八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 3-2

八大教材教本 天聖経(2012年版)p679-714

【天啓の御言】(3-2)

 


その言葉はどういう意味かというと、20億の人類の中から、初愛をすることができる一人の男性を選び、20億の人類の中から、初愛をもって結ばれ得る一人の女性を選び出すためのものなので、このような代表者を20億の人類の愛の実として見るのです。それで、「20億の人類の愛の実になる実体を、自分を生んでくれたお母さん、お父さんよりも、もっと愛し、40億の人類を自分のお母さん、お父さんより、もっと愛する」というようになれば、ハナニムの愛の圏を中心として、一つになった立場で、人類を愛することができるので、自分はサタン世界とは関係ない立場に立つのです。
その代表的な方が真の父という方であり、真の母という方です。真の父母を愛する以上の心をもって人類を愛せば、万事がOKです。天上地獄の門も開かれ、地上地獄の門も開かれるのです。そのような人になるところは、どこでもハイウェイです。その代わりに、ガソリン代は皆さんが出さなければなりません。
本然の世界では、天国に行く道は、真の父母が導くのではなく、天使たちが導くのです。真の父母が皆さんを導くのは、原理ではありません。真の父母が道を築いておいたので、真の父母を愛すれば、この道をついていくようになっています。今や、その道についていきながら、真の父母を愛する立場に立って、人類を真の父母以上に愛するようになれば、皆さんが行く道は、万事が都合よく運びます。ふさがる道がなく、小道がないのです。ハイウェイで直通する主流の心情路程を行くのです。ですから、皆さんは地上から天国まで直行することができるのです。
世の中を眺めれば、二人、男性と女性がいます。父母様を愛する心をもって、皆さんはサタン圏を超越した心情圏に入るのです。父母様の前に引っ掛かる条件があれば、皆さんはまた行かなければなりません。それで、先生が一生を経て、父母の立場で子女たちが行くべき道を、責任をもってみな築いたのです。
皆さんが父母様を愛する心で、人類を愛する立場にあるなら、皆さんは、真の父母と一つになって水平線に立つようになります。そうなれば、堕落した心情圏は下になるので、サタンが皆さんに触れることはできません。皆さんは、天国に直通することができるのです。そのようなことを始めるためのものが、「開天門の日」宣布です。
(140-56, 1986.2.1)

 

ニ) 開天門の前に立った我々の姿勢
真の父母が地上にハイウェイをつくっておき、天上において勝利の覇権をもたらして伝授してあげたので、伝授してあげたその立場で、体と心にハナニムの愛の根を張り真の父母と一つになることによって、サタンは皆さんを連れていくことができないのです。
そうなれば、皆さんはどのようになるのでしょうか。先生が世界のために代表として、カインの息子、娘を救ってあげる蕩減復帰の役事をしたので、皆さんも真の父母を愛する以上の心情をもって、世界を愛したというようになれば、皆さんが地上世界や天上世界に行く道を、邪となったものが妨げることはできないのです。


皆さんが地上から出発して、世界を越えて、天上世界、天国にまで直行することができるのです。しかし、そのようにできないときは、皆さんの行く道が、幾重にも重なった大きな山と険しい峰になります。これを先生が知ったために、今まで命を捧げて準備して、きょう皆さんに「開天門の日」記念に参席できる特権を与えたので、どうか、そのような心情圏をなして、皆さんが無事通過することができる勝利者になることを願います。
(140-62, 1986.2.1)

 

③ 責任分担を通した天国行き

皆さんは今、どこにいますか。自分の位置を知るべきです。皆さん自身が、どこにいるか知るべきです。サタンとハナニムが、人間の責任分担の遂行可否について、「これは、あなたのものであり、これは私のものである」と分けています。人間は責任分担を果たせなければ、ハナニムのものになれません。サタンが、「これは私のものだ」と主張します。
皆さんが、ハナニムの愛、夫婦の理想的な愛、子女の理想的な愛を慕いながら責任分担を果たすようになっているのであって、「お金が必要だし、何々が必要だ。子供の教育をしなければならない」と、このようなことを言いながら責任分担を果たすようにはなっていないのです。
天国に入ろうとすれば、門番が責任分担を尋ねるのです。「あなたの責任分担を果たしましたか」と。堕落した世界には、絶対天国に行く人はいないのです。それゆえハナニムは、アダム、イエス様の時代を経て、再臨時代を迎え、三次アダムを立てて、責任分担基準を撃破するための運動をしてくるのです。
今、すべての宗教人たちが宗教を信じるのは、全部天国に行くための責任分担を果たそうということです。責任分担についてサタンは、すべての宗教人たちを一遍に燃やして祭物として捧げても、責任分担というものを人類の前に出してあげることができないと考えるのですが、ハナニムは、この宗教人たちを犠牲にすることがあっても、責任分担を探してこなければならないと思うのです。
(149-323, 1986.12.21)

 

④ 天国と地獄は自らが選択する

信仰生活をしながら、我々は不平を言ってはいけません。不平を言える内容がありません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながら、笑って行くべきなのです。このように教えてあげましたが、しなければ、それをどうしますか。しなければ、やりようがありません。ハナニムもやりようがないし、先生もやりようがないのです。
それゆえ、天国に行き、地獄に行くのは、自身が決定するのです。レバレンド・ムーンが決定するのではなく、ハナニムが決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言うところを感謝していけば、天国なのです。
(96-122, 1978.1.2)


天国へは、誰かが教えてあげて行くようになっていません。良心的に生きる人は、自動的に行くようになっている所が天国です。太陽の光が差せば、すべての木の芽は太陽に向かいます。草木までも、自ら方向性をもって回るのに、まして万物の霊長である人間が、自分の行くべき道を知らないはずがないのです。このような現象が起こるのです。
(75-42, 1975.1.1)

 

5) 天国と地獄に関係した指示のみ言

 

① 天国・地獄観設定

自分の家庭を中心に、宗族圏を復帰することは、メシヤの使命です。このような宗族的メシヤの使命を果たすことによって、天国、地獄観を設定し、「そこに行けば天国であり、ここに行けば地獄である」ということをはっきりと分別して、地獄側に行かず、他の人も行かないようにしなければなりません。宗族がそのようになった場合には、その周辺の多くの宗族、町もみな、追いかけて来ざるを得ないのです。
(217-84, 1991.4.16)

 

② 永生と地上生活の重要性

地上の生活と霊界の生活とは、別々ではありません。地上の生活も重要であり、霊界の生活も重要です。霊界の生活は、地上生活からつながるという、そのことです。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念が分かりません。この地の生活が重要だと思っているのです。これが問題なのです。我々統一教会員にも、現在の生活が永生を保障する基盤だということを知らない人がたくさんいます。
それゆえ、「永生は今からだ」という天国観を設定した基盤上に、永遠の生命のために、自分が生きるという、その生命の重要性をいつでも感じなさいというのです。これを知らなければ、他のことをするのです。今、自分がするすべてのことで、永生の価値が決定するということです。
地上世界と霊界は、互いに見つめ合って動きます。地上世界が上がれば霊界も上がり、地上世界が下がれば霊界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それゆえ、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれないのです。天国と地獄を明らかにしなければ、それが分かりません。永生と地上生活の重要性を感じながら、働きなさいというのです。それは、誰も面倒を見てくれる人がいません。誰よりも自分自身が、ハナニムをよく知っているのです。そのようになれば、皆さんが進んでいくときは天運が抱擁し、その村を離れれば、その村の人たちが、「あの人はどこに行ったか。何日間見ないけれど、どのようになったのか。朝晩に聞いたその声が懐かしい!」と言いながら探すようになるのです。そのようにならざるを得ません。天運が共にあるために、良心をもった人は、自動的にその方向に、鉄粉が磁石にくっ付くように、すべての生命が光に向かうのと同じで、合わさるのです。


先生がいなければいけません。日本人も、韓国人も、アメリカ人も同様です。なぜそうなのでしょうか。永生の観念には、一体化させようとする秩序があるからです。それをもって、すべての地上的な標準、永遠の標準とみなすことができます。それは、最も重要なことなのです。
(217-85, 1991.4.16)


 

第5章 メシヤと霊界国

 

1) イエス様と霊界

エス様は、洗礼ヨハネの使命を果たす路程で、十字架を背負って亡くなられました。それで、息子の使命を果たすことができませんでした。イエス様は亡くなられたのち、今までどのようなことをされたかというと、天使長を探されたのです。天使長を探したのちには、息子の道を行かなければならないのです。それゆえ人間は、しもべとして行くべき道と、養子が行くべき道を探すのです。イエス様は、直系の息子の使命を果たせなかったのです。天使長の道、僕の道、養子の道を行ったのです。
それゆえ、イエス様を信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。この養子は、血筋が違う立場にあるカインと同様の存在です。血筋を連結しない因縁は天使長レベルです。今まで摂理歴史は、その血筋を連結するための闘いをしてきているのです。
エス様は、十字架で息子として死んだのではありません。イエス様が霊と肉が一つになった息子の立場で、ハナニムに勝利をお返しする立場で祭物になっていたなら、再臨する必要はありません。完全に捧げられませんでした。半分しか捧げられませんでした。体は失ってしまい、霊だけ捧げられました。これでは、霊界の天使世界と似たり寄ったりです。
それゆえ、キリスト教を信じていく人たちは、天国に入れず、楽園レベル以下の霊界に行って待つのです。楽園レベル以下の霊界は、天使長が支配する霊界、すなわち天使長圏に該当するのです。それゆえ霊界で勝利圏を保障されるためには、地上に勝利圏をつくっておかなければなりません。それを継承させるのが、ハナニムのみ旨であり、イエス様が来ては逝かれたみ旨であるために、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に探し立てて、天使長圏を継承しなければならないのです。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成があり得ません。霊的完成だけがあるのです。それゆえキリスト教は、霊界を主にして来たのです。
再び来られる主は、霊界の天使長圏を屈服させ得る権限をもたなければなりません。それがなくては、地上での出発をすることができないのです。再び来られる主は、イエス様が洗礼ヨハネから継承したように、霊界で勝利したイエス様以下の霊的世界全体を継承する立場で来なければなりません。洗礼ヨハネが、イエス様に霊的な継承はしましたが、その約束どおりには実践できなくて、分かれました。それで、これを再度なすために、キリスト教を立ててきたのです。
(47-157, 1971.8.28)


