八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 6-8

八大教材教本 天聖経(2012年版)p1792-1827

【天啓の御言】(6-8)

 


先生がパンタナールを好むのは、パンタナールにはあらゆる魚が棲んでいるからです。そこで学んだこととは何でしょうか。パンタナールで一つ学んだことは、すべてのもの、すなわちこれものみ込み、あれものみ込むということです。例えば、わにがいるとすれば、大きいわには人をのみ込んでしまいます。そして、パラグアイには、そのわにを捕って食べる25メートルにもなる蛇がいます。はしで豆をつまんで食べるように、人一人をのみ込んでしまう蛇がいるのです。その蛇にも、小さなものから大きいものまで、すべているはずです。そのようなものが至る所に棲んでいます。見てみると、それらは、すべて丸ごとのみ込むのです。小さい魚も、自分よりも小さければ、それがたとえ鯨の子であったとしても、のみ込むのです。口に入っていくものは、すべてのみ込んでしまいます。素晴らしいことではありませんか。ムン総裁も、口の中に入ってきさえすれば何だろうと、のみ込む専門家にならなければなりません。それを一つ学びました。ここで生きようとすれば、のみ込めなければ生きていくことができません。ほこりを払い、汚れたものを払ったりする女性たちは、生きていくことはできません。
(301-154, 1999.4.25)
パンタナールでは、日本人が暮らすお金の10分の1、100分の1、1万分の1だけで暮らすことができます。日本のために、すなわち島国の人々が万物をもつことができるようにとパンタナールを保存しているのです。日本人は、そのことを知らないでしょう? 先生は、万物の嘆息圏を解放するために万物を愛しているのです。ローマ人への手紙の第8章を見れば、「被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」と書かれています。万物のその嘆息圏は、人類の嘆息圏です。人類の嘆息圏とは何でしょうか。ハナニムを中心として祝福を受けられなかったこと以上の嘆息はありません。
(295-199, 1998.8.28)
ニューヨークやワシントンD.C.のような文明を、すべて壊してしまわなければなりません。そして、原始時代に帰っていかなければなりません。自然に帰るのです。それで、先生は自然に帰り、パンタナールで自然を愛しながら暮らしているのです。大洋は、きれいな場所です。そこは、どれほど水が澄んでいるでしょうか。きれいな水、きれいな空気があります。きれいな自然があります。どれほど良いでしょうか。
(295-277, 1998.9.8)
み旨を知ったその日から霊界を愛し、人類を愛しました。人類を愛するにおいては、自分の家庭や自分の国以上に愛さなければなりません。人類を愛し、その次には万物を愛さなければなりません。この陸地にあるすべての物を愛し、その次には水中の世界を愛さなければなりません。再創造過程です。ハナニムの愛から人類を連結し、人類の愛から地球ぼしを連結し、地球星を連結して水の世界まで連結しなければなりません。パンタナールを中心として、先生があらゆる精誠を尽くすのは、そのためです。
(296-17, 1998.10.1)


私は、このパンタナールを忘れることができません。ここは、霊界の相軒サンホン氏を通じて、パクマリア家庭に対するハナニムの願いを受けて深刻になった場所です。どうしてハナニムがそのようになったのかというのです。悔しくて恨めしいのです。そのようなことを考えれば、はらわたが煮えくり返り、骨がしみ出てこなければなりません。
(296-43, 1998.10.11)
私がパンタナールに来て、今までにしたこととは何でしょうか。「統一教会食口シック、南北にいる人々は来なさい」と言ったのです。祝福家庭は、すべて行かなければなりません。ありとあらゆる口実を並べ立てますが、お金がなくて飛行機に乗ることができなければ、歩いて来なさい。父親が病気になれば、その妻と息子が背負ってでも来るのです。そのようにして非常な苦労をしながら行ったからといって、「ああ、滅びる!」と言いますか。「ああ、もう駄目だ。みんな死のう!」と言いますか。そのようにして帰ろうとするのです。そのように、行く道が大変だったならば、帰る道はもっと大変になるのです。ですから、行くことを嫌がる人は、帰っていく時には百発百中、落伍らくご者になるのです。それは理論的です。
(299-190, 1999.2.15)
結論的に、パンタナールの影響は、今後世界の歴史においても大きな問題になるはずです。これをどのように定着させるかということが問題です。戦場になる可能性があります。人類が誤れば、滅亡のふちに入っていく可能性をもっている危険な場所なのです。どのようなことをしてでも、ここの整地作業をしなければなりません。ゆえに、今回パンタナールで国家メシヤを教育したのも、その背後の国々に対してあらかじめ宣伝しようということでした。今回の大会や、今までになされたすべてのものを中心として環境保護要員となり、早くその180箇所に警戒所をつくらなければなりません。その次には、そこに関心のある学者を中心として、世界各国の大学総長たちを中心として動かすのです。このようにして彼らが動くようになれば、その国の幹部要員や、どこの行政部署においても、その中心人脈を動かすことができるのです。
(300-182, 1999.3.3)
パンタナールがもっている水の世界と関係しているものがフィッシュ・パウダー(fish powder:魚粉)です。今までは、魚を釣っても食糧にできませんでした。しかし、先生を中心としてコディアックで研究したことは、魚を食糧資源化することです。イギリスや日本をはじめとして、ソ連やドイツなどの先進国が、いかにしてフィッシュ・パウダーを食糧にするかという問題を中心として競って研究しましたが、すべて失敗しました。すべて手を引いてしまったのです。
(300-185, 1999.3.3)
韓国から見れば、パンタナールは極と極です。日本から見るときもそうです。パンタナールは、地球の果てです。そこには源初(源焦)聖地があり、根元(根源)聖地があり、勝利聖地があります。これはとても大きなことです。根元(根源)聖地は、パンタナールにあるホテルに設置されているのですが、そこは、水があろうと何があろうと何の問題もありません。水上宮殿が造られているのです。
(304-110, 1999.9.10)


パンタナールに聖地ができれば、統一教会の教会員は訪ねていかなければなりません。家庭を率いて訪ねていかなければならず、また天国に向かうことができる出発の起源地となっているので、自分の一族全体が訪ねていかなければなりません。自分の一族を連れていき、先祖が統一教会で祝福を受けた日を記念するのです。そして、自分たちによって未来の子孫と天上の先祖と自分の国の民にまで天の祝福の因縁が続くように精誠を尽くさなければなりません。それが、祝福を受けた家庭が地上天国を完了する時まで続けなければならない義務です。そのような観点から、自分の生活を再度批判しなければなりません。批判しなければ行くことはできません。そして、すべてのものは父母様が責任を負わなければなりません。
(302-250, 1999.6.14)
パンタナールは初(焦)点、根本です。根元(根源)地になります。ゆえに、統一教会の家庭は、4年に1度ずつ訪ねてこなければなりません。大移動できる準備をしておかなければなりません。今でも観光客が3倍、5倍と増えてきています。パンタナール大会をしたので、世界的に有名になりました。もう2回、3回もすれば、大変なものになることでしょう。ゆえに、来年までに先生が計画したとおりに土地を買わなければ、その土地の値は10倍以上に跳ね上がるのです。そうすると、日本の蕩減が加重されます。
(303-344, 1999.9.9)
人間は、たとえどれほど苦労をしたとしても、世界から永遠に称賛を受けることができる聖地を準備しておかなければなりません。そうすれば、その努力の結果が現れるのです。ゆえに、その努力を誰が最初に始めるかということが問題です。父から始めるべきですか、母から始めるべきですか。父が立ち上がれば、母の周りを父が回るのですか、それとも父の周りを母が回るのですか。父の周りを母が回るのです。
聖地を守り、聖地の名をより高めることは、日本が国家的にしなければなりません。それで、すべてのパンタナールの管理は、日本の国家メシヤが責任を負っているのです。
(304-110, 1999.9.10)
先生は、パンタナールでどれほど多くの蚊と闘ったことか、体には蚊に食われた跡がいっぱいです。蚊の世界では、「誰がまことの父母の血を味わうかを競争しよう!」と言っているのです。それで、蚊が最も多く私に飛んでくるのだとみるのです。釣り糸を垂らしても、大きな魚は、私の釣り糸に先に食いついてくるのです。多くの魚が食いつくようになっています。不思議です。ハナニムも、「ミステリーだ」と言うのです。
(278-97, 1996.5.1)

 

ハ) 動物博物館
人間には、ハナニムが創造された種の絶滅を防止すべき責任があります。今まで、人間はいかに多くの種を絶滅させたことでしょうか。
パンタナールには魚だけでも3600種類がいます。ゆえに、それらが常に繁殖することができるように、世界で土質の同じ場所に養殖場をつくって永遠に絶滅しないようにするのです。そのようなことを中心として仕事をするのです。今、そのような膨大なことを始めようとしています。
(300-88, 1999.3.1)


3600種類の魚の養殖場を造れば、皆さんの息子、娘がその中の一つを中心として研究したとしても、3600種類の博士が生まれるのです。ゆえに皆さんは、そのように子孫が出世することができる準備をしていることを有り難く思わなければなりません。博士論文を書けば、3600人の博士が出てくるのです。その仕事は、休まずに続けなければなりませんか、それとも続けてはいけませんか。それは、どうしてでしょうか。ハナニムが万物をどれだけ愛して造られたのか、ということを知りたいからです。
(279-39, 1996.6.9)
先生は、博物館を造って、あらゆる種類のものを展示しようと思っています。標本をつくって展示するのです。そこで見ると、あたかも自然に接触しているような、そのような養殖場を造るのです。動物を愛することができる表示として、村で博物館を造る運動を展開するのです。それで、その種のものを最も多く集めた村が世界的な観光村になっていくのです。また、草と木の種も、そのように集めて展示するのです。
(288-72, 1997.10.31)
船の下で数千種類の魚が遊んでいるのに、そこに関心が行きませんか。パンタナールだけでも3600種類の魚がいます。3600種類の養殖場のビルを造れば、世界中の人々がその養殖博物館を訪ねてくるでしょうか、訪ねてこないでしょうか。小学生まで来て、人の波ができるようになっているのです。
(295-38, 1998.8.16)
アマゾン流域、パンタナールの奥地に3600種類の魚がいます。ハナニムが創造された3600種の本然的な創造物が残っているのです。アマゾン流域がそうであり、パラグアイ川の流域がそうです。その3600種を中心として、そこに養殖場をつくるのです。そのようにすれば、魚に関心のある人は、「来るな」と言っても来るようになっているのです。
(292-24, 1998.3.27)
土地の高度によって気温が異なります。同様に、海にんでいる魚も、水の温度によってそこに棲む種類が異なります。川の魚も、自分たちの棲んでいる温度に相当する地域を訪ねていってそこで生息し、卵を産むのです。ゆえに、地域が異なっていても、そこに温度差がなければ同じ種類のものがいるのです。数多くの種類の魚がいます。パラグアイから南米を縦に流れる川がありますが、その川の深い所は70メートルから100メートルを超えます。
ゆえに、大きな輸送船などがそこを上っていくことができるのです。その周辺の魚の多い所に、小さな川が連結しています。私たちは、そのコーナーに冷凍工場を造って、捕まえた魚をすべてそこに貯蔵するのです。そこで必要なものは電気ですが、電気は無尽蔵にあります。現在、どこにも売ることができないでいる状態です。
(267-267, 1995.1.20)
魚をってばかりいては、なくなってしまいます。ですから、養殖をしなければなりません。育てなければなりません。そして、南米のパンタナールやアマゾン川流域に棲んでいる動物で動物園を造ろうと思います。


昆虫を育てる都市が出てこなければなりません。昆虫を育て、それを食べる鳥たちが飛んできて食べることができるようにするのです。鳥のえさとなる昆虫を育てる都市が出てこなければなりません。昆虫がいなくて死ぬようになっているのです。昆虫を育てる町が出て、鳥を育てる町、動物を育てる町が出てこなければなりません。
(292-24, 1998.3.27)
魚でいえば、パンタナールには3600種類の魚がいます。韓国には何種類の魚がいますか。36種になるでしょうか。そのようなものは相手にもなりません。では、今後、この3600種類の魚の養殖のために、都市ビルよりも大きな養殖場ができてこなければなりません。魚の種類別にコンピューターで温度を調節し、海洋の魚や淡水魚、寒帯地方の魚や熱帯地方の魚を養殖するのです。このように一つのビルの中で全世界の3600種の魚が養殖されることを想像してみてください。都市ビルなど問題ではありません。
(296-188, 1998.11.9)
アルゼンチンもブラジルも、山がたくさんあって水がきれいなので、動植物を育てるのに適しています。1300メートルの高地まで連結した山があるので、そこではどのような動物でも育てることができます。魚も育てるのです。先生は、そこに関心をもっています。3600種類の魚を捕まえて展示場を造り、入場券を高くして売るのです。博物館を造って観光地にするのです。そのようにすれば、魚に関心をもっている人は、一度は、ここに来てみないわけにはいかなくなります。魚が3600種類です。そのような博物館を造ることを考えています。
(276-201, 1996.2.19)
訪ねてくる人を教育するのです。そのようにしながら自然と共に暮らすことは、どれほど素晴らしいことでしょうか。現代文明の都市生活と連結することができる村をつくるために、このような膨大な地域に3000万種類の昆虫博物館を造るのです。昆虫学者は、みなここに来なければなりません。また、3600種類の魚を養殖できる養殖場を造るのです。それから、鳥類園も造り、植物園も造るのです。そして人の動物園を造るのです。人間動物園です。動物園は動物園でも人間動物園だというのです。
(288-75, 1997.10.31)

