八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 3-1

八大教材教本 天聖経(2012年版)p643-678

【天啓の御言】(3-1)

 


 

第4章 天国

   

1) 天国に対する理解

 

① 天国の所在地

聖書に、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)とあります。天国は、この世界の果てにあるのではなく、自分の心にあります。その心がとどまる立場とは、どのような立場でしょうか。死のいかなる要素も内包している立場ではなく、それを克服して一つの生命が波及し得る立場です。
天国は、肉身の世界では探すことはできません。この世界ではありません。ですから、天国の起点というものは、心の中に描くことが実現される、ある所です。そのある所を探すことによって、天国を迎えることができるのです。
それゆえ、天国はある終末世界を経て来るのではなく、自分の心で描く一つの起点とともに来るのです。はかりを水平にすることができる一つの支持点と同じものです。秤は、水平になるのが目的ですが、これは水平から右に傾かなければなりません。重さが左に傾いてはいけません。右に傾くことが出発です。
それで、天国は心から始まってくるのです。心のどこからでしょうか。世の中に勝った心から始まるのです。いくら環境的に天国が築かれたとしても、自分の心が悪で、それを描くことができず、そこに動ずることができない立場にいるなら、天国が来ても、その天国は役に立たないものです。それゆえ、天国を迎え得る基盤になるのは、環境ではなく、自分自身です。自分自身が問題です。天国を維持することができる支柱、支持するその支持点とはどこかというと、環境に先立って、自分の心なのです。
(46-23, 1971.7.18)
エス様は、従っていた弟子たちが現実を清算できずに、これから天国で幸福の基盤を備えるという出世意識をもっているのを見て、その根本を撃破してしまうために、「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言われたのです。心の天国を描けない人は、天国の環境になっても、その天国を動かすことはできないのです。心で決心ができずには、完全な行動をすることはできないのです。完全な決心から、完全な行動が生じるのです。
それゆえ、自分の心が善にどれほどあこがれるかが問題です。歴史的な善に憧れながらその善と同行するために、いくら血のにじむような環境があったとしても、それを克服して、いくら孤独な環境の中で闘争の路程があるとしても、それを避けていくのではなく、撃破していくという心で、不変の道を開拓しなければなりません。「その心に一体となり得る体の生活環境を開拓する」と決意して誓うところから天国が始まるのであって、心と体が別々に行動するところに天国があるのではありません。心と体が一体となったところから、天国に向かった前進が繰り広げられるのであって、心と体の行動が分かれるところには天国はできません。


そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてくださったのです。
天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は、堕落した人間なので、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます。ついていかなければなりません。絶対的に歩調を合わせなければなりません。彼が東に行けば、自分も東に行かなければならないのです。彼が東に行くのに、自分は西に行く、彼がこのようにしたのに、このようにしてはいけない、という心をもってはいけません。そこに批判があってはいけないのです。
(46-24, 1971.7.18)
「天国は、自分の心にある」と言いましたが、その天国とはどのような所でしょうか。ハナニムの愛が中心になっている所です。ハナニムの愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。では、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないでしょうか。ハナニムの愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外には、行くことはできないのです。
ハナニムの愛の本質と和合できる人とは、どのような人でしょうか。自分を中心にする人は、価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてを投入しながら与えようとする人だけが、ハナニムの愛の圏内に存続し得るのです。歴史上の偉人もそのようにし、聖人もそうしました。
(46-36, 1971.7.18)

 

キリスト教と天国

教会に何百年通ったとしても、自分を中心とする心をもって通えば、天国には行けません。救いを受けられません。
まことの宗教とはどのような宗教かということを知るべきであり、真なる人とはどのような人かということを知るべきであり、真なる国とはどのような国かということを知るべきです。
(78-118, 1975.5.6)
霊界に行ってみれば、昔に殉教した信徒たちの中で、「私がこのように殉教すれば、天国に行けるだろう」と言った人たちは、天国に行けないというのです。反面、「天の父が私に訪ねてくるために受難の道を歩まれ、血を流されたのだ。主に恩返しをするためには、どのような道でも行く」と言いながら、「その恩返しができる立場で、私が同参できる栄光の一時を迎えたことは、どれほど有り難いか」と言いながら死んだ人は、間違いなく天国に行ったというのです。そのような人は自分のために死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死ねば、天国に行くだろう」と言って死んだのなら、それは自分のために死んだのです。堕落した人間は、自分を主張しては、絶対に天国に行けないのです。
(41-355, 1971.2.18)


聖書に、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第1の戒めである」(マタイ22:37、38)と言いました。ここに引っ掛かる人は、天国に入れません。
2番目の戒めとは何でしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同22:39)と言いました。ハナニムを第一に愛し、隣人を第二に愛する人が、孝行者になるのです。
(198-259, 1990.2.4)
キリスト教でいうように、イエス様を信じて天国に行けますか。イエス様御自身も、相対理想を成さなければ行けないのです。イエス様お一人で、真なる愛を成すことができますか、ハナニムも成せなかったのに。ですから、再び来なければなりません。そうであれば、雲に乗って来ていいですか。今は、現実的内容をみな目で数えることができ、測ることができるこの民族が、私についてくるようになっています。
(176-210, 1988.5.9)
今日キリスト教を信じる人たちは、「イエス様を信じれば救われて、天国に行く」と言います。天国に行くにも、「自分一人で行く」と言い、「自分の母や父を連れて天国に行く」と言う人は少ないのです。これから、宗教は個人の救いのみを主張してはいけません。
ハナニムが立てた真の宗教なら、宇宙的で、最後まで残り得る宗教にならなければなりません。人類が願う最後の宗教があるなら、その宗教は、「個人だけを天国に行かせるのがみ旨だ」とは言わないでしょう。天国を個人だけに紹介してはいけません。母と父にも紹介しなければなりません。そのように紹介して、族長までその内容を知るようになれば、一遍について入るようになるのです。
(41-341, 1971.2.18)

 

③ イエス様と楽園

「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、誰が天国に行くというのですか。自分個人が行くのですか。今までお母さん、お父さんに仕えて、家庭が共に天国に行こうという、そのような宗教はありませんでした。今までの宗教は、個人の救いを中心にしました。しかしこれからは、「家庭が共に天国に入らなければならない」と言う宗教が出てこなければなりません。家庭が一時に救われ得る宗教理念が出てきてこそ、天国の門が開かれるのです。今までの宗教は、一人で綱にぶら下がってぶらりぶらりと上がっていくような、個人の救いの宗教でした。それゆえ、修行の世界では、独身生活を強調したのです。家庭をもっていることが怨讐おんしゅうなのです。イエス様も、「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ10:36)と言いました。


みな上がってきては、地の主権をつかまなければならず、独身男女は祝福行事に入らなければならないのです。天国は、本来の息子、娘が結婚して、ハナニムの愛を受けて入る所です。それが、本来、人間が堕落しないで完成すべき天国です。
エス様は、霊界に一人で行きました。そのために、天国に入れず、楽園に行ったのです。楽園は、天国に行くための待合室です。楽園は、理想的な天国ではないのです。天国は、夫婦が家族たちを連れて入るべきなのです。それゆえイエス様は、再び来て、新郎新婦を迎え、新しく編成された家庭と民族を連れて天国に入らなければならないのです。そのようにするために、ハナニムがイエス様を楽園にとどめさせたのです。それゆえ、再び地上に来て、その原則的な内的基盤を築いて、天国に入らなければならないのです。大ざっぱな計算にはなっていません。
それで、これからはお母さん、お父さんが救われるのです。家庭が全部天国に行くことができる宗教、そのような救いの道理を教えてくれる宗教があれば、そこから国が立てられるのです。個人では、国が立てられないのです。それゆえキリスト教には、国がないのです。結婚できなかった独身男女を集めておいたのが、キリスト教なのです。カトリックの神父と修道女を皆さんは見たでしょう。
この地上に、キリスト教国家がたくさんありますが、その国家の主権者は、キリスト教指導者、すなわち教区長や牧師ではありません。厳然として違います。キリスト教は、霊的な国です。地上には国がありません。地に国がないために、今まで数多くのキリスト教徒が殺されたのです。地上に主権があったなら、キリスト教徒は国家の保護を受けることができるために、死なないというのです。
しかし、国がないために、流離孤客ユリコゲク(注:さすらう一人ぼっちの旅人)となって、追いまわされ、集団で殺されたのです。これから我々は、世界のキリスト教徒を合わせて、その国の主権をもって、自分の家、自分の国、自分の世界を探さなければなりません。それをキリスト教徒はしなければなりません。
(41-346, 1971.2.18)
今までハナニムは一度も、霊と肉が完成したという条件を備えた人を抱き締めて、愛してみることができなかったのです。イエス様も愛してみることができませんでした。それゆえ、イエス様は今も楽園で祈っていらっしゃるのです。
我々は我々の霊と肉、その全体を抱こうとされるハナニムの愛を知り、そのような圏内において「神の子女」という名分を立て、万物を主管することができなければなりません。そのような世界が、ハナニムが復帰しようとされる主管世界であり、安息の園であることを知るべきです。今や、我々は個体の問題に帰り、復帰の運命に置かれたことを知り、新しい理念を探してさまよわなければならないというのです。そうすべき時が来ました。これからは、まことの人生観の問題、宇宙観の問題が台頭するでしょう。
(5-49, 1958.12.14)
エス様が、どうして天国に入れなかったのでしょうか。天国は、堕落せずに生きた者が入ることができるように、ハナニムが人間に造ってくださったものです。人間は、本来の原則的な基準に立ってこそ、天国に入ることができます。それゆえ、イエス様御自身も堕落した人間を救い、堕落しなかった人類の父母であるアダム、エバの立場で、息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかしイエス様は、一人で生まれて、一人で死んだので、子孫がいません。いないために、楽園に行くようになったのです。天国に入れずに、楽園にいるのです。天国に行くための待合室のような所に行っているのです。


それで、イエス様は再び来て、新婦を探さなければならないのです。本来のエデンの園で、アダム、エバが新郎新婦になってこそ天国に行くようになっていました。人類始祖は堕落しましたが、その原則は残っているために、その原則どおりに花咲かせるため、イエス様は来なければならないのです。一人で逝かれたので天国に入れないのです。「再び来て、地で解かなければならない」という聖書のみことばと同じです。
(41-300, 1959.2.22)
堕落がなかったなら天国は、ひとり子、ひとり娘がハナニムの愛を中心としてハナニムの家庭をつくり、ハナニムの愛で暮らしてから、引っ越していく所です。天国へは家庭が入るようになっています。個人は、天国に入れないのです。イエス様は、家庭を成せなかったことによって、天国に入れず、天国の待合室に行って待っているのです。それが楽園です。楽園は、天国に入る準備をするための待合室のような所です。
このように見るとき、天国は空いています。これを考えれば、ハナニムの復帰摂理歴史は、悲しい歴史なのです。ハナニムは、アダム、エバを失ってしまいました。二人を失ってしまったことだけで終わるのではありません。アダム、エバを失ってしまったということは、アダム、エバの一族を失ってしまったことなのです。その一族が拡大して、民族になり、一つの国家を成し、一つの世界に拡大したはずですが、それらを失ってしまったのです。ですから、アダム一人を失ってしまうことによって、天の国の王権を中心とした王国を失ってしまい、天の国の民族を失ってしまい、天の国の宗族そうぞくを失ってしまい、天の国の男性と女性、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。
(143-25, 1986.3.15)

 