エス様は、この地で十字架で亡くなったことだけでも無念なのに、死んで三日間地獄に行っていました。それが試験です。人間には、死が最高の恐怖なのに、イエス様には、地獄に行くことが最高の恐怖だというのです。ではイエス様は、その地獄で恐怖の主人になったのでしょうか、でなければ幸福の主人になったのでしょうか。イエス様は地獄に行って、三日間、苦痛を克服するための試練がありました。
(34-144, 1970.8.30)
ハナニムは公平であられるので、メシヤは平等な思想をもって人類を訪ねてくるのです。メシヤは、堕落した人間を全部救うための救い主として来るために、どのような人間にも公平に対してくれます。公平な目的と、公平な時代的環境をもって来ます。それゆえメシヤと一つになる人は、メシヤの弟子になることができます。
メシヤは、人間世界の一番底の地獄から、一番栄光の立場まで行くという言葉が成立します。人類の救いのために生命を差し出して、行かない所がないという結論が出てきます。
このような原理で見ると、メシヤが雲に乗って空中に来るというのは、全く荒唐無稽むけいなことです。真っ赤なうそです。そのように言う人は、霊界に対して何も分からない人です。先生の教えることが事実であるか否か、霊界に行ってみなさいというのです。死んでみれば分かります。メシヤは、そのような公式によって動きます。
なぜ、霊人たちが人間の世の中と接しようとするのでしょうか。これが今まで分かりませんでした。それはどうしてですか。地で解決しなければ完成の道を解決できないからです。優れた人も、劣った人も、この法度にみな引っ掛かっているのです。
このように、メシヤと共に霊界を全部開いていくのです。これをなすには、地で相対的関係がなされなければならないのです。ですから、メシヤの個人時代があり、家庭時代があり、宗族時代があり、世界時代があります。これが、霊界までつながるのです。地で個人の勝利基盤、家庭の勝利基盤、宗族の勝利基盤、民族の勝利基盤、国家の勝利基盤、世界の勝利基盤まで築かなければなりません。このために、すべての霊界を地上に動員するのです。中心を探していくためには、メシヤが世の中に来て、苦労しながら行かなければなりません。苦労しながら個人、家庭、宗族、民族、国家、世界を順番に復帰しなければなりません。それで今、人々が一つの目的点を、一つの世界を探して入るようになります。
(91-278, 1977.2.27)

 

2) 再臨主と霊界

再臨主は、第3イスラエルだけではなく、第1、第2イスラエルの先祖として来なければなりません。統一教会員は、イエス様当時の第1イスラエルが疑ったのと同じ立場を越えて、父の心情を通じて、父の腹の中にある子女のような立場に立つべきです。


再臨主は、霊界を収拾しなければなりません。霊界を収拾することによって、第1イスラエルを立てた基台の上から出発しなければなりません。霊界にいる人たちは、まことの父母と因縁をもつことができないので、この過程を経なければなりません。霊界には12支派型がありますが、第2イスラエルになるべきキリスト教は、支派を編成する中心を失いました。ゆえに、統一の理念を立てて、支派編成をしなければなりません。
(10-218, 1960.10.14)
ハナニムは無形なので、霊界に行っても見えません。それゆえハナニムは、体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは、宇宙が一つになることを象徴します。ハナニムは、体をまとうために、アダム、エバを造りました。体をまとえるようにすることは、愛だけが可能なのです。愛があってこそ、ハナニムの形状に似た体を備えるようになります。アダムとエバがハナニムの体を備えれば、彼らの心の中にハナニムがいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。ハナニムの王宮を造るのです。ハナニムの王宮は、愛の王宮だというのです。愛を中心としてのみ、霊と肉が合わさるようになるのであって、他のものをもってしては合わさることができません。
(143-93, 1986.3.16)

 

3) 真の父母と霊界

 

① 肉身の父母と真の父母の違い

肉身の父母とまことの父母は、愛に対する概念が違います。肉身の父母は、肉身を中心とした愛を教えてくれ、真の父母は、霊的な世界を中心とした真の愛を教えてくれます。
肉身の父母だけでいいのに、真の父母がなぜ必要ですか。堕落したためです。今まで堕落した父母は大きなものをみな取ってしまい、自己を中心として絶えず下がっていくことを教えました。それゆえ、父母の愛を中心として、このサタン世界に永遠にいるようにさせるための、一つの決定的な線が引かれましたが、これを断つすべがありませんでした。
では、真の父母とは何でしょうか。このような基盤から上がれば上がるほど、だんだんと大きなことを教えてあげるのです。天国、永遠の国に行って拍子が合うように、呼吸に支障がないように教えるのです。
肉身の父母から教育を受けた人が霊界に行くと、壁に覆われたような片隅に行って、閉じこもっていなければなりません。(壁の外を)見回すと、みな自らを否定して人のために犠牲になりたい人たちだけがいるので、窒息しそうなくらいに苦しいのです。
誰がこれをつくったのでしょうか。サタンがつくりました。それで、真の父母が来て解放してくれるのを願っています。それを解放するには、そのまま解いてはいけません。反対に解かなければなりません。
(129-99, 1983.10.1)


ハナニムに帰るには、4次元の世界である霊界の訓練までも受けなければなりません。霊界を愛し、霊界と一つになる訓練場所が、ハナニムを愛して、真の父母を愛する場所です。この地上で真の父母として霊界と実体世界にハナニムをつなげる使命を果たすために、メシヤが来るようになります。メシヤの使命は、それしかないのです。メシヤは本当に我々を愛し、その誰よりも我々のためにしているのです。
メシヤ、すなわち真の父母がこの地に来る前までは、霊界が全部分かれていました。世の中が一つになっていないのと同じです。このように多い塀を、真の父母が実体をもって全部崩していくのです。そうしてこそ通じるのです。それで真の父母は、肉身世界だけでなく、霊界を代表するのです。
初めて真の父母に侍り、絶対的に愛することによって、霊界と通じる道を築くことができるのです。メシヤの前に絶対服従することによって、霊界のどの霊人にも絶対服従したという条件を立て、ハナニムの命令の前に絶対服従したという条件を立てるようになるというのです。ハナニムの代身である真の父母に絶対服従すべきだというのです。それはなぜ、そうすべきなのでしょうか。天国の民と一つになり得る伝統を立てるためです。
真の父母になぜ侍らなければならないのでしょうか。真の父母が、霊界とハナニムを代表しているからです。真の父母と心情的なきずなを結び、真の父母が愛の中に結んでおいた心情的な勝利圏に同参できる資格を得るためです。
(105-112, 1979.9.30)

 

② 真の父母が軸である

真なる父母がどこにいて、真なる兄弟がどこにいて、真なる家庭がどこにあり、真なる社会がどこにあり、真なる国家がどこにあり、真なる世界がどこにあるのでしょうか。それがなければ、不幸の中から出て、不幸の中に行く人生ですが、これが本然の人生の道ではありません。それゆえ、真を探し、身もだえしてもがくのが我々の人生です。これは、今まで宗教や哲学を動員して、いくら解決しようとしても解決できないのです。これを人間の力で解決することはできません。
(159-282, 1968.5.19)
我々は、真の父母と世界を一つにしなければならないのです。ハナニムの心情で、霊界の軸と地上の軸が真の父母と一つにならなければなりません。霊界でも地上でも真の父母というのは、中心から抜くことはできません。
悪なる父母が生じることによって、横的な面で戦いが起こり、二つに分かれました。また、縦的な善の神と、悪の神の世界に分かれました。偽りの父母が生じ、このようになったので、ここに真の父母が来ることによって、これらが授け受けするのです。偽りの父母によって堕落が生じたので、これに対峙たいじするためには真の父母が出てこなければなりません。真が出てこなければならないのです。
(149-279, 1986.12.7)


 

③ 真の父母中心

民主世界は右翼を代表し、共産世界は左翼を代表します。これらが今、崩れていっています。アメリカも同じです。両世界には中心がありません。今、必要なのは、「頭翼思想」と「神主義」です。どのような人道主義も、ハナニムの前に立つことはできません。ハナニムだけが絶対的であり、永遠のセンターです。「頭翼思想」だけが、全人類の中心になり得ます。
「真の父母主義」は、真の霊界と肉界の中心になります。頭翼思想と神主義は真の愛を中心として見るとき、すべて同様の概念です。
(205-263, 1990.9.9)
真の父母を必要とする限界線とはどこでしょうか。これには限界線がありません。世の中もそうであり、霊界もそうであり、どこでも永遠なのです。ですが、アメリカの大統領の限界線とはどこでしょうか。4年から8年後になれば、転がり落ちます。しかし、真の父母は転がり落ちません。限界線が違います。アメリカの大統領は、4年から8年にさえなれば、荷物をまとめて辞任しなければなりませんが、真の父母はそのようになっていません。
この地上世界だけが真の父母様を必要とするのではなく、霊界も同じです。どうしてでしょうか。そこには、地上で愛をもって暮らした人が行って宮殿をつくらなければならないのに、そのような人がいないのです。愛の宮殿はハナニムもつくれずに、霊界の人もつくれないのです。真の父母様がつくらなければなりません。
霊界において、愛の宮殿は真の父母から始まるのです。霊界に宮殿があっても、真の父母が行って「ここを宮殿にします」と言って宣布すれば、それを中心として全霊界が落ち着くのです。そのような責任が残っているために、霊界でも真の父母を絶対に必要としています。
(205-255, 1990.9.9)