 

③ 韓国を中心とした海洋摂理

イ) 天勝号
先生が海に対する関心をもったのは、1960年代からです。22年間、海洋産業をしてきました。1963年に天勝号を造り、五大洋に出ていくことができるように劉孝敏ユヒョミン氏と劉孝永ユヒョヨン氏に海で仕事をするようにさせたのです。しかし、彼らは海を嫌いました。
(276-314, 1996.3.10)
天勝号を造ったのが1963年です。劉孝永氏も船を嫌いました。水を嫌うのです。波を嫌うのです。海で台風が吹けば、家のように大きな波を越えることを楽しいと思わなければなりません。そのために死んだとしてもよいというやりがいを、そこに感じられる男性にならなければなりません。それなのに、「水が怖い」と言って海を嫌いました。もし、その時からアラスカに出ていったとすれば、世界的にどれほど大きく発展していたでしょうか。
(291-276, 1998.3.17)


先生は、「ために生きる心」をもってハナニムのために生き、人類のために生き、世界のために生き、万物のために生きているのです。万物まで解放したでしょう? それで、海のために生きているのです。1960年代には、韓国にある、すべての山に登りました。そして、1963年からは船を造りました。それが天勝号です。この世で、船に「天勝号」とつける人がどこにいますか。それは、すべて意味があるのです。天が勝利したという基準を立てるために、今まで船を造ってきたのです。
アメリカに来てから船造りを始めたのではありません。1963年から船造りを始め、今まで船に乗ってきたのです。1973年、1983年、1993年、24年間船に乗ってきました。朝から夜の12時まで、ある時はアラスカで明け方の3時まで、昼でも夜でも船に乗りました。一片丹心で船に乗ったのです。
(294-54, 1998.6.10)
韓国で船を造りましたが、その船の名前は「天勝号」です。それは、何が勝利するということでしょうか。天勝号とは、天が勝利するということですが、それはハナニムのみ旨を成し遂げるという意味です。既にその時から始めたのです。天勝号を造り、その時に、「世界の海を主管しよう」という話をしたのです。劉孝永氏が、「船、船」と言っていたのですが、実際にこの船を造ってあげると、年を取ったせいか船に乗ることを嫌がりました。
「先生、このように波が荒い時には、私は海に出ていくことはできません」と言うのです。漁民がそのように言うことができますか。死ぬまでには、出ていかなければならないのです。
(294-175, 1998.6.14)

 

ロ) 一興水産
皆さんは、教会の責任者たちでしょう? 今から会社の要員たちも、例外はあり得ないのです。統一家庭は同じ運命なので、「統一教会」といえば、すべてのものが一つになった教会です。ですから、会社ならば「会社統一教会」です。
「統一産業」といえば「統一産業教会」です。きのう、私は済州島チェヂュドから帰ってきました。そこに一興イルフン水産という会社がありますが、私はその社長に、「あなたは、今から一興水産教会をつくりなさい。そして、済州島にいる海女あまに、自分の母親以上、自分の妻以上に待ることができる準備をしなさい」と言って指示をしてきました。
(178-131, 1988.6.1)
済州島に造船所を造ったのですが、それを見て、「これではいけない」と思いました。それで、造船所を木浦モッポに移してみたのですが、そこでも、「ああ、これではいけない」と思いました。一興水産の本社も、済州島からソウルに移さなければなりません。世の中のすべてのことが、そうなのです。祝福をしてあげようとする時、受け入れ態勢ができていなければ天も離れていくのです。
(178-155, 1988.6.1)
今まで、私は一興水産をつくって、「どんどん基盤を築きなさい」と言って数百億を投入しました。
(184-156, 1988.12.27)


韓国に一興水産があります。今回、先生は11万数千人の日本女性と韓国の女性を教育して姉妹結縁をします。今は、末端部署にも、すべて私たちの組織の人間、すなわち私たちの要員がいるのです。それで全国に、慶尚南キョンサンナム北道プクドの代表、全羅南チョルラナム北道プクドの代表、忠清南チュンチョンナム北道プクドの代表、京畿道キョンギドの代表、そしてソウル地域の代表、このように5人の副社長を立てました。その人たちは、すべて女性です。二人を任命したのですが、あと3人を任命しなければなりません。
(262-247, 1994.8.1)

 

ハ) 造船所
木浦モッポの人は哀れです。先生は、全羅道チョルラドの人を気の毒に思っています。ここにいる全羅道の人は、気分が良いと思います。全羅道だということで国も同情せずにほっておくのです。しかし、私は、全羅道の人が哀れで木浦に造船所を造ることにしたのです。ところが、日数が長くかかるので造船所を一つ買いました。その造船所が木浦で一番大きいということで、どれくらい大きいかを見るために行ってみました。私は、アメリカの造船所をすべて見て回ったことがあります。造船所を買ったのですが、18億と言っていたのが、13億から8億まで下がりました。ムン総裁は買い物が上手なのです。物を買うにおいて、値切るにおいては1等なのです。
(173-139, 1988.2.14)
木浦に造船所を造ったでしょう? それは、お金をもうけるために造ったのではありません。教えてあげるために造ったのです。良い船を造らなければなりません。今は、最初なので反対しているでしょう? 反対をしていますが、良い船を造って東海(日本海)や釜山プサンの船を独占しなければなりません。
そのようになれば、どんどん注文が殺到してくるのです。その次には、私が一つずつ注文を分けてあげるのです。今は、このような状態ですが、それが生きる道です。そのようなことをしようというのです。そのようにすれば絶対に滅びません。「滅びろ」と言っていくら祭祀さいしをしても滅びることはありません。天運が保護するのです。
(180-333, 1988.10.5)
福を受けることを誰しも望みますが、福を受けようとすれば受ける準備が必要です。準備ができていない人は流れていくのです。でも、自分たちの計画どおりにしてくれることを願ったのです。城山浦ソンサンポにおいても、それを早くやっていれば、私が冷凍会社を造り、船も、8000トンから1万トン規模のものをすぐに造ってあげることができたのです。道でも、私たちが土地を買うことに支援もしなかったのです。自分たちの間では「売ってはならない」と言ってありとあらゆることをしたり、「高く売りなさい」と言って操作をしたのです。
(188-9, 1989.2.16)
魚をり始めれば、魚を運ぶ船が必要になってくるので、運輸事業と自然に連結するのです。そして、中東の石油を運搬する何十万トンにもなる遠距離タンカーまで造らなければなりません。世界的な造船所に発展していこうとすれば、一番下のものまで、すべてのものを備えておかなければなりません。今は、図面さえあれば何でもつくることができる技術を確保しました。そして、魚を獲ろうとすれば、網をつくらなければなりません。網づくりから、何から何までできる訓練がすべてできています。
(262-243, 1994.8.1)


実績が良い人には、木浦にある私たちの造船所の技術を教えてあげようと思っています。木浦にある私たちの造船所は、本格的な造船所です。鉄でタンカーから化学船まで、何でも造れる技術を教えてあげようと思っています。その技術をもって、六大州を中心として、アフリカならばアフリカの代表的な国において、そのような工場を造らなければなりません。
(276-030, 1996.1.2)
先生は、恐ろしい人です。造船事業をすれば、自分たちの隠しているものを一発で摘発します。このポール・ワーナーが私たちの造船所であるマリン・マスター造船所の責任者になったとき、あちらこちら自慢して回りましたが、隠しておいたものをすべて暴いて攻撃しました。最も恐るべき先生です。船のデザインも、先生が指示するのです。新聞の記事のレイアウトも、先生が指示をして、アメリカの新聞オリンピック大会で1等を取りました。そのように早いのです。以前のように考えてはなりません。そのような何かがあるので、サタン世界のいかなる政府ももち得ない基盤を築いたのです。
(276-103, 1996.2.4)
私が造船所に行けば、船がどのように造られたのかをすぐに探り出し、間違っているところがあれば、すぐに命令するのです。「ここを、どうしてこのようにしたのか」と言うのです。アラバマの造船所でも、私が訪問することを最も恐れています。隠しておいたものをすべて摘発するので、「先生は化け物のようだ」と言っているのです。私は、そのような人です。
(287-232, 1997.10.4)
今後、事業する責任者が主体になれば、その対象をつくらなければなりません。発展させて、造船所ならば造船所の社長を中心として、社長と職員が主体と対象となって一つにならなければなりません。職員と一つになる目的は、国を復興させるためです。そして南米を復興させ、世界を復興させるためです。
(287-291, 1997.10.16)
25年の間、毎日、先生は船に乗ってきました。私の手で海洋産業を育てていかなければなりません。それで、きょうも玉浦オクポ造船所に行ってきました。「この造船所を私が買うか、それとも北朝鮮に行き、ソ連満州の三角地帯にこれ以上のものを造らなければならない」。そのようなことを考えながら視察したのです。そのようなことを、私一人で考えているのです。そのようにすれば、北朝鮮の人々が生きるのです。
(290–210, 1998.2.24)
私たちは、船を早く造らなければなりません。木浦造船所で造って、ここでもはえなわのようなことをするのです。アカアマダイのような魚を釣る場合は、船はかなり速くなければなりません。現在よりも2倍は速くなければなりません。3時間かかる所に、1時間半で行かなければなりません。私たちが新しく造ったワン・ホープ号は沈まない船なので、6人で乗ってどこへでも行くことができます。
台風が吹いても錨綱いかりづなさえ切れなければ、生き残ることができるのです。台風が吹いても問題ではありません。大きい船は沈みますが、私たちの船は沈みません。私がそれを開発したので、ツナ釣りにおいて世界的な基盤を築いたのです。どこへでも行くことができるように、それを活用しなければなりません。
(291-279, 1998.3.17)


本来、私は、ここで日本と中国を相手にしようとしました。ここに中国の船が来たでしょう? 中国船のために造船所に修理工場も造りました。修理してあげなさいということです。船が故障すれば、原価で直してあげるのです。日本人にも、地歸島チクィドにつくった釣り場を案内してあげるのです。そのようにすれば、高官たちが飛んできます。それで、摹瑟浦モスルポに飛行場も築いたのです。中国の飛行機と日本の飛行機が自由に往来しなさいということです。ほかの国には使わせないで、中国の飛行機と、ソ連の飛行機と、日本の飛行機の専用飛行場にするのです。
(291-303, 1998.3.18)

 

ニ) 済州島を国際釣り場として開発
先生は、10年前から済州島チェヂュドに対して関心をもってきました。済州島は、軍事要塞ようさい地域として、今後、アジアで重要な地域となります。
このようなことをずっと考えてきたので、済州島に多くの関心をもってきたのです。開発問題、もちろん観光開発も開発ですが、今後、国の運命において、海と接しているこの済州島が重要です。
(126-157, 1983.4.19)
済州島は、昔、蒋介石が、「軍港として貸してくれれば、自分がアジアを占領する」と言った、そのような重要な所です。韓国において軍事基地として重要な場所です。あれこれ勘案してみれば、今後、済州島は、香港ほんこんのように、国際自由都市としての機能を発揮し得る場所になるでしょう。金利が自由体制になれば、スパイ活動ができる基地として、最も適した所です。そのような面からも、軍事的に重要な要塞です。そのようなことをよくよく考えると、済州島で事業をすることは簡単なことではありません。それで、仕方なく事業基盤を築き、何から始めたのかというと、それが釣り場です。
(126-311, 1983.4.30)
済州島は、我が国において海洋関門として重要なアジアの要所となっています。東シナ海日本海を経て太平洋まで連結することができる位置にあるので、軍事要塞として最も重要な場所です。そして、摹瑟浦モスルポの横にある港は、世界的に有名な軍事港となり得る水深をもっています。
(126-311, 1983.4.30)
先生は、世界中を回ってみましたが、韓国ほど良い所はありません。気候から見ても、山水の美しさを見ても、韓国は、本当に世界にない国です。私はいつだったか、韓国のような風景をフランスのある田舎に行って感じたことがあります。しかしそれ以外は全く異なります。ここは山々を見ても、老年期の山なので、すべて花のつぼみのようになっていて美しいのです。ほかの所に行ってみれば、例えば日本の山を見ても青年期の山なので、でこぼこしていて見栄えが良くありません。山の姿から見ても、韓国は美しい国です。また、3面が海に囲まれた半島なので、自然の恩恵を受けており、景色においてはより一層の恩恵を受けている国です。
(169-136, 1987.10.29)


