八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 3-6

八大教材教本 天聖経(2012年版)p828-863

【天啓の御言】(3-6)

 


人間が完成すれば、男性の心の中にはハナニムの性相が入り、女性の心の中にはハナニムの形状が入るのです。アダムとエバの実体の結婚式は、ハナニムの結婚式だというのです。霊界に行ってみれば、それがはっきりと分かります。知り得ないこのような理論がみなぴったりと合うのです。
それで、ハナニムはどこにいるのか、夫婦を中心として、どこにいるのかというとき、それは子宮です。そこにいるというのです。愛の根がそこだというのです。歴史が始まって以来、ムン総裁によって、霊界が、このように構成され、このような内容によって成り立っているということが明らかにされたのです。
(252-119, 1993.11.14)
皆さんが夫婦関係を交わすのをハナニムが見ていないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないのは大きな過ちです。皆さんの先祖がみな見ているのです。霊界でもすぐ目の前に見えています。手のひらに立ってしているように見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと思えば大きな過ちです。
(250-244, 1993.10.15)
愛によってなされるすべての調和と万象は、ハナニムにとっては香りのようなものです。ハナニムは、このような美しい香りの中で生きたくて訪ねてこられるというのです。ハナニムの愛が訪ねてこれる基盤が夫婦の愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が和動する場になるでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-889)
愛を中心とした王宮といえば霊界の王宮と地上の王宮がありますが、これらがどこで接触するようになるか、それが問題だというのです。人間とハナニムがどこで合わさるかという話です。それゆえにまことの愛と一体となったその生殖器というものは、本源地です。それが本源地なので、宮と見れば本宮になるのです。それは、ハナニムが出発した宮、最初に始まった宮であり、それが本宮です。
(265-215, 1994.11.21)
夫とそのようにむつまじく暮らして、死ぬ時には何を考えるかといえば、いつも愛の器官を考えるようになるのです。彼の顔、キスを考えるようになるのです。霊界に行って残る記憶というのは、愛する夫、妻とキスして愛し合う、その生殖器を合わせた、それ以外にはないというのです。それをつかんで、キスしながら死んでいきたいですか。
(269-57, 1995.4.7)
愛によってハナニムの代わりに生まれ、愛によって生きて愛の目的地に到達するために息子、娘を生んで、永遠にハナニムと共に生きるためにハナニムのところに帰っていくのです。それゆえに皆さんが完全に愛で一つになれば、のちにはハナニムに似るのです。夫婦二人が一つになり、このような3段階の愛を完全に成して霊界に行く人々は、永遠の主体であるハナニムの前に、相対的なハナニムになるのです。そうではないですか。愛を中心として夫婦が共に死ねば、そのようになるのです。ですから、ハナニムから始まり、ハナニムに帰るのです。
(207-36, 1990.10.21)


男性、女性たちは、愛し合う夫婦の愛に酔って生きなければなりません。これが課題です。父母と暮らしているならば、父母の愛の中で、家庭の愛の中で生きたいと思わなければなりません。それが理想であり幸福です。幸福がほかにあるのではありません。霊界に行って、霊界がいくら良いからといって独りで何をしますか。ムン総裁について言えば、気分が良ければお母さんを求めます。お母さん、母を求めます。母も二人の母がいます。自分を生んでくれた母と、息子、娘を生んだ母。一家に二人の母が暮らしています。そうではないですか。自分を生んでくれた母、それから息子、娘の母がいます。それから父の母、おばあさんがいます。ですから母は良いものです。そうではありませんか。
(174-250, 1988.3.1)
私は、ハナニムに似て、完成したアダムとエバに似たというのです。二つの父母に似たというのです。これが一つになっているので、心と体が闘いません。男性と女性が闘いません。完全に一つです。霊界と肉界とハナニム、創造主と創造物が一つになり得る完全な位置において、新しい泉がわき出てくるのです。これが平和の起点です。平和の出発です。幸福の出発です。理想の出発です。希望の出発だということを知らなければなりません。しかし、これを失ってしまったので、再び復帰しなければなりません。
(254-281, 1994.2.15)
霊界に行って、男性として生まれ一人で生きたのちにそのまま逝った者たちを見ると、良い所に行っていません。良い所に行けません。ハナニムを見つめる時も下を向いています。「こいつ、なぜ下を向いているのか」と言うのです。男のあの先が下を向いているので、(その人も)仕方なくうつむいているのです。それはどういうことですか。男性として生まれ、天地調和の、陰陽の合徳を知らず、愛を知らずに歩んできたお坊さんのような人に、天地大道たいどうの中心である愛の道理がどうして分かるでしょうか。
(197-24, 1990.1.7)
息子、娘を生むことができずに霊界に行けば、片側だけにいなければならないのであって、思いのままに行き来できないのです。恥ずかしいのです。それゆえに独身生活を強調する者たちは悪魔の直系です。「終りの日」に追い出される群れは悪魔サタンしかいないのに、彼らはサタンのあとをついていく者たちです。悪魔は、天使長であったので相対理想がないのです。それゆえにその世界になってみると、青少年たちは淪落りんらくに陥り、年を取った男女は愛に疲れ、悪魔の愛に失敗して独身生活をするのです。独身生活をする者たちはすべて、地獄行きで終わるのです。
(228-263, 1992.7.5)


独身生活をする人は、ハナニムの本意のみ旨の前に犯罪者の立場です。赤ん坊を生まないで産児制限をした人は、あの世に行って、「お前の息子、娘を通して天下を統治できる王子、王女を送ろうとしたのに、このありさまは何ですか」と審判されます。霊界に行けばすぐに分かります。すぐに分かるというのです。千年、万年のハンの歴史の中で苦労した先祖の功を自分一代、一族を通して福を与えようとしたのに、その首を切ったというのです。
(264-150, 1994.10.9)
あの世に行けば、寡婦は困ります。寡婦ではなく一人で暮らしている人、それを何と言うのですか。未婚のままで暮らして一人で逝った女性・・・、男性の場合は、一人で逝った、そのような者を何と言うのですか。死んだのちには「몬달モンダル 鬼神(注:独身のまま死んだ男の鬼神)」と言いますが、死ぬ前では何と言いますか。「몬달 鬼神」とは、死んだのちに言うのではないですか。そのような言葉はないですか。それは何と言うのですか。「独身女性」ですか。それでは困るのです。どこに行っても和合できません。女性たちの世界に行っても立つ瀬がなく、男性たちの世界に行っても立つ瀬がなく、行く所がありません。方向は陰になった所、陰の世界、かといって自分が引き返すことはできないのです。和合は愛を中心として東西南北に通じるようになっているのに、方向がぴたっと固着されているために引き返せないのです。私は知りませんから、死んでみてください。
(194-42, 1989.10.15)
祝福を受けた血統をけがしてはなりません。それを皆さんは、よく知らなければなりません。天国を受け継ぐことができ、相続することができる財産です。それは、血族の証書、血統の権利書のようなものです。族譜ぞくふ(一族の系譜)のようなものなのです。純潔をいかに守るべきかというのです。
(263-62, 1994.8.16)

 

⑥ 天国は家庭単位で入る

私たちの家庭と天国は、類型が同じです。我が家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。我が家は、愛で一つにすることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから、皆さんは夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ天国に行ける資格者になれるのです。祖父母は父母の前に愛を相続してあげたのであり、父母は夫婦の前に愛を相続してあげたのであり、夫婦は子女の前に愛を相続してあげています。
ここで、どの愛を否定しても天国はなされません。自分たち夫婦の間で愛し合う以上に父母を愛し、自分の父と母を愛する以上におじいさん、おばあさんを愛さなければならないという結論です。これが、すべての天国の核心になって、理想的なモットーになるというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)
ハナニムはまことの愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母はハナニムに代わる生きたハナニムであり、夫と妻はお互いにもう片方のハナニムであり、息子、娘はまた一つの小さなハナニムです。


このように3代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さなくては天国が成されません。家庭というものは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合、ハナニムは、全宇宙の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。
(298-306, 1999.1.17)
統一教会の「原理」でいう四位よんい基台は、3代愛圏をいうのです。3代が一つの家に暮らしながら愛によって和睦わぼくして幸福になるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないということはもちろんですが、子女たちを愛で祈祷してあげて精誠の心で見守ってこそ、家庭が和睦して幸福になるのです。これが縦的に成って横的に連結されるとき、完全な愛が成されるのです。従兄弟いとこや又従兄弟まで愛で一つになってこそ、愛の円形になって完全になります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-947)
家庭は、天国完成の基本単位です。天国は、一度行ってみると戻りたくなく、10回、100回会ってもまた会いたい、その方がいらっしゃる所です。万民が共通にそこに行きたいと思い、その方に会いたいと思い、その方のように生きたいと思うならば、世界は統一されるはずです。そこに向かって進んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度になされるのではありません。先に個人の基台が立ち、それから家庭の基台が立ち、それから民族、国家、世界へと伸びていくのです。
(12-180, 1963.4.1)
天国生活は、どこからですか。家庭からです。他の所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させたものにすぎないのであって、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえに皆さんが自らの妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つになることだと考えなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立て得る位置が、正にこの家庭です。
(30-82, 1970.3.17)
ハナニムの創造理想世界とは、どのような世界ですか。真の父母圏を通じ、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人が一人もいなくて、現れた痕跡こんせきもありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。ハナニムを中心とした創造本然の家庭的基台には男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、ハナニムの愛がすべて入っています。このような消化された位置で父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)


統一教会の使命は何ですか。統一教会は過去の宗教とは違い、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落していない本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界とは、完成した人間がハナニムの愛の中で夫婦の因縁を結び、その息子、娘を生んで行く「天国」のことをいうのです。父は地獄に行って母が天国へ行けば、それが天国でしょうか。父母は天国へ行って子女が地獄に行けば、それが天国かというのです。天国は父母と子女、宗族、民族、国家がすべて入っていくところです。
(42-286, 1971.3.27)
家庭天国を成す所で、初めてハナニムが理想とする地上天国が定着するようになるのです。これが四位基台にならなければなりません。「統一原理」では「創造理想の完成は四位基台の完成である」と説いています。それはなぜですか。ハナニムとアダムとエバを中心として3段階を経て、縦的世界と横的世界が生まれれば四位基台が成されるからです。アダムとエバの息子、娘がいてこそ横的な世界が生まれます。このようになれば縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めてハナニムが臨在なさることができるので、地上に天国が実現されるのです。
(96-29, 1978.1.1)
統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母をお連れし、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。統一教会は自分が愛する家庭、自分が愛する宗族まで一切を連れて天国に行ける道理を教えてあげる宗教なので、他の宗教とは次元が違います。
それゆえに、今までの宗教は独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界のための家庭であり、ハナニムのための家庭です。これが統一教会食口シックたちの行くべき道です。
(34-359, 1970.9.20)
統一教会では、個人としては絶対に救いを受けることができないと考えます。個人では天国に行けないのです。一人では行くことができません。原則がそうです。エデンの園のアダムとエバの二人が一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけが天国に行くようになっていますか。夫婦が一つになり、家庭が一つにならなければ、天国には行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行って母は天国に行けば、それが天国ですか。天国は夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、一族が行かなければならないのであり、国家全体が行かなければならないのです。
(50-63, 1971.10.31)
おじいさんに対して、ハナニムのように侍り、父母に対して、天下統一し得る父母として侍らなければなりません。おじいさんは、天上世界の特派員です。全権大使です。お父さんは、この世の全権大使です。自分は二つの国、地上天国と天上天国の全権大使として、息子、娘として、後継者として育っていると考えなさいというのです。そうすれば、間違いなく霊界に直行するのです。


