八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 5-6

八大教材教本 天聖経(2012年版)p1424-1459

【天啓の御言】(5-6)

 


愛する心は、いつも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が百億あって、道端に出ていって全部分けてあげたとします。それでも心が安らかでないというのです。世界の人類をみな助けてあげられなかったので、お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。ハナニムの心は、推し量ることができないというのです。ハナニムの心がそうなのです。ですから自慢することができないというのです。いくら大きいことをやったとしても、心に尋ねると、「もっとやらなければ」と、このように答えるというのです。
(133-180, 1984.7.10)
自分の心を清めなければなりません。心を清めなければならないというのです。心が先生よりも良いのです。心は、永遠の私の主人です。
ですから、よこしまな心をもつなというのです。公理に属した、公的立場に立った心をもたなければなりません。
(133-178, 1984.7.10)
ある人をさっと見れば、その人がどんな人かということを、心は一遍で分かるのです。すぐにそれが分かるというのです。ですから、一番近い先生が自分の心です。ですから、その心を苦しめるなというのです。心を悲しませるなというのです。それは、先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることです。心が私の生涯の主人です。ですから、心を悲しませるのは、私の生涯の主人を悲しませることなのです。心が喜ぶ道を行かなければなりません。
(133-180, 1984.7.10)
心と楽しむ時間をもたなければなりません。世の中で見れば、寂しい立場のようですが、心と友達になる時間です。心と座り、瞑想めいそうでもしてみよというのです。深い祈りの境地に入るでしょう。人知れぬ、深い世界に入るのです。そのようなものが必要です。
(133-181, 1984.7.10)

 

② 心身一体を成してこそ完成人間

統一教会では、心身一体を主張しています。それを何によって一体化させるのかといえば、正にまことの愛を中心として一つにするというのです。観念と実在に対する問題も深く入ってみると、いろいろな背景があります。それを解明していけば、正にこの道が正当な道だということが分かるのです。それは、体恤たいじゅつしてみれば証明されるのです。
(227-12, 1992.2.10)
良心が正しい、行動が正しい、心身一体圏を成しているというとき、それは何を中心として言う言葉でしょうか。言葉だけではいけないのです。行動だけでもいけないのです。心身一体圏の決着点は、どこでしょうか。「まずは90度になれ。90度になるには、すべての世の中で、水平として中心になれる基準を立てよ。西洋に行っても東洋に行っても、連結できる標準的な人間になれ。それゆえ、歴史的に現在と未来を通して見ても、それは間違いないと言える基準になるべし」これが結論です。
(205-49, 1990.7.7)


人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体になるときに可能なのです。心身一体とは、良心と肉身が共鳴圏に立っていることをいいます。音叉おんさの周波数が同じとき、一方をぽんと打てば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心を打てば、肉身が響くのです。真の愛によって肉身をぽんと打てば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには、教育は必要ありません。その真ん中に入れば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。
(223-355, 1991.11.20)
統一教会の勇士は、どんなことがあっても心身一体圏を成さなければなりません。この生涯の間に、心身一体圏をどのように成すのでしょうか。それを成すことができない者が愛を考え、理想を考えるということは恥ずかしいことです。天運に反するのです。そのようなものを完成した自分自身を指向する、そこに新たな希望の道が連結されるのであって、ただそのままの基準においては、新たな希望の天国に連結される道が現れません。
(205-45, 1990.7.7)
心身一体をどのように成すのでしょうか。歴史を通じて心身が紛争しています。ハナニムがそのように創造されたとすれば、そのようなハナニムは、人間の敵です。自分がそのような立場にいることをはっきりと知って、ハナニムに、「ハナニム自体の心と体が人間のように争いますか」と尋ねたなら、ハナニムは、どう答えるでしょうか。そのようなことを考えてみた人がいますか。ハナニムも人間のように、良心と肉身が心身一体できずに闘っているのかと聞いてみれば、ハナニムは間違いなく、そうではないと答えられます。皆さんは、そのような境地に到達したことがないので知らないかもしれませんが、統一教会の教主としては、そのような境地をいつでも連結できる道があるので、間違いありません。ハナニムは、心身一体となっていらっしゃるのです。
(223-349, 1991.11.20)
宗教生活は、体を主管するものです。3年ないし5年以内に習慣性をつくるのです。そのようにならずに、不便な自分を発見するときには、心身一体をいくら願っても道がないのです。先生の第1目標は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」ということです。自分自身の統一圏を成せない人が、いくら世界を飛び回ったとしても、自分と関係をもつ道は絶対にないのです。
(222-340, 1991.11.7)


人間の体は、サタンの血統をもっています。皆さんの良心は、アダムとエバが長成期完成級に成長する時まであったハナニムの良心の基準にまで、成長しなければなりません。それは信念です。それと反対の愛の力により、この良心以上の力によって、サタンにだまされてしまいました。良心も肉身の方向に従わざるを得なかったのです。良心のほうに、もっと力を与えなければなりません。
ずっと多くの力を与えれば、肉身がいくら強くても、ついてこざるを得ないのです。そうでなく、良心が肉身より弱ければ、現在の状態よりもっと下に落ちることになるのです。この二つの道しかありません。
それで、断食とか水行をして、犠牲と奉仕をするのです。それ以外の道はありません。皆さん、そうですか。この道を歩んでいますか。死んでも犠牲と奉仕をしようと誓いますか。それで死ぬ覚悟をして反対の道を行かなければならないのです。宗教の行く道、それは克服の道です。心身が闘うそれ以上の克服の道なのです。その道を行かずしては、心身一体を成すことができないのです。
(222-333, 1991.11.7)
統一教会に入って長くなったからといって、罪を埋めておいてはいけません。それを清算しなければなりません。手続きを踏んで清算しなければならないのです。私の生涯のすべてのものを白紙化させて、そこから新たに復活してエデンの園で罪を犯さず、ハナニムが造られた心と体が完全に真の愛と一つになれる本然的な私だ、と自覚できる男性と女性にならなければなりません。分かりましたか。そうでなければ故郷へ行くことはできません。
皆さんは、故郷の家を訪ねていかなければなりません。そこには、ハナニムがいらっしゃるのです。ハナニムがいらっしゃり、本然的父母がいらっしゃり、本然の私たちの家があり、皇族圏生活を中心として万国を治め得る長子権国家の子孫たちが住むべき所なので、そこが新しい私の故郷の家です。自分が生まれたその故郷ではなく、新しい私の故郷の家、本然の家を訪ねていくにはどうしなければならないでしょうか。その故郷に入れる資格を備えなければなりません。そうするには、私自身が心身一体となり、統一圏を備えなければならないということを知らなければなりません。
(233-168, 1992.8.1)
いくら良くできなかったとしても、「ハナニム、私はこのように良くできませんでした」と、このように率直でありなさいというのです。そのように祈祷しなさいというのです。「本然の心がこうで、父の心がこうで、師の心がこうで、国の民の心がこのようになるべきではありませんか。このような心をハナニムの愛と連結させようと、忠孝を尽くす私の心は、変わらないでしょう。このような心を哀れに思い、きょうのこの心の前に、すべてのことを許してくださることはできませんか」と言えば、ハナニムが「うんうん」と言われるのです。祈祷する方法も知らなければなりません。分かりましたか。
(149-37, 1986.11.1)
ハナニムは、いったいどこにいらっしゃるのでしょうか。ハナニムが住まれる所は、いったいどこでしょうか。ハナニムは、最も価値のある愛に定着します。それならこれが男性と女性の二人だとすれば、ハナニムは、どこにいるのでしょうか。ハナニムは一体化し、変わらない、統一された愛の最も底に、垂直に住んでいらっしゃるのです。これが何かといえば、男性と女性が一つになった所、それが中心点になるのです。皆さんが神秘な祈祷の境地、霊的体験圏に入って、「ハナニム!」と言えば、おなかの中から、「どうして呼ぶのか。ここにいる、ここ!」と答えます。「ここ」というのは自分の心の中です。心身一体となった愛の中心点、垂直の場にいるのです。ハナニムの点を垂直と見れば、これをゼロ点というのです。
(224-148, 1991.11.24)


心身一体となれば、宇宙の力が保護してくれるのです。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟です。みな因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。それで、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成せば、そこでも通じるのです。どこでも通じるのです。サッカーをするとき、ポールが転がっていって止まったら、どうなりますか。その表面全体が合わさることができる所は、垂直線を通るのです。それで、球形体を理想的な存在だというのです。
表面のどんな箇所でも、その垂直線が安着できるのです。それで転がっていくのです。それで心身一体圏、90度の角度になれば、どこでもみな合うのです。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人も、どこでもみな合うのです。
(205-53, 1990.7.7)

 

③ 心が正に師であり、近いハナニム

心とは誰でしょうか。私の主人です。私の先生です。心は誰かというとき、心に似た体を生んだので、私の体の根源です。ですから平面的に、お母さん、お父さんの代わりです。心は、父母の代身であり、師の代身であり、その次は主人の代身です。
(222-157, 1991.11.3)
皆さんの心は、師が必要ありません。心は、第2のハナニムです。師についていかないで、統一教会の先生に侍らないで、皆さんの心に侍りなさい。心はどうですか。朝、早く起きて一人、ねずみの音も聞こえず、ハエの音も聞こえない静かな時に、「ああ、私は、こんなことをしなければ。良いことをしなければならない」と言えば、心が「うれしい! うれしい! 早くしろ!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心が分かるでしょうか、分からないでしょうか。分かるのです。そうだというのです。心は、よく知っているのです。
(138-124, 1986.1.19)
心の価値、私にとって心がどれほど貴いものかを考えてみたかというのです。心は、体が間違った所へ行こうとすれば、いつでも忠告し、「こうしてはいけない」と、みな制裁するのです。しかし体は、いつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手だというのです。迫害を受けながらでも死ぬ時まで、私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を全うすべく犠牲を払っていくのが、私たちの体についている心だ、ということを考えてみたかというのです。
(217-91, 1991.5.4)


人間の主人は、正に自分の良心です。この良心がどれほど皆さんのために忠告し、昼夜を分かたず悪い考えをすれば、「おい、こいつ!」と言って、疲れずに引っ張って峠を越え、川を渡ろうと、どんなに気をもんだことでしょうか。このように、心は、まことの主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切った体、一つしかない宇宙から貴い師として賜り受けた先生であるにもかかわらず、この先生を手荒にあしらった体、また私の本然の愛の心を引き継いでいけるように、父母の代わりに送ってくださった良心を容赦なく蹂躙じゅうりんしたこの体、このように心の怨讐おんしゅうとなったこの体を、皆さんは愛しますか。いいえ!
(201-353, 1990.4.30)
もう、私たちが誰かの言葉を聞く時は、過ぎ去りました。どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の心の声を聞き、聞いてもまた聞きたくて、その心を求めていくべきです。そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。それが創造の内容です。
(7-201, 1959.9.6)
良心が体のために、どれほど犠牲になったことでしょうか。一生の間、蹂躙される良心の事情を皆さんは知っていますか。昼も夜も、私を管理するのにくたびれているのが良心です。それでも疲れずに、体が悪い行動をしようとすれば、やめさせようとするのです。「そんなにやったのなら、もうやめなければならないのではないか。私の言うことを聞かなければならないのではないか」と、そう言うでしょう。自分に一番近い、父母の代わり、ハナニムの代わり、師の代わりの存在が良心です。心自体には、教育が必要ありません。しかし、体には、教育が絶対必要です。
(214-282, 1991.2.3)
皆さんの心と体を中心として見るとき、心がどれほどかわいそうですか。心は、ハナニムの代身です。心は、烈祖(注:功績のある先祖)、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は王を代表するのです。ところが、これまでこの心をどれほどさげすみ、手荒にあしらいましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場、真なる師の立場、真なる主人の立場にある、真の愛をもった主体としていらっしゃる方の代身であるその心が、この地上において私一人を収拾するために、どれほど犠牲になったことでしょう。(心は)そのように犠牲になりながらも不平を言いますか。(心は)ぞんざいに扱われ、引っ張り回されながら、死んだように見えても、(私が)悪い考えをいだいて夜中に泥棒どろぼうでもすれば、「おい、こいつめ!」と再び生き返って忠告するのです。
皆さんは、そのような心を、どれほどもてあそびましたか。心は父母の代身であり、心は師の代身であり、心は主人の代身です。心の世界には、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人が必要ないのです。
(209-154, 1990.11.28)