晴れた日に漢拏山ハルラサンに登ると、すべてを見下ろすことができます。そこから見ると、「ああ、一度一回りしてみたい」という気持ちになります。しかし、1周できる観光案内所がありません。山に登っていく施設もなく、海に出て1周することができる施設もありません。せいぜい車で1周するくらいのものです。車で1周するのは全然おもしろくありません。ですから、ここで必要なのがケーブルカーです。ケーブルカーを造らなければなりません。
(126-313, 1983.4.30)
漢拏山を誇らなければなりません。済州島は、何をもって誇るのでしょうか。漢拏山をいかにして誇るのでしょうか。それで、私が海軍基地をつくろうと思ったのです。漢拏山の中腹に飛行場もつくるのです。B-29のようなものも、ここから北済州プクチェヂュに飛べば、四方を見渡すことができます。そして空母も、海から済州島を貫いていくようにするのです。漢拏山の東西南北に穴を開ければ、できることではありませんか。人間は、何でもすることができるのです。そのようにすれば格納庫になり、戦闘機のようなものもエレベーター式に数万機を収納することができるのです。石油タンクのようなものも、山の中に造ることができるのです。
(291-282, 1988.3.17)
済州島チェヂュドの「チェ」という字は「渡る」という意味です。「渡っていって主人として振る舞う所」という意味です。また「済州島」と言えば祭司長(注:祭祀チェサを捧げるチュが祭司長だから)の国です。地歸島チクィドという島は、おもしろいのです。ここは、海を中心として何百メートルもの柱を打ち込んで釣り場をつくることができます。そして、大陸とガラスパイプのようなもので連結すれば、自動車で行ったり来たりすることができるのです。そのようなものを造って流されないように埋めておき、車で行き来できるようにするのです。そのような時代がやって来ました。ここ済州島ですべきことは、ほかでもありません。釣りです。そしてゴルフとハンティング、それからカジノです。その次には、販売市場を形成しなければなりません。良い物を売る販売市場がなければなりません。その次には、おもしろいものがなければなりません。山にへリコプターに乗って上がっていくよりも、エレベーターやケーブルカーで上がっていき、また海では、快速艇で済州島を巡回することができればおもしろいのです。日本にも、1時間で行ったり来たりするのです。
(291-246, 1998.3.15)
山にも登り、海も1周すれば、その次に考えることは何でしょうか。釣りをすることを考えるのです。釣りは、済州島で紹介すれば、必ずするようになっています。「済州島で有名なものは何ですか」と聞けば、もちろん「石も多く、女性も多い(注:済州島は風と石と女性が多い三多島と言われている)」と言いますが、一番多いものは魚です。済州島の全域に釣り場の許可を出さなければなりません。地歸島も開発すれば、それを中心として七つの島があります。七つの島をすべて開発しなければなりません。今後、済州島をどのようにするのかというと、3時間以内の場所では魚をることができないようにしなければなりません。観光の釣りはできても、網で獲ることはできないようにするのです。それは、法的にも可能です。
(126-313, 1983.4.30)


済州島の魚は小さい」と言って、悪口を言ってはいけません。アラスカの魚だけが良いのではありません。済州島の魚を刺身にしたのですが、刺身というのは片方を下ろして作るではありませんか。ところで、これを丸ごとざくざくと切ってみると、その骨がとても固いのです。もっとも砂利の海にんでいる魚なので、固くなければ生きていくことができません。そうでなければ骨が折れてしまうではないですか。そして、それを食べてみると、その魚の肉が本当に香ばしいのです。
(222-277, 1991.11.3)
地歸島も、1周ぐるっと回ってみれば、気分はどうですか。韓国で、冬でも釣りができる場所は、ここ済州島しかありません。また、ここは火山脈なので、海中にある石も火山石であり、そこには小さな魚や虫がたくさん生息しているのです。魚も、網よりも釣って獲るほうが良いのです。それで、釣りで有名なのです。日本でもそのように知られています。
(253-95, 1994.1.9)
済州島を見れば、そこで釣りに関係している人が3300人だということです。商店だけ見ても、とてもたくさんあります。全国的には何万人にもなるのです。それらの人々は、すべて中流以上の人です。趣味産業に力を入れることができる人は、中流以上の人だということです。趣味産業関連のスポーツ店、そこには銃器も含まれています。釣りに使われるフライ(fly:毛針)のようなものは消耗品です。どれくらい工場が必要か分かりません。これをすれば、大した産業になるのです。フライのようなものは1年しか使えません。ですから、その工場を造って人件費の安い多くのアフリカ人を採用し、その人たちが生活できるようにするのです。先生は、済州島に来てそのような面も考えたので、9日と10日に釣り大会とハンティング大会をしようとしているのです。それは、世界平和のためにするのです。
(252-215, 1993.12.30)
アラスカは、サーモン(さけ)以外には適当な魚がいませんが、済州島には様々な種類の魚がいます。魚の種類が多様なので、釣りの趣向も多様になるのです。近ごろは狩猟でも有名です。また、낙지ナクチという済州島特産のたこがいます。頭の大きな、とても変わった済州島特産のたこがいます。済州島は、コディアックに代わって船釣りで趣味を満喫することができる場所であり、日本人が釣りをするのに良い場所です。観光客を誘致することができる良い場所です。
(253-95, 1994.1.9)
済州島に行けば、すずめだいという魚を釣って食べるでしょう? すずめだいを知っていますか。最近、私が済州島に行った時のことです。この魚を釣り上げて、そのままそのしっぽをつかんで酢を入れた고추장コチュジャン唐辛子とうがらしみそ)につけ、丸ごとむしゃむしゃ食べると、「やー、あの人たちはふんも分けずに食べている!」と言われました。そのようにして食べても病気にはなりません。魚が食べるものは、自分が消化できるものです。ですから、自分の体に合った魚を食べれば病気にはなりません。おいしく食べさえすれば、体に入っていったその糞のいとこのゆえに、どうして病気になるのかというのです。おいしく食べれば、理想的な材料が入っていき、キムチのように熟しておいしくなるので、病気にはなりません。それで、生きているのです。
(218-89, 1991.7.2)


済州島は、陸地から取れた陸地のひとかけらではありませんか。かもめが糞をする所です。飛び回りやすく、糞をしてひな孵化ふかする所です。かもめも島で卵を産むのでしょう? 島は、すべての海の動物が子を産む所です。四つ足動物のような姿をしたものは、陸地に行って子を産まなければなりません。亀もそうでしょう? 海中に棲んでいるものも、魚以外はすべてそのようになっています。魚には生殖器がありません。海の魚には必ずこのような点があります。すべて線があります。雄と雌が、それをこすり合わせて関係を結ぶのです。子を産む時は、すべて陸地に来て子を産みます。済州島はそのような面で、必要な所です。
(291-308, 1998.3.18)
白頭山ペクトゥサンは男性であり、漢拏山ハルラサンは女性と同じです。二つは相対的になっているのです。白頭山は夫の山であり、漢拏山は妻の山です。海の中にあるので、女性の山です。そうでしょう? 済州島の人が飢え死にしたという話を聞いたことがありますか。海に行けば、どこでも食べられる海草があるのです。済州島、すなわち祭祀さいし(チェサ)を捧げる主人(ヂュイン)が住んでいる所なので、夜明けに海辺に行けば、ご飯やリンゴのようなものがはいて捨てるほどあるのです。女性が息子、娘を連れて白いご飯やリンゴのようなもので祭祀を捧げるので、夜明けに行けば、そのようなものがたくさんあるのです。祭祀は、人が見る前にするので、朝、行くとそのようなものがたくさんあります。
(284-247, 1997.4.18)
海を平地にしようとどのようにしようと、国を生かすことができれば良いのであって、漢拏山が問題ではありません。たとえ漢拏山を売ったとしても、国を生かさなければなりません。そうでしょう? だからといって漢拏山がなくなりますか。海に入っていって生きているのです。この山が千年、万年立ち尽くしているので、「漢拏山が一度、平地に来ることが万民の願いだ」という記念塔を立て、万民がここに来て各国の王が出入りすることができる基地をつくってみてください。大統領、世界の官吏たちが来てそのようなことをするのです。漢拏山が問題ではありません。南米に行ってみれば、漢拏山は何でもなかったというのです。
(291-255, 1998.3.15)
今回、私は済州島に行って、「とらを二組ほど寄付すれば良い」と言いました。虎が漢拏山の頂上に登っていって、「うぉーん」と鳴いて海の波の音と調和しなければなりません。では、そのようなことが良いですか。「ああ、波の音は騒がしくて嫌だが、山の音は静かだ」。これが良いですか。それでは調和しません。「ざぶーん、ざぶーん」と波の音がすれば、山でも、「うぉーん」と鳴いてそれに調子を合わせなくてはならないのです。そのような話をしたのは、悪いことではありません。1年に何人かが食べられたとしても・・・。悪い話ではありません。天地が和動することです。
(145-280, 1986.5.25)


今後、済州島が観光地になれば、どのようになるのでしょうか。今は、どのような人々が済州島に多く行くかというと、新郎新婦がたくさん行きます。ところで、私たちが宣伝さえ良くしておけば、「ああ、暑いのにどうしてホテルに入って寝ていられるだろうか」。このようになるのです。これは、夢中になってしまう遊びです。海で釣りをしながら新婚夫婦同士が、楽しく過ごすことができるようにするのです。すべてのものを供給してあげるのです。釣りの道具もそろえてあげ、えさもそろえてあげるのです。それから朝食も、買って食べられるようにして、あらゆることができるのです。
(126-316, 1983.4.30)
済州島に、猟場と釣り場をつくって訓練しようと思います。ここに来る時、一つの国から100人ならば100人を連れてくるのです。そのようにして、「世界平和観光釣り協会」の会員がますます多くなれば、その目標のために毎月、月極め金を出して援助してあげることはいくらでも可能です。中流以上の人々がそれをするのです。
今後、皆さんは、そのような任務を負い、アフリカに行って援助してあげられるようにその国に影響を及ぼし、毎年このような仕事をするのです。各国に猟場と釣り場がなければなりません。それで、養魚場と猟場をつくり、そこでハンティングした獣や釣った魚は、殺さず買い戻して、再び投入するのです。季節ごとに、ほかの場所でできるようにするのです。
(253-109, 1994.1.9)
済州島は、気候が良いのです。アラスカは、冬に釣りをすることはできませんが、済州島に行けば、今は釣りをするのにちょうど良い時期です。皆さんは、1年、春夏秋冬の四季を中心として、釣りができる200人を確保しなければなりません。あまり多すぎても困ります。50人、すなわちバス1台ずつの人を連れてくることができるように、帰ったならすぐに200人を確保しなければなりません。私たちの組織がそのようになれば、夜は、私たちの世界的な活動や、その地方の釣りに関する紹介をするのです。このようにしながら、最終的にみことばを語ってあげるのです。世界の頂上に対する問題や世界の政治問題、外交問題、経済問題等、全般的な問題に対する教育をするのです。教育できる材料はいくらでもあるので、高次元的な教育をして統一教会に関心をもつようにさせて食口シック化する運動をするのです。そのようにすれば、3年以内で食口になります。
(252-214, 1993.12.30)
先生は、世界的に多くの団体をつくりました。数十年前からつくってきましたが、そこにはすべて「平和」という文字が入っています。「世界平和教授アカデミー」、「世界平和サミットクラブ」、「世界平和新聞協会」、「世界平和宗教連合」、「世界平和女性連合」など、すべて「平和」という文字が入っています。先日、済州島で釣り協会とハンティング協会をつくりましたが、それも「世界平和釣り協会」と「世界平和ハンティング協会」です。すべて「平和」です。
(259-146, 1994.4.2)


3) 海には学ぶものが多い

 