 

④ 真の父母と結ばれた因縁の強度

まことの父母は、人類が探すべき真なる父母です。その真の父母がいることによって、真なる善が成立するのです。真の父母とは、どのような方でしょうか。ハナニムと共に行くことができる一つの足場になる方です。真の父母とは、「人間とハナニムとの間隔とくぼみを埋めるための一つの祭壇であり、死亡世界を越え得る橋である」と言うことができるでしょう。その立場は、ハナニムと自分が共にいることができる立場であり、ハナニムと父子の因縁を結ぶことができ、ハナニムと一体をなし得る一つの焦点です。すなわち、堕落によって分かれたハナニムと再び一つになることができ、分かれた二つの境界線が一致し得る一つの起点になります。蕩減とうげんの祭物の立場に立たれた方が、真の父母なのです。
我々が切迫してハナニムを呼ぶとき、ハナニムが千年の事情をみな忘れて、自分と因縁を結ぶことができる立場があるなら、その立場は世の中のいかなるものとも換えられない立場です。


ハナニムと共にいることができず、ハナニムと因縁を結ぶことができない人類が、自由な環境でハナニムと因縁を結ぶことができるようハナニムが送ってくださった方が、真の父母です。
では、真の父母との因縁を無条件に自分に結んでくださったハナニムに、何をもって感謝しますか。皆さんは、どれほど感謝を捧げましたか。そして、皆さんが救われるようにしてくれた、その恵みに対して、歓喜で和合しながら勝利を誓わなければならない自分だということを、どれほど考えてみましたか。無限の希望をもって、無窮の価値をもって、再出発するという考えを、どれほどしてみましたか。これが問題です。
息子、娘を探してこられた歴史的な願いが、真の父母を通じてなされるということを御存じのハナニムが、その真の父母をどれほど憧憬どうけいしてこられたか! それなのに、真の父母を憧憬する基準と、死亡世界で救いを憧憬する我々の基準を比較してみるなら、我々は真の父母をハナニムよりもっと貴重に思って、ハナニムよりもっと貴く思って、ハナニムよりもっと価値があると感じるべきなのに、今までそうできませんでした。
人間が真の父母と共にいることができ、真の父母と因縁を結ぶことができ、真の父母と再会することができる立場を、ハナニムがどれほど期待なさるでしょうか。そのような立場に自分が至り、「そのような勝利の基盤を自分が築こう」と言えなければなりません。どのような困難があっても克服し、その立場を自分の生涯の価値を左右する転換点とみなし、また、その因縁を自分の生涯の原動力にしようと、どれほど誓うかが重要です。このように見るとき、我々がどれほど偽りであり、流れていく風の便りのように落ち着かず、彷徨ほうこうするのかを悟らなければなりません。
ハナニムと共にいることができる自分になっているのでしょうか。そうではありません。救い主が必要なのです。救い主は、どのような方でしょうか。真の父母の因縁を備えた方です。このように見るとき、この真の父母の因縁とは、どれほど驚くべき因縁ですか。真の父母によって、自分の真なる一生が始まるのであり、新しい生命が因縁づけられるのです。この生命の因縁によって、新しい家庭が出発するのであり、新しい社会と国家と世界が出発するのです。そして、2000年のすべての生死の道を解決する勝利の与件が備えられるという事実を、悟らなければなりません。
そこには自分がないのです。ハナニムは、堕落した世界を救うために受難の道を歩まなければならない方ではありません。堕落した世界に対すべきハナニムではありません。ハナニムは真の愛の因縁をもって出てこられる方です。新しい希望と、新しい復帰の基盤を備えて来られる方です。そのような立場で、ハナニムと自分の因縁が結ばれるのです。四方が一致し得る因縁が、一つの起点からつながって、死亡の世界を爆破して、新しい光明の天地の基盤をもつようになるのです。このように、父母と子供の間の因縁が実現することによって、世界は新しい出発をすることができるのです。
真の父母と皆さんの因縁は、どのような剣や、権力をもっても断つことができず、サタンの力でも断つことができません。なぜでしょうか。この因縁は、今日のすべての問題を突破して、人間たちを救うことができる勝利の特権をもっている因縁であり、人間たちが歴史的に願ってきた力が結集している本拠地だからです。ある一時代的な力を結集させては、歴史的な力が結集したこの関係を断つことができないのです。このように、すべての悪を除去して、新しい因縁を備えて、勝利のための出発点にハナニムが歴史的な祭物として立てた方が、真の父母です。


ハナニムが深刻な立場にいらっしゃるならば、私も深刻な立場に行き、ハナニムが苦しい事情にいらっしゃるならば、私も苦しい事情にいなければなりません。父の事情が、私の事情として感じられなければならないのです。子としての道理を果たし、ハナニムを慰めてさしあげる人がこの地に出てこなくては、歴史的な問題を解決する道はありません。
我々は、限りなく難しい立場に立っても、ハナニムの同情を願うのではなく、ハナニムに同情してさしあげるべきです。そのような因縁に従ってきた歴史の結晶体が、イエス様でした。しかし、イエス様がみ旨を成せなかったために、再び来られる主が、そのみ旨を成さなければなりません。再び来られる主も、その道を行かなければなりません。真の父母は、歴史的な希望の集約体です。ハナニムが、全体に代わる歴史的な実体として立てた方が、真の父母なのです。
真の父母との因縁には、霊界からではなく、地上からつながらなければなりません。真の父母は、実体を備えて地上に来られるため、自分が呼べば答えてもらうことができ、自分が難しい立場にあれば、同情してもらうことができるのです。このように平面的な途上で真の父母に会うことができるということは、人間たちにとってどれほど幸福なことか分かりません。
ハナニムは、今までどのような困難があっても、それを克服して、決定的な勝利を収めようとされました。ここで、自分が勝利の王者になるか、なれないかということが問題です。その心情に一体となって、「離そうとしても離すことができない自分になった」と言えなければなりません。言い換えれば、ハナニムと共にいるという信念、真の父母と共にいるという信念が、生涯路程の軸にならなければなりません。それで、我々が行く方向で動揺がなく、千年、万年持ちこたえ得る自我になってこそ、地上天国と天上天国がつながるのです。すなわち、天上の主人として臨むのであり、地上の主人として臨むのです。ここで初めて、天上天国と地上天国が開かれるのです。
このような因縁は、楽な立場で結ばれるのではありません。難しい立場、それ以上ない深刻な立場、死ぬか生きるかというさなかにおいて、より一層冒険する立場で結ばれるのです。
それゆえ、聖書を見れば、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。これは、イエス様の時代錯誤的な言葉のように思えますが、このように行くのが、復帰の道を行くにあたって、心情の世界を踏まえていくにあたって、正常な姿勢であり、正常な態度だといえます。このような境地を追求していく自分であることが明らかであるなら、自分の行く道は真なる路程になるのです。
(31-74, 1970.4.19)


皆さん、今、40を超えて50になった人が多いのですが、「それまで何をしましたか」と聞くならば、何と答えますか。10年、20年以内に死ぬかもしれません。死を前にしたとき、み旨を知り歩んできた過程を振り返り、私が、悪魔の子孫として残った世界人類を復帰する責任を果たせないことによって、ハナニムがまだ定着することができず、しもべのように恨めしい仮面を脱げなかったと考えるとき、霊界に行ってどのように顔を上げるでしょうか。どのようにそこへ行って、自分の姿勢を備えていくことができ、どのように暮らしていくべきでしょうか。ただとどまっていなければならないのであり、そうでなければ、白日のもとに100パーセントがあらわになるのです。
霊界に行かないということはありません。みな行くようになっています。何をもって行くでしょうか。貧しい家の娘が、自分のみすぼらしい姿だけ見ても一族の前に頭を上げることができないのに、婚礼家具も備えられず、その兄弟の一族だけでも、世話すべき人が100人近くいる中、4代が集まって暮らすお金持ちの息子の家に、入って暮らすことができますか。手ぶらで行って、その嘲弄ちょうろうをどうやって避けますか。「うちの伝統によれば、誰々はこうであり、おばさんは全部こうであり、うちの姉さんもこのようにこうこうして、みなそうなのに・・・」と言うようになるとき、そこで落第生のような身の上になって、顔を上げて座って御飯を食べることができますか。さじを持つことができますか。はしを持つことができますか。考えてみてください。
仲間に入れなければ、いたたまれないのです。皆さんは、何を持っていきますか。「統一教会を40年信じたならば何を持ってきましたか」と言えば、何と答えますか。霊界は、ここよりひどい所でしょうか、良い所でしょうか。皆さんが死んだとき、行く所がここよりひどい所でしょうか、良い所でしょうか。千万倍いい所です。自分が、すべてのものを正確に測定できる世界です。
霊界は、自分がどのような立場にいるかという、その悲痛さを実感できる所です。一段階上がろうとすれば、何千年、何万年もかかるのです。
皆さんは、祝福という貴いものを受けたために、門は開いていますが、入っていける礼服を着ていないのです。祝宴を行う家には、礼服を着て行くべきです。新郎の付き添いに行くのに、労働服を着て行ってよいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその場に行ってこそ、その環境の歓迎を受けるのであって、そうできなければ追放されるのです。「こいつ、どけ!」と言うのです。
昔、木浦モッポに金持ちがいましたが、木浦の北部地方の土地は全部その人のものだというほどの金持ちでした。ところで、先生の友達がその人の一人娘と結婚して、その家の婿になりました。その時は、日本の統治下だったために、結婚式をしても今のようにモーニングコートを着て、礼服を着て西洋式の結婚はできませんでした。国防服を着て、胸に花を一つ差して結婚する時です。
ところで、その人は、金持ちである上に立派な友達も多いので、新式の結婚式をさせました。その時、先生を含めて4人が新郎の付き添いに行きました。付き添いの服を新婦の家で準備したのですが、それらをすべて自分の婿と同じ背丈に合わせました。先生と新郎は背が同じですが、新郎は先生のようには体が太っていませんでした。


