八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 3-4

八大教材教本 天聖経(2012年版)p756-791

【天啓の御言】(3-4)

 


宗教も、この問題を解決するために、哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。ですから皆さん自身も、このような運勢に捕らわれ、引っ張られているということを否定できないのです。
(8-194, 1959.12.20)
歩みをとどめ、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこへ行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主だということが分かります。彼らは、それを解決するために出てきましたが、今日まで「私の体と私の心、私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走った。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物は、こちらへ行きなさい!」と自信をもって命令した人はいません。
(8-194, 1959.12.20)
今日、人間の生活というものは70年、80年しかありません。70、80年しかないこの短い生涯路程において、歴史的に絡み合った善の圏をすべて収拾しようとするなら、億千万年かかってもできないことを、心は知っているというのです。ですから、この短い70、80年のこの期間において、善なる圏を因縁づけるべきことが、そのように膨大にあることを知っているこの心、良心は、どれほど催促するかというのです。死んでは駄目だというのです。死ねばできないのです。生きている間、因縁を結んで地上で祖国光復をし、本郷の地を求めて天の主権者に侍り、その民とその国で生きてから逝ってこそ、天上天国に行けるはずですが、その世界に行くことができず、その世界を見つめることができないこの心が、どれほどせわしないかというのです。
(155-27, 1964.10.6)
いずれ逝くべき私自身だとするなら、この体は、どこに行こうとするのでしょうか。この心は、どこに行こうとするのでしょうか。またこの生命は、どこに向かって傾いていて、私の心情は、どこに行こうとするのでしょうか。また私の願い、あるいは希望と理念は、どこに行こうとするのでしょうか。この問題を解決できないとしても、私たちは、いずれ逝くべき運命に置かれているのです。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は、土に埋められることによって終わるはずです。では、体が埋められるその日は、心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも、共に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここに、はっきりとした内容と、はっきりとした解決点と、はっきりとした目的観を立てておかない限り、その人は、不幸な人にならざるを得ないのです。
(8-194, 1959.12.20)
私たちは、何を中心として生まれ、何を中心として行き、何を目的として行くべきでしょうか。これは、ハナニムを抜きにしては絶対に駄目なのです。ハナニムを抜きにしては、動機のない因縁になるのです。動機をもてない人は、あることを成就しようとしても、その結果を収めることができず、価値を認めてもらえないのです。ある建物を建てるときは、設計者が設計した設計図によって建築をします。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。
(21-100, 1968.11.17)


出発を誤れば、とんでもない所へ行くのです。それゆえに、船が大海を航海するとしても、羅針盤を中心に、出発した港から行くべき目的地に向かって方向性を描いておいてこそ、初めて行けるのです。それでは、人間が出発した港とはどこでしょうか。分からずにいます。羅針盤をもって、彼岸の世界に到達することのできる、目的地を描いて行ける方向性は、どこにあるでしょうか。ないのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。このように考えると、人間は、いくらやってみたとしても、人間として終わるのです。
(172-28, 1988.1.3)

 

② 私たちはどこに進んでいるのか

人生をこのように生きていく目的は、何でしょうか。この問題を再び考てみなければならないのです。動機が自分によるものではなかったので、目的も自分だけのものではないことは間違いありません。暮らすにおいて、幸福な立場を嫌う者はいないし、豪華絢爛けんらんな立場で生きたくない者はいないと思いますが、思いのままにできないのが自分です。しかし、また自分自身を誇ってみたいし、思いのままに生きたいし、思いのままに残りたい自分です。このような心情の交差点をもった自分だというのです。
(7-178, 1959.9.6)
秋の季節が来たという事実は、冬が迫っているということです。冬は、生命のあるもののみが通過できる過程です。生命をもっていないものは、すべてここで後退せざるを得ないのです。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しなさいというのです。新しい生命は、新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして、新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければならないのです。そうでなくては、冬の季節を通過できません。冬の季節を通過できる生命力をもつようになれば、それを通過する過程は難しいけれど、行けば行くほど春が近づくのです。春が訪ねてくるというのです。統一教会は、その道を行くのです。
(35-68, 1970.10.3)
私たちは、この世に生きていますが、この世だけではなく、霊界もあることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結しています。私たちが行くべき所、私たちが行って住まなければならないその場所とはどこでしょうか。私たちは、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって進んでいるのです。
一般の人々は、この世に生まれ、10代、20代、30代を過ぎ、青春時代を過ぎて壮年時代に入っていくようになれば、だんだんと一つの峠を越えて、その次には老年時代に入っていくようになるのです。このように、沈む太陽のように一生を終えます。
(140-121, 1986.2.9)
霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがつかであり、死んだのちに私たちが迎えなければならない世界が永遠だということを知っています。ゆえに一生の期間とは、永遠の世界を準備するための期間だというのです。世の中とは、そのようなものではないですか。
(140-121, 1986.2.9)


人は、どこへ行くのでしょうか。霊界に向かっていくのです。霊界は、海と同じです。いずれ行かなければならないのです。海に流れがあるのと同じように、そこには造化ぞうかの無双な変化があります。海には、主流の流れを中心として、淡水にはいない造化の存在たちがいます。海に数多くの魚族がいるように、そこには数多くの新しい天地家庭がいます。同じです。あの世に行くようになっても同じなのです。
(141-306, 1986.3.2)
人は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。このようになるのです。天使は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。父母は、どこへ行くのでしょうか。天国へ。それだけでなく、育てた子犬は、どこへ。地獄ではありません。昔、避難する時、北朝鮮でとても裕福な生活をしていた金持ちの家に、「とても高い犬だ」と自慢していた人がいました。その人が避難するとき、犬をしっかり門に結んでおいて、「おい! 元気でな。私だけ行ってくるから」と言うのです。私たち統一教会食口シックは、それではいけないのです。今からは、犬も、天国へ。すべての万物も、天国へ。主人が行く所には、どこでもついていけるというのです。
(78-336, 1975.6.10)
霊界と肉界、人間の混乱した思想界の複雑なことをすべて打開しておき、このように単調で簡単な一つの方向が設定され、明確な一つの価値観を私が見つめて行けるようになった、という驚くべき事実を知らなければなりません。その段階ごとに、力が分散されるのではありません。段階が発展すれば発展しただけ、力が共にあるのです。愛の原動力が私の生活圏に反応するのです。ですから、愛から生じ、愛を受けて愛したのち、愛の世界へ行くのです。ハナニムに帰っていくのです。結果は、原因へ帰らなくてはならないでしょう。ですから、ハナニムのような考え方をもたなければならないというのです。
(126-144, 1983.4.13)
私たちは、どこへ行くべきでしょうか。死線を越えてでも行くべき所とは、どこでしょうか。ハナニムを求め、そのハナニムに仕え、心から喜んで楽しめる日、私の心の世界で、「これ以上の願いはありません」と言える一時を迎えなければなりません。そのために私たちは、困難に耐え、無念さに耐え、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。このような世界を越えていく自分自身になっていない限り、世界と共に消えるのです。
(8-202, 1959.12.20)
なぜ人間は、何も考えずに流れに任せて生きながらも死ぬことを嫌い、「なぜ生きなければならないのか? 根源がどのようになっていて?」と、疑問が多いのでしょう。そのすべての疑問は、人間の哲学書だけでは解決できないのです。哲学というのは、今までハナニムを求めていく道を開発したのです。宗教は何ですか。ハナニムを知り、共に生きる生活から始めることが宗教生活です。
(186-12, 1989.1.24)
霊界を無視してはいけません。これが行くべき原則であるので、いくら優秀な人も、その原則に合うようにこの地上で生き、一体理想、均衡的な平準化を成し遂げなければならないのです。相対的平面です。均衡を取り、90度を中心として引っ掛からないで水平に回らなければならないのです。それで、360度を回りながらも、ここで引っ掛かってはいけません。サタンが少しだけ口出ししても引っ掛かるのです。ですから、回っても回っていないように見える、このような歴史をもつ人が、入っていかなければならないのです。家庭の本格的な再検討時代が来るのです。統一教会検討時代です。これからは教会がなくなるのです。ハナニムに侍って暮らせる、本然の時代です。
(271-277, 1995.8.28)


生命圏、愛圏、血統圏の堕落、全世界が引っ掛かっているものは、同じ条件と同じ公式なのです。同じ公式の条件に引っ掛かっているのです。それゆえに、どのようなことがあってもサタン圏である自分の肉体が要求するすべてのことを放棄し、良心圏が願う所に100パーセント移動すれば地上天国圏に立つので、神の国、地上天国世界と天上天国世界を境界なしに、無限に通じ得る自由圏を得ることができるのです。そちらへ越えていかなければならない、という自覚をもたなければなりません。このような難しい問題があることを、人間は知らずに生きているのです。人間はみな、このようにもつれた背後の内容があることを知らずに生きて霊界に行くので、地獄に行くのです。
(258-343, 1994.3.20)
私たち人間は、生まれると一度は死ぬようになっています。ところで、死ねばどこへ行くのでしょうか。煙が消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば、霊界の国があります。では、その霊界の主人は誰ですか。ハナニムです。それゆえに、そのハナニムの息子、娘にならなければなりません。ハナニムの息子、娘になれなければ天国に入れないのです。
(208-109, 1990.11.17)
霊界があるならば、霊界は、ああしたりこうしたりと変わると思いますか。「人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じである」という言葉もありますが、霊界は変わりません。ハナニムがいらっしゃるならば、そのハナニムは変わりますか。ハナニムは変わりません。ハナニムが統治する霊界の国があるならば、その国は変わりません。億千万世に定めた法に従って生きながらも、不平不満を感じないで順応と柔和の道理に従い、厳然と存続し、生存するのです。そこには、革命家は必要ないのです。革命をすれば、すべて滅びるのです。
(203-326, 1990.6.28)
皆さんは、カナンの福地に入らなければなりません。この地球ぼしはカナンの福地なので、天国の外的世界が近づいてきたため、地球村時代が来ます。人工衛星というものがあり、座っていても天上世界を旅行できる時代が来ました。相対圏の人工衛星時代が来るのです。その次には、コンピューター時代が来るのです。霊界にコンピューターがあり、一生のすべての記録が現れるのです。人生の歴史や、すべてのものをあっという間に知り得る時代になったのと同じように、統一教会を中心として地上地獄膨張主義時代から地上天国出発時代へと交代するのです。
(266-296, 1995.11.1)


エデンの園において、アダムとエバはお金を払って食べ物を食べたでしょうか。すべて、ただです。このように見るとき、霊界に行って住むときも、すべての環境的条件をつくられたハナニムが人間に無限の価値をただで下さったので、霊界に行っても無限の価値の存在がすべて自然に供給されるのです。その霊界は、ハナニムが住まわれる本郷の地です。ここでは、お金を出して買って食べはしないのです。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。
皆さんは、その霊界を知らないから分からないのです。本来の堕落していない子孫ならば、霊界を知っているのです。
(263-78, 1994.8.21)
なぜ本郷を恋しく思うのですか。父母に対する愛、兄弟に対する愛、夫婦に対する愛、その地に対する愛、故郷の山河に対する愛と同じです。あの世でも、まことの愛という全く同じ公式になっています。本郷には父母がいて、夫婦がいて、兄弟がいます。すべてのものがそこにあります。素晴らしい食べ物もあるのです。食べ物も、見える食べ物と見えない食べ物を合わせてこそ、本当の食べ物になるのです。なぜ私たちがこのように苦労をするのですか。故郷に行くためです。そのような希望に満ちた霊界の相続を受けようとするので、そのようにするのです。
(225-135, 1992.1.5)
故郷というのは、この制限された地域だけのことをいうのではありません。どこに行っても、故郷で暮らすように生きなければならないのです。どこに行っても、一生を恋しい故郷で暮らすのと同じ心をもって生きなさいというのです。大韓民国の4000万を中心として和合し、そのように暮らせる人は、あの世に行けば霊的な人格の価値が大きくなります。このようなことを知って、故郷を考える時は、必ず霊界を思いながら愛の人格を備え、父母のように、お兄さんのように、お姉さんのように「ため」に生きなさいというのです。そうしながら、自らの愛と生命を投入して息子、娘を育て、より立派な子孫を故郷の地に残すという心をもたなければなりません。そのような思想をもって暮らしてから、あの霊界に行くようになれば、すべてが私の故郷の地になるのです。
(209-17, 1990.11.24)
私たち統一教会食口シックたちは、どのような道を行かなければならないのでしょうか。ハナニムが願う道に従っていかなければならないのです。天意の道に従っていこうというのです。天意とは何ですか。天意には個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界まで・・・。皆さんは、霊界を知らないでしょう。その分野の専門家がムン先生です。霊界は、間違いなくあるのです。
(121-146, 1982.10.24)