④ 心情と天国

天国とは、どのような所でしょうか。準備したものを持って誇る所であり、侍る生活をしたのを誇る所です。では、その天国とは、どのような人が行く所でしょうか。主を信じて福を受けようと、福を先立たせていく者が行く所でしょうか。違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して、喜んで逝くことができる者が行く所です。そこに復活があるのです。生活の内幕は現れません。どのように生活すべきかということが、今、我々が侍る生活の中で、考えるべき重大な問題です。
(8-304, 1960.2.14)


天国という所は、心情を通じなくては行くことができない所です。天国は、全体を主管し得る本然の国であり、本性の国です。その国は、事情をもっては所有することはできません。深くしみ込む心情の因縁をもってこそ、所有することができる国です。それゆえキリスト教は究極的に、事情に通じる教会ではありません。心情に通じる教会です。地に対して摂理される天には、事情の因縁を越えて、心情をうたうことができる基盤を築こうという目的があるのです。
堕落とは何でしょうか。ハナニムの事情を論ずることができないのではなく、心情を論ずることができないのが堕落です。堕落した人間を探してこられるハナニムは、失った息子、娘に対する心情はもっていても、その心情を分かち合うことができる人がいないので、その人たちを探して立てる役事をされます。それが救いの役事であり、その人たちを立てるために送られた者が、救世主です。
我々は、天国を望む前に、ハナニムの心情を願うべきであり、またハナニムの心情を願う前に、私自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。私自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて恋しく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、我々造られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の因縁もないというのです。
侍るためには、侍ることができるようになる準備が必要です。その準備の過程を経たのちには、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経たのちに、初めて行く所が天国です。心情で侍る人が行く所が天国です。侍ることができる準備と、侍る生活をたたえ、高くとどろかせる世界が天国です。我々は、このような目的の世界に向かっていくべき運命に置かれているのです。
堕落の血統を受け、生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った1日があったかといえば、なかったのです。堕落する前に、我々の先祖のアダムとエバは、創造理想を通じて育ちましたが、心情の因縁を立ててハナニムに侍ったことがなかったのです。
ハナニムのハンとは何でしょうか。心情を中心としてハナニムに侍るべき人間が、侍ることができない立場に落ちたので、心情を中心として侍られるべきハナニムが、侍られることができなかったのです。信じる者がいないのが恨ではなく、ハナニムを知る者がいないのが恨ではありません。心情を通じてハナニムに侍り、心情を通じてハナニムに対し得る人がいないことが、天と地の恨なのです。
(8-290, 1960.2.14)
今日、数多くの宗教人たちは、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それは、すべて妄想的な言葉です。数多くの宗教が、各々その教祖が教える教理を通じて天国がなされる、と言います。キリスト教だけ見ても、数十の教派に分かれています。自分の教派でなければ異端視し、サタン視する現実において、その教団がハナニムから公証を受けてそのような言葉をいうなら分かりませんが、ただ自分の教派を立てて、自分の教派を残すための欲からそういうのなら、動機が純粋ではありません。そのような教団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうなら、統一教会から滅びるべきです。


このように見るとき、宗教の先決問題は、天国を成すことではありません。それが1次的な目的ではありません。天国が出てくる前に、天国を受け継ぐことができる、一つの特定の民族が必要なのです。ハナニムは、そのような民族をつくるために選民を立てられたのです。歴史上にこのような選民思想があるという事実は、悪の世の中に善の一派を残すための主導的な思潮が歴史の背後にあることをあかすのです。
悪の世界で選民が出てくるようになれば、天国は成され始めます。しかし、天国の民が出てくるには、天国の子孫が出てこなければなりません。また、民と国が出てくる前に、天国を成すことができる家庭が出てこなければならないのです。家庭が出てくるには、天が保障し得る一人の男性が出てこなければならず、一人の女性が出てこなければなりません。
そのような男性と女性だけが出てくればいいのでしょうか。違います。その男性と女性を通じて、息子、娘が出てこなければなりません。そうして、ハナニムが永遠の息子、娘だと保証することができる、一つの家庭が出てこなければなりません。このような家庭なしに、宗族と民族を成すことができず、そのような民族なしに、国家と世界を成すことができないということは、極めて当然な事実です。
ハナニムが訪ねてこられる拠点は個人です。個人に囲いを巡らせているのです。それで、今まで宗教は、個人の救いを目的にしてきたのです。しかし、ハナニムが探しているのは、個人の救いではありません。家庭です。それゆえ、天国の家庭の基盤を探して立てる前に、天国宗族、天国民族、天国国家、天国世界などは、あり得ないのです。
(47-250, 1971.8.29)
天国と地獄はどこから分かれるかというと、聖書をよく知って、言葉をよく話すことで天国と地獄が決定されるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線に左右されるのです。
(32-231, 1970.7.19)

 

⑤ 肉身と地獄

アダム、エバはハナニムの体です。コリント人への第1の手紙第3章に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊みたまが自分のうちに宿っていることを知らないのか」(16節)と言われたように、この体は、ハナニムがいらっしゃることができる家です。その体は、今日堕落した人間たちの体ではありません。イエス様を信じて救われようとする、故障して修理工場を経てきた体に、ハナニムがいらっしゃりたいのではありません。純粋な、初愛を含んだ創造理想的人間でなければなりません。しかし、ハナニムの愛の圏内から脱した人間なのです。


地獄とは何でしょうか。悪魔の愛の圏内をいいます。悪魔は、憎悪と嫉妬しっととねたみと分裂と破綻はたんだけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はそのようなものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。そのような悪魔をなくしてしまわなければなりません。
ハナニムの胸にくぎが刺さった事情とは何でしょうか。悪魔が生じたためです。悪魔の血肉を愛で植えたという事実、悪魔の種を植えたというこの無念な事実、悪魔の家庭を見たというその事実のゆえです。ハナニムの管理下で千年、万年愛し合いながら暮らすことができる家庭が、悪魔の家庭の顕現とともに、破壊されたのです。その代わりに、悪魔の宗族を中心とした家庭が、世界的に広がりました。今、世界には180余りの国があります。それも、数多くの宗族が互いに戦い、弱者が強者に吸収されたので、この程度なのです。これをハナニムのみ旨の中で一つにしなければなりません。
では、サタンはどこに根拠地を立てたのでしょうか。サタンもハナニムが分かります。ハナニムは、創造本性の起源であり、悪魔は本来、その起源を通じて造られたために、相対的基準に立っているのです。人の場合、この起源的基準が良心です。良心は、誰に似たのでしょうか。ハナニムに似たのです。それで、神側だといいます。体は誰に似たのでしょうか。悪魔に似たために、サタン側だといいます。
良心が、体のためにどれほど犠牲になりましたか。夜も昼も自分を管理するのに疲れているのが、良心です。それでも疲れを見せずに、体が悪い行動をしようとすれば妨げるのです。自分に一番近い父母の代わり、ハナニムの代わり、師の代わりになる存在が、良心です。心自体には教育は必要ありません。しかし、体には教育が絶対必要です。
それゆえ、体がしようとするとおりにすれば、地獄と通じるのであり、心がしようとするとおりにすれば、天国と通ずるのです。天国と地獄の分岐線が自分です。38度線を中心として南北に分け、サタンが乗っています。それを知っているので、分けておいたのです。これを分けておかずに死ねば、個人的な38度線、霊界がふさがってしまいます。家庭的38度線、国家的38度線が全部ふさがってしまいます。そうなれば、世界的38度線、宇宙史的38度線をどのように越えるのですか。
(214-281, 1991.2.3)
皆さんが、胸の痛むほど悔しく思うべきこととは、正に自分の体が悪魔の舞踏する場になっているという事実です。悪魔たちの愛の場になっています。悪魔の愛を通じて、悪魔の血統を受け継ぎました。その血が今、自分の体から本然的人格を蹂躙じゅうりんするために、その勢力圏で自分を支配しているという、この驚くべき事実を知らなければなりません。これを清算するには、国でも清算する道がありません。自分自身がしなければなりません。
宗教というものは何でしょうか。罪の根と闘うのが、宗教の本質的闘争歴史です。しかし、自分は全部地獄に行く版図になっていながら、自分自身が悪魔の舞踏する場になっていながら、宗教の旗を掲げて社会を救うと、大騒ぎするのです。
自分を憎まなければならないのです。この体を憎むべきです。自分の体に怨讐おんしゅうの血が蠢動しゅんどうするのに、これを刀で断つこともできず、火で焼くこともできない自分であることを知るべきです。ハナニムの保護を受けることのできない立場に立って、万物を消化し消耗する、消耗工場になっているという悲痛な事実を知るべきです。
(214-285, 1991.2.3)


復帰摂理で見て、これが最後のみ旨だと思うなら、瞬間瞬間を深刻に考える自分になったかを反省してみなければなりません。世の中に巻き込まれて回る姿勢ではいけません。一度も深刻な場に立てず、一瞬も深刻な瞬間をもてなかったなら、その人はハナニムの前に恥ずかしい人です。
私は、どれほど天地の公法をよく守って、天地が公認することができる立場で生きているでしょうか。死が差し迫って、今までどのように生きたかと自問したとき、生涯を通じて善に生きたという心が、60パーセントを超えなければ地獄行きです。
体は制限を受けても、心は制限を受けまいとする闘争の歴史をもたなければなりません。天と地、歴史と現実に、そして子孫に対しても、「私は解放された。だから、私の伝統を受け継ぎなさい!」と言うことができなければなりません。そのような瞬間をもてなかったなら、その人は容赦なく地獄行きです。
(19-27, 1967.12.10)
世界も混乱です。では、霊界はどうでしょうか。そのような混乱した人間の群像が霊界に行って1箇所に集まっているので、混乱せざるを得ません。どろぼうすることも習慣になれば、いつもどろぼうするようになります。ですから、地球ぼしでどろぼうしていた者たちが天上世界に行っても、ただで得ようと願います。それで、処置に困るので、地獄というものができたのです。
地獄は、ハナニムが造ったものではありません。地獄は生まれたのです。ごみ箱を作っておいて、家を建てたりはしません。家を建ててみると、ごみ箱が必要になったのです。同様です。既成教会員たちはみな、根本を知りません。
(148-28, 1986.10.4)
もし、偽物の包みを持っていたなら、いつ清算するでしょうか。皆さんには、そのような心がありませんか。片方の目が見えなければ、その目を抜いてしまうとか、治しておかなければなりません。分別しなければなりません。ハナニムがいらっしゃるなら、このようなことを是正できる方法を教えてあげなければなりません。それで宗教が出てきたのです。
ハナニムは、ねたみの心や嫉妬しっとが多いために、地獄を造っておいたのではありません。偽物が生じて、偽物を処理する処置の倉庫として、地獄を造ったのです。誰がごみ箱を先に作って、家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと、良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫が食ったくずのようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。堕落は、人間の最初の先祖が犯しました。
それゆえ、これを蕩減とうげんして罪を清算するためには、まことの父母の資格をもってこそ可能になるのです。
(20-118, 1968.5.1)
宇宙の最高のおじいさんとは誰かといえば、ハナニムです。その次に、この世界を一つにするのに、全天地を一つにするのに、その終わりの子孫とは誰かというと、未来の子孫です。これをつなげなければなりません。何でつなげるかといえば、家庭です。国ではありません。天国に行くのに、「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「後進国の者だ」と言っても排斥しません。この主流家庭の組織を中心として、ハナニムのみ旨とともに、過去、現在、未来をつなげ得るモデル型だけを認めます。これが公式だということを知るべきです。そのようになった実を持っていって、貯蔵する倉庫が天国です。