ですから、合わせたワイシャツが、ボタンをかけても、へそがみな見えるのです。きつい服を着て背筋にひどく力が入ったので、あとでしびれてくるのです。その場で声を出すことができますか。壁のある所に行ってうつ伏せになり、しびれを解いたことを思い出します。
全羅南道チョルラナムドで名の通った人がみな集まったその大衆の前で、何千人が集まったその場面で、付き添いとしてそのように立っていたので、「ねずみの穴でもあれば入ったほうが楽だ」と思うほど、とても耐えられなかったというのです。
仲間に入れないことは、そのようにいたたまれないことなのです。先生が霊界をよく知っていて、聖者だとか何だとか、偉いという教祖たちをみな知っているのに、その者たちに負けられないというのです。その仲間から外れてはいけないのです。
(212-224, 1991.1.6)

 

4) 先生と霊界

 

① 先生の霊的条件成立とその基盤

完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせ、完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則であり、存在の法則です。それで、この地上で原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、このようなことが初めて起こりました。ですから、霊界で問題となることは、この地でも問題になり、それをこの地で解決すれば、霊界でも解決します。
そうするたびに蕩減とうげんが必要です。先生は蕩減の道を、一人で責任をもって、歴史と宇宙、そして霊界と肉界の問題を解決してきたのです。どのような時に蕩減すべきかを知り、それが崩れる場合には、霊界がどのようになって、地上がどのようになるということを、はっきり知っているのです。
聖書では、「あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ18:18)とあります。地で解くためには、蕩減が必要です。しかし、皆さんは蕩減の道を知りません。個人的環境での主体・対象蕩減時代、家庭的環境での主体・対象蕩減時代、宗族的環境での主体・対象蕩減時代を経て、民族的主体・対象蕩減時代、国家的主体・対象蕩減時代を経て、世界的主体・対象蕩減時代に行くべきです。これを皆さんは知りませんが、先生は知っているため、先生が言ったことがそのまま霊界に反応して現れるのです。
(131-226, 1984.5.4)
天国は、地上の一番悲惨な所で成されます。地上の一番悲惨な所とはどこですか。監獄の中の監獄、そこでも一番のどん底です。


霊界と肉界の基盤を、統一教会の文先生が築きました。地獄のどん底、監獄のうちで一番悲惨な監獄から、霊界と協力しながら基盤を築いてきたのです。基盤を広げてくる過程で多くの反対を受けました。家庭でそうであり、宗族でそうであり、民族でそうであり、国家でそうであり、アジアでそうであり、世界の中心国家であるアメリカでもそうであり、全世界が反対しました。
先生は、万民に道を開いてあげなければならないために、死刑囚とも友達になり、窃盗犯と手錠を一緒にはめて回り、共に御飯を食べながら彼らを慰めてあげました。この前は、ラスベガスまで行って、刑務所に収監された人たちのために祈祷をしてきたのです。ニューヨークのニューヨーカー・ホテルを買ったのも、これからニューヨークの一番の悪の巣窟そうくつから掃除をして、新しく基盤を築こうとしたからです。
そこに行って、交わってあげ、慰めてあげなければなりません。そうしてこそ、各界、各層、サタン世界の滅びるべき人にまでも、その道を開いてあげ、道を築いてあげることができます。そうしながら、地上で道を築いてあげてこそ、霊界のふさがったものが開かれ、世界が一つになり得るのです。それゆえ、超民族的に黒人も結婚させてあげ、白人も結婚させてあげ、白人にも家を買ってあげるであろうし、黒人にも家を買ってあげるでしょう。このように先生は、世界にないことをしている人です。
(91-160, 1977.2.6)
先生は、霊界で勝利しました。このことを誰ができるでしょうか。広く世界にいる数多くの修行を積んだ人たちは、これから先生の所に来て、習わなければなりません。間違いなく、そのようになるのです。それゆえ、一民族が反対し、世界の人類が反対しても、問題ありません。霊界にいる数千億の人たちは、全部先生の言葉を聞くのです。
(13-50, 1963.10.16)

 

② 霊界に行く特許権

文明時代の発展の要素は、大部分、特許権につながっています。ところで、特許権はみなそれぞれ異なります。服を作る特許権、何でも全部特許権です。特許権だけもてば、どこへ行っても世渡りすることができるというのが、世の中の実状です。霊界でもそのような法があるというのです。特許権は白人にだけ通じる、という法はありません。黒人は駄目で、アジア人は駄目だという法はないのです。どこに行っても、通じます。
霊界に行ける特許権を取るために、歴史上に苦労した宗主そうしゅたちと宗教人たちがたくさんいましたが、そのような宗教人たちの中で、チャンピオンの特許権をもった人がいます。
霊界に行ける特許権をもった人は何によって判別されるのでしょうか。ここに集まったまだらなこの人たちが、全部一つになって、「どこでも上がっていく」と言うので、それでいいというのです。では、ハナニムはどうですか。先生が、「駄目だよ」と言えますか。ハナニムが、「先生のサインがなければ行けない」と言うかもしれません。


アメリカの立派な大統領でも、いかなる王、いかなる聖者、いかなる宗主でも、「先生のサインが必要だ」と言うときは、全部頭を下げて先生の所に来ざるを得ないのです。
博士学位を受けるには、その教授が足でけっても、「ああ、ありがとうございます」と言ってこそ、サインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても、顔を見ても、恰幅かっぷくを見ても、何を見ても良くできて、相撲をしても勝ち、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも1等になり得るし、10も100もいいのに、それを一つくらい知らないといって、博士学位をくれないのですか」と言っても通じないのです。先生が、そのような霊界の特許権をもったかもしれないというのです。
先生が監獄に行ったとき、よこしまなうわさが流れ、(先生のことを)誰もが滅びてなくなると思っていましたが、(先生は)今も生きて、堂々と大きなことを言っています。アンテナをもって、全部見て、聞いて、やって、知って、大きなことをどんどん言っているのです。
ハナニムも、先生のサインができているか、できていないかを見て、その次に決裁するでしょう。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば「OK」と言い、ないときは「ノー」と言われるでしょう。
言葉で言うのは易しいのであって、事実がどれほど難しいかということを、皆さん考えてみてください。先生が、もしそのような印さえもっていれば、これからの世界、霊界は、全部先生の手中に動いているのであり、この肉界は、いずれ一つの谷を行かざるを得ないという結論が出てきます。
(134-17, 1985.1.1)
自然界は、真理に満ちているのです。皆さんは、霊界についてよく分からないでしょうが、先生は霊界の専門家です。そこは、21世紀ではなく、22世紀、30世紀になっても、先生がいなければ開門することができません。理論的に霊界を教示して、霊界を開門するにおいて体系的内容を明らかにしてくれた元祖がムン先生だという名声が、永遠に残るでしょう。世界的に優れているという霊通人であっても、先生の所に来て、習わなければならないのです。それゆえ、先生が統一教会の教祖になったのです。世界のキリスト教を統一するというのです。先生の言うことさえ聞いたなら、既にみな統一されたでしょう。
(203-325, 1990.6.28)
先生がアベルの立場で長子権を復帰して、一度宣布してしまえば、それまで霊界が地上を利用していたことを中断します。霊界が地上のために動くようになるのです。むやみに霊界に対して「これから地上に協助せよ、地上に屈服せよ」と言えば、そのようになりますか。内容もないのに、「こうせよ」と言えば、そのようになりますか。これはこうで、あれはああだということを説明して、それが可能になるようにしなければなりません。それでこそ南北が統一されて、東西が一つになり、みな収拾されるのではありませんか。
(210-193, 1990.12.19)

 