① 海のように天下を抱いて生きなければならない

海を回ってみれば、本当に学ぶものがたくさんあります。海は、1日の間にも何度も変化します。世の中では、「人心は朝夕に変わる(注:人の心は頼りにならないということわざ)」と言いますが、海は、朝夕ではなく時間ごとです。時間ごとに変わるのです。よくよく見ると、いくら天候が良い時でも、ある場所に行けば波が穏やかなのですが、ある場所に行くと風が吹くのです。強い風ではありませんが、そのようにすべて異なっています。人の顔が異なっているように、水があり山があれば、山の高低に従って気候も変わるのです。海は千態万状の妙味をもっています。
(263-18, 1994.8.16)
先生は、自然が好きです。海が好きです。海がどれほど神秘的か分かりません。水滴は、すべてダイヤモンドの玉です。これがきらきらしながら、「私は、ムン総裁のものです。ダイヤモンドよりもっと高い価値をもっているのが、私たち水です」と言って誇るのです。どうして水が誇るのでしょうか。「私がなければ、この世に生命は形成されません。また、私がいるので、深かったり低かったりするものも、すべて水平にすることができるのです」と言っているのです。海が、どれくらいでこぼこしているのか知っていますか。しかし、水がそれを水平にしているので、どれほど気分が良いでしょうか。気分が良く、見ても千年、万年飽きることがないように青い光を放っているのです。青い光は、慰労の光です。
なぜハナニムは、青い光をつくったのでしょうか。この光は、いくら見ても疲れません。それは、慰労の色です。万物は、すべてそうです。空も青く、海も青いのです。それは、どれほど理想的でしょうか。ハナニムの愛に浸るようになれば、すべてが友になります。人間も友達になるかもしれませんが、自然界がすべて友達です。一度、その性格を知っておけば絶対に変わることはありません。
しかし、人間の性格は千態万状です。きょうはこのようであっても、あすになれば変わっています。それで、「人心は朝夕に変わり、山色は古今変わらず」という言葉があるのではないですか。人の心は、朝夕に変わります。そのような人間に使い道がありますか。ですから、動物にも劣るのです。
(177-274, 1988.5.20)
海は、天下を抱いて生きています。1箇所に集まって雲になり、山を覆ってその友となり、高い所から雨を降らせて四方に広がっていくのです。驚嘆に値するものは水です。水は休みません。千年、万年動いていれば、どれほど疲れるでしょうか。文総裁は海を愛しています。自然には、いんちきなものがありません。高ければ高く、低ければ低いのです。そして、高い所にいれば、異議なく供給してあげるのです。文総裁はそれを学び、異議なく供給してあげるのです。異国の地に行っても、私よりも貧しく暮らしていれば、私の倉庫を開いてすべてを分けてあげるのです。たとえ私の米がなくなったとしても、すべてを分けてあげるのです。水平になるようにするのです。それは、すべて水から学んだことです。それで、水が好きなのです。
(300-141, 1999.3.2)


空も青く、海も青く、草も青く、すべて青ければどのようになりますか。本来ならば窒息するはずです。それが自分の好きなイエロー(yellow:黄色)であったならばどうだろうか、一度、想像してみてください。すぐに嫌気が差すはずです。また、別の色をもってきたとしても、いくらもせずに嫌気が差すはずです。
けれども、グリーン(green:青色)は慰労の色です。これは常に青いのです。それでは、人はなぜグリーンを好むのでしょうか。存在世界は、グリーンとともに調和しています。それゆえに、土にはグリーン・カラーが多くあると考えるのです。土は主に、グリーン・カラーと近いのです。ですから、土でつくられた私自身がグリーン・カラーを好むというのは理論的な話です。そのように考えることができます。ハナニムもそれを知っていたので、空も青くし、海も青くしたのです。
すべて人を中心として、このグリーン・カラーと調和するようにしたのです。それは、どれほど素晴らしいことでしょうか。
(119-168, 1982.7.18)
海が穏やかな時は、神秘的です。魅惑的な神秘の女王のような美女になり、すべての人々を引き込む力があります。海は、銀色にも見えますが、翡翠ひすい色にも見えます。そうかと思えば、また千態万状です。そこに、そよ風が吹けば、その波の美しさというものは何と言ったら良いのでしょうか。舞姫がどれほど上手に踊りを踊ったとしても、そこについていくことはできません。
皆さん、ダンサーを見ようとすれば小さいステージ(stage:舞台)で、踊っているのを見物しますが、それはあまりにも狭いのです。反対に海のステージは、無限です。海の舞台がどれほど広いでしょうか。美女や舞姫のような性質があるかと思うと、一度怒れば、荒野で飛びかかってくるとらやライオンよりも恐ろしいのが海です。それを考えてみてください。何十メートルもの波が押し寄せてきて引いていく時は、かもめが鳴いても相手になりません。「お前がいくら歌を上手に歌おうと、お前がいくら素晴らしい喜劇俳優であっても、雄壮な私の気勢の前にはかなわない!」と言うのです。威勢が堂々としています。
波が穏やかな時は、快速ボートが気分良く、さーっと進みますが、ここでは動きをとることはできません。しっぽを振り、頭を振って、このようにしているのです。波に乗り、波のなすがままにするようになっているのであって、そこには自らの勢いというものはありません。
(128-249, 1983.8.28)
自然の力は偉大です。ゆえに、海を愛する人驕慢きょうまんになることができません。海には、そのような偉大さがあります。海の門を開いてのぞいてみれば、そこには無尽蔵の魚がいます。黄金色から金色、青色と、ない色がないほど多くの魚族が暮らしています。陸地と海の中を比較してみれば、どちらがより美しいでしょうか。陸地も美しいでしょう? しかし、陸地には花とちょうと、それ以外に何がありますか。それから美しい鳥もいるでしょう。しかし、それらのものは単調です。花は動きません。海にいる豪華絢爛けんらんな色をもった美しいすべての生き物は、踊りながら活動しているのです。ですから、どちらがより美しいですか。陸地が美しいですか、海が美しいですか。海が美しいのです。ハナニムは、どうして水をつくったのでしょうか。「ハナニムが鑑賞するための特別装置が水だ」。このようにも言うことができます。ぱっと隠しておいて公開しなかったということです。このようなことを見れば、ハナニムは、陸地よりも海により多くの関心をもっているはずです。


また、未来を考える人は、陸地よりも海に関心をもつのです。ハナニムは、まだ見ぬ未来の理想家庭に関心をもっています。それゆえに、地球の歴史始まって以来、今まで地上に現れたものに関心をもつよりも、まだ見ぬ未来観をもっている海の世界に関心をもつということは必然的なことです。これは理論的です。そのような立場から、海を考える人、すなわち未来像を憧憬どうけいする人が増えてくるようになるという話が出てくるのです。
(128-249, 1983.8.28)
釣り糸を垂らして座っている時の退屈さは、到底、言葉で言い表すことができません。そこで散歩することができますか。このくらいの所で動いて、そこで料理をしなければなりません。そこで映画を見ることができますか。また、友人と遊びに行くことができますか。静かにしていなければならないので、音楽を聞くこともできないのです。ですから、海を見つめながら海と空と対話をするのです。海と空が一つになっているそこに私一人がいれば、本当に気分が良いのです。先生は、なぜしきりに海に出ていくのでしょうか。霊的に、すべての面において利益が多いのです。私が1日中家にいれば気が散漫になって、世界宣教師や教会問題など、考えなければならないことの何分の1しか考えることができません。しかし、海に出ていけば全体的な考えが浮かぶのです。そのような面において、海はとても良いのです。それで、「『釣りどう』という言葉が出てきたのだなあ」と感じるのです。
(79-270, 1975.9.1)
静かな海で、1双のカップルが愛し合っている姿を想像してみてください。海が、「こいつ、私は耐えられない」と言うでしょうか。そのようになれば、魚の群れが来て尾を振って見物しながら喜ぶのです。万物は、そのような愛を願っているのです。自然のすべての存在が、「頼むから来てください! してください!」と言って、そこに来て愛し合ってくれることを望むのです。皆さんも、それを推し量り、感じることができる心をもたなければなりません。主人が白い雪の積もった山の頂上に行って愛し合えば、「私たちの主人が、このように美しく愛し合っている!」と言って喜ぶのです。それを願っているのです。
(235-277, 1992.10.11)

 

② 海の生活は素晴らしく神秘的だ

太平洋を中心として、「黒潮」は4000マイルを回っています。1年に4000マイル回ります。その回る力によって五大洋が回るのです。もし黒潮がなければ、海は回りません。この黒潮によって大西洋と太平洋は、五大洋と通じているのです。
(227-129, 1992.2.11)


このような環境条件を通じて、五大洋がすべて死なずに生きているのです。
(297-209, 1998.11.20)
いくら川が大きくてもそれは海に入っていき、海がいくら広く流れているといってもそれは黒潮に従っていくのです。黒潮というものを知っていますか。黒潮というのは、太平洋地域を中心として円を描きながら4000マイル回っている海流のことです。力強く回る水の流れによって、五大洋のすべての水の流れが、生きて作動するのです。
それに乗って回ることができてこそ、海水の資格をもつのです。人間が生きていくのも同じです。
(220-201, 1991.10.19)
川がいくら大きくても、大小すべての川は、いずれ大海に入っていくのです。大海に入っていけば、すべて混ざり合うようになっています。五大洋を中心として見れば、太平洋には黒潮というものがあって4000マイルを回っています。もちろん月の引力によるということもありますが、このように回る黒潮があるので、五大洋全体を動かすことができるのです。それは海の柱の役割をしているのです。汚いものでも、何であっても、入っていけばそれをすべて混ぜ合わせて、一つの姿勢になろうとするのが海の目的です。
いくら大きな川が何万年も継続的に淡水を投入したとしても、それをすべて吸収して余りある余裕をもっているのです。ですから、海に権威があるのです。海は、いくら入っていこうと、変わらない姿勢を備えているので偉大なのです。
(210-200, 1990.12.23)
日本の雲が太平洋を渡ってアメリカの雲と一つになる時、「私はアメリカの雲は嫌だ!」と言いますか。日本の水が黒潮を通じて太平洋に行き、そこにアメリカの水が来れば、「おっとっとっと!」と言いますか。太平洋には、4000マイルの黒潮が流れています。そこに先進国や発展途上国がありますか。国家間の境界線がありますか。それなのに、人間世界のこの姿は何ですか。自然運動に反するものは、すべて壊れていくのです。
(268-26, 1995.2.7)
愛の世界は、どこに行こうとすべて通じるのです。太平洋の水が、「私は、太平洋の水だ。アジアの水は、すべて汚染されているので嫌だ!」と考えるでしょうか。水がどこから流れ出ようと、すべて連れていくのです。そこに悪いものがあれば、それを混ぜて、早く解消させ、同じ道を行こうと努力するのです。
ゆえに、太平洋の水は、いくら公害が激しかろうと、たとえ人類がいなくなることがあろうと、変わらず青いままでいるのは間違いありません。いくら試練を受けて紆余うよ曲折の過程を経たとしても、海水の青い色が占領されないのと同じように、愛の権威と、愛の内容と、愛の力は常に青いのです。
(214-273, 1991.2.3)
統一教会は、世界の主流の海流となり、太平洋の黒潮のようにならなければなりません。太平洋で4500マイルの黒潮が回り、五大洋の水が回るようになっているのです。世界の生命力を宇宙ですべて勃発ぼっぱつさせるためには、深い所を回っていって、動かせる源泉をつくらなければなりません。そして、汚い世の中をきれいにしなければなりません。
(275-32, 1995.10.30)


台風が吹けば、どれほど波が憎く、風が恐ろしいか分かりますか。しかし、その風も自分の使命を果たしているのです。もし風が吹かず、海に波がなければ、魚が生きていくことはできません。風が吹くのは、海に酸素を供給するためです。波というものは、酸素を供給するためのものです。ゆえに、波が激怒しようと、どれほど風が吹いてこようと、それを味わいながら、「お前は味を失っていないな!」と、そうしなければなりません。海は、塩辛い味をもっています。先生も、「レバレンド・ムーンの味は失っていない」と、そのように考えます。そのように考えれば波も憎くなく、押し寄せる波も憎くないというのです。
海には哲学がどれほど多いか分かりません。陸地だけで生活した人間は、あの世に行って理想的活動をしようとすれば、とても多くの支障があるはずです。霊界に行けば鯨にも乗り、魚と一緒に泳ぐことができるのです。しかし、海が好きでなければ、そのようなことをすることはできません。
(119-252, 1982.9.13)
海に出ていけば、台風というものは恐ろしいのです。その波は、本当に恐ろしいのです。しかし、いくら恐ろしくても愛の力を帆にかけていく場合は、それも越えていくことができるのです。
(110-102, 1980.11.9)
海は、そのままじっとしていてはいけません。水が動けば死にません。器にんでおいた水も、動かしてさえおけば永遠に死ぬことはありません。運動すれば死なないのです。
遠洋漁業をする船は、一度、出港すれば1年6ヵ月から2年分の水を一度に積んでいきますが、海水に揺られるので、その水は何百年置いたとしても腐ることはありません。動かせば腐らず、停止すれば腐るのです。ですから、水は本当に特殊でしょう? 水はそのようになっています。
(296-200, 1998.11.9)
遠洋漁業をしようとすれば、飲み水を船にたくさん積み込んでいきます。1年半の間その水を飲まなければなりません。塩水を飲むことができないからです。水は動かせば、何十年たとうと腐ることはありません。水は動かさなければなりません。ゆえに、みことばも動かさなければなりません。
(291-88, 1998.3.5)
水は、なぜ流れるのでしょうか。水平になっていないので流れるのです。水は、流れてどこを訪ねていくのでしょうか。水平線を訪ねていくのです。水は、海に行かなければなりません。水平を訪ねていかなければなりません。
(263-91, 1994.8.21)
水は、常に水平にならなければなりません。それが特徴です。海は、いくら大きな波が立とうと水平線を描いています。水平線を見れば、寝ころんでみたくなるのです。「いやー、一度、寝ころんでみよう」となるのです。そのようなことができないので、船に乗って転がるのです。そのようなことを考えてみましたか。水平線では何をしても、ひっくり返ったとしても頭や足が先につきません。水平に、ぴたっと合うのです。そのようなことができるのが水平線です。人間には、水平線が必要です。
(263-90, 1994.8.21)