今まで、人間の世の中に生まれた人たちには、ハナニムが救うことができる条件が一つもなかったために、全部地獄行きでした。虫が食って、うじがわきましたが、それを豚にでも食べさせるとか、他のものに使おうとして、仕方なく持っていって貯蔵した所が地獄です。地獄と楽園があるというのです。このように話せば、天国は空いているということを実感できます。
(135-118, 1985.10.4)
霊界に行ってみれば、人々が、いろいろな段階の所にとどまっていますが、その人たちは、どのようにしてそのようになったのでしょうか。どれだけ愛の道理に従い、孝行をし、国に忠誠を尽くしたのか、世界で聖人の道理を果たしたのかという度数の差に従い、該当する立場にとどまっているのです。
人間がこの地で行くべき道は、正道です。正道には個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、ハナニム御自身にも正道があります。このような、たった一つの道がなければならないのです。その道とは、何の道でしょうか。本然の愛の道です。
(147-183, 1986.9.21)
あの世に行くようになれば、愛の理想に符合し得る、訓練された素性そせいを備えられなかったときには、反作用が働きます。誰かが「地獄へ行け」とは言いません。それゆえ、聖書には「怨讐おんしゅうを愛せよ」とあります。本当の愛は、怨讐にその愛を及ぼして、1次、2次、3次、4次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもったために、イエス様も「怨讐を愛せ」と言われたのです。
今日、キリスト教徒たちは、怨讐とは個人の怨讐であると思っていますが、違います。無限の価値をもった、この愛の法度に背いた者です。サタンとはハナニムの前に姦夫かんぷだったという事実を知るべきです。私があの霊界に行って、くまなく探して調べたので話しているのです。このようなことを言って、「異端だ」と言う声を聞きました。「異端の魁首かいしゅだ」、「キリスト教世界を滅ぼす」とか、「死ぬべきだ」とかいう、ありとあらゆる悪口を聞きました。ですが、「死ね」と悪口を言った牧師の死んでいくのを見ても、私はまだ死にませんでした。それは何によってでしょうか。天意によってです。まだすべきことが残っているからです。
(121-173, 1982.10.24)
皆さん! 自分の子供の中に、殺人強盗になるとか、国家の犯罪を犯して、死刑を受ける息子がいるとしましょう。息子が死ぬ場に行くときに、その父母がついていって、「お前は死ぬ場に行くから、死ねばいい」と言う父母がいますか。その息子にしがみついて、自分も死ぬ場に共に臨もうとするのが父母です。


子供の死が永遠に続くなら、父母がそれを眺めてじっとしているでしょうか。永遠をかけて死んでいくというなら、永遠をかけて生かしてあげたい心をもつはずであり、子供を生かすためにいかなる苦労もいとわないはずです。このように考えるとき、ハナニムはかわいそうなお方です。
人間が死んで地獄に行くのを見るとき、ハナニムは永遠に生かしてあげたくて、やきもきするのです。それでこそ天の父母の立場で責任を果たすのであって、「えい! みな掃いて捨ててしまおう」と言えば、父母の立場に立てないのです。それゆえ、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。
息子が、自分を生かすためにやきもきする情景を見れば、「うちのお母さん、お父さんは、私のゆえにあのようになっているのだな」と思い、千万回罪を悔い改めるようになります。そのような母がいて、父がいれば、その子供は、骨が溶け、肉がやせ細るほど悔い改めるようになるのです。父母によって、そうし得る道が生じるのです。
サタンも、人類を救おうというハナニムの愛の前には、讒訴ざんそできないのです。父母の愛を通じては、悔い改める者を許せない法がありません。それで、そのような心情を通じて、地獄までも解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないでしょうか。それで統一教会では、「地獄までも救おう」と言うのです。なぜでしょうか。それは、ハナニムがそのようなお方だからです。
(62-51, 1972.9.10)
地獄という所は、一度引っ掛かれば、永遠に脱することができない所です。それなのに皆さんは、自分のお母さん、お父さん、そして親戚しんせきが、地獄に行くということを実感できません。ただ「何とかなるだろう」と言って、おしまいです。しかし、愛する父母が、本当に地獄に行くと考えてみてください。世の中の監獄に入るだけでも、泣き叫びながらありとあらゆることをしてでも、引き出そうとするのが人情なのに、まして天情で結ばれた息子、娘が、自分の父母と親戚、兄弟と姉妹すべてが、永遠に出てこれない監獄に行くことが分かるなら、そのようにしますか。
皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あるにはあるようだと思っても、どのようなものか知らずにいるのです。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば、一遍に分かりますが、その時はもう遅いのです。
それで、今まで死んだ父母たちが霊的に現れて、伝道をたくさんします。自分たちが、統一教会に通う息子に反対して死んで、霊界に行ってみると大変になったのです。それで、霊的に現れて、伝道する霊人たちがたくさんいます。そのようにしなければ、3世界で引っ掛かるからです。自分の息子、娘が統一教会に通うのを反対して、行けないようにすれば、3世界で引っ掛かるのです。


それゆえ、天上世界であらゆる精誠を捧げて、善なる先祖の名前で特赦を受けて、自分の子供に現れて教えてあげるのです。誰にでも現れることができるのではありません。そのような世界に行ってこそ、統一教会がとてつもない所だということが分かるようになるのです。その時、どれほど驚くかというのです。
統一教会は、ただこのように集まって別れる所だ」と言うかもしれませんが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引けるのです。この門を閉めれば、永遠に開ける者がいないし、開けば再び閉める者がいません。地上で結ばれたことは、地上で解かなければならないために、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえ、皆さんが伝道をするにおいて、これからはほかの所に行ってするなというのです。
(34-266, 1970.9.13)

 

⑥ 地獄人も天国を願う

死にぎわに、「ハナニム、私は今までハナニムのみこころのままにできませんでしたが、私の心としては、天国に行こうとしました。ですから、私を蕩減とうげん条件を立てたことにしてください」と言えば、ハナニムも公平なので、そのような人は、天国に行けそうな場所に連れていくのです。どのような場所に連れていくのでしょうか。行こうとしたために、天国に行こうとする場所に連れていくのです。行いにしたがって報いてくださるのです。行くには行くのですが、天国に行こうとする場所に行きます。その場所は、楽園以下の場所です。地獄にいる人も天国に行こうとするのです。
(57-265, 1972.6.4)

 

⑦ 地上天国と天上天国

個人が安息しようとするなら、家庭の安息圏をつくるべきです。言い換えれば、家庭の囲いをつくるべきなのです。家庭が安息するには、宗族的囲いをつくるべきです。囲いがなければ、いつも侵犯されます。その次に、宗族が安息するには、民族が囲いになるべきです。その次に、民族が安息するには、国家が囲いになるべきです。そして、国家が安息するには、世界が囲いになるべきです。それゆえ私たちが、国家の囲い、世界の囲いをつくっておいて、中で安息することができる時が来ます。この世界が安息するには、霊界と肉界を統一させて、囲いをつくらなければなりません。そうしたのちに、初めてハナニムの愛が地上の全世界のどこにでも及ぶことができる地上の天国が完成し、天上天国が自動的に完成するのです。
(68-20, 1973.7.23)
我々が暮らしたい所は天国です。天国には境界線がありません。天国では二つの言葉を使いません。人種の差がありません。人はすべてハナニムの懐から生まれたので、人類はみな兄弟です。ハナニムを中心として見れば、ハナニムの息子、娘なので、みな兄弟で、地上天国を中心として見れば、すべてが民です。地上天国の民というのです。
国を形成するには、三大要因があります。国が形成されるには主権と民、そして国土がなければなりません。そのため世界は、ハナニムが統治する世界になれませんでした。地球ぼし全体が、我々の国になれずに、世界の民が、一つの国の民になれませんでした。我々は、天国についていろいろ言いますが、天国はこのような条件が備えられたのちに成立するのです。これが成されなかったために、いまだにカインとアベルが戦いを続けるので、我々は安息することができないのです。


我々は、復帰過程で暮らしたいのではなく、天国で暮らしたいのです。それゆえ、我々が天国を築くというのは、我々が暮らす所を準備しようということです。我々の暮らす所は、天国をつくっておいてこそ生じるのです。これをつくれなければ、我々の子孫はいつも追われる民族になるでしょう。我々は、あらゆる精誠を尽くして、子孫にそのような荷を残さない先祖にならなければなりません。
(66-281, 1973.5.16)
天国に行こうとすれば、「罪を犯さなかった」、「ハナニムの愛を直接受けることができる」、「イエス様を信じる必要がない」、「救いが必要ない」という息子、娘の資格が得られる過程を経なければなりません。そのように生きた人が天国に行ってこそ、ハナニムの理想の天国がなされます。
エス様は、血族を通じてそれを成せませんでした。それゆえ、イエス様が再び来て、これを解怨かいおん成就しなければなりません。そうせずには、天国に入れません。天国を開く条件は、どこにあるのでしょうか。地にあります。それゆえイエス様は、天国のかぎを地に残して逝かれました。
エス様と12使徒が家庭を成せなかったために、今日統一教会で祝福家庭を通し、70門徒、120門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。そうしてこそ、天国が開きます。
(160-89, 1968.8.11)
ハナニムがアダムとエバを創造しておいて、婚姻のうたげをしてあげようと、成熟することを待たれましたが、彼らが堕落したのでハナニムはみ旨を果たせず、彼らは偽りの父母になりました。4000年ぶりに堕落しない立場でイエス様とイエス様の新婦が合わさって、偽りの父母が出発することによって失った、まことの父母の基準を再び取り戻すのです。
真なる父母が生んだ息子、娘たちは、偽りの息子、娘ではなく、真なる息子、娘です。そこから真なる家庭が出てくるのです。真なる家庭が出てきて、真なる宗族が出てきて、真なる民族が出てきて、真なる国が出てきて、そうすることによって真なる世界になります。その世界では、ハナニムを中心として、家庭で天国生活をして、宗族で天国生活をして、民族で天国生活をして、世界で天国生活をしなければなりません。それでこそこの地が、地上天国になるのです。
そのように生きて、この地上で体を脱いで永遠の天国に入れば、そこが霊界の天国です。これが、ハナニムの摂理の概観です。今日、この地にサタンの血統を受けて生まれた人間は、真の息子、娘とは血統が違います。それゆえ、ローマ人への手紙第8章を見れば、養子の立場で「アバ、父よ」と呼ぶとあります。血統が異なるため、橋を架けてハナニムを呼べるのであって、直接には呼べないようになっているというのです。


しかし、イエス様だけは、ハナニムの直系の血統の因縁をもって来ました。それで、「ひとり子だ」と言ったのです。
(160-44, 1968.8.11)
今、再臨の1日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていかなければなりません。地獄のどん底で、カインとアベルを探して、新しいハナニムの家庭圏を形成するのです。新しいハナニムの宗族圏、新しいハナニムの民族圏、新しいハナニムの国家圏、新しいハナニムの世界圏を成して、地上にいる人たちを、全部蕩減とうげん復帰しなければなりません。カインとアベルを蕩減復帰して、すべてを吸収、消化して、統一した世界を地上で編成せずして、天国を築こうとするハナニムの希望を、解怨かいおん成就する道はありません。
それでイエス様も、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ16:19)と言いました。地で天国を成さずには、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなくては、霊界で善の主権を回復することができないという、とてつもない事情が内在しているのです。
(143-30, 1986.3.15)
皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません。天国人になるには、「父の心が自分の心であり、自分の心が父の心である」と自信をもって言うことができる程度に、父と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で父の心に代わり、主と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的なすべての問題を解決することができるのです。
(3-295, 1958.1.19)

 