③ 霊界の統一と地上世界統一

霊界を統一しなければ、地上を統一させることはできません。では、霊界を統一した主人がいらっしゃるなら、地上の統一は問題でしょうか。それは難しくないのです。


これから我々は、霊通する人まで主管しなければならないのです。今、霊界に通じる人たちの大将が先生です。彼らもここに来て、習わなければなりません。彼らは一方向しか知りません。それゆえ、霊界から教えてくれるといって、それを絶対視してはいけないのです。それを原理で解読して、方向をわきまえていかなければ、霊通人たちはサタンになりやすいのです。
今は、霊界が先生をあかし、先生についてきています。先生は、霊界の内容を専門的に知っているために、サタンだ何だということをよく分類して、今までここまで率いてくることができました。それで滅びないのです。
霊界には、何千億の霊人たちがいます。それに比べて世界の人類は、あまりにも少ないのです。これから我々が国家基準さえ超えるようになれば、霊界を動員することができるのです。世界人類は、問題にもなりません。そのような時が来れば、我々の時が遠くないということを知るべきです。このように見るとき、世界はこれからどのようになり、共産世界はどのようになるのか、大体の輪郭が出てきます。
(54-233, 1972.3.24)
あの世に行ってみると、殺人した者、殺された者、ありとあらゆる人が1箇所に集まっているので、そこでは刀を持って闘おうともするし、復讐ふくしゅうしようともするのです。ですから、数多くの塀でふさがれています。
それゆえ、悪なる霊たちが怨讐おんしゅうの子供たちの所に行って、急死するように事故を起こして連れていくというようなことが起こるのです。これを解かなければなりません。これをみな解くためには、地上世界で解かなければなりません。解くためには、もっと良いものを与えなければなりません。死ぬよりもっと良いもの、怨讐関係になったことよりもっと良いものをあげなければ解かれないのです。
何をもって霊界を解放し、ハナニムを解放するのでしょうか。このような関係は、人間の先祖がこれを結ばせて天上世界をめちゃくちゃにしたので、今日、後代の子孫は、先祖のすべての過ちを償わなければなりません。まことの孝行者の伝統を受け継いだ子供なら、父母の借りを支払わなければなりません。父母が借りたものを支払わなければならないのです。
そのような意味で、霊界の先祖のふさがった塀を崩す運動をしなければなりません。そうすることによって、先祖たちがここに来て、皆さんに教えるようになるのです。これは夢のような事実です。
先生は皆さんをさっと見れば、先祖がどうで何をやったのか分かります。悪なる霊人の子孫を見ると、真っ暗になります。その先祖の顔がさっと見えたかと思ったら、ふっと消えるのです。それゆえ、悪なる霊、善なる霊を分けるのです。霊界を結束させなければなりませんが、霊界を収拾できない人は、天下を統一できないのです。天運の根が天なのに、天を収拾できない人が、どうしてその結果をこの世の中の道理にして、世界を統一しますか。それゆえ、地上を統一する前に、霊界を統一しなければなりません。
(191-205, 1989.6.24)


皆さん、先生に夢の中で会ってみたことがありますか。みんな会わなければなりません。このような団体は世の中にありません。国にもありません。なぜ、統一教会が世界的に成長しているのでしょうか。どこに宣教師として送っても、霊界を実感する生活をしなければなりません。
どのようなことが起こるのでしょうか。宣教師は3ヵ月が過ぎれば、その国を離れて再びビザをもらわなければなりません。そうでなければ、その国にいることができません。それだけでなく、その国をたって、他の国に行くにも、自由にたつことができません。そういう時は、霊界が教えてくれます。「どこどこにある川を越えろ」とです。その川には、わにがたくさんいます。そのような川を泳いで越えれば、わにが丸ごとのみ込んで跡形もなくなります。そのような危険な所を通って、国境を越えていくようにするために、霊界がよく教えてくれます。「何時何分から、何時何分の間に越えればいい!」と言ってです。そうする以外に方法がありません。そのような命令を啓示として受けながら、行き来する宣教師が多いというのです。
共産圏はすべて「ハナニムがいない」と言って、ハナニムの存在に反対する世界です。共産党は、どの国でもみんな宗教が入ってくると、それを撲滅します。そのような状況の中で、ハナニムは準備しなければなりません。
そのような経験をしてみれば、ハナニムがいないと否定する人は一人もいなくなります。そのような事実を実感する感動は、生命を越えて永遠に残るのです。そのような境地でハナニムを愛し、真の父母様を慕いながら通過した経験は、永遠に残るのです。それが人生の中心になります。その瞬間、霊界との壁は、一瞬にしてなくなるようになります。直行することができるのです。
信じるのが先ですか、知るのが先ですか。信じることは事実と遠い所にあり、知ることは事実と一致します。
皆さん「信仰生活」と言いますが、信仰を生活化していますか。そこには、体恤たいじゅつ圏が表面化していくのです。内面化ではなく表面化した実体圏とつながって生活しているという誇りが、どれほど大きく有り難いことか分かりません。そのような境地もあるのです。
「霊界は間違いなくある。ハナニムは、間違いなくいらっしゃる! 誰が否定しても、いらっしゃる」と実感しているという事実は、恐ろしいことです。それはハナニムの世界に属する心です。いくら地上で苦難を通過するとしても、その人は神の国の国民です。ハナニムの子女です。
皆さん、いくら難しいことがあっても、自分の心が絶対変わらないという境地に入っているか自問してみてください。そこまで行かなければなりません。それが峠です。サタン世界の城壁を越えて入れば、ハナニムの存在が実証されるでしょう。そうでないときには、城に入る橋を越えたのに宮中に入れなかったのと同じです。一度入ってみなければ、何も分かりません。城の外でいくら眺めてみても、そこに行けません。
(224-108, 1991.11.23)


 

④ 心情と実績による霊界での待遇

統一教会の先生の誇りは、ハナニムを知っていることです。霊界で知っている以上に知っているのです。いくら多くの人がいたとしても、ハナニムはご自身の心情を知る人を一番好まれます。
(146-333, 1986.8.10)
宗教人たちが涙に浸り、ひざが切れてえぐれるほど一生涯祈祷を捧げても、イエス様に出会い、導かれるかどうかというのです。それなのに、皆さんはこうして先生に会って、このような話を聞くことができるということは歴史的な事件なのです。皆さんが先生にいかなる資格をくれてもくれなくても、先生は既にあらゆる資格をもっています。
先生は多くのことを成しました。誰の話にも耳を傾けない世界の学者たちを一つにつなぎ合わせました。また、互いに争っている宗教界もつなぎ合わせ、民族同士で争っているのをつなぎ合わせて世界的な合同結婚式をしたことは、これまでの歴史になかった事件です。
今までに先生が成してきたことは、霊界の誰が成したことにも勝ります。誰よりも多くのことを成してきました。ですから、統一教会が、霊界のどん底にいるでしょうか、最高の位置にいるでしょうか。最高の位置にあります。これは先生の作り話ではありません。
(146-333, 1986.8.10)

 

⑤ 霊的体験の生活化

先生があらゆることを調べ、霊界の裏道まで尋ね歩いて調べてみると、天地の道理は簡単なものでした。真理は簡単なのです。二人が絶対的な力で合わさり、真空状態になったところにハナニムが入ってこられ、骨髄のようなしんになるのです。ここに、男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的実体が合わさって愛の軸になるのです。
(170-171, 1987.11.15)
先生は霊界に対してたくさん知っていますが、霊界の話はあまりしません。霊界を知ると、狂う人が多いのです。特に女性たちは、「あんな夫と長生きする必要なんてない。早く天国にでも行ったほうがいい。先生の言っていた天国がいい。ああ早く天国に行きたい」と言うことでしょう。しかし、夫を教育して導かなければ天国に行くことはできません。
(182-61, 1988.10.14)
先生は、霊的体験をしても、多くは話しません。体験があるのかないのか、皆さんはよく分からないのです。それをどのようにするのでしょうか。真理で調整しなければなりません。「これは、これこれこうであるために、このようになるのである」と言いながら、中庸の道を行くのです。そうしていつも天の摂理観に方向を一致させることによって、霊界の発展をもたらすことができ、地上世界の発展をもたらすことができると見るのです。
そうするには、霊的世界がどのように動いており、真理とどのように関係を結ばれるのかを知った上で霊界と関係を結ぶことを生活化しなければなりません。神霊と真理が必ず一つにならなければならないのです。この調和が取れていなければなりません。なぜそうなのかというと、我々人間自体がそのようになっているからです。
(76-138, 1975.2.2)


 

⑥ 愛を残して行くべき霊界

先生に従ってくる中で、霊界に行った人たちがたくさんいます。先生に従う人たちを、あのソ連の衛星国家、ソ連の重要都市に浸透させておきました。ある時は、「宣教活動をしていて死刑宣告を受けた」という報告を聞きました。そのような報告を聞く指導者としての先生の心は、深刻なものです。子供が病気で寝込んでいたとしても、心配するようになっていません。彼らが私を尊敬するのは、世界のために生きているからです。彼らのために涙を流してあげるべきであり、心配をしてあげるべき立場に立っているのです。それゆえ、先生は平安な生活ができないのです。
私が越えるべき峠を越え、私が果たすべき責任を果たすためには、休もうにも休むことができず、止まろうにも止まることができません。そのように走っているうちに、このような老齢になったのです。しかし、心は「今からまた始めなければならない」と言うのです。そうして霊界に行くのです。
そのように生きている生活の裏面に、何を残すのでしょうか。人類を愛したということです。他の何ものでもありません。国を愛したということ、統一教会を愛したということ、それ以外に残し得る何かがあれば、それは滅びる歴史とともに流れていってしまうでしょう。
(136-135, 1985.12.22)

 

5) 真の父母の家庭と霊界

 

① 霊界の長子権成立

興進フンヂンが霊界に行くことによって、地上と天に分かれた天使とアベルが、双子のように一つに結ばれるようになりました。その一つになった基盤の上に、父母が出動するのです。これが原理観です。
興進は息子格のアベルですが、その息子は、まことの父母の愛によって、原理主管圏の蕩減とうげん条件を立てた基盤で霊界に行きました。サタン主管圏から勝利して直接主管圏を成した立場で、霊界に行ったのです。それゆえ、堕落以後、最初に完成した資格を備えた息子として天上世界に行ったという条件をもっているのです。本来、堕落しなかったなら、霊界に行ったすべての人たちが真の父母の心情圏を中心として、原理結果主管圏と直接主管圏が一つになった家庭的基盤に愛を中心とした主人や息子の資格をもつのです。これをもたずには、天上界に行けないようになっているのが原理です。
エス様やキリスト教は、今までその立場を経ることができずに行ったために、全部中間霊界にいるのです。ところで、興進が行くことによって、ハナニムと接ぎ木することができる中心が繰り広げられるのです。また、興進は祝福を受け、自分の相手が地上に残っているので、家庭生活をしてから死んだのと同じ立場になるのです。それで、興進の家庭を中心として、地上家庭を訪問することができる霊界基盤が設定されます。これが貴いのです。興進の家庭基盤を設定したということが、最も貴いのです。


