八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 2-6

八大教材教本 天聖経(2012年版)p531-570

【天啓の御言】(2-6)

 


ですから、彼らの罪の血統が後世の人間たちにまで遺伝してきているのです。
サタンの痕跡こんせきが残っている所には、ハナニムが絶対に臨在され得ないという事実を知らなければなりません。人間がハナニムの愛を受けるためには、死んでから再び生き返らなければなりません。
人間社会でも、2度目に結婚した時、前の夫が忘れられない妻を新しい夫が好きになれるはずがないではないですか。ですから、ハナニムも蕩減とうげん復帰を通して人間たちが罪を清算するようにさせながら、救援摂理をしてこられたのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-347)
愛の色は、どのような色だと思いますか。夜には黒く、昼には白く、夕方ごろならば黄色だと思いますか。愛の色は、どのような色だと思いますか。愛の中心の色には、平和と統一、そして人類の平等思想を成就できる力があります。
ですから、愛の至聖所にむやみに入っていこうとすれば焼け死んでしまうのです。統一教会の愛の理念は素晴らしいと思いませんか。
今日のアメリカ社会における愛の色は、一言で言えばおぞましい死の色です。男女間の愛を通して永遠なる創造理想の世界を築くのではなく、死のどん底に落ちています。祝福を受けるまで、男性と女性は愛の至聖所を貞潔に守らなければならず、一度愛すれば守り続けていかなければならないのに、アメリカ人たちは、愛の至聖所を侵犯する悪党たちであり、悪女たちなのです。
結婚を祝福として受け入れないアメリカの男性と女性は、愛の目が弱くなって、前を見ることができない患者たちばかりです。アメリカ社会がこのまま行けば、あすに対する希望もなく、絶望ばかりが満ちるのです。結局は、ハナニムの審判によってではなく、人間性を失った人間たちによって自滅してしまうのが火を見るよりも明らかなのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-347)
統一教会は、6000年間秘められてきた愛の摂理を知り、ハナニムの愛を中心にして創造理想の完成を成すために、祝福の足場を広げてきたのです。
祝福を通して愛の至聖所をつくってきたのです。ここから生命が新しく生まれ出ることを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-346)

 

3) 男性の主人は女性であり、女性の主人は男性

主体と対象、すなわち陽性と陰性が一つになるとき、何を中心として一つになるのでしょうか。キスをすることによってでしょうか。愛は概念であって実在ではありません。愛が定着し得る実在は何でしょうか。男性が男性になり、女性が女性になるようにするものとは何かを知らなかったというのです。
それがまさしく生殖器です。それを卑しく思う人がいますか。貴く思うとすれば、どのくらい貴く思うでしょうか。今までは、それが善くないものだと考えたとしても、今からは貴く思わなければなりません。未来の世界は、どのような世界でしょうか。生殖器を絶対的に貴く思う世界になるなら、その世界が善い世界でしょうか、悪い世界でしょうか。栄える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。


冗談で言っているのではありません。ハナニムが人間を創造なさる時、最も重要視して、精魂を込めてお造りになった所とはどこでしょうか。目ですか、鼻ですか、心臓ですか。そうでなければ頭脳でしょうか。これらはすべて死んでなくなってしまうのです。実際、そうではないでしょうか。
世界平和統一のための家庭連合の目的とは何でしょうか。道徳と宗教、すべての分野を完全に超越し、生殖器が一つとなってハナニムまでも拍手で歓迎し得る人が暮らす世界があるなら、どのような世の中になるでしょうか。
男性と女性が生まれるとき、彼らの生殖器の主人は誰なのでしょうか。夫の生殖器の主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。生殖器の主人が互いに取り替えられていることを知りませんでした。これは明快な真理です。これを否定できないというのです。千年、万年、歴史がいくら流れても、この真理は変わりません。あらゆる男性たちは、それが自分のものだと考え、またあらゆる女性たちも、それが自分たちの所有だと考えたために、世の中がこのように滅びつつあるのです。
互いが主人を間違えているという話です。すべての人々は、「愛は絶対的であり、永遠なるものだ」と言いながら夢のようなものだと考えていますが、その永遠の愛の主人がひっくり返っているということをはっきりと知るなら、世の中がこれほどまでにはならなかったはずです。博士や学者は数多くいますが、これ一つ考え抜いた人がいないのです。
さあ、皆さんはこの真理を否定できますか。皆さんの父母、祖父母、そう祖父母、そして、人類の先祖たるお方と、さらには宇宙の根本であられるハナニムに尋ねても、すべてこれに同意するようになっているのです。これは鉄則です。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残る鉄則です。
そして、ハナニムの前に出ていけば、この鉄則によって、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは当然です。
アダムとエバの堕落も、知ってみれば正にこの鉄則に背いたところに由来しているのです。アダムとエバは、自分たちの生殖器が自分たちの所有だと錯覚したのです。問題を誤り、宇宙のどこからも公認を受けられなくなったので、追放されてしまったのです。鉱物界や植物界や動物界の雄と雌も、すべて愛の相対のために自分の生殖器を保管していることを、アダムとエバは知らなかったのです。
(279-244, 1996.9.15)
それでは、生殖器は何のために存在するのでしょうか。それは愛のためです。愛を探すためにそのように男性と女性として生まれたというのです。
すべての男性と女性が、自分たちに所属した生殖器が、実は自分のものではなく、主人が自分の相対だということを認定するようになれば、私たちはみな、頭を下げて謙虚な姿勢で愛を受け入れるようになるでしょう。


愛は、相対なしには来ないのです。相対から来るということを知らなければなりません。「ため」に生きないところには、愛はあり得ないのです。
絶対に「ため」に生きるところにおいて絶対愛を見いだすことができる、ということを肝に銘じなければなりません。
(279-259, 1996.9.15)

 

4) 愛には発展も革命もない

愛には発展もなく、どのような革命もあり得ません。愛は、原型そのままで完全なものであり、不変で永遠で絶対的なものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-351)
愛は発展もなく革命もないのです。愛が永遠で完全だということは、永久不変の真理です。
ですから、愛が発展すると考えて試験してみようと思えば、それは間違った考えです。愛を生活の手段として考えるアメリカは、そのような意味から滅亡するしかないのです。
ハナニムは、そのようなアメリカの未来を祝福してくださるはずがなく、アメリカ自らが滅びなければ、先生が愛の爆弾を爆発させてでも滅ぼすのです。はっきりしていることは、愛が生活の一つの方便や手段に利用されては絶対にいけないということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-351)
夫は妻に対して、初めて愛した姿から、どのような革命や発展も望みません。それは、女性が夫に対して願う望みでもあるのです。
初めて愛を出発させたその純粋な姿を保つように願うのは、夫や妻、みんなの願いなのです。純粋な愛に、ある色が加味されることを願わず、革命を必要としないのです。純粋な愛そのものが永遠に保存されることを願うというのです。
愛する人の間に、なぜ離婚という問題が生じるのでしょうか。離婚した人や、離婚をしようとする人たちすべてが、最初は生死を懸けた愛の関係だったことを考えてみると、何かが間違っているのです。離婚するようになった理由はいろいろありますが、結局、何かが変わってしまい、二人の間が変化したことを意味するのです。結局、彼らは、愛を守り、育てることができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体は変わらなかったのですが、人の心が変わったのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-352)
ある男性と女性が夫婦となれば、「あなたと私」の間に不変的な統一をどのようにして築くかが重要です。そのように一つになった立場で幸福をうたうようになるとき、それは、永遠の幸福といえるのです。
理想的な愛情も、やはり変化しない主体的な何かをもっている所にだけ、そのような基準が設定されるのです。
結婚するときは、その男性が美男子だといって愛していたのに、1週間過ぎたのちに事故が起こり、体が不自由になった場合、離婚しようとなってはまことの愛とはいえません。偽物の愛です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-352)


今日、先進国家の白人たちは、世界を主導して動かす高い地位にあり、黒人たちは、大部分が被支配者として低い地位にあります。しかし、父母が子女を愛する場合は、その濃度において白人と黒人の差はないのです。誰かが誰かの支配を受けることはありません。またそれは、永遠に変わることがありません。父母が子女を愛する心、妻が夫を愛する心、夫が妻を愛する心、まことに愛し合う人たち同士の愛する心は、歴史がいくら変動し、発展し、革命の過程を経ていったとしても変わり得ないのです。
(32-243, 1970.7.19)

 

5) 女性は貞節、男性は志操

皆さんは今、思いのままに愛することができるようになっていますか、なっていませんか。道で男性から、ふいに声をかけられて、ついて行くようになっていますか、なっていませんか。なっていません。皆さんは、ついていくようになっているでしょう。そのような素質をもっていてはいけません。
皆さんは時が来るまで、自分の体をよく守らなければなりません。純情を化け物のような男性にゆだねてはいけません。街頭で威張りちらして、ぶらぶらして役に立たずにいる男性たちは、すべて化け物たちです。自分の運命をそのような男性にゆだねますか。これは、簡単な問題ではありません。一生に一度しかないので、一歩踏み違えた場合には、自分の人生が狂ってくるのです。
そうでしょう? これは、男性もそうだというのです。ですから、今までは、女性に貞操を守りなさいといいましたが、これからは、男性も貞節を守らなければなりません。そのようにしてこそ復帰されるのではないですか。いくら世の中が悪く、いくら世の中が薄情でも、皆さんは、行くべき正道から外れる行動をしてはいけません。
(26-160, 1969.10.25)
青春時代に純情を失ってしまったアダムとエバの恨みを踏み越えて、蕩減とうげんできる貴い時期である思春期に、純情を汚してはならないのです。その純情をきれいに貴く保存して、「千年、万年一人で行っても、愛が蹂躙じゅうりんされることは絶対にあってはならない」という志操と決意をもたなければならないのです。
(37-107, 1970.12.22)
ある男性たちは、自分の妻がいても、きれいな女性を見れば、自分の妻だったらよいのにと思うのです。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒の心をもった人」と言います。
二つの心から始まったものがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いありません。そのような人々がいるならば、その人はサタンにほかなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-350)
男性も貞節を守らなければならない時が来るのです。男性が貞節を守れなければ、その一門がみ旨の前に重罪を犯すようになるのです。大臣でも、浮気をしてもよいようになってはいないのです。男性が間違えれば、その一門は滅びるのです。そのような時が来るのです。「統一思想」を知るようになれば、そのようなことはできません。
(38-280, 1971.1.8)