空気や水は、愛と同じです。空気は、真空が生じさえすれば世界の空気を動員し、さっとそこを満たしてしまいます。海の水もくぼみが生じれば、さっと押し寄せ、水平になろうとするのです。空気も水も愛も、常に水平になろうとするのがその生き方です。
(264-316, 1994.11.20)
私たちが海に行けば、水を見ます。水は循環しています。水のある所では、朝、霧がかかります。水蒸気になり、これは低気圧なので上がっていくことができません。
水が水蒸気になって集まったものが霧です。この水が霧になるのです。そして、蒸発して雲になり、世界を回るのです。海に水がなければどのようになりますか。大変なことになります。生物が存続できません。水がどれほど偉大なものであるかを考えてみてください。
(263-78, 1994.8.21)
皆さんが知っているように、先生は、時間さえあれば海に出ます。海に行って、もまれるのです。もまれるのですが、それは精神を整えて大きな闘いをするための試練であり、準備だと考えるのです。睡眠も取らず本当に疲れますが、精神をまっすぐ正し、自らそのような標準を定め、水平線から他の方に傾かないようにしているのです。
(73-270, 1974.9.29)
空気も動き、水も千年、万年動いているでしょう? 千年、万年動いているのですが、全く同じ公式です。海を見てください。水は、どれほど疲れるでしょうか! しかし一度も疲れると思ったりはしません。それが存続し得る公式です。
(207-18, 1990.10.21)
海の世界を知らない人は、それだけ幸福の領域が制限されるという結論になります。創造主がいらっしゃるとすれば、陸地を知り、海をよく知って、海の神秘性を思い、陸地の美しさに思いをせながら称賛するのを喜ぶのであって、一面だけをもって喜ぶことはないはずだ、と考えるのが至極、理論的な話です。
(128-256, 1983.8.28)
海や陸地も、すべて人間一人を教育するために造られたものだということを考えれば、創造主の有り難さを実感することができます。
(128-259, 1983.8.28)
海を見ても、それをただ海として見るのではありません。「天の父が私に下さった贈り物だ」と、このように考えるのです。再創造する過程で、すべてのものを再度調べてみるという事実、ここで偉大な革命が起きるのです。偉大な勝利の旗印が、ここから芽生えてくるのです。
(112-306, 1981.4.25)


 

③ 海は偉大な自然の力をもっている

先生は、刺激的なことが好きです。変動の多いところから切り開いていくのです。そのようにしようとすれば、陸地よりも海のほうが優れているのです。海は風も吹き、穏やかでもあり、波風が何度も起こったりしながら変化するのです。ですから、陸地の旅行よりも、海の旅行が楽しいのです。
陸地は、旅行して回っても朝の考えはそのままで、変動はありません。陸地は、いくら回っても修正することなく穏やかに行くことができますが、海はそうではありません。自分がこのように行こうと思っても、あっちに行ったり、こっちに行ったりするのです。そのように変わります。変化する時には、本当に刺激的な変化が起きるのです。穏やかな時は、陸地が顔負けするほどです。本当に不思議なほどの穏やかさです。ある時は、海面がガラスに思える時があります。あまりにも美しくて、触ったり食べたりしたくなる時があります。ですから、海は限りなく変化しますが、「私は行く」という一念で前進していくのです。そのような刺激がなくては、大きな仕事をすることはできません。
(79-270, 1975.9.1)
海の底を見れば、鯨のようなものもいますが、ハリバット(halibut:ひらめ)のような魚もいるし、キャットフィッシュ(catfish:なまず)のような姿をした魚が底にくっついて生きています。このキャットフィッシュのような魚は、体よりも頭が大きく、口も大きいのです。これで何をするのでしょうか。それは、大きいもの、腐るものが流れ込んでくれば、かじって食べるのです。いっぱいのみ込んで、かじって食べるのです。それでも足りなければ、虫を吸い込んで食べるのです。このように休まず浄化作業をしています。清掃作業をしているのです。
パンタナールに生息している魚は、3600種です。3600種の魚がいます。それらが食べるえさは、すべて異なります。そのようなものが混ざり合い、休むことなく海の清掃作業をしているのです。食べるという行為自体が清掃作業だということを知らなければなりません。彼らは自分の目的のために生きているのではなく、環境を整理しながら、周辺をきれいにしながら、互いに助け合いながら生きているのです。それが自然協助体制です。彼らは海の水をきれいにする運動をしているのです。海は、塩辛いだけでもいけません。魚がいて、汚いものも食べたりしなければなりません。魚のふんは、どのようにするのですか。それをまた食べる魚がいるのです。
(293-283, 1998.6.7)
海をきれいにするのは魚だけではありません。水鳥もそうです。かりや、かもめのような水鳥たちは、休むことなく探索しているのです。もし、この海の表面ではなく、中間を流れていくものがあれば、水の中に入っていき、探し出してそれを食べて生きているのです。また、風が、「おい、雲よ、今、向こうに乾いて死ぬほど暑い所があるから行こう」。このようにして冷たい海の空気がそこに行くのです。その風が雲を乗せて通り過ぎながら、水をまいてあげるのです。


この宇宙が、いかに共同協助体制になっているかを考えてみてください。風がなければどうなりますか。大変なことになるでしょう? 皆さんが食べるご飯やパンなどというものも、そうです。水蒸気が海から空に上がって風に乗り、真夏の暑い太陽の光に乗って訪れ、そこで雨を降らせれば、その水分を吸い込んでそれらが作られるのです。土の中の水分や空気の水分が合わさって、ご飯ならばご飯になり、パンならばパンになるのです。それを考えてみれば、どれほど苦労したかというのです。それは、どれほど貴いものでしょうか。そこに宇宙が動きます。宇宙が動いて協助してパンになるのです。そのパンのひとかけらは、簡単にできたものではありません。
(293-285, 1998.6.7)
海で一番塩辛い所は、深い所だと思いますか、浅い所だと思いますか。深い所です。なぜでしょうか。塩水は重いからです。ですから、深い所ほど、より塩辛いのです。それでは、天国の最高の宮中はどこにあるのでしょうか。塩水で比喩ひゆするならば、一番底にあります。そこに王宮があります。一番下に行くのです。
私がこのように話している概念を知らなければなりません。レバレンド・ムーンが言おうとすることは、天国の最高の位置が最も深い海、最も塩辛い水のある底にあるのですが、反対に最も清い人は一番上にいるということです。最も良心的で、より世界のために生き、より全体のために生き、より高い心をもつ所にハナニムはいらっしゃるのです。
(244-178, 1993.2.7)
主流から流れるきれいな水が公害で汚れた水を見て、「私は、お前と混ざり合うのは嫌だ!」と言って避けることはできません。自然の場合は、そのようになっています。
自然の調和と総合関係というものは不思議です。水の性質は、汚いものがあって自らの本質がそれによって汚れたとしても、それを包容し、自らの周辺のものまで吸収してこれを同一化させるのです。そのようにして、流れ流れていく間に、汚いものは沈んで、きれいなものは浮かんでくるのです。そのようにしながら流れていく中で、きれいな水になって海に流れ込んでいくのです。歴史の流れもそのようになっています。
(218-292, 1991.8.22)
海の波がいくら流れていても、魚は寝るのです。水が流れていても、魚のひれは流れる水に逆らって1箇所にとどまるように運動します。しかし、体は寝ているのです。おもしろいでしょう? 皆さんのすべての血管が運動していても、皆さんの体が寝ているのと同じです。魚の生命がその拍子を合わせるのは、血が巡るのと同じように寝るのです。このように考える時、誰が主人となり、誰がより高いものになるのでしょうか。より投入する人、より「ため」に生きる人が主人になるのです。
(220-282, 1991.10.20)
いくら海の波が荒々しく打ったとしても、その流れは必ず主流に従っていきます。主流に方向を合わせてくることによって、全世界が反対し、迫害しても生き残ることができたのです。また、ハナニムは、主流を中心として、完全な主体としての主流的な立場に立てば、主体と対象の関係を中心として保護するので、被害を受けることはありません。
(249-164, 1993.10.10)


皆さんは、水泳をしながら、「ねえ、のどが渇いた。コーラかメッコールを持ってきて!」と言いますか。水に入っていれば、1日中、水を飲まなくてもよいのです。水に入っていれば細胞が水を飲みます。先日、先生は16時間半も話をしました。「そのように長い時間、おしっこをどうやって我慢するのですか」と言うかもしれません。しかし、おしっことして出ていくものがすべて汗になって出ていきます。暑くて水蒸気になるので、汗としてすべて出ていくのです。
ですから、海に1日中、入っていれば、水のようなものを持っていく必要はありません。そこで1時間でも、何時間でも鯨のように水泳をしてみてください。その時でも、喉が乾きますか。砂浜にうつ伏せになっているので、暑くて水を飲むのです。人にとって水は貴重です。それから空気! 水の行く所には空気も行きます。海の中にも空気がありますか、ありませんか。
(217-206, 1991.6.1)
世界の海は、常に動いています。風が動いたりするのも、すべて繁栄し、生きるためです。このようなことを考える時、台風が吹いて波が数十メートルも立ったりしますが、そのようにならなければ海に空気がなくなります。それでは、魚はどのように生きるのでしょうか。このようなことを考える時、「いやー、台風が吹いているので海底の魚が喜ぶだろうなあ。私は大変だが、魚が喜んでいるのでうれしい!」と、このように考えることができます。
(262-289, 1994.8.1)
生命の祖先のようなものが水です。ですから、ハナニムの代わりに水を愛しますか。そのような考えをもちながら海を愛さなければなりません。景色の良い所には水がなければならず、樹林じゅりんがなければなりません。それが水の調和です。このような問題を中心として見るとき、水を愛そうというのです。水を愛することは、万物を愛することになります。これは原則的な考えです。水を愛するのですが、湖の水を愛するのですか、海の水を愛するのですか。毎日のように海に行かなければなりませんか、それとも行ってはなりませんか。風が吹いて波が立つのですが、船に乗れば血が揺れるので血が腐ることはありません。すべて浄化されます。本当です。いつも船に乗っている人は健康です。
(262-289, 1994.8.1)
私は、月給をもらいません。私は、私の力で稼いで暮らすのです。今でも、どこへ行こうと、たとえへリコプターでアフリカの奥地に降ろされたとしても、そこに動物しかいなかったとしても、私は生き残ることができます。山に行けば、山で食べて生きることを学び、海に行けば、海で食べて生きることを学びました。ゆえに私は、乞食こじき街に入っていっても、これを天国につくりあげます。皆さんが従ってこなくても、乞食の群れを通してでもみ旨を成すことができるように訓練をした人です。ゆえに、今、私が皆さんに「乞食街に行きなさい」と言えば行きますか、行きませんか。そのようにしようとすれば訓練が必要です。
(109-152, 1980.11.1)