霊界へは、本来そのような人々が入っていかなければならないのです。今日キリスト教では、「信じれば天国に行く」と言いますが、いい加減な話はやめなさいというのです。行ってみなさいというのです、どうなるのか。唖然あぜんとするでしょう。「こういうことになっていようとは。こんなはずではなかったのに」と言うでしょう。「こんなはずでは」とは何ですか。原則と異なれば、すべてそのようになるのです。原則があります。
数万、数千いたとしても、誤ればすべて肥だめに入るのです。火で燃やして捨てるでしょう。同じです。原則的な基準を探さなければならないのです。
(249-265, 1993.10.10)
自らの祖父は、天の特権大使です。もしアダム家庭が堕落していなかったならば、ハナニムに対するようにおじいさんに侍るのです。歴史を通じて霊界に行った先祖の中で、最後の人として残された主人がおじいさんです。ですからハナニムの身代わりです。そして、お父さんは、この世界の家庭の王です。皆さんの父母はみな、現代の60億人類の家庭の王なのです。
(246-198, 1993.4.16)
おじいさんは、天国である霊的世界を象徴するのです。ですから、ハナニムに対するようにおじいさんに侍らなければなりません。天国の全権大使です。それから父母は、現在を象徴するので、世の中のすべての人類家庭を代表した王と王妃です。父母は、人類を代表した王と王妃だというのです。そして、息子、娘は未来です。未来において霊界と地上世界、二つの世界の王権を受け継ぐことができる王子、王女だというのです。
(246-256, 1993.4.18)
おじいさんは過去を表徴するのであり、過ぎた時代の主体は、天国、霊界です。おじいさんは、霊界と地上を連結した代表者だということができます。ハナニムと善なる天国のすべてのものを、地上にある自らの家庭に連結させるハナニムの大使です。神の国の大使とは誰ですか。おじいさんです。
(249-304, 1993.10.11)
国を形成するには家庭がモデルになります。家庭が第1段階です。家庭から始まるのです。それを知らなければなりません。そこを見れば、おじいさん、おばあさん、父と母、子女の3段階がありますが、これを拡張するときは三つ、四つ・・・。これをくっつけるのです。これを中心としてこの世にも通じますが、霊界にもそのまま通じるのです。世界を見れば世界にもおじいさんレベル、それから父母レベル、その次には自分のレベルがみなあるのです。ここで練習するすべてを世界へ拡張すれば、どこでもすべて合います。
(225-166, 1992.1.12)
家庭を見れば、そこにはおじいさんとおばあさん、父母、息子と娘がいます。これが3代ですが、歴史をおいて過去からつながってきたのです。おじいさんは、先祖から今まで霊界に行っている天国の私たちの先祖を代表し、我が家に派遣された全権大使です。ですからおばあさん、おじいさんに誰に対するように侍らなければならないかといえば、ハナニムに対するように侍らなければなりません。そのように侍ることによって、天国の出発を見るようになるのです。
(226-56, 1992.2.1)


霊界には、家庭を連れて入らなければならないという原則があるのです。なぜ息子、娘がいなければならないのですか。子孫というものは本来、縦的なハナニムの愛と横的な父母の愛、ハナニムと父母の血が縦横に混ざり合って生まれたものです。
したがって、子孫をもつことができなかった人は、霊界に行って天地の調和を成すことができず、東西南北に拍子を合わせられないというのです。子孫をもたなければ、あの世に行っても、遊んだり、休める場がないというのです。
(297-269, 1998.12.19)
息子、娘を生んで正統的な家庭訓練をすることができなければならず、また一族を率いた長になって霊界に入らなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をすべて成さなければならないのです。
(226-156, 1992.2.4)
家庭では、父母を中心として孝子になれというのです。その次には、国を中心として、忠臣になれといいます。また、世界を中心としては、聖人になれといいます。聖人とは、世界を愛する人です。
聖子せいしは、ハナニムの息子になるので、ハナニムと天国の宮法と天国の宮に暮らす人まで愛するのです。このような人は、愛を中心として暮らす人なので、愛の生命を尊重視し、愛の血統を尊重視するのです。このようなことを尊重視しながら、世界のどこでも、故郷のように暮らせるそのような所が人間の求めていくべき理想郷です。このように暮らす人が霊界に行くようになるときは、ハナニムの前に躊躇ちゅうちょすることなく直行できるということを、皆さんが記憶してくださるようにお願いします。
(209-16, 1990.11.24)

 

⑦ 「ため」に生きれば天国に行く

天国では犠牲になった者が主人となるのです。家庭は宗族のために、宗族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天宙のために、天宙はハナニムのために犠牲になるのです。結局、目的はハナニムに到達することです。ハナニムを占領するのです。生命をもったすべての存在の最高理想は、ハナニムの愛を占領することです。それを最高の目標とするというのです。その特権をもっているのが人間です。
(249-49, 1993.10.7)
霊界に行けば、相対を重要視し、全体のために奉仕し、犠牲になった人が高い所に行くのです。それが天国民の共通した性格です。どのような人が高い霊界に行くかといえば、すべてのものを投入して、ハナニムのように投入し、投入して忘れてしまう人です。人類救援のために多くの人々を神側に引き寄せた人が天国に行くのです。天国の国民をどれほどたくさん連結させるかによって、霊界での自らの立場、位置が決定されるのです。
(249-80, 1993.10.8)


「ため」に生きる経験ができず、愛をもって生きられなかった男性や女性がどれほどかわいそうか、霊界に行ってみればはっきりと分かるようになります。あの世はすべて、「ため」に生きる人だけです。ここでそのように生きれば、そのままハナニムのところにひゅーっと上がっていきます。それを知っているのでムン総裁は、今まで表に出ることを嫌いました。弟子たちをみな先頭に立て、栄光ある立場をみな譲ったのです。
(202-249, 1990.5.24)
まことを求めていくならば、心のために絶対的に生きられる体とならなければなりません。これが一つになって天地にハナニムを中心として90度で連結されれば、東西南北、上下、高低どこに行こうと分かります。自動的に霊界が通じます。学ばなくてもみな分かります。文総裁のような人がどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ったので、すべて分かるようになったのです。
真の愛を中心として心と体が共鳴する境地にぴたっと入ると、みな見えたというのです。ハナニムも見え、天上世界がすべて見え、歴史が見え、すべて見えます。なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結び、理想的生活をし得る環境的要件が、本来、ハナニムの創造理想の原則だったので、その境地に入ると、通じないところがありません。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて、会って何かを尋ねてみることもできるのです。
(199-372, 1990.2.21)
宇宙を造ったハナニムは、宇宙の法度を立てたハナニムは、どのようなお方なのでしょうか。全宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方がハナニムだというのです。それゆえに、その方に会おうとするなら「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、「知識をもってハナニムの前に来なさい」とは言わないのです。能力の大王ですが、「能力をもって来なさい」とは言わないのです。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもって来なさい」とは言わないというのです。「ために生きて来るならば、皆来ることができる」と言うのです。
(133-16, 1984.7.1)
私たちの本郷は、ハナニムのために存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、「ため」に生き、「ため」に死んでいった人々が入る所です。これが、私たちの本郷の理想的な構造であるので、ハナニムは本郷に訪ねるようにするために歴史過程に数多くの宗教を立てて訓練させてきたのです。
宗教が柔和謙遜けんそんにし、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうであるので、宗教が霊界に帰らなければならない人間たちを地上生活の過程でその霊界にふさわしくなるように訓練せざるを得なかったのです。それゆえに、高次的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調したのです。それは、普段の生活を通してその世界に一致させようというところに、その原因があるのです。
(75-320, 1975.1.16)


お金についていきたい人は、永生の道を行くことはできません。知識についていく人も、永生の道を行けません。知識に、学問に、永生がありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢きょうまんになるのです。驕慢の主人、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです。教授の方々、済みません。私が知っている真理はそうです。死んでみれば分かります。私が間違ったことを言ったかどうか、霊界へ行ってみれば分かります。行ってみて、その時、私に抗議してください。正しく教えてあげるので、正しい先生でしょう。そこでも先生であり、ここでも先生です。取るに足りない先生ではありません。
(200-127, 1990.2.24)
霊界に行けば、固執というものが大きな怨讐おんしゅうです。国会議員をしていた人々が霊界に行けば、本当に困るのです。それをはっきりと知らなければなりません。教授たちを再教育すべきですが、皮をはいで労働者の立場から汗を流させるのです。汗を流して、地も耕してみなければなりません。そうしなくてはなりません。そのような意味で私が教授をすべて結び合わせましたが、今まではこの人たちを厚遇しました。そのようにしていては、霊界に行って讒訴ざんそされます。「先生はこのことをすべて知りながら、なぜそうしたのですか。なぜ正しく教えてくれなかったのですか」と言うのです。これは本当の話です。行ってみてください、私の話が正しいか正しくないか。
(201-257, 1990.4.28)
霊界に行ってみれば分かりますが、すべて(他の)ために生きる人が行くのであって、「私のために尽くせ」と言う人は行くことができません。ですから、学者になり、世の中で大統領になり、王になった人々は地獄へ行くのです。「ため」に生きなかったからです。牧師たちの心情を見ると、自分が恵んでもらうことを考えるのであって、与えて生きようとしないのです。父母というものは、いくら子女に与えても、また別の何かを準備し与えようとするのです。与えたい心が連結されるそのような基盤には、発展があるのです。
(276-303, 1996.3.10)
霊界と人間が関係を結べば隠すことができないのです。水を見れば、水は必ず上から下へ流れ落ち、空気は空間があれば満たそうとするのです。これと同じように、霊界が動く所には空の所がありません。満たされるというのです。水を受けようとするなら器が空でなければなりません。器がいっぱいであれば、空いている残りの所しか満たされないというのです。同じように、空気も空いている部分にはみな入りますが、ふさがっていれば、そのふさがった部分には空気を満たすことができないのです。
(280-11, 1996.10.13)
霊界にさっと行ってみると、千年、万年になる人々が、すべて自分を中心として集まろうとするのです。自分が動くと、群れをつくってすべて集まってくるのです。皆さんも先生と近い所で生きたいでしょう? 近い所で「このように見ながら生きたい」と、そう思うのです。それは誰がそのようにしますか。自分ではないのです。天運が、宇宙の法則がそのような人を中心として、みな集まって一つになるようにしようとするのです。それが原則です。いくら「離れなさい」と言っても、離れることができません。
(255-170, 1994.3.10)


