八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 7-7

八大教材教本 天聖経(2012年版)p2049-2088

【天啓の御言】(7-7)

 


私がこれまで設立した各種の平和団体と国際組織は、「一なるハナニムのもとの一つの世界」を構想してこられたハナニムのみ旨成就のための一環です。特に、皆さんが参観された国際祝福行事は、堕落によって受け継いだ人種、宗派、国家間の葛藤を根本的に解決するためのハナニムの戦略です。五色人種が一つに調和して、真の兄弟、真の夫婦として出会うことは、「一なるハナニムのもとの一つの世界」を追求する聖なる理想の現実化なのです。
きょう、私の80歳の誕生日の祝賀行事と、第4回「世界文化体育大典」を記念する歴史的大会を終えながら、皆さんと共に考えてみようとするみことばの題目は、「真の愛は誰もが願う」です。
皆さん、人間に一番重要で必要なものとは何でしょうか。それは、お金や権力や知識ではありません。生命よりも貴く、空気よりももっと必要なものとは、真の愛です。真の愛が私たちにこれほどに貴く、重要なのは、何のためでしょうか。人間が生きていく上で、ハナニムに会うことを願うように、ハナニムも真の人間に会いたいと願われるのです。ところで、人間の中でも男性と女性のどちらか一方に先に会いたいと言われれば、おそらく互いに不平を言うことでしょう。
ですからハナニムは、愛を前に立てざるを得ないのです。愛さえ一番に立てれば、男性と女性が一緒に会うことができ、一緒に触ることができ、一緒に分かち合うことができるからです。世の中で一番貴いものがあるとすれば、男性と女性が互いに先に所有しようと争うのですが、それが愛だということが分かれば、二人が互いに一つになって「ため」に生き、所有しようとするのです。このように愛は、誰もが好むだけでなく、愛のみが、人間の欲望をみな均等に充足させることができるという原則があるので、ハナニムの救援摂理も可能なのです。
愛とは本来、ハナニムのものです。しかし、いくらハナニムのものだといっても、ハナニムお一人では所有することができません。愛は必ず相対を要求するようになっているのです。男性一人、あるいは女性一人だけをもってしては、愛は成立しないのです。ですから男性の愛のために女性が、女性の愛のために男性がいるということになります。醜い男性も醜い女性も、愛の対象が現れることを願うのです。それも、最も高い愛の対象であることを願います。
ゆえに、宇宙のすべての存在を見れば、みな主体と対象、プラス(+)とマイナス(-)の対になっています。鉱物界、植物界、動物界、そして人間の世界もみなペア・システムになっているのです。なぜならば、すべてがこのような相対関係を通じて真の愛を願うからです。この宇宙の中で絶対に一人では所有することができないのが愛ですが、反面、相対が現れることによって、愛で連結されたすべてのものを所有するようになるのです。