エス様が死んだとしても、このようなことができたなら、今日キリスト教はそのように犠牲になりません。しかし、仕方がないというのです。なぜでしょうか。真の父母の心情圏で結果主管圏内のサタンを除去できず、直接主管圏内に愛の基盤を備えられなかったために、イエス様自身があの世に行って再臨しなければならないのです。しかし、興進は再臨する必要がないのです。
興進は霊界と肉界、二つの世界に暮らしているというのです。そうなれば、どのようなことが起こるのでしょうか。霊界と地上を双子のような心情圏として見るとき、父母が長子の立場にいるのです。家系の代数で見れば、すなわち、縦的に見れば、父母が先です。興進が2代なのです。下だというのです。
ところが、霊界では反対だというのです。地上で先生と興進の出生しゅっしょうについて見るとき、先生は兄の立場にいて、興進は弟の立場にいます。先生がカインの立場にいて、興進がアベルの立場にいるのです。これが霊界に行っては、興進が長子になります。興進が兄の立場にいて、それ以外のすべての霊人たちは、弟の立場にいるのです。心情圏を中心として、そのようになるのです。ハナニムの立場から見れば、先生は父なので長男であり、興進は弟になるのです。
霊界で見れば、興進が愛の圏を中心として最初に生まれた息子であり、そして霊界にいる人が弟の立場に立つのです。逆さまになるのです。それで、長子権の心情基準が自らの位置を決めて入っていくという結論が出てくるのです。これは原理講義するとき、よく説明しなければならないのです。今、霊界にいる霊人たちの前に、イエス様の前にもそうであり、すべての善の聖者たちの前にもそうですが、心情圏を中心として誰が長子として先に生まれたかといえば、興進だというのです。ですから、心情圏を中心としては、興進が長子であり、他の霊人は次に生まれる次子だということです。
それゆえ興進が、長子権の福を次子圏に相続してあげることができるのです。サタンは、相続してあげまいとしたのです。サタンは、相続をしてあげず、自分が強奪するのに、長子の興進は、地上でもっていた福を全部残してくれるというのです。ですから、つながります。今までサタン世界は、全部残してあげまいとするのに、興進は絶えず残してあげようとするのです。
(131-52, 1984.4.1)

 

② 霊界に立った愛の中心

興進フンヂンが全世界の人を自分の生命以上に愛したという条件を残したために、皆さんにも生命以上に愛することができる因縁がつながったのです。興進は、まことの父母の代わりに行きました。それゆえ、興進を愛することは、真の父母を愛する条件になります。興進を愛するということは、真の父母を愛するということと連結されるのです。


霊界では、今までそのような中心がありませんでした。霊界とつなげ得る中心がなかったのですが、興進が行くことによって、興進を愛するすべての霊界の霊人たちには、父を愛する条件がつながるのです。これは、統一教会と連結されます。統一教会として見れば、興進は、地上で生命を捧げて戦うにおいての標準になり、霊界では愛をつなげるのにおいての、今までの歴史にない霊界の代表になったのです。地上では、統一教会の信徒たちに生命を棒げてもみ旨を愛すべきだという手本を見せてくれました。真の父母を愛しなさいというのです。世界のために真の父母を愛していくべきなのです。ですから、興進が霊界に行くことによって、霊界が興進を愛することで、地上の真の父母と愛の関係が成立するというのです。
それで霊界では、興進を迎える日が、歴史始まって以来一番うれしい日になるのです。興進は愛のメシヤとして、霊界の門を開き、地上では標本的な殉教の道を開いたというのです。それで、統一教会の信徒たちは、興進を愛すべきなのです。
霊界でも興進を愛し、統一教会でも興進を愛するなら、私たちの真の父母はどのようにすべきでしょうか。ハナニムの愛を歓迎して、地上の愛を歓迎する意味で、自分の息子を祭物として捧げることを栄光と思わなければなりません。誇りと思うことができなければならないのです。また、ハナニムが今まで青少年のアダム、エバを息子、娘として愛せなかったのですが、霊界では愛せるようになったと考えなければなりません。
それで先生が、「私自身が青春時代に、韓国に基盤を築いて栄光のハナニムにすること、私1代に世界的基盤を築いてあなたを慰安してさしあげること、これらのできなかったことを、この息子によって蕩減とうげんしてください」という祈祷を捧げました。
今、霊界も愛して、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てるべきです。先生は、興進が霊界から地上世界と霊界で、愛の復活圏を成すのだと考えます。興進の死を通じて、愛を復活させるというのです。霊界を抱いて、地上を抱いて、愛の復活圏を宣布するでしょう。
そうするようになれば、死亡圏と決別をするのです。それゆえ、葬式の時も悲しんではいけないのです。
(130-202, 1984.1.15)

 

③ 地上と霊界の王権確立

興進フンヂンが霊界に行く前の日、統一式を終えてから祈祷したこととは何でしょうか。「お前は地上を離れても、地上にいるのと同様に、お前の養子を選んでやり、息子の班列に同参させてやろう」と祈祷で約束したのです。そうするには、地上で祝福をしてあげなければならないのです。そうしなくては、そのことが不可能です。ハナニムは、地上を救うためにメシヤを送りましたが、今日まことの父母は、霊界を救うために父母様の代わりに全権大使として愛の王子を送ったということを知るべきです。なぜ、地上にそのような世界的基盤を立てるべきなのでしょうか。イエス様も、その立場に行けなかったのです。ハナニムが初めて歴史始まって以来、「自分の息子」と言い、愛することができる少年をもったという事実を知るべきです。初めて、霊界でハナニムが愛し、地上で真の父母が愛しているというのです。それで、二つの世界がつながるのです。この世界は、堕落の愛の圏内、すなわち原理結果主管圏内にあるために、真の父母の愛の因縁は今までありませんでした。しかし、これが初めて出現したという、驚くべき事実を知るべきです。


では、あの世に行ってどのようになるのでしょうか。韓国人として生まれたために、韓国の善王の実を現すということを知るべきです。霊界のそのような王権が興進の立場です。そのような立場で、韓国の善王たちと比べるとき、興進は年は幼いですが、アベルの王だというのです。霊界は、この地上のように事情が完全に分かるのです。完全に一つになるのです。カインとアベルが一つになれば、その上に天の父母が運行することができるのです。天の父母の運行圏が生じるのです。それゆえに、興進の王権と韓国のアベル王権が一つになることによって、韓国を中心とした主管圏が形成されます。それが一つになることによって、アベル王権の位置に立つようになるのです。
その次には、すべての国の王たちが、アベル圏に立つのです。皆さんは、地上にいるから分かりませんが、霊界では一遍に一つになるのです。それで、すべての王権、韓国を中心として120の国家が完全に一つになることができるというのです。その王の前にアベルとなることのできる人たち、ユダヤ教を信じて逝ったとか、キリスト教を信じて逝った人たちは、王権を立てるのはすべてメシヤとして侍るためのものであったので、そのメシヤをあがめ尊ぶすべての宗教界のアベルの民は、次々と完全に一つになるのです。
ところで、ここに一つ問題があります。王権を立てるには、興進が一人でいてはいけません。女王権をどのように探すかということが問題になるのです。これが第1の問題です。王権を結合しようとすれば、女王を探し、王の相対を決定してあげなければなりません。そのようになれば、この王権が霊界につながるのです。
また、女王が地上にいるがゆえに、120ヵ国の王権の民を連れて、地上に連結できる基盤がつながります。ハナニムの愛を中心とした霊界と肉界の統一です。このように結婚させてあげることによって、興進は思いどおりに地上に来て活動するようになります。
このとき、興進が一人で来るのではなく、王権を統一したすべての王が地上についてくるようになります。ですから、このような式をせざるを得ません。今出れば、反対する人はありとあらゆることを言うでしょう。興進を愛の代表として送って、真の父母が霊界に行ってすることを代わりにさせようというのです。


それゆえ、興進が昇華してから50日になれば、五旬節と同じです。120人がマルコの屋根裏部屋で聖神聖霊)が降臨するとき火を受けて、世界的役事が繰り広げられたのと同様に、薫淑フンスク嬢が結婚することによって、霊界にいる120ヵ国の王たちが、この地に来て復活し、世界的役事を展開できる運動が繰り広げられるようになりました。ですから、霊界にいる120の王権がこの地に訪ねてきて、地上と一つになるのです。このような二つの、とてつもなく重要な意味があるのです。
それで、120ヵ国のうち、どこでも真の父母に侍ることができる一つの国さえ生じるなら、そこから天国が開門するのです。
(131-14, 1984.2.20)


 

第6章 我々と霊界の立場

 