 

③ 一生は霊界へ行く準備期間

いくら考えても、自然世界の摂理は、どうすることもできないのです。皆さんも、死なないことを願うでしょう。死なない自信がありますか。自然が調節するのです。霊界の法に従っていかなければならないのです。それと同じ道理です。
(247-95, 1993.4.25)


霊界が私たちの故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が心の世界、霊界です。それゆえに、ここであらかじめ、そこに合わせて訓練をしてこそ、そこに行っても支障がありません。アメリカの人々は、ハンバーガーを食べなければならず、チーズを食べなければならないでしょう。韓国の人々は、キムチを食べ、고추장コチュジャン唐辛子とうがらしみそ)を食べなければなりません。霊界にもハンバーガーがあり、キムチがあればかまわないのですが・・・。ですからここで、そこに拍子を合わせることにより、あの世に行って苦痛がないのです。
(207-72, 1990.11.1)
今まで一般の人々は、死ねばすべてなくなると考えたのですが、そうではありません。霊界があるので、そのままつながるのです。その霊界に行くためには、地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛によって呼吸するので、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できるのです。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できないのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気のような世界だと考えればよいのです。第2の新しい出発を「死」と言うのです。それゆえに、そのように怖がる必要はありません。死は、新しい出発の門を開くことです。
(249-280, 1993.10.11)
霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に暮らせるその基準を、地上で合わせてから逝かなければなりません。地上生活で、今まで世の中の何も知らない人々のように、自分の思いのままには生活できないのです。霊界を知り、そこに合わせて生きることにより、この世を離れるようになる時、ハナニムのみもとに行って天国と関係を結ぶことができるのです。そうでなければ、不可能だというのです。それゆえに皆さんは、霊界に対する事実をはっきりと知らなければなりません。
(295-120, 1998.8.19)
霊界は愛の空気でできていますが、皆さんの霊人体が準備をせずに天国に入っていけば、息ができないのです。ここは空気で成っていますが、その世界は愛の霊界です。皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備をしなければなりません。そのようにできなくて霊界に行けば、関係を結べないのです。これが問題です。問題が大きくなります。何千万年もかかるのです。
(265-327, 1994.12.1)
皆さんは、本然の愛で愛さなければならないのです。霊界に行くようになれば、霊界は、愛が空気になっています。細胞が愛化することを体験してこそ、すべてのものが自然らしくなるのです。細胞は、すべて呼吸するでしょう。愛の細胞をどこで育てていくかといえば、まことの夫婦になってハナニムの愛を中心として育て、ハナニムの世界に行って、愛の空気を永遠に吸いながら暮らすのです。それでこそ、死にません。愛が根本なので、愛をもてば、何でも自由に実践躬行きゅうこうできる世界だというのです。愛する人のために何でもつくり、何でも創造できるのです。そのような霊界があるのです。私たちの本郷があります。
(283-267, 1997.4.13)


塩水と淡水は、何が違いますか。味が違うのです。塩水は塩辛く、淡水は何の味もありません。同じです。この地上では味がありません。しかし、霊界に行けば味があるのです。水は生命を伴える力をもっていますが、塩は生命を生産するために必要なものです。
(229-90, 1992.4.11)
水は、海の深いところまで行かなければならないのです。いくら大きな川を流れる淡水であっても、海に入っていけば塩水になります。いくらきれいだといわれる有名な河水でも、海に入っていけば、間髪を入れず、さっと変わるというのです。全く異なる色合いと味に変わるというのです。これと同じように、人間たちは、すべて霊界へ行くのです。淡水で生きたことが、そのまま通じないのです。海水になるのです。
ですから、宗教人たちは、生きていきながら塩水を加え得る資格をつくらなければならないというのです。そうすれば、霊界に行って相反しないのです。万一、淡水がそのまま入っていってしまえば問題が起こります。人間もそのまま霊界に入っていくようになれば、大変なことになるのです。
(244-178, 1993.2.7)
河水は、どこへ行きますか。海へ行くのです。海水と河水は違うのです。地上は河水と同じであり、霊界は海水と同じです。それゆえに人間は、どのような人でも、地上で生きた人ならば霊界にすべて入っていきます。淡水と塩水が混ざった場合には、淡水魚は、塩水ではどのようになりますか。淡水魚は、塩水では死んでしまいます。突然入っていけば窒息します。
それゆえに、慣れなければならないのです。水の色合いも同じで、温度も同じであれば、どこにある水を飲んでも何でもないのと同じです。地上世界と霊界の世界が突然連結した場合には、淡水魚が塩水と出合って死ぬのと同じになるのです。どのように呼吸しますか。さけが塩水から淡水へ上っていくときは、2週間の期間を費やし、少しずつ慣らしながら上っていくのです。呼吸が苦痛でないようにしながら、歩調を合わせて移動していきます。
(256-61, 1994.3.12)
海へ入っていく時の気分は、どうでしょうか。「ああ、入っていきたくない!」と言うでしょうか。皆さん、そう思いますか。皆さんに、「死んでしまってどこへ行くのか」と尋ねると、みな「霊界へ行く」と、そのように言うでしょう。それでは、その霊界へはどのように行くのですか。死んでから行くのです。そうかといって、誰でも死んでみたいとは思わないのです。それでは、河水が流れて、ついに海に入っていくようになれば、どのようになりますか。河水が海水をかぶると、どのようになりますか。「ああ、気分がいい!」と、そのように言うのですか。すべてのものが小さくなってしまったような衝撃を受けるのです。縮小されたとでもいいましょうか・・・。最も大きなものから最も小さなものになってしまったような、大きな衝撃を受けるというのです。
(229-209, 1992.4.12)


霊界に行きたくなくても、誰でも行かなければならないでしょう。ここで、自分は絶対に死なないという人、手を挙げてみてください。いくら刀をテーブルの上に刺して誓っても、人間は死ななければならないのです。死ねば、どこへ行きますか。霊界に行きます。そこは大きな川と同じです。いくら大きな川といっても、流れていってすべて海に行くのです。「海に行くわけにはいかない。海に行きたくない」と言うのは、生きているけれど死んでいるということです。それは、存在の価値をもっていないのと同じです。
(229-88, 1992.4.11)
私たちが霊界に行く前に、私が何をして暮らしたのかと、私たちの生活を一度ずっと反省してみる時、それは深刻な問題です。皆さん、霊界は未知の世界です。霊界は、いずれ行かなければならない世界ですが、未知の世界だというのです。無限大の世界です。そこに行くようになれば、皆さんの先祖にすべて会えるのです。数千、数万の先祖と一遍に会える所です。彼らが皆さんを迎えるようになる時、評価するのです。
(142-160, 1986.3.9)
準備といっても、易しい準備はありません。それゆえに一生を見る時に、少年時代は青年時代のための準備時代であることを知っている人は、将来性があるのです。
壮年時代は老年時代のために準備しているのであり、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生自体は、大宇宙の人格を備えるために一つの訓練過程をたどっている修練期間であり、準備期間だということを私はよく知っています。
(147-188, 1986.9.21)
今はビザとか国境が問題になるのでできませんが、言語だけでも統一されれば、どこでも私の故郷のように、私の国のように暮らせる時代になるというのです。いずれ、そのように行かなければならないのです。ですから、ソ連でもアメリカでも、みな一つの家族のように生活しなければなりません。
今後はテレビのようなものも、財布のように小さなものを作るのです。今でもそうではないですか。ポケットに入る小さなテレビも出ているでしょう。ですから人工衛星を中心として、すべて見ることができる時代に入ったというのです。どこに行ってもです。そのように集約された小さな世界が、すべて入ってくるというのです。
人間生活が便利に、どこでも移動できるようになるのです。そのような小さなものを車一つにすべて積んで、行き来しながら暮らせる時代にならなければなりません。韓国を離れて70、80歳まで世界1周をしながら暮らすのです。そのような時代が間違いなく来るのです。先生は、そこに対する準備をしているのです。
(238-361, 1992.11.22)


 

④ 生涯はとても短い

人間の一生は、短いのです。生涯において、10年がいつ過ぎたのか分からないのです。結婚して30年以内に、すべてのものが決定されるのです。それゆえに、人生の道は、いつも待っていません。忙しいのです。
そして、1回ずつみな死ななくてはなりません。死なないですか。死なない自信がありますか。死ななくてはなりませんね。死ねばどこへ行きますか。霊界があることを知っていますか。先生は霊界を知っているので、一生を懸けてこの仕事をしています。世界をすべて料理しながらです。この世は、つかの間です。10ヵ月の腹中生活と同じです。
(143-333, 1986.3.21)
統一教会は、その霊界へ行くための準備をする所です。ですから統一教会は、霊界で合格するための準備をする所です。では、そこで完全に合格するか、不完全に合格するかというのです。また、落第生になって不合格になることもあるというのです。
このように見る時、皆さんは霊界に行く準備を地上でしなければなりません。地上という所は、旅人の旅路のようなものです。いろいろな過程を通過します。女性として、ある父母から生まれて育ち、今は年も取るだけ取ってどこで生まれたのかも分かりませんが、そのように育ち、男性に出会い、共に道を歩んできながら、愛を通して子供も生むようになります。さながら苦労して馬車を引っ張っていくかのように、そのように歩んでいきながら苦労して進んでいくのです。
ところが、その車がいつ故障するか分かりません。険しい岩の道を通ることもあるでしょう。そこで誤ってしまうと故障するのです。故障すればどのようになりますか。それ以上行けません。それを修理しなければなりません。修理する能力がないと大変です。
それで、力や能力がない場合には1年もかかり、2年もかかり、10年もかかるのです。そこを抜け出てこれなければ、死ぬのです。そのような旅路を行くのです。時には旅館に入っていっていろいろな人に出会ったり、時には立ち寄る所もいろいろあるでしょう。人生は、一つの旅行の旅路のようなものです。そうして行く所が、結局は霊界なのです。
(229-209, 1992.4.12)
一生というものは本当に早いのです。物事の分別がつき、この世の事情を知り、ああだこうだしているうちに40歳、50歳となり、10年はつかの間です。10年経てば60歳はつかの間であり、60歳になれば70歳がつかの間です。私も静かに考えてみると、「一場いちじょう春夢しゅんむ(春の夜の短い夢)」という言葉を実感するのです。
(188-38, 1989.2.16)
私たちの人生の1代というのは、つかの間です。この1代が永遠の尺度を上げたり下げたりするというのです。はかりと同じように上がったり下がったりするのです。そのようになっているというのです。
(46-155, 1971.8.13)