「ため」に生きる人になりなさい。これが、天宙の生成、形成の根本なのです。ハナニムも「ため」に存在するのです。このように見れば、平和の世界が目前に展開するのです。天宙のすべてのものの中で、これに逆らうものはありません。このように主体的、生成の根源、エキス的、核心的な立場に立ったその人は、天宙、ハナニムまでも歓迎するのです。先生のような人がそうです。今、皆さんは、そのようなことを知らないので実感できません。霊界も先生を中心として動いているのです。そのような世界を知らないでしょう。それゆえに、いい加減にしているのです。
(255-176, 1994.3.10)
まことの愛を中心として「ため」に生きる人は、夜でも昼でも天宙、万宙どこに行こうと歓迎を受けるのです。皆さんは、いずれ霊界の展示場に展示されるのです。人間の博覧会をする所が霊界です。霊界では、地上でどのような生涯を生きた人間なのか、すぐ展示されるのです。そこで、びりになりたいですか、皆が称賛する人になりたいですか。どちらですか。最高に称賛を受ける人になりたいでしょう? そのようになるためには、先生が言うとおりに生きなければならないのです。最高に称賛を受けようとする前に、最高に「ため」に生きなさいというのです。そのような人は、間違いなく中心者になるのです。
(255-179, 1994.3.10)
青年たちは、それを知らないのです。20人の友人がいるとすれば、友人たちの中心として残る人は誰ですか。「お前たち、すべて私のために尽くせ」と言えば、すべて逃げてしまうのです。
10年、20年、一生を終える時まで、死んでもその友人のために生きた場合には、霊界があるならばそこに行き、すべて彼を中心として集まるのです。それは、間違いない真理です。「ため」に生きる、より「ため」に生きる、より犠牲になる人が中心者になるのです。
(257-44, 1994.3.13)
「ため」に生きる人は滅びません。また、「ため」に生きる人は、霊界でどんどんコーチしてあげます。どんどん新しいものと関係を結ぶようにしてあげるというのです。新しいものと関係を結ぶので、その人は、自然に有名になり、世界的に知られるのです。
(292-26, 1998.3.27)
父母は苦労する息子、娘を先に考えるのです。それゆえに心情の潮流というものは何でしょうか。かわいそうな人々を訪ね、いかにして自分のような人に育てていくか、ということを実践できなければならないのです。そのようになれば、世の中はすべて私に反対して冷遇しますが、ハナニムと天国は私を擁護するというのです。ハナニムを中心として、霊界の霊人たちが私を擁護し、保護して回るのです。雲のように私を擁護してくれるのです。それゆえに、そのような人々は、滅びません。
それが過ぎるようになれば、雲が環境をすべて巻き込んで整理するのです。ですから投入して苦労した代価の分、創造することができるというのです。私は苦労し、迫害されたのですが、天運があとから来て、その基盤を築いてくれるのです。聖人たちは、当代では迫害を受けますが、後代において名を残すのは、霊界が、天が、天運がそうしてくれるので、そのような現象が起こるのです。
(207-99, 1990.11.1)


天国に行こうとする人は、悲惨に生きなさい、悲惨に死になさい、悲惨に逝きなさいというのです。その言葉は、良い言葉ですか、悪い言葉ですか。良い言葉だというのです。それなら、死ぬほど出掛けていって伝道しろという言葉も良い言葉です。他人のために命を捨てろというのです。自分のためにではなく、他の人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくれるのです。
(49-303, 1971.10.17)
永遠に残るものがあるならば、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら先生に抗議してもかまわないのです。民族と世界、天地のために働いている途中で打たれる人が賢い人です。
(19-30, 1967.12.10)
悟りの道に入った人は、死ぬ時まで死の道を行かなければなりません。死んでする苦労を生きて蕩減とうげんするので、そのような道を行かなければならないというのです。死んで億千万年苦労するのを縮小させ、生前に蕩減してしまおうというのです。このように悟りの道は、永遠に行くべき受難の路程を、この地上で苦難の道を歩んでいくことで蕩減しようというものです。
(31-320, 1970.6.7)
統一教会に来るようになれば、「地上で良い生活をしなさい」とは言いません。この上なく貧しく、この上なく苦労して死んで道端に倒れ、犬もかみつかない死骸を残したとしても、その場には花が咲く日が来るでしょう。そこには、すべての神聖な人々が集まって都をつくるでしょう。
統一教会の群れを国のために、世界のためにうんざりするほど苦労をさせ、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。「行かない」と言うならば、張り飛ばさなければならないのです。足でけ飛ばしてでも現在の悲惨さを、現在の難しさを克服させるのが愛です。
(49-303, 1971.10.17)


 

第2章 霊界はどのような所か

 

1) 霊界の実相と法度

 

① 霊界は時空を超越した無限の世界

霊界がどれぐらい広大無辺な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけを見てもそうです。220億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が1秒間に3億メートル、1秒間に地球を7回り半回れる速度で1年間進む距離を1光年と言いますが、それが220億年かかるというのです。200日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。それがすべて私たちの活動舞台だというのです。
(206-83, 1990.10.3)
ハナニムは、時空を超越して存在するお方であられます。今日の時間や空間世界を超越して存在するのです。霊界に行けば、1年という年がありません。1年、2年、1日などというものがないのです。それは便利なことでしょう。寝ることもしないのです。霊界に行けば、寝ないで暮らすことができます。食べないで暮らすことができます。思うことによって食べて生きていくことができるのです。例えば、目で、ある物を一度見て「いいなあ」と思えば、千年も万年も忘れられないというのです。そうであるなら本当に良いでしょう。
(176-294, 1988.5.13)
天国は、太陽系のように、1年を365日とし、地球のように軌道を回り、1日は24時間だという、そういうものはありません。私たちのいう1年、2年というのは、地球での話です。太陽系を中心とする惑星の立場から1年を定め、地球が1回り自転することを1日と定めているのです。霊界は、地球が、1回り自転するように回ったり、太陽を中心としてその軌道に従って、1年かけて回るという決まりがありません。朝なら永遠に朝です。そこには、日や年の概念がありません。
(175-196, 1988.4.17)
霊界は時間と空間を超越しているので、1秒間に何億万里も行くことができます。広大な世界が時空を超越しているので、1秒間でも何億万里も行くことができるのです。広大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、何万年前が見えるのです。見えるのですが、何を見ようとするのでしょうか。他のものは見ません。誰に会いたいと思うのかといえば、男性であれば女性に会いたがるのです。そして、会ってからは、その人の心中にある本然の愛の大きさがどれくらいなのか、その人のもっている愛の量がどれくらい多いのか。これが測定基準となるのです。
(209-17, 1990.11.24)


霊界の中心は何ですか。それは、絶対的なハナニムを中心として構成された世界です。その絶対的なハナニムがいるなら、そのハナニムは天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。その方によらないものがないというのです。その方に属しているために、その方に属した全体は、その方と共に感じ、その方と共に因縁をもって生きているのです。例を挙げれば、私たち人間は、400兆個になる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野のものであろうと、感じさえすれば、直接、頭脳に連絡されるのです。天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在も、それと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、善でより次元の高い価値のものを追求しながら生きることは、ハナニムを根源として始まったものです。それゆえ、過程を経て根源と通じ得る結果の世界にあるのが人生であると、このように見るのです。
(140-123, 1986.2.9)
ハナニムは、どのようなお方でしょうか。ハナニムは、宇宙の存在世界の心のような方です。ハナニムは、宇宙の心のような方です。皆さんは、心を見ることができますか。霊界は、心のような生活の世界ですが、これは時間と空間を超越した所です。そこでは御飯を思いのままに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲み物の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住すべてのものを超越しています。そこでは億千万里を、あっという間に往来するのです。何の力をもってでしょうか。愛の力をもって、そのようにします。愛する人に会いたいと思えば、さっと現れます。
(210-225, 1990.12.23)
動物がそうなのに、万物の霊長である人間は、飛んでみたいでしょうか、飛んでみたくないでしょうか。ですから人間は、飛び回るようになっています。
霊界は、飛行機なしで何百光年になる世界をあっという間に行ったり来たりします。一度行ってみたくないですか。
(199-128, 1990.2.16)
ハナニムに、「あらゆる昆虫までも飛び、鳩のような鳥も飛んでいるのに、人は、なぜ飛べないのですか」と聞けば、ハナニムが何と言うでしょうか。ハナニムがあの霊界の高い所から訪ねてくる時に、歩いてくるでしょうか、さっと飛んでくるでしょうか。霊界は、無限大の世界です。このごろは人工衛星が金星に行くのに、14年間かけて飛びながら、キャッチして写真を撮って送ってくる時代ですが、この霊界は14年ではありません。一瞬のうちです。霊人体は、稲妻より速いというのです。それゆえ、霊人のように活動するハナニムについていきながら、共に愛の主体の対象になって生きようとするならば、飛び回らなければならないでしょうか。歩き回らなければならないでしょうか。この体では何歩も歩けません。
(298-289, 1999.1.16)
あの世の広大な大宇宙を見つめる時、ダイヤモンドの星がないと思いますか。黄金の星がないと思いますか。それがすべて自分の所有だというのです。その楽しさで暮らすのです。ハナニムがつくってくださった驚くべきものを自分が見て・・・。愛するすべての群れが、ハナニムの愛する群れ全体が、一つになって、大移動しながら暮らせる理想世界だというのです。そこにおいて同伴者になり、同参者になってみたいですか。
(126-145, 1983.4.12)


霊界があるということを知っていますか。どのくらいはっきり知っていますか。この世界よりももっと確かなものです。その世界は、どのような世界ですか。ハナニムが「良し」と言える構想でもって、すべてのことが可能な世界です。
(107-56, 1980.1.20)
数多くの人が行っているのですが、一瞬のうちに彼らに祝宴を催しても余りある理想世界です。霊界にいるあらゆる国の人、何百億になるその人々を集めて、瞬く間に祝宴を催して余りある、そのような理想世界です。そのような世界、レバレンド・ムーンは、そのような世界に向かっていくのです。この世を見つめていくのではありません。ここで、そこに合わせていくのです。
(107-56, 1980.1.20)
霊界に行ってみれば、男性と女性が一人の大きな人に見えるというのです。人は何ですか。皆さんは、みんな一つの細胞のようなものになります。全宇宙がみな、男性、女性のように見えます。そのように見えるというのです。それは、合わせたものです。このように歩けば、宇宙が歩くのです。その中に入った人は、ハナニムの細胞と同じです。一つの体になっているのです。
(207-97, 1990.11.1)
霊界では説明が必要なく、弁解が必要ありません。ちらっと見れば、すぐに分かります。あの人が私の下なのか、横なのか、高い位置なのか、すぐに分かります。何億年前のおじいさんであった人も、会えば、愛のその位階というものがすぐに分かるのです。その位階は絶対的です。その位階が高い人は、自然にその位階に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、いい加減にはなっていません。世の中とは違うのです。中傷、謀略して出世したような人は、それがすべて逆になっているのです。その反対になるのです。ですから正道を守りなさいというのです。
(194-133, 1989.10.17)
霊界に行っている人間は、何を願うのでしょうか。霊界は、自分が置かれている基準ですべてのものを補給できる世界です。願えばすぐです。主体的な能力のある人なら、不可能がない世界です。もし、100万人の祝宴を催すなら、考えると同時に100万人が広場に現れ、すべての準備が可能なので、100万人の祝宴を一瞬のうちにできるのです。そのような世界です。何が可能にするのでしょうか。原子力が分裂作用において熱が出るのと同じように、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬く間に可能になります。それは、ありそうな気がしませんか。
(141-278, 1986.3.2)
霊界がそうです。私が「どこかに行く」と言う時は、既に行っているのです。あの大宇宙が自分の活動舞台になると考えてみなさい。愛が先んじなければなりません。「ああ、会いたい。会いたい」と、こうでなければなりません。自分の相対のように、自分の愛する人のように、会いたければ、さっと行くのです。