1) 人生の結実と生霊体

我々の生の1代というものは、わずかの間です。この1代が、永遠と瞬間を上がったり下がったりするのです。この生が延長されれば、無限に延長され、反面、これを折れば、ここから新しい天地が起こるのです。はかりと同じように、上がったり下がったりするのです。
皆さんは全部、先祖たちの顔を代わりにかぶってきた歴史的な復活体です。その歴史は、どれほどになるでしょうか。何十万年になったと言われます。そのように長い歴史過程が、結局は自分一人をつくるために苦労してきたのです。キム氏なら金氏という自分一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれて死んだと考えるのです。ですから我々は、歴史的な結実体です。
このような結実体が、虫が食って穴がぽかりと空いた果実でいいでしょうか。開いてみると、真っ黒な種が、ころころと転がって出てくるリンゴが良いですか、その種が、べたべたして付いているリンゴが良いですか。皆さんをぱかっと裂けば、よく熟した種が出てくるでしょうか。皆さんの二世が間違いなく、天の実になると思いますか。皆さんの心の中を裂いてみれば、よく熟した統一教会が出てくるでしょうか。
6000年の人類歴史の結実体が、熟さずに落ちる果実のように落ちていいでしょうか。「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹けば落ちるだろう。先生、揺すらないでそっとしておかなければなりません」と言ってもいいでしょうか。ここにそのような人もいるでしょう。反面、「先生がおので打って、自分を思いどおりに揺すっても、枝が折れない限りは、絶対落ちません」という群れもいるでしょう。皆さんはどちらの群れに属しますか。
(46-155, 1971.8.13)
人の一生において、生まれる時、結婚する時、そして死ぬ時が重要だということを我々は知っています。
ある個人が生まれ、成長して、実を結ぶためには、必ず相対と因縁を結ばなければならず、その次には、最後の道を行くようになっているのです。これは、一つの国も同じです。どのような国も必ず創建期があり、次には繁栄期があるのです。その次には、夕方のような期間を必ず経ていくのです。
一つの生命体になったら、自体内で生命が実を結べる内容が備わっていなければなりません。そうでなければ、いくら結実の時が来たとしても、結実を見ることができないのです。


それゆえ、自分の環境を克服しなければなりません。それだけでなく、結実され得るすべての与件を受け継ぎ、その結実のための動機となる自らの力をもたなければなりません。そうしてこそ結実の過程を経て、新しい歴史過程であるとか、人類社会が必要とする一つの結実体となることができるのです。
人は生まれて、必ずそれ自体として環境を克服しなければなりません。かといって、それを克服することだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもち得る過程を経ていかなければなりません。この過程を経たのちには、正しく実効を現し得る一つの位置を占めなければならないのです。例えば、穀物は種がかれて、芽が出て、育って、実を結んだのちにこそ主人の手によって収められ、倉庫に蓄えられるのと同様に、必ずある目的において必要で、収められる過程を経なければならないのです。
それゆえ皆さんは、皆さん自体にそのような願いを引き継ぐことができる内的要因を準備して、内的要因を中心として外的な環境に再び適用しなければいけないという立場にあることを知らなければなりません。これは、守勢的立場ではなく、必ず攻勢的な立場で表さなければなりません。
柿の木を見ると、春に花が咲きます。柿の花は、他の花のように際立って華やかではありません。また、柿の花は葉の色と似ています。それで、ちらっと見ただけでは、花があるのかないのか、よく分かりません。また、実が結ばれても葉に包まれているときには、実があるのかないのか、よく分かりません。その葉があまりにも青々としているために、実があるのかないのか、感じられないのです。実は、夏を過ぎて秋になれば、色が変わり始めます。これが完熟すれば、実の中まで赤くなります。そうして、葉はみな落ちても、その実だけが一際輝きながら、木についています。
統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見るとき、1970年代が結実の時代だとするなら、葉のようなすべての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残ったところに、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、そのような柿の木の実のような存在になり得るかということが問題です。
このような実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが100パーセント評価することができるのです。そうするために、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時まで、どれほど苦労の過程を経たことでしょうか。その実は完熟するまで、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したという事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、そのような険しい環境と、栄養が足りず未熟なままで実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境をみな克服したのです。


その木が実をたくさんつけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。そのような実だけが残るのです。木にたった一つの実が残ったら、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎えるとき、自らの価値と威信と権威を立てることができるのではないだろうかというのです。
木に花がたくさん咲き、実をたくさん結んでも、それらが全部落ちてしまい、秋になったのに一つの実も結べずに枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どのような木の実とも比較できないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実をもって、数千、数万の実の前に堂々と誇ることができるのです。
現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。このような現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、ハナニムが我々に、ある結実を要求していらっしゃるのです。先ほど言ったように、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出すことのできない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てることができるのです。
これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今まで激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どのような結実になるかということが、大いなる問題にならざるを得ません。
このような立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、ということを点検してみなければならないでしょう。
実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだということは、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多いために、その実を中心として数十あるいは数百本の木をもつことができます。
一つの木の実は、その木が10年過ぎても、20年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続しなければなりません。それでこそ、完全な実として収められるのです。
そして、実が育つ過程で、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つように置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられるときまで、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれより強い暴風雨が吹きつける時や、どのような試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。


このような観点から見るとき、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくしては、完熟した結実を見ることができないのです。
(36-10, 1970.11.8)

 

2) 審判と公認(証明書)

 

① 審判の種類

怨讐おんしゅうを愛さなくては行くことのできない道が、原理の道だということを御存じのハナニムが、「終りの日」に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。ハナニムは、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教でいう、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。
(31-167, 1970.5.24)
師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるということを知るべきです。ですからみことばに対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるということです。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。
その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成すための活動ができなければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。
まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、すべての法度を守り、実体を成した人たちが審判するのです。一生懸命にした人たちが審判するのです。それが審判です。み言どおりにしないときは、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴ざんそするのです。統一教会の皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人たちが審判するのです。
皆さんは、どのように行くべきでしょうか。サタン世界で食口シックを経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、ハナニムの所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。そのように行くのが正しい方向です。
讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで、うそが通じますか。仕方なくするのは、しないのと同じです。ハナニムと先生を思いながら、その仕事をすれば、ハナニムの中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。くりのいがに中身が入ったのと同じようにです。このように、心の中でハナニムを思い、先生を思えば、先生のみ言が、ハナニムのみ言が、中身になるのです。


統一教会の皆さんは、ハナニムと先生と食口たちが歓迎し得る人になるべきです。それで皆さんは、むいてみたら栗の実のようでなければなりません。我々は、ハナニムのために、まことの父母のために生きなければなりません。そのような仕事をするのです。霊界に行って、ハナニムのために真の父母を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。
それゆえ、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。このようになる日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、なぜ悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探すためなのです。愛を探すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためなのです。
皆さんがこのような訓練過程を経ないことには、いくら天の人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。
その時の審判主は誰でしょうか。ハナニムが審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、ハナニムの命令だという事実を知るべきです。
(103-236, 1979.3.1)

 

② 天国に行くパスポートを準備せよ

誰にも最後の日が来ます。サタン世界で最後の理想世界を立てるためには、あらゆる体験をして、そこに合格しなければいけません。天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家がたくさん現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、ハナニムが天地を任せることができるのです。本来の創造理想です。
パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないというのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けないようにするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、宗族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立までしなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何をもって分立するのでしょうか。蕩減とうげんの道を通じて分立しなければなりません。
学者も大統領も、例外ではありません。蕩減の道は、探して行かなければなりません。蕩減の道は、教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が、皆さんの目に、鼻に、考えに、みな引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落ということを、ひっくり返すために必要なことなのです。


白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるということを知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。
(129-183, 1983.10.30)
霊界には、イエス様とか孔子釈迦しゃかのような立派な人たちがいます。聖賢たちも多く、偉人たちも多く、立派な人たちが多いのに、何をもって上がっていきますか。またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人がどれほど多く、公的に犠牲になった人たちがどれほど多いでしょうか。それなのに、何をもって、どのように上がっていきますか。ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場まで踏んで上がることができますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人を歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どのように上がっていきますか。そこを通過するためには、証明書が必要です。証明書がなければ通過できません。「私は文学博士の学位をもって行く」と、そのように言って行くことができますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。
私がなぜ、この堕落世界、悪なる世界の反対を突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらうためです。俗世間的なことではありません。私が俗世間に進出したならば、誰にも引けを取らないほどに出世をしたことでしょう。そのような能力をもった人です。
(146-330, 1986.8.10)
エス様は、天国は相続しましたが、この世は相続できませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それゆえこの世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続したのちに、この世のカインが保証する証明書をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明書をもらって行かなければならないのです。
堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。このような原則が解けなかったために、今までの6000年の歴史が、繰り返しの連続だったのです。しかし、今、分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)というみことばがあります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度まで愛すべきでしょうか。怨讐おんしゅうであるカインまで愛さなければなりません。
(34-278, 1970.9.13)
人間の堕落は、ハナニムの立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こいつ! お前と組んで私がこのようになったから、お前を屈服させて、私は帰る」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、ハナニムの愛を受けることはできません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行くことはできないのです。どのようにしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利したとき、その立場でサタンが涙を流しながら、「あなたと私は水遠に違う」と認めました。
(24-337, 1969.9.14)


カインを屈服させるためには、終わりまでカインを愛し切らなければなりません。そのような人でなくては、カインを救うことができないのです。皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければなりません。サタンの証明書とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。このような立場で見るとき、サタンは検事であり、ハナニムは判事であり、イエス様は弁護士です。
サタンが、「お前はこれこれこのようにしただろう?」と言って、さっとわなにかけてハナニムに、「この人は、このようにしなければならない!」と言えば、ハナニムもどうすることもできないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「ハナニム、この人の先祖はこのようなことをしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてあげなければなりません」と言うのです。このようなことをしてきています。
それゆえ、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、そのようなことをしようというのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれたことです。怨讐を愛せというのです。彼らのために福を祈ってあげなければならないのです。そのようにしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰ができないのです。父母に帰ることができないのです。
(48-316, 1971.9.26)
キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、まことオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわちハナニムの息子です。その息子が来れば、その方のエキスを受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。そのようになると、歴史時代のすべての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今まで結ばれている歴史的な条件が、その場で全部なくなるのです。沃土よくど、暖かいねぐらのような基盤ではなく、砂利の多い土地のような所で、接ぎ木されるというのです。今までサタン世界にない本性を備えたので、ハナニムの息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならないためです。それはハナニムがしてくださるのではありません。ハナニムが思い通りにしてくださるなら、6000年前にすべてしてくださったのです。
刑務所から出てくるために、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それゆえ、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくることができないのです。それゆえ、サタンの公認を受けなければ、ハナニムは「お前は私の息子だ。私が生かしてあげよう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。