⑧ 天国に対する正しい観

風が吹き、暴風雨が吹きつけることがあっても、自分が死んで滅びても、「この信念だけは間違いない。自分が間違うことはあっても、み旨は間違いない」という確固不動の信念をもたなければなりません。朝の信仰と、夕の信仰が違う信仰姿勢をもっていながら、天国を恋しく思うなら、それはあまりにも愚かなことです。
天国に接近することができる道とは、どのような道でしょうか。自分を考える立場では、天国に行くことができる道は生じません。自分が天国と距離が遠いということを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を攻撃する所でのみ、天国、あるいは間接的な天国でも開放され得る道が開かれます。
しかし、自分を擁護する立場で、相対を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相対を引っ張っていこうという人は、天国とは関係を結べません。
明らかなことは、天国は自分から成されるのです。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼ぶときに、答えることができる自分自身になれないでいるなら、その天国とは関係がなくなります。


天国とはどのような所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化した所には、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配しているために、サタンがここに寓居ぐうきょしているために、このサタンの環境を克服してしまってこそ、天国が来るのです。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにしかならないのです。
天国という概念は、サタンを屈服した立場で、サタンが相対することができる一切の要因を否定した立場で、否定するだけでなく清算した立場で、成立することができます。サタンの否定的与件が残っている、歴史的な遺物であるとか、生活のすべての内容を否定して清算した基盤で、天国が肯定され得るのであって、それを残しては、天国の内容を提示することはできないのです。
天国は、このように高貴なものです。絶対的基準の前に一致し得るものが天国だといいますが、我々が描く天国の概念は、あまりにも混み入っています。あまりにも邪となった立場で、天国を待ち望んでいます。このような生活環境で、絶対的な信仰基準をもって克服するところから天国が始まるのは間違いありませんが、それだけでは天国は決定され得ません。その基盤で、数千年間ハナニムを苦労させ、数多くの人類をもてあそんだサタンを克服してこそ、天国が繰り広げられるのです。
そのまま素直に信じて行く立場だけでは天国が成され得ないということは、言うまでもありません。信じる心だけもっては、絶対に天国が成され得ません。その過程でサタンがいつも戦いを提示するために、戦いの路程を克服してこそ、天国が成されるのです。ここには主権がなければならないし、数多くの民がいなければならないのです。数多くの家庭が、国家なら国家自体を成して、一つの目的のために克服していかなければなりません。ハナニムの立場から互いに相いれないことなく、主体と共に、どのような時、どのような環境、どのような所でも、こたえて和動することができなければならないのです。生命を捧げる覚悟をして信じる立場では、心に臨在する天国を感じるかもしれませんが、実体的な天国は成されません。2000年の歴史を通して、数多くの殉教と受難の代価を払っても、現実の舞台で天国は成就され得ませんでした。天国は、そのように簡単に成されるものではありません。
聖書に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)という句があります。「主」という言葉は、永生について忘れられない、絶対的な内容を備えた立場で認識することができる言葉です。主なる神を信じるところから、天国が到来するのではなく、主なる神を愛するところから、天国が来るのです。父のみ旨は愛するところから成されます。信じるところからではなく、愛するところから成されます。


今まで我々の信仰が、どれほど至らず、原則に到達するのに、どれほど遠い距離にいたかということを悟るべきです。もしかすると、ここに初めて来た人がいるかもしれませんが、個人を中心としては、慰めを受けられる立場に立てないのです。皆さん個人の心に天国が成されて、個人を中心としてハナニムが喜ばれるといって、天国になるでしょうか。それは、個人の天国にはなるかもしれませんが、全体の天国にはなれません。
ハナニムが願うことは、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。ハナニムは、喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それゆえ、メシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです。
(46-74, 1971.7.25)

 

2) 天国に行くための準備

 

① 天国の拠点

我々が真理に近ければ近いほど、真理に心酔すればするほど、その真理は、誰にも奪われない我々の中心となっていくでしょう。千万回混乱する地であっても、宇宙がにわかに破壊されても、中心を心にはっきりと立てた人は、決して変わらず、動揺もしないでしょう。
しかし、心の中にそのような中心を受け入れる準備をしていなければ、いくらまことの真理が現れても、それを知らず、真の生命が現れても知らず、真なる愛が現れても知ることができないでしょう。
今日のキリスト教が、真なる真理と真なる生命、そして真なる愛を探そうとするなら、終わりまで自分を捨てて、誰も奪っていけない心の中心を立てる宗教になるべきです。
今まで地球は、新しい大陸が発見され、だんだん広くなると思ったのに、むしろ日がたつほど狭くなってきています。言い換えれば、文明が発達できなかった時には、世界が広いように感じましたが、歴史が流れて文明が発達しながら、世界はだんだん狭く感じられるようになっているのです。このようなことを見るとき、真理の歴史を経てなされる理想世界は、すべてが自分と直接的な関係を結ぶようになる宇宙的な世界であることが分かります。
天国人の基準、すなわち天国の生命と、天国の愛は、私たち自体から結実されなければいけません。真理と生命と愛は、一つの家庭のようなものなので、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきなのです。生命について見るときにも、同様です。そこにも愛と真理が伴うべきなのです。
真理と生命と愛は、なぜこのようにつながっているのでしょうか。一つの物事が存在するためには、必ずその物事を中心として、上下、前後、左右がなければならないのです。存在するものは、何でもこのような3数の圏を脱することができません。これが存在の基本形態です。


このように、三つが出会い、一つの統一的な形態を成していますが、力が逆順に進めば、本来とは異なった力の作用が現れるのです。それゆえ、本来、愛と生命と真理のハナニムであられますが、堕落した以後の人間が、愛と生命と真理が均衡の取れた三角形態を成せなかったので、ハナニムはみ旨を成せなかったのです。
(2-133, 1957.3.17)
エス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨するようになれば、自分たちは一つずつの職位をもてると思ったのです。そのようなことは、問題ではありません。まず、自分の心の中に天国の基盤を築くべきであり、その心を中心として、体がハナニムと一つになり得る基盤を築くべきです。これが一番大きな問題なのです。天国は、自分自身から始まるのです。それゆえ、天国の拠点は、自分の心なのです。
(47-273, 1971.8.29)
天国の拠点とは、どこにあるのでしょうか。キリスト教徒の中には、「イエス様を信じて天国に行く」と言う人がたくさんいます。それならば、天国の拠点はどこにあるのでしょうか。「天国はどこにあるか」と聞くペテロにイエス様は、「あなたの心の中にある」と言いましたが、その天国の拠点とはどこでしょうか。悲しむ心が天国の拠点になり、自分を主張しようとする心が、天国の拠点になるのでしょうか。社会を否定する心が、天国の拠点になるのでしょうか。それは、我々が願う内容の拠点ではなく、ハナニムが賛同することができる天国の拠点ではないのです。
天国の拠点を探す人は、この地上の誰よりも孤独な立場にぶつからなければなりません。それは、なぜそうなのでしょうか。ハナニムが孤独であるために、その人も孤独でなければならず、ハナニムが克服の歴史を経てきたために、その人も克服の歴史路程を経ていかなければならないのです。
天地に悲しみがいっぱいだとして、人間がその悲しみを感じながら悔い改め、慟哭どうこくの涙を流すなら、その立場が天国の拠点になり得るでしょうか。それをもってしても、駄目なのです。新しい喜びを感じ得る時を願いながら教団に仕える反面、この世の罪悪を解決しなければならないと決意できなければなりません。そのような責任を誓う一つの方向がなくては、天の拠点はあり得ないのです。
人々の中には、自分は良心的で、社会的に人々が仰ぎ見る立場にいるために、「天国は自分から始まる」と堂々と主張する人がいますが、それはその人が、善と悪は共に出発するという認識をもったからです。しかし、善と悪は、同時に出発し得ないのです。悪が東に行けば、善は西に行くべきであり、悪が動けば、善は停止しなければならないのです。また、悪が欲望をもてば、善は欲望をもってはいけないのです。善と悪は反対です。


天国を探すための出発は、人間の世の中に対する希望をみな失ってしまったところから始まりました。それゆえ、現実生活で満足する人たちの中には、真の宗教人は存在し得ないのです。
生死が行き交う運命にぶつかり、自分の存在を認識できない絶望に落ちるとき、習慣的な生活におぼれているのではなく、自分の生命までも否定しながら、新しい価値を探していかなければならないのです。このように進むところから、真なる善の出発ができます。
このような観点で見るとき、「自分の人格が天の拠点である」と自信をもって言える人がいるでしょうか。いないのです。また、「私が今、率いている家庭が、天の拠点である。ハナニムがおられるなら、うちの家庭を知らないとは言えない」と自信をもって話せるという家庭も、やはりないのです。また、「我々の宗族は、これこれこのような善の功績をもっているために、ハナニムが我々の宗族に知らぬ振りをすることはできない」と、自信をもって言える宗族がこの世界のどこにいて、そのような民族がどこにいるか、国家がどこにあるか、主義思想がどこにあるかというとき、呆然ぼうぜんとしてしまいます。
それで、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言うのです。では、その言葉はどういう意味でしょうか。悪の世界で、自分自身を千年以上守るために努力する人であってこそ、千年生きるという夢を見ることができるのであり、自分自身を万年以上犠牲にしても、それを有り難く考えることができる心をもってこそ、万年生き得る希望を見いだすのです。
同様に、永遠の生命、永遠の幸福、永遠の天国を叫ぶ人がいれば、彼は永遠を目標として現時点を克服しなければならず、現時点で自分を犠牲にしながら、耐えて越えていかなければなりません。このような立場に立ってこそ、永遠の拠点が生じるのです。
(47-247, 1971.8.29)

 

② 天国に行く基準

ハナニムを愛さずには、サタン圏内を脱することができないのです。それゆえ、自分の妻より、自分の夫より、ハナニムをもっと愛さなければいけません。堕落した人類が、サタン圏内の愛の落とし穴から、端まで出てきましたが、まだ完全に出てこれませんでした。それゆえ、自分の父や母をハナニムより愛してはいけないのです。
(41-299, 1971.2.17)
天国に入ることができる人とは、どのような人でしょうか。まず、ハナニムの心に合う人でなければなりません。どのくらい合わなければならないでしょうか。ハナニムが永遠の目的を中心として、永遠の理想を描いていく方であるなら、永遠の基準で心が合うべきです。10年ぐらいは合っていたのに、また合わなくなってしまったのではいけないのです。永遠なハナニムに、永遠に心を合わせるべきです。そうするには、どのようにすべきでしょうか。永遠に互いに好むことができる息子になるべきです。そのような息子になるには、悲しみの対象としての姿を見せてはいけません。


その次には、ハナニムの体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性をいいます。考えは四方の中心点に代わりますが、体は方向性として現れるのです。ハナニムの心に合う息子になろうとするには、ハナニムの体が東に行くとき、ハナニムと共に東へ行かなければならないのです。ハナニムは、温かいものを好むのに、イエス様が冷たいものを好んでよいでしょうか。ハナニムは今、笑いたいし、話したいのに、イエス様が「寝たい」と言ってよいでしょうか。外的な体を中心として現れるすべてが、一致しなければならないのです。
それだけでいいでしょうか。違います。ハナニムは、和気あいあいとした雰囲気を好むのに、殺伐としていてはいけません。ハナニムが和気あいあいとしているときは、和気あいあいとしていなければなりません。内と外が合わなければならないのです。このように、内外だけが合えば済むのでしょうか。その次には、ハナニムのみ旨と一致することをしなければなりません。そうするには、心にないことがあり得ますか。体が嫌がることがあり得ますか。体と心が好むことをしなければならないのです。ハナニムがいらっしゃるなら、ハナニムが好まれることがあるのです。また、イエス様がハナニムの息子なら、イエス様もそのようなことを好まなければならないのです。
(47-257, 1971.8.29)
天国は、命を懸けなくては絶対に行くことができない所です。命を懸けない人が天国にいるか、いないか、天国に行ってみてください。信仰の本質がそのようになっているのです。
(37-250, 1970.12.27)