皆さんが80年生きたとしましょう。その中で夜に寝る時間を除くと40年に減ります。半分に減るのです。寝ることも生きていることですか。寝ることは死んでいるのと同じです。寝ることは死んでいる命なのです。
そうなると、24時間の中で生きようとあくせくする時間は半分にしかなりません。また、ここでご飯を食べる時間を1時間ずつ抜いてしまうとどうですか。ご飯を食べる時間を1時間と考えなければなりません。
またその中で友人の祝宴の日、町内の人の還暦の日、誰かが死んだ日、葬式を執り行う日、病んで横になっている日、あらゆる日を除くと、生涯において生きている日が半分にもなりますか。この前、計算してみると、生きているということが7年と出てきます。その7年の中で「本当に生きた」と言える日が何日出てくるかです。何日にもなりません。
(49-336, 1971.10.24)
この肉身世界は、短い期間なのです。長くないというのです。それを知れば眠る時間が惜しいのであり、ご飯を食べる時間が惜しいのです。ご飯を食べることも、行きながら食べます。寝るのも行きながら寝て、遊ぶのも行きながら遊んで・・・。それは、どれほど悲惨ですか。そうであればあるほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。これは歴史的な内容だということを、皆さんは知らなければなりません。
(80-226, 1975.10.23)
人の運はゴムひもと同じで、伸びたり縮んだりします。自分が運を100ぐらいもって生まれたのに、120ぐらい生きてから逝く人は、子孫が滅ぶのです。しかし、80ぐらい生きて死ねば20ぐらいの福を残し、その運勢を子孫に相続してあげて逝くことができるというのです。そうでなければなりません。
(78-333, 1975.6.10)

 

2) 死に対する正しい理解

 

① 死は人生必然の道

「70、80年生きればよい、死んでしまえばそれまでだ」と言いながら、「死ねばおしまいだ」と思って今まで生きてきた人々が多くいます。しかし歴史路程を通じ、考え深い人々は、「どのようにすれば人が死なないで永生できるだろうか、もっと生きられる道はないか」と考えてきました。志を抱いた人であればあるほど、「人生とは何か。人間は、なぜやって来て、旅人のように逝くのか」と言い、「人生は苦海だ」とか「草露そうろの人生だ」という話をしてきましたが、永生することさえできるならば、そのように悩む必要がないのです。
(39-229, 1971.1.15)
歩みをとどめ、揺れ動く心と傾く心情を抑え、「お前はどこへ行くのか」と尋ねて、それを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは数多くの道主だということが分かります。彼らは、それを解決するために出てきましたが、今日まで、「私の体は、このような所へ行って、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走るのである。だから天下のもとにいるすべての万民、あるいは天地に存在するすべての存在物は、こちらへ行きなさい」と自信をもって命令した人はいません。
(8-194, 1959.12.20)


皆さん、ここで永遠に生きますか、無形の愛の実体になったところで永遠に生きますか。ハナニムが無限な創造世界を見せたいと思う時、皆さんはこの体で、ハナニムについていくことができますか。ですから霊人体が必要なのです。これは妄想ではなく、事実なのです。見えない精神の中心となるハナニムがいらっしゃって、そのハナニムが相対的存在を必要とされるならば、人間を連れてきて自分が創造した永遠のそのすべての理想圏を見せてあげたいのであり、与えたいと思われるのです。
(111-112, 1981.2.1)
服が一着しかないのに、それを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ごうとしないというのです。春夏秋冬、四季の服を備えておいて、もう春なのに冬物を着ている人には春物を持っていって、「冬物は脱ぎなさい」と教え、(夏なのに)春物を着ている人には夏物を持っていって「(春物は)脱ぎなさい」と教えなければならないのです。そのようなことを知らなかったというのです。人間の死の問題もそれと同じようなものです。代替できる、より価値のあるものが何であるかを知らなかったというのです。
(200-91, 1990.2.24)
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠も越えることができ、永遠の世界を欽慕きんぼしながら暮らせるように、無限に心を砕かれたのです。それゆえに信仰生活をする人々は、地上の希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えられる希望を抱いて、永遠なる希望の世界を夢見て生活しなければならないと教えてきました。
(6-44, 1959.3.22)
皆さんは、すべて霊界に行かなければなりません。それが一つの国ですか、二つの国ですか。一つの世界です。それでは、その世界で生活する内容とは何でしょうか。それを考えてみましたか。水の世界の魚は、水の世界を離れては生きられないのです。水が絶対的な生命です。
河水に暮らす魚が河水だけにいては駄目です。海水にも行ったり来たりしながら生きなければならないのです。なぜそうあるべきですか。淡水の魚は、海水と接するその水を味わうことなしに繁殖することができません。それを知らなければなりません。海に暮らすものは、必ず淡水に来てその水を味わってこそ繁殖するようになっています。二つの世界に通じなければならないのです。心と体も、そのようになるのと同様に通じなければなりません。
(210-128, 1990.12.17)
死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただひたすら一人で行かなければならない道です。行ってみることもできず、行けば戻ってくることができない道、一度行けば永遠に帰ってこれない道ですが、この道を行くようになる時に、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着ほうちゃくする瞬間、その死を越えて立ち得る希望がないとするならば、そこでおしまいです。
(6-53, 1959.3.22)


韓国語の中に、年を取って死ねば「돌아가셨다トラガショッタ(帰られた)」という言葉があります。おじいさんやおばあさんがなぜいないか尋ねられると、「돌아가셨다(帰られた)」と答えるでしょう? どこへ帰ったのでしょうか。霊界へ帰ったのです。
本来、無形のハナニムから出発したので、本然の故郷は無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て地上で繁栄して暮らし、その次には再び無形の世界へ帰っていくのです。そのように帰るのです。無形の父から出発し、有形の父の体を借りて生まれて暮らし、有形世界の体を脱いで本然の形態へ帰ることが、霊界に行くということです。
(242-166, 1993.1.1)
人間は男性も女性もみな五官をもっています。その中で頭に四官があります。目、鼻、口、耳、手、これで五官ですね。ここで一番重要なものは頭にあります。この頭にある四官というものは、ハナニムを中心とした霊界を象徴します。肉体とは別個の世界でしょう。その頭は、思いのままに回ります。それはなぜ回るのかといえば、四方を見るために、四方を聞くために、四方のにおいをかぐために、四方に向かって話すためにです。それゆえに、もし頭が回らなければ、どのようになりますか。とんでもなく不便だというのです。
(228-125, 1992.3.27)
この地上に生きている人間は、第3世界である本然の世界に帰らなければならず、愛の世界に行って暮らせる私になるために、愛の世界において呼吸器官のようなものを準備しなければなりません。この肉身を破裂させて出ていくのです。赤ん坊が、自らの家を破裂させ、破壊して出てくるのと同じです。それゆえに、産みの苦痛を受けるでしょう? 同じように、第2の産みの苦痛が死です。
肉身が生きている間は、何を準備しなければならないのでしょうか。水の中で、空気やすべてのものに合わせ得る呼吸器官を準備したように、この肉身の世界では、霊界に行って愛の器官を中心として呼吸し得る準備をしなければならないのです。そうして、体を破裂させて出ていくようになれば、愛の器官を中心として呼吸し、制限的な環境に生きてきたことを越え、無制限に自由奔放な人間として生きなければならないというのです。
(274-104, 1995.10.29)
私もハナニムに似てみたいし、ハナニムも私がハナニムの息子、娘であるならば似るようにさせてみたいという観念をもつことは、必然的なのです。ですから、私はハナニムに似てみたいし、ハナニムは私を連れていきたい、このことを可能にする道を模索するはずです。それで、人は再びハナニムと似ることができる体をつけて生まれるべきだ、という結論が出てくるのです。そのように生まれる日をハナニムも待ち焦がれるはずであり、人間も待ち焦がれるはずです。そのような人として生まれる日、そのような体で生まれる日、それは必要ですか、必要ないですか。これが、死だというのです。


それでは、人間は、死を歓迎しなければならないでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。死ぬにおいて、何のために死ぬのかというときに、「ハナニムのまことの愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐことは、無限なハナニムの愛の活動圏に私が同参するためであり、ハナニムの愛の世界のためだというのです。
(116-172, 1982.1.1)
ハナニムの愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では、「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。それではハナニムは、それを見てゲラゲラ笑いますか、それとも「うー」と言うでしょうか。人間世界では泣いたりわめいたりしているのをハナニムが見るとき、悲しむでしょうか、喜ぶでしょうか。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内へ突入できる喜びを迎えることができる瞬間が、第2の出生しゅっしょうの瞬間、死の道を通過するその瞬間ではないでしょうか。
それなら、ハナニムが皆さんの肉身が死ぬ日を喜ぶでしょうか、第2の無限拡大世界の愛のために活動する息子として生まれるその時間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱しなければハナニムと関係を結ぶことができない、という事実を知らなければならないからです。
(116-172, 1982.1.1)
ハナニムの息子として、本当に生まれる日には・・・。あの無限な星の中で、ダイヤモンドの星の世界があると思いますか、ないと思いますか。それを考えてみてください。ダイヤモンドが欲しいでしょう。「きんだけでできている星はない」とばかりは言えないのです。それは、あり得ます。私たちの父であるハナニムは、どれほどお金持ちでしょうか。考えてみましたか。無限のこの宇宙を、あっという間に往来できます。そのことに関心がありますか。本当に関心がありますか。そのためにはどうしたらいいかというと、ハナニムが「やってはいけない」、「やりなさい」というその法度を守らなければなりません。そうしてこそ、それが可能であって、自分勝手にしては可能ではない、ということは理論的に正しいのです。
皆さん、ハナニムが「やってはいけない」、「やりなさい」ということを守れますか。「人は二重になっていて、心が主体で体は相対なので、心と体が一つになりなさい!」。これは正しいですか、間違いですか。
(116-174, 1982.1.1)
ハナニムのハンとは何ですか。真の息子、娘を心情的完成者として教育できず、兄弟的心情を教育できず、夫婦の心情を教育できなかったことです。この地上において夫婦がこうでなければならないというその心情的基準で教育できず、夫婦になって母となるにはどのようにしなければならないかという教育ができなかったというのです。これが、人生の教本だったのに、その教本をすべて失ってしまい、自分勝手に生きる人間像になってしまったので、霊界に行く時は地獄に行くのです。地獄に行くにも、一つの所に行けないのです。地獄に行っても放浪する、あらゆる群れがいるのです。これを収拾しなければならないのがアダムとエバですが、知らずに堕落したから完成がないのです。


それゆえに、すべてのことを知っているハナニムが責任を負うのです。救援摂理を誰が主導するのかといえば、ハナニムが主導し、復帰摂理もハナニムが主導しなければならず、再創造摂理もハナニムが主導しなければならないのです。
(228-268, 1992.7.5)

 