同じように、子女がいなければ子女を愛する父母の愛が現れず、子女に対する父母の愛の主人にもなれません。ですからハナニムも、真の愛を成されるために、その相対として宇宙と人間を創造されたのです。このように子女の愛や兄弟の愛、夫婦の愛、そして父母の愛すべてが、主体と対象が一つになることによって現れるのです。主体と対象として一つになれば、これら二つは分けることができません。
もし分けるならば、真の愛が破壊されるのです。ですから離婚という概念はあり得ないのです。男性が愛を感じるからといって、それが自分によるものではありません。女性から始まったものです。また、女性が愛を感じるからといって、それもやはり自分によるものではなく、相対である男性から来たものです。
すなわち、愛の主人は相対です。ですから愛を貴く思う以上に、その相対を貴く思い、相対の前に感謝して、「相対のため」に生きてあげなければなりません。これが、祝福を受けた夫婦が永遠に共に暮らせる根本の道理です。このように夫婦が互いのために生き、尊重し合い、真の愛によって完全に一つになるとき、これを通じて堕落したサタンの血統は、完全に根絶されるのです。
真の愛とは、横的な水平関係だけでなく、縦的な垂直関係においても成されるのです。真の愛の横的関係が縦的にだんだんその次元を高めれば、結局その頂点に到達するのですが、この場が「真の愛の王」であるハナニムの位置なのです。この場では、すべてのものが結合し、抱かれ、愛化され、そして花咲くことができるからです。ですから、宇宙の中にあるすべての存在は、愛によって和することを願い、愛の中で生きることを願うという結論になります。愛のために生まれ、愛のために生きて、愛のために死ぬということになります。真の愛は、人間のみならず、すべての万物も願います。ですから万物の霊長である人間は、ハナニムが造られた傑作品を抱いて愛するだけでなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があることを知らなければなりません。
万物たちは、このような主人を探しています。このような基準に私たち自身を照らしてみながら、自分を恥ずかしく思わなければなりません。宇宙いっぱいに満ちたすべての存在は、自分のレベルで相対と共に存在しますが、結局、より高い愛の次元に吸収されて上昇するという原則に従うのです。すなわち、鉱物は植物に、植物は動物に、結局は、人間にすべて吸収されることを願うのです。
ですからすべての存在は、捕まって食べられたり、吸収されたりして、より高い愛の次元に上がり、最後は愛の根源であられるハナニムの最も近い愛を受ける立場まで進んでいくようになるのです。このように、すべての存在が究極の目的地とするのは、正に真の愛の本質だというのです。ダーウィンの「弱肉強食」という言葉は、このような愛の論理によって再び解釈されなければなりません。それゆえ、アリや微生物までも真の愛を願うのみならず、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。


このような原則からハナニムの愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物をみな食べたり、持ったりすることのできる立場にいるのです。このすべてのものをみな食べて、持ちますが、これらを造られたハナニムの真の愛の心をもって食べ、持たなければなりません。万物の中で長い形のもの、例えば、うなぎや魚が好きなみみずのようなものは、大概、薬剤として使われるのです。どのレベルにおいてもみな、捕って食べられるようになっています。もしそうでなければ、宇宙は存立することができないのです。
ハナニムの理想は、アダムとエバを種として家庭をつくり、宗族をつくり、国をつくって、膨大な天の国の民をつくろうというものでした。天の国の民は、このようなハナニムの真の愛の伝統に従って繁殖されるのです。私の理論とチャールズ・ダーウィンの理論は正反対ですが、平和の世界は、私の理論に従って成されるのです。なぜならば、これが創造理想を成す根本原理だからです。進化論と創造論の論争が続いてきましたが、「創造」という言葉には既に創造主であられるハナニムがいらっしゃることを認定する意味が前提となっているのです。
ハナニムが主体と対象を通じてつくられた創造には、方向性と目的観が内在していますが、唯物論を基礎とした共産主義理論には、何の方向性も目的観もあり得ないのです。ハナニムの創造には真の愛の目的がある反面、共産主義には闘争と破綻はたんがあるだけなので、結局、すべて消えてなくならざるを得ないのです。すべての万物の中でも一番貴い存在が人間、すなわち、男性と女性なのです。その中でも一番重要な部分は、鼻でも、目でも、手でも、そして頭脳でもなく、愛の中心器官である生殖器です。この愛の器官によって、宇宙のすべてのものが再創造されるのです。
植物も動物もこの生殖器によって繁殖し、拡散していくのです。一番価値があり、一つとなった素晴らしい家庭も、それが一つとなった夫婦から現れるのです。一つとなった夫婦によって理想家庭が始まるのです。この愛の器官こそ、愛と生命の本宮であり、血統と歴史が連結するとてつもない価値の場なのです。
ハナニムが宇宙を造られた根本原理は、雄と雌の概念を通すのです。ところで、この雄と雌が絶対的な愛を願うならば、その相対が二つであってはいけません。ただ一つ、絶対に一つでなければなりません。永遠に絶対男性と絶対女性でなければなりません。それでハナニムは、アダムを二人造ったのではなく、エバも二人造ったのではありませんでした。ただ一人ずつ造ったのです。ところが、今日の世の中を見ると、義理の父が10人もいるケースを見ることができます。いかに偽りのごみ箱のような世の中でしょうか!
女性と男性が貞操を守り、保護するというのは、宇宙を保護することと同じです。男性と女性の愛の秩序が宇宙の根本だからです。ですからこれを動物のように濫用してはいけません。愛の主人は一人です。その中でも真の愛の「真」は、二つを許すのではなく、ただ一つであり、絶対に一人なのです。「真の愛」とは、誰でも言うことができる言葉ではありません。唯一、ハナニムのみが、本当の真の愛をなすことができ、真の愛の絶対主人となられるのです。ゆえに、ハナニムの真の生命も、ハナニムの真の血統も、ハナニムの真の良心も、真の愛を必要としています。このように、ハナニムの最も根本となる本質は、真の愛です。