私自身に、偉大な師がいることを知りませんでした。心は、偉大なお母さん、お父さんの代身なのです。お母さん、お父さんが心に逆らって訓示するはずはありません。心がお母さん、お父さんのように訓戒するとき、服従できなければなりません。このようなすべての秩序的環境において、起源になり得る道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。心を虐待してはいけません。
皆さんは、二重人格が好きですか。心は、先生の代身、父母の代身、ハナニムの代身です。心を教えられる師は、いません。
(207-266, 1990.11.11)
すべての人間は、それぞれ自分の中に、最も貴い師を一生の間ずっともっているのです。にもかかわらず、その師を間違って待遇し、踏みにじり、濫用します。その師が、正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも、助けになるように言葉を語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、ハナニムのみこころに従って行動するように導いてくれます。
しかし、各自の心の中にはまた、良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が、まさしく肉体なのです。
(201-208, 1990.4.9)
「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」というのは、悟りの道を開拓したときの標語でした。「宇宙主管を願う前に、この世の万事と何らかの関係をもつ前に、自己主管を完成せよ」と言いました。
(201-154, 1990.3.30)
貴重な三大お客様です。主人になれる、師になれる、父母になれるこの方を、私の体が千年、万年仕えても不足だという自分自身を発見するときに、初めてここに天運が臨むのです。心は体のために生きようとするのですが、体は心のために生きません。これが問題です。問題は、私自身にあるのです。社会にあるのではありません。
(201-154, 1990.3.30)
このように心は、真なる主人の姿をもって私を保護しようとするのに、裏切ったこの体、宇宙から賜った一つしかない貴い師であるにもかかわらず、この先生を容赦なく手荒にあしらったこの体、また私の本然の愛の心を引き継げるように父母の代わりに送られた良心を容赦なく蹂躙したこの体です。このように心の怨讐となったこの体を、皆さんは、愛しますか。いいえ。心と体の闘いをやめさせる前には、天国はないのです。いかなる聖人も、このようなことを考えませんでした。
(201-154, 1990.3.30)
陰と陽、性相と形状というプラス・マイナスは、相対的であって、相反することができません。しかし今日、堕落した人間には心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。ハナニムに似て生まれるべき男性や女性の心と体が、どのように分かれたのかというのです。これが問題です。


ハナニムは絶対的な方なので、私たち人間においての標準相である心と体が絶対的に一つになり、ハナニムの全体世界に和合し、一つの中心的な役割をすべきなのにもかかわらず、私たちの心と体がどのように分かれたかというのです。心と体が分かれたのが、心のままになされたことなら、ハナニムはいないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を見いだすことができません。
(195-304, 1989.12.17)
ハナニムは、遠くにいらっしゃるのではありません。私の中にいらっしゃいます。心が皆さんの主人でしょう。夜に悪いことをしようとしても、現れて「行くな」と言い、いつでも現れて主人の役をし、どこででもお母さんのように、先生のように数えてくれるのです。ですから、この体というやつが怨讐です。
(201–74, 1990.3.1)
ハナニムは誰に似ていますか。男性、女性、私たちに似ています。皆さん、心は見えないでしょう。心を見たいですか、見たくありませんか。ハナニムも同じです。ハナニムが霊的な立場から見れば、ハナニムも体がありません。今まで体がありませんでした。アダム完成が成されなかったので、体が今までなかったというのです。心のような宇宙に、心のような主人、心のような師、あるいは管理者、心のような父母としているのです。
(197-44, 1990.1.7)
皆さん、心と体が一つにならなければ駄目なのです。そこに焦点を合わせなければなりません。祈祷するとき、心と体が呵責かしゃくを覚えるものがあれば、悔い改めなければなりません。悔い改めるときは一人ではいけません。東西南北を備えなければなりません。自分に一番近い人、父母に通告しなければなりません。師に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、自分の弟子に通告しなければなりません。「私に、これこれこのようなことがあるのだが、許してもらえるか」と言うのです。こうして、心を合わせて後援を受けられる、このような道を行かなければなりません。何のことか分かりますか。
(184-301, 1989.1.1)
心と体がいつ統一できるのか、それを考えなかったでしょう。これが深刻な問題です。一生の間、心と体が闘うのですが、この闘いをやめさせる者は誰でしょうか。これが問題です。私たちのお母さん、お父さんもやめさせられません。王もやめさせられません。師もやめさせられません。聖人もやめさせられません。この心と体の闘いをやめさせられる主人は、どこにいるのでしょうか。深刻に求めてみましたか。それが真の愛だというのです。
(184-211, 1989.1.1)
心は、皆さんの番人となって昼も夜も皆さんを守ってくれ、皆さんに休みなく、「善なることをしろ。善なることをしろ」と言うのです。ですから、どんなに疲れるでしょうか。生まれたその日から、意識的に考えることができ、社会環境において、すべての制度を分析できる知能的起源が生じるその日から、生涯ついて回るのです。自分の師もついていくことができず、お母さん、お父さんもついていってくれませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、永遠に良心は、私に対して命令するというのです。


ハナニムに似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい。そのように似ることを願うのですが、「体よ、お前は私に似なさい」と言うのです。
(179-311, 1988.8.14)
皆さんの心と体の統一も、真の愛でなければできません。ですから心は、体のために犠牲になりながらも忘れ、また忘れ、また忘れるのです。心は、ハナニムの代身としての立場なので、皆さんの師の中の師です。その心は、ハナニムがご自身の代わりに送ってくださった、私の中心です。縦的な私です。
(226-60, 1992.2.1)

 

5) 真の人間が行く道

 

① 人間が求めていくべき道

本性の心が行く道を行けば、宇宙が一つに広がります。そのような何かがなければなりません。そのような境地に入れば、自分の心と話をするようになるのです。そのような境地では、心と話をするのです。何かをしようと思えば、既に答えが出てくるのです。そのような境地まで進むのです。そのような境地にいる人が、自分の行く道が分からないでしょうか。もう行く道が確実で、宇宙におけるすべての作用の力が助けるのです。手を引っ張って試験場へ入れば、既に、すべてのものが協助するのです。そうしてこそ、大きいことができるのです。
(120-313, 1982.10.20)
偉大な力の背景をもって生きられる人間が、まことの人間です。真の人間には、そのように無限の力のバックグランド(背景)があって、自分が指向する方向に無限に後押ししてくれるのです。方向が狂えば、すぐに分かるというのです。皆さんが知っている統一教会は、いい加減な教会ではありません。深い背景、偉大な力のバックグランドをもっているのです。ですから皆さんが努力をしてこのような境地を連結して上がれば、すべてのものがみな解決されるのです。ですからそのような面で、皆さんが行く方向感覚を決定しなさいというのです。それは、自分がしなければなりません。自分が一番よく知っているのです。
(120-313, 1982.10.20)
自分が行く道を求めていかなければなりません。お金さえもてば、すべてでしょうか。そうではありません。お金が必要なときがあり、また人として自分が行くべき、他の道を行くべきときもあるのです。ですから、自分が行く道は、自分が決めなければなりません。自分自ら、自分の深い心の底から本来、自分がもって生まれた本質と共に和合して、未来の目的を指向できる、天があれば天がその方向を提示するようにして、自ら解決するようにしなければなりません。
(120-298, 1982.10.20)


磁石は地球の引力を凌駕りょうがした作用として現れるようになっていますが、そのような作用は、何によって可能なのでしょうか。それ自体は、地球の重力以下の作用ですが、(主体と対象の関係において)その作用を越えるというのです。ですから、私たちの良心も同じです。生まれたなら、既に、自分が生まれた背景がさっと分かるのです。これは、自分が判定しなければなりません。そのようなものを感覚、判定できなければ、皆さんは将来、大きいことができないというのです。
(120-301, 1982.10.20)
私たちが自然を見て、「ああ、私には四季が必要ない。私は、春だけ必要であって、夏や秋や冬は嫌だ」と言うかもしれませんが、ハナニムに尋ねてみると、「私は、四季がみな好きだ」と答えられるというのです。ですから、嫌いでも夏を好むことを習わなければならないし、秋と冬を好むことを習わなければならないというのです。雪が降る冬になれば、ハナニムは白い雪が世界的に積もるのを見るとき、喜ばれるのです。「ああ、私もいい」と言うのです。そうでなければなりません。
(133-29, 1984.7.1)
ハナニムのような心で、自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起こり、雷が鳴ったりするときは、「ああ、あれが私は嫌だ」と言うなというのです。ハナニムは、「ほほ、あれはキスして結婚するのだな」と、このように考えられるというのです。そして「嫌いだ」と言う人たちに、「はははは、おいこいつ! ならず者たちよ!」と言われるのです。
(133-29, 1984.7.1)
人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をみな愛さなければなりません。「ああ、私は、白人だけ好きだ」と、ハナニムがそう言われるでしょうか。それなら、みんな白い服だけを着なければなりません。白人たちは、みんな白い服だけを着なければなりません。色のある服は、全部捨てなければなりません。黒い服を、なぜ着ますか。色のある服を、なぜ着ますか。それは矛盾です。部屋に入れば、色とりどりのものがみなあるのに、ピアノなどもみな真っ黒ですが、どうして置いてあるのですか。黒板のようなものも、どうしてもってきたのですか。その人たちには、夜もあってはなりません。真っ黒な夜もあってはなりません。どうしてそうですか。白人中心ですか。白人中心が何ですか。それは、滅びる道です。それが何年も続くと思いますか。どれほど続くと思いますか。冬がいくら長くても、3ヵ月しか続きません。永遠のもののために皆さんは、四季をみな愛さなければなりません。ですから白人だけ好んではいけないのです。
(133-29, 1984.7.1)
ハナニムの愛は、ハナニムのすべてを愛し、人類を愛するだけでなく、過ぎ去った過去、現在、未来の人類を愛してあげる愛です。ですから、地獄へ行った霊人たちまでも解放してあげる運動をするハナニムだ、ということを知らなければなりません。人は、真理の道を行かなければならず、命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら偉大だとしても、「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものがついてこないのです。このように生きる人は、自然に主体になります。真の命の人になるのです。
(133-30, 1984.7.1)