自分たちは、「ふろしき包みを抱いて、座って食べて楽に暮らそう」と言いますが、今まで私は開拓者でした。開拓して、私が先頭に立ってきました。今回も、私たちの会社で船を造りましたが、船長がいなければ、私が連れて海に出ていくのです。「風よ吹け。波よ打て。男の行く道をふさぐことができるものか。天のために、人類のために、子孫に生命を引き継ぐことができる食糧問題をここで解決するのだ」と、このような考えをもっています。すてきでしょう? 私は、そのような男性が好きです。今後、残される生きた映画がそこから出てくるでしょうし、歴史の渦がそこから解かれるでしょう。
それ以上に不思議ななぞはありません。悲喜劇が交差する道であり、素晴らしい男性たちが憧憬どうけいしながら行くべき道です。ジャンプすることができ、そこから世界に越えていける基地があるのです。このようにすることによって、海に出ていく数多くの若者に希望を与えることができるのです。あすの海の世界に対する夢を描ける源泉、泉がそこから爆発するのです。それは、どれほど素晴らしいことでしょうか。
(109-152, 1980.11.1)
私は、そのように熱心に海に出掛けていくのですが、その心を忘れてしまえば問題が生じます。その心が続かなければなりません。精誠というものは、千年、万年続かなければなりません。海に出ていって精誠を尽くすのを楽に座ってするならば、蕩減とうげんできる条件が立ちません。きのうよりもきょうが良く、きょうよりもあしたが良くなければなりません。すべての川の水は大西洋に集まり、大西洋の水は太平洋へ行くのです。今後、私が飢え死にする人々を救ってあげる時までその精誠を込めるならば、私が死んだとしても、そのみ旨はこの地上に成し遂げられるだろうとみます。
(279-308, 1996.9.22)
真っ黒な顔をしたハドソン川の漁民のような男性、1000年を待てば何もかも消えてなくなってしまうような男性ですが、まさかそのような方がこのようなことをするとは思いもしないでしょう? なぜそのようなことをするのでしょうか。2000万の飢え死にする人類を解放するためです。汗を流したハドソン川を忘れてはならないということです。
五大洋、六大州を通して息をし、考えるその見えない波動、電波のようなものが、そこで生きている魚の世界を通じて、未来の人類解放の道に連結するのです。地と海があれば、飢え死にすることはありません。先生が教えてあげれば、飢え死にする人々を救うことができるのです。
(247-21, 1993.4.21)
ハナニムが絶対愛ゆえに創造した物を見れば、楽しいのです。未来の福地、天国を中心とした家庭で、十分に生活必須要件を備えることができるように、すべてつくっておいたのです。ですから、どれほど喜びを感じるだろうかというのです。流れる水も、天地が機能するためのものです。海から水蒸気になって、循環しながら万物を蘇生そせいさせるのです。すべてが対立することなく、協同圏内で協力し、人間の理想を完成することができるようになっているのです。


ハナニムの生活的な舞台として、ハナニムの息子、娘をこの地上で育てて、天国に移譲しようというのです。
(284-47, 1997.4.15)
夜が過ぎれば朝になるように、反対の世界になりました。統一教会には春が来て、サタン世界には夜に向かっていく時が来ました。サタン世界には希望がありません。
サタン世界は、真っ暗な希望のない絶望の世界であり、統一教会は、絶望だと思っていたのに黎明れいめい時代を過ぎて新しい朝が来ることにより、鮮明時代がやって来るのです。「文鮮明ムンソンミョン」とは、真理の王国になるということです。名前が良いのです。これは何かというと、この「ソン」という字は「魚」という字と「羊」という字なので、陸地と海を統一するということです。
ミョン」は空の「日」と「月」、すなわち空を表しています。「ムン」という字は、早く書くと、このように「父」という字になります。「父」という字のいとこになっているのです。真理を通じて説明することができるまことの父という言葉が、最も近いところにあったのです。私は、そのことも知りませんでした。このように話してみたので、学べたのです。
(261-64, 1994.5.22)


 

第2章 海洋レジャー産業と趣味産業

   

1) 海洋レジャー産業の開発

 

① レジャー産業には釣りとハンティングが適格

将来は、レジャー産業が発展するはずです。なぜなら、人々が都市生活をするためにストレスが多くたまるので、それを解消するには刺激的な運動が必要だからです。何によってストレスを解くのですか。私は、3種類あるとみます。一つはハンティング、一つは乗馬、そして釣りです。
ハンティングや乗馬をするには、多くの制約があります。乗馬は、特定の階層の人だけができます。たくさんのお金がかかるからです。それゆえに、誰でもできるわけではありません。またハンティングも、40歳前後の人ができるのであって、50歳を超えては難しくてできません。ですから、これも特定の階層の人だけです。しかし釣りは、少年時代から老いて死ぬ時まで、することができます。それゆえに、今後、釣り事業は世界的なものになるはずです。
(207-122, 1990.11.1)
趣味産業とは何ですか。カジノとスポーツ、ハンティング、フィッシングではないですか。それを準備しているのです。今後、趣味産業を主管する者が、世界を主管します。これは強大な力になるのです。私が数十年間、準備してきたのは、すべて人類のためです。釣りをしても、魚を釣って売り飛ばそうというのではありません。趣味です。ご飯は、食べることができます。ですから、それは趣味でするので、釣ってみて、小さな魚は放してあげ、大きい魚は食べるのです。食べるとしても、一人で食べるのではありません。分けて食べるのです。そのような時代が来ます。
(252-295, 1994.1.1)
今、カナダでは政府で、「お金を80パーセント以上出すので、早く鹿しかの農場を拡張しよう」と言っています。見てみると、国家の収入がとても多いというのです。現代文化人の病気治療は、ストレスを解決することですが、それを解決できる最も良い方法は、レジャー産業を中心としたハンティングと釣りしかありません。ハンティングをする人々は、みな度胸のある人々です。女性のような男性にはできません。概して、ちょっとしたけんかはする将軍のような人たちです。ですから、活動半径が広く、お金をもうけるのもものすごく、使うときもものすごいのです。
(219-196, 1991.8.29)


釣りは、主に夏にするのですが、冬は制限されます。これを、すべての季節で行えるようにするには、どうすればよいかということが問題です。それで、コディアックにいる人々を連れてきて試してみようと思います。釣りは夏に行い、ハンティングは冬に行うのです。夏と冬なので、交互にできるというのです。それゆえに、私たちの観光事業を拡大する期間を広めるためには、趣味産業である釣りとハンティングが絶対に必要だというのです。ハンティングは寒い時にするものであり、釣りは暑い時にするものなので、趣味の基盤を拡大できるのです。冬でも夏でも、春夏秋冬、いつでも趣味としてこれを活用できるのです。そのようにすれば、世界のお金持ちの人々は、1年中趣味を楽しむことができるのです。
(270-300, 1995.7)
釣りとハンティングは趣味です。高位層、豊かに暮らす人々の趣味分野です。ですから、趣味産業をするのです。観光組織をつくり、先生が直接リードするつもりです。
(269-49, 1995.4.6)
趣味の中にはハンティングがあり、釣りがあり、その次には冒険すること、飛行機に乗ること、自動車競技のようなハイスピードのものがあります。その次にはスポーツです。南米を中心として、数千の飛行機がアクロバット飛行をする、そのようなエア・ショーを行えば、全世界の人々が南米に集まるというのです。1万メートルの高い所から地上へと、何秒間か垂直に降りてきて、そして、地上10メートルで再び上がっていくのです。それゆえに、自動的にストレスが解けるのです。目を開けてみると、別天地が展開されるのです。
(276-184, 1996.2.19)
皆さんは、釣りが初めてなので分かりませんが、これを1度、2度、続ければ、どんどん魅力を感じるようになります。ハンティングも、初めは小さい鳥を捕まえ、それがおもしろければもう少し大きいものを捕まえて、また、より大きいものを捕まえようと猟銃を買い、それからまたもっと大きいものを買って捕まえようとするのです。限界がありません。止められないというのです。ひっきりなしに高まっていくのです。人間生活にすべて関連するというのです。ですから、これは全世界的に発展できる可能性があります。
大使たちが1年に何度も訪ねてくることを願います。このようにすれば、大使を通じてその国にいるすべての人々に、皆さんがいくらでも講義して教えてあげることができるのです。集まって釣りとハンティングをしながら、祝宴もできるのです。その国に来ている自分の国の人々とクラブもつくり、事業もして、すべてのことができるのです。
(253-116, 1994.1.14)
馬に乗ることも制限があり、ハンティングも年を取った人々はできません。しかし、釣りは年齢を超越します。これは無制限です。船に乗ってえさを海にまき散らして、小さい魚1匹を釣り上げても釣ったことになります。そのような意味で考えてみるとき、今後、釣り観光は、無限に発展させることができるのです。そのようなことができる最適な所がアラスカです。
(205-319, 1990.10.1)


皆さんに国をすべて任せてあげたので、今から先生は、世界のトップクラスの人たちを連れて、釣りやハンティングをして回りながら、酒は飲みませんが、歌って踊って暮らせる時代に入っていくというのです。彼らを通して世界の趣味事業を発展させようと、160ヵ国に船を分け与えて、その準備をしているのです。
コンドミニアムを造り、家がなくても暮らすことができる体制をつくり、年を取った人々を世界の公園に連れていきながら教育しようと思います。船があり、狩猟場があり、その次には飛行場があり、ホテルがあり、そのようにつくるのです。このようにして、趣味産業をしながら世界をリードしようと考えるのです。その準備をするために、今、飛行機会社をつくっているのです。中型、小型飛行機に乗れば、どこにでも飛んでいけます。今、大型飛行機で行くことができる名のある休養地は、すべて行ってみたというのです。今からは、田舎の村まで行ける飛行場を築き、世界的な観光基地をつくろうと考えているのです。
小型飛行機を世界化させるというのです。160ヵ国に飛行場をつくろうと、現在、飛行機会社をつくっているのです。大きい飛行機が行く所はすべて休養地域なので、そこにはすべて行ってみたというのです。それで、湖をつくり、ハンティング場をつくろうと思うのです。
(275-183, 1995.12.8)
観光事業で中流以上の人を連結するのです。観光をする人は中流以上です。そして、ビジネスのためのハンティング場、その次には、釣りのための養殖場を世界にたくさんつくるのです。それが事業です。
(262-256, 1994.8.1)
大西洋まで運河をつくって休養施設をつくり、狩猟場と釣り場をつくれば、本当に良いのです。水と土地がある所では、どのような国であろうと飢え死にしないように私が教育するというのです。
(246-89, 1993.3.23)

 

② 沈まない船、ワン・ホープ

ワン・ホープとは何かというと、「海の一番の希望」という意味です。最初、他の船は、「30フィートだ、50フィートだ」と言いながら豪華船だと誇っていましたが、私たちの船は、小さくても速いのです。シュッ、シュッ、シュッと走っていくと、みな「小さい船が来る」とあざ笑いながら、「危険なのに、あれは死ぬために来た」と言うのです。どうして死にますか。沈まない船だということを知らなかったというのです。
(270-64, 1995.5.4)
海と関係を結ぶために最も重要なものとは、海に浮かべる船です。世界的に見るとき、いかなる会社が造ったものよりも、私たちの会社が造った船は、永遠に称賛できます。歴史が過ぎれば過ぎるほど称賛できる、伝統をもった船を造らなければならないというのです。
(262-243, 1994.8.1)
小さい船で何をするのですか。釣りをするのです。大部分の人が釣りには関心がありますが、網をもって魚をる漁業には関心がないのです。未来は、大きい船で、網を使って魚を獲ることには関心がなくなるというのです。それで造ったのが、このニュー・ホープです。これは、川にも行くことができて、海にも行くことができる船を考案しなければならない、といって造ったのです。今、私たちのニュー・ホープが有名です。釣りをして案内するたびに有名になっているのです。海だけ走るボートではありません。車でどこにでも移動が可能です。
(262-240, 1994.8.1)