② 死は3世界を連結する過程

私たち人間の一生は、腹中時代10ヵ月、肉身時代100年、そして霊魂時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、口、鼻、目、3段階になっていますが、これは人間が生きていく3時代の姿を見せてくれているのです。
口は物質の世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表しています。
(298-304, 1999.1.17)
皆さん、人は最初生まれる時、最も深い水の中で生まれるのです。腹中時代は、水中時代です。赤ん坊が母の胎内にいる時は、水中にふわふわ浮いています。さっと考えれば、母の腹中時代には息が詰まって生きるのが難しいように感じられます。しかし、赤ん坊には胎内が宇宙です。そこが水中でも、赤ん坊にとってはその世界が自由天地なのです。水中に生きているので当然、水を飲んだり出したりすることをしなければならないでしょう。そのために、腹中の子供たちは、ホースをおなかに連結して暮らすのです。
(299-69, 1999.2.4)
人は3世界、蘇生そせい、長成、完成時代を経るのです。腹中での水中世界、それから地上での地球ぼし世界、その次には天上での空中世界で住みます。言い換えれば、腹中の水中時代、地上に生まれて暮らす100年地上時代、それから飛び回る空中時代、このように3時代を経るのです。
腹中にいる時は、外側の世界へ行こうとしますか、ここにくっついていようとするでしょうか。このくらいの穴から私が抜け出さなければならないならば、「うー」と言いますか、「ああ、これはいい!」と言いますか。「そのためには、お前の家がすべて破壊され、お前の暮らしていた所の栄養価値とすべてのものが流れ出て、お前の頭も長く伸ばされ、体も伸ばされなければならないのに、それでもいいか」と尋ねれば、皆「ノー」と言いますか、「イエス」と言いますか。生まれる直前まで、母は死にそうになりながら、力を入れて子女が生まれるその時間まで「ノー、ノー、ノー」としつつ、ぐっと・・・。追い出すので出てくるのです。それで、一つの世界はなくなり、次の世界でまた「ふうふう」と息をするのです。
(116-174, 1982.1.1)
この地球星は母親のおなかのようなものです。このことをはっきり知ってください。腹中時代には、何によって食べ、息をしますか。口で息を吸い、鼻で息を吸いますか。どこで息をしますか。食べるのもへそで食べて、息もへそで吸うでしょう。へそですべてするので、食べる口も必要なく、息を吸う鼻も必要ないのです。見ることを可能にする五官が必要ですか、必要ありませんか。必要ないのに、なぜあるのですか。目があり、鼻があり、口がなぜありますか。外に出て使うためにあるのです。
(295-321, 1998.9.24)


腹中時代には五官を使いますか。五官が必要ないでしょう。おしっこもしないし、うんちもしないし、すべて死んだようになっています。10ヵ月そのようにしているということが不思議ではないですか。おしっこやうんちは、まことの愛より先んじることができないというのです。おしっこやうんち自体が人より先に出てくることはできないのです。アダムが出てきた次にそれが始まるのであって、先になることはないのです。そのようになっているというのです。
(297-12, 1998.11.15)
人間を見ると、腹中時代には、水を飲まなくてはなりません。そうです。人間の4分の3は水です。(ところで)人間世界とは、空気世界です。それゆえに水中にいる時には、目、耳、鼻など五官が必要ないのです。水中では五官が必要ないので、目を閉じて微動だにしないのです。腹中で10ヵ月育つとき、鼻で息を吸ってみましたか。鼻で息を吸っては死んでしまいます。五官が完全にふさがっているのです。
(302-166, 1999.6.13)
ところで、鼻は、なぜ必要ですか。次期の世界のために準備するのです。このときに、空気が鼻から次第に呼吸器に入っていくならば、このあらゆることを破壊して出てこなければならないのです。ただ、これも切ってしまわなければならず、母の子宮や水の家すべてを破壊して出てこなければなりません。それはどういうことかといえば、子宮と水の袋、その環境がすべて破壊されるのです。死ぬのです。水中世界に破壊と終末を告げて、新しい出発が始まるのと同じです。
(122-327, 1982.12.1)
へそに緒がついているのを再び使わなければなりませんか、切って捨てなければなりませんか。切って捨てなければなりません。「人の命綱を・・・、なぜ人と人の命綱を切るのか・・・」と、赤ん坊は死に物狂いで「わーわー」と泣くけれど、ハナニムが見る時は、笑いますか、泣きますか。全く同じです。空気の世の中で、今まで霊人体が、体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っていましたが、肉身がすべて老いてしまったので、け飛ばして出ていこうとしているのに、肉身が「ああ死にたくない。死にたくない!」と言うとき、ハナニムが見れば、ほほえみますか、「ああ!」と同情しますか、「こいつめ!」と言うでしょうか。
赤ん坊が生まれて、父母の前に愛の対象になり、父母と愛の友になれる所が地上世界です。そして、父母と愛し合える地上世界に生まれるのと同じように、霊的無限の世界に通じる父母であられる永遠のハナニムと、愛を交わせる霊界に生まれなければならないのです。
(116-174, 1982.1.1)
地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きたのです。腹中で呼吸していたときには、未来の空気世界のパイプを装置して生きていました。生きてはいましたが、へその緒に連結された胎を破壊し、死んで、出てくるようになる時には、新しい次元、高い次元に、どれほど変化するでしょうか。高い次元で供給を受けるのです。空気の供給を受けて出てくるというのです。ここから出てきてからは、また何によって発展させますか。愛です。愛の要素を受けるのです。御飯だけ食べていてはいけません。御飯を食べることは、死に向かって進んでいるのです。水を飲んでこのように暮らすことは、すべて死に向かって進んでいるのです。ここで何のために、この期間に何を満たせばよいのですか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなくてはなりません。
(139-214, 1986.1.31)


腹中から空気世界へ連結させて出てくる時は、腹中世界で生きたへその緒と水の袋をすべて破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへその緒と胎は、破壊されて死ぬのです。死と同時に何が出てきますか。この宇宙、地球ぼしの母のところに現れるのです。このようにして、口によって元素の補給を受けて生きているのです。
(139-212, 1986.1.31)
せみが飛ぶ前の幼虫のとき、「私は幼虫として生きるぞ。ああ殻を脱ぐのはいやだ!」と言っても、脱いでしまえば、パタパタと飛ぶようになるのです。幼虫からせみになるときに、それを脱ぎたいですか。「ああ、陸地も空気もみないやだ!」と言うでしょうか、「私は良い。早く脱がせてくれ」と言うでしょうか。飛ぼうとは考えていないのです。
(116-176, 1982.1.1)
とんぼも、初めは幼虫になって水中で泳ぎ回っていますが、地上に上がってきて、一時はい回ります。その次には、パタパタと天下を自分の舞台として飛び回るのです。昆虫類の中には3段階の世界を経るものが多いのです。
昆虫の中には、羽のない昆虫はいないのです。大概羽があるでしょう? 昆虫もこのように水で、陸地で、空中で生きるのに、万物の霊長である私たち人間が地上でだけ生きて良いですか。
(49-288, 1971.10.17)
皆さんも「いやだ」と言うけれど、死んで(肉身を)脱いでみると、ひゅうっと飛んでいくのです。それがいやですか。事実がそうなのです。うそではなく、事実がそうであることを知らなければなりません。3段階の世界を経ることが(昆虫と)そっくり同じだという事実を、皆さんは知らなければなりません。死が私たちにとって、第2の出生しゅっしょうであり、幸福になる関門だということを皆さんは知らなければなりません。
(116-177, 1982.1.1)
昆虫も飛び、小鳥も飛び回れるのに、人が飛び回れないのですか。植物の種も、風が吹けば飛び回れるのです。たんぽぽの種は、自然に飛ぶようになっています。飛び回るようになっているのです。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのに、万物の霊長である人が飛べませんか。それならば、ハナニムの前でおとなしくしていられますか。「ハナニム、みんな飛んでいるのに、私はなぜ飛べないのですか」と抗議したくないですか。ハナニムが「こらこら! じっとしていなさい。お前たちも何十年か過ぎればそのようになるはずだから、それまで待ちなさい」と言う時、「えっ、本当ですか。やはりそうでしたか」と言ってもかまわないというのです。それでは、その時まで何をすべきでしょうか。あの世界に行って合うように、ここで訓練しなければならないのです。


父母を見て愛してこそ、ハナニムを愛せるのであり、夫を愛してこそ、あの世に行ってハナニムを愛せるのです。訓練場が地上世界だというのです。それでは、死なないでそれを願うことが可能ですか。この体を脱がずに可能ですか。体を脱がなければなりませんか、脱がなくてもよいですか。
(116-176, 1982.1.1)
人は水の世界で一度生きてみたし、地上の世界で一度生きてみたでしょう。それでは、空中の世界で一度生きてみたいですか、生きてみたくないですか。皆さんが腹中から生まれるとき、「私は陸地の世に出て口で蜂蜜はちみつも食べ、もちも食べ、御飯も食べ、牛肉も食べ、みんな食べる」と考えてみましたか。そういうことを考えてみたことがありますか。「ああ、ここから出れば死ぬ」と言いつつ、へそで息をしながら生きているのです。そう考えると、どれほど苦しいでしょうか。今それを考えると、窒息するほどでしょう。それでも腹中から外に出ていくのではないかと思って、「ああ、出ていかなければいいのに」と言うのです。しかし、「出ていかないほうがいい」と言うかもしれませんが、時になればすべて破裂してしまうのです。羊水がぱっと破裂し、出ていくのに従って外に出れば、安産になるのです。よく生まれたということです。
(49-286, 1971.10.17)
地上時代には、宇宙が母であり、万物が母です。これが地上です。地球ぼしが母なのです。元素を皆さんに供給してくれるでしょう。別の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育っている時には腹中で呼吸をするのですが、何によって呼吸しますか。へその緒で呼吸するでしょう? これが、母の体と連結されたホースなのです。よく知っておかなければなりません。しかし、第2の世界、空気の世界に連結されたことを知っています。腹中で暮らしていたのをけ飛ばして出てくれば破壊です。その時は、涙と同時に何に連結されるかといえば、息をする穴、鼻の穴によって息をするようになっている、空気の世界に連結されるのです。空気の世界に連結されて、鼻の穴が唯一の補給路となります。
(139-212, 1986.1.31)
水(を飲む口)は、腹中時代を象徴します。その次に、鼻は空気の時代です。母の腹中から生まれて、空気の時代です。その次には、目の時代です。太陽の時代、太陽の光の時代です。「愛は光だ」と言います。明るくなるというでしょう。光の世界です。
人生は3時代を経て暮らすというのです。とんぼも水中で暮らし、地上に来て暮らし、殻を脱いで飛び回りながら虫を捕まえて食べます。3時代を経るのです。万物の霊長である人間も同じです。腹中時代。母の腹中から出てくる時は、自分が使っていた所帯道具を抱き締めて出てきますか、すべて破壊させて切り捨てて出てきますか。一つでもつけたまま出てくれば、大変なことになるのです。
へその緒で食べたり息を吸ったりしていたのに、それを切って捨てれば死ぬでしょう。しかし、母の腹中から出てくる時は、それを切って捨てなければなりません。無慈悲に切って捨てなければなりません。すべてを破壊して出てくるのです。
(299-37, 1999.2.1)


死ぬこととは何ですか。地上生活は、空気中で胎内にいた時のように泳ぎ回って暮らすことと同じです。空気のふろしきの中で生きています。そうではないですか。死ぬこととは何ですか。死ぬことは特別なことではなく、第3の人生として出生しゅっしょうすることです。その瞬間が死ぬ時です。そのように考えると気分が良いでしょう。
(49-286, 1971.10.17)
この体が今、何をしなければなりませんか。腹中においてへその緒で息を吸う時と同じように空気のパイプである鼻の穴を準備し、破裂して出てきた時にへその緒に代わって息を吸うのです。それと同じように、生まれてしなければならないことは愛の体恤たいじゅつです。愛という空気を吸わなければなりません。父と母から愛という空気を吸い込まなくてはなりません。愛の空気の供給を受けて、すべて経ていかなくてはなりません。
ある家庭に赤ん坊として生まれ、サインカーブのように上がっていってみな死んでいくのです。赤ん坊として生まれ、大きくなって、その次には分解されていくのです。赤ん坊として生まれ、赤ん坊として帰っていくのです。そのようになる時は、第2の腹中世界をけ飛ばし、第3の愛の呼吸器官に連結されなければならないのです。父母の愛、兄弟の愛をけ飛ばし、大宇宙のハナニムの本体に和する愛の世界へ入っていきます。
霊界は愛の空気です。愛の空気がぎゅっと詰まっているのです。それゆえに皆さんは、今この地上世界で愛の息ができるパイプを装置しなければならないというのです。ですから、霊界の体験が必要なのであり、霊的な愛を感じて、それを呼吸できる人になってこそ死なないというのです。
(139-212, 1986.1.31)
私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界へ行かなければなりません。ですから、この世に生まれた私たちは、死を覚悟しなければならないのです。
また、善の自我を永遠の世界で第二の私として立てるためには苦労をしなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ健康で善なる赤ん坊として生まれることができるように、この地上世界の生活も腹中での生活と同じなのです。ゆえにハナニムの形状を見習い、ハナニムの心情を見習い、ハナニムの神聖な神性を見習って成長しなければなりません。成長し、また命を懸けて、愛でもって越えていかなければならないのです。
(14-17, 1964.4.19)