皆さん自身が、自分がどんな道を行くべきかを知って、行かなければなりません。方向をすっぱり決めたなら、それを中心としてありったけの精力を、みな投入するのです。疲れて目を開けることができないほど、耳が聞けないほどに、すべてを投入しなければなりません。
(120-315, 1982.10.20)
統一教会で正常な信仰生活をすれば、自分が何をすべきか、すぐに分かるようになっているのです。しかし、自分を中心として生き、自己の考えを中心として行動する人には、分からないのです。船にいるねずみも、波打てば船が破損することを知り、すぐに縄をつたって、船が出る前に、みな港の荷下ろし場へ出ていくのです。それなのに、人間にそれが分からないはずがないというのです。自分が行く道を知らなければならないというのです。
ありも、梅雨になることがみな分かるではないですか。ありが行列をつくって引っ越しするのを見ましたが、ありたちはみな分かっていたのです。意味のない空想でもしているので分からないのでしょう。自分が自分の分野を知らないという事実は、深刻なことです。重要な一生の問題を、天と共に深刻に話し合うべきです。そして、自分自ら環境的与件に適応しなければなりません。それを、誰がしなければなりませんか。それは、いずれにせよ自分がしなければならないのです。
(120-298, 1982.10.20)
人は、冷静になれば、心の深いところに心が落ち着く場があるのです。心が眠れる場があるのです。そこまで私の心が入らなければなりません。そこで寝て、目覚めるときには鋭敏だというのです。そのとき、雑多な考えをせずに、精神を集中すれば、すべてに通じます。ですから修養が、祈祷が必要です。
(120-306, 1982.10.20)
先生も祈祷するのです。精誠を尽くすのです。いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は、一度だけ尽くせばいいというものではありません。刀は常にがなければなりません。刀を一度使って、研がなければどうなりますか。いつも研がなければなりません。一度、げきして怒ったならば、常に研ぎましておかなければなりません。それが問題です。静かに、心の位置を定めておかなければならないのです。
(120-306, 1982.10.20)
心情の世界の中央に行けば、下がったり上がったり運動するのです。自動的に運動するのです。これが息をするということです。地球も息をしていることを知っていますか。地球も1メートル近く息をするのです。こうしながら調整しているのです。円形に曲がったところを調整するのです。ですから心情の世界も、中央はすべて軸を中心として上がったり下がったりするのです。運動するのです。
(120-306, 1982.10.20)
すべての存在物は、球形で形成されています。ですから、心の、心情の中心、真ん中に入ってみよというのです。そこで、無限の力が伝わるのです。それで90度の角度さえつくれば、無限の力を90度で保つことができます。それで修養の道を行かなければなりません。精誠を尽くしてこの世のすべての面で、深い心霊世界を体験しなさいというのです。一生の間生きていくのに、推進力を無限に供給してくれる一つの源泉が必要なので、そのようなことをするのです。
(120-308, 1982.10.20)


先生も、先生自身が今もっている力より、もっと大きい世界的な仕事をするときは、深刻だというのです。もっと大きい力が必要なときは、それを、どこからもってくるのかということが問題になります。もってこれないときは、それをどこから補うのかが問題になります。もってこれないときは後退しなければならないのですが、そうすることはできません。ですから祈祷が必要であり、ハナニムが必要なのです。心情の世界が、それで必要なのです。愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがないのです。物質の世界も終わり、知識の世界も終わり、権力の世界もすべてが崩壊し得るのですが、心情の世界は無限なのです。ですから、心情の世界を中心として動かさなければなりません。
(120-306, 1982.10.20)
ハナニムは、独裁者ではありません。ハナニムも、人間のために投入しました。ハナニムが人間の前にいるのは、「ため」に存在するのです。ですから、千年、万年ハナニムについていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙の存在世界で、自分自らの存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることにより、東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。ハナニムは、昔も今も、東洋にも西洋にもみな同じ愛をもっているので、東洋、西洋を克服でき、過去、現在、未来を克服できるのです。それはどういうことかといえば、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展できるし、東洋、西洋を克服するので、東洋、西洋を統一できるというのです。これは愛でのみ可能なのです。
(187-89, 1989.1.6)
自己主張するときは、自己破壊、相対破壊、ハナニム破壊、完全に分離されるのです。そこでは、統一的理論を発掘できないことを知らなければなりません。簡単な言葉ですが、重要な言葉です。私たちが理想を求めていく最後には、究極にはハナニムの愛と縦的な統一を要求しますが、その縦的基準が早く来いと催促するためには、互いに「ため」に生きなければなりません。「ため」に生きるところから、完全に統一圏が広がるのです。
(187-89, 1989.1.6)
どのように統一されるのでしょうか。先生がどのように統一するのでしょうか。何によってですか。こぶしによって、力によって、お金によって、権力によって、知識によってですか。愛を中心とした、「ため」に生きる立場で、万事が解決するのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として「ため」に生きていくところに、悪魔の世界が天の国へ再創造されていくという結論です。それは理論的です。
(182-134, 1988.10.16)

 

② 真の人間の行く道

自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。これを知るべきです。全体のために行くところには、すべてのものが門を開くのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、宗族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天の国も門を開き、愛の道や、すべての道が門を開いて歓迎するというのです。そのような道とは何でしょうか。これを私たちは、考えなければなりません。それで統一教会は、このような観点で、「ため」に行く道を選べ、「ため」に生きよと、「ため」に生まれたという天理を教えるのです。
(133-16, 1984.7.1)


まことの人生が行く道とは何でしょうか。一つの公理として立てるべきことは、「ため」に生きよということです。これは、どこでも通じる原則ですから、万古不易ばんこふえき(注:永遠に変わらないこと)です。過去、現在、未来がないので「ため」に生きよというのです。ここに孔子やイエス様やお釈迦しゃか様やムハンマドマホメット)のような、すべての聖者といわれる人の前にハナニムが現れ、「あなた方は、どう思うか」と言えば、「そのとおりです」と言うでしょうか。「それは違います」と言うでしょうか。「正しい」と言います。それが宇宙の法則です。それが、人間が人生において真の姿で生きられる一つの法だということを知るべきです。このような真の道があるのです。
(133-16, 1984.7.1)
世界的な人物になるためには、どうしなければならないでしょうか。人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては、国を越えることができません。国を越えるそのような内容は、天にあるのです。天宙思想をもたずしては、国を超越できないのです。
(30-260, 1970.1.8)
ですから聖人たちが何を紹介したのかといえば、人間だけを紹介したのではなく、ハナニムを紹介しました。聖人のレベルに同参した人々を見れば、ハナニムを崇拝しましたか、しませんでしたか。ハナニムを抜きにして聖人になった人がいますか。
(39-316, 1971.1.16)
また聖人たちは、人倫の道理だけ教えたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えたのです。
(33-291, 1970.8.21)
家庭で父母に尽くし、愛する人は、孝子です。国のために生き、愛する人は、愛国者です。世界を愛する人は、聖人です。それでは、先生が教えるものとは何ですか。ハナニムと世界と宇宙を愛する聖子せいしになれというのです。皆さんは、どのような者になりますか。聖子になりますか、孝子、孝女になりますか。そうなるには、ハナニムのような愛を心にもたなければなりません。
(129-99, 1983.10.1)
ハナニムは、短い生涯を生きて死んでいく人間の前に、一番良い標語、一番良い課題を賦与せざるを得ないので、その課題を「誰よりもハナニムを愛しなさい」という標語として掲げたというのです。それによって、誰もなることのできないハナニムの息子になれるのです。
ハナニムの息子になる日には、聖人完成はもちろん、忠臣完成ももちろん、孝子完成ももちろん、すべてのものが完成だというのです。このようになれば、家庭でも勝利した立場に立つのであり、国家的基盤においても勝利した者となるのであり、世界的基盤においても勝利した者となるのです。
(100-157, 1978.10.9)


統一教会は、何をしようというのでしょうか。偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐おんしゅうがいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それゆえ偉人がハナニムの前に出ていくとき、「お前は、お前の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は、ハナニムの前に直行できるのです。統一教会は、何をしようというのですか。偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか。
(38-263, 1971.1.8)
宇宙を造ったハナニムとは、宇宙の法度を立てたハナニムとはどんな方でしょうか。全宇宙を通じて、誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方がハナニムだというのです。ですから、その方に出会うには「ため」に生きなければならないのです。その方は、知識の大王であられながら、「知識をもってハナニムの前に来い」とは言われません。能力の大王ですが、「能力をもってこい」とは言われません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもってこい」とは言われないのです。「ため」に生きてくれば、すべてがついてくるというのです。
(133-16, 1984.7.1)

 

③ 「ため」に生きる法度を立てた理由

私たちが考える、愛とか理想とか幸福とか平和という言葉は、一人では成立しません。これは、相対的な関係で成立する言葉なので、いくら絶対者、ハナニムがいらっしゃるとしても、そのハナニムが願う理想と幸福と平和は、一人で成すことはできないのです。ハナニムの理想を成就させることができ、ハナニムの愛を成就させることができ、ハナニムの幸福と平和を完結させられる対象が人間だ、という事実を私たちは考えることができなかったのです。ハナニム独りで愛すれば何をし、ハナニム独りで理想をもって何をしますか。相対的な人間を通じずには、このような要件を成就させられないというのは、当然の結論です。
(75-315, 1975.1.16)
知恵の王であられ、全体の中心であられるハナニムが、まことなる愛や、真なる理想や、真なる幸福や、真なる平和の起源を主体と対象、この両者間のどこにおくのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がいらっしゃる反面、対象がありますが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこにおくのかということが、創造主であられるハナニムとして、問題とならざるを得ません。
それで真なる理想、真なる愛、真なる平和を成すにおいて、主体を中心として対象が主体のために生きるところに理想的起源をおくのか、対象を中心として主体が対象のために生きるところに理想的起源をおくのか、という問題をハナニムは考えられました。その理想的起源を、対象は主体のために生きよという立場に立てるならば、ハナニムがそのようになると同時に、すべての人も、自分がある対象をもち得る立場に立つならば、そのようになるでしょう。そうなれば、一つになる道がふさがってしまいます。これを知るべきです。
(75-318, 1975.1.16)


一つになることができ、平和の起源になる道は、どこにあるのでしょうか。ハナニムご自身だけでなく、真の人間も「ため」に生きる存在だ、という原則を立てざるを得なかったのです。
ですから真の愛は、「ため」に尽くすところから、真の理想も「ため」に尽くすところから、真の平和、真の幸福も「ため」に尽く立場で成り立つのであって、「ため」に生きる立場を離れては見いだすことができません。これが天地創造の根本だということを、私たち人間は知りませんでした。
(75-318, 1975.1.16)
男性と女性が生まれたのは、どうしてでしょうか。男性は男性のために生れたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生れたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれるのに、自分のために生まれたのではありません。自分のために生まれなかったのに、自分を主張するのです。「私、私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界が展開するというのです。
(61-266, 1972.9.1)
自分の価値を自分から追求するよりも、相対から、すなわち相対的基準からその価値を追求する道を探求する人は、不幸な人ではありません。いつでもどこでも、心情の土台は相対圏をもっているので、どこに行き来しても、彼は寂しくなく、幸福であり得るのです。
(59-200, 1972.7.16)
ハナニムは、なぜ「ため」に存在する原則を立てざるを得なかったのでしょうか。まず皆さんに尋ねますが、もし皆さんのために誰かが心から命を尽くし、犠牲になりながら100パーセント恩賜を施した人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩に報いるのに、50パーセントはポケットに入れて、50パーセントだけ報いたいですか。それとも、ありったけの恩返しをしたいですか。私たちの本心が、どのように作用しますか。誰でも、より多く報いたいのが本心です。
与えるままに、心から愛する中でくれたことを知れば、100パーセント以上を返そうとするのです。100パーセントが110パーセントになって返ってくるし、その110パーセント返ってきたのは、また向こうが心からくれたので、120パーセントを返すようになるのです。このようにすることによって、ここで永遠という概念が設定されるというのです。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ないし、それだけでなく、ここから発展と繁栄が生じるのです。
(73-326, 1974.8.10)
理想と愛は、人間にとって生命よりも貴いものなのにもかかわらず、今日、人間たちは、このようなものが自分のものとして、自分に現れると思っていること、これが大きな誤解だというのです。愛と理想は、どこから来るのでしょうか。対象から来ます。対象から来るので、「ため」に生きる法度を立てざるを得ないのです。知恵の王であられるハナニムは、このようなすべての結果を御存じなので、そのような法度を立てざるを得ないということを知るべきです。
(73-326, 1974.8.10)