ここからフロリダに行こうとすれば、車で引っ張っていくのです。ここから海路でフロリダまで行こうとすれば何日もかかります。ところが、車で行けば1日で行くのです。西部から東部まで車で行けば三日です。海路を行こうとすれば1ヵ月かけなければなりません。そして、海に出れば波に乗って行けるように、波をかき分けて行くことができるように建造しました。それで、28フィート以上に造ったのです。それ以下ではいけないので、そのようにしたのです。その28フィートを中心として38フィートも造り、それから52フィートも造り、98フイートも造り、108フィートまで造ったのです。108フィートのボートは、アラスカの荒れた海の中で、底引き網を引いて魚を獲るのです。
(262-240, 1994.8.1)
海で船に乗って行こうとすれば、位置を探知して方向を定めて行かなければなりません。それを知らなければ、霧と闘っても絶対に動くことはできません。ですから、どれほど不便ですか。その計器は10何種類にもなります。これをどのようにすれば一つの計器に入れたシステムをつくることができるのか、ということを研究しなさいと指示しました。
それで、いろいろな計器をコンピューター装置に入れて、方向から今の位置、海の深さと魚の動きまで、すべて一つのシステムで知ることができる機械を研究開発して、今、製作できる段階に入ってきています。そのうわさを聞いて世界各国で競争が起き、「自分の国で工場を造ってあげるので、私たちの所で製作しなさい」と大騒ぎです。私たちは、「それは統一産業がしなければならない」と言っています。
海の深さ、魚の動き、これらがすべて問題になっています。海が神秘なのは、網で魚をたくさん獲った所に再び訪ねていくのが難しいということです。網を引いて魚を獲る時、どのようなコースを行けばたくさん獲ることができるのですか。わずか10メートルの差で、3倍も獲ることができる所もあります。それはどういうことかというと、魚の脈があるというのです。そのような所を再び訪ねていって魚を獲るということが難しいので、一度、魚がよく獲れた所をコンピューターに入れれば、100回でもその場に行って自動的に網を下ろすことができ、そのコースへ行けるように案内できるシステムを開発したのです。それは、本当に素晴らしいのです。
(134-237, 1985.7.20)
私は、この手でこのような基盤をすべて築きました。船が必要ならば、どのような船でも造ることができます。最近では潜水艦まで、小型潜水艦まで造ることができるように研究させています。ノルウェーから日本まで、そのような研究をしています。今後は、海の各階層で生活できる家庭的小型潜水艦を造り、そこを住宅として、海の中に入っていって暮らすのです。
(190-100, 1989.6.18)


私たちにはバン家庭、潜水艦家庭、宇宙船家庭があります。1週間はここで暮らし、1週間は海で暮らしてまた行く、このようにするのです。そのような最高の技術を先生はもっています。バンを造ることができ、潜水艦を造ることができ、今、宇宙船も造ることができるのです。
(276-218, 1996.2.14)

 

③ 脚光を浴びる未来レジャー産業 ‐ 釣り

イ) 海釣りの醍醐味と味
海の中には、スウォード・フィッシュ(めかじき)とか黄色いひれのツナもいます。大きいものは300ポンドにもなります。150キログラムにもなるほど大きいのです。先生の1.5倍です。そのようなものが群れをつくって泳いでいるので、一度、網に引っ掛かれば、数百匹が引っ掛かります。それがさめの攻撃対象になります。さめが入り込めば、血が広がるようになります。そのようになれば、周囲にいたさめが寄ってきて、3分の2はさめのえさになります。それは衝撃的です。船の上で希望をもっていた人々も、さめにやられて瞬く間に絶望の境地に陥ってしまいます。
(192-152, 1989.7.3)
大きい魚が食らいつけば、海の底から振動がそのまま波及してきます。これに対し船で、「ドーン、ドーン、ドーン、ドーン」と音を鳴らせば、頭をハンマーでたたくのと同じです。海で数十年間あらゆる風霜ふうそうの中で生き残ってきたものなので、どれほど荒波をたくさん経たでしょうか。そこで生き残ってきたので、どのようなことが起きたのか、すぐに分かります。
状況を見て、人が何メートルの所にいるということまで測定している局面なので、てっペんで「カン、カン」と音を鳴らしてはいけないのです。
(221-84, 1991.10.23)
ツナりのようなものは、釣りではありません。海のハンティングです。「海のハンティング」という言葉は初めて聞いたでしょう。それを捕まえるのは、大きい牛を1頭捕まえるよりも難しいのです。1匹、1000ポンド以上です。500キロ、600キロ、700キロのものもいます。それは、雄牛よりも大きいのです。そのようなものを捕まえれば、楽しくなります。捕まえて長くおけば魚が腐るので、すべて血を抜くのですが、海が瞬く間に血の海になります。その時は私も、「私は、本当に無慈悲な心をもったな!」という気がします。私は、そのような時、いつも、「ハナニムも、私たちを人類解放のための祭物と考えるので、やむを得ないのではないか」と考えるのです。また、「自然世界から捕まえたものは精誠を尽くしたものではないので、私が育てて祭物を差し上げます」と心に誓うと、気分が晴れました。それで養殖事業をし、水産業をするのです。
(219-196, 1991.8.29)
魚がどれほど大きいかといえば、このように大きい私たちが二人立っても、隠れて見えません。そのようなものが小さい1ミリメートルの釣り糸に引っ掛かってくるのですから、どれほど興味がわくか分かりません。簡単には、何と言えばよいのでしょうか。雄牛のようなものが引っ掛かってくるのです。釣り糸は細いのに、これがすごいのです。女性に生まれて、釣りをすることができなくても、見物だけでも一度、したくはないですか。
(224-211, 1991.11.24)


きのうもブラック・フィッシュを1匹釣ったのですが、これがどれほど強いか分かりません。貝をかみ砕くのです。これがすごいのです。釣りの中で、最も神経を使う釣りがブラック・フィッシュ釣りです。皆さん、かにがいるでしょう? これを二つに切って釣り針につけて入れれば、さっとちぎって食べます。いつの間にか来て、ちぎって食べてしまいます。本当に不思議です。この釣り針にかにの足をつけておけば、いつ来て奪い取っていくか分かりません。
(217-208, 1991.6.1)
ペテロは漁民だったでしょう。皆さんは漁民の子孫ではないですか。ですから海を知らなくてはなりません。何を捕まえようとしてアラスカまで来たのですか。海の底にうつ伏せになって、王のように振る舞うのがハリバットです。それは、うつ伏せになって生きるのです。目がアンテナのように飛び出していて、海の底で暮らす姿は、ちょうどこけが生えた岩の塊のようです。うつ伏せになって、そこからにおいを出すので、小さい魚が集まるのです。小さい魚が集まってくると、体をひねって捕まえ、のみ込むのです。
うつ伏せになりながら生きるのです。サタンと全く同じです。サタンの王です。「天下の私を誰が触るか!」といいます。これが釣られて引き上げられながらも、「私を誰が触るのか!」と、このようにしながら少しも動かないのですが、あとで釣られたことが分かって、「ああ、大変なことになった」と、このようになるのです。ムン総裁によってアラスカのハリバットが初めて雷に打たれるのです。コディアックで80ポンド以上のものを捕まえた人がいないのです。文先生が現れて初めて200ポンド、300ポンドのハリバットを捕まえるようになったのです。
(206-274, 1990.10.14)
釣りがなぜ刺激的かといえば、血を見るからです。どれほどストレスが解消されるか分かりません。ハンティングも同じです。そうでなければ、現代人のストレスをどのように解くのですか。血を見るということは衝撃的です。昔、ローマの人々がなぜ残忍だったのか知っていますか。引き裂かれて死ぬ人々の血を見てストレスを解くことができたので、それを喜んだのです。血を流すのを見れば、「ワッ!」と細胞が一度にひっくり返ります。それで、ストレスがいる所がなくなって逃げるのです。男性として生まれた者が釣りをすることができず、ハンティングをすることができなければ、女性と同じです。そのような男性とは、絶対に一緒に暮らすなというのです。
(203-57, 1990.6.14)
人間が文化生活をすれば、ストレスがたまります。これを、どのように解くのですか。説明するだけではできません。刺激! 刺激は、血を見る以上のものでなければなりません。血がはねて小さな肉片がくねくねするのを見る瞬間、ストレスのようなものは、たまっていることができないのです。逃げ始めるのです。ハンティングもそうです。ツナのようなものは、大きさが雄牛の3倍にもなります。そのようなものがもりで突かれれば、血が飛び散るのです。その時、海を見れば真っ赤に変わります。そのような時には、詩人のようになるのです。女性が見れば、「ああ、ハナニム! ああ、ああ・・・」と言いながら気絶するかもしれないのです。それくらい、ぞっとします。そのような所では、ストレスがたまる余裕がありません。完全に除去されるのです。それだけ刺激的です。
(192-152, 1989.7.3)


今後、日本人を動員する観光事業が、アメリカでは希望的です。アメリカでは、1年中釣りができます。その中でも最もおもしろいものとは、はえなわですが、釣り糸をどれくらい長くするのかといえば、60マイルにもなります。60マイルといえば、ソウルから天安チョナン忠清南道の市)まで行く距離です。それがどれほど深い海なのかといえば、1000メートル、800メートル、500メートル以上です。その色を見れば、正にインク色です。その中で60マイルの長さがあるので、魚が食いつけば相当な量です。
さめの中には、人をそのままのみ込んでも、のどに引っ掛からないほど大きいものもいます。スウォード・フィッシュ(めかじき)というものも、3メートル、4メートル近くになります。そのようなものを、そのまま頭だけ除いて、すべてのみ込んでしまうのです。それは戦争です。そのようなものに出会えば、あいさつもなくのみ込んで、ゆうゆうと王者のように泳いでいくのです。
(192-152, 1989.7.3)
今から、北極に行って氷の上で捕まえるのです。あしかを、氷上で捕まえてくることが残っています。そして、オーストラリアに行けば、ブラック・マーリン(白かじき)というものがいます。その重さが3000ポンドです。私は200ポンドなので、私の体重の15倍です。15倍もある大きい魚がいます。3000ポンドです。鯨でも、釣り針を垂らせば引っ掛かるはずです。そのようなものが食いつけば釣り糸が切れるので、捕まえて、また元に戻してあげたこともあります。それを捕まえていれば、博物館にもっていったでしょう。その力がどれほど強いか、それを捕まえようとすれば5時間以上苦労しなければならなかっただろうというのです。それで、「ええい! 使うこともできないものを捕まえてどうするのか」という気がして、放してあげたのです。ですから、捕まえてみたいものは、すべて捕まえてみました。
(222-277, 1991.11.3)
先ほどのアルバムで、ハリバットの写真を見れば分かりますが、これがその魚釣りです。グロスター、ボストン海域には、ジャイアント・ツナ、ブルーフイン・ツナ(黒まぐろ)がいるのですが、私がもっている記録は、1272ポンドです。長さが18フィート以上です。ですから、5メートルを超えます。きょう、私が捕まえたのは14.9フィートになるのですが、それは雄牛より大きいのです。とらで大きいものは700ポンドくらいで、雄牛は1000ポンドです。ですから、雄牛より大きいのです。きよう、私たちは約200ポンドのものを捕まえましたが、私の記録はその6倍です。そこまであれば、それはすごいことでしょう。第二次大戦の時に、何かの将軍になって勝利することより、もっと素晴らしいのです。それこそ、男性として生まれて釣りをするのは王者のような立場です。一度、その味を味わえば、「妻を売ったとしても参加する」と言うはずです。してみなければ分かりません。
(167-136, 1987.7.11)


ストライプト・バス(striped bass:しまのあるすずき)というすてきな魚もいます。それは、ツナよりもっとおいしいのです。刺身にすれば、肉に弾力があって、甘い味がします。日本人は、とろ(注:ツナの腹肉の脂肪が多い部分)が一番と言いますが、この味を知れば、飛びつくはずです。それは、最初、蛇の肉をかむような感じです。かんでも、このようにはじいたりするというのです。オモニは、すしのようなものは好みませんが、この魚の味を知ると、「刺身、刺身! ストライプト・バスの刺身」と言うようになったのです。先生が釣りに行くとき、オモニに、「準備しなさい」と言えば、ストライプト・バスを釣りに行くものと思って、「ああ、そうですか」と言いながら、すぐについてきます。ですから、おもしろいのです。それで、魚釣りは刺激的です。
(192-152, 1989.7.3)
魚を刺身にして食べれば、食べられない魚はありません。血があるので気分は悪いのですが、皮をはがして、すっすっすっとおろせば、고추장コチュジャン唐辛子とうがらしみそ)などをつけて食べる必要がないのです。単純ながらも栄養が十分で、食べるにもどれほど良いか分かりません。生きた細胞を食べるのであって、死んだ細胞ではありません。ごくごくのみ込んで、1日、船で休むようにすれば、どうしておなかをこわすのですか。食べることができないから下痢をするのです。そのように素晴らしく暮らせる道が明白なのに、それを知りません。
(189-291, 1989.6.17)

 

ロ) 海釣りをする時の要領
海の魚を見れば、本当におもしろいのです。一番浅い所に小さい魚がいます。深い所に入っていくと、だんだんと大きい魚がいます。小さい魚は少し大きい魚に捕まり、また、少し大きい魚はそれよりももっと大きい魚に捕まるのです。おもしろいのは、鯨の子やツナの子を見れば、子供はみな同じです。すけそうだらの子やツナの子など、子供はみな同じだというのです。
(264-286, 1994.11.20)
先生は、よく海に行きます。海には無限の宝物が埋まっています。そこには、ずーっと系列的にえさが置かれています。それを見れば、おもしろいのです。すべて「ため」に生きているでしょう。連帯関係をもって、「ため」に生きて存在しています。もし大きいものが小さなものを食べてあげなければ、大変なことになるのです。海が魚でぎっしり埋まってしまうのです。食べてくれることによって、バランスがとれるのです。
(198-232, 1990.2.3)
海の魚を見れば、小さい魚から段階的に食べられて生きていくのですが、これがどうしてハナニムの愛ですか。彼らは人間を標榜ひょうぼうし、ハナニムの愛を受けられる人間の細胞に吸収されることが最高の理想です。そのようにしようとするので、鉱物は植物に吸収されるのです。ハナニムの愛を受けることができる細胞圏に占領されるのです。植物は動物に、高級動物は人間に占領されるのです。おいしくて立派なものは、すべて人間に吸収されることを希望するのです。最高の細胞が躍動し、ハナニムの息子、娘の愛の実体として連結したい、愛の本宮に向かって帰ろうという願いをもって、その主人に吸収されるのです。
(199-333, 1990.2.21)