これからは、男性も貞節を守らなければならない時代です。男性も貞節を守り、歴史的な純潔の伝統を残さなければなりません。イエス様の血と肉を食べる儀式は、イエス様の純潔なる血と肉の伝統を立てるためのものです。
(13-67, 1963.10.17)
「女性は貞節、男性は志操(度胸)」という言葉があります。この言葉はどのような言葉かといえば、み旨(愛)を成就するための貞節であり、目的を果たすための志操なのです。ですから、女性は貞節というので、一つの愛のほかは知ってはならず、男性は志操というので、一つの目的だけのために精進しなければなりません。
アダムとエバを中心にして見るとき、自分が行く道を知り、志操と貞節を守らなければならなかったのに、守ることができなかったので堕落したのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-351)
男性は、ハナニムの愛を中心として女性を愛するときに、「完全に愛した。初めから終わりまで永遠に変わらず愛した」と言える立場に立たなければなりません。また女性は、そのような立場に立つために、自分の身を固く封じなければなりません。数多くの花びらが幾重にも重なり合っている芍薬しゃくやくの花のように、固く埋めておかなければなりません。そして、春という天地の調和に合わせ、そこに和合して新しい人生を出発しなければなりません。これを正しくしなければなりません。
(26-156, 1969.10.25)

 

6) 堕落はフリーセックスの根であり個人主義の祖先

ハナニムは、エデンの園にアダムとエバを創造されながら、彼らに生殖器をもつことを共に許されましたが、何のためにそのようにされたのでしょうか。彼らが成長すれば、ハナニムが彼らを結婚させてくださるでしょうか、させてくださらないでしょうか。
問題は、彼らの堕落にあります。堕落ゆえに血統が変わったのです。ですから、ハナニムは、彼らをエデンの園から追い出されたのです。
本来、ハナニムの体となるべきアダムと、ハナニムの夫人格に立つべきエバが堕落することにより、ハナニム御自身の体と理想を病気にかからせて怨讐おんしゅうになったので、それを御覧になったハナニムの御心情がどれほど大変だったでしょうか。
堕落は、自らを埋葬する墓です。人のものを奪い取っていく行動です。言い換えれば、堕落は、フリーセックスの根になり、個人主義の先祖になりました。
今日、アメリカはどのような国ですか。極度の個人主義、度を越えた私生活の追求、フリーセックスまでもが蔓延まんえんしています。このようなことをハナニムが好まれると思いますか。極度の個人主義を追求すればどのようになるでしょうか。彼らの言うとおりにすれば、天と地、世界、国家、社会、家庭、そのうえ、おじいさんやおばあさんまでもすべてをほうり投げてしまい、父母と兄弟までも失ったまま、ジプシーやヒッピーになり、好きなようにさすらいながら、雨が降り雪が降れば、行く所がないので、自殺して一生を終えようという話ではありませんか。


しかし、人間の本心は、極度の個人主義やあきれるほどの私生活の保障を願っていません。宇宙と国家、町と村、そして、父母の愛を受けながら暮らしたいというのが私たちの本心の願いなのです。
しかし、そのようにすることができずに反対の道を行くので、良心に火がついて本心との葛藤かっとうを感じるようになり、いっそのこと薬でも飲んで自殺するほうがましだと判断し、自ら首を締める現象がだんだんと増えつつあるのです。「いたとおりに刈り入れる」という真理が正しいことを目撃するのです。アダムとエバエデンの園に、どのような種を蒔いたのでしょうか。フリーセックスの種、すなわち、節制のない性関係の種を蒔きました。それを否定できますか。そのようにしたために、彼らは下半身を覆ったのです。
幼子たちも、父母が隠しておいた大切なお菓子を盗み食いして、見つかれば手や口を隠すのが本性の作用ではないでしょうか。もし、善悪の実を取って食べたなら、その取って食べた手や口を覆うべきなのに、なぜ下半身を覆ったのかというのです。堕落は淫乱いんらんによって引き起こされたということを否定できません。
それでは、どこで天国と地獄が分かれるのか調べてみましょう。空中ですか。どこでしょうか。正に皆さんの生殖器です! 深刻なことです。これが天地をひっくり返しました。
誰がこれを否定できますか。レバレンド・ムーンが発表した「原理」の本の堕落論に説明されています。疑問に思うならばハナニムに尋ねてごらんなさい。皆さんには夢にも想像できない内容と理論をもって体系立てておいたレバレンド・ムーンの「原理」の本に、誰も反対することはできないのです。生殖器を、目がつぶれた盲人のように、方向を失ったまま使用すれば地獄行きであり、反対にこれをハナニムの絶対愛に基準を合わせて使えば、天国の高い所に行くのです。これは明白な結論です。
(297-254, 1996.9.15)
ですから、アブソルートセックス(絶対純潔)はハナニムを中心としたものであり、フリーセックスは自分とサタンを中心としたものです。歴史的に政治家や経済人たちは、文学作品やメディアを通してフリーセックスを刺激することが多くありました。ですから、今から私たちは、政治家や経済人、文人、作家と言論人たちと一つになり、先頭に立ってフリーセックスを防がなければなりません。フリーセックスは、完全になくならなければなりません。
(287-29, 1997.8.10)

 

7) 絶対純潔と真の家庭運動を通した平和世界実現

今、青少年の問題が深刻な問題です。
エデンの園でアダムとエバが、青少年期に日陰において淫乱により堕落して、フリーセックスの種をいたので、刈り入れの時期である「終りの日」には、必ず青少年たちのフリーセックスの風潮が世界的に蔓延まんえんする現象が現れるのです。
ハナニムは、「終りの日」にサタンが何を願うかを御存じなのです。サタンは、フリーセックスを通して、ただの一人もハナニムの前に帰ることができないように、言い換えれば、全人類を完全に駄目にしてしまい、地上地獄をつくろうとするのです。


今日、私たちが生きているこの世界が、地上地獄となっていく世界でなくて何でしょうか。
したがって、このように地上地獄になったこの世界と180度異なる、正反対の道を求めていけば、天国に行く道があるのです。再臨主が来られて、この世の中を救ってくださるにおいても、正にこのような180度反対の道を教えて天国に導いてくださるようになるのです。
それでは、フリーセックスの道と180度異なった正反対の道とは、どのような道でしょうか。偽りの父母が現れてつくっておいた道がフリーセックスの道なので、まことの父母が現れて、この間違った道を正してあげなければならないのです。
ハナニムは、それに干渉なさることはできません。この地の主権や軍事力、経済力、政治力でも手をつけることのできない問題です。偽りの父母によって引き起こされたことなので、真の父母がメスをもって手術しなければ、決して人類は救われる道がないのです。罪を犯した者がその罪を蕩減とうげんしなければならないのです。
間違った結婚で家庭を築くことによって血統が180度ねじれてしまったので、真の父母が来られて正しく結婚させてあげ、180度原状に戻すことによって、天国に行く道を開いてくださるようになるのです。
(279-256, 1996.9.15)
人間の堕落が愛によって起こったので、人類は真の愛を失ってしまいました。
ですから、この真の愛をどのようにして取り戻すのかという問題が提起されるのです。真の愛を失ってしまったというのは、淫乱によって堕落したという意味です。すなわち、生殖器を中心として過ったので、これを取り戻そうとすれば、その反対に正しく使わなければならないのです。そのように過った愛がエデンの園でなされ、「終りの日」にその結果として現れる現象が青少年問題です。それで性の混乱時代が来るのです。
それを清算するためには、絶対純潔でなければ駄目なのです。このアブソルートセックスの概念だけが家庭崩壊を防止し、青少年の淪落りんらくを防ぐことができるのです。
(287-16, 1997.8.10)
ハナニムがアダムとエバに期待したものとは何だったのでしょうか。絶対純潔愛を期待したのです。アブソルートセックスが存在する所には、絶対純潔夫婦が誕生するようになり、自動的にフリーセックス、ホモ、レズビアンという言葉は消えるようになるのです。
このような絶対純潔愛を探す運動を世界的に広げるために、レバレンド・ムーンは一生を捧げて受難の道を克服してきましたし、今は勝利のファンファーレを響かせ、世界に号令をかけることができる時が来たので、天の前に感謝をするのです。
世界平和に向かっていける礎石を置くのも家庭であり、世界平和への道を破壊することができるのも家庭です。人類の希望と幸福の土台が破壊された所がアダム家庭でした。したがって、きょうこのように世界平和統一家庭連合を創設し、皆さんの家庭も、今からはサタン世界と180度異なる方向に行ける道を開くようになったことを、天の前に感謝せざるを得ません。この道でなくては、自由も幸福も理想もありません。


皆さんは今、絶対純潔生殖器、唯一生殖器、不変生殖器、永遠生殖器を中心として、これを基盤にしてハナニムを求めていかれるようお願いします。この器官が愛の基盤、生命の基盤、血統の基盤、良心の基盤にならなければならず、ここから真の家庭が真の国家と真の世界に連結することによって、平和世界、理想世界が形成されるでしょう。
どこに行かれても、テレビやその他、言論機関を通してレバレンド・ムーンの話を伝えてみてください。そのようにすれば絶対に滅びません。
地獄になったこの世界を、果たしてどのような力で変えることができるでしょうか。ハナニムの愛、すなわち絶対、唯一、不変、永遠の基準に立って生きていかなければ不可能なのです。私たちの生殖器の本来の主人は、ハナニムであられます。
(279-257, 1996.9.15)