また、この真の愛と因縁を結ぶには、ハナニムと関係を結ばなければなりません。うちのお母さんとお父さんがけんかしないで仲良く暮らすからといって、真の愛で愛しているとは言えないのです。恋愛している若い未婚の男女が、互いに命を懸けて愛し合うからといって、それが真の愛ではありません。ハナニムが介在していないので、真の愛ではありません。真の愛は必ずハナニムを中心にしなければなりません。ハナニムの息子、娘になるには、ハナニムの血統と生命と愛に関係しなければならないのです。権力や知識やお金、軍事力だけをもってしては、真の愛の世界で歓迎されません。真の愛は、誰もが願うものですが、愛とは、「他のため」に生きることによって可能だという原則を知らなければなりません。相手のために奉仕し、犠牲になってあげなければならないのです。「私のために生きよ」という心で人に接すれば、みな逃げていくのです。
このような利己的な個人主義は、サタンの戦略であり、目的であり、道具です。ですからその結果は、地獄以外の何ものでもありません。全体のために生きなければなりません。人のために全体のために犠牲になり奉仕すれば、みんなが来て、私を愛してくれるのです。子女として造られた人間が兄弟になり、夫婦となり、父母の立場に進む過程ごとに、ハナニムは、そのすべての真の愛の主人になるのです。
すなわち、人間が育つのを見ながら、ハナニムはそのすべての段階における愛の主人として定着されるのです。それゆえ、ハナニムをしてすべての愛の主人となるようにした人間こそ、ハナニムよりも貴い存在だとも見ることができるのです。ちょうど自分が愛する人を、自分よりも何千万倍も価値があり、貴く思うようにです。ですからもっと貴いもののためにハナニムは投入され、忘れられ、また投入され、忘れられるのです。100パーセント投入されたのち、100パーセント忘れられるので、続けてさらに投入することができるのです。自分の夫が素晴らしくなるのを願う妻は、夫のために投入しては忘れ、また投入しては忘れることによって、夫を成功させるのと同じです。
投入して忘れることを続ければ、その愛の段階を高め、究極的にはハナニムの位置に連結されるのです。そうして、ハナニムと共に父子の関係を成して、永生するのです。
みんなが天国に行きたいと思うのですが、「私のために生きろ」という思いだけをもっては、天国に行けないのです。真の愛は、ハナニムが造られたすべての傑作品を抱いて、「他のため」に生きるところから始まり、全世界の人類と究極的にはハナニムにまで「他のため」に生きることによって、天国に至るようにするのです。一生に3回以上生命を捧げて、「他のため」に生きようとしなければなりません。アダム家庭の堕落、イエス様の十字架、そして再臨主の家庭を追い出した迫害のすべての歳月を蕩減とうげんしなければなりません。


ハナニムに出会うには、