次元に向かっていこうというときには、環境的にすべて結束し、国家基準まで忠臣の血族として残されるようになるということを忘れてはなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-921)
もう先生は、遠からずおじいさんになります。皆さんも年を取ると、おばあさんやおじいさんになります。同じです。息子、娘に生まれ、結婚してお母さんやお父さんになり、おばあさんやおじいさんになっていくのが一生です。ですから、おばあさんやおじいさん、次にお母さんやお父さん、その次に自分たち夫婦、その次に息子、娘、これが人生の公式的路程なので、それを愛さなければ天道に外れるのです。これを根本的に結んでおかなければ、世界を収拾する道がありません。
西洋に行ってみると、おばあさんやおじいさんがかわいそうです。彼らは東洋の風習がどれだけうらやましいか分かりません。「ああ! 東洋思想は、おばあさんやおじいさんたちにハナニムのように侍り、70、80歳の老人のすべての世話を息子がするのだから、それがどれだけ良いだろうか」とそのように思っているのです。ですから、おばあさんやおじいさんを愛することが分からない人は、ハナニムを愛することができないのです。


一番年を取ったおじいさんは誰でしょうか。そのお方はハナニムだというのです。おじいさんよりも、お年寄りの方がハナニムであり、赤ちゃんよりも若い方がハナニムなので、すべての人を愛さなければハナニムを愛することができないのです。
ですから、ハナニムが年を取っていらっしゃるとすれば、一番年を取っていらっしゃる方であり、未来に対する青春ならば、誰よりも青春です。その方を私が愛そうとするならば、その中にいるいかなる人類も私が愛さなければならず、歴史時代に霊界に行っている方たちも、今その圏内で希望を求めて生きようとしているので、その方たちまでも愛さなければなりません。それでこそハナニムにならって愛することのできる道に至るというのが理論的なのです。
(70-152, 1974.2.9)

 

8) 統一教会は家庭天国を築こうとするもの

私が今、教会を建てないのは、すべて考えがあってのことです。教会にたくさんの人が必要なのではないからです。天国は、教会から成されるのではなく、家庭から始まるのです。
家庭、すなわち新郎新婦から始まるのです。女性は男性に巡り合うために生まれ、男性は女性に巡り合うために生まれました。
赤ん坊が眠りから覚め、初めて目を開けながら呼ぶのが「お母さん」です。赤ん坊がお母さんを呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。このように呼んでみなかった人は、かわいそうな人です。
また、妻も夫以上にそのように呼ばなければなりません。互いにそのようにできる夫婦として接しなければならないのです。琴瑟之楽きんしつのらく(注:夫婦仲がとても良いこと)の夫婦として、互いにそのように呼び合いながら暮らさなければならないというのです。そのように千年、万年暮らせば、老いても青春がうらやましくないというのです。
(23-54, 1969.5.11)
男性と女性は、みことばの時代を経て、実体の時代を経たのちに初めて、主との出会いのひと日が成されるのです。そして、出会いのひと日が成されたのちに初めて、天国生活をすることができるのです。
出会いのひと日には、彼の心が私の心であり、彼の心情が私の心情であり、彼の姿が私の姿であり、彼の困難が私の困難であり、彼の傷が私の傷として感じることができる境地にまで入らなければなりません。そのような境地に入って、彼の心も私の心、彼の心情も私の心情となってこそ、天国家庭が成されるのです。これがこの地上で完結されてこそ、天国家庭が生まれるのです。
(19-250, 1968.1.15)
まことの愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は、互いが犠牲になるという伝統を備えなければ、長く持続することができずに壊れるのです。


父母が子女のために犠牲になるがゆえに、父母が子女を愛する因縁は壊れないのです。
そして、真なる父母の愛を受けて育った息子、娘なら、自分の父母に絶対に不孝をすることができないのです。
また、夫は妻に、妻は夫に対して、「あなたは私のために生きた」という立場で互いが与え合い、一層犠牲になる立場が広がるようになるとき、その家庭には福が訪ねてくるのです。そのような家庭が、ハナニムが訪ねてこられる福地なのです。
(43-308, 1971.5.2)
天国生活はどこから始まるのでしょうか。家庭からです。ほかの所から始まるのではありません。天国は、家庭を立体的に拡大させただけであり、家庭圏を外れたものではないのです。
ですから、皆さんが自分の妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つになるのだという考えをもたなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立て得る場が、正にこの家庭です。
(30-82, 1970.3.17)
今、先生は、家庭に対する規範、天国家庭としてもつべき生活に対する規範を教えてあげなければならないということを感じています。統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主とするのです。
(22-333, 1969.5.11)
これからは、統一教会で礼拝を捧げるのも、説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇り得るものでなければなりません。ですから、家庭全体が来て礼拝を捧げなければならないのです。
そうしながら、立派な家庭の報告はならい、遅れた家庭の報告は、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そして、家庭天国を建設しようというのです。家庭天国を先に成すことができなければ、地上天国は成せないことをはっきりと知らなければなりません。
(23-62, 1969.5.11)