 

第5巻 地上生活と霊界

 

第1章 有形・無形世界における人間の存在

1) 人生路程

 

① 人生路程についての祈祷文

(祈り)愛するお父様! 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今まで闘ってきた私を守ってくださったお父様の恩賜おんしに感謝申し上げます。
この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がないことを思うとき、その立場を無限に恋しく思わなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事をみな放棄しても未練の残らない立場にあるということを、私たちは知らなければなりません。今、私たちは、お父様の愛で暮らす理想世界、本郷を訪ねていかなければなりません。第3の生の自由の権限をもち得る解放児として出生しゅっしょうするその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。
赤ん坊が胎中にいるとき健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、ということを知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせることができる立場に立つためには、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中であるために、死を覚悟しなければいけないという事実を、私たちは知らなければなりません。私たちの子孫たちは私たちと同じ立場に立てられては絶対いけない、ということを悟らなければなりません。
(49-308, 1971.10.17)
(祈り)愛するお父様、今まで春の環境を開拓するために、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思うとき、私たちはお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかったことを嘆息し得る息子、娘にならなければなりません。私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化できる因縁をもって、そこに完全に吸収されなければならないということを知らなければなりません。
そうしてこそ、初めて春を迎え、花を咲かせることができるという事実を知らなければなりません。「一生で、どのひと時に春を迎えたことがあるのか」と聞かれるとき、いつだと答えられない、春を迎えられずに逝ったかわいそうな霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶためには、夏と秋を経なければならないように、私たちも一つの実を結ぶためには、そのような過程を経なければならないのでございます。


一つの生命が投入され、実が結ばれるまでには、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力をもって第2の生を出発できるという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれる生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量れる息子、娘にならなければなりません。
いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再びかれ得る、第2の生命の母体である種になることを知るのでございます。
同様に、私たちの外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約できる母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人であるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないということを思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨になるほど、内的な価値はより充実することが保障されるという事実を、私たちが知るようにお許しくださることを切にお願い申しあげます。
(32-37, 1970.6.14)
(祈り)お父様! お父様に侍り、謙遜けんそんに敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶことはできない、ということを知らなければなりません。今、私たちが、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくるあなたの音声を聞き、失った自分の体を探すことができ、お父様が私一人を探すために、私の背後において艱難かんなんと苦労の歴史過程を経てきたことを感じて、自ら頭を下げ得る私たちになるようにお許しください。
(4-280, 1958.9.14)

 

② 人が願う目的

ハナニムには体がありません。それで、すべての万物をハナニムの体として、アダムをハナニムの顔として表したのです。それが創造理想です。
ハナニムは本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が90度をつくるのです。それがハナニムの創造目的であり、人が願う目的です。アダム、エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れることができるのに、堕落したためにそうできないのです。堕落しなかったなら、自分の父母にハナニムのように侍れば、誰でもみな天国に行くようになるのです。
(119-109, 1982.7.4)

 

③ 生まれた理由

今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、みなそのようになっています。それゆえ、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に関連性を結んでいます。


では、なぜ自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれました。それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てるというのです。
(104-122, 1979.4.22)
愛で生まれ、愛で育って、愛で生きて、愛で死ぬようになるときは、生まれるのも有り難いことであり、生きるのも有り難いことであり、死ぬのも有り難いことです。皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたというのです。同参者だということです。皆さんは、父母の愛から生まれたために、父母の愛が差してある旗だと思いなさい。それゆえ、旗が動くのは愛を表示するためなのです。一生の間、愛のために生きるのです。それで、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげるのです。
(103-258, 1979.2.25)

 

④ 瞬間(1日)と一生の関係

皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成することができません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、ハナニムの王座と王冠を受け継ぐこともできません。それゆえ、瞬間を輝かせるために、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考えることも注意すべきです。自分の生活で繰り広げられるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決できる所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
このように、勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせ得る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人になることができるのです。聖人にもなることができ、ハナニムの息子、娘にもなることができるのです。このように、生死の分岐点は瞬間にかかっています。
(31-218, 1970.5.31)
今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来ることを願い、そのみ旨が成されることを願うのも必要でしょうが、それより、自体がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。
1時間なら1時間を、どのようにすればみ旨と一つになるかということが、み旨の国が成されるのを願うことより重要だということです。それゆえ、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、宗族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶことができるために、ハナニムを中心として、1日の生活圏内で、1時間なら1時間をどのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。


復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭まで、4000年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある1年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダム、エバが堕落したのも、1年や10年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたということを考えるときに、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知ることができます。
その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人たちが、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減とうげんの祭物の起源になったというのです。このような事実を考えるとき、1時間、カチッ、カチッという瞬間が恐ろしいのです。それゆえ、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに、一瞬でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。
それゆえ、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、10代に行けなければ20代に行き、20代に行けなければ30代に行き、30代に行けなければ40代に行き、40代に行けなければ50代に行きと、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていくなら、その人は、一生の間、み旨と一つになった1日の生活をもってみることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたなら、その人は天国に行けません。
いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、1日の勝利基準をもてなければ天国に行くことができず、1年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入ることができないのです。それゆえ、信仰者は永遠を夢見ていくことも重要でしょうが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算して善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が億千万年のハンを残してきたのです。アダム家庭で、カインとアベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
120年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、ハナニムが「願いを成就する日が来たので、船に乗れ!」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠のハナニムの祝福を受けることができましたが、そうできなかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたというのです。


アブラハムも同様です。ハナニムが「あなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。・・・もろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:17、18)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッ、カチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった1日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、1時間未満でしたが、ここで歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてくるのです。
今日、信仰者たちが恐れるべきことは、「終りの日」に訪ねてくる審判ではなく、1日1日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と交差路を形成していくかという問題です。
(37-219, 1970.12.27)

 

⑤ 幼児期と3段階秩序

アダム、エバをハナニムが造ったのなら、それをどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム、エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。赤ん坊から造りました。ハナニムが、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、そのような過程を経て造ったという論理を立てなくては、このすべての3段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム、エバに幼児期があったというのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。
幼児期とは、どのような期間だったのでしょうか。無形のハナニムが、無形の世界から有形の過程を経てくることができる、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
(225-198, 1992.1.20)

 

⑥ 我々の人生の道

我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、すべての苦衷くちゅうが生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。100人なら100人、各々自分なりの1日の生活を営むために環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。
それゆえ、朝に計画した1日の仕事に対して誰も自信をもつことができないということを、我々は1日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の1日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような1日1日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって1年になります。
そのひと月も、我々が計画したとおりに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての与件を打破することができる推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終えることができないのです。


1年を押し進めるためには、365日を克服することができる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、1年を勝利で飾ることはできません。このような1年に10年が加わって、20年、あるいは30年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。
(31-30, 1970.4.12)
今日、この地に暮らしている人間たちは、時間性を外れることができません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、宗族、民族、国家、世界もそのような時間圏内で動いていっています。
人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、10年、20年、30年、70年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達することはできません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕りょうがし得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成することはできないのです。
(31-149, 1970.5.24)

 

⑦ 我々が訪ねるべき本郷

皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生はハナニムの特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。
その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、ハナニムの天地原則の世界である「ため」に生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。
そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入ることができないために、ハナニムは、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。
それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異なることによって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入ることができる資格者を錬磨させる訓練場です。東西、四方の文化背景によって、高い所に前進することができる一つの統一された宗教世界を率いてきています。
そのような本郷の所へ導くべき宗教なので、宗教は何を教えているのでしょうか。「ため」に生きなさいということを教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「ため」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜けんそんであれ」と言うのです。数多くの人を高め、彼らのために生きる立場に立てというのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。なぜでしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。
(78-117, 1975.5.6)


 

⑧ 人生最高の行くべき道

人生の行くべき道とはどのようなものでしょうか。ハナニムの愛を占領することが、人生の行くべき道です。ハナニムの愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も女性もみな行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。
人生の行くべき道は、無限であられる愛のハナニムを探すことです。10回でも100回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、ハナニムの愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。
欲望の終わりとはどこでしょうか。ハナニムの愛を占領する所です。ハナニムを占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領できなければ、ハナニムは自分のハナニムではありません。それゆえ、ハナニムの愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、ハナニムはいらっしゃらなくても大丈夫なのです。ハナニムのものが私のものであり、私のものがハナニムのものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。
そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身のために存在しないものがないと感じるのです。そのようなものがハナニムの愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。
(39-210, 1971.1.10)

 

⑨ 出生の基準と生涯の基準

イ) 誤った出生の基準
今日、世の中の人は、自分自身が高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生しゅっしょうが間違ったということを知りません。ハナニムの怨讐おんしゅうであるサタンの愛と、生命と、血筋をもって生まれたということを知らないというのです。重要な問題です。
堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたというのです。そのような3種類の結実が、正に自分です。
ですから皆さんは、サタンの血統に属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのです。したがって、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、ハナニムは、そのような男女を本然の純粋な完成人間に救おうとされるのです。皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統をもって生まれたのです。
それゆえ、出発が誤ってしまいました。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰ってまことの父母として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、ハナニムの愛と、ハナニムの生命と、ハナニムの血筋を再び引き継がなければなりません。


それで、出発するとき、血統転換式をします。それを、自分の生命よりも信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射と同じです。解毒注射です。
我々の先祖が過ったのです。これのために、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対行けないのです。
堕落天地に不倫の愛を残すことによって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったというのです。
(216-109, 1991.3.9)

 