永遠という概念、これは自分の「ため」に生きるところでは不可能なものです。皆さんが運動するのを見ても、押してくれ、引っ張ってくれる相対的方向が、大きければ大きいほど早く回るのです。知恵の王であるハナニムが「ため」に存在する法度を立てたのは、永遠であり得るために立てられたということを知るべきです。
(75-322, 1975.1.16)
私たちの中で、「人に主管されるのは死んでもできない」と考える人たちが多いと思います。さらに、識者層にいる高名な方の中に、このようなことを多く見ます。しかし、一つ知るべきことは、今までの人間たちが、「ため」に存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸せかという事実を夢にも考えられませんでした。霊界の組織を見れば、天地の大主宰であられるハナニム、そのハナニムは、宇宙万有の存在の中で、「ため」に存在する中心存在なので、その方に支配されるのがどんなに幸せなことか知れません。千年、万年、支配されても、感謝できる理想的統一圏がここに成立することを知っているので、ハナニムは、「ため」に存在せよという原則を立てざるを得ませんでした。
(75-322, 1975.1.16)
愛は、私から始まったのではありません。生命よりも貴い愛と理想を見つけるには、対象がいなければできません。私たちは、これを考えつきませんでした。この高貴な愛と理想を受け得る、それを見いだし得る存在が対象です。ですから、私たちが謙遜けんそんにその高貴な愛と理想を受け入れようとすると、最も「ため」に生きる立場でなければならないので、ハナニムは「ため」に存在せよという原則を立てざるを得なかった、ということを私たちは覚えておくべきです。
(75-322, 1975.1.16)
愛は、一人では成されません。愛は、どこから出てきますか。私から出てくるのではなく、対象から来るのです。対象から出てくるので、私が頭を下げて、対象のために生きなければならないのです。「ために生きよ」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてくるのですが、それを受けようとするので、高め、「ため」に生きるべきだというのです。「ために生きる哲学」を成してこそ、愛されるのです。
(143-277, 1986.3.20)
真の愛は、与えても忘れ、また与えようとする愛です。偽りの愛は、与えても付け加えて商売する愛であり、与えたのでお前は、それ以上返しなさいという愛です。これは、サタンの愛です。
(138-172, 1986.1.21)
私たちの本郷は、ハナニムの「ため」に存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、「ため」に生きて、「ため」に死んでいった人たちが入る所です。これが、私たちの本郷の理想的構造なので、ハナニムは本郷を訪ねてこさせるために、歴史過程で数多くの宗教を立てて、訓練させてきたのです。


これまでの宗教が温柔謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうなので、霊界に帰るべき人間たちを地上生活の過程で、その霊界に合うように訓練させざるを得なかったからです。ですから高次元的な宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するようになったのは、普段の生活を通じて、その世界に一致させようとするところに、その原因があるのです。
(75-320, 1975.1.16)
しばしばこの世で、「ああ! 人生とは何なのか」と言いますが、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観に対する確立、ひいては神観かみかん の確立が問題となるのです。これを、どのように確立するのでしょうか。系統的段階と秩序をどこにおき、その次元的系列をどのように連結させるかという問題は、最も深刻なものです。
しかし、「ため」に存在するというこの原則に立脚して見るとき、最も価値ある人生観は、私が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという立場から、幸福な自我を発見し得るならば、これ以上の人生観はないと見るのです。
(75-324, 1975.1.16)


 

第2章 家庭観

   

1) 理想的な家庭とはどのような家庭か

 

① なぜ家庭が良いのか

家庭とは、ハナニムの理想が顕現し得る起点であり、人類の幸福が顕現する起点なのです。人間におけるすべてのことが果たされる場であり、ハナニムにおいても、すべてが完成する場なのです。なぜ、家庭が良いのでしょうか。それは、父母の愛を中心とした自由な活動の基地となるためです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-934)
ハナニムを中心とした永遠の父母の愛、永遠の夫婦の愛、永遠の子女の愛、この三つの愛があるのが理想的家庭です。
(90-201, 1977.1.1)
人は、必ず家庭をもたなければなりません。家庭を中心に見れば、家庭には父母がいて、子供がいて、物質があります。旧約時代、新約時代、成約時代における縦的な歴史のすべてを、代わりに横的に展開できる実体とは何でしょうか。万物と子女と父母です。すなわち、父母と子女と、その所有物です。これらが、家庭という一つの囲いの中で必要とされるものです。
(29-157, 1970.2.27)
統一教会の理想は、どこか別の所にあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。いまだ、この問題を解決した者がいないので、それを願ってきました。そして、そこに幸福があるがゆえに、これを体系化し、天宙化して無限の価値を現したので、「統一主義」が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う者がなく、皆が頭を下げて好むようになれば、世界は、自動的に統一されるのです。
(26-103, 1969.10.18)
聖書66巻はすべて、理想的な家庭を願ったみことばです。また、男性が願うこととは何でしょうか。理想的な妻を迎えることです。「そうではない」と言う男性がいるとすれば、それは人ではありません。また、女性として生まれた者の一番の願いは、理想的な夫に出会うことです。女性は、たとえ博士になって世界に向かって大きなことを言ったとしても、その願いは、理想的な男性に出会うことです。愛し得る理想的な男性に出会って、福々しい息子、娘を生むことです。これが幸福の恨本です。このように統一教会の教理を家庭に組み込んであるので、これを取り除く者はいないのです。
(26-103, 1969.10.18)


天国は、どこから成されるのでしょうか。私たちの家庭からできるのです。では、私たちの主義は、何主義でしょうか。家庭主義です。私たちの標榜ひょうぼうする天宙主義とは、「天」という字に、家を意味する「宙」という字、すなわち天の家主義ということです。このように見れば、天宙主義という意味がはっきりするのです。
(26-103, 1969.10.18)
家庭とは、小さな社会に立脚した小さな国家です。「小さな国家であり、小さな世界であり、小さな天宙だ」と言うことができます。ですから、家庭を離れては何もできません。このような家庭というものを教えてくれるので、統一教会は偉大だというのです。
(24-230, 1969.8.17)
家庭は、万古不易ばんこふえき(いつまでも変わらないこと)の起源であり、礎です。それは父親にも直すことはできず、兄弟にも直すことはできず、どの国のいかなる制度によっても直すことはできません。また、世界的にも直すことはできず、天と地も、ハナニムにも直すことはできません。ですから、家庭というものには、「革命」という名詞が永遠に必要ないのです。
(25-87, 1969.9.30)
人の一生の中で、最も重要な時とはいつかというと、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは、生まれる時は、どのように生まれるべきでしょうか。正しく生まれなければなりません。私たち統一教会でいう、「心情の因縁」を中心として生まれなければなりません。次は、結婚する時です。結婚というのは、生きるためにするものです。すなわち、四位よんい基台をつくるためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立てて初めて、ハナニムのみ旨が果たされ、人間の志が果たされるのです。そのように、宇宙の法度が志向する内容を備え、その形態を整えるところが家庭です。
(24-230, 1969.8.17)
世界は、家庭に倣ってできました。どんな世界もみなそうです。今後、理想世界は三位基台、家庭の三位基台を中心として成されなければなりません。それでは創造目的とは何でしょうか。四位基台を完成することです。人間がまず四位基台を完成しなければならないので、誰もがみな、家庭を築くのです。
人間はハナニムに似ていて、人間を中心とした社会は、ハナニムを中心として人間に似ているのです。統一教会の先生は、今、世界に統一教会を立てて、そうなるようにしています。世界が、すべてそうなるべきだと知っていながらも、それが表に現れてはいません。しかしながら、そのような原則を通して、世界は、そうなっていくのです。理想世界というものは、全世界が一人の人の形を形成する世界です。そこにおいては、国家と民族を超越するのです。
(26-190, 1969.10.25)
家庭というのは、世界を縮小した横的な基盤です。ここから国家と世界が始まるのです。家庭とは何でしょうか。家庭とは、世界の横的な縮小体であり、絶対的な中心の前に相対的な基準です。では、私というのは何でしょうか。絶対的な中心が、とどまれる足場です。
(26-258, 1969.11.9)


この世界を審判できる絶対的権限をもつものは、個体ではありません。まことなる家庭です。サタンも、何を打ってくるのでしょうか。家庭を打ちます。それゆえ、家庭をもって一つとなれなければ破綻はたんするのです。親子の間に、夫婦の間に、家庭全体に破綻をもたらすのです。そして、家庭をもったのに、その家庭が破綻したならば、その人の傷は、永遠にいやされないのです。その人をいくら慰めたとしても、どうにもならないのです。
(30-85, 1970.3.17)
私たちは、ハナニムの願う家庭を中心とした父母、夫婦、兄弟とならなければなりません。
(24-306, 1969.9.7)
なぜ、家庭が良いのでしょうか。家庭には、お互いに、自由に愛を授け受けできる基台があるからです。それゆえ、人は故郷を慕わしく思い、父母、兄弟のいる所を慕わしく思うのです。
(38–328, 1971.1.8)
父親が喜べば、家庭全体が喜ぶのであり、妻が喜べば、家庭全体が喜ぶのであり、子供が喜んでも家庭全体が喜ぶのです。一時に宇宙全体が喜べる場が、家庭というところなのです。
(30-85, 1970.3.17)
心と体を収拾して完全な個人となり、夫婦が一つとなって完全な家庭を築かなければなりません。
(30-246, 1970.3.24)
お母さんとお父さんが一つとなれば、その家庭は発展し、子供と親が一つとなれば、より次元の高い家庭へと発展することを知らなければなりません。それでは、家庭と親戚しんせきの間で一つとなればどうなるでしょうか。そこには、新しい民族正気せいきがわき起こることでしょう。それがより高い次元に向かっていこうとするならば、すべて環境的に結束し、国家基準にまで忠臣の血族として残り得ることを忘れてはなりません。
(74-313, 1975.1.1)
天国の家庭は、無理強いしてできるのではなく、喜びの中で自動的にできるのです。愛するときも、受けようとばかりするのではなく、互いに授け受ける作用をしてこそ、理想的な愛が成立するのです。
(66-123, 1973.4.18)
幸福な家庭とは、夫が帰ってくれば、外であったことを妻と話し合い、新しく開拓し得る要因を発見する家庭です。互いに力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭だというのです。父母がそうなれば、子供たちもそこに加担して、「自分たちも、そのような家庭を築こう」と同調するようになるのです。
(29-113, 1970.2.25)
真の家庭とは、妻を母親のように思って愛し、「ため」に生き、夫を父親のように思って愛し、「ため」に生き、妹と兄のようにお互いに愛し合う所です。さらには、自分の妻をハナニムのように愛し、自分の夫をハナニムのように愛し尊敬する世界が、理想家庭の暮らす天国です。そのような伝統が、この地球上に立てられなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-920)