 

③ 死はもっと良い世界へ移ること

人間は、自分を中心として見る時は希望をもっているようですが、死の峠を越えられる希望をもつことができずにいます。そのような希望をもてないまま消えています。これを人生のパターンだと思って死んでいくべきか、そうでなければ、死を嘲笑ちょうしょうして越えていける一つの希望を求め、その希望を楽しみながら逝くのか。これが、今日、地上で生きている人間たちが考えなければならない重要な問題だとみます。
(6-45, 1959.3.22)


私たちは、結局どこへ行かなければなりませんか。霊界です。それはどういうことですか。「死後の世界」といいますが、死後の世界ではないのです。なぜ死後の世界になり得ないのでしょうか。愛と関係している世界なので、死後の世界ではないのです。まことの愛を中心として出発したので、私が真の愛の位置に立つようになる時は、今ここが霊界です。霊界と肉界、二つの世界が一つのものです。それゆえに愛が偉大だというのです。
(144-199, 1986.4.24)
皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は、地球です。皆さんは、体が大きくなるように、地からすべての要素の供給を受けます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母のところに入っていくことが死ぬことです。第三の父母のところに行く時は、そのまま入っていくのではありません。第三の父母のところに帰ろうと思えば、本来の父母だったハナニムの姿に似なければならないのです。
(138-98, 1986.1.19)
皆さんは「70歳になろうとも、私はこのように行かん」ということを一度考えてみましたか。「年齢が80になって死ぬ間際であっても、私はこのように行かん」ということを考えてみましたか。死ぬ場においても、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをなしてきた」と言い、今後もそのようなことをなせるという証拠物を提示できなければなりません。言葉だけでは駄目です。そうしてこそ、彼が死んだのちに、人々が彼にすがって涙を流して、「そうだとも、そうだとも」と言うのです。そのようにならなければなりません。
(73-116, 1974.8.16)
人生の行くべき道とは、無限であられる愛のハナニムを探すことです。10回でも100回でも、死の峠を経たとしても、また死んだとしても絶えず探していかなければならないハナニムの愛、その愛を探すことが人生の最高の行くべき道です。
(39-210, 1971.1.10)
人が生きていくにおいては、必ず達成しなければならない目的があります。その目的を中心として10年、20年、30年、70年、一生の間行かなければならないのです。目的が大きければ大きいほど、内的により一層強く決意しなければなりません。そうでなくては、その目的に到達できないのです。時間という過程を通して、その目的を凌駕りょうができる内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。
(31-149, 1971.5.24)
心の終着点、すなわち欲望の終着点とはどこでしょうか。ハナニムの愛を占領する所です。ハナニムを占領したとしても、その中でもっと貴い愛を占領できなければ、ハナニムは私のハナニムではありません。ですから、ハナニムの愛を占領しなければならないのです。その愛だけ占領すれば、ハナニムはいらっしゃらなくてもかまわないというのです。その方のものが私のものであり、私のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになるのです。そのような国が、上下の等級のない理想の本国となるのです。


そのような場に横たわるようになれば、天下にあるすべての存在が、素晴らしく見えないものがなく、天下にあるすべての存在が、自分のためにないものがない、と感じられるのです。そのようなものがハナニムの愛ならば、今日、人間の行くべき天上世界、すなわち天国はどのようになっているでしょうか。そこは、愛によって充満している所です。
(39-210, 1971.1.10)
統一教会の先生は、どのような位置で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国まですべて抱いて、世界のために死ぬのです。韓民族が一つになって世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるので、その道を探し求めていくのです。
(34-192, 1970.9.6)
おじいさん、おばあさんも、千年、万年の後代の子孫も、霊界に行っている霊人たちも、永生へ行くその公式的路程は同じなのです。そこには「ため」に生きた人々だけがパスできる正門があり、そこを門番が守っている事実を知らなければなりません。そこにパスできる資格者をつくってあげるために先生がお願いするのだということを、よく理解してください。
(203-193, 1990.6.24)

 

④ 死は新しい次元への昇華である

堕落しなければ、人が死ぬことは幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。それゆえに、死を「昇華」と言います。
(199-353, 1990.2.21)
皆さんも肉身を脱いで死ぬことが嫌だというでしょうが、実際死んで肉身を脱いでみると、私たちは、霊人体として第二の出生しゅっしょうの幸福の関門を通過するために、さっと飛んでいくのです。
(297-261, 1998.12.19)
私たちは、初め母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくる時、すべてけって、切ってしまってから生まれるのと同じように、私たちの霊人体にとって肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んでいくのです。ですから、結局人間は、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠なる真の愛の世界で生きるようになるのです。
(298-311, 1999.1.17)
統一教会は、死んだのちの葬儀も、そのようにしません。昇華式なのです。この世において怖いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態を備え、天地の度数を合わせ、ハナニムの愛の圏内の垂直の位置に入っていくようになります。なぜ垂直の位置に入っていくのでしょうか。その場には影がありません。垂直の位置に影がありますか。すべてのことが完成です。それからこれが回るようになるので、その回る環境全体が垂直化されます。
(198-124, 1990.1.25)
自らの死に直面するとき、いかに90度で天上に跳躍し、昇華して上がっていくかということが問題です。45度で行けば、そこにたどり着くことができません。ただ90度でのみ上がっていってこそ、ハナニムの愛の相対になれるのです。ハナニムの愛は直短距離を通じるので、90度以外にはありません。垂直しかないのです。
(215-109, 1991.2.6)


統一教会では、死んで葬儀をすることを「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張り、行くことができないようにしている」と言うのです。そのようなことを知っているので、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔ひしょうするというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張らず、押してあげなければなりません。
(199-130, 1990.2.16)
昇華式とは何ですか。変化して1段階上がっていくということです。
(196-55, 1989.12.24)
今日、人間が死んでいくとはどういうことかを知らなかったのです。それは、悲しみではないというのです。それは、次元が低い世界から次元の高い世界へ、愛の橋を通じて移動することとみなすのです。ですから統一教会では、死を「昇華式」と言います。次元高く昇華するということです。それは愛でのみ可能です、愛でのみ。
(137-316, 1986.1.5)
ハナニムは、誰のためにいらっしゃるのでしょうか。愛の主体であられるハナニムは、愛の相対を探すため、立てるためにいらっしゃるというのです。何を中心として? まことの愛を中心として。真の愛は、「ため」に生きて投入して忘れてしまうのです。そこに永生があるというのです。世の中の万事がそうです。私のような人は、そうです。永生問題を知っているので、絞首台が問題ではありません。怖いものがありません。それゆえに統一教会では死を「昇華」と言い、その式を「昇華式」と言うのです。
統一教会員たちは、霊界に行っている妻と話しながら生きているのです。今この世では、そのようなことを理解できずにいるので、あきれかえります。それは、お金を払って買うことができますか。
(209-160, 1990.11.28)
昇華式は、興進フンヂンが行った時から生じました。その時、成立したものなのです。病院で酸素マスクをしているのを先生が外さなければならなかったのです。霊界へ行く道を、すべて整理しておかなければなりません。そうすれば、堕落圏がありません。それゆえに興進がこの前、来て役事しながらも、「お父様に対する負債は返す道がない」という話をしたのです。真の父母の家庭で育った青少年で、霊界に行ったのは初めてです。興進が行くことにより、霊界の再臨主と同じように霊界のメシヤとして行ったのです。それで、彼と一つになることにより、高い所に上がっていくのです。
(225-136, 1992.1.5)
霊界に行くことは、悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げ、足どりも堂々と百戦百勝し、天下の故郷に錦を飾る旗を掲げて、民族と人類の歓声を受けて堂々と入っていくことができる還故郷の道です。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それを何と言うのですか。「昇華式」と言います。
(227-260, 1992.2.17)


ゆえに興進君が行くことによってこの死亡の垣根を、死の垣根を壊してしまうのです。それで、「昇華式」と言うのです。
死は、落胆や気落ちではありません。落ちるのではなく、跳躍するのです。昇華するのです。ですから統一教会食口シックたちは、死に対する恐怖をもってはいけないのです。死は、このような自然循環の法度によって来るものです。もっと良い世界に移してもらうための手順なのです。
(196-270, 1990.1.2)
愛で、すべての死亡圏に勝ったのです。「真の愛は死亡圏に勝つのである!」。これが創造原理です。それで、「愛勝日」を宣布しました。今、興進君がそのように霊界に行くことにより、私たち統一家のすべての息子、娘たちが昇華式を行うようになるとき、サタンが讒訴ざんそする何の条件もないというのです。あの世に行く船に乗るようになっても、義人たちがすべて迎えにくるのです。そのような、歴史的であり大革命的な次元に連結される時間です。
(242-278, 1993.1.2)
「愛勝日」という言葉は何ですか。皆さんは、それを知らなければなりません。先生は、興進が死んでから送り届けるまで、涙を一滴も流しませんでした。死亡圏に勝たなければならないのです。愛をもって死亡に勝ったという、このような立て札を立てなくては昇華式がなされないのです。
「昇華式」という言葉は興進君から出てきたでしょう? そうでしょう? その「愛勝日」という、その愛勝とは何ですか。死亡に勝つことです。他の人々と同じならば、オモニも身もだえして痛哭つうこくせざるを得ないことですが、オモニが涙を流してはならないのです。三日以内にこの式をしてあげなければならないのです。死亡に勝ったのだと宣布しなければなりません。
それゆえに、統一教会では昇華式が生じたのです。死亡を越えて喜びに向かっていくのです。昇華式を経ていく人々は、霊界のすべての谷間をひゅーと越えていくのです。もちろんそうでない者たちは、行って中間にとどまっています。それを知らなければなりません。昇華式というものは、興進君から始まったのです。
(212-96, 1991.1.2)
統一教会においては、人が死ねば昇華式をするでしょう? それは跳躍して別個の世界へ移動する瞬間です。それゆえに歓声を上げなければならないのです。死んでいく人は、霊界をよく見るのです。泣くような所へ行くのではないのです。楽しい所に移動していくのです。堕落したので、目がすべてめちゃくちゃになって分からなくなったのです。
(255-294, 1994.3.11)
痴呆ちほうが起こることも、世の中で良心自体が麻痺まひして肉体に主管されれば、地獄の霊人体と対話しながら痴呆が起こるのです。そのような人は、善の霊人を通し天国の理想を記憶させて、順次浄化して昇華、昇天するようにしてあげなければなりません。
(258-136, 1994.3.17)