統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けるといっても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。
(17-124, 1966.12.11)
天国に行くパスポートを、何もせずにもつことはできません。ただ、座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測ったのちにこそ、本物になるのです。
(129-186, 1983.10.30)
天国へは、どんなにきれいで純粋な心をもっていたとしても行くことができません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。
滅びゆくこのアメリカに入るためにも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入ることよりも難しいのです。
あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それゆえ、統一教会ではなく、統一大学です。天国の大学だというのです。ですから、先生が地上で指示したすべてが、あの世に行く時において条件になるのです。これができなくては行けません。
このように言えば、先生を見て、「何もしないで命令だけするのではないか」と言うかもしれませんが、先生はそれをみな実践して命令するのです。する前に言っているのではありません。なぜでしょうか。真の父母ならば、教えてあげなければならないからです。先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談できません。ここにドクター・ダーストが来ていますが、復帰摂理路程を相談できないのです。相談するようになれば、天使長が讒訴ざんそするのです。天使長は、人間を堕落させた張本人です。それゆえ、ハナニムと先生以外は知らないのです。
今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は、統一教会を誰かがなくすことはできず、先生を誰も監獄にほうり込むことはできないのです。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生むことは、忙しいことではありません。皆さんは、いつ死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆることが、たくさん起きるのです。いつ、どの瞬間に行くか分かりません。
祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視とうかんしして、自分たちだけでおもしろく暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出ることができますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいるために、世界圏にまで上がることができていません。長成期完成級にいるために、世界を越えなければなりません。そのような過程にいるために、越えなければならないのです。先生が、霊界に行くことができる道をみな準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。


先生は無能な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は、踏まれることを嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。そのような基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どのように行くべきかということがはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんは、お嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。
自分が生きるということは、霊界に拍子を合わせるための準備です。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々統一教会を信じていった人たちが霊界に行くときには、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。
先生が今まで教えたことすべてが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんがすべて入れるわけではありません。
(146-337, 1986.8.10)
「悪魔を追放しよう!」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙じゅうりんしてきた悪党、サタンのしてきたすべての行動を、公儀の裁判長であるハナニムの前に、検事となって讒訴しようというのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようというのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には、弁護士がいません。しかし、人間には弁護士がいるのです。イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は、私の名を信じ、善なることをしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は、悪魔も連れていけないということは、悪魔とハナニムと協定した条約ではないですか」と言うのです。そうするとハナニムも、「そうだ」と言うのです。
エス様の名で善なる立場に立てた人たちは、悪魔が引いていくことはできません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私はムン先生がこのような方だとは知らなかった!」と言っているのをたくさん見ました。夢のような話です。皆さんの従う先生は、そのような人です。高次元の世界、5次元世界以上の理論をもっている責任者なのです。私に従おうとすれば、そのような内容を知らなければなりません。
(149-98, 1986.11.17)
我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、ほかの国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入ることはできないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴できないのです。
(148-288, 1986.10.25)


3) 霊界入籍

 

① 天国市民が楽しむ自由

女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行くようになっているのです。
外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行くようになれば、神側に近づきます。内的に行くことができる人は、外的な側にも思いどおりに行くことができますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来ることができないのです。
では、統一教会の人たちは、どのような人になるのでしょうか。内的世界にも入ることができ、外的世界にも出ていくことができ、また、出てから入ってくることができ、東西南北を訪ねていくことができる人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうというのです。
外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善なる霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来することができれば、地獄にも行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それがハナニムの主張です。
ハナニムは、地獄に自由に行くことができます。手続きを踏まずに行くことができます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。
(116-177, 1982.1.1)

 

② 霊界に行くときもっていく贈り物

霊界のハナニムの前に行くときに、もっていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、そのようなことではありません。そのようなものは贈り物にはならないというのです。そこには世界のため、ハナニムのための愛をもっていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第3章16節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。ハナニムが世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛するために来た人です。
それゆえ、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないということなのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、ハナニムがどうでということは考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺めるとき、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、ハナニムを愛さなければならないのです。
(98-329, 1978.8.13)


いくら殺人強盗だとしても、証拠がないときは、判事でもどうすることもできません。強盗が、「私が殺人をしたのをいつ見たか」と言ってくれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だにできません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じることは、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、そのようなものが証拠だと思いますか。そのような証拠をもって何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないということです。
皆さんは、天国に行くときに贈り物として持っていく物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんがもって行ったふろしきを開いて見せることができるでしょうか。大した物でもないのに開いて見せることができるでしょうか。統一教会がどんな苦労をし、皆さんがどんな苦労をしたというのですか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国のため、世界のためだと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行くのに、天国に行く時は、何も持たずに体だけで行くことができますか。
皆さんは、統一教会の信徒として、ハナニムからどのような使命をもらった者たちですか。皆さんは、ハナニムの精兵として、ハナニムの息子、娘として、結婚するようになれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうするために、皆さんは暮らすようになります。独立性を育てなければならないのです。このような高潔な使命が、皆さんにあるのです。それゆえ、先生と毎日生活できず、離れていても、また、ハナニムがいつも皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、ハナニムの管理圏で使命を賦与された人たちだということを忘れてはいけません。
皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の子孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食こじきよりもっとかわいそうです。乞食たちは時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせておかゆも食べられないのです。
このような責任を完遂するのに、ハナニムが「10年の間にせよ」と言ったなら、10年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かすことができる子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どのように短縮させますか。ハナニムが計画した10年という期間を、7年に短縮させるためには、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を吸収することはできないのです。統一教会の信徒たちは、このような責任を負って行く人たちにならなければなりません。


そのような時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事はみな終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要なため、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされるすべての与件を備えるためには、必ず段階的期間が必要です。それゆえ、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。
ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。
(32-71, 1970.6.21)

 

③ 三大主体思想を通じた天国

心は、ハナニムの代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。ところで、これまでこの心を、どれほど蔑視べっしし、ないがしろにしてきましたか。宇宙の中心としてまことなる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾するためにどれほど犠牲になってきましたか。
さげすまれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えをもって明け方にどろぼうでもするようになれば、「おい、こいつ!」と、再び忠告するのです。皆さんがそのような心を、どれほどもてあそびましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。
父母の前で堂々とできない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、ハナニムの前に恥ずかしい自分です。そうであるために、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。本郷では、ハナニムを王として侍らなければなりません。ハナニムは、宇宙の王であり、国の王であり、宗族の王であり、家庭の王です。
ハナニムは、宇宙の師であり、国の師であり、宗族の師であり、家庭の師です。ハナニムは、宇宙の主人であり、国の主人であり、宗族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「ため」に生きる愛、「ため」に生きて忘れることができる愛の本質があるがゆえに、この三大主体思想が天国を代表するのです。


自分自身が、その三大思想を全部備えるなら最も理想的ですが、それを全部備えられなくても、真の父母の立場に立てば、師は右、主人は左に立つのです。それゆえ、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真なる父母になるなり、真なる師になるなり、真なる主人になるなり、いずれか一つの立場だけにでも立つようになれば、天国入籍は問題ないのです。
(209-154, 1990.11.28)

 

④ 入籍の条件

堕落とは何かというと、みことばと実体と心情の因縁が離れていったことです。ですから、皆さんは、み言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減とうげん復帰をすることができる実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげることができます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。
我々の生命現象において、霊形体と生命体と生霊体があります。これらは霊界の反応的な現象なので、この世で霊形体、生命体、生霊体と同様の因縁を経るのです。生霊体になればそこに入籍して、自分の位置を見つけて入るのが復帰の路程です。ですから今からは、皆さんが入籍するのです。
もしそのようにつながって入籍される場合には、皆さんがいくら過って、いくら失敗をしたとしても、サタン世界で立てた法をもっては、処理できないようになります。アメリカ人たちを韓国の国法をもって処理することができますか。国籍が違うのでできません。
そのような圏内に入れば、その圏内の法だけが適用されるようになります。ですから、サタン世界の法は、いったん越えさえすれば、いくらどのようにしても適用されないのです。サタン世界の法が適用されないので、結局はこの地上の法をもってしては駄目なのです。それに相応する蕩減条件を立てればいいのです。そうすれば、地獄には行かないようになります。
人は一度生まれたなら、一度は死ななければなりません。それは公式です。では、死んでからどこに行くのですか。統一教会員は、霊人体があるということを知っています。その霊人体は、育たなければならないのです。
これから、皆さんに問題となることとは何かというと、時が来れば、全体が自分の自叙伝を書かなければならないのです。これからそのような時が来ます。統一教会に入ってきて何をしたか、その記録の内容が何かというのです。ここにおいて、どこかの会社に就職して生活したといった内容は、何の条件にもならないのです。かえって、統一教会に入って会社にいたという事実は、恥ずかしいことです。今に、そういう時が来ます。
これから、入籍が始まります。南北が統一されれば、入籍をしなければなりません。宗族そうぞく的メシヤという言葉が問題なのではありません。その内容と事実が問題なのです。そのようなすべてのみ言の内容が、今後自分が永遠の道を行くための蕩減条件になるのです。あの世に行って、皆さんがその道を行くために、心で体恤たいじゅつしながらどれほど努力したか、努力だけでなく実績をどれほど残したかということが問題になるのです。