 

③ 天国の始まり

天国は、どこから始まるのでしょうか。ハナニムの悲しみを解かずには、天国に入ることができません。我々人間が、堕落して以来、今まで、悲しい歴史をつづってきたために、悲しい歴史のすべての因縁を直接探さなければなりません。アダム、エバから、6000年歴史から、その因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみのハナニムを教えようというものが、統一教会の原理です。
世の中の人たちは、悲しみがあれば、みな嫌だと逃げます。そのいかなる悲しい事情よりも、もっと悲惨なハナニムの悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中なら、悲しいことがあれば回避して逃げますが、統一教会の原理は、この悲しい所を経ていこうとするのが信条です。
世の中では、悲しいことがあれば全部避けていこうとしますが、本来人間は、そうできないようになっています。ハナニムに対する悲しみを知れば知るほど、ハナニムの悲惨な内容を知れば知るほど、実際における統一教会は、それを解いてさしあげようとする強い力が出てきます。力は、無限に爆発作用を引き起こす動機になります。これが、統一教会がもった偉大な力です。
(21-113, 1968.11.17)

 

④ 天国の本質

天国とは、どのような世界でしょうか。そこは、本然の世界なので、サタンに讒訴ざんそされ得る個人や家庭や宗族は、入ることができません。天国に入ろうとすれば、個人と家庭と自分の親戚しんせきである宗族が一つにならなければなりません。言い換えれば、3代が一つにならなければなりません。アダム家庭について見るとき、アダムが1代、カインとアベルが2代、カインとアベルの息子が3代、このように3代が一つにならなければなりません。ハナニムを中心として見るようになれば、ハナニムが1代、アダム、エバが2代、カインとアベルが3代になります。
(21-54, 1968.9.1)


天国は「ため」に生きる世界であるために、「ため」に生きるという観念だけ中心にもっていかなければなりません。「ため」に生きてもらおうという考えだけをもてば、壊れていくのです。
天国は、ハナニムの愛が充満した世界です。愛の本質は「ため」に生きてもらうのではなく、全体のために生きるというものです。それゆえ、天国は世の中とは違います。
宗教の教えは、「ため」に生き、絶対服従して、犠牲奉仕せよというものですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も分からない乞食こじきやからがすることのようですが、天法を知らなくとも福を受けることができるようにするための、サタン世界に対するハナニムの暗号による作戦でした。
(46-42, 1971.7.18)

 

⑤ 天国の枠

私たちは、本郷の地を見つけることができませんでした。本郷の地を見つけられなかったから、本郷の祖国を失ってしまいました。本郷の祖国は、地上天国をいいます。天国といえば、地上天国があり、天上天国があります。
国になるためには、三大要素が必要です。第1は、主権がなければならず、その次には、国土がなければならず、国民がいなければなりません。しかし、ハナニムには主管できる主権がありません。主管し得る人類がいません。ですから、祖国がないのと同じです。このようなものが、本然の人間が暮らすべき世界ではないのです。
(155-26, 1964.10.6)

 

3) 天国に行くことができる要素と条件

 

① 天国に行くことができる要素

イ) 苦労が必要
永遠に残るものがあるなら、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら、先生に抗議をしてもかまいません。民族と世界、天地のために働いて打たれる人は、知恵深い人です。
(19-30, 1967.12.10)
一国の責任者が怨讐おんしゅうに捕まっていき、優待を受けるようになれば、責任者を失った国の人々は団結ができません。捕まっていった責任者が悲惨に死ねば死ぬほど、彼と因縁をもった人々は、鉄石のように団結するのです。
そのため、霊界が我々と結束され得る内容は、苦労だというのです。我々が苦労すれば苦労するほど、霊界は私たちと関係ができて団結するのです。


そうしないで、ただうかうかしていれば霊界も同じです。そのような意味で、ハナニムはサタンを通じて作戦されるのです。執拗しつように苦労させ、殺したりもするのです。死ぬこと自体はかわいそうですが、反作用で結合するようになります。
(49-108, 1971.10.9)
天国に行こうとする人は、「悲惨に暮らせ、悲惨に死ね、悲惨に行け」と言うのです。その言葉は善い言葉ですか、悪い言葉ですか。善い言葉です。それでは、「出ていって死ぬほど伝道しなさい」という言葉も善い言葉です。「人のために命を捨てなさい」というのです。自分のためではなく、人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくださるのです。
貴いものは、万物と人間とハナニムですが、「この世界を善なる立場で抱く」と命を懸けて犠牲になった人は、その三つを懸けて犠牲になったために、ハナニムは、その三つ以上のものを返してあげなければならないのです。イエス様はそのような観点で、「あなたの家の家族が怨讐だ」、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言ったのです。そうしなくては天国に行けないために、これが一番幸福な教訓になるのです。一番高く、一番貴く、一番なくてはならない、絶対的な福音なのです。
それで、統一教会に来るようになれば、地上で豊かに暮らそうとしません。ひどく貧乏で、ひどく苦労して死んで、道端に倒れて犬もかみついていかない死骸になったとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての聖なる人たちが集まって、城を築くでしょう。統一教会の群れを、国のために、世界のためにひどい苦労をさせて、孝行者、忠臣にしてみようというのが、先生の考えです。「行かない」と言うなら張り飛ばすべきです。足でけって、現在の悲惨さを、現在の困難を克服させるのが愛です。
それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)とおっしゃったのが、第2の戒めではなく、第1の戒めです。
その次に、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:39)とおっしゃいました。あなたの隣人とは誰ですか。世界万民が隣人であり、兄弟です。世界万民のために心を尽くし、精神を尽くし、命を懸けなさいというのです。命を懸ければ、すっかり成したということです。み旨のために一度死んでみようというのです。どこで死ぬのでしょうか。自分の死に場所を探さなければなりません。一つの爆弾として生まれたら、きれいに岩に落ちて爆発すべきであって、下水のたまりに落ちるなというのです。我々は撃ってしまった爆弾です。「磐石ばんせきの上に落ちよう。ひどいもの同士、一度やってみよう」と言うのです。このような決心をしたために、今日統一教会の文先生が50歳を超えても、まだ行くべき道が遠いとは思わず、躊躇ちゅうちょもしません。
あすの希望を実現するために精誠を捧げながら涙を流し、努力と精誠を、熱と誠を尽くすのです。この目標に符合し得る一つの帰一点、その一点を備えるために、命をちりあくた(藁くず)のように捨てる覚悟をしていくのが、統一教会の先生がもった主流的な思想です。ここには、冒険が内外につながっているのです。無慈悲な血みどろの闘いを展開していっているのです。


命の限りを尽くしても、死なずに生き残る基盤になるなら、これは人類歴史に手本になるであろうし、万民の幸福の基調になるでしょう。全天下がそれを和動の起点として、大運動を展開することができる軸になる立場で、ハナニムを動かして、人類の希望を結束させ得る立場で、自分が動ずれば全体が動き、自分が静ずれば全体が静ずるようにするという宇宙史的な責任感を感じながら暮らす男性なら、決して臆病者ではないのです。
(49-303, 1971.10.17)
修行の道に入っては、人は死ぬときまで死の道を行かなければなりません。死んですべき苦労を、生きて蕩減とうげんしようとするので、そのような道を行かなければならないのです。死んで億千万年苦労することを、縮小して、生きている間に蕩減してしまおうというのです。このように修行の道は、永遠に行くべき受難の路程をこの地上で苦難の道を歩んでいくことで蕩減しようというのです。
(31-320, 1970.6.7)

 

ロ) 愛が必要
天国へは、愛の軌道に乗って、行くのです。このように話すと、実感がわくでしょう。その愛のひもを引けば引くほど、細くなるのではないのです。ゴム紐は、引けば引くほど細くなりますが、愛の紐は、引けば引くほど、反対に太くなります。
ですから、み旨のために苦労の親分になることが、世界を占領し得る秘法なのです。苦労の親分が、天国の栄光を独り占めするのです。
(57-162, 1972.5.31)
今日、宗教を信じる人たちが「天国に行こう」と言いますが、天国にそのまま行けますか。まず、地上で天国を迎えてから、行かなければならないのです。地上で天国を迎えるためには、愛の法度を経なければなりません。
皆さんの家庭に、子女たちがたくさん生まれれば生まれるほど、ハナニムの国をもっと愛すべき十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送るのは、背負う十字架が多いということなので、国のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような内容を知って、責任を果たす人になるべきです。そのような家庭であってこそ、その家庭に後代を相続することができる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。
(32-232, 1970.7.19)
どのように天国に行くのでしょうか。ハナニムの愛に狂って生きるべきです。アダムとエバ以上に、ハナニムを愛すべきであり、ペテロ、ヤコブヨハネ以上にイエス様を愛すべきです。そうしなければ、ハナニムが私を愛することができる、まことの愛の相対圏を復帰することができません。これだけ復帰するようになれば、万事が思いどおりになります。
お金がないと心配せず、息子、娘がいないと憂慮せずに、10年、20年その道を続けて行ってみれば、大きな山や険しい峰にも登れるようになります。自分には、だんだん下っていき、苦労ばかりするように感じられるのですが、だんだん高くなるのです。統一教会は、打たれながら大きくなります。一つの家の中で、10人が暮らしているとすると、公的目的のために10人の反対を受けながらも耐え抜く人が、その家庭の主人になるのです。すぐ天国の主人になるのです。
(142-289, 1986.3.13)


皆さんは、五色人種の息子、娘を抱いて、その孫たちを抱くことができなければなりません。それで、ハナニムの真なる愛をもって、真なる父母として、世界人を愛する家庭の主人になったという立場に立つべきです。ハナニムの愛を中心とした、本然の父母の因縁の中で、真の愛の家庭基準を代表し得る立場に立つことによって、初めて天国に入ることができるのです。
天国に入るには、真なるハナニムと真なる父母の、真の愛に一つになるべきです。その血統的関係から生まれた息子、娘と共に、この地上に生きてから行く所が天国ですが、今までそのように生きて行った人は一人もいません。それゆえ、天国は空いているのです。
(176-210, 1988.5.9)
天国に行く道は、兄弟をハナニムのように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についていこうとしますが、その心で兄弟に従って共に行こうと努力しなければなりません。天国に一番高く、早く、良く導く者は、ハナニムでもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すようになります。
(66-125, 1973.4.18)
では皆さんは、世界天国に向かっていきますか、個人天国に向かっていきますか。世界天国に向かっていくと言うでしょう。先生も欲が深くて、世界天国に行く愛のつなをぎゅっとつかむために40年間、迫害されながらこのことをしたのです。個人の愛の綱を越えて、家庭の愛の綱、宗族の愛の綱、民族の愛の綱、国家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためにです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探した次には、福を受けて出世したので、還故郷するのです。故郷に行って、かわいそうな人たちを生かしてあげるべきではないですか。
(143-141, 1986.3.17)

 

ハ) 実績をもつべし
過去には、祈祷をして精誠を捧げても、瞬間しかその宗教の教祖と会えませんでした。会ってはみな別れました。それで、また上がらなければなりません。しかし、今は全部宗教圏を中心として、地上に再臨することができる時が来ました。そのような時代が来たために、皆さんが過去と、現在と、未来を動かせる実績をもてなければ、天国に行けません。過去の時代は、天使と善なる霊人たちの時代であり、現在の時代は、父母の時代です。そして、未来の時代は、ハナニムの時代です。それゆえ、霊界を動員し、父母様を動員し、ハナニムを動員した実績をもたない人は、天国に入れません。アダム、エバに天使が動いて協助し、ハナニムが動いたのと同じです。そうした次に、宇宙はアダム、エバが動かさなければならないのです。