すべての人々は生まれて、結婚して、死ぬ時に戸籍地に申告をするのです。私たちもそのようにしなければならないのに、私たちの国がありません。私たちの国があれば、私たちも生まれて、結婚して、昇華する時に登録をしなければなりません。あの世に行けば、皆さんは、アメリカ人として入っていくはずです。「どこから来たか」、「アメリカから来た」、「天国に入りたいか」と、そこの門番が尋ねてくるのです。「どこから来たか」、「まことの父母に侍っていた地上天国から来た」と言えば、天国に入っていくのに何の問題もないのです。これは事実です。コンセプトではなく、事実なのです。
(278-36, 1996.4.28)

 

⑤ 死の前での姿勢

人々が死ぬ時、最初に誰を呼びますか。ハナニムを呼びます。最も難しい立場でハナニムを求めることは、その個人にあっては最高の真実です。死ぬ時、本当にハナニムを呼んで死ぬ者には許される道が開きます。それはなぜでしょうか。死の道理がそのようになっているからです。その原則に近い立場で、その原則だけつかんで死ぬようになれば、回生できる道が開かれるのです。
それゆえに、すべての人々が死ぬ立場に行くと、「ああ、ハナニム」とハナニムを求めるというのです。これは教訓の中の真実の教訓です。人が死ぬ時は、それでも正しい言葉を残して死ぬのが普通でしょう。そのようなことを見る時、誰が教えたのか分かりませんが、よく教えたものです。それは、正しい言葉の中の正しい言葉です。
(26-297, 1969.11.10)
死ぬ時も四位よんい基台を備えなければなりません。四位基台を備えることができずに死ぬ人は、死への道も正しく行くことができません。それゆえに死んだのちも、霊魂が行ったり来たりするのです。それでは、このような原則を知っている皆さんは、死ぬ時には誰をつかんで死にますか。ハナニム、その次には真の父母です。生まれる時もその方を通して生まれ、死ぬ時もその方を通して死んでこそ、霊界でも永遠に共に暮らすのです。その方を通して出て、その方を通して結末をつけるのです。すべてこの原則のもとで生きていくことが孝の道理であり、忠の道理なのです。
このような孝と忠の道理を果たした人が、人生行路において果たすべき責任を全うしていく人だ、という結論が出てくるのです。生き方は、このようにしなければならないのです。
(26-297, 1969.11.10)
皆さんが死ぬ時、何を中心として死にますか。愛をすべて忘れてしまって死にますか、しっかり抱き抱えて死にますか。愛の中でも誰の愛をつかんで死にますか。父母の愛を先につかまなければなりません。それから夫婦の愛と子女の愛をつかまなければならないのです。死ぬことも、四位基台の原則に符合しなければならないのです。
(26-297, 1969.11.10)


今後、皆さんの子女にどういう遺言を残すべきかというのです。どういう遺言をするのですか。父母がしていないのに子女に、「しなさい」と言えますか。そのような父母は、子女を利用しようと思っている父母です。ですから、皆さんが先に実践してから、死ぬ前に息子、娘に、「私はこのように恥ずべきことがないように生きたから、お前たちもこのように生きなさい」と遺言をすれば、その遺言はハナニムが永遠に守ってくださるのです。皆さんは、死ぬ時に、子孫にそのように遺言する自信がありますか。これは深刻な問題です。
(26-300, 1969.11.10)
普遍的に人は、歴史において、永生を中心として十年、百年だけではなく、千年、万年、億千万年を考えるようになるのです。人が死ねば動物と同じなのに、それ(名前や名誉)を残してどうするのですか。近ごろは、宗教を信じずハナニムを知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言っていますが、その名誉を残してどうするのですか。
アメリカの愛国者になって記念館に入ったとしても、アメリカが滅びる時は記念館がすべて壊れてしまうのです。知っているのはアメリカの国民ぐらいです。名前を残してどうするのですか。ですから、滅び、また興隆する歴史時代にいくらそれを残したところで、「良い」と言っていたものも悪く取り扱われることもあるのです。しかし、すべての主権者は百年も生きることができずにみな死に、国も何百年、何千年もたたないうちに滅びますが、永遠に死にもせず滅びない方がいるならば、どうでしょう。そのような方がいるならば、名前、名誉を残したことを、その方の前にすべて任せて依託したいのです。皆さん、そのように考えてみませんでしたか。
(103-16, 1979.1.28)
天国を中心として死ななければなりません。天国は、世界のどの国よりも大きいでしょう。天上天下てんげに一つしかない天国で死ぬのです。それでは、どこで死ぬのでしょうか。死ぬにも場所があるのです。これは、韓国的なつまらないものではいけません。韓国的にいくら死んでも駄目だというのです。最高の位置、天上天下を通過した、ハナニムの心情の国を中心とした、最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死ななければならないのです。その天国が最も良いのです。それでは、世界がすべて反対するとき、どのようにしますか。逃げればよいのですか。違います。平然と耐え、天下がすべて旗を掲げて歓迎する立場で死ななければならないのです。
(34-185, 1970.9.6)
ハナニムのみ旨を信奉して、ハナニムのみ旨を立ててきた数多くの人々はどのような人々だったのかといえば、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っています。
皆さんは、各自が死に逢着ほうちゃくしたとしても、これを越え得るという希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えていけば、私は天の前に堂々と立つようになるはずだという希望と、心で憧憬どうけいした世界、その本郷に向かって喜んで走れなければなりません。ハナニムの理想世界を願う心が切実であってこそ死に勝つことができる存在になる、ということを皆さんは悟らなければならないのです。
(6-53, 1959.3.22)


天の希望を抱いて暮らす人は、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びによって越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人だ、ということを知らなければなりません。
それゆえに皆さんは、死を前にして世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天の前に立ち、自らの死の価値を誇り得る人にならなければならないのです。天は、このような希望の息子、娘を探していらっしゃるという事実を、私たちは知らなければなりません。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとするなら、その人は、ハナニムが愛すまいとしても愛さざるを得ない人です。そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがあるとするなら、天はその泣き叫ぶことにこたえまいとしても、こたえざるを得ないのです。
(6-54, 1959.3.22)
み旨のために死のうとする人は生き、生きようとする人は死ぬというのです。これはどういう話ですか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないというのです。それでは、死ねばどうなるでしょうか。死ぬ前には私のものですが、死んだのちにはハナニムのものになります。それは、私たちが堕落した血統を受けたからです。
ですから、死ぬ前までは、私たちの生命すべては、サタン側の因縁から抜け出せないのです。しかし、死んだのちにはハナニムと因縁が結ばれるのです。生命と死を見てみるとき、どちらが強いですか。死より生命がもっと強いですか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。したがって、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけないのです。
(34-47, 1970.8.29)
劉孝元ユヒョウォン協会長がこの世を去る時、「先生に会って今までこのようにやってきたが、終わりをどのように結ぶのか」と私が尋ねたところ、劉協会長は、「永遠に変わりません」という言葉を残して逝きました。そうでなければならないのです。サタン世界は、いずれ死ななければならないのです。死ぬことなしに復活はできないのです。一つの時代を経なければ、他の時代を迎えられないのです。
(34-47, 1970.8.29)
聖書でいう死とは、どういうことですか。ハナニムが永遠にもち得る生命を殺せということではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。ですから、み旨のために死のうとする人は生きるというのです。この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。
これは復帰の正常な論法です。それゆえに、生命を差し出せるかということが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発する時は、どうだったでしょうか。私は、生命を差し出す覚悟ができているかを考えました。
(34-47, 1970.8.29)


私の生涯において、何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。これが結論なのです。「愛の墓を残していこう!」。愛の墓の中で生きればハンがないというのです。墓のような、いくらうんざりするような所で生きても、愛の中で生きれば恨がないというのです。「私たちは、生きながら愛の墓を残していこう!」。そうすれば、人生は永遠において成功するのです。
そのように皆さんが生きて死ぬ時は、ハナニムが祝福してくださり、霊界ではハナニムが息子、娘を連れて歓迎しに出てくるでしょう。その時には、指輪をはめることができなかった手ならば、天国のダイヤモンドをはめてくれるはずであり、服を着られなかったとすれば、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれるでしょう。
私の一生は、何を残すのですか。愛の墓です。そのように理解して、それを忘れないでください。さあ、一度そのように生きてみるという人は手を挙げてみましょう。みんな挙げましたね。ハナニムの祝福が皆さんと共にあるでしょう。
(97-169, 1978.3.12)

 

⑥ 祝福によって永生の道が開かれる

イ) 最も重要なことは永生問題
人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活をしています。「生活」といえば1日1日を暮らすことをいい、「生涯」といえば一生の生、一生を通して暮らすことをいうのです。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。
永生とは一生ではなく、永遠の生活を送ることです。永生するためには、生涯路程をその永生にどのように連結させるかということが重要であり、それをすることが生涯の責任です。
(197-186, 1990.1.14)
皆さんは、どのくらい生きると思いますか。みんな「70、80までは生きる」と考えているでしょう。その前に死ぬとは考えませんか。皆さんは欲張りですね。私が一生を生きていくのに、80で死ぬとか100歳になって死ぬはずだと絶対的に信じるとしても、あす死ぬか、きょう死ぬか分からないのです。ご飯を食べている途中で死ぬかもしれません。今夜、帰ってきて履物を脱いで、眠っている途中で死ぬかもしれません。
皆さんの考えでは、「ああ、私は若いので、これから少なくとも40年、50年は生きる」と、そのような欲をみんなもっているでしょう。ハナニムに保証を受けていますか。皆さんは、できるだけ短く、1年以内に死ぬと思いなさい。この短い期間に準備をすべてしなければなりません。この観念をもって生きなければなりません。できるだけ短く計画するほど幸せだというのです。短く計画を立てるほど損をしないのです。その期間に真実に準備するその内容が、自らの永遠の生命の家を建てるのです。
(102-122, 1978.11.27)
夜に寝床に入る時、脱いでおいた履物を翌朝、再び履く自信がありますか。いくら忙しいといっても、世の中に永生の問題以上に重要なことはありません。(この道を)離れていく人々がいるのは、この世で永生問題を決定するという、深刻な思いが彼らにないためです。
(10-249, 1960.10.21)


信仰の道とは、今生きている人生、肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備であるに違いない、という信念だけもつようになるならば、それはほうっておいてもかまわないのです。人は時が過ぎていけばいくほど、40を超え50を超えるほど、死ぬ日が近づいてくるので、永生概念が深刻化するというのです。年を取るほど、ますます深刻化するというのです。愛というのは年を取るほど希薄になりますが、永生概念だけ入れると、年を取るほどますます深刻化するのです。
それゆえに、宗教理念だけが今後、世界を主管できるのです。邪悪な環境、混乱した変化がどれほど頻繁に起こっていますか。頻繁に変わる環境を貫き越えて、いかなる所で悲喜劇がぶつかってきても、永生概念だけ徹底すれば、すべてのことが問題にならないのです。
(230-22, 1992.4.15)
ハナニムは人を、どのような存在として造ったのでしょうか。ハナニムの絶対、唯一の価値をもてる、愛の対象者として造ったというのです。これは驚くべき事実です。このごろ、人間一人の生命の価値がどのくらいになりますか。いくらになりますか。そのような無価値な人間ではないというのです。
ハナニムにおいて、宇宙を与えられても取り替えられない高貴な価値、その愛の相対圏を備えて男性を造り女性を造ったという驚くべき事実、それはすてきでしょう。
(142-143, 1986.3.8)
私たち人間は、ハナニムが造られた創造的な傑作品として、ハナニムに似て生まれたというのです。ハナニムが永遠であられるので、私たちも永遠の性稟せいひんをもたなければならず、私たちの心は、老いないというのです。それゆえに、人は永生しなければならず、永生してこそ、その傑作品としての存在的価値をもてるというのです。
(159-281, 1968.5.19)
人々は誰彼を問わず、最高を願っています。人間が最高の位置に行くようになれば、ハナニムは私のものであり、また私はハナニムのものなのです。そのようになれば私はハナニムの息子になり、ハナニム御自身にもなるので、宇宙は誰のものになるのですか。ハナニムが最も愛して、最も貴く思う物があるならば、それを1日、あるいは10年や100年ぐらい共に過ごしたのちにほうり投げるようにつくったでしょうか、永遠に共にいるようにつくったでしょうか。永遠に共にいるようにつくられたのです。
人も同じです。人が生まれて死ねばそれまでだ、となるのが良いですか、永生しなければなりませんか。永生しなければならないのです。なぜでしょうか。絶対者、ハナニムが絶対的な愛を中心として喜び得る対象だからです。
(39-342, 1971.1.16)
ハナニムが永生なさる絶対者ならば、その方が愛する対象も永生しなければなりません。それで、人々は古くから永生することを願うのです。これを、はっきりと知らなければなりません。それゆえに、絶対者であるハナニムは、永生する価値をもった愛する息子、娘を求めざるを得ないというのです。
(39-343, 1971.1.16)