母親と父親は、愛なしには一つになることさえできないのです。皆さんは、なぜ愛が好きなのでしょうか。好まずとも、好まざるを得ないようになっているからです。両親が互いに愛し合う力が、自分のことを思う力よりも強ければ強いほど、理想的なのです。お母さんとお父さんを完全に一つに結びつけるものは、愛の綱です。鉄でできた綱は、時間がたてばさびついて切れてしまいますが、愛の綱は永遠です。また、親と子の間は、食べ物によっても、お金によっても結びつけることはできません。唯一、親子の関係は、愛でのみ結びつけることができます。
(18-329, 1967.8.13)
革命の要素を加えることのできない、そのような礎の上にできた家庭は、いかなる主義や思想にも吸収されることはありません。むしろ主義や思想を支配し、凌駕りょうがします。そのような基準が立てられた家庭は、10年、100年、1000年たっても永遠に変わることはなく、民族と国家の形態が維持されるのです。
(25-87, 1969.9.30)
愛のふろしきとは、どんなふろしきでしょうか。本郷の国へ行って、そのふろしきを開いてみると、理想的な夫が飛び出してくるし、理想的な妻が飛び出してきます。
また、理想的な家庭が飛び出してくる福袋です。ここから出てくるものは、1等復帰です。ですから、個人も1等、家庭も1等、宗族も1等、民族も1等、国家も1等、世界も1等なのです。すべてが1等ならば、高い低いということはありません。ですから、兄弟も、家庭も復帰されるのです。このように統一的基盤を造成していくために、宝のつぼである愛のふろしきが必要なのです。
(19-295, 1968.3.10)

 

② 家庭において社会愛、民族愛、人類愛が芽生える

ハナニムを中心として一つとなるとき、千態万状の様相で回るようになるのです。それゆえ、兄弟の間で愛するときも、親が子を愛するのに倣って、兄が弟を愛さなければなりません。そのように愛して一元化した家庭には、家庭愛の花が咲きます。そして、これが社会愛にもなります。そしてさらには、これが民族を愛する民族愛となります。このように愛すれば、世界愛になるのです。ところが、今日それが漠然としているのです。
(28-170, 1970.1.11)
子女の間の愛とは、どのようなものであるべきでしょうか。何を基準として愛さなければならないのでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟も愛さなければなりません。愛は、誰から学ぶかというと、両親から学ぶものなのです。
(66-120, 1973.4.18)
理想的な愛は、家庭から生まれます。しかし、ハナニムは、まことの息子、娘をもつことができませんでした。真の兄弟をもつことができず、夫婦をもつことができず、また、父母となることができませんでした。それゆえ、それを成そうというのがハナニムのみ旨なのです。そのようなところであってこそ、愛がとどまるのです。そのような愛のある所には、人々がこの世のすべてを捨てて、やって来るのです。
(19-314, 1968.3.17)


真の愛とは何でしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。愛は、互いに犠牲となる伝統が備わっていなければ、長く続くことなく壊れてしまうものです。父母は子供のために犠牲となるので、父母が子を愛する因縁は壊れることがないのです。
そうして、真正なる父母の愛を受けて育った息子、娘であるならば、絶対に自分の父母に親不孝をすることはできないのです。また、夫は妻に、妻は夫に対して、「あなたは私のために生きた」という立場で、よりお互いのことを思い、より犠牲となる立場が広がれば、その家庭は恵みを受けるのです。そのような家庭が、ハナニムの訪ねてこられる福地なのです。
(43-323, 1971.5.2)
一つの家庭を中心として、最も良いものとは何かというと、皆さんの子女に結晶するものではありません。それでは、家庭における最高の価値とは何でしょうか。父母です。一人の個人を考えてみても、皆さんにとって権力や知識、あるいは名誉やお金も貴いものかもしれませんが、そのどれにも勝って良いものは、「父母」以外にはないのです。その次には、皆さんの妻や夫が良く、皆さんの子女が良いことでしょう。
実際、皆さんの家庭において皆さんの父母や妻、そして子女よりも大切で価値あるものがあるでしょうか。ないのです。それでは、なぜ父母が良いのでしょうか。そしてまた、夫と妻、子女がどうして良いのでしょうか。「愛」があるからです。
父母の愛、これは子供にとって絶対的に必要です。夫婦の愛、これは、夫と妻にとって絶対的に必要なものです。そして、兄弟の間の友愛や、子女が父母に対してもつ孝誠の心も、一つの家庭に絶対的に必要なものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-915)
皆さん、誰が、家で一番良いですか。お父さん、お母さんですね。なぜ父母が一番良いのでしょうか。愛を中心として一生の間関係を結べる、最も近い立場にあるからです。その次は、愛する夫と妻でしょう。その夫と妻の、ある条件的な愛ではなく、無条件の愛です。その愛が、絶対的に天によって与えられた永遠の愛と密接に関係した愛ではなかったとしても、夫婦間の相対的な関係において結ばれる愛であるとすれば、その家庭に幸福と和睦わぼくをもたらす最も良いものではないかと考えられます。
その次は、父母に対する子女の愛、父母を思いやる子女の愛です。絶望ではなく、あすの希望として芽を出せる理想的な環境を慕いつつ、明るく肯定的な姿勢で子が親のために犠牲となり、愛することができるとすれば、その子女の愛は、その子の幸福のための、純粋で真実な価値をもつ愛となることでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-914)


このように、父母の真の愛と夫婦の真の愛、そして子女の真の愛を完璧かんぺきに具備した家庭があるとすれば、その家庭は、私たち人間世界で、最も理想的な家庭だといわざるを得ないでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-914)
一つの家を考えたときに、その家の中心になる人とは誰でしょうか。年を取った方、すなわち、ひいおじいさんがいるとするならば、その曾おじいさんが中心です。亡くなる時が近づいたからといって、家族がそのおじいさんを無視したとすれば、それは縦的な世界を無視するのと同じです。たとえぼけているとしても、その家庭の中心は曾おじいさんです。何か食べ物があれば、まずおじいさんに差し上げなければなりません。たとえお父さんがその国の大統領だとしても、先におじいさんに差し上げなければならないのです。なぜならば、息子は横的だからです。
(34-242, 1970.9.13)
不幸は、どこから出発するのでしょうか。愛の安息所がなくなるところから始まるのです。幸福な家庭とは、その家の囲いとなる父母に仕えて生きる家庭です。そのような家庭は、上には天を代表する父母に侍り、横的には家庭を代表した他人同士がその因縁の愛を夫婦として結び、この夫婦が天倫の法度に従って、その代を継いで生きる家庭です。
(19-305, 1968.3.10)
家庭には必ず、父母がいなければならず、妻子がいなければなりません。そうであってこそ、その家庭が幸福の基台となるのです。ハナニムが人類を探し求めてきた目的も、ハナニムご自身の幸福を模索するためであったに違いありません。それゆえ、ハナニムご自身が幸福の基台を求めようとしても、人間を離れたところにはそのような理想はあり得ないのです。人間と関係を結んでこそ、一致点をもたらせるのです。私たちが家庭において、情緒的な内容をすべて備えた立場で幸福を感じるのと同じように、ハナニムもやはり、そのような立場で幸福を感じようとなさるのです。
(32-198, 1970.7.15)
「これほどならば、天上天下てんげにうらやむものはない」と幸福を謳歌おうかする人がいたとしても、「そのような外的なことで幸福だ」と言うことはできません。幸福を求めるための条件にはなっても、幸福それ自体にはなり得ないのです。それでは、何が決定されれば幸福を感じられるのでしょうか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。このことは、誰にも否定することはできません。その中の一つしかなければ、その人は、それに該当する比例的な悲しみを感じ、比例的な不満がその胸の中に残るのです。
(21-140, 1968.11.17)


人間祖先を通じたハナニムの理想は、男性と女性が結合し、理想的な家庭を築くことでした。そうなれば、理想的な家庭の中心は男性でもなく、女性でもありません。家庭というのは、父母と子女、夫婦の結合による一つの結びつきなのですが、その結ばれたものの中心は、正にハナニムの愛です。ハナニムの愛を中心として家庭を完成することが、ハナニムのみ旨だという結論になります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-301)
父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹が真の愛を中心として一つになることを願うのが、私たちの理想家庭です。ここから永遠の世界的平準化が始まることによって、地上天国が出発するのであり、天上天国も自動的にできるのです。
(300-226, 1999.3.14)
ハナニムは真の愛の本体なので、真の愛に連結されれば、みな同じ体になります。父母はハナニムに代わる、生きたハナニムであり、夫と妻は互いにもう一方のハナニムであり、息子、娘もまた、一つの小さなハナニムです。このように3代が、真の愛を中心とする家庭の組織が、天国の基盤です。そのような基盤を築かずしては、天国はできません。家庭というのは、宇宙の中心です。家庭の完成は、宇宙の完成の基礎となるがゆえに、家庭において愛するがごとくに宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。その場合、ハナニムは、宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃるのです。
(298-306, 1999.1.17)
ハナニムを中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、ハナニムの愛が、すべて含まれています。このような消化された立場で、父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をすることになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)
家和万事成いえわしてばんじなる」という言葉があります。家庭が平和であれば、万事がうまくいくという意味です。完成した家庭は、平和の家庭であり、それは、天国の基礎です。家庭の原動力は、真の愛です。自分よりもハナニムを、そして相手を、命のように愛するという純粋で美しい愛、それが真の愛です。ハナニムは、この宇宙に、真の愛の力よりも強い力は創造されませんでした。真の愛は、ハナニムの愛です。
(219-118, 1991.8.28)
人間は、父子の関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわち、この三つの関係が一点になければなりません。その中心点は、一つです。上下、左右、前後の中心が異なるようではいけないのです。その中心点が違えば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上、下、左、右、前、後、そして一つの中心点までの7数になるのです。そのような7数を成すということは、すなわち、ハナニムを中心として完全な真の愛で一つとなって、そのすべてが完全に球形となり、調和し、統一された家庭になるということなのです。
(287-21, 1997.8.10)


2) 家庭は天国完成の基本単位

 