ロ) 生涯の基準
ここで、生涯とは、永遠の生涯をいいます。霊界のことだけを言っているのではありません。それは生きている永遠の人生です。
「私」という存在は、ハナニムの愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的なハナニムの対象が、正に私です。ハナニムの愛の相対が私だというのです。ハナニムが自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。ハナニムは、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そしてハナニムの理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が私です。
愛の属性は、主体と対象が一つになることです。それは、国家を一つにします。それゆえ、どんな場でも同参することができ、どこにでもついていくことができます。全財産を、みな相続することができます。ハナニムの心情までも、みな相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見することによって、その基盤の上に立つようになりました。これは何ものとも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜おんしです。
それゆえ、ハナニムと同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世は、制限された地球ぼしとは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界であるために、何でもできる所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、みな得ることができるのです。
我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である私は、永遠の生命体なのです。ですから、霊界に行けば自由なのです。それで、生涯の基準として、第1が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第1であり、第2が本然の出発点であり、3番目は永生です。
(216-115, 1991.3.9)

 

2) 人間の位格

 

① ハナニムが人間を創造した目的

ハナニムは、人間をなぜ造ったのでしょうか。第1は、ハナニム自身が父母の立場に立つためです。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母になるためには、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。


2番目は何かというと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をすることができないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して360度の球体になってこそ、多くの空間が生じるようになります。
3番目は、愛の相対圏の永遠性を維持するためです。ハナニムの相対になるのは、アダムとエバだけではないということです。アダム、エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つようになるのです。ですから、ハナニムの相対の位置を永続的に保存するため、人間を創造したのです。
アダムもエバもハナニムをお父さんと呼びます。では、その子女たちはハナニムを、おじさんと呼びますか、おじいさんと呼びますか。お父さんと呼びます。相対というのは、平等なものです。ハナニムの愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。
そこには、三つの理由があります。1番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父のような顔で、霊的にその形態を得るということです。
2番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。
生産工場が自動化され明確に大量生産するようになれば、天国はいっぱいになるのです。ですから、女性は多くの赤ん坊を生むようになっています。
(222-338, 1991.11.7)

 

② 人間は、霊界と肉界の媒介体

本来、ハナニムの創造過程を考えてみれば、ハナニムは万物を造って、人間を造ったのです。ハナニムを中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、ハナニムと人間と万物が平衡的な立場で統一することを願われました。これがハナニムの創造のみ旨です。ハナニムがいて、この被造世界があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間であるために、人間は霊界と肉界を接触させることができる媒介体なのです。
(67-143, 1973.6.1)

 

③ 体と心、そして霊人体

今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受けすれば、回るようになるのと同じことです。
すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。


人間において、体の中心とは何でしょうか。心です。心を中心として、体がつながっているために、体は心を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手にできません。
(136-14, 1985.12.20)
人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上にハナニムがいらっしゃいます。それゆえ人間は、ハナニムと完全に一つになってこそ、完全な人になるのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来のすべての因縁に代わる存在であるために、天宙的な価値をもっています。
(4-268, 1958.8.3)
人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくにおいて、自分の心を前にして、それに侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天が打ちます。今まで天は、歴史路程で人間に良心のとおりに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。
では、人間の良心は、天倫に100パーセント似たのでしょうか。そのようになっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわるようになるというのです。これがキリスト教でいわれる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとしてもつかむことのできない時代ということです。
今日、我々は、物質を多くもっていてもいけません。なぜなら、ハナニムが人を造るとき、体と霊人体を造りましたが、霊が中心だからです。
(4-269, 1958.8.3)

 

④ 完全作動と共鳴

共鳴とは、振動するときの周波数が同じことをいいます。人間は、永遠に生きることができる我々の内的人と、地上天国に暮らすことができる外的人が、愛を中心として共鳴することができなければなりません。共鳴するときは、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。
同様です。霊人体と肉身がハナニムの愛を中心として調和するようになるときは、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。それゆえ、目が完全作動するときは、天上天下てんげ、地上天下がみな見えるのです。完全作動をするためです。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、100パーセント響き渡ります。同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、ハナニムがすることなく、みな共鳴するようになるのです。
(171-103, 1987.12.13)
人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男性もそうであり、女性もそうです。男性も女性も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば4人だと言うことができます。分けておけば4人ですが、これがどのように一つになるのでしょうか。ハナニムは、なぜこのように4人に造られたのでしょうか。ハナニムのまことの愛を中心としては、完全に一つになるのです。真の愛で完全に一つになるのです。


皆さんには、霊的人、統一教会でいう霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。では、霊人体と肉身はいつ一つになるのでしょうか。これが問題です。これは、音叉おんさと同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じように共鳴するのと同じ道理で、ハナニムの愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するということです。
それゆえ、体と心を100パーセント共鳴させ得る圏内に追い込むことができるのは、ハナニムの知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛だけです。皆さんの目や鼻のような肉的五官が、霊的な五官と願う一つの焦点、理想的標準点とは何でしょうか。ハナニムの力でもなく、知恵でもありません。愛がすべてのものの焦点、標準点です。
(138-254, 1986.1.24)

 

3) 人間の生命の本質

 

① 霊的なものが人間の本質

ある一つの核心があれば、それを中心として回る相対的な存在が必ずあります。陽子を中心として電子が回っているのと同じように、ハナニムと人間との関係もこれと同じです。電子のような我々人間の心が、陽子のようなハナニムの心の核心と関係を結んで作用しているため、ハナニムが人間に対して復帰摂理をなさることができるのです。
我々が真理のみことばを探せば、ハナニムの生命が躍動すること、ハナニムの愛が和動するのを感じることができます。このように、真理の道を経て、ハナニムの生命と愛を探していくのが、価値あることです。パウロが言ったのと同様に、世の中の光になることができる自分になったのも、中にあるハナニムの愛のためです。
真理は、永遠不変です。では、我々はこの悪なる世の中で、どのように善悪を分別しながら真理を探していくべきなのでしょうか。自分を中心とした心を捨てて、いつも低い位置に下りなければなりません。聖書でも、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:12)と言いました。人間の本質は、霊的なものです。それゆえ、あの世に行けば、そのような人間の本質が人のためになるようになっていることを、もっと実感するようになるでしょう。ところが人間は、どうして自分だけのためにという心で万事に臨んでいるのでしょうか。これは、すべての人間が、天倫に背いた天使、言い換えれば、サタンと血統的な因縁をもっているためです。
(2-137, 1957.3.17)
今、我々は、霊的な御飯を食べなければなりません。皆さんは、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがおいしくなければならないでしょうか。自分が生き残ってハナニムの側に立つためには、霊的な御飯の味が、肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として暮らす生活の味が、肉的な力をもって暮らす生活の味よりも、もっとおいしくなければならないのです。
(131-211, 1984.5.4)


 

② 万物の霊長という意味

万物の霊長という言葉は、何を意味しているのでしょうか。万物の霊長とは誰でしょうか。「人だ」と言っていますが、万物の根本となった霊長はハナニムです。皆さんは、霊があるということが分かるでしょう。人間には、霊があります。人間は、その霊の中の長であるために、結局ハナニムと直結させて霊長だと言うのです。
万物の霊長だというのは、人間自体だけではなり得ません。人間も被造物なのに、どのように万物の霊長になるかということです。被造物とは、相対的な結果体です。被造物だけでは、原因に通じることができず、原因を占領することができないのです。被造物は、原因に占領されるようになっています。
皆さんは、結果的存在であることは間違いありません。霊長と言えば、霊の中で中心だという言葉です。この言葉は、本来、ハナニムと人間が一つになった関係についていう言葉です。
それゆえ、霊長は、ハナニムと通じるのです。しかし、人間が万物の霊長だといって、すべてが霊長ではありません。霊長になり得る人は、別にいます。その霊長になり得るクラブに加入できる資格者は、少なくとも個人のために生きる人ではありません。全体のために生きる人です。ハナニムは、そのような人を中心として願いを成そうとされるのです。そうなれば、誰の天国になるのでしょうか。ハナニムの天国ではなく、その人の天国になるのです。
(32-136, 1970.7.5)
人は、どのようにすべきでしょうか。永生しなければなりません。悪なる世の中で、80年ほど暮らしますが、ありが死ぬことも人が死ぬことも、違いはないと考えるかもしれませんが、それは違います。人は霊長なので違います。万物の霊長になり得るのは、何のためでしょうか。年を取らない心のためにそうだというのです。万物は、みな変わり得ます。純金も変わります。風化作用により、減少します。しかし、心だけはそうではありません。変わらないということにおいて、最高の権威をもっています。
(159-278, 1968.5.19)
「万物の霊長だ」ということは、何を中心として言うのでしょうか。お金を中心として、知識を中心として、権力を中心として言う言葉ではありません。それは、ハナニムの最高の愛を中心として言うことです。
(210-309, 1990.12.27)

 

③ 内の人と外の人

人間の本然の因縁とは何でしょうか。ハナニムの絶対的な愛の圏内で、互いに完成した愛を楽しむことができ、褒めたたえることと尊敬の価値を現すことが、本然の因縁です。そうする中で、天の因縁と地の因縁が、すっかり和合して、一つに調和して現れたのが人間です。それゆえ、見えない心があり、見える体があるのです。本来の因縁をもって生まれたなら、体と心が分かれて一つになるというのです。


皆さんも、内の人と外の人が互いに闘っています。この闘いは、いつ終わるでしょうか。10年ほど過ぎれば終わるでしょうか、死んでも終わらないのでしょうか。ハナニムが人間をそのように造ったなら、そのハナニムは一つの目的をもったハナニムではなく、二つの目的をもったハナニムです。そのようなハナニムは、混沌こんとんとしたハナニムだというのです。宇宙のすべての法則は、前後左右が行き違いなく秩序整然と一つのはっきりとした目的があります。これを見るとき、人は本来、このように創造されたのではないのです。それで、体をほうり投げて、本然の心を探さなければなりません。
(44-194, 1971.5.7)
我々人間の肉身と霊人体の中で、より重要なものとは何でしょうか。肉でなく霊なのです。肉は70、80年の時間圏、限界圏内で生きては去ってしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間圏まで超越する権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟って、責任を果たすことが人間の本義です。
皆さんがいくら肉身を中心として豊かに暮らしても、結局は死ぬようになるのです。いずれ肉身は死ぬようになっているのです。そのようになっているのです。では、霊的な基準と肉的な基準のうちで、どちらがより重要なものでしょうか。我々は、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくのと同じ立場にすがってはいけません。
皆さんは、肉を救ったという立場で、霊肉が合わさった実体を備えて、より甲斐かいのある立場から出発しなければなりません。
(20-326, 1968.7.14)