愛すれば愛するほど、共にいたいのです。愛する妻が死ねば、その妻のハンカチを持って独りで生きた人もいます。ネルーのような人は、自分の妻が若くして死んだのですが、その妻がバラを好んだということで、一生の間バラの花をつけて行き来しながら過ごしたのです。それならハナニムが、一人しかいない限りなく貴い息子、娘たちを造る時、100年くらい生き、そして滅びるように造られたでしょうか。それゆえに、人は永生することが原則です。
(39-342, 1971.1.16)
人は愛で生まれ、愛で大きくなり、愛で生き、愛で死にます。ところが、そのままなくなるのではないのです。
ハナニム、主体であられるその方が永遠、不変、唯一なので、その前に対象的愛の位置に立つようになる時は永生するのです。永生という理論がここから生じるのです。生命から始まるのではないのです。
(142-143, 1986.3.8)
愛のゆえに人間を造ったとするならば、永遠であられるハナニム、絶対的なハナニム、永生するハナニムであるために愛に一致した人間自体は永生を備えている、ということは自然的な論理です。それゆえに永生しようとするなら、そのまことの愛圏内に生きなければなりません。
(211-272, 1990.12.30)
「私たちは、永遠であり得る! 永生を願う!」。永生を願うにあたり変わらないものは何か。「愛だ!」。このように歩むのです。ほかのものはみな変わります。環境的に変わるのです。それでは、愛はなぜ変わらないのでしょうか。愛は、すべての生命力の中心であるがゆえに変わらないのです。愛がなぜ変わらないのでしょうか。愛は、理想的な要件の中心の位置を占めるからです。中心は、その周囲がすべてなくなる前にはなくならないというのです。愛は宇宙の中心になっているので愛と一つになることにより、その愛はハナニムを中心とした愛と一致しているので、ハナニムがいらっしゃる限り残っているというのです。
(157-267, 1967.4.10)
永生、私は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。永生と真の愛を、私はここで実践する人だというのです。ですから、私がここでしているすべての仕事、工場で仕事をして何かをするそのすべてが、永生を延長させ得る材料だというのです。
「永生を訓練して永生を育てる、このような訓練材料を生産することが、今、私がしている仕事だ」と考えなさいというのです。皆さんに永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。
(216-127, 1991.2.9)
自分の体と心の完成は、まことの愛に属することによって根本的に可能になっています。無限の根本、原因から過程、そこから理想の結実を結ぶのは愛しかありません。真の愛しかないのです。真の愛により、真の愛を中心としてハナニムも永存しています。


ハナニムが永存するのは、何を中心として永存しますか。永生は、愛によって連結されるのです。それで、永生の環境を成すには愛の環境を中心として生活しなければならないのです。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤たいじゅつをしなければならないのです。
(218-134, 1991.7.14)
「どのように永生するか」と尋ねれば、皆さんはどのように答えますか。イエス様を信じれば永生しますか。信じれば救われますか。とんでもないというのです。愛によってのみ救いを受けるのです。
ハナニムの創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけがハナニムの愛の同伴者であるので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきか、すべて見ながら生きるのです。
(215-53, 1991.2.6)

 

ロ) 愛から永生概念が現れる
ハナニムの性稟せいひんがどういうものでしょうか。漠然としているというのです。ハナニムは絶対的であり、唯一、永遠、不変なのです。それを否定する道理はないのです。そのような愛をもった人は、絶対的な幸福者であり、唯一的な幸福者であり、永遠的な幸福者であり、不変的な幸福者です。そこに初めて永遠の自由があり、絶対的な自由があり、不変の自由、唯一の自由があるのです。そこで初めて幸福も、絶対、唯一、不変、永遠のものがあるというのです。そこに連結されてこそ、永生は自動的な結論だ、となるのです。
(279-73, 1996.7.24)
愛をもてば、食べても食べなくてもかまわないというのです。愛し合う人同士では、寝なくても疲れず、食べなくても腹が減らないというのです。愛し合う人同士は、会って時空を克服するのです。ハナニムもそのような愛する相対が来る時は、夜になれば寝なければならないですか。愛する相対が現れることにより、夜を克服できるというのです。ここから永生概念が出てくるのです。永遠の愛の力が続く限り永生できるのです。すべてのものを克服して愛化できるので、喜びの永生が連結されるのです。
(277-22, 1996.3.17)
ハナニムが絶対的な愛だというとき、その愛の前に絶対的な相対になって一つになるときは、ハナニムが永存する限り人間も永生する、という論理が理論的に決定されるのです。それを知らなかったのです。私たち人間がハナニムの前に絶対的に必要な、対象的な存在になったということを知らなかったのです。そうでなければ、ハナニムは独りで生きなければならない、という論理が成立します。それは違うというのです。
(262-137, 1994.7.23)
絶対的な価値の基準は、ハナニムです。絶対愛を中心としてハナニムと絶対愛を探していく人は、相対主権を絶対に否定できません。ハナニムが絶対的な方であることを否定できないので、私が立てられた位置を絶対に否定できないというのです。絶対安着が生じるのです。ですからハナニムの愛は永遠であり、ハナニムは永遠の方なので、そのような愛の関係を結ぶことによって永生が論理的な、理論的な相対圏として着地できるのです。それゆえに、真の愛をもった人は、地上世界から天上世界まで永生するというのです。この理論を否定することはできません。堕落した世界には真の愛の関係がないので、地獄へ行くのです。
(272-63, 1995.8.30)


愛は、永遠性をもっています。離れることを嫌います。真の愛は永遠の愛なので、永遠に離れたくないというのです。それゆえに、真の愛に永生があるのです。離れるところには永生がないのです。それゆえに愛は偉大だというのです。愛は不変で、永遠なものだというのです。真の愛を中心として血統関係を結ぶとき、人間は永生するようになっています。ハナニムは変わらない愛の主体ですが、その主体と一つになったので、ハナニムが変わらず永遠であるように、その愛と一つになり一体となったその対象も不変で、永遠だということは理論的です。
(289-133, 1998.1.1)
父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り子女はその真の愛に無限に感謝するようになるのであり、父母は大きな喜びによってその犠牲の跡を埋めるのです。このように犠牲的な真の愛の力を授け受けする作用を発展させて、真の家庭で、そして真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところに永生の理想世界が顕現するのです。
(288-199, 1997.11.28)
この宇宙は、小さなところから大きくなってきました。そして、相対をもらって無限運動をすることで生成されてきたというのです。この空間に存在する慣性により、無限に運動してきたのです。
言い換えれば、その相対的基準を中心として、この太陽系であれば太陽系においてそれを備え、成熟した立場に立って無限運動をするというのです。これと同じように、アダムとエバも愛を中心として完全に「ため」に生きる愛で一つになれば、無限運動をすることによって永遠、永生が始まるのです。直線には永遠がありません。永生圏がありません。回転するところに永遠が生じます。
それゆえに、回転しながらだんだん大きくなっていくのが歴史発展の現象です。その中心は一つです。
(261-151, 1994.6.9)
宇宙の大原則の起源と和合できれば、永存できるのであり、そうでないものは永滅するのです。ハナニムが永存されるので、その対象、「ため」に生きる対象は永存するのです。理論的にも、永生論理は自動的な結論です。明解でしょう?
(260-254, 1994.5.19)


「私」という存在は、ハナニムの愛の対象として造られました。絶対的なハナニム、主体的なハナニムの対象の立場が正に私だというのです。ハナニムの愛の相対だというのです。ハナニムが自分自身よりも貴く思うものが、まことの愛の概念です。
ハナニムは絶対的で永遠であられる生命の中心であり、そのハナニムの理想はもっと永遠なものであり、その理想の中心が正に真の愛の理想です。その愛の相対が私です。そのような永遠の座にどのように行きますか。永遠のパートナーの座は、なんと貴い立場でしょう! それは主体と対象が一つになるのです。どの場にも同参でき、どこに行こうとついていくことができます。財産をすべて相続することができます。
ハナニムの永生の座、その心情までもすべて相続できるのです。ハナニムの愛の心、ハナニムの被造万物と共にあるその心、ハナニムが皆の心にとどまりたいという心まで、すべて相続できるのです。ですからどれほど貴いでしょうか。その高貴な価値を発見したので、どれほどうれしいことでしょう。いかなるものとも取り替えられない崇高で高貴な座です。驚くべき恩賜なのです。
(216-115, 1991.3.9)
大気が100パーセント絶対低気圧圏になれば高気圧圏が生じ、自動的に循環運動が起こるのです。ハナニムは真の知恵の王です。なぜ投入して、忘れてしまわなければならないのでしょうか。自動的に循環原理を通じて永遠の回転が始まるために、永生論理が論理的に設定されるというのです。投入して投入して、また投入するところから永生の論理が生まれるのです。「ため」に生きるところでは滅びません。小さなものから大きなものに移りながら、その次にはどこへ行くかといえば、中心へ入っていくのです。
(204-107, 1990.7.1)
ハナニムが絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるかというと、それは間違いなく人間だと結論づけることができます。それゆえに、「万物之衆マンムルチジュン 唯人最貴インチェ(注:あらゆる万物の中で、人間が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。これは、何ですか。創造主の永遠の愛のパートナー、創造主の愛のパートナーになり得るという論理的結論を出すようになるとき、その愛と一つになった愛のパートナーは永生するという論理が生まれるようになるのです。
永生というものは、自動的な産物です。永遠である永生は、ここから生じるのです。愛の関係を中心として永生論理をいかに立てるかという問題は、宗教ではこの上なく貴重な話です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。ハナニムに永生があるのでもありません。ハナニムの愛に永生があるという結論が出てくるのです。
(218-211, 1991.7.29)
今からハナニムと同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこへ行っても、この永生概念はないのです。自分が永遠の生命によって生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬で飛躍するのです。この制限された地球上とは次元が違います。制限された所では自由に動くことができませんが、あの世は次元が高い世界なので、何でもすることができる所です。時間を跳び越えるのです。愛を中心とし何でも願いさえすれば、いつでも、どこでも、すべて得ることができるのです。無尽蔵なのです。
(216-115, 1991.3.9)