皆さん、ハナニムを中心とした3世界すなわち、過去、現在、未来を支配し得る人だけが、天国に入ります。そうしてこそ、本然の世界である天国に行くのです。
(161-199, 1987.2.3)
天国に行くことができる条件は、自分の息子、娘よりもハナニムをもっと愛すべきなのです。夫より、妻よりも、主をもっと愛するべきなのです。自分の体よりも、聖神聖霊)をもっと愛するべきなのです。これが三位一体です。
(10-100, 1960.7.17)
では、天国に誰が入って暮らすのでしょうか。ハナニムを喜ばせた息子、娘が入って暮らすべきなのです。ところで、堕落という名詞が生まれた以後、数千年の歴史を経てきながら、数多くの人類が膨張、繁殖しました。そのように繁殖した人たちの中で、ハナニムを幸福にしてさしあげた人が、この地に生まれませんでした。
(143-23, 1986.3.15)
皆さんは、統一教会を信じて天国に行くのを願っているかもしれませんが、自分がこの地上で実績を積むことができなければ、たとえ天国に行くとしても、恥ずかしいのです。我々は、観念的に信仰生活をして、天国に行くという群れではありません。すべての努力と精誠を注いで、天国を建設するという群れです。これに反対したり、制止する人がいるなら、許すことができません。天国を建設するためには、自分の心身はもちろんであり、自分のすべての所有物と環境まで全部投入しなければなりません。そして、国家の運命に責任をもつべきであり、さらにアジアの運命にまでも責任をもたなければいけません。
(22-226, 1969.5.2)

 

ニ) 「ため」に生きるべし
皆さんが50年の生涯の中で、25年以上をこの宇宙のために、天倫に従って生きたなら、天国に行くのです。それならば、あの世に行って良い霊界にとどまることができますが、自分を中心にして生きたことが多くなれば、残念ですが善なる本郷の世界に行くのではなく、自分だけのためにしようとする悪の本郷の地獄に行くのです。そのような事実を知り、今から皆さんは自分のために生きた過去の生活を清算して、余生を全体のために、国のために、世界のために、天地のために、ハナニムのために生きなければなりません。そうすれば、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に向かって進むことは間違いありません。
(78-119, 1975.5.6)
霊界がどのようになっているかという事実については、誰にも負けない体験をし、また、霊界は私の専門的な分野です。あの霊界の秩序的起源を尋ねてみれば、どのようになっているでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が、天国です。そこは、我々の本郷です。
我々は善かれしかれ、いずれそこに行くべき運命に置かれています。それが我々の一生の道です。我々は、そこに向かって旅人の道を行っているのです。では、ここで問題となるのは、自分のために暮らしたか、人のための生活をしたかということです。その差に従って、人のために生きたことが多いというときは、天国に行くことができるのです。その反対になるときは、地獄へ行くのです。この原則は、この場では信じられないでしょうが、死んでみれば分かるようになります。


ハナニムは、人類を救うために、宗教を立てて摂理してこられます。それゆえ、高次的な宗教であるほど、その本郷のみ旨と本郷の原則に一致する教訓を述べざるを得ず、「犠牲になれ、奉仕せよ」という勧告をせざるを得なかったのです。
このように、ハナニムが歴史と宗教の背後から摂理しているという事実を否定することができません。このような原則について見るとき、「ため」に生きようとする宗教は発展することができますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら、主体的な立場に立とうとする宗教は下っていくという結論も、ここから見いだすことができるのです。
(74-51, 1974.11.27)
天国は愛の世界であり、中心者であるハナニムのためにある世界、ハナニムのために生きる世界です。
(98-35, 1978.4.8)

 

② 天国に行くことができる生活

イ) 我々の立場
人間の創造は、ハナニムが人間をハナニムの愛に同参させたことです。ハナニムの愛から出発し、ハナニムの愛の懐で成熟し、次に家庭を成して世界的な愛をつなぐ愛の完成者になり、ハナニムの愛の懐に帰らなければならないのが、人生の道です。
堕落することによって、これが根本的に破綻はたんしました。ハナニムと人間との関係が隔離されてしまったのです。いくらハナニムの前に帰ろうとしても、帰ることができず、また、ハナニムが我々人間の所にいくら来ようとしても、来ることができない間隔が生じました。壁が生じて、国境が生じたのです。その壁は、ハナニムも越えることができず、ハナニムを父母として侍る人間も越えることができません。
この壁が、我々個人の心と体の間に入り込むようになりました。夫婦の間にも、壁が入り込むようになりました。家庭がそうであり、宗族と民族と国家と世界、全霊界の天国と地獄の間にも、このような塀が生じたのです。この塀を取り除かなくては、ハナニムがいくら天国の栄光のみ座にいらっしゃるとしても、地上にいる我々は、包囲されたこの塀を越えることができません。
これが、この地上に生きている人間の悲劇です。この悲劇をどのように打破するか。我々人間が、ハナニムを父母として待って生きるべきであり、ハナニムからすべての生活を指導されるべき立場にあるのにもかかわらず、ハナニムがいるのか、いないのかも分からず、あるいは「決定的に神がいない」、さらには「神は死んだ。我々人間世界で神を掃いて捨てなければならない」という悲惨な歴史的な環境が、我々が生きている世界に展開されています。
(135-267, 1985.12.15)


ロ) 天国に行けない場合
み旨が動機になるでしょうか、自分が動機になるでしょうか。自分が動機になってはいけないのです。それなのに、いつもみ旨をあとにして、自分を動機とする時の多いのが、今日の人間たちです。み旨は受難の道を要求していますが、「私」はそれに背こうとします。相反する立場なのです。み旨は右に行けというのに、自分は左に行こうとします。「私が統一教会に入ってきて、誰々よりも苦労しなかったというのか」という条件を提示して、自分を弁明しようとします。
自分を弁明しようとする者は、天国に入ることができません。絶対的な信仰というものは、自分を弁明する立場ではないのです。弁明される立場になるべきです。そこには一言半句、何かを提示する内容もありません。弁明される立場です。うまくやっても、「うまくやった」と言える立場ではありません。自分が100パーセント認められるものだとしても、ハナニムが見るときは一つです。自分が100と認めるものが、ハナニムには一つなのです。それゆえ、天国は自分を中心として提示する立場では、訪ねていくことはできないのです。
天国はどこから始まるでしょうか。絶対的な信仰を起点として出発するのです。絶対的な信仰というものは、自分を主張できるものではありません。その立場は、自分を絶対否定する立場です。自分を絶対的に否定する立場に立たずには、絶対的な信仰が出てくることはできません。
皆さんが、世の中の万事を肯定しながら信仰の道を行くときには、絶対的な信仰が出てきません。
このような根本問題について、今日大部分の人を見てみれば、1日の生活圏内で、朝に起きて御飯を食べてする習慣的な生活をしながらも、「私はハナニムに対して堂々としている」と言います。そのように信じる人がたくさんいます。そのような人たちは、天国を所有することはできません。堂々とすることができないのです。自分を公認する相対的な要因がなくては、絶対的信仰基準ももてないのです。絶対的な信仰基準ももてなかったのに、絶対的な信仰基準を克服してしまったのちに、初めて成される天国が成就され得ますか。とんでもないことです。なぜそうなのでしょうか。その立場には、サタンがとどまっているためです。
(46-79, 1971.7.25)
今までの歴史上に、ハナニムの前に呼ばれた人たちは、全部50代以上、60代以上でした。年が多くて、やつれて、間もなく共同墓地に行くしかない人たち、葬送曲を歌う日が近いやからだったのです。そのような背後から、ハナニムは今日、このようにやつれてやせた老年層を捕まえて摂理しますが、これからは壮年層を捕まえて摂理しなければならないのに、彼らを捕まえてどのように摂理を展開させるかという心配をされたのです。ハナニムは、そのような事情を抱いて歴史路程を歩んできたのです。
老年時代が過ぎて壮年時代に、壮年時代が過ぎて青年時代に、青年時代が過ぎて少年時代に、少年時代が過ぎて幼児時代に、そのように皆さんは再び生まれなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。皆さんは、少しも汚れなく無邪気な幼子のように、かわいがられることができなければなりません。それで、イエス様はニコデモに、「新しく生まれなければならない」(ヨハネ3:7)と言いました。生まれ変わらなければ、すなわち「重生しなければいけない」と言われたのです。それで、ハナニムは最後に収拾する役事として、母の腹中から救いの役事をしようというのです。どれほどすごいことでしょうか。
(20-95, 1968.4.28)


ハ) 天国のための我々の生活
皆さんが70年、80年を生きると見るとき、その中で3分の2が悲しい生活だとするなら、この3分の2をどのようにすべきでしょうか。ハナニムを中心として、うれしい生活にしなければなりません。天国化させなければならないのです。天国は与えながら生きる所です。ハナニムも与えなければならないのです。父母は、子供に与えなければならないのです。良いものを与えてしまっても、もっと良いものがあれば、それもまた与えたいのが父母の心です。
(34-141, 1970.8.30)
皆さんは今、戦っています。自分の一生の間、大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、自身の体と心が戦っているのです。これをどのように平和にするか。この戦いで体が勝つか、心が勝つか。「私は間違いなく心が勝つ」と言える人にならなければなりません。心が勝つ人は、善の側であり、体が勝つ人は、悪の側です。
では、体と心が戦っている戦場で、心が体を倒して勝つことができる秘法、または体が心をたたいて捕まえる秘訣ひけつとは何か、その戦法とは何でしょうか。これが問題です。その武器とすべての装備が、どのような方向を経て動員されるかという問題が、善になるか、悪になるかを決定づけるのです。ここにおいて重要なのは、この対立を解決し得る要因とは何かということです。悪の世界に暮らしている人間に、善が成立し得る必要要件とは何でしょうか。悪が成立する要件とは何でしょうか。これを知って、取ったり、取り除いたりしようというのです。この要件は、知ってみれば簡単です。
(36-61, 1970.11.15)
優れているという男性、優れているという女性がいるときに、男性が男性の権利をもって「祝福を自分一人で受ける」、また、女性が女性の権利をもって「自分は一人で祝福を受ける」と言えますか。ハナニムのみ旨を絶対視して、人類の希望として提示されたすべての条件を越えなければならないのです。そのままでは、できないのです。これからの地上天国ですることとは何かというと、夫婦が、世界的な歓迎を受け、世界から尊重される妻と夫になるための道を尋ねていくことです。それが、地上天国で暮らす生活方法です。
(162-69, 1987.3.27)
「私」という一人は、善だけをつかんでいくことはできません。これは世界的に善が占めるとか、悪が占めるというようになれば解決されますが、善が占めるときには生き、悪が占めるときには滅びるのです。このようにこの世界は、死ぬか、生きるかという興亡の道を走っているのです。