あの世で芸術家に会えば、自分が芸術的なあらゆる素質を一瞬のうちに啓発してついていくのです。万事が可能な世界です。ですからあの世に行けば、歌う所では歌い踊るのです。みな喜んで、心と体が和動して踊ったり歌ったりするというのです。どれほど美しいでしょうか。
ハナニムが絵を描くにも一等ではないですか。そうでしょう。ハナニムが傑作品の絵をって眺めるでしょうか、傑作として行動する創造物を眺めるでしょうか。どちらを好まれるでしょうか。傑作品は必要ありません。そして、その世界は愛の心に酔う最高の場であるので、年を取りません。年を取らないというのです。オモニも年を取りましたが、私が見るにはいつも最も美しい時の姿なのです。
(201-101, 1990.3.11)
いつもかんかんに晴れた日だけあれば、どれほど退屈するでしょうか。そこに霧もかかったり、月の周りに光の輪ができたり、月も見えなくなったりしなければならないのです。ありとあらゆる気候の変化を見れば、どんなに芸術的でしょうか。考えてみなさい。一つの美術世界です。芸術世界です。あの霊界の澄んだ世界に自分が雲をかけたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしたければ、霧がかかるようにできる、愛によってそのすべての多様な感応圏をつくり得る特性をもつ、そのような人間になれるというのです。ですから、すべての霊界が関心をおきます。「ああ、あの人の所に行けばおもしろい」と言うのです。
(201-101, 1990.3.11)
霊界では距離と時間を超越します。時間がありません。何でも見たいと思えば、すぐに現れます。膨大な天国がすぐに通じるのです。この地上で、電話も距離の問題がないでしょう。そのようにどこでも通話ができるようになっています。そのような世界が背後の動機地、発電所のようになっているのです。
(283-126, 1997.4.8)
霊界に行けば夜があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に行けば、この地球ぼしにも通じることができ、この物質世界にも思いのままに通じることができます。水中にも行くことができ、大地を垂直に通ることもできるのです。宇宙には星が無数にありますが、まことの愛の相対としてハナニムの愛をもって行く所は、道がぽんぽんと開けるのです。愛の速度が最も速いのです。最も速いのです。光の速度は1秒間に3億メートルという距離を進み、地球を7回半回ることができますが、これは、それより何千倍も速いのです。億千万里でも、真の愛ならば瞬時に行くのです。膨大な霊界でも、一瞬のうちに活動できます。
(294-310, 1998.8.9)
皆さんが霊界に行ってすることは何だと思いますか。あの世ですることとは何でしょうか。考えてみなさい。そこで、金もうけをするのでしょうか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは、瞬間的にすべてかなえられます。霊界では、「私のために現れよ」と、いくら死に物狂いで大声を出して騒いでも駄目です。これを知らなければなりません。反対に、私がハナニムを愛し、世界を愛し、天国の王子の立場で、王に仕える中で、「あらゆるものが必要だから現れなさい」と言えば、瞬間的です。瞬く間に、もてなかったものがもてるようになるのです。想像が及ぶことは、すべて可能な世界が霊界だということを知らなければなりません。
(129-101, 1983.10.1)


愛は、熱に例えて表現されます。熱に例えるでしょう? 「胸が熱い」と言うでしょう? 霊界に行けば、ハナニムは愛の本体であるので、光と熱で現れるです。
霊眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どのような光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって、光る星にならなければなりません。星たちもすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。太陽のようにです。
(303-42, 1999.7.4)
ハナニムが創造する時、最も好きな色を先につくったのでしょうか、最も嫌う色を先につくったのでしょうか。それなら、早春に咲く花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色は好きでしょう? ですから高尚な物は、すべて紫色です。あの世に行ってみれば、最も良い色は紫色なのです。
(197-49, 1990.1.7)
霊界に行けば色がありません。あまりにも明るくて銀色のように見えます。銀色のように見えながらも、あまりにも明るくてきらびやかなので紫色に見えるのです。フィラメントに電気が通ると、本来黒だったものが明るい白色に光るのです。同じです。霊界に行けば黒人はいません。地上にいる時は黒人に見えた人が、霊界ではそのように見えないのです。真なる良心をもって生きた善人は、高いレベルの霊界に行くのです。障害者も霊界にはいません。足の不自由な人、病を患っていた人も、肉身を脱げば、いかなる障害もありません。
(293-223, 1998.5.26)
霊界では、どのような年齢で暮らすのでしょうか。最も美しい年齢の時の姿で暮らします。天国に行けば、そうです。そして、永遠に暮らすのです。そして、その人が考えるすべてのものが変われば変わるほど、その容貌ようぼうがさらに美しく見えるのです。霊界を知れば、ただそのままそれが、すべて連結するのです。
(294-309, 1998.8.9)
霊界に行けば、地上のことは思い出しません。窮屈なこの手のひらほどの地上で何をするのでしょうか。大宇宙があるのに、一つの砂粒のようなものを思い出しますか。しかし、霊界の民を生産する工場はここしかありません。宇宙に一つしかありません。金星にも人が暮らしているというのですか。人は、この宇宙でここにしかいないのです。
(198-367, 1990.2.11)


 

② 霊界は愛全能の世界

まことの愛の概念でぎっしり詰まっている所が霊界です。真の愛を五官によって感じるように、すべてを体験してから行く所が天国です。その場に立てば、すべてのことができます。理想的な生活環境が、そこで展開するというのです。どれほど驚異的か、皆さんは知りません。
(246-44, 1993.3.23)
霊界は、どのような所でしょうか。すべてのものが愛で充満した、愛で満ちた調和の世界です。皆さん、スイッチさえ押せば、このスイッチ一つでニューヨーク市の何百万世帯に電気がぱっとつくとすれば、これは信じられますか。それでは、愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するということが、うそのように思えますか、本当のように思えますか。地上天国は、すべての愛の電球に明かりがつく所です。そして、天上天国とは何ですか。愛の電球に明かりが完全にともる所が天上天国です。
それゆえに、皆さんが愛の心だけ抱き、愛のひもだけ引けば、すべて引っ張られていくのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横に行き、このように引けばこのように入っていこうとし、このように引けば上がっていこうとするのです。思いどおりに操縦できるのです。無理やりそのようにするのではなく、自動的にそのようになるのです。自動的にそのようになるのです。それを理解できますか。
(112-17, 1981.3.15)
霊界に行けば、うらやましいものがありません。皆さんのその愛の化身体をダイヤモンドと比較しますか、黄金の塊と比較しますか、真珠と比較しますか。宝石が問題ではありません。もっときらきら輝くのです。愛と化した化身体は、もっと美しいのです。
ダイヤモンドに、愛のダイヤモンドがありますか。生命のダイヤモンドがありますか。しかし、私たちは、ダイヤモンドも感動させることができ、すべてのものに影響を及ぼし得る価値的存在だというのです。貴い愛のダイヤモンドなのです。貴い生命のダイヤモンドなのです。それが私です。ですから私は、どんなに素晴らしいでしょうか。
(201-101, 1990.3.11)
霊界という所は、愛の電気で充満した所です。私が知っている霊界は、そうだというのです。ですから、今日人間は、何でもすべて愛と関係を結ぼうとします。なぜ愛と関係を結ぼうとするのですか。霊界に拍子を合わせるためです。これが理論にぴったり合うのです。そのようになっているので、そこに応じざるを得ないのが私たち存在物です。その立場を離れられないことを皆さんは知らなければなりません。
(112-17, 1981.3.15)
霊界に行けば、夢の鉱山がいくらでもたくさんあります。金、銀、宝石がいくらでもあります。花も好きな人が来れば、愛する人が来れば、眠っていても突然ぽかりと口を開け、目を開けて歓迎するのです。「少し待ちなさい」と言ったのに、そのまま行ってしまえば、「ああ」と言って枯れてしまうのです。
(213-277, 1991.1.21)


ハナニムが笑えば、全体が共に笑います。霊界に行けばそうです。霊界に行けば、直感の世界と同じなので、ハナニムが喜んでいるのか、そうでないのか、きょうは気分が良いのか、悪いのか、すぐに分かります。地上世界に何かあって喜ぶのを見ると、全体がふわっと膨らむというのです。ぽんと浮かぶというのです。
(193-264, 1989.10.8)
霊界に行って、何をするのでしょうか。愛の歌、愛の話をするのです。霊界では、オペラ式に話せば、私がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば、踊りで答えなければなりません。永遠に喜び、踊りを踊っても永遠に飽きません。1箇所で踊れば天国がすべて踊り、1箇所で歌えばすべて歌うのです。その時は、自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るなら、「ああ、私の愛する妻をあなたよりも百倍愛するために、私があなたと踊るのです」とこのように考えるのです。
他の女性と手を取って踊るなら、それはすべて自分の愛する対象を千倍、万倍、もっと刺激的に愛するために、こうするのだというのです。
(107-331, 1980.6.8)
霊界からハナニムが御覧になるとき、皆さんの心が、愛の鐘の音が響く所に行けば、灯がますます大きくなるというのです。その光は五色燦然さんぜんと輝くのです。ハナニムの目には、ダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。そして、光だけが良いのではなく、その光の中には味があって、見れば見るほど良いというのです。何度でも見れば見るほど酔ってしまいます。
それゆえに、「ハナニムは愛」という話をするのです。皆さんの心の愛の鐘を鳴らせば天地を動かし、すべての万民を動かすのです。そのようにすれば、ハナニムも「あ!」と言いながら動く、そのような鐘があることを知らなければなりません。それゆえに、愛の涙をどれほど流したか、愛の切なさをどれほど味わったか、それが皆さんの財産だというのです。
(103-28, 1979.1.28)
今後、私たちが霊界に行くようになれば、真の愛の力をもって、いくら遠い所にいる人でも一瞬のうちに会うことができ、愛ゆえに訪ねていく時は瞬く間に故郷へ帰ることができるというのです。
霊界という世界は、無限に膨大な世界なので、何百万里、何千万里の距離も一瞬のうちに、愛を中心として行き来できる世界だというのです。愛は、最高の速度をもっているのです。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界と私は関係がないというのです。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、私から始まるということをはっきりと知らなければなりません。
(216-192, 1991.3.31)


ハナニムがいくら高いといっても、「ハナニム!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「ハナニム、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。ハナニムが本来、根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるのです。このようになっているのです。
(194-42, 1989.10.15)
あの世で必要なことは、世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子よりもハナニムをもっと愛さなければならないということです。それが原則です。お父さん、お母さん、子供たちみな、もっとハナニムを愛さなければなりません。お母さんが言うには、「あー、あなたは私を愛するより、ハナニムをもっと愛してから私を愛してください」と言ってこそ、夫から高い次元のハナニムの愛を受けられるようになるのです。
父母に対しても、「どうか私たちのことはお構いなく、本来の父母の愛を先にお受けください。その父母の愛を受けたお父さん、お母さんを私は愛したいのです」と、そのようにすがって哀願しなければならないのです。
(126-142, 1983.4.12)
(霊界は)愛の理想を中心としてハナニムの前に相対になれる人が、考えるすべてのものを瞬間的に実現化させ得る世界です。何億、何千万人も一瞬のうちにバンケット(祝宴)を準備できる世界です。
私が服を豪華絢爛けんらんに着て、愛の対象としてハナニムを一度楽しくさせてさしあげようという時は、豪華絢爛になります。こうこうこのように想像できる以上のことを想像しても、それが可能な世界です。そのような世界を知っている人は、地上では生きる楽しみがありません。ですから、私は監獄にほうり込まれても、何の問題もありません。この世でのわずかな生活は、永遠の世界で息を一度止めるのと同じです。
(211-244, 1990.12.30)
ハナニムの心情、天国の心情に通じたならば、どこでもすべて一つになることができ、どこでもすべて和合できるからです。そうなれば、その門を通り得る階級に暮らす人は、「わあ! 万歳! ハナニム好きです!」と言うのです。ただついていきたいと思い、皆が喜ぶのです。食べたいものがあれば何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊び、したいことを思いどおりにできます。この地球上で100年生きても感じられないあらゆる幸福、有り難さを、一瞬のうちに感じられるというのです。
(106-229, 1979.12.30)
霊界は、どのような世界ですか。ハナニムの心情と同等に立てる心情をもてば、何でも可能な、そのような所なのです。今後、ムーニーが何千万人になっても、「皆さん、全員このような新しい服に着替えなさい」と言えば、さっと新しい服にみな着替えられます。それから「バンケットの場所、これこれこういう場所に現れなさい」と言えば、すぐにそのようになるのです。
テーブルは、金の装飾や銀の装飾で五色きらびやかに飾られ、またそこにあるいすもそうで、そこに座ったすべての人々は、歓喜に、喜びに、愛に酔って踊るでしょう。1000年踊っても喜べる所です。
(106-229, 1979.12.30)