 

④ 地上生活の目的は霊肉完成

み旨の目的とは何でしょうか。人間の霊肉を完成させることです。自分自身を中心として見るとき、過去は霊的であり、現在は肉的だということです。二つの世界が侵犯を受けました。現在の立場がサタン世界だから、サタン世界にった肉になるべきであり、過去のサタン世界に勝った、霊的基盤を築かなければならないのです。過去と現在に勝利すれば、霊肉をもつことができる基準が、未来に対する祝福に広がるのです。
(73-96, 1974.8.4)
我々が知るべきことは、霊界が主体ではなく、肉界が主体だということです。完成させるのには、霊界が主体でなく、肉界が主体です。肉界の完成は、霊界と肉界の完成なのです。ですから、肉身生活が貴いというのです。
(91-178, 1977.2.6)

 

4) 肉身生活の高貴性

 

① 肉身生活は霊界生活のための準備

ハナニムが、万物と人間を造られ、良しとされたのは、互いに闘うなということです。体を打って心の前に屈服させることが、宗教の教えです。悪から善に越えられなければいけません。自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全にその根を抜いて征服したということです。天国へは、サタンを征服してこそ行くことができます。サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。なぜなら、肉身が地で事故を起こしたので、直すのも肉身を使って、地で直さなければならないのです。地上ですべきことをみなできなければ、永遠に地獄に行きます。それゆえ、地で勝利して天の側の善なる立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。
(65-294, 1973.2)


この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間が惜しいというのです。そうなると御飯を歩きながら食べ、寝るのも歩きながら寝て、遊ぶのも歩きながら遊ぶのです。そうであるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。
(80-226, 1975.10.23)
私がたとえ制限されたこの地で80年くらいはいるといっても、我々の舞台は世界の祭壇です。それゆえ、ここにある万物は、世界の万物であり、自分の体は、世界人類の体であり、自分の心は、世界人類の心です。そのような心情は、ハナニムと一つになっています。これが全部一つの祭壇です。
(75-166, 1975.1.2)
偶然に物事が起きるのではありません。準備というものは、たやすいものではありません。それゆえ、一生について見るときに、少年時代は青年時代のための準備期間です。壮年時代は、老年時代のために準備しているのであり、老年時代は、霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙の人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間です。準備期間だというのです。
(147-188, 1986.9.21)
我々は、この世に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界があります。世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界につながるべきです。では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべき所とはどこでしょうか。もちろん、我々は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人たちは、世の中に生まれ、青春時代を過ぎて、壮年時代を過ぎて、老年時代を経て、沈む日のように人生を終えます。
しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生というものがしばらくの間であり、死んだ次に迎えるべき世界が永遠だということを知り、準備するのです。ゆえに、一生は、永遠の世界に入るための準備する期間です。
学生を例に挙げて言えば、1学年に取るべき、学校で制定する単位の基準があるのです。その基準にどれくらい到達したかの比較基準によって、学校で認められる学生になるのです。しかし、単位に達しなければ、学校が立てた価値基準から遠ざかるのです。それゆえ、ある標準を中心として、すべてを測定するようになります。


我々が肉身世界で暮らすのは、まるで学校で定めた単位基準に合わせようとして準備する期間と同じです。我々は、一生の間に積むべき実績を追求しているというのです。言い換えれば、責任を追及するある基準の前に、どれほど一致するかという、その基準値を中心として生涯路程を行っているのです。
(140-121, 1986.2.9)
皆さんは、すべてを自分のために消化してはいけません。ハナニムのために消化し、自分の国と自分の宗族と、自分の家庭と、自分の相対のために消化するということを考えるべきであって、自分のためにしてはいけないのです。一生の間、自分を中心として暮らせば、全部が心配です。しかしながら、「ため」に暮らすようになれば、すべてが自分の友達になるのです。絶えず「ため」に生きれば、自分は真空状態になるために、まことが訪ねて入ってきます。
(203-101, 1990.6.17)
我々統一教会の誇りとは何でしょうか。第1が真の愛であり、第2が真の父母です。これは、統一教会にだけある言葉です。辞書にもありません。第3が真の子女であり、第4が真の宗族です。これが我々の四大目標です。
(203-103, 1990.6.17)

 

② 肉身生活の貴重性

自分が解放されれば、ハナニムが解放されます。家庭が解放されれば、天国の家庭がそうなり、この地上がそうなら、天国がそうなるのです。それゆえ、聖書に、「あなたが地上でつなぐことは天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)とあるのです。このような二重構造の一体性で解明されます。
皆さんは、肉身を使ったこの期間が、どれほど貴いかを知るべきです。ハナニムも復活させることができ、宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させることができるのは、肉身を使っているこの期間しかありません。ハナニムと万物を合わせても、この肉身世界と換えることができません。なぜでしょうか。ハナニムとこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ、完成されないからです。人間の体がどれほど貴いかを知るべきです。我々の肉身は、宇宙とも換えることができません。聖書の、「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)という言葉も、それで成立するのです。
(91-191, 1977.2.13)
肉身生活は80年ほどしかありません。80年ほどにしかならない短い生涯路程で、歴史的に絡んだすべての善の圏を収拾しなければならないのです。この短い肉身生活に因縁を結ぶべき善の圏が膨大だということを知るこの心、良心は、どれほどせきたてるでしょうか。死ねばできないのです。生きている間に本郷の地を訪ねて、祖国光復(祖国の主権回復)をすべきです。そのようにして天の主権者に侍り、その国で生きていってこそ、天上天国に行くのです。
(155-27, 1964.10.6)
霊界、無限の世界は永遠です。そのような世界に行くためには自分自体をどのように収拾すべきでしょうか。そのようなことを考えてみましたか。肉身生活をする間に収拾しなければなりません。これを正すことができるのは、この時しかないのです。それを正すのは、絶対自分のためにしては正す方法はありません。自分のためにして正す方法があるなら、統一教会ムン先生が、今まで絶対に苦労しなかったのです。
(59-50, 1972.7.2)


統一教会が提示する原理の道は、千年、万年過ぎても行かなければなりません。生きている間に行けなければ、永遠の霊界に行ってからでも行かなければなりません。
(135-297, 1985.12.15)

 

③ 習慣性が重要である

今日、我々はサタン世界の習慣を捨てて、ハナニムの新しい秩序を確立しようというのです。
(213-19, 1991.1.13)
習慣性を打破するということは、とても大変です。その言葉は、今まで皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性をもって生きてきましたが、その習慣性が固着しているということです。そのように固着してしまったその習慣性は、韓国人たちがキムチ、味噌みそ고추장コチュジャン(唐辛子味噌)を食べる習慣性よりももっとひどいのです。
これは歴史性をもっているのです。悪魔が出発したその日から、根が刺さった習慣性をもっていますが、これをどのように抜いてしまいますか。穴を掘って根まで埋めようとしても、埋められないのです。深刻な問題です。天国に行くには、ハナニムを中心とした習慣性をもたなければなりません。
(213-20, 1991.1.13)

 

④ 肉身生活の標準

先生の生活は、ハナニムのために生きる生活です。この世界のために生きる生活です。自分のために生きるという考えをしてはいけません。それで皆さんは、ハナニムとまことの父母と人類のためにしなければなりません。ハナニムと真の父母と人類を結ぶためには、自分を中心として四位よんい基台をつくるためには、真の愛がなければなりません。ハナニムも真の愛を願い、真の父母も真の愛を願い、人類も真の愛を願います。真の愛を中心として、真なるこの宇宙を相続することができる人にならなければなりません。これをいつでも考えなければなりません。
それゆえ、今まで皆さんがどれほど天が願う生活と一致したかということを、比較しなければなりません。そして、人類を代表した自分になるべきです。父母を代表した自分になり、ハナニムを代表した自分になるべきです。そのように生きた人は、霊界に行っても、地上のどこへ行っても、境界線がないのです。
自分が千人の友達と共に食物を食べたい場合、そのような環境も、愛を通じた世界でだけ可能なのです。ハナニムが創造主の能力を行使するとき、その愛を中心として造ったのです。霊界の世界では、真の愛がつながれば、すべてを調節することができ、すべてを創造することができます。それが我々の理想郷です。真の愛と関係を結ばなければ、みな不可能なことなのです。
(147-115, 1986.8.31)


 

⑤ 肉身を使って記録される

皆さんの生涯の中で、もし3分の2以上が口で言えない悲惨な生活をしたとするなら、その3分の2の生活をすべて取り除いてしまうことができますか。取り除くことができません。必ずついて回るのです。
(34-139, 1970.8.30)
蕩減とうげん、なぜ必要ですか。復帰するためです。復帰とは、再創造でもあります。それゆえ、皆さんは価値のある生涯を残さなければなりません。ある人は、「ああ、年を取ったらイエス様を信じて、死んだら天国に行こう」と、このように言っています。しかし、年を取れば、何かを正すことは難しいのです。
それゆえ、若い人でなければならないのです。それで、20歳に入ってくるより、15歳に入ってくるのが良く、15歳のときよりも、赤ん坊のときから知って大きくなったというのが、もっと価値があるのです。
皆さんの中に、水がいっぱいになっていれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂粒が混じっているし、小石が混じっています。大雨が過ぎたのちに、川辺にありとあらゆる汚いものが引っ掛かっているのと同じで、皆さんの中にもありとあらゆる汚いものが混じっているのです。ですから、振り回して、みな排泄はいせつしなければなりません。濾過ろか装置を経なければならないのです。したがって自分があってはいけないのです。自分があれば、引っ掛かります。水自体に砂粒のように汚い塊が混じっていれば、流れることもできず、引っ掛かるようになっています。
霊界に行くようになれば、そのような装置、レントゲン写真のようなものに照らされるだろうと考えてみませんでしたか。ハナニムも、そのような濾過装置を経た人たちを必要とします。
(97-60, 1978.2.26)