海に行けば、水が深ければ深いほど階層が多いのです。温度の差が大きいのです。温度1度、2度の差によって魚の種類がすべて変わります。本当に不思議です。人間には分かりませんが、魚の世界では、1度の差による階層と、その面に沿って五大洋を訪ね回るのです。本当に神秘的です。きのうまで魚が無尽蔵にいて、魚が半分、水が半分だったのですが、きょう行ってみると1匹もいません。それはなぜかというと、温度差のためです。0.5度、1度、変われば完全にいなくなるのです。人は、1度、2度の差は問題ありませんが、魚たちはそうだというのです。
人は、寒帯地方に行っても暮らすことができ、熱帯地方に行っても暮らすことができ、温帯地方に行っても暮らすことができますが、動物たちはそうではありません。ライオンが韓国で暮らせますか。韓国にライオンがいますか。ライオンはアフリカにいます。韓国には、ライオンではなくとらがいます。
(200-261, 1990.2.26)
魚の食いつき方も、魚の性格によってすべて違います。1000種類の魚がいれば、食いつき方も1000種類です。新しい所に行って釣りをする時は、1匹、2匹、3匹と捕まえながらどのように食いつくのか、きちんと公式化させるのです。それが常識です。魚がこのように食いつくのに、このように引けば引っ掛からないのです。引くほうに釣り糸が行くので、いくらでも魚が逃げるのです。このように食いつけば、反対に引っ張るのです。前に行く時はこのように引っ張り、左に行く時は反対に引っ張るのです。初心者は、いつもこのように引っ張るのですが、違うというのです。反対に引っ張ってこそ早く引っ掛かるのです。いくらも時間がかかりません。
海釣りに行くとしても、ただ水平線だけがある海に行くのではないのです。必ず石がある所に行かなければなりません。石があって隠れることができ、そこに食べられる虫がくっついている所に魚がいます。水が流れるのを見れば、魚たちがいる所は必ず波打つのです。3メートル、5メートルの波が立つというのです。そのような所に行けば魚がいます。そのような所の近くに行って魚を釣らなければなりません。
(268-307, 1995.4.3)
釣り糸を垂らせば魚が釣れると思っているのですが、とんでもないことです! 魚たちは動き回る水温が違います。大小によって水温が変わります。夏は、表面に近いほど水温が高いのです。それゆえに、小さな魚は水面で暮らすのです。海水の温度によって自然に移動するのです。魚は、縦横に動くことを最も嫌います。いつも横に移動しようとします。釣りをしようとすれば、そのようなことを知らなければなりません。魚がとどまる所、サーモンでも、どこで釣りをしなければならないのかということを知らなければなりません。ですから、専門家にならなければなりません。勉強が必要です。専門家にならなければ釣ることはできません。


先生は、温度に合わせて釣りをします。温度がどの程度ではどのような魚がいるのか、すぐに分かります。釣り糸を何度か垂らせば、すぐに魚が餌をつつきます。釣り糸を早く巻けば上に上がっていき、ゆっくり巻けば沈むのです。ゆっくり巻きながら、今、水面から何分の1の所を流れているのかを知らなければなりません。今のこの気温では、キング・サーモンはどのレベルに来るのかということを知っているのです。サーモンは、普通、底にいます。なぜですか。底に餌が多いからです。虫やかにのようなものがいるので、底に寄ってくるというのです。
(263-138, 1994.8.21)
いくらアラスカで、魚をたくさん釣ったとしても、他の所に行けば、また学ばなければなりません。どれほど、これがおもしろいか分かりません。また往来することもできます。ニュージーランドの人々も、コディアックに来れば学ばなければなりません。ニュージーランドではうまく釣ることができるとしても、コディアックでは通じません。コディアックに来てまた学ばなければならないので、お互いに一つになることができるのです。多様な釣り方法、多様な顔、多様な環境があるというのです。どこに行っても、釣りをする所によって違います。
(252-206, 1993.12.30)
おもしろいことがあります。海を見ると、台風が吹けば船も出てこないので、すべて魚の世界です。普通の時は、人々がやって来て、音楽をかけながらざわついて、「ガンガン」と音がするので、棒で何かをたたくような大きい振動を感じるのですが、台風の時は静かだというのです。ですから、鯨が集まってジャンプしたり、ショーをしたり、その日は本当に歴史的でした。どこかに、その時の写真があるはずです。大きい魚も、小さい魚もいたのですが、鯨は大きいのでしっぽのつけ根までしか跳ねることができませんでした。しっぽだけはいつも水の中に残るのです。そのようにして倒れれば、水の上にひっくり返って、さっとこのようにしながら浮上するのです。どれほどショーを楽しんでいるか分かりません。それで私は、「風が吹けば鯨があのように喜ぶのだろうか」と、このように考えました。また1度か2度、見れば、「そうだ!」という結論を下すことができるとみます。
(233-306, 1992.8.2)
釣りをしようと、海に行くのではありません。アラスカ精神とは何かというと、さけの精神です。鮭は子を産むために4000マイル、5000マイルの大海を渡り、離れた自分の故郷を訪ねてきます。人間の復帰路程を見ても同じです。何億千万里離れたとしても、再び訪ねていくことができなければなりません。釣りをするにおいても、それ以上興奮する釣りはありません。それがどれほど強いか分かりません。他の魚が食いついたときは、何度か巻けば出てくるのですが、これは数十回巻かなければなりません。


私たちが天の伝統をもった人を捕まえるのが難しいことと同じです。それは死ぬまで、終わりまでジャンプします。このようにジャンプを3度すれば、釣り針が外れます。それがアラスカの伝統です。海は死亡の世界、サタン世界を象徴し、魚は人を象徴するのです。魚の中で最も勇猛な魚は、サーモンです。
(236-124, 1992.11.4)
ある日、海に行ったのですが、台風が吹いているのに船が多かったのです。ツナ(tuna:まぐろ)の季節になって海へ行けば、500隻ほど集まった船が、すべて怨讐おんしゅうのように感じられます。「一度、私一人で釣りができればいい」と考えたのですが、そのような日がありません。ある時、台風警報が出たのですが、私は行こうとしました。しかし、みな「出ていくな」と言うのです。それでも船長に、「この者たち、私の言うことを聞きなさい! 死にはしない」と言って、無理やり行くようになりました。近い道のりではありません。2時間以上かかるので、夜1時に出発します。4時に到着しようとすれば、1時に出発しなければなりません。風が吹いているので、倍もかかります。それで、12時に出港しました。
生涯路程においてそのようなことがたくさんありますが、その材料は億千万のお金を与えても買うことはできません。そして、そのような天気なので、船は1隻もありません。そのような所に行って釣り糸を下ろすので、下ろすやいなや、がばっと食いつくのです。そうではないですか。数多くの船の中で数十匹が食いついていたのが、今は1隻しかいないので、1里も見通す目をもつ飢えた魚の群れが押し寄せて、食いつくようになっています。そして、釣り糸を下ろすと、がばっと食いつくというのです。台風が吹いても吹かなくても、それは私が気にすることではありません。ただ汗を流しながら釣りをしました。捕まえようと4時間、走りました。それで、そこから20マイルをエンジンで引っ張っていくのです。
(233-306, 1992.8.2)
私たちのような人は、釣りに行けば、すぐに魚のいる所が分かります。朝と夕方には、すべて餌を探して訪ね回るのです。それから、昼食の時間は、食べたので遊び回るのです。そのようにするとき、海の底が深いだけではいけません。海の底は、ある所は深く、ある所は平らでなければなりません。魚は隠れるために深い所に逃げます。出てきて遊ぶときは、間違いなく平らな所に出てきて遊びます。午前は、そうです。午後には、また食べるために出てくるので、その海の底を見て、「ああ、ここは魚がいる!」とすぐに分かるのです。
(221-82, 1991.10.23)
自分の釣り針が、今、水面からどのくらいの所にあるのかということを知らなければなりません。魚は海底から1フィート、餌を捕まえやすい所にいます。餌を食べて生きなければならなので、2フィート以上離れられないというのです。季節になれば、それが海底を覆うのです。釣りをしてそれを引っ掛けようとすれば、何度でも引っ掛けることができます。さささささっと、このようにしながら、少しでも引きがあれば、激しく引っ張らなければなりません。それが技術です。まぐろは、海の天下で自分が1番であるかのように自由に生きているので、小さな餌には引っ掛かりません。ですから、引っ掛かるようにしなければなりません。それを研究しなければならないのです。
(221-81, 1991.10.23)


大きい魚を釣ろうとすれば、底に行かなければなりません。魚の中で泳ぎ回るものは、小さな魚です。大きいものは、泳ぎ回りません。「泳ぎ回って何をするのか」と、このようにしているのです。釣り糸を垂らせば、そのようなものが引っ掛かるのです。底に1指尺ゆびしゃく(二本の指を広げた間隔)程度浮かしてにおいを漂わせておけば、ゆっくりと寄ってきて・・・。魚が泳ごうとすれば、ひれを動かさなければなりません。それゆえに、魚が水平へ行くので、引っ掛からないように1指尺以上浮かしておかなければなりません。それを計算して釣り糸を投げれば、間違いなく大きいものが引っ掛かるのです。
今回、私が最後に捕まえた魚がどれほど大きいかといえば、15ポンド30でした。今まで、私たちが捕まえた鮭の中で最も大きいものです。最後にそれを引っ掛けました。これがどれほど力が強いか、網でこれをすくいあげなければならないのですが、夕日に照らされて魚が見えないのです。網の中に体の3分の2が入っていて、頭だけが出ていても飛び出してくるのです。ですから、勇ましいのです。その時、まかり間違えば網が切れてしまうのです。
(205-322, 1990.10.1)
釣り糸には、100里にもなるもの、1里にもなるもの、1寸のもの等、多種のものがあります。数多くの釣り糸がかかわっています。ところが、この1寸ほどのものが水に入っていくやいなや引っ掛かる魚もいます。だからといって、これを引き始めたら大変なことになるのです。糸が長くて遠ければ遠いほど、深い大洋なのです。しかし、本当の釣り師ならば、小さい魚が食いついても、それに対して神経を使ってはいけないのです。「お前が食いついたのか。お前たちの群れがどんどん集まりなさい」と、このようにしてこそ、そのあとに最も大きい魚が何十、何百里の遠くから来るのです。何百里も遠くにいる、その1匹を捕まえなければならないというのです。
先生も釣りを好んでします。40日以上、1日中してみました。私が釣ろうとする魚は、最初に食いついてくるものではないのです。「食いつけ。めだかの群れよ、集まりなさい」と言いながら、最後に貫禄かんろくのあるものが食いついてこれるように待っていなければなりません。めだかの群れは、ただ来て行ってしまうものが多いのです。「ああ、おいしい。釣りをする主人は、狂ったようだ」、そうしながら食べて帰るのです。
(152-32, 1963.3.3)
ハンティングは、動物が通る道で待ち伏せして撃つので野蛮です。飛んでいくものを撃つのは、道義的ではないのです。釣りは、そうではありません。自分で来て食いついてくれるのです。ですから、それは捕まえてもかまいません。そして釣りは、5歳から死ぬ日まで、100歳になったおばあさんやおじいさんでも、寝床から釣り糸を垂らして釣りができるのです。いくら釣りのチャンピオンで有名でも、他の地方に行けば、そこでは釣る方法が違います。
それゆえに、その地方のやり方でやらずに自分一人のやり方でやれば、食いつきません。そのやり方に従わなければならないので、どこに行っても学ぶようになり、またどこへ行っても教えてくれるのです。誰でも先生になり、学生になることができます。これが平等です。同じ種類でも場所によって食べるものが変わり、釣りをする人がどのような餌を与えるのかによって変わるというのです。それゆえに、その地方に行ってすべて学ばなければなりません。万国すべて違います。そのように多様なので、趣味は多様だというのです。
(252-206, 1993.12.30)