永生! 私は永生します。ハナニムを中心とした真の愛が私と連結され、ハナニムを中心とした真の生命が私と連結され、ハナニムを中心とした真の血統が私と連結されるのです。結論は、はっきりしています。私は、ハナニムのように真の愛を中心として永生する。ハナニムがこのように創造されたのです。皆さんも、その責任分担を果たすようになれば、皆さんは成功したということです。
(216-115, 1991.3.9)
ハナニムも息をされるのです。愛の呼吸をしていらっしゃるのです。ハナニムも、宇宙に拍子を合わせていらっしゃるので、愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛に永生があるというのです。ですから、皆さんは、そこまで行かなければなりません。それでこそ、ハナニムの呼吸圏内に入っていって、さっと越えていくのです。
(201-191, 1990.4.1)
ハナニムの摂理が生きて地上の歴史と共に動くのは、永遠の道を築くためだ、ということがしっかりと入れば、信仰化させやすいというのです。そうでなければ着陸させる基盤、地上で信仰化させる基盤が、あいまいになるというのです。この時代的限界性をはっきりと教えてあげることにより、地上に着陸できる信仰基盤が確定されるというのです。
このようにハナニムのなさるみわざを私が他上で協助するので、ハナニムのみ旨が成されたあの霊界が、私たちの現在の実生活と関係をもつようになり、ハナニムと共に永生できるという概念をもつことができるのです。それゆえに、この地上生活は、永生する準備の生活だというのです。直結するのです。それが連結していないまま信仰生活をすることはできないのです。
(198-7, 1990.1.20)

 

ハ) 祝福と永生
堕落人間は血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。ハナニムと人間の関係は父子の関係ですが、このようなことすべてが未知の事実として残ったので、歴史が解けず、今までハナニムの摂理を知らなかったというのです。血統転換も個人圏、家庭圏、民族圏、国家圏、世界圏、すべてしなければなりません。これは、メシヤが来なくてはならないのです。父母が現れなければ血統が転換されないのです。
このようなすべての問題に個人が責任をもたなければなりません。個人がすべて、このようなことをして越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て代わりにしてあげるのです。
(161-147, 1987.1.18)


皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ぐために、メシヤが父として来てサタン世界に勝ったという、サタンが干渉できない超世界的な基盤で、エバに侍り蕩減とうげん復帰しなければなりません。そして、夫婦の因縁を中心とした、家庭を中心とした息子、娘を立てて、横的に接ぎ木をすることが起こらなければなりません。それで、統一教会では祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。ハナニムから始まったというのです。それゆえに、サタン世界においていくら反対してみても、反対したほうが損害賠償を支払うようになるのです。
(169-37, 1987.10.4)
私たち人間は、血統的にサタンの血統を受けたので、それ自体としては天の前に帰れないのです。ですからメシヤは、絶対血統復帰をして、サタンが汚した血統を造り変えなければなりません。これを転換させなければなりません。それで、メシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰はできないのです。血統を復帰しなければなりません。
(172-53, 1988.1.7)
「終りの日」には、どのような時代が来るのでしょうか。同族相姦そうかん関係が起こるのです。近親相姦関係が起こります。同族も近親も同じです。なぜそのようになるのでしょうか。イエス様の父は誰ですか。ザカリヤです。キリスト教ではみんな「聖神聖霊)によって妊娠した」と言いますが、うそなのです。無精卵を知っていますか。無精卵とは何ですか。卵は卵ですが、種が入っていなかったというのです。今日、堕落した人間は、無精卵です。ハナニムとは関係がないというのです。ですから永生がありません。
(274-256, 1995.11.3)
まことの父母は、何をしなければなりませんか。サタン世界の根である誤った血統を正さなければなりません。また、誤った生命を元に戻さなければならず、誤った愛の道を正しく開かなければならないのです。聖書に、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とあるのですが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は、死ななければならないからです。
(169-37, 1987.10.4)
血統的転換は誰がするのでしょうか。それは、誰もができるものではありません。先生がこのことをするために、涙の十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく、祝福という新しい伝統を継ぐようになりました。
転換の勝利圏を立てるために、数千年に及ぶハナニムの労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを基台として立った所が、正に皆さんが立っている位置です。祝福というものは接ぎ木することであり、接ぎ木することによって血統が変わるのです。
(35-178, 1970.10.13)
真の愛を中心とした縦的な父母と横的な父母が合徳してこそ、そこに愛の定着地、生命の起源地、血統の因縁地が交錯するのです。そこで生まれたすべての人々は、ハナニムの愛を受けて生まれた息子、娘であり、ハナニムの生命をもって永生できる存在になるのです。ですから、永遠の天国に皇族的継代をつなぐことができる皇族になるのです。
(245-94, 1993.2.28)


愛に同居すれば永生が連結されるのです。真の愛がハナニムの願う愛だとすれば、ハナニムは、絶対不変のハナニムであり、永世のハナニムなので、その愛の相対者である人間も永生するという結論が出てくるのです。これは理論的な結論です。何の疑問の余地もありません。
(247-223, 1993.5.9)
皆さん、祝福される時、血統転換式をしましたね。それを「私」の生命より、もっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だとして、ただ一般的宗教儀式だと思ってはいけないのです。これは、死んだ人に対する回生という薬の注射と同じです。解毒注射です。
(216-109, 1991.3.9)
血統を転換することはメシヤがするかもしれませんが、転換されるように行動することは自分自身でしなければなりません。このような基準を成さない限り、私たちは救いの道に達することができません。それは決して容易になされるのではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければならないのです。40日断食祈祷とか、血を吐く死の境地に至ってこそ、血統転換が可能です。
(35-160, 1970.10.13)
まずは、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準をもって父母に侍らなくては、救いを受けることはできないのです。皆さんは、そのように侍ってみましたか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。それゆえに、「私は真の父母と永遠に一つになり得る息子、娘だ」という信念を、自身の存在意識を超越できるくらい固くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。
(30-237, 1970.3.23)
エデンの園で結婚を間違ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることによって、再びひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを真の父母が清算することで、地獄を撤廃し、数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげることが起きるのです。真の愛を中心とした地上の子孫の家庭基盤を通し、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を起点にして東洋と西洋がお互いに連結されます。
(300-222, 1999.3.14)
皆さんは、先生をどれだけ愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰っていくのです。サタン世界の愛の痕跡こんせきがある、その愛が染まった立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。それは何ですか。皆さんがサタン世界で生まれた父、母、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。
ですから、聖書では、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37)と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そうしながらそののちには、「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」(同10:38)と言いました。「十字架を背負わなければならない」と言いました。反対に引っ張ろうとする力を抑えて乗り越えようとするので、十字架です。そこにおいて悲痛な涙を流さなくてはなりません。
(178-97, 1988.6.1)


霊界に行けばそうです。そこには影のない、永遠な朝の陽の光があふれているのです。白い光があまりにも明るく、紫色の光に変わるのです。銀の光、金の光に変わるのです。電気の光は何かというと、愛の光です。プラス電気とマイナス電気が一つになって現れるものが、電気の光です。同じように、ハナニムの性相と形状も、一つになって稲妻のように現れるのです。永遠なるまことの愛の光です。それが永生の本質です。その最後の目的点に到達しなければなりません。
(292-265, 1998.4.26)

 

3) 地上生活の価値

 

① 地上は愛の実を収める所

地上生活が絶対に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト教徒たちは、「死んで天国に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに覚醒かくせいし、その重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年、万年、霊界に行ってする生活に、それが反映されるのです。これはすべて種です。ここで種をいたものが天上世界で実として収められるので、完全な種をうまく蒔かなければならないというのです。地上世界の重要さに、もう一度覚醒しなければなりません。
(232-322, 1992.7.10)
地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。霊人たちには体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、永遠に定まる所をもてません。霊人たちに体はありませんが、永遠に落ち着ける所にいます。このように地上人と霊人との対比点を羅列すれば、無限に多いのです。
ここで、地上人と霊人との一致点を調べてみましょう。地上生活や霊人たちの生活は、みな半分ずつもっているだけなので、半分ずつしか成し遂げることができません。それでは、体と霊人の結実は、各々どのようにすれば完全な実を結べるのでしょうか。地上生活で肉体と霊魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全な実を結ぶようになります。ところが、霊魂がよく成熟できずに霊界に来るようになれば、問題が生じるのです。
(293-256, 1998.6.1)
種の実は、すべての期間、時間圏や時空圏をすべて同化させ、圧縮しなければなりません。そこには、種も存在し、根も存在し、枝も存在し、実も存在し、すべて存在するというのです。花もあって、実もあるというのです。それで、そのようにして出発できる私たちにならなければならないのです。それでこそ、愛を中心としてハナニムも私のものだということができるのです。そこには異議がないというのです。
(137-330, 1986.1.5)


生涯の目的とは何ですか。愛を結実させることです。その愛の結実(体)が天国の倉庫に入っていくとき、ハナニムが「嫌いだ! ふん!」とおっしゃるでしょうか。どこに行っても、「ああ、私をこの宇宙のどこに置いても良い!」と言えるほどの愛の結実(体)です。それを天国の秘密の倉庫に置いておいても、自分を中心として、すべての中心として立ち得る愛の結実(体)だと考える時、どれほど尊ばれるだろうかというのです。愛によって蒔いたので、愛によって刈り入れられるべきでしょう?
(139-219, 1986.1.31)
なぜ私が貴いのでしょうか。愛の伝統を受け継いだからです。この宇宙のすべての理想的な力の核の伝統を受け継げる立場に立ったので、愛が貴いのであり、私が貴いのです。その愛によって私が生まれ、連結されたのであり、またそれによって拡大的な愛の実を結ぶことができるために貴いのです。父母をなぜ尊敬しなければならず、父母に仕えなければならないかが分かりましたか。根を深くしなければならないのです。中心の根をです。
(166-217, 1987.6.7)
ハナニムの愛を中心とした男性と女性の心と体が、垂直線と均衡的90度を備えなければなりません。そのような正常な男性と女性が現れて、ハナニムの愛を根とした一つの生命体として東と西が互いに極となり、一度にぱっと火がついて、宇宙の本性に雷が落ちて稲妻が炸裂さくれつすれば、そこには男性、女性、ハナニムを問わず、完全に混じり合ってくっつくようになるというのです。それを誰が離すのですか。男性が離すことができますか。女性が離すことができますか。ハナニムも、そこから抜け出てくることができないのです。
そのように、人類の本性の基準である愛というものを中心として、男性と女性の心の根になって、その愛の花が咲き、実も愛によって結ばれ、循環法度による球形理想を通して螺旋らせん形に発展し、世界へ前進するはずであった! アーメン! この話がどういう話か、みな研究してみなさい。
(173-109, 1988.2.7)
皆さん、生命を何によって伝授しますか。生命体ですか、血ですか。血統という言葉はありますが、生命統という言葉はないのです。愛統もありません。血統という言葉だけあるのです。血を合わせることによって生命が出てくるのです。男性と女性の血を一つにすることによって生命が一つになり、それが投入されて愛の実体である実を結ばせるのです。それで、どのようになりますか。母の血と母の生命と、父の血と父の生命がこの愛を通して実を結んだのが「私」です。ここの、この人の中に父母の血が入っていますか、入っていませんか。父母の生命が入っているのです。父と母の愛が入っているのです。それゆえ「私」というものは、父母なしに主張することができないのです。
(225-52, 1992.1.2)
「私」は愛の実ですが、その実には千年の歴史を通じた中心の根、幹、枝、花、全体の芽を一つにしたすべてのものが入っています。ですから、その実をもっていくようになれば歴史を運搬するのと同じです。また、それを植えれば、その歴史がどこでも継承されるのです。何によってそのようになりますか。愛を通してです。男性、女性の愛を通して、主体、対象の愛を通して、これが連結されるのです。それゆえに愛を侵犯する者は、宇宙秩序を破壊する最も放縦な者なので、地獄へ行くのです。
(226-53, 1992.2.1)