 

⑥ 地での暮らしがとても重要である

皆さんは、霊界に行って、保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。
皆さんの家庭の基準がみな違います。それで、行くのにも、みな自分のレベルに合う所に行って、長い間とどまるのです。そうすると、皆さんの先祖たちが、息子、娘たちが、「なぜそうしたの? なぜ、そのようにうまくできなかったの? それは何?」と言いながら讒訴ざんそします。皆さんは、そこに該当するほどの長い時間、そこにとどまらなければなりません。そのように易しいことではありません。それで、地上ですべきなのです。先生が「しなさい」と言うことをみなしなければなりません。
ボルトがあれば、これに合うナットを作って、はめなければなりません。ナットが合ってこそ、はまるのです。分かりますか。それが合わなければいけません。
この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかありません。地上生活を永生に例えれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。肉身生活を越えて、霊界のために準備をしなければならないのです。


いつもそのような主流思想をもって、センターに立って一切を調節し、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、個性完成をなすことができません。
(207-99, 1990.11.1)

 

⑦ 肉身を使って責任分担遂行

皆さんは暮らしながら、ハナニムを思い、真の父母を思わなければいけません。そうすることで、愛によって心身が円満で、安定した、満足な圏内に暮らすようになるのです。
そのような生活をした人は、霊界に行けば、そのままになるのです。地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されるのです。愛が内面化されているために、ハナニムと人類が一つの体の細胞と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、ハナニムが間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。「ハナニム!」と呼べば、自分の心の中で、「誰が私を呼ぶのか。何だ?」と言うのです。すなわち、ハナニムと共に暮らしていく世界です。
責任分担はそれほど重要なのです。それで先生が責任分担という原則を立てたのです。皆さんが毎朝鏡を見るとき、男性として女性として、責任分担をどのように果たすかを考えなければなりません。それは深刻な問題です。五官が、責任分担を完成した愛に酔っていると思うのです。感覚のすべては、愛の実体圏に立つためのものです。
(218-128, 1991.7.14)
責任分担を遂行するには、皆さんはどのようにしなければならないでしょうか。責任分担を果たすことができる人になるためには、どのようにすべきでしょうか。サタンの情、サタンの血筋を受けて、生まれたすべてを否定する立場に立たなければなりません。
(139-251, 1986.1.31)
人間が霊界に行けば、どのようになるでしょうか。ハナニムの体になります。アダムは、ハナニムの体になるのです。ヨハネ福音書とコリント人への第1の手紙に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊みたまが自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記録されているのと同様に、ハナニムが臨在し得る聖殿、家です。
では、ハナニムとどのように似るのでしょうか。責任分担完成段階に至って、ハナニムが臨んで一体化がなされるのです。
(130-22, 1983.12.11)

 

5) 祝福と永生

 

① 永生問題を知るべき理由

なぜ今、世の中の家庭が壊れていっているのでしょうか。また、お母さん、お父さん、子女が、怨讐おんしゅうになるのでしょうか。まことの愛がないためです。一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。間違いなく永生するということを知るようになれば、他の人が「罪を犯せ」と言っても犯さないのです。「自分のために生きろ」と言っても生きません。これを知らなければ、既成教会を信じても、何かの宗教を信じても、絶対に天国に行けません。ハナニムの理想世界に行けないのです。真の愛、生命を投入せずには、駄目なのです。
(205-261, 1990.9.9)


我々の教会が原理で武装しておけば、永生問題が確実になります。この永生問題とつながらなければ、社会革命も不可能です。現在の立場で暮らしていることよりも、もっと疲弊して没落した環境に陥るなら、誰もがその場に行かないのです。しかし、永生問題、永遠の命の問題となると、環境的与件をすべて克服することができるのです。宗教は、それで偉大なのです。永生問題が懸かっているのです。永生の概念だけしっかりと立てておけばできます。今まで宗教は、習慣性で結ばれた文化背景を消化できませんでした。越えられませんでした。なぜそうでしたか。永生という概念をつくっておけなかったからです。
キリスト教は、環境が変われば変わるほど、なぜ揺らぐのでしょうか。永生という概念がないからです。永生問題に自信がないのです。生命を差し出して、環境を越えていくことができるかという問題について見るとき、皆そこに所属して、四方を見回しながら現在の生活に落ちていっているのです。
その人たちに永生の概念を入れなけば、途中で落ちるのです。では、永生の概念を入れるのは何でしょうか。愛です。これは、統一教会だけが完全に入れることができるのです。
信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。このような信念さえもつようになれば、それはほうっておいてもいいのです。人は、40を超え、50を超え、死ぬ日が近づくと、永生問題に対して深刻になるのです。年を取るほどに、だんだん深刻になるのです。
思想というものは、年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れれば、年を取るほど、だんだん深刻になるのです。それゆえ、宗教理念だけが、これから世界を料理することができるのです。環境が頻繁に変わっても、悲喜劇がぶつかってこようとも、永生の概念さえ徹底すれば問題にならないのです。それゆえ、問題は、永生という概念をどのように入れるかということです。ハナニムは、アダム、エバを愛の対象として造りました。それは間違いありません。そのために、愛の対象となって生きるべきなのです。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また、体恤たいじゅつしなければなりません。
真の愛の力が偉大だということを知れば、「行くな」と言っても、行くようになっています。それゆえ、永生の概念だけ入れれば、みな終わるのです。これを入れるにも、理論的に一致し得るとき、心にどかんと響き、体まで一番近いレベルで一つになり得るのです。そのような時が青少年期だというのです。
そして、15歳以前は、堕落前の本性基準を100パーセント活用し得る時です。15歳以前は、アダムとエバが堕落する以前なので、本性基準が生きているのです。それゆえ、青少年の時に、ハナニムを知らなければなりません。ハナニムを知ることによって、自分とハナニムとの不可分の関係を知るのです。その関係が不可分だということを分からせるためには、永生概念を入れなければならないのです。


これさえ入れれば、我々統一教会の二世たちに、「他の道を行け」と言っても行きません。それゆえ、世の中を早く救い、すべて天国に連れていかなければなりません。それが自分の所有になるのです。その持っていったすべてで、あの世での等級が決定されるのです。ですから天国は、今、完全に空いています。
(230-22, 1992.4.15)

 

② 永生の道

イ) 一生と永生問題
皆さんは、どれくらい生きそうですか。全員「70年、80年は生きるだろう」と、このように考えているでしょう。その前には死ぬと思いません。皆さんは、欲張りです。一生を生きるのに、80歳に死ぬとか、100歳に死ぬだろうと信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。皆さんの考えには、「ああ、私は若いので、今後少なくとも40年、50年は生きる」と、そのような欲をみなもっているでしょう。それがハナニムに保障されましたか。
皆さんは、できるだけ1年以内に死ぬものと思いなさいというのです。この短い時間にみな準備すべきです。このような観念をもって生きなければなりません。できるだけ短く定めるほど、幸福です。短く定めるほど、損をしないのです。その期間にまことになるように、準備するその内容が、自分の永遠の生命の家を建てるのです。
では、その短い期間に、ハナニムを愛してみましたか。ハナニムと一つになって愛したいのに、愛することができないのです。ハナニムは、「愛せよ」と言われるのです。そのように生きて死ねば、それが永遠の生命の主体になるのです。
皆さんが、2年後に死ぬと思うならば、どれほど深刻ですか。共同墓地にも、葬式をする所にも行ってみるのです。これは、信仰生活に絶対必要です。それゆえ、「生きよう」と言う人たちは死ぬのであり、「死のう」と言う人は生きるのです。原理が適用されるのです。その短い期間にみ旨のため死のうと、天のため死のうと思えば、永遠に生きるのです。
同様な道理です。独身のときに死ぬと思って、愛する妻を迎えるようになれば、どれほど有り難く思うでしょうか。結婚できずに死んだ男が、復活して結婚することができる日をもつようになれば、どれほど喜ぶでしょうか。皆さんは何歳まで生きて死にますか。ハナニムの命令によって、すぐに死ぬ立場に進むならどうしますか。天が自分を褒めることができる何かを残すべきです。そうなれば寝る時間が惜しく、食べる時間が惜しく思われます。心配しようにも、心配する間がないのです。一生と永遠の問題で、一生を短く定めるほど価値ある人生を送れるのです。個人を愛し、家庭を愛し、氏族を愛することとは何でしょうか。全人類を愛するための教材なのです。彼らを愛するのは、全体を愛するための教材なのです。そして、時間と空間を超越したあの世へ行って、すべての人を愛するための教材だというのです。
(102-122, 1978.11.27)


ロ) 人間は永遠の生命を追求する
永遠の生命の世界を追求するのが、信仰生活です。永遠なハナニムの愛を追求するのが、信仰です。永遠の生命とともに永遠の愛と一致するために、ハナニムの喜びを自分の喜びとして感じられる決着点を探していくのが、信仰の道です。それゆえ、信仰生活をする我々の個体が、どれほど前進的愛と生命力をもって生きるかというのが、何よりも重要な問題です。
我々が五官を通じて感じる感覚の一切が、生命、愛とどの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれほど価値をもっているかという問題が左右されるのです。
それゆえ我々は、我々自身が生命力と加重された愛の心で社会生活をしてきたかという問題を考えなければなりません。もし、そのような立場に立っていられないならば、それは停止したり、でなければ後退するのです。
(32-19, 1970.6.14)

 