個人は、歴史の所産物です。家庭も歴史の所産物であり、国家と世界も歴史の所産物です。その歴史の所産物の中で、善の所産物がどれほどになるでしょうか。自分の個体について比重を計算してみるとき、善の所産物がどれほどになるでしょうか。我々が暮らしている生活環境の中で、善の所産物が何パーセントになり、個体の人格の中で、何パーセントになるかというのが問題です。
悪に接する要因をたくさんもっているか、善に接する要因をたくさんもっているかを見るようになるとき、全体が悪に接する要因によって囲まれています。
悪の道においては、教育は必要ありません。教育を受けなくても、誰でも行くことができるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくても誰でも行くことができるのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか。自らそのようになったために、今日人類道徳を中心として、良心の標準を見極めていきなさいと教育するのです。
何を中心とした教育でしょうか。善を中心として、良心を中心として教育をしたのにもかかわらず、その教育の標準に立脚した人がどれほどいるでしょうか。悪のことは習わなくても、誰でもみなすることができるのです。誰でも、満点になることができるのです。
このような環境の中で暮らしている我々に、良心はいつも「善であれ」と勧告します。我々の心は、いつも善の人になれと、休まず自分を刺激し、自分に勧告するにもかかわらず、善の自分になったでしょうか。このような問題を考えてみるときに、きょうも嘆息であり、あすも嘆息であり、今年も嘆息であり、青春時代も嘆息であり、中年時代も嘆息であり、老年時代も嘆息なので、嘆息で一生を終えるのではないでしょうか。言い換えれば、悪のことで終わりを見るのではないかというのです。このような結論を下すしかないのです。悪から生まれたために、悪でのたくり、悪に行くのが、今までこの世の中に生まれては死んだ数多くの人間たちの生涯であり、今この地に生きている数多くの人類の行路というものです。
今日、統一教会は何をする所でしょうか。悪くなれと教えてくれるものでしょうか。それなら統一教会は必要ありません。悪は教えてあげる必要がないのです。悪の道は教えてあげなくても、楽に行くのです。
(36-56, 1970.11.15)

 

ニ) 我々と天国
エス様は死を目の前にしても、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と言いました。死に際にも、ハナニムに抗議するのではなく、父のみ旨がもっと大きいように、もっと大きな犠牲も当然捧げますという姿勢でした。この立場では、もっと深く入れるために、ハナニムともっと近い立場に入るのです。そのような人の前では、ハナニムもどうすることもできません。そのような人を打つ人は、すぐに滅びます。ハナニム自らが制裁をされるのです。それゆえ、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(同6:3)と言いました。


ある日、「誰かに何千万ウォンをあげたから、それに対する利子をいくら持ってこなければならないのに」と言いながら、与えたものを記憶する人は、天国の主人になれません。与えたものを忘れなければなりません。
父母が子供を育てるとき、いくらいくらを投資したから、その利子をもらうと言う、そのような父母がいますか。与えても、みな忘れるのが父母の心です。与えたものを忘れるだけでなく、もっと良いものを与えられなくてふびんに思うのが父母の愛です。その愛は永遠に続くために、父母のいない人を孤児と言い、孤児になるのを好む人はいないのです。
(36-85, 1970.11.15)
天国とはどのような所か分かりますか。「ため」に生きる人たちが行く世界が天国です。自分のために生きる人は、絶対に行けません。そのような人は、地獄に行くのです。有名な牧師だからといって行けますか。行ってみれば分かります。我々統一教会は、怨讐おんしゅうまで救ってあげ、共産党まで救おうとするのに、共産党統一教会を全部首を切ってなくそうとします。これが違うのです。ですから、どのような思想がこの世界を支配すべきでしょうか。我々は共産党よりもっと強くなければなりません。悪なる人になって強くてはいけないのです。「ため」に生きる愛を中心として強くなれば、世界を救って余りあるのです。
今の我々は、天国で暮らす人ではなく、天国に行こうとしている人です。このような生活がどれほど続くと思いますか。きょう終わるだろうか、10年、100年かかるだろうか。そのようにしていて、死んだらどうしますか。それゆえに、接ぎ木されなければならないのです。ぷつりと切ってしまって、接ぎ木されなければならないというのです。
(91-173, 1977.2.6)
最後に、どのような世界に行くのでしょうか。地獄に行くでしょうか、天国に行くでしょうか。皆さんは行きながら、「先生! 私を助けてください」と言う人になりますか、「先生! どうぞ来てください」と言う人になりますか。死ぬか生きるかなのです。皆さんは、「結婚して豊かに暮らす」と言いますが、先生が「豊かに暮らせ」と言うのは、「変わらない夫婦になれ」ということです。変わらない夫婦になるには、移り変わる世界に行って共に修練を受け、南北に分かれ、四方に分かれて暮らす世界に行っても、分かれてはいけません。このように訓練された立場に立たなければなりません。
(129-182, 1983.10.30)

 

③ 四位基台と天国

イ) 天国は家庭が入る
先生が、今まで家庭的にだけこのことをしてきたなら、迫害を受けることがありますか。先生は、お父さん、お母さん、親戚しんせき一家、姻族の八親等まで、全部集まった場で、みことばで彼らを感動させる自信があります。間違いなく、親戚や一家全体をみ旨の前に立てる自信があるのです。それが天のみ旨ではないために、そうすることができませんでした。イエス様もそうすることができなかったために、自分の親戚の前から追い出されました。


しかし、皆さんはそのようなすべての時を過ごした立場なので、親戚を伝道することができ、父母に取りすがって涙を流しながら、自分の切なる心情を吐露することができる時代的環境を迎えました。そのため、皆さんの立場は先生の立場より良いのです。今は、皆さんの親や親戚たちがみ旨を受け入れまいとするなら、泣き叫んで、どのような手を使ってでも感動させることができる時です。お兄さんは、どうしても対話するのが少し難しいですが、弟ぐらいは、「やあ、お前、信じるのか、信じないのか」と言いながら、小突いて強制的にでも信じるようにできる自由な時が来ました。このような時を迎えているのに、皆さんが責任を果たせなくては、天の前に面目がないのです。先生もこれからは、そのような人たちに対することができません。
これをしなければ、天国に行けません。天国へは、家庭を成してこそ行けるのです。
(21-66, 1968.9.1)
統一教会は、個人では絶対救われることができないと見ます。個人としては、天国に行けないのです。一人では行けません。原則がそうです。エデンの園のアダム、エバが二人一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国に行くようになっているでしょうか。夫婦が合わさり、家庭が合わさらずには、天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行けば何の天国ですか。天国は、夫婦が行くべきであり、家庭が行くべきであり、家庭だけでなく、一族が行くべきであり、国家全体が行くべきなのです。
(50-63, 1971.10.30)
天国は、どこから始まるのでしょうか。自身が生まれた心情的起源までも否定するところから始まるのです。それで、修行の道を行く人は、独身生活をするのです。しかし、ここには難しい問題があります。再臨主が来て、この問題を解決してあげる時までは、個人的問題に逢着ほうちゃくするようになるのです。
個人の救いを中心にしては、これから行くべき道がないために、人類を救うためには、家庭を救わなければなりません。このような家庭全体が救われ得る道を開いてあげるために、再臨主が再びこの地に来られるのです。今日キリスト教徒が、「イエス様を信じて天国に行く」と言っていますが、全部個人主義に陥っているのです。本来、天国には一人で行くようになっていません。アダム、エバが堕落しないで、ハナニムの愛の圏にとどまっていたなら、彼らは天国に行くでしょうか、行けないでしょうか。そのようになったなら、地獄はありもしません。
天国は、夫婦が息子、娘を率いて行く所です。息子、娘、孫たちと共に、その一門を率いて行く所です。さらには、国全体が行く所です。それゆえ、天国になるのです。天国は、このようにして成される所です。
(41-300, 1971.2.17)
一人で座って「ここが天国だ」と言えば、ハナニムが考えるとき、どれほどもどかしいでしょうか。これをもって「良し」と言えますか。しかしハナニムが、人間世界を見るとき、宗教の世界を見るとき、どれほどもどかしいですか。
(96-71, 1977.12.18)


我々統一教会は、どのような水準にまでなるべきでしょうか。釈迦牟尼しゃかむによりも立派な人になるべきであり、イエス様や孔子よりも立派な人になるべきです。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし統一教会は、個人の救いよりも、家庭の救いを目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点は、これです。救いを目的としますが、家庭を救い、天国に行くにしても自分一人では行かないのです。
統一教会の救済観は、夫は天国に行き、夫人は地獄に送ろうというのではありません。二人とも天国に行こうというのです。母、父を地獄に送るのではなく、母、父を連れて、息子、娘も連れて、天国に行こうというのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する宗族までそっくり連れて、天国に行くことができる道理を教える宗教なので、他の宗教とは次元が違います。それゆえ、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、ハナニムのための家庭です。これが統一教会の信徒が行くべき道です。
(34-359, 1970.9.20)
家庭で幸福の対象者が誰かというとき、夫には妻であり、妻には夫であり、父母には子供であり、子供には父母です。この基地から天国建設が可能なのです。
「天国はあなた個人にある」という話はされましたが、「天国はあなたの家庭にある」という言葉は言えなかったイエス様が、どれほどかわいそうであり、孤独であられたかを考えてみてください。それでも、皆さんは家庭をもち、幸福を謳歌おうかしています。我々にはそのようにできる一瞬があるのに、天下を救うための求道者の主人であり、ハナニムのひとり子であられるイエス様が、このような環境、天国基地を夢にも見ることができず、「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国を犠牲にしようと歩き回って3年も満たせずに十字架で亡くなったので、その方の生涯が、どれほど孤独であり、悲惨かというのです。
エス様が願った天国が心の天国ならば、心の天国を越えて環境の天国を築くということは永遠に不可能なのです。家庭天国を越えて、社会天国を築き、国家天国を築くというのは永遠に不可能です。世界天国はいつ成されて、天上天国はいつ成し遂げられるのでしょうか。メシヤには、万民を救い、霊界を解放して、ハナニムを解放させるべき責任があるのです。このような立場を考えるとき、どれほど驚愕きょうがくすることでしょうか。イエス様が十字架にくぎ打たれて死んだのは何でもないのです。そこで倒れれば、天の前に面目が立てられないのです。天国理想、理想社会の覇者として立つようになるので、面目を隠すことができ、覆ってくれるふろしきがあれば探したかったのです。100回死んでも、その恥ずかしさを免れる道がないイエス様の心情を分かる者が、誰かいたかというのです。
(120-48, 1982.10.3)


天国という所は、一人では行けません。天国という所は、必ず相対理想を決定づけてこそ入るようになっているために、堕落人間が天国に入るためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。皆さんに祝福をしてあげるのは、天国の門をすっかり開けておくということです。「祝福」という名詞を掲げて、閉じている天国の門を開けてあげることです。
その門から家庭が入るのです。息子、娘をもって入らなければならないのです。家庭は、すべての実績をもった歴史的な実にならなければなりません。ハナニムの6000年の復帰歴史が、一次アダム、二次アダム、三次アダムの時代を経たので、家庭でも三人の息子を経て、その三人の息子にも相対を立てておかなければならないのです。それで、家庭的に入るのです。
(152-240, 1963.5.25)

 

ロ) イエス様と家庭
ハナニムを中心として、永遠に共に暮らすことができる愛の家庭を標準として教えてくれた宗教が、キリスト教です。ハナニムが人間に会おうとするのも、家庭をつくるためです。人間の願いがこれです。これ以上の願いはないのです。
(39-343, 1971.1.16)
エス様は、家庭を成そうとしましたが、そのみ旨を成せずに十字架で亡くなりました。新郎新婦の名前を残して逝かれたのです。それでイエス様は、再び来て「小羊の婚宴」をすると言いました。これは何かというと、ハナニムが安息し得る理想的な家庭を出現させることです。それによって、イエス様はまことの父母の立場に行くようになるのです。真の父母の立場から、真の子女を生んで、真の兄弟を成し、このような真の家庭を中心として、真の氏族と真の民族を成し、新しい民族と新しい国家を形成なさらなければならないのです。これをするために、イエス様は再び来なければならないという結論が出てくるのです。
(39-345, 1971.1.16)

 