① 家庭は地上・天上天国の礎石

家庭から天国を成さなければならないのですが、イエス様も家庭を築くことができなかったので天国に行くことができず、楽園にいらっしゃるのです。楽園は、天国へ行くための待合室のような所です。地獄は、人間が堕落したがゆえに生じたものです。ハナニムが初めからつくられたものではありません。
(21-199, 1968.11.20)
四位よんい基台は、地上天国と天上天国の礎石です。天国は、一人ではつくることができません。それゆえ、イエス様も一人でいてはいけないので、聖神聖霊)が降臨しなければならないのです。
(13-67, 1963.10.17)
天国の起点は、個人でもなく、国家でもありません。家庭なのです。それゆえイエス様は、新郎新婦の因縁を求めてこの地に来られるのです。個人が天国の起点でしょうか。家庭が天国の起点なのです。
(30-83, 1970.3.17)
家庭は、天国完成の基本単位です。天国は、一度行けば、帰りたくなくなり、10回、100回会ってもまた会いたい、そのようなお方のいらっしゃるところです。万民が共通にそこに行きたいと思い、そのお方に会いたいと思い、そのお方と共に生きたいと思うならば、世界は統一されることでしょう。そこを目指して進んでいるのが統一教会です。
しかし、それは一度に成されるのではありません。まず、個人の基台ができ、次に家庭の基台ができ、民族、国家、世界へと順次、広がっていかなければならないのです。
(12-180, 1963.4.1)
家庭天国は、男性と女性が完全に一つとなってこそ完成するのであり、個人天国は、体と心が完全に一つとなってこそ完成するのです。家庭天国は、ハナニムのみ旨を中心として夫婦が一つとなり、子女と一つとならなければなりません。そのみ旨の目的は、万民のためのものです。そして、そのみ旨の中心はハナニムです。それゆえ、ハナニムを中心として万民のために生きるところから、家庭天国が連結されるのです。ハナニムのためだけに生きるのではなく、ハナニムを中心として万民のために生きなければなりません。
ハナニムは、そのような家庭を探し求めていらっしゃるのです。世界が復帰されるときまで、そのような家庭を探し立てなければ、万民を救うことができず、万国を救うことができず、万家庭を救うことができないがゆえに、そのような家庭をつくるために祝福家庭を立てたということを、皆さんは知らなければなりません。
(100-310, 1978.10.22)
統一教会の「原理」でいう四位基台とは、3代愛圏を意味するものです。3代が一つの家で暮らしながら愛によって和睦わぼくし、「幸福だ」と言うときに、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛すべきことはもちろんですが、子女たちに愛で祈祷してあげ、精誠の心で育ててあげてこそ家庭が和睦でき、幸福になるのです。これが縦的に成され、横的に連結されるとき完全な愛が完成するのです。いとこや、6親等のいとこまで、愛で一つとなって初めて愛の円形となり、完全なものとなります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-947)


私たちの家庭と、天国は、その形態が同じです。私たちの家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。私たちの家は、愛で一つになることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結することができ、理想を実現することができます。ですから、皆さんが夫婦の愛を尊重することができ、父母の愛を尊重することができてこそ、天国へ行ける資格者となるのです。
祖父母は父母の前に愛を相続し、父母は夫婦の前に愛を相続し、夫婦は子の前に愛を相続しています。ここで、どの愛一つを否定しても、天国は成り立ちません。夫婦同士で愛する以上に両親を愛し、自分の両親を愛する以上におばあさん、おじいさんを愛すべきだという結論になります。それが、天国の核心となり、理想的なモットー(信条)となるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)
ハナニムの創造理想世界とは、どのような世界でしょうか。まことの父母圏を通じて地上天国と天上天国が成される世界です。天国は、愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人は、誰一人としていなく、現れた痕跡こんせきすらありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。ハナニムを中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、ハナニムの愛がすべて入っています。このような消化された位置で、父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-946)
天国は、どこにあるのでしょうか。空中から、どかんと落ちるのではなく、父親と母親、そして子供の間で授け受けるという生活的な舞台を育て、また、その中にあるすべての被造物を私たちの生活に利用し、私たちの理想の条件として利用する楽しさ、その楽しさを100パーセント享受し得る所が天国です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-945)
今後、先生は、家庭に関する規範、天国家庭としてもつべき、生活に関する規範を教えてあげなければならないと感じています。ところで、復帰の路程を歩んでいくべき人は、原理を中心として教えてくれる人がいるので、その人を通して教わらなければなりません。先生がそのような問題に、直接責任をとる時代は過ぎました。
家庭一つ一つを中心として、再度、収拾しなければなりません。私たち統一教会の組織は、家庭組織です。家庭を主としているのです。個人を主としてきたものを、家庭を主とするのです。
(22-334, 1969.5.11)
ことばの時代を経て、実体の時代を経て初めて、相逢そうおう(注:相まみえること)の日を迎えるのです。そして相逢の日を迎えてこそ、天国生活ができるのです。


相逢の日には、相手の心が私の心であり、相手の心情が私の心情であり、相手の姿が私の姿であり、相手の困難は私の困難であり、相手の傷は私の傷として感じられる境地にまで入らなければなりません。そのような境地に入って相手の心も私の心であり、相手の心情も私の心情となってこそ、天国家庭ができるのです。それがこの地で完結されてこそ、天国家庭ができるのです。
(19-251, 1968.1.15)
天国生活は、どこから始まるのでしょうか。家庭です。他の所から始まるのではありません。天国とは、家庭を立体的に拡大したものにすぎず、家庭圏を離れたものではないのです。それゆえ、皆さんは自分の妻や夫を抱くとき、それが世界の男性と女性が一つになることだと考えなければなりません。そのように、世界人類を愛したという条件を立てられる場が、すなわち家庭なのです。
(30-83, 1970.3.17)
天国は、家庭を中心として成されます。家庭の家族として守るべき矜持(誇り)を忘れてはなりません。
(21-77, 1968.10.20)
これからは、私たち統一教会で礼拝を捧げるときも、説教の形式ではなく、報告の形式で行わなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇れるものでなければなりません。それゆえ、家庭全体で来て礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら、良くやっている家庭を見ては見習い、そうでない家庭には、うまくいくように導いてあげなければならないのです。そうして家庭天国を建設しようというのです。まず家庭天国ができなければ、地上天国はできないということを、はっきりと知らなければなりません。
(23-63, 1969.5.11)
今、私が教会を建てないのは、それなりの考えがあってのことです。教会に多くの人が必要ではないからです。天国は、教会からできるものではなく、家庭から始まるものです。家庭、すなわち新郎新婦から始まるのです。
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれました。赤ん坊が眠りから覚めて、まず呼ぶのが「お母さん」です。赤ん坊が母親を呼ぶ以上に、夫は妻を呼ばなければなりません。そのように呼んだことのない人は、かわいそうな人です。また、妻も夫以上に、そのように呼ばなければなりません。お互いに、そのような夫婦として接しなければならないのです。琴瑟きんしつ之和(注:夫婦の仲がごくむつまじいこと)の夫婦として、お互いにそのように呼び合って暮らさなければならないのです。
そのように千年、万年暮らしたならば、老いても青春をうらやむということはないのです。今後、祝福家庭の夫婦が80歳の老人になったならば、先生が世界一周をさせてあげようと思います。
(23-55, 1969.5.11)
昔、先生が統一教会を始めた時のように、友達が家に来れば、「自分の家よりも、ここのほうがいい。麦飯を食べたとしても、かゆを食べたとしても、うちのご飯よりもおいしい。もう一晩だけ泊めてくれないか」と言う、そのような家庭を築きなさいというのです。


訪ねてきた人、訪ねてきた友達がみな、自分の家を捨ててその家に来たいと思うような家庭になってこそ、その家庭は、天国の家庭となるのです。
(16-328, 1966.7.31)
ハナニムの愛を中心として二人が一つとなってこそ、夫婦の天国ができます。一つとなったものは誰にも離すことはできず、分かれたり離れたりする心配はありません。皆さんは、どのような愛を見いだしましたか。ハナニムの愛を見つけたとするならば、皆さんの心と体が完全に一つとなり、ハナニムの愛がそこに臨在できなければなりません。そして夫婦の天国が生じ、家庭天国を成さなければなりません。お母さんとお父さんが完全に一つとなって愛し、その息子、娘も両親のように相手を得てこそ、家庭天国が実現するのです。父母がプラスとなり、息子、娘がマイナスになれば、家庭天国となるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-943)
夫婦のうちで、男性はどうあるべきなのでしょうか。男性は、教会と関係をもたなければなりません。また女性は、物質と関係をもたなければなりません。環境的にはそのようになっていますが、家庭的にはどうでしょうか。父親と母親と息子、娘、この三者が一つとならなければなりません。そこから家庭天国が始まるのです。それゆえ、愛を中心とした天国を成すためには、四位基台を成さなければなりません。
(26-101, 1969.10.18)

 

② 家庭は真の愛の訓練道場

天宙主義というのは、体と心を合わせたのち、ハナニムの愛の本体となる家庭を成し、その理念を霊界と肉界に連結させる主義です。天宙の「宙」の字は「家」という意味です。家の宙、ですから天宙主義という言葉を使うのです。天宙は、無形世界と実体世界を合わせたものです。それが私たちと、どのような関係があるのでしょうか。私たちには、家庭が必要です。皆さんが家庭で一つになれないとすれば、天宙主義とは関係がないのです。家庭が、天宙主義を完結するための最終基準なのです。そこで平和の歌を歌うことができず、幸福を賛美することのできない人は、地上でも、霊界へ行っても不幸な人となるのです。
(26-190, 1969.10.25)
愛は、水遠に続くものです。愛は、最高の願望なので、万民がもろ手を挙げて相続しようとします。その愛を残すことによって、霊界でもハナニムの前に堂々と進むことができます。そのような愛を完遂し得る所が家庭です。家庭を通して天国に行くということは、すなわち愛の一体圏ができるということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-937)
天があれば地があり、天と地があれば、これを象徴する男性と女性がいて当然です。それが立体的な面で一つとなり得る心情的な基準が、家庭です。その家庭は、目的世界のための絶対的な基準をもって突き進むことができます。そこから新しい歴史、新しい世界、新しい天宙の基盤が築かれるのです。
(25-148, 1969.10.3)


家庭を中心として天宙主義を成さなければなりません。天宙とは、天と地を総合したものです。天と地は、人間における心と体のようなものです。心と体が一つにならなければなりません。一つの主体があれば一つの対象が必要であるように、一人の男性には一人の女性が必要なのです。男性と女性が一つとなるのが家庭です。
(26-189, 1969.10.25)
一つの家庭は、社会の倫理的基盤であり、人間世界において最も手本となり、根源的で、一次的な組織です。そのような家庭において、「愛」が最善の価値基準になるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-930)
人間の価値をどこに置くべきかといえば、理想世界に置くのではなく、理想の人に置かなければならないのです。ですから世界を愛そうとするならば、人を愛さなければならないのです。どのように愛するかというと、男性(夫)が女性(妻)を愛するように、女性(妻)が男性(夫)を愛するように、愛さなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-929)
ハナニムの息子になろうとすれば、ハナニムの心情に似なければなりません。神の心情は、世界に植えられています。
ですから、世界の人を愛さなければなりません。距離が離れている関係で愛せないというならば、その国を愛し、宗族を愛し、家庭を愛し、父母を愛さなければなりません。なぜなら、父母はハナニム、夫婦はアダムとエバ、子女は世界の人類を代表した立場にあるからです。
(24-308, 1969.9.7)
理想世界とは、どのようなものでしょうか。理想的になるには、単色よりも色とりどりなのが理想的です。そのような意味から考えると、五色の人種が一つとなって暮らすのが理想的でしょうか、五色の人種が別々に暮らすのが理想的でしょうか。みな一緒に1箇所で交わって暮らすのが理想的です。
ですから、そうなっていないとすれば、直さなければなりません。レバレンド・ムーンが現れてそれを直すのを、ハナニムは嫌がるでしょうか、喜ぶでしょうか。ハナニムは、そのような人を後援しようとするのです。ですから皆さんは、ハナニムのような心をもって、その父母の伝統を継承して人類を愛する天の家庭的なこの心情のきずなを、いかにして拡大するかということに力を注がなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-928)
この中で、年を取ったおばあさん、おじいさんが好きだという人は手を挙げてみてください。それでは、好きではないという人、手を挙げてみてください。手を挙げない人が多いです。皆さんに500歳になるおばあさん、おじいさんを任せたとすればどうしますか。それでもよいですか。年が多ければ多いほど好きだという人は、ハナニムのことが好きな人、ということになるのです。なぜかというと、この世界で最も年を取ったおじいさんが、ハナニムだからです。ですからハナニムを愛する人であるならば、その中にいる年を取っていないおじいさん、おじさん、息子を問わず、みな愛さなければなりません。