ハ) 永生と宗教
人は永生するのです。宗教は、今まで地球ぼしでなくならず、文化背景と風習が異なるすべての環境を経てきながら、世界的な版図を拡大させてきました。それは、人の一生が問題ではなく、永生すべきだからです。
人が生きるには、宇宙と共に生活しなければなりません。一生は100年くらいの短い生涯ですが、生涯の限界でそのままなくなるのではありません。その限界線を克服すれば、限界としていた地球村を越え、超越した場で生存を続けることができるのです。
それゆえ、厳然と永生しますが、そうでないとしても今まで苦痛の中でうめいて生きてきた人類に同情し、助けるためには、仮想的な永生論であっても主張すべきであり、仮想的な神を中心とした理想国家形態を何としても推理しなければならないのです。そのような面でも、宗教が必要なのです。それで、皆さんの永生問題とともに、ハナニムの問題まで解決しなければなりません。このような諸般の問題がつながっているのです。
(162-264, 1987.4.17)

 

ニ) 永生しなければならない理由
ハナニムは、人をどのような存在として造ったのでしょうか。ハナニムの絶対唯一の価値になり得る、愛の対象者として造りました。これは驚くべき事実です。このごろ、一人の人間の生命の価値がどれほどになりますか。いくらにもなりません。本来、そのような無価値な人間ではありませんでした。宇宙とも換えることができない高貴な価値がありました。
今日、すべての文学世界について見ても、その骨子は愛です。人は、愛から出て、愛で生きて、死にます。しかし、そのままなくなるのではありません。主体であられるハナニムが、永遠、不変、唯一なので、その前に対象の愛の立場に立つようになるときは、永生するのです。永生という理論が、ここから出発するのです。生命から始まるのではありません。
(142-143, 1986.3.8)


真なる人とは、どのような人でしょうか。ハナニムと内外で一つの体になって、子女の立場で完全に愛される人が、真なる人です。そのような人が暮らしていく生活を、真の人生の道だというのです。人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、ハナニムは自分のものです。また、自分は、ハナニムのものです。そのようになれば、自分はハナニムの息子になり、ハナニム自身にもなるので、宇宙も私のものになるのです。
ハナニムが一番愛して、貴く考える物があるなら、それを1日、あるいは10年や100年ぐらい共に過ごしたのちに、ほうり投げるように造りましたか、永遠に共にいるように造りましたか。永遠に共にいるように造りました。永遠に共にいるように造られたのです。人も同じです。
人は永生しなければなりません。なぜでしょうか。絶対者のハナニムが、絶対的な愛を中心として、喜ぶことができる対象だからです。1日や2日、あるいは10年、100年喜んで、投げてしまうなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。愛する妻が死んだので、その妻のハンカチを持って独身で生きた人もいるではないですか。インドのネルーのような方は、自分の妻が若くして死にましたが、その妻がバラを好んだといって、一生の間バラの花を身に着けて歩きながら暮らしたといいます。
それならハナニムが、一人しかいないこの上なく貴い息子、娘を造るとき、100年ぐらい生きたのちに滅びるように造られたのでしょうか。違います。それゆえ、人は永生するのが原則です。永生するには、より強い力が排出され得る作用の基盤の上に立たなければなりません。それゆえ、愛の力は、時が過ぎれば過ぎるほど、授け受けすれば授け受けするほど、消耗するのではなく、もっと強くなり、もっと大きくなるのです。そこでは、うれしかったらうれしいものとして終わるのではなく、その喜びが拡張して、無限の喜びとして発展し得るのです。そのような世界が、我々が理想とする国であり、ハナニムがいらっしゃる天国です。
では皆さんは、永生を願いますか、願いませんか。漠然とですが、永生を願っています。自分に貴いものがあれば、避難する時それを持っていきますか、持っていきませんか。持っていきます。それを誇りたいと思いますか、誇りたいと思わないですか。誇りたいと思います。では、それを1日、2日誇ってやめますか。やめません。自分が死ぬようになれば、それを自分の後代に永遠に残したいと思うのです。それは、ハナニムも同様です。ハナニムが永生される絶対者なら、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで人々は、昔から永生するのを願うのです。それゆえ、絶対者であるハナニムは、永生の価値をもった愛する息子、娘を探さざるを得ないのです。
(39-342, 1971.1.16)


我々人間は、ハナニムが造られた傑作品として、ハナニムに似ました。ハナニムが永遠であられるので、我々も永遠の性稟せいひんをもたなければならないために、我々の心は老けないのです。
それゆえ、人は永生しなければなりません。永生してこそ、その傑作品の存在価値をもつことができるのです。
それで万物の霊長なのです。ここで、霊が出てくるのです。人は、永生しなければなりません。ですから、我々が80年ほど生きて、死ねば終わりだとは考えられません。
(159-281, 1968.5.19)

 

ホ) 永生のための人生
人は誰でも、各自自分なりに生活しています。「生活」するとは、1日1日暮らすことを言い、「生涯」は、一生の人生、一生を生きることを言います。さらには、宗教をもった人たちは、永生という言葉を使っています。永生というものは、一生ではなく、永遠の人生を生きることです。
生涯路程を永生にどのようにつなげるかということが重要ですが、それをすべきなのが、生涯の責任です。また、一生ということは、1日1日の生活をつなげてこそ決定されるのです。皆さんの一生というものは、日々がつながったものです。
生涯の価値的な内容は、どこから決定されるのでしょうか。生涯をみな生きて、決定されるのではありません。1日1日の暮らしの日々が、決定するようになっています。それゆえ、正しく暮らさなければならないのです。
では、いったい、正しく暮らすこととはどういうことでしょうか。正しく暮らすのは、生涯のすべての路程を代表し得る日々を、意味深く送る生活です。きょうを正しく暮らしたというのは、自分の一生で誇らしくあり得る記憶の日です。「正しく暮らす」ようになれば、生涯路程において、必ず一番価値があるように暮らす日でしょう。価値があるように暮らした日があれば、生涯の中でその日は、忘れられない日になるでしょう。
(197-186, 1990.1.14)

 

ヘ) 永生論理とは
ハナニムは、知恵深いお方です。もし、ハナニムが愛の理念を立てなかったら、ハナニムは孤独単身です。喜怒哀楽を感じることができないハナニムだというのです。絶対的なこの愛を失われたハナニムは、歴史始まって以来、誰も体験することができない、深刻で、あきれるほど、絶対的に悲惨な立場に立ったのです。誰も永遠に慰められないのです。本然の願いだった息子、娘を犠牲にして、ご自身が夢見た希望の理想形態を再現させたことで満足するのではなく、それを抱いて、千里、万里移動しながら、もっと輝くように装って、もっと美しく表示することができなければならないのです。万宇宙をそのように造ったのです。
(204-101, 1990.7.1)
大気が100パーセント絶対低気圧圏になれば、高気圧圏が自動的に生じ、循環運動が起こるのです。ハナニムは、知恵の王です。そのように自動的循環原理を通じて、永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるのです。投入して、投入して、また投入するところから、永生の論理が繰り広げられるのです。「ため」にするところは滅びません。
(204-107, 1990.7.1)


ハナニムが絶対的な愛のパートナーを求めるとすると、それは間違いなく人間です。それゆえ、「万物之衆マンムルチジュン 唯人最貴インチェ」(注:万物の中で人が最も貴いの意)という言葉が出てくるのです。これは創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーも、永生するという論理が生じるようになるというのです。
永生というのは、自動的な産物です。永生は、ここから繰り広げられるのです。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。
ハナニムに永生があるのではありません。ハナニムの愛に永生があるというのです。
(218-211, 1991.7.29)

 

ト) 一番重要な永生問題
今日、キリスト教徒たちは、「イエスを信じれば永生する」と言います。永生しようとすれば、継続的な作用を続けていかなければなりません。人生の道を永遠に行こうとすれば、心臓の動脈と静脈のような、循環器官が恒常的に動かなければならず、神経系が恒常的に動かなければならず、大脳、小脳のすべての作用が恒常的に動かなければならないのです。そうするには、莫大ばくだいな消耗が生じます。
(121-172, 1982.10.24)
寝床に就くとき、脱いでおいた靴を、次の日の朝に再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、永生問題以上に重要なものは、この世にありません。それで、この世の中で永生問題を決定づけること以上に深刻なことはありません。
(10-249, 1960.10.21)

 

チ) 結局人間は永生に帰結すべし
新しい潮流の波であるまことの父母の愛の道理を植えて、堕落のハンを解消し、ハナニムが君臨することができる真の愛の家庭を築いてこそ、天国に直行し得るようになるのです。地上天国と天上天国のレールは同じでなければなりません。レールが同じでこそ貨車が走ることができるのと同様に、地上と天上の世界のレールが合わなければなりません。地上天国から天上天国をつなぐための道が、真の愛の道です。それゆえ、個人が行く道、家庭が行く道が、全部つながらなければなりません。方向が一致しなければならないというのです。
それゆえ、一生の間、自分がするすべてのことは、全部真の愛のための実績として、自分の後ろに永遠に固着されるために、あの世に行くようになれば、一生の間残された功績にふさわしいそのレベルに自然にとどまるのです。
(211-288, 1990.12.30)

 

リ) 信仰と永生問題
どのように永生するのでしょうか。キリスト教徒たちは、「イエス様を信じれは永生する、救われる」と言いますが、とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。ハナニムの創造原則から見るとき、真なる人だけがハナニムの愛の同伴者なので、真の愛をもてば永遠に暮らすことができるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で暮らすようになるときに、自分がどこで暮らすべきか分かるようになります。