 

第12章 真の家庭を求めて

 

1) 自己のために生じたものは一つもない

どこに個人主義がありますか。自分の中で、自分だけを主張する部分は一つもありません。
子女が父母の愛によって母親のおなかの中で、卵子から育って生まれるとき、99.999パーセントは母親の骨と血と肉です。そして、0.001パーセントの一つの父親の精子が合わさって生まれるのです。そこには自分という概念はあり得ません。誰でも生まれるとき、自分自身だけという概念はなかったのです。
いくら立派な人でも、自分一人で立派に生まれついたといえる人は一人もいません。骨も血も肉も、すべて母親のおなかの中で譲り受けたものです。この体の重要な部分は、母親の体の延長という事実を認めなければなりません。私たちの体のあらゆる要素は、卵子精子に含まれていたのです。例外はありません。ですから、個人主義というものが存在する根拠がないのです。
(287-25, 1997.8.10)
上という言葉が成り立つときは、下を認めた上で成り立つのです。上という言葉だけで個人主義が成り立つでしょうか。個人だけという概念はあり得ません。右というのは、左というものをあらかじめ前提とした上でいう言葉です。前後について見ても、前というのは後ろを認定していう言葉です。
男性という言葉も、男性一人を念頭に置いていう言葉ではありません。女性を前提条件にしていう言葉なのです。これは、誰か一個人の言葉ではなく、宇宙的な事実です。男性はなぜ生まれたのでしょうか。男性たちは、自分一人で生きていけるので、そのようなことに関心がないなどとよくいいますが、男性は女性のために生まれたのです。女性がいなければ、男性は必要ありません。絶対的に必要ないのです。結局、自分のために生まれたものは、一つもありません。
私たちの五官を見てください。自分の目が、自分の目を見るために生まれたのでしょうか。鼻や耳、口、手もすべて相対のために生まれました。五官を総動員して、集中させ得るその力が何かといえばまことの愛です。目、鼻、耳、口、手は、真の愛のために生まれた真の愛の道具です。自分のために生まれたものは一つもありません。
反面、人のものを自分のものにする人を泥棒といいます。人のものをもってきて、自分のものとして使う人は泥棒ではないでしょうか。ですから、女性のために生まれた男性の五官と体を、自分勝手に使う人は泥棒なのです。


男性と女性は、何が互いに異なるのでしょうか。生殖器を含んだ体が異なります。それでは、男性の生殖器は、誰にとって絶対に必要なのでしょうか。男性の生殖器は女性のためにあるのです。人間の生殖器の一つは凹であり、一つは凸ですが、なぜそのようになったのでしょうか。二つとも、とがらせるとか、二つとも平たくすることができるのに、なぜそのように異なって生まれたのでしょうか。すべて、相対のためです。
男性のものは、女性が絶対に願い、女性のものは、男性が絶対に願います。女性のものは、絶対に男性のものであり、男性のものは絶対に女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって、愛を完全に知るのです。二つが一つになるような経験を通してのみ、最高の境地の愛を知ることができるのです。どこの誰であれ、このような事実を絶対に否定することはできません。誰でもみな、認定しなければならないのです。
二つが完全に一つになるその場で、理想的な夫婦が生まれます。正にその場に絶対愛が存在するのです。絶対的に変わらないそのような愛の場に、ハナニムが臨在されるのです。
(287-27, 1997.8.10)

 

2) ハナニムが臨在できる至聖所

ハナニムの属性とは何ですか。ハナニムは、絶対的であり、唯一であられるお方であり、永遠不変なお方です。では愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく女性でもありません。そのお方が正にハナニムです。愛を中心として、愛を通してのみ、ハナニムと人間が一つになるのです。なぜなら、ハナニムでも人間でも愛が絶対に必要だからです。
ハナニムが必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。ハナニムは、絶対的な愛を願われます。皆さんはどうですか。私たちも同じです。ハナニムが絶対的な愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とするのです。みな、ハナニムに似なければなりません。
(279-246, 1996.9.15)
ハナニムの至聖所はどこでしょうか。愛が宿る堕落以前の男性と女性の性です。ここが天の至聖所です。
(134-185, 1985.4.7)
愛とは何でしょうか。愛とは、ハナニムが臨在できる至聖所です。愛を通して、堕落した世の中をきれいに掃除しなければなりません。堕落とは、人間が思春期を正しく送らなければならないのに、その時期を正しく過ごせず、脱線したことを意味するということをはっきりと知らなければなりません。人間始祖エバが、まず天使長と霊的に不倫の関係を結ぶことによって堕落し、それからエバがアダムと肉的な関係を結んで肉的に堕落したのです。