すなわち、ハナニムの家庭を愛さなければなりません。ハナニムの家庭には、日本人でも韓国人でもアメリカ人でも、どの国の人でもみな入っているのです。人種差別をする人は、ハナニムの家庭を愛していない人だということになるのです。その差別がなくなってこそ、理想世界なのではないでしょうか。
もし父母の愛を受けている子女が、外でお父さん、お母さんのような人に出会ったならば、その人にとても親近感を感じ、話をして、助けになりたいと思うことでしょう。また、兄弟姉妹の間で美しい絆をもった人が社会に出れば、周りの人とより親密な関係を保ち、うまく交わることでしょう。自分の兄弟姉妹と仲の良い人が外に出て異性と交際するときも、ごく自然に交際することでしょう。肉欲的、あるいは不健全な感情をもつことなく、兄弟姉妹のような感情をもつようになります。地上天国とは、ハナニムを中心として、そのような関係を経験できる家庭をいうのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-927)
健全な家庭生活とは、祖父母、父母、子女が共に生活することです。もし、一つの世代が欠けているとすれば、その家庭は、体の不自由な人間のようなものです。そこで理想家庭を成すならば、その家庭は、地上天国を築く煉瓦れんがとして奉仕しなければなりません。
私たちは、その理想家庭を地上に築くべき使命をもっています。祖父母の深い愛を享有する子女が社会に出れば、例えばその人がニューヨークの街に行けば、お年寄りにとても親近感をもつのであり、お年寄りはその人に対し、自分の孫のように接することでしょう。とにかく、お互いに話をしたいと思うし、親近感を感じることでしょう。家庭で祖父母に仕えたことのある若者は、助けが必要なお年寄りを見ると、走っていってでも助けてあげることでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-927)
父母、夫婦、子女で形成された家庭は、世界の縮小体です。家庭的愛を拡大してすべての人を愛するのが、人類の生きていくべき道であることを知らなければなりません。年を取った人は自分のおじいさん、おばあさんのように、中年の人は自分のお父さん、お母さんのように、自分より少し年上のような人はお兄さん、お姉さんのように、年下に見える人は弟妹のように思って愛さなければなりません。ですからまことの人というのは、自分の父母と年の似通った人は親のように思い、お兄さんと年の近い人はお兄さんのように思い、お姉さんと年の近い人はお姉さんのように思うというように、すべて自分の家族のように思い、すべての世界的な障壁と境界線を超越して人類を愛し得る心情をもった人のことです。そうしてこそ、本当の意味で父親、母親を愛し得る資格をもつことになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-926)
皆さんはどこへ行っても、すべての人を他人ではないと思わなければなりません。皆さんの家族だと思わなければなりません。お年寄りを見れば自分の親のように思い、その人に悲しいことがあれば、その人を抱いて痛哭つうこくし得る心を常にもたなければなりません。
(16-314, 1966.7.31)


真なる家庭は、自分の母のように妻を愛して「ため」に生きながら、自分の父のように夫のために生きて愛しながら、兄と妹のように互いを愛する所です。その次には、ハナニムのように自分の妻を愛し、ハナニムのように自分の夫を愛し、尊敬する世界が、理想家庭が生きる天国です。このような伝統が、この地球上に立てられなければなりません。
自分の妹やお兄さんを捨てることはできません。自分の母親も捨てることはできません。誰も捨てることはできません。ですから、離婚ということはあり得ません。夫は父親に代わり、兄に代わるものなので、父親を捨てることはできず、兄を捨てることはできないので、妻も夫を捨てることはできません。そのような愛を抱いて、世界を愛さなければなりません。父親と同じような年の人を見れば、父親のごとくに愛し、母親と同じような年の人は、母親のごとくに愛さなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-926)
皆さん、家庭がなぜ良いのでしょうか。それは、父母の愛を中心として自由な活動の基地となるからです。同じように、ハナニムが自由に活動できなければなりません。いくら、見た目にはみすぼらしくても、輝く愛の核をもつ、そのような内的な人間から成る社会となったならば、ハナニムは自由なのです。皆さん、そうではありませんか。人の家に客として行けば、何か不自然です。なぜでしょうか。それは愛の因縁がないからです。愛の因縁に四方性が備わっていないので、ぎこちないのです。ですから私たちの行くべき道は、人格の道です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-925)
統一教会では、天国は宗族圏の中からできると見るのです。おじいさんを中心として父母と兄弟が一つとなり、いとことその子供まで一つに結ばれれば、完全な3代ができます。このような宗族圏の愛が地に立てられ、ハナニムと一つとなったならば、世界はすべてハナニムと一致する愛の世界となり、天国となるのです。女性が嫁に行っても同じです。婚家のおばあさんとおじいさんは、ハナニムに代わる位置にあり、夫に代わる位置にあるので、愛をもって仕えなければなりません。
また、夫の兄弟姉妹とも、愛によってむつまじく暮らさなければなりません。そのような愛の関係が社会に拡大し、民族と国家、世界に拡大するならば、この世界は、罪悪と戦争に代わって、平和と愛に満ちるようになります。そうなれば、その世界こそがハナニムの理想が実現した一つの天国であり、理想世界なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-947)
この宇宙の中心は、どこにあるのでしょうか。家庭にあります。真の愛が定着し得る基地とは、どこでしょうか。皆さんの生きている、皆さんの家庭だというのです。それゆえ、本来の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護様相を体得しながら宇宙愛圏を拡大して、家庭を越えて国家を愛する愛国の道を行くべきであり、さらに民族と国家を越えて世界を愛する道を行かなければなりません。家庭を愛する人を「孝子」あるいは「烈女」と言い、国を愛する人を「愛国者」と言うならば、世界を愛する人を何と言うのでしょうか。そのような人のことを「聖人」と言うのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-925)


ハナニムは、家庭の中心となるお方であり、この世界は、ハナニムの国とならなければなりません。祝福家庭は、神の国を連結し得る家庭となるように努力する生活をしなければなりません。ハナニムに代わって「ため」に生きる生活をするところから宗族が生まれ、民族が生まれ、国家が形成され、世界が形成されます。ですから家庭は、ハナニムを中心とした世界を形成する責任を果たさなければなりません。
先生を中心とした統一教会は、一つの宗族のようなものであり、一つの民族のようなものです。五色の人種が合わさって単一民族を形成し、誰よりも世界のために生きる国家を形成するのが、統一教会の目的です。それが先生の目的であり、ハナニムが先生を通して果たそうとされる目的です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-947)
家庭というのは、人類愛を教育する代表的な修練所です。心情の中心を立てる、代表的な広場です。そこで互いに信頼し、幸福な生活を営むならば、全宇宙の中心として立ち、幸福を享受するようになるのです。それが理想圏の始まりです。愛なしには、存在する意味は何もありません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-925)
家庭は、天国を成すための教材としてつくられたものです。おじいさんのような年格好の人を自分のおじいさんのように愛するならば、その人は天国へ行くようになっています。自分の親と同年輩の人を、自分の親のように愛するならば、万国共同で、霊界でも境界線が生じません。
息子、娘と同じような年の万国の若者を、自分の息子、娘だと思える心さえもっていれば、天国のどこへでも行くことができます。天国には12の門があり、方向があるのですが、どこへでも通じるのです。家庭というのは、天国全体に因縁を結ばせる教材です。すなわち、テキストブックだということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-924)
家庭において父母は、縦的な軸を完全に継承し、そこに合わせなければなりません。次に夫婦は、軸に対して横的に90度の角度に合わせなければなりません。その基準は、国家においても同じです。愛の軸の位置は一つしかありません。
それゆえ、その軸を中心として、家庭は小さいのですが、宗族、民族、国家、世界へとだんだん大きくなります。愛の軸を中心として拡大するようになっています。拡大、縮小の因縁関係をすべて四方に拡大するところから理想圏が生じるのです。ですから今、世界を一つにするために私のしていることは、軸を正すことです。
ですから方向を設定するためには、思想的王者の立場を占領しなければなりません。占領するにおいて、強制ではなく、愛で消化しなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-924)
皆さんの家庭は、天国の主権を代身(身代わり)した立場にあることを知らなければなりません。父母は主権を代身し、子女は国民を代身し、物質はその国の地を代身したものなので、父母に孝行することが、国に忠誠を尽くすことであり、父母に孝行することが、聖人の道理を果たす道に通じるのです。今、家庭がありとあらゆる醜態の起源となっていますが、ハナニムは家庭が聖なる基台となることを願っていらっしゃいます。


それゆえ、堕落圏内にある腐敗した家庭を収拾すべき使命が、私たちにあるのです。この地の家庭は破損していますが、その家庭を否定し得ない立場にあることを知らなければなりません。
(35-306, 1970.10.30)

 

3) 真の家庭の理想と価値

 

① 真の父母、真の夫婦、真の人

ハナニムは人間にとって、まことの愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは、一つしかありません。絶対的です。二つとあり得ません。その縦的父母だけをそのまま置いたのでは倒れてしまいます。ですから横的父母を探し立てて連結しなければなりません。それを詳しく説明するならば、創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながらハナニムの体である横的な父母の立場に立ちます。それらが内外一つとなることによって、内外の共鳴体となって授受作用をすれば、中心が生じると同時に、その内外の共鳴圏の中心が植えつけられるのです。それが、皆さんの生まれた生命の根源です。
(183-40, 1988.10.29)
縦的な父として一つとなった中に、横的な父が必要です。なぜでしょうか。球形を成さなければならないからです。球形を成そうとするときに、そのままで球形になることはありません。必ず垂直を中心として、また横的なものを中心として、前後、左右が連結されて初めて球形ができるのです。球形を成し、勝手には動き回らなくなるのです。
宇宙は軸を中心として、この宇宙の大軸の前に相対として編成された立場で、軸を中心として回るのです。それゆえ、同位圏に立っているのです。そして、この宇宙の神の創造的真の愛というのは、一つです。軸は、一つです。二つではありません。
(182-143, 1988.10.16)
既成の神学では、創造主は聖なるものであり、被造物は俗なるものとされています。被造物を罪人扱いしたのです。しかし、それは間違って理解しているというのです。ハナニムがなぜ創造をしたかというと、愛のゆえです。
ハナニムが縦的な愛の主人であるとすれば、縦的なハナニムの愛をもったそのお方が子女を生んだとすれば、長い1本の筋にしかならないのです。それをいかにして横的に展開するのでしょうか。それゆえ、子を生むのはハナニムがするのではないのです。真の父母を通して生むのです。横的な真の愛の父母の位置に立ったお方が誰かというと、真の父母です。ハナニムの縦的な愛を中心とした真の父母の前に、90度の角度にある横的な愛をもったお方が真の父母なのです。