大洋を通う大きな船が破損する危険が生じれば、その船の中に暮らしていたねずみたちは全部陸地に逃げるというのです。微々たるものにすぎない動物も、自分の生死圏を見極めていくすべを知っているのに、ましてや万物の霊長である人間はどうでしょうか。なぜ、そうなったのでしょうか。堕落のためです。この堕落の仮面を脱ぎ、悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血筋をどのように解脱するでしょうか。この解脱という言葉は、抜け出すという意味です。完全に抜け出して、関係ない立場に、自主的な立場に立つという言葉です。
(215-53, 1991.2.6)
90歳を超えた母親は、70歳を超えた息子がどこかに出掛けるとき、「車に気をつけるんだよ。行ってきなさい」と言います。70歳になる息子なのに、どこかへ出かけるときに、「あ、今日は車に気をつけて」そんな言葉も言えるのです。90歳の老年になるほど、そのように毎日繰り返して言います。それは、永遠に続けても疲れません。そのようにさせる原動力とは何でしょうか。愛です。堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の世界であるハナニムの愛に属していればどうでしょうか。
このようになるとき初めて、真なるハナニムの対象圏を確定づけることができます。ハナニムの愛が永遠不変なことを知るようになるとき、我々人間の愛を中心として、永生の論理を妥当化させることができるのです。愛を中心として永生するのです。
(143-280, 1986.3.20)

 

ヌ) 統一教会員と永生
先生は、統一教会の教徒たちに、苦労をたくさんさせようと思います。苦労させても逃げません。なぜ逃げていかないのでしょうか。永生があるために逃げないのです。統一教会から離れられないのは、永生があるためです。
(204-82, 1990.7.1)
人々にはみな欲望があります。すべてハナニムの息子、娘になろうとします。孫では嫌で、ハナニムの婿でも嫌で、ハナニムの息子、娘になりたいのです。誰でも欲望を成就、完成する所は、家庭なのです。
(221-25, 1991.10.20)

 

ル) 永生に必要な観念
皆さん、「自分は永生する人だ。真の愛を実践する人だ」という姿勢で生きなければなりません。ですから何をするにしても、「永生のためだ、永生の訓練をするのだ」と、考えなさいというのです。皆さんには、永生と真の愛との観念は、いつも必要です。永遠に必要なのです。
(216-127, 1991.3.9)

 

③ 愛と永生

イ) 愛と直結した永生
我々は、永生を願っています。永生を願うのに、変わらないものとは何でしょうか。愛です。他のものはみな変わります。環境的に変わるのです。では、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心なので、変わらないのです。愛は理想的な与件の中心に位置を占めるためです。中心は、その周囲が全部なくなる前には、なくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているために、愛と一つになれば、ハナニムが残っている限り残っているのです。
(157-267, 1967.4.10)


ロ) 真の愛と永生
まことの愛とは何でしょうか。結婚するとき、結婚相手には自分より良い人を願います。自分の息子、娘が、自分より良いことを願わない父母はいません。それは誰に似たのでしょうか。ハナニムに似たのです。ハナニムは愛の相対が自分よりも優れているのを願うのです。
絶対的なハナニムが我々人類の父なら、その父は絶対的に行わないで、その息子、娘にだけ、絶対的に行えと命令できるでしょうか。できません。ハナニムは愛の相対を自分よりも優れていることを願われるという原則から見るとき、人間の価値は最大の価値です。愛を中心としてハナニムよりも高い価値があるということです。
それゆえ、皆さんの心は、最高のものを願っているのです。それは不可能なことではありません。万人平等に可能なことです。堕落しなかったなら可能なのです。
高く貴い立場で、この宇宙を眺めて管理して主導するようになっているのであって、引かれて回り、服従するようになっていませんでした。皆さんの心がそうです。解放された心です。誰の支配も受けたいと思いません。これは、万民が共通です。真の愛の位置にいれば、ハナニムの位置、天国のみ座に自由に行くことができます。ハナニムの友達になることができるのです。愛のために人間を造ったというときは、ハナニムが永遠で、絶対的であるがゆえに、人間自体も永生をもつというのです。これは、自然な論理です。それゆえ、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で暮らさなければなりません。
(211-272, 1990.12.30)
真の愛により、永生が可能です。なぜでしょうか。創造の出発、動機、過程、目的などすべてのことが、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。自分の体と心の完成は、真の愛によって、根本的に可能になっています。理想の結実を結ぶものは、愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、ハナニムも永存しています。永生は、愛によってつながるのです。それで、永生の環境を成すには、愛の環境を中心として生活しなければいけません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として、実体的な体恤たいじゅつをしなければいけないのです。
(218-134, 1991.7.14)

 

ハ) 絶対必要な真の愛
ハナニムは霊界のどこにいらっしゃるでしょうか。絶対的な中心、愛の中心にいらっしゃいます。その愛は真の愛であり、直短距離を通ります。皆さんは第1に、ハナニムを知らなければならず、第2に、永生を知らなければならず、第3に、真の愛を知らなければなりません。これは投入です。100パーセント以上投入します。100パーセント以上投入するところに永生があります。真の愛をもたなくては永生がありません。永生しない人は、ハナニムに会うことができません。
(205-129, 1990.7.29)


これから、世界をどのように収拾するのでしょうか。第1は、利他主義、第2は、真の愛、第3は、永生です。これによって世界が収拾されるのです。
真の愛とは、何でしょうか。自分の生命以上の投入をしなければなりません。生命以上を投入しない所には、真の愛はありません。生命以上に投入するところから真の愛が成立します。真の愛が成立しなければ、永生はないのです。なぜそうなのでしょうか。皆さんがサタンの血を、サタンの血統を受け継いで生まれたからです。それで、聖書には、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な第一のいましめである」(マタイ22:37, 38)とあります。この言葉の意味は何でしょうか。心を尽くして、思いを尽くせと言ったのは、生命まで懸けなさいということです。これが第1の戒めです。
第2の戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)ということです。「隣り人を自分を愛するように愛せよ」というのはどういうことでしょうか。生命を懸けて愛しなさいということです。生命を投入しなければいけません。なぜ、生命を懸けなければいけないのでしょうか。第1は、サタンを屈服させることができず、第2は、サタンの環境から抜け出すことができず、第3は、サタンの血統から抜け出すことができないからです。サタンの環境からは抜け出すことができるとしても、サタンの血統は仕方がありません。真の愛は生命を超越するのです。
男女が生まれたのも、利他主義です。男性が生まれたのは女性のためです。これは、絶対的な真理です。永遠の真理です。なぜ、そのように生まれたのでしょうか。真の愛のためです。男性もそうであり、女性もそうです。世の中では、「二人で永遠に一つになりたい」と言いますが、二人が一つになって何をするのでしょうか。ハナニムを占領しようというのです。真の愛でなければ、ハナニムを占領できません。
皆さんの家の中で、主人には誰がなるでしょうか。その家の全体のために、一生を生きていく人が、中心者になるのです。ハナニムの代わり、父母の代わりに中心者になるのです。100人の友達がいるとき、その100人のために一生の間を生きれば、その友達100人からあがめられる中心になるのです。ですから、永遠の世界で、永遠に「ため」に生きる主人がいれば、永遠の主人になるのです。
その方とは誰でしょうか。ハナニムです。ところで、その方は我々の父なので、すべての宇宙が「私」と共にいるというのです。そこに永生があります。そうでなかった所には、永生がありません。それゆえに、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とあります。それはどんな言葉でしょうか。死を越えるべきで、越えなければ生きることができないという言葉です。
(205-258, 1990.9.9)

 

ニ) 愛と関係した死後の世界
我々は結局、どこへ行くのでしょうか。霊界です。「死後の世界」と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ、死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界だからです。愛と関係している世界なので、死後の世界ではありません。真なる愛を中心として出発したものなので、自分が真なる愛の立場に立つようになるときは、今、ここが霊界です。それゆえ、愛は偉大なのです。
(144-199, 1986.4.24)


球形運動をしてこそ、上下、前後、左右が和合することができます。縦は縦となり、横は横となって和合しなければ、上下、前後、左右全体が和合しないのです。そうなれば、統一がなされません。愛だけが統一することができるのです。それゆえ、統一教会が、真の愛を中心とした統一理想世界を論ずるのも、原理観において一致した結論です。
(144-219, 1986.4.24)
ハナニムは、人間を率いてくださろうとします。ハナニムも息をするのです。愛の呼吸をされるのです。愛を中心として、宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるのです。愛も息をするのです。宇宙の脈拍がこのようになっているために、男性や女性が「ああ! 私、嫌だ」と言えません。拍子を合わそうとすれば、互いに愛し合わなければならないのです。一方向です。全部ハナニムを中心とした一方向だというのです。
(201-191, 1990.4.1)

 

ホ) 「ため」に生きてこそ永生する
おじいさん、おばあさんも、千年、万年後代の子孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生できるその公式的路程は同じです。永生へは、「ため」に生きた人たちだけがパスすることができます。
(203-193, 1990.6.24)

 

④ 祝福と霊界

イ) 愛の威力
霊界も肉界も、愛によって動きます。まことなる愛を中心として、環境的与件は拍子を自動的に合わせるのです。
(185-20, 1989.1.1)
過去の人も、現在の人も、永遠となり得る資格とは何でしょうか。我々人間世界で必要とする、そのすべての欲求の要因とは何でしょうか。それは愛です。つまらない愛ではなく、真の愛です。
真の愛は、縦横を通じて、どこでも90度に合うのです。東洋の家にも合い、西洋の家にも合い、南方型の家にも合い、北方型の家にも合い、五色人種、文化背景、すべての宗教背景が全部違ったとしても、合わなければなりません。それが真の愛です。
(180-86, 1988.8.7)
今日、この世には、多くの人たちが暮らしています。その人々の中で、統一教会でいう祝福という意味を知る人は、多くありません。この祝福という言葉は、統一教会で初めて始まった言葉であり、その言葉を中心として、今まで祝福行事をしてきました。これから、全人類は、祝福の門を通らずしては、天国に行くことができません。数多くの人たちが、既成教会を信じますが、その既成教会自体も祝福という門を通らずには、天に行くことができないのです。