ハ) 四位基台と天国
復帰といえば、四位よんい基台復帰をいうのです。四位基台復帰をするには、父を復帰し、母を復帰し、息子、娘を復帰しなければならないのです。それゆえ、祝福された皆さんは、夫婦が完全に復帰されて、息子、娘を生んで、堕落しなかった立場に立てておかなければなりません。そうするためには、新しい伝統を入れなければなりません。そうしようとすれば、聖人より良くなければならないというのです。
(58-35, 1972.6.6)
家庭天国を成すところで、初めてハナニムが理想とする地上天国が安着するようになります。それは四位基台にならなければなりません。「統一原理」において創造理想の完成は、四位基台の完成だと言います。それはどうしてでしょうか。ハナニムとアダム、エバを中心として、3段階を経て、縦的世界と横的世界が繰り広げられると、四位基台を成そうとするからです。アダム、エバの息子、娘がいてこそ、横的な世界が繰り広げられるのです。そのようになれば、縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした、体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めてハナニムが臨在なさることができるために、地上に天国が実現するのです。
(96-29, 1978.1.1)


4) 天国の門と天国入城

 

① 人間の心門

釈迦牟尼しゃかむにのような方も、神秘的な境地に入って、「天上天下てんげ唯我独尊」という言葉を言いました。修道しながら精神を統一して、霊的世界に入ってハナニムの前に完全な対象の位置に入ると「天上天下唯我独尊」という言葉が可能なのです。先生が世の中をぎゅっとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶ける気持ちがするのです。そのような境地に入るようになれば、奇跡は自動的に生じます。病気を治すのは、自然に信仰生活の付属物としてついて回るのです。
それゆえ、心門に合わせて、心田を啓発しなければならないのです。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられるハナニムを発見すべきです。ところで、主体であられるハナニムは曖昧あいまいです。曖昧なハナニムにつながるには精神を集中させて、自分の心から出発する道以外にはないのです。心から、心を明らかにしておけば、必ず方向を知るようになるのです。自然についていくのです。
皆さんもそれを感じるでしょう。東に向かって祈祷をしたのに、神秘の境地に入れば、方向が変わるのです。そのようなことが繰り広げられるのです。それゆえ、心の門があるのです。
祈祷は良くできるときもあり、いくら斎戒沐浴もくよくをし精誠を捧げても、できないときがあります。部屋によって、また部屋の位置によっても違います。一つの中心には東西南北があるために、その位置によって違うのです。また、方向によって違うのです。山に行っても、祈祷が良くできる所もあります。また、サタンが集まっている所もあります。それは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。
暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などが繰り広げられるのは、人間とハナニムとの関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避な現象なので、これをおろそかにせず、生活に適用できるよう努力しなければなりません。
(76-143, 1975.2.2)
そのために皆さんは、心の門を開いて、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。心の畑が啓発されたならば、それで終わるのではなく、それを相対的な世界に適用させることができなければならないのです。
(76-155, 1975.2.2)

 

② 開天門とは何か

イ) 開天門すべき理由
きょうは「開天門の日(1985年2月1日、米国ダンベリー刑務所内で宣布)」です。(人類始祖の)父母が過って失敗したので、失敗したすべての責任をハナニムが負ったのです。ハナニムがもたれたその責任を引き継いで、レバレンド・ムーンが門を開いてあげなければなりません。個人が行く門を開かなければならず、家庭が行く門を開かなければなりません。その次には、宗族が行く門を開かなければなりません。すべての門がふさがっています。民族が行く門もふさがりました。国家が行く門もふさがりました。世界が行く門もふさがりました。これをみな開いておかなければなりません。レバレンド・ムーンが、統一教会の家庭を通じて門を開こうとするのです。


ハナニムは、より大きなものを探すために、小さいものを準備してくる作戦をします。個人から家庭、宗族、民族、国家、世界、その次に天宙、霊界までも、地獄と天国に分かれています。これが、誰のためにそのようになりましたか。アダム、エバまことなる父母になっていたなら、これが一つの世界になったのに、堕落して偽りの父母が生じることによって、地獄と天国がふさがるようになったのです。
この歴史的な恨みの塀を、誰が克服してしまうべきでしょうか。真の父母様が克服してしまうべきです。そのことは、国の王権をもち、み座でするのではありません。人類が地上の地獄に暮らしていて、霊人たちが霊界の地獄で苦痛を受けているので、地上地獄の門と天上地獄の門をすべて開いて、地上の個人から国家と世界を連結させ、その次に、地上から天上世界まで通じ得るように道をつなげなければなりません。ハイウェイをつなげなければなりません。主流と通じることができる、たった一つの道としてつなげなければなりません。それで、皆さんの心と体が一つになり、一つになった基準で家庭を経て、宗族を経て、民族と国家、世界を越えて、天上世界に行ってもふさぐ塀があってはいけません。みな克服してしまうべきです。
最後の問題は、ふさがっている霊的な地獄の門天国の門を開くことです。地上地獄の門を開き、天上地獄の門を開かずしては、天国に入ることはできません。地獄に勝った人だけが天国に行くことができます。何によって勝つべきでしょうか。祈祷で勝つことができるのではありません。ハナニムの愛をもって勝つべきです。そうせずしては、天国に入れないために、レバレンド・ムーンはハナニムの愛を中心として地上を経て、天上世界の地獄の門まで開いて、地上から天上まで行ける道を築いておきました。「国際平和高速道路」という言葉も、それで出てきました。ふさがった塀を壊してしまうのです。イエス様が、天国の王子、ひとり子の権威をもつことができたのは、サタン世界だけを愛したのではなく、霊界まで愛したためです。
霊的世界も塀でふさがっています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがっています。これを全部、より高いハナニムの心情を通じて払いのけておかなければなりません。天上世界の高いみ座から、存在する塀を壊してしまい、逆さまに下りてこなければなりません。何万年の我々の先祖の塀から、その次に何千年の我々先祖の塀、何百年のこの時代の塀、今、何年前に行ったすべての人たちの塀まで、全部壊し、地上のすべての塀を壊して、これを地獄までつなげることができる道を築かなければ、開天門がなされないのです。
(140-43, 1986.2.1)


ロ) 開天門の始原
先生が有り難く思うのは、オモニです。オモニは先生がダンベリーにいる間、たびたび深い次元の心情的谷を経験しただろうと思います。分別のなかったころに出会って、その時から平衡線で上がってくる人生でした。そのように生きたために、基準がだんだん上がってきているのです。その前には、心情の深い谷は体験できなかったでしょう。ダンベリーによって別れてみたから、先生の貴い価値を知るようになったのです。女性が、夫に対して、その孤独な事情がどうであるかということを知ることができたのです。
それゆえに、2月1日を期して、天上世界と地獄の門を開く式をするようになったのです。今は、駄目なのです。極と極の立場に立てておいてこれをつなげ得る立場でだけ、初めて一つの解決点が生じるのです。霊界と肉界をつなぐのです。1985年2月1日午前3時(アメリカ時間)ダンベリーとイースト・ガーデンで、そのような基準を立てたのです。
ハナニムの心をもって、愛の力がつながり得ることを、皆さんがしなければいけません。ずうずうしい責任者になって、ハナニムに救われる立場で、自分がここから行こうとするのでしょうか、この垂直線から行こうとするのでしょうか。
天性に向かって行く道は、男性と女性が一つになって行くべきですが、どこで一つになるのでしょうか。軸で一つになるべきなのです。軸で一つになって、軸に従っていかなければなりません。上がっていくときは、軸に向かって上がっていくべきであり、下がっていくときも、軸に向かって下がっていくべきなのです。そのような道を、家庭を中心として、宗族圏、民族圏、国家圏、世界圏まで蕩減とうげん復帰の原則により、誰でもが行かなければならないのです。誰でも、そのような道を経なければなりません。なぜなら、堕落圏にいるためです。
(136-47, 1985.12.20)
先生は一生の間、怨讐おんしゅうを愛することをしました。個人段階からそのことをし、家庭段階でそのことをし、宗族、民族、国家、世界段階、その次に天宙段階までそのことをしました。ダンベリーになぜ入ったのでしょうか。霊界と肉界が塀でふさがっています。堕落した父母によってもつれてしまったものを解くためには、霊界と地獄に道を築いておかなければならなかったのです。
1985年2月1日午前3時を期して、オモニと特別祈祷をすることによって、そのような条件を立てました。その時から、地獄のすべての塀が崩れて、誰でも努力すれば、天上世界に上がることができる道が生じました。また、霊界において自分の親戚しんせきたちの中で善の霊がいれば、地獄に来て教育をして、率いていくこともできるようになりました。霊界の救世主の役割が始まったのです。救世主の役割が霊界にはなく、この地にだけあったのに、このような道を築いてあげることによって、あの世の善の霊たちが地獄にいる悪の霊たちを教育して、善の先祖が救世主の役割をしながら、発展して上がることができる道が開かれるようになりました。
(136-187, 1985.12.22)


ハ) 真の父母と天国の門
統一教会の使命とは何でしょうか。統一教会は、過去の宗教とは異なり、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しなかった本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が、ハナニムの愛の中で夫婦の因縁を結んで、息子、娘を生んで天国に行く所を言います。
お父さんが地獄へ行き、お母さんが天国に行っては、それが何の天国ですか。父母は天国に行って、子供が地獄に行けば、それが何の天国かというのです。天国は、父母と子女、宗族、民族、国家がみな入る天の国です。
人類が偽りの父母から出発したので、天国の門を開いて入るには、真の父母が出てこなければなりません。ハナニムも、自ら天国の門を開くことができません。ハナニムが自ら天国の門を開くことができるなら、そのような能力がある方が、なぜしないでしょうか。堕落は、人間がしたために、罪を犯した人間が罰を受けなければなりません。人間が天国を失ってしまったから、人間が取り戻さなければならないのです。それで6000年もかかったのです。
では、天国を開門するためには、どのようにすべきでしょうか。しもべしもべの立場にいる人を、養子として直系の息子と因縁を結ぶようにして、その直系の息子に絶対服従させなければなりません。ここにおける直系の息子とは誰かというと、堕落する前のアダムです。また、養子は誰かというと、堕落する前の天使長です。本来、養子は僕の立場なので、直系の息子のように愛することができません。
(42-286, 1971.3.27)
堕落しなかったなら、霊界に行った人たちが、ハナニムの愛と真の父母の愛の核につながって天国に入るのですが、歴史始まって以来、そのような因縁をもてなかったために、天国行きが全部保留になりました。どこで保留になったかというと、地獄で保留になり、その次には楽園で保留になっています。それゆえ、天国は空いているのです。
天国には誰が先に入るべきかというと、真の父母が先に入らなければなりません。「天国は空いている」と言えば、レバレンド・ムーンを見て「ばかげた話をする」と言うかもしれませんが、イエス様も天国に入れませんでした。天国は一人では入れません。
人間の先祖が、思春期を過ごし、ハナニムを中心とした愛の理想をなして生き、真なる愛の種を残して父母になり、先に入るべき所が天国です。しかしまだ、ハナニムの愛を中心として、父母としてこの地上に愛の種を残した父母がなく、そのような子孫を残した基盤が生じなかったために、天国は空いているのです。天国に行くには、地獄を経なければなりません。
天国に行くには、地獄に勝たなければなりません。地獄に勝った人が、天国に行くのです。地獄を越えて、天国に入る道端にとどまっている所が楽園です。
(140-45, 1986.2.1)
人類を一人の男性と一人の女性として見なさいというのです。40億の人類がいるなら、「40億の人類の半分である20億の人類は男性であり、20億の人類は女性である。20億個の細胞をもった男性が生まれ、20億個の細胞をもった女性が生まれた。私は、これを愛する」と、このように考えなさいというのです。40億の人類を植えて、アダムの再創造とエバの再創造の役事をするのです。