それゆえ、二つの父母の愛が必要なのです。一つは創造主としての父母であり、一つは被造物としての、ハナニムがその対象として理想を描きながらお造りになった体的な父母です。それゆえ、ハナニムは心的な父母の立場にあり、真の父母は体的な父母の立場にあります。このように、縦的な愛と横的な愛を中心として生まれるべきだったのが人間です。
(182-258, 1988.10.23)
なぜ、子女を生まなければならないのでしょうか。ハナニムがアダムとエバを喜びをもって創造した、その内容を体恤たいじゅつさせるためなのです。それゆえ、息子、娘を生んだことのない人は、父母というのが分からず、夫のことが分からず、妻のことが分からないということになるのです。過去と現在において愛したけれども、未来を開くことができないのです。おじいさん、おばあさんは過去の時代を代表し、お母さん、お父さんは現在の時代を代表し、息子、娘は未来の時代を代表するのですが、この三つが一つとなれる所が家庭だということです。
(216-192, 1991.3.31)
エバは、ハナニムの外的新婦です。それでは、ハナニムはなぜ、アダムとエバを創造したのでしょうか。それは、繁殖のために創造したのです。子孫を殖やすために創造したのです。子孫を繁殖してどうするというのでしょうか。それは、天国の国民を莫大ばくだいな人数に増やすためなのです。霊界に行っても繁殖が可能でしょうか。絶対に不可能です。なぜならば、ハナニムの愛は垂直的なので、たった一点しかありません。ハナニムの愛は、一点に立つ垂直的な道を降りてくるのですが、垂直には繁殖の道がありません。
それでは、なぜ繁殖の横的な基準であり、愛の基台であるアダムとエバを創造したのでしょうか。それは水平なので、東西に回るようになるからです。180度の平面圏は、無限に存在するのです。ですから繁殖は、すべての方面で可能なのです。膨大な平面圏において繁殖させた者たちを霊界に連れていって、天国の国民にするのです。永遠の国民をつくるために繁殖が必要なのです。しかし、その生産地は地上です。男性、女性の体を借りてできるのであり、霊界では子女を生むことはできません。
(213-265, 1991.1.21)
天国の民は、霊界で生まれるのではありません。ハナニムは何ゆえに実体を創造したのでしょうか。天国の民を繁殖させるためなのです。実体でなければ繁殖できません。縦的な愛には一点しかありません。横的な基準を中心として回ることによって360度の球形体が生じるのです。その球形体には、定着し得る空間がいくらでもあります。ですからその息子、娘が地上に生まれるようになっているのです。その息子、娘がたくさん生まれるということは、不幸なことではありません。
地上で多くの息子、娘を生むということは、天上世界における天国の民をたくさん繁殖するということになります。ハナニムが願うのは、限りない世界です。広大な世界に空いた所があってはなりません。それを、すべて埋められる民が必要なのです。
(218-130, 1991.7.14)


原点は何でしょうか。真の父母権、真の王権、真の長子権です。それが、アダムとエバが出発すべき原点だったのです。それが、ハナニムの本宮です。そこにハナニムの王宮があるのです。ハナニムの王宮がそこにあり、ハナニムの愛がそこにあります。人間と創造主、被造物と創造主が一つに結ばれて、真の愛の基盤となるのです。その出発点がハナニムのセンターです。それが、完成した本然のアダムの家庭基盤であり、ハナニムが永遠に臨在できる王宮です。
(218-189, 1991.7.28)
私たち人間が寝て、朝、目覚めた時に願うこととは何でしょうか。朝、起きて朝食を取るのが問題ではなく、出掛けていって働くのが問題ではなく、世界のことを心配するのが問題ではありません。夜も昼も、春夏秋冬、変わることなく、一生変わることなく愛の心をもつことを願うのです。そのような男性、そのような女性が完全に水平線を成して、縦的なハナニムに完全に90度の角度で連結され、人情と天情が合わさり得る、そのような立場における愛、そこに結合し得る愛の理想の境地、そのためにハナニムは、天地を創造されたのです。
(213-157, 1991.1.20)
私が生まれる時に、何を動員して生まれたのでしょうか。本来、創造理想であるハナニムの愛を中心として愛を通して造られた実体である、母親と父親の生命が激動して、完全に100パーセント沸き立ち、一つになって生まれました。これを煮え立たせたのは何でしょうか。愛を通して男性と女性が完全に和合するのです。細胞が完全に沸き立って、その父母の愛を根拠とした生命と血統、血を受け継いで私が生まれたのです。それゆえ、私という存在は何かというと、父母の愛の結実です。私は、両親の愛の結実だというのです。
(213-157, 1991.1.20)
ハナニムの創造原則において、女性が生まれたのは男性のためであり、男性は女性のために生まれたという根本を知らなければなりません。互いのために生まれたのですから、その中心は何かというと相手です。自分ではありません。男性にとっては女性が中心であり、女性には男性が中心なのです。自分によって生まれたのではありません。自分から出発したのではありません。
なぜハナニムが創造したかというとき、「愛のゆえに創造した」と聞いたならば、宇宙がどれほど平和になり、どれほど近く感じられることでしょうか。つまり、ハナニムの絶対的愛をもっているのですから、その相対は、永生するのです。それが最も貴いことなのです。
(215-300, 1991.2.21)
ハナニムが天地を創造したように万物が結婚するならば、どれほど美しいことでしょうか。万物も、自分のように愛を通して生きているということを見るときに、ハナニムが創造のあらゆる根源的な感覚を再現し、すべての万物と共に、その相対と共に統一的感情を感じられるもの、それが愛なのです。


ハナニムが創造するときの根源的なものを感じるのです。天地の万物を造るときにハナニムが感じたすべての理想型を、私は何もかも受け継いだ被造物だというのです。真の愛をもって引きつければ、天地がすべて引かれてくるのです。いくら遠いものでも真の愛が引けば引かれてくるし、いくら近い所にあったものでも、遠くに見えるようにしようとすれば、真の愛によって遠くに行かせられるのです。
(216-192, 1991.3.31)
絶対的なハナニムの一つの文化世界において生まれる息子、娘は、王子であり、王女です。ハナニムの王宮における王子と王女は、人間です。そこは、創造主、ハナニムを中心とした王宮です。王の中の王である創造主を中心とした皇族が、私たちなのです。
(218-198, 1991.7.28)
男女の生殖器官は、創造主から受け継ぎ、先祖から受け継いだ、変わらずにそのまま連結された礼物です。ハナニムも侵犯なさらない貴い礼物です。先代もそむくことのできない貴い礼物です。これを侵犯する者は、天理の大道たいどうの中心である愛の本宮を破綻はたんさせる悪魔の血肉です。純粋な、本質としての永遠の真の愛を中心とした、その基台の上に生まれたのが、生命の本宮です。また、新しい血統の本源の地です。生殖器は、何ゆえに生じたのですか。天地の大道のために、天地の大摂理的経綸けいりんのために、私に与えられたものです。
(193-147, 1989.10.3)
ハナニムが創造するときに、生殖器を表象して男性と女性を造り始めました。それゆえ生殖器を動かすところには、人間全体の構成要素がすべてついているのです。ですから男性と女性が愛して、その二人が一つとなって子を生むのです。一つとなって生むということはどういうことですか。何に似るのでしょうか。神経系統がすべてついているので、従ってくるのです。根がないのに枝が出てくるでしょうか。それを否定することはできません。
それゆえ愛が激動するときには、体と心が一つとなるのが原則です。これは理論的です。では、愛を代々に連結できるところ、その生命を代々に連結できるところ、自分の血統を自分の子に代々連結できる、その器官とは何でしょうか。それは男性、女性の生殖器官です。それでは、愛が貴いか、生命が貴いか、それが問題となります。このごろ、心が先だとか、体が先だとか、唯物理論の哲学思潮が入って世界で問題になっているように、愛が先か、生命が先か、これが問題です。どちらが先でしょうか。先か後かを明らかにしなければなりません。愛が先です。
ハナニムが創造理想を立てるとき、ハナニムを中心として立てたのではありません。愛を中心として立てたがゆえに、相対世界の創造を始めたのです。これは、理論にかなっています。
(193-145, 1989.10.3)


男性と女性は、どこから来たのでしょうか。創造主がいるとするならば、創造主から始まったことでしょう。そうだとすれば、その創造主が男性と女性を造った目的は何でしょうか。何ゆえに造ったのでしょうか。なぜ造ったのでしょうか。愛のゆえに造ったのです。どんな愛でしょうか。真なる愛です。真なる愛とは、いったい何でしょうか。真の愛とは、永遠で、変わらない愛のことをいいます。たとえ時代が変遷し、いくら環境が変わっても、その愛は変わらないのです。
その本質において唯一で永遠、不変性をもった真の愛の理想を果たすために、男性と女性を造ったのです。それは人間を中心として創造したのではありません。根となるハナニムを中心として創造が始まったのです。それゆえ、この被造世界は、すべて愛ゆえに生じたと考えられるのです。
(213-156, 1991.1.20)
真の愛によって成熟した真の家庭は、ハナニムの愛の巣です。
(173-166, 1988.2.14)
ハナニムのハンとは何かというと、子女を教育できなかったことであり、兄弟を教育できなかったことであり、夫婦を教育できなかったことであり、父母となるための教育ができなかったことです。
(228-34, 1992.3.1)

 

② 真の家庭の理想と価値

四大心情圏と三代王権を復帰して、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみれば分かります。いくら偉い人でも、みなそこに引っ掛かります。その時になって、「ムン総裁の言うことを聞けばよかった!」と後悔するのではなく、早く決めて祝福を受ければよいのです。それが最も早い解決方法です。
(239-76, 1992.11.23)
四大心情圏と三代王権をサタンが蹂躙じゅうりんしたのです。天の国を破壊し、未来世界を破壊して、三世界の王権を破壊しました。それゆえ、私たちが天国に行くには、四大心情圏の完成実体となり三代王権をもった愛の王子、王女の基準で、皇族の愛を受ける人とならなければなりません。そのような人が天国に行くことは元亨利貞げんこうりてい(注:事物の根本となる道理)です。
(239-74, 1992.11.23)
堕落によってこれを一遍に失ったので、その本体に会えば、娘の心情を感じ、妹の心情を感じるのです。そのように新婦の心情を感じ、母の心情を感じ、新しい息子、娘の心情までも感じるようになるのです。ですから先生を見ると、自分の子女にしたいという思いになるのです。そのような心情圏を回復することにより、善悪を判断し、天の側に帰ることにより、すべてが解怨かいおん成就するのです。心がそのように作用するのです。それは、どうすることもできません。
皆さんは、愛の家庭をもたなければなりません。ハナニムの愛の圏で完全に統一された王族、天国の王子、王女の王族圏を中心として、愛の体験をした皇族の行く所が天国であることを知るべきです。アーメン。皆さんが生きている間、この原則を中心として合わせなければなりません。あの世へ行っても、これに合わせるために身もだえしなければならないのです。ですから私は一生の間、他のことを考えたことがありません。
(238-262, 1992.11.22)