何億万里の距離がある世界の人でも、愛の心が強くなって、「会いたい」と思えば、さっと現れるのです。「何の用ですか」と聞けば、「あなたが呼んだので現れました」と言うのです。「どのくらい遠くから来たのですか」と聞けば、「何億万里から来た」と言うのです。距離を超越します。宇宙が私の活動基地です。それなのに、その世界にない物質でもって首を絞め、お金、知識、権力でもって首を絞めているのですか。あの世では、そのようなものは一つもありません。そのようなものは、残るものが一つもありません。
皆さん、この世ではお金、知識、権力が必要ですが、あの世ではそのようなものは必要ありません。霊界のどのようなものも皆さんを歓迎せず、霊界がいくら皆さんに関心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももてないのです。本質とは反対のこと、反対的なこと、それでは一つになれないというのです。霊界が関心をもてる位置と連結できません。
(205-128, 1990.7.29)
私が「このような人に会いたい」と言えば、すぐ前に現れるのです。「あなたがこれこれこういう人ですか」、「はい、数百、数千年前に、私は、地上のどのような所で暮らしていました。私に会いたいですか。私に尋ねてみたいことがありますか」、「はい、あります。私は、このように教えました。私とあなたが、どのように違いますか! 分かりますか」と言いながら、わいわいと話を交わすことができます。時間がかかりません。始めるやいなや、すぐに分かるようになるのです。この世に住むというのは、どんなに不便でしょうか! 車が必要ありません。愛の感情が、あらゆるものをつくることができます。観念をもって、あらゆるものをつくることができます。まことの愛の観念を中心として、何でもみなつくることができます。
(217-131, 1991.5.12)
今から何百年前、800年前、1000万年前に生きた人間も、来てあいさつするのです。聖書では人類歴史が6000年となっていますが、とんでもないことです。何千年前と今の時が、どれほど変わったかというのです。その時の人々は、今生きている人よりも、心ではハナニムをよく感じることができたというのです。
しかし、文化生活の面では反対なのです。霊的世界の啓発は、文化生活とともになされてくるものです。そうでしょう? 知識に通じれば知識の尺度によって理解し、すべてのものを分析するにあたって鋭敏になるというのです。したがって、霊感を感得できる基盤がもっと拡大していくというのです。
ですから今後は、自然にそのような知識が多く、世界の行く末を憂慮する人には、あらかじめ霊界から教えてくれるのです。霊波を通じて、どのようになるのか分かるのです。最高の位置に行けば、最後は一つしかないでしょう。同じなのです。
(206-138, 1990.10.3)


「誰々に会いたい」と言えば、何億万里、何百万里離れていたとしても、すぐに現れます。広い天国にいたとして、「自分が会いたい人、自分が愛した人に会いたい」とぴたっと情緒を整えて言えば、その場で相手が現れるのです。それはどんなによいですか。そうでしょう。さっと現れれば、既に自分がどのレベルにいるかということが分かります。「私は、これぐらいのレベルだ」と分かるようになるのです。自分が高いか低いか分かります。いくら親しい友人でも、自分のほうが天の前に愛のレベルが高ければ、来るやいなやあいさつするのです。いくらお母さんでも、それよりもっと先祖でも、あいさつするのです。そのような世界です。
(206-138, 1990.10.3)
ここでは、ご飯を食べて暮らすことが心配でしょう。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要でしょう。家でも、食べ物ゆえに大騒ぎするでしょう。霊界に行けば、それはすべてありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。一瞬のうちに億万里でも行けるのです。太陽の光よりもっと速いのが霊力です。ハナニムが造った太陽の光でさえも、1秒間に3億メートル進むのですが(もっと速いのです)。
電気もそうでしょう。光の速度と同じです。ところが、ハナニムの本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍もさらに速いというのです。
(206-138, 1990.10.3)
霊界に行って、ある家に暮らす人のレベルが自分より低い時は、その家が良い家であれば、その良い家を私の家にできます。さっと訪ねていけば、主人は、ちらっと見れば分かるのです。額をちらっと見れば、顔をちらっと見れば分かるのです。さっと見て自分より高い人なら、自分の奥の間に案内するのです。「いらっしゃいませ」と言って案内するのです。
(207-95, 1990.11.1)
ハナニムの息子、娘になれば、その膨大な宇宙がすべて自分のものになるのです。皆さん、霊界に行けば先生についていきたいでしょう。ついていけません。先生が行く所に、皆さんはついてくることができません。皆さんは、心情の門が狭いのです。まことの愛は、大きな門でも小さな門でも自由自在に行けます。真の愛でなければ、それはできません。この位置は、全体を代表した位置です。それゆえに、どこにでも入っていけて、どこにでも出掛けることができます。
(207-95, 1990.11.1)
どれほど人類を愛し、ハナニムが愛を中心として創造した被造物に接する時、ハナニムのようにどのように愛するか、ということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。嫁に行った女性は、夫が自分をどれくらい愛しているかということについて誇るでしょう。あの世では、ハナニムの愛を中心として、ハナニムの愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然の真の愛、これが高いレベルの愛なのです。これによってレベルが決定するのです。
(216-171, 1991.3.10)


天国にハナニムの心情の架け橋があれば、どのように上がっていくのでしょうか。ヘリコプターのようなものに乗って、行ったり来たりしながら上がっていくのでしょうか。エレベーター式に直線で上がっていくのでしょうか。ヘリコプター式ですか。エレベーター式です。万年エレベーターです。垂直です。ハナニムの愛に接するためには垂直線に入っていかなければなりません。
聖書に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)と記されています。それはどういうことかというと、すべてのものの中心は愛だというのです。それで、あらゆる作用と意識のすべてを一つにして、「主なるあなたのハナニムを愛することしかない」と言う時、そこからエレベーターに乗って垂直圏に上がっていくのです。そのような驚くべき世界を知らなければなりません。
(208-142, 1990.11.17)
あの世、霊界に行けばそうです。誰でも90度になれば、東西南北のどこに行ってもきちっと合います。ある社会、数多くのクラブになっている社会、千態万状の社会・・・。皆さん、ここに何人いますか。およそ500人集まったとすれば、500のタイプがあるのです。各々みな違うでしょう。(霊界に行けば)似たグループにみんな集まります。それはコンピューター以上に分析されています。さっと行けば、さっと過ぎれば既に自分の角度が分かります。1週間以内にすべての背後まで、あの秘密世界の倉庫の底までのぞきます。言葉が必要ありません。心で言おうとすることを感じるのです。コンピューターのおじいさんのような世界なのです。
(211-244, 1990.12.30)
ハナニムも愛のために創造したということは知っているでしょう。ハナニムに、「一番好きなものは何か」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。ハナニムは、好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、権力も必要ありません。何が必要ですか。愛の中にはお金もあり、知識もあり、権力もあります。愛の権力が万年権力です。本当に愛を知っている人は、天上世界に行って学ぶことがありません。そのような人は、いつでもハナニムの心の中を出たり入ったりします。
ハナニムの体を通して東西南北、思いどおりに行き来できます。これが中央停留所のようになっています。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するので、強力な力で出てきます。低い国も、その中央を通って出てくる時は、高いハナニムと対等な位置に上がっていくのです。愛には、このような偉大な力があります。
(202-86, 1990.5.6)
私は今日、世界で電気とか宇宙とか、何だとか言って大騒ぎしていることが、愛の理想世界を成し遂げるための一つの内的な潤滑剤のようなものだと考えます。このような時、皆さんは、「アーメン」と言わなければなりません。そうだとすれば、その世界は、愛の電気で充満した世界だという結論が出てくるのです。霊界という所が、愛の電気で充満した世界ではないだろうかというのです。


そうだとすれば、この世で電気をもって不可能なことのない造化が起こるのです。愛の電気ならば、できないことがないというのです。ここで私たちは今、私たちの意識構造をもって処理できる可能圏が霊界であると、決定づけられるのではないかと思うのです。それでは、霊界とは何ですか。永遠の要素を願う永遠の所です。
それゆえにここで愛を体験した霊人体は、間違いなく自動的に磁石に引かれて、その世界へ行くはずです。それを自分が感じたぶんだけ、それに見合った霊界に行くというのです。
(112-17, 1981.3.15)

 

③ 霊界の空気は愛である

霊界はどのような組織から成っているかといえば、あの世は空気が愛です。愛が空気になっています。心と体が愛の感触を受けて和合できる要素として、この地上で体恤たいじゅつされなければなりません。体恤圏をつくっておけば、そのまま通じない所がないというのです。木の樹液が木の芽と根に通じるように通じるのです。ハナニムが喜ぶのを自然に感じます。東方でハナニムの祝宴が催されるのが分かるのです。そこに行こうとすれば、さっと行けます。自由天地です。
(162-287, 1987.4.17)
霊界で呼吸する空気は、愛から成っています。愛によりすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生き、愛の道理で和してその内容を満たしてこそ、ハナニムが今まで歴史時代に願った希望の実体を完成したという格位を備えるようになり、天国のどこに行っても歓迎されるのです。
(143-72, 1986.3.15)
霊界は、愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛で包まれている所です。人間は、地上では空気を吸ってガスを吐き出すのですが、霊界では愛を吸って生きるようになっています。霊界は、今日のような人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようにはなっていません。霊界で与え受ける愛は、まことの愛なのです。
(145-267, 1986.5.15)
皆さんをたたいて、純金をつくらなければなりません。純金をつくるのです。そして、犠牲になりなさいというのです。自分を犠牲にしなさいというのです。自分がなくなるように、死になさいというのです。自分をなくしなさい、自分を犠牲にしなさい、犠牲にしなさい、なくしなさい、ゼロになりなさいというのです。
このごろ、なぜ宇宙時代に入り、電気時代に入ったのでしょうか。このような時代が近いから、そうなのです。「原理」でいえば、真が来る前に外的なもの、カイン的なものが先に来るというのです。この世がカイン的なのです。このように見ると、ハナニムの愛の電気学を語ることにおいては、レバレンド・ムーンが先祖になるでしょう。
(112-19, 1981.3.15)
霊界に行けば、原則にどれだけ同化し、どれだけ一致したかということが、地獄から中間霊界、楽園、天国まで、すべて連結されるのです。そのような原則がなければならないのではないでしょうか。そうかといって、アメリカ大統領をし、世界的なノーベル賞ももらい、世界的に有名な学者だからといって霊界に行けば、天国に行けるのでしょうか。行くことができないのです。通ることができますか。


それゆえに、宗教界は、すべてのものを捨てなさいと教えるのです。すべて捨てていかなければなりません。
それでは、何が最も貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、この世界のためにどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したか、それがあの世をパスするチケットです。これは間違いありません。絶対的だというのです。これは理論に合うのです。
(97-172, 1978.3.15)
霊界で、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために、息が詰まり、窒息して注射を打ち、酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動できる、自由なハナニムの愛の圏で暮らせる皆さんになりますか。ここは、世界のために生きなければならないので、これが生涯の行く道です。将来のために行くことが、生涯において行くべき必然的な道だということを皆さんは知らなければなりません。
(107-56, 1980.1.20)

 

④ 霊人たちの生、霊人たちの相互関係

ハナニムは、天地を創造なさった方であり、この世の存在の起源となる一番の母体となられる方です。その方は、存在価値の起源です。その方がいらっしゃるので、今日この現象世界が始まったのです。そのような絶対的な方は、ある時代に変化があるといって変わる方ではありません。絶対的なものは変わることがありません。また、時間や空間に制限されることもありません。すべての制限を超越した位置で、すべての制限を主管される方です。そのような方とは誰ですか。「ハナニム」とだけ言うのではありません。その方は、「お父様」です。
皆さんは、「父なるハナニム」と呼ばなければなりません。そのお父様は、皆さんを生んでくれたお父さんです。人間が堕落したので、「再び生む」という言葉が必要なのであって、その方は本来、皆さんを生んだお父さんです。肉身のお父さんは、皆さんを仲介するお父さんです。そのお父さんは、霊界に行けば、お父さんというのではなくお兄さんと呼ぶようになっているというのです。お母さんも、お母さんと呼ぶようになっていないというのです。
(21-249, 1968.11.24)
霊界に行けば、アダムとエバもハナニムに対して「お父様」と言い、数千万代の子孫である皆さんもハナニムに対して、「お父様」と言うでしょう。「兄なるハナニム」と祈祷しますか、「父なるハナニム」と祈祷しますか。それでは、自分のお父さんは何になりますか。霊界に行けば、お父さんが何になりますか。お兄さんです。お兄さんとは何ですか。私より先に生まれたのがお兄さんです。私より先に生まれたのがお兄さんだというのです。それゆえに、内的なお兄さんがハナニムで、外的なお兄さんが自分のお父さんだというのです。それ以上の理論を立てられないことを知らなければなりません。
(302-168, 1999.6.13)


父母の根をもった人々が、ハナニムを何と呼びますか。キリスト教で呼ぶように、みんながハナニムを「お父様」と呼びます。一つの家庭で、おじいさんもハナニムを「お父様」と呼び、お父さんもハナニムを「お父様」と呼びます。孫も、やはりハナニムを「お父様」と呼びます。家族みんながハナニムを「お父様」と呼びます。
このようにハナニムは、すべての人間にとってお父様になられる方です。したがって、ハナニムは人間にとってお父様になり、人間はお互い兄弟になるのです。先生は時々、本当にそのようになるなら、霊界に行けば実におもしろいだろうと思うのです。
(21-249, 1968.11.24)
私たちの最初の先祖まで私が見ることができるのに、先祖を造られたハナニムは見ることができないのでしょうか。ハナニムも見ることができるのです。それは、何の話か分かりますか。ですから、家庭というものは何かというと、見えないハナニムの愛の表現場所です。愛を中心として歴史時代に生きたすべての先祖は、愛の統治をあの世で受けているのです。同じ愛です。
(214-268, 1991.2.3)
すべての家庭がまことの愛で一つになって霊界に入っていけば、ハナニムの血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば、農作業もなく、仕事がありません。真の愛の食べ物は、においをかいでも永遠に生きることができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。ハナニムの体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。
(278-286, 1996.5.26)
ハナニムとは誰ですか。あなたの友人です! 最も高貴なる友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。ですから、皆さんが膨大な霊界の天国世界に入っていくようになって、そこでそれ以上のものをハナニムに願ったとしてもハナニムがつくってくれるというのです。それは問題ないというのです。それはどんなに誇らしいでしょうか。その位置は、ハナニムの代わりの位置です。その位置に行った人間をハナニムが憎むでしょうか。いいえ、「私の息子、ナンバーワン、私の息子!」と歓迎するというのです。これが父母が願う最高の望みです。
(293-161, 1998.5.26)
地上世界で親子関係の愛を貴く思うように、愛をもって生きていけば、天上世界でもハナニムを父母として侍って息子、娘のような立場で生きることになるのです。これが堕落しない家庭で生きる生活と同じであり、性格、性稟せいひんが似たのであらゆる方面で会うのです。
(214-268, 1991.2.3)
堕落しない家庭は、霊界と肉界のすべてに通じることができます。「あのおじいさんのお父さんは誰かな」と思えば、見ることができるというのです。また、あのおじいさんのおじいさんが誰なのか、4代前の先祖が誰なのか、5代前の先祖、100代前の先祖、1000代前の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。そして、「アダムとエバはどんな顔つきかな」と考えれば、「このような顔である!」と現れるのです。「私の目もアダムとエバに似ているなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ!」となるのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は、4種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の4種類でしょう。「ああ、手足も同じだ! 私のように目もぱちぱちしている! 言葉も話している! そっくりだ! ああ、こんなに似ているんだなあ!」というようになるのです。
(214-268, 1991.2.3)


あの世では、しわくちゃのおばあさん、おじいさんが皆さんより、もっと美しいのです。もっときれいなのです。愛があれば、そのような世界にとどまれるのです。そこは統一された世界で、とても美しい世界です。それで、おばあさん、おじいさんに会って昔のおじいさん、おばあさんのように思って行動できますか。美しいおじいさん、おばあさんを見ればどんなに良いでしょうか! 孫娘が来て、おばあさん、おじいさんに会おうとして叫んでいる光景は、霊界では見物みものです。
それでは、おじいさんが好きならば、そのおじいさん以上のおじいさんは、誰ですか。自分の先祖のおじいさんは、誰ですか。最初のおじいさんは誰かといえば、ハナニムです。それで、おじいさんが喜んで、「ハナニム、ああ、とっても良いです」と言えば、ハナニムが「ウェルカム」と言うのです。大声で「ハハハハ!」と言えば、ハナニムが「うん、そうだとも!」と言うのです。
(216-180, 1991.3.10)
皆さんが霊界に行ってみれば、この地で生きた皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。なぜなら、そのおじいさんとお父さんが若くてすてきな姿に変わっているからです。年老いた姿ではありません。そのように若いおじいさんなので、初めは見分けられませんが、徐々に徐々に話をしてみれば、「そうだ、それは合っている。だから私のおじいさんだ」と言って抱き締めるのです。そのような世界です。
(271-333, 1995.9.3)
霊界に行けば、皆さんの顔は、最も美しい20代の青春に帰るのです。愛の花を咲かせることができ、香りを漂わせることができる時期が創造の原則なので、その本郷である天国に入っていくようになれば、そのような顔で帰るのです。それで、世の中で年老いた人があの世に行けば、会っても分からないのです。20代の青年の顔に戻るからです。知っているのは80になった老人として知っているのに、その老人はいないのです。ですから分かりません。世界の有名な歴史的な人物も、あの世に行っているのに分からないのです。写真を見て、その時死んでいった年齢を知っているけれども、最も美しい時に戻っていくので分からないのです。
(271-124, 1995.8.23)
霊界で最も近い兄弟は、誰でしょうか。霊界で最も近い兄弟は、横的な兄弟ではありません。この世で親子の関係と兄弟の関係の中で、どのような関係がもっと近いですか。兄弟の関係より親子の関係がより近いので、霊界に行っても私のお父さんが最も近く、その次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。


そのように上がっていけば、最後のおじいさんは誰でしょうか。その方が、正にハナニムです。したがって皆さんは、この世に友人がいないといって寂しく思うこともなく、一人で暮らしたのちに死んだとしても悲しむこともありません。霊界に行けば、上を見ても、横を見ても、近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、ただそのまま兄弟になるのではありません。
ハナニムを父として侍ることができる特権を備えてこそ、そのすべての人と兄弟になれるのです。お父さんをお兄さんとし、おじいさんをお兄さんとしたからといって、気分が悪いことがあるでしょうか。気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。考え方によれば、気分が悪いのです。世の中ではお父さんと呼ぶのに、霊界に来たからといってお兄さんと呼ぶのですから、お父さんはどれほど気分が悪いでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。
(21-249, 1968.11.24)
霊界に行けば、黒人はどうでしょうか。黒人は黒人でしょうか、どうでしょうか。自分の願いどおりに、黒人が白人の姿になろうとするなら、いくらでもなれるのです。人間の世界で成し遂げられるただ一つの問題は何ですか。光が明るくなければなりません。何の光がですか。愛の光です。愛の光が明るくなるためには、内的にも外的にも燃えなければなりません。愛するための発動力によって燃えなければなりません。東西にたくさん吹き出さなければなりません。そのようにできる愛だというのです。そのようなことをすべて知ってみると、世の中の万事は、過ぎゆく一つの旅行地での出来事です。
(194-56, 1989.10.15)
天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱっと咲いて、そこに和合し、相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを漂わせ、その花を通じた新しい種をもつことができる、このような姿で地上で生きなければならないのです。そのように生きて霊界に行けば、永遠の世界でもそのような姿で現れるのです。
(256-170, 1994.3.13)
霊界に行くと、自分の夫と地上で愛した愛よりも拡大したい、より刺激したいと思うようになるのです。霊界に行けば、愛する女性がいれば、その中に男性がいるのです。
(255-308, 1994.3.11)
夫婦の愛は、どの境地まで入っていくのでしょうか。霊界に行けば、こうです。私は座っていても、夫が歩けば、私も心で歩きます。帰ってくれば、心で既に帰ってくるのが分かるのです。心の中で、夫と一緒に歩いているのです。どこから来るのかをすべて知っていて、どこへ行くのかをすべて知っています。この世では、男性が酒場に行ったり、どこかに行ったりしますが、女性は知らないので、わあわあ騒いでいつもだまされるでしょう? しかし、霊界に行けば、すべて分かるのです。
(238-70, 1992.11.19)
皆さんは、あの世、霊界に行ってハナニムに似なければなりません。ハナニムに帰るのです。ハナニムの二性性相、性相と形状がぴたっと一つになっているように、男性と女性が完全に一つになって、その殻で覆われたようになる時、この二人が一つになったその基盤の上でハナニムに帰るのです。
(230-201, 1992.5.3)


霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になれるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば、男性が入っています。夫が入っているのです。
ハナニムの二性性相と、ちょうど同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたのですから、その本体に帰るには愛の架け橋を渡らなければいけないでしょう。創造の基準が愛から始まったので、この架け橋を渡って帰らなければなりません。結局、終着点ではハナニムのようになるのです。
(205-97, 1990.7.7)
男性が地上で楽しく生きて霊界に行き、さっと見れば、男性の中に女性がいるというのです。「あの女性は、誰ですか」と聞けば「私の妻です」と答えるのです。また、女性の中に男性が見えるというのです。このようにして二人が一つになれば、東西南北の方数ほうすうになるというのです。男性、女性、二人でしょう。男性と女性のプラスとマイナスで東西南北になれば、ハナニムにしっかりと侍るというのです。ハナニムが垣根になるというのです。そうすることができれば、ハナニムが私のハナニムです。共に生きるのです。父母が年を取って100歳を超えれば、80歳になった息子と友達になるのを知っていますか。「おい、息子よ!」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。ハナニムに帰らなければなりません。
(252-105, 1993.11.14)
まことの愛を実践する夫婦は、ハナニムが本性相と本形状としてあられるように、霊界に行けば、ハナニムの本然的な基準に入っていくようになるのです。本然的で絶対的なハナニムも、真の愛には絶対服従されるので、彼ら夫婦も本然的な基準に達するようになり、その点は一点なので、彼らはハナニム化するのです。ハナニムに帰るのです。アルファとオメガです。それを何が可能にするかといえば、真の愛です。世の中に生まれた息子、娘は父母に帰るでしょう。同じ理屈です。
それゆえに霊界に行ってこの地上で仲良く生きた人をちらっと見れば、男性に見えるのに、じっとよく見ればその中に女性が笑顔でいます。それが愛した妻だというのです。それが最高の理想です。そうすればハナニムの友人になるのです。それでこそ共に生きるのです。愛ゆえに生まれたのです。
(226-141, 1992.2.2)
霊界では、愛を中心としてハナニムが私たち人間と和し、人間はハナニムと愛で一つになるのです。ハナニム化するというのです。ハナニムの二性性相が分立されたことを見ると、完全に愛によって一つになれば、霊界に行ってみれば二人が一つになっているのです。ただ見れば、明らかに男性ですが、じっとよく見ればその中に女性が、和合して座っているというのです。愛の目は、すべて統一です。憎い人もきれいに見え、きれいな人も憎く見えますか。きれいに見えるのです。
(205-341, 1990.10.2)


まことの愛の相対になろうとすれば、ゼロの位置に立たなければなりません。そのようになる時、ハナニムが「良し、良し」と言い、地上世界を見る時は地上の太陽のように光るのです。その二つが爆発する瞬間、霊界のハナニムの目もあっと驚くというのです。ハナニムが「良し」と言うのです。それが信号弾なのです。ハナニムがその信号弾を受けてゼロの位置で完全に開き、太陽のように光る愛の火がぼうぼうと勢いよく燃える所にお出ましになり、その中に入っていき初めての夜を過ごしたいというのです。
(202-34, 1990.5.1)
霊界においては、何千、何億万里離れていた人が、ここに来て心情基準が合うので、離れることを嫌がるのです。「ああ、早く行ってくれたら!」とは思わないのです。その世界では、ご飯のようなものは必要ありません。すべてのものが自らの直感で解決するのです。それは愛の直感です。このようなあらゆる愛の体恤たいじゅつを中心として万国に拡大していくのです。そうしてハナニムの代わりの心情さえもつようになれば、その下にすべての必要な存在が集まり、そこに千万人を一度に満たせる演壇ができるのです。
(225-223, 1992.1.20)
ハナニムは、他の所にいるのではありません。ハナニムはどこにいらっしゃるのでしょうか。「在らざる所無し」という言葉は、ハナニムはどこにでもいるわけではないということです。愛がある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては、「在らざる所無し」ということです。私も愛を中心としては、「在らざる所無し」と言えます。特権です。
それゆえに、愛がある所には主人がいます。よく主人を知っているので、主客は転倒できません。あの世は、そのようになっているのです。愛を基調に、すべてのものが操縦されるようになっているのです。
(149-23, 1986.11.1)
それでは、男性とは何ですか。これは半分だけです。女性は何ですか。これも半分です。また、いくら至高なハナニムであっても、ハナニムにも対象がいなければなりません。
それゆえに、上は下が必要であり、下は上が必要なのです。霊界とは何ですか。霊界は半分の世界です。肉界も半分の世界です。
(161-320, 1987.3.8)
霊界に行ってもそうです。霊界に行ってどのようにするのでしょうか。歴史時代のすべての人、今後、全世界的な版図を越えてみんなに会ってどのように生きるのでしょうか。お互い「ため」に生きるのです。霊界に行ってもやはり理想的な愛を中心として、これを再現する生活をするのです。ですから同じようにもっと高い、価値あるものに私が投入するのです。それがうれしいというのです。
霊界は肉界の延長です。平面的な面の愛の理想を地上で追求したとすれば、霊界に行けば、楽しく、天のより深い、立体的な外郭的な球形だけではなく、外郭的な球形と内角の核心まで通じなければなりません。ですから、結局は深く、浅く、高く、低く、すべての面に愛を投入できる、そのような行動をしなければならないというのです。ハナニムの代わりに再創造する、そのような生活をしなければならないというのです。
(164-326, 1987.5.18)


霊界を動かせる代表者になりたいですか。人種主義者は、絶対に効力を発揮できないのです。また、人本主義者も効力を発揮できず、物本主義者も効力を発揮できず、教派主義者も効力を発揮できません。ひとえに統一主義だけが効力を発揮できるのです。
霊界に行ったと考えてみましょう。霊界では食べるものの心配がなく、着るものも心配ありません。暮らすことも心配がありません。そこでは趣味が何でしょうか。ハナニムを中心としてバンケット(宴会)に参加すること、ハナニムを中心として喜べる集いに参加すること以外には希望がないことを知らなければなりません。
ハナニムを中心とした祝宴に参加することだけが最高の理想です。そこに愛があり、そこに喜びがあり、そこから幸福の起源が生ずるのです。
(162-110, 1987.3.30)
霊界に行けば何百里、何千万里から一瞬のうちに来るのです。さっと会えば、額を見れば分かるのです。どこから来たのか、見てから頭を下げ・・・。これが通じません。何百年前の人でも、愛の人格基準が高ければ、会うと、相手が先に頭を下げるのです。
何をもって感動するのかといえば、愛です。愛でもってどれほど人類を愛し、ハナニムが愛を中心として創造した被造物に接する時、ハナニムのようにどのように愛するか、ということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピューター以上です。嫁いでいった女性は、夫が自分をどれほど愛するかということを誇るでしょう。あの世では、ハナニムの愛を中心としてハナニムの愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然の真の愛、これが高いレベルの愛なのです。これによってレベルが決定するのです。
(216-171, 1991.3.10)
本質的な本然の愛を実践すれば、年老いた人にでも花が咲くのです。ですから、霊界に行けば、すべて青春です。思春期の最もかわいかったその時の姿で行って、とどまります。ですから愛が偉大なのです。それが信じられなければ、きょうにでも死んでみれば分かります。若くなれば本当に良いでしょう?
(204-82, 1990.7.1)

 

⑤ 霊界での衣食住問題は自由自在

あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに願う、すべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも自分を触ってみれば、血管が脈を打つのが分かります。同じです。霊的な体ですが、同じなのです。私が「何々を食べたい」と思えば、すぐに現れます。「このような物を食べたい」と思えば、すぐに現れます。それは、どこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。ですから、全体を動員できる主体的な能動権をもったものとは何ですか。権力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。
(194-42, 1989.10.15)


ハナニムが創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、飲食店もありません。しかし、私たちは、霊界でまるで創造主であられるハナニムのように、あらゆる種類のものを、まことの愛の概念を中心として創出すべく、愛を中心として本来の力を発揮し、すべてのものをつくることができます。
私が愛を中心としてこのようなもの、あのようなものなどを指摘すれば、実在物が完全に姿を現すことができるのです。「どのような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じるのです。どんなにすごいでしょうか。また、晩餐ばんさん会場に数十、数百万人参加した時、「このような食べ物を準備しなければ」と願いさえすれば、食事が問題なく出てくるのです。金色の正装を願えば、すぐにそのような正装が出てくるのです。どんなに素晴らしく、すごいことでしょうか! それは本当に良いのです。
(217-293, 1991.6.2)
あの世に自動車工場があるでしょうか、ないでしょうか。このような物に乗って一瞬のうちに、1秒間に何億万キロを行くことができます。先生がそのようなことをはっきりと知っているので、地上で生きたいと思わないのです。その膨大な世界が、愛を中心としてすべて編成されているというのです。その愛に和したハナニムの心情圏をしっかりと所持すれば、すべて終わります。創造歴史は、永遠に続くのです。そのような愛の心に和して、自分が構想したすべてのことをしなければなりません。瞬時にしっかりと決心して命令すれば、すぐに展開します。
(202-86, 1990.5.6)
霊界に行けば小便をするでしょうか、しないでしょうか。今度、行ってみなさい。私は小便をすると思いますが、しないと思う人は、小便をするか、しないか、行ってみなさい。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするけれど、すぐ元素に帰ります。宇宙の根本元素が107個だと言いますが、どんどん増えていますね。その元素に帰ります。
したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故郷へ帰るのです。それから愛の心で、「何々出てこい、何々出てこい、何々出てこい」と言えば、すーっと出てきます。愛の心で言えば、すべてのものが出動可能です。
(212-30, 1991.1.1)
あの世に、パン工場があるでしょうか、ないでしょうか。コーラとかジュースを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って、「私は、いい車を乗り回す」と言って、こうして乗りますか。ここではベンツに乗って、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれは、すべて必要ありません。
(207-94, 1990.11.1)


永遠に目を開け、永遠に聞き、永遠に食べないでいることができるのに、「今が良いからご飯を食べなさい」と言われて食べるでしょうか。「ご飯を食べなさい」と言えば食べますか。私は食べません。服を着るのも、私の思いどおりに服を着れるのです。「けさは、すべて黄金の服を着なさい。さあ、ダイヤモンドの何カラットをつけなさい。イギリスの王妃は517カラットを持っていましたが、それ以上の1万7000カラットのものをつけなさい」と言えば、さっと! そのようなものは、みんな持つことができます。あらゆるものをつくることができます。そのように見ると、レバレンド・ムーンは妄想家なのです。しかし、可能な理論圏内で話していることを皆さんは知らなければなりません。
(112-17, 1981.3.15)
霊界という所は愛の空気で満たされた所であるという概念を、私たちがこの地上における認識構造をもって、見いだすことができます。愛のハナニムが愛の心をもって、世界人類を一度にすべて食べさせて喜ばせたいと思われ、「ご飯よ出てきなさい」と言えば出てくるのです。霊界でも食べなければならないから、そうするのです。
ですから、愛の食物を食べるのです。お互いに見るのも愛の目で見て、すべてそのようにするというのです。みんなたたかれてけがをしても、またたたかれようとするのです。形容し難いほど不思議な所です。聞いても、もっと何度も聞きたいと思い、眠いとか、疲れたとか、何だとかいう観念はあり得ないのです。疲れる余裕があり、興奮する何かがなければならないでしょう。退屈で妨害する何かがなければならないでしょう。それがないのに、どうして疲れるでしょうか。
(112-17, 1981.3.15)
霊界では、衣食住は問題になりません。衣食住は、完全に自由自在です。愛の一体圏、ハナニムの相対圏に立てば、ハナニムができることもできます。何でもできるのです。何億万年の歳月も一瞬にして超越できます。愛の速度は、超スピードです。
愛する人がいる所に行って来る時、時間がかからないのです。すぐ行って来ることができます。ですから、愛の相対者に会うことは瞬間です。そこは絶対圏なので何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界なのです。そのような無限の世界が人間のために準備されているということを知っている人はいません。真の父母によってそのようなことを知るようになりました。
(259-56, 1994.3.27)
霊界に行けば、何を中心として生きているか知っていますか。霊界には工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界に自動車があるでしょうか、ないでしょうか。消耗品工場があるでしょうか、ないでしょうか。霊界でご飯を食べるでしょうか、食べないでしょうか。服を着るでしょうか、着ないでしょうか。このようなものは霊界にはありませんが、自分の人格構造がハナニムの対象的な価値基準をもてば、ハナニムができる能力を受け継ぐことができるのです。霊界では100万人が一瞬のうちにバンケット(宴会)を行うことができます。自分がまことの愛の心をもって、「彼らをこのように食べさせなければならない」という、ハナニムのように本当に愛する心がしっかりとできていれば、万事が不可能ではありません。


それゆえに愛の園で、愛の世界で泳ぎ、愛の世界で、そのすべての波長に拍子を合わせられる生活の訓練をした人は、ハナニムの心の中にも入っていけるのです。なぜですか。真の愛の波長は同じなので、相いれないことは起こらないのです。
(203-340, 1990.6.28)
霊界に行けば、食べることだけでも、「きょうはこのような食べ物で・・・」と思えば、願いどおりにすぐ現れ、愛する人に会いたければ、さっと一体化してこのように頼めば、すぐに現れるのです。そして、一瞬にして何万、何十万のバンケット・ルームを造ることもできるのです。これは虚構ではなく、理論自体がそのようになっています。そして、そこでは食べて残ったものは原形に戻ります。元の状態の元素に戻るのです。そのように便利な所です。
ですから、先生が行く所は、天宙すべてが慕って従っていこうとする、そのような所です。
(227-100, 1992.2.10)
創造理想世界では、天国が我が家です。そのように膨大な天国ですが、それが私の生活圏の舞台になっているのです。私の国ではありません。国には制度も多く、職種も多いでしょう。しかし、霊界はそうではありません。単純です。霊界に経済支援する工場があるでしょうか、ないでしょうか。服を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。ご飯を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。生活必需品やこの世で必要な物は、一つも必要ありません。ですから工場があるでしょうか、ないでしょうか。花だけ咲く理想的な社会だというのです。食べるものは、いつでも食べられるようになっています。自分の考えるものがぴたりと現れるのです。そこにはごみ箱があるでしょうか、ないでしょうか。ごみ箱がありません。手振りさえすれば元素に帰る世界です。
(204-174, 1990.7.8)
天の永遠の世界、あの世に行けば政治体制はあるのです。経済体制は、必要もないのです。いつでも自分が必要とする物は、すべて供給されるようになっています。経済的なことは副次的な問題です。霊界に行く時、ご飯茶わんを持って入っていくと思いますか。人から食べ物を恵んでもらって生活をしていくと思いますか。霊界では、食べたければすぐご飯が現れるというのです。それを食べ残しても、「ゼロに帰れ」と言えば帰るのです。ですから、すべて人格的な能力をもって活用できる対象にすぎないのであって、それが主体的な影響は何にも及ばないのです。
(167-61, 1987.6.14)
霊界がどんなに良いかは、言葉ではすべてを言い表せません。そこは、衣食住が心配ない所です。家もみんなあり、服もすべてあり、食べる物もすべてあって、自分が願うとおりにできます。愛の心情の価値内容に応じて、相対的な基準を自由に供給できるのです。愛を中心として完成した人格基準に応じて、その相対的な環境要件を自由に補給できるというのです。私が寝ていても朝御飯、夕御飯を食べられる場所に体が引っ張られていくというのです。霊界を見ればそうだというのです。そのように自由だというのです。寝ながらも、食べたり寝たりできる所に訪ねていくのです。体がそのようになっているというのです。
(248-163, 1993.8.1)


霊界に行けば、どのようになりますか。そこでは、食べることが心配ありません。稼ぎません。あの世に行けば、稼ぐ必要がありません。食べたい時は、いつでも食べることができます。実におもしろいことに、食べたあと、そのかすはどのようにするのでしょうか。「帰れ」と言えば元素に帰ります。根本の世界、元素に帰ってしまいます。そのようなことが可能な世界において、四方八方に起動し得る人とは、どのような人ですか。ハナニムの愛を中心として、酔いしれる生活をする人です。全知全能なハナニムの愛を中心とした理想が、あらゆる方面に実現される所が霊界なので、ハナニムの愛を中心として酔いしれて生きた人間が主導的な立場に立つのです。
(198-293, 1990.2.5)
霊界では元素を吸います。水であれば水の元素を飲みます。元素のようなものを知っていますか。そして、思う存分食べて、手振りさえすれば元素に帰ります。ごみ箱がありません。
(211-244, 1990.12.30)
霊界に行けば仕事が必要ですか。そこでも8時間仕事をしなければなりませんか。夜がありますか。夜がないのです。いつも目覚めているのです。いつもこのすべての器官が働いているのに、何をするのですか。どのようなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠に寝なくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想だけしっかりともっていれば、「おい、何々出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。ここに1万人が集まれば、「1万人分の食堂と食卓準備!」と言えば、すぐに準備できるのです。
(107-331, 1986.1.5)
霊界にも空気がなければならないでしょうか、あってはならないでしょうか。なぜ空気が必要ですか。呼吸をしないで暮らせば、どんなに良いですか。なぜですか。どうしてですか。呼吸をしないで生きれば、大きくなることができません。二つの世界を連結させることができません。二つの世界を連結させなければなりません。肉身と霊魂を連結させなければならないのです。霊人体も大きくなろうとするなら、体が大きくならなければなりません。固着してはなりません。それなら、どのようにしなければなりませんか。見えないものも、ハナニムが見えない愛の空気で呼吸するのと同じように、生命の源泉となる酸素の供給をするのです。
(197-42, 1990.1.7)
この目がぱちぱち瞬きするのは、この世の空気中にあるほこりが入るのではないかと、そのようにするのです。霊界にはほこりがありますか、ありませんか。霊界ではハナニムが目を千年、万年開けているとしたら、それは気分が良いですか。地上において、習慣性でぱちぱち瞬きしていたので、霊界にほこりがなくても瞬きしなければならないのです。なぜですか。私たちに似たからです。
(197-15, 1990.1.7)
霊界に行ってみたいですか、行ってみたくないですか。ムン総裁がうそをついているかもしれないでしょう。うそでもハナニムの言葉のように信じれば、ハナニムは創造の能力があるので、その人が願う以上のものをつくれる主体であることを知らなければなりません。悪魔が「おい、ハナニムがこのように言っていたぞ」と言うとき、悪魔が言う以上のことまで信じて行動すれば、ハナニムには創造して成し遂げてくださる道がいくらでもあるというのです。
(212-30, 1991.1.1)


 

⑥ 霊界の権力は愛の権力である

霊界に行ってみれば、お金が必要ありません。知識が必要ありません。私が行ってみるとそうです。権力が必要ありません。お金を創造して余りあり、ダイヤモンドの星をも創造できるハナニムです。絶対者です。知識の大王です。権力の大王です。それをいつも春夏秋冬、四季を超えて永遠に自由自在に行使できる方です。その方に何が必要でしょうか。
(196-311, 1990.1.12)
霊界に行けば天上世界に、無限なる世界に数百億の人類が生きています。そこに行けば会えない人がいないのです。皆さんは、歴史を学ぶ必要がありません。そこで、「誰々に会いたい」と言って誰かを呼び出す時、彼を愛する尺度があって呼んでこそ現れるのであって、私が欲をもって、その人が立派な博士だから、「知識を得るために私が会おう」と考えれば絶対に現れません。会えないのです。愛がなければならないのです。彼がそのように有名な人になるまでの過去に苦労した、その苦労の代価を認めて彼を愛する心で呼べば、東西、四方、誰でもみんな接することができます。
(233-140, 1992.8.1)
お金、お金はいくらでも作ることができるのです。知識、ハナニムは知識の王様です。権力、取るに足らない大韓民国の大統領? このような話をして失礼になるかもしれませんが、小さな国、ソ連の100分の1にしかならない国の大統領などは・・・。知識とお金と権力は、一生において追求する価値的なものの一部分にしかなりません。
教授の知識を千年、万年誇ることができるでしょうか。もって歩きながら誇りますか。一生にとどまるのです。それが自分とともにあるのは一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。偉そうにしている人を見ると、知識をもって偉そうにしているのであり、お金をもって偉そうにしているのではありませんか。権力をもって偉そうにしているのではありませんか。この世界ではそうかもしれませんが、ハナニムはそれを、何の価値もないと思うのです。霊界ではすべて無価値なのです。
(203-291, 1990.6.27)
人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。ハナニムを知らなければなりません。ハナニムは、人格的なハナニムでなければなりません。ハナニムが漠然としていてはいけないのです。私たち自身が具体的であり、知情意を備えた人格的な人ならば、その主体であられるハナニムも知情意を備えた人格的な神だというのです。そのように考えるのです。それでは、ハナニムがもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。情だというのです。愛だというのです。ハナニムも生きるにおいて、愛が最も必要なのです。


天国では知識だけもって生きるのではありません。皆さんが霊界を知らないのでそう思わないのであって、霊界に行って知るということは1週間以内ですべて終わります。心を鏡のように見ることができる世界、それが霊界です。霊界はいくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を1週間以内で凌駕りょうができる直感の世界です。心の光を通じて見るので、そこに関連している因縁の世界は、自動的に分かるのです。それは情の心情を通して見てこそ、私と相対的関係をもち、主体的関係をもつのであって、知識であるとか他の属性をもっては駄目だというのです。
(210-312, 1990.12.27)
知識とは何ですか。知識があることによって、知ることによってすべての環境的条件を所有することになります。知識の中で最高の知識である愛さえもてば、天下がすべて連結します。知っている人が支配するでしょう?「知ることは力なり」と言ったでしょう? 力のある人が支配するという論理です。ですから、愛をもった人は知識が必要ありません。あの世では、学ばなくてもすべて分かります。
(202-86, 1990.5.6)
宇宙が私の活動基地です。ところが、(皆さんは)あの世にない物質で首を絞め、お金、知識、権力で首を絞めているのですか。あの世には、そのようなものは一つもありません。それによって残るものが一つもないのです。皆さん、この世界ではお金、知識、権力が必要ですが、あの世ではそのようなものが必要ありません。今まで、 サタン世界の人がそれを願っていたのです。
(205-128, 1990.7.29)
霊界でお金が必要ですか。食べる物、知識、権力が必要ですか。それが必要ならば、願えば一瞬のうちに生じるのです。そこには食べ物の工場がありません。学校もありません。権力者もいません。ただハナニムが力の根源であられます。そこが私たちの永遠の故郷です。その安息の場が待っているのです。皆さんは、誰しも願おうと願うまいとその場に行くのです。私は、それをよく知っています。
(231-270, 1992.6.7)
あの世では、権力は必要ありません。霊界は愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。あの世は、そのような世界です。したがって、愛を中心とした感化力をもてない人は、愛でもって感化できる本然の世界に行けば、本質的に和合ができずに反発するのです。それは、地獄に行くのです。これは、深刻な問題です。
(230-28, 1992.4.15)
愛を嫌う人は手を挙げてみなさい。お金は、なければ稼げばよいのです。勉強は、今しなくても霊界に行ってすればよいのです。霊界では、東大を卒業するのに三日もかかりません。東大を卒業した基準を備えるのに三日もかかりません。心の中を見ながら本心を話そうとすれば、先に聞くことができるのです。それゆえに、そこでは隠すことができません。便利でしょう。最高の能力で分析できる力をもったコンピューターでも、ついていけないというのです。
(229-95, 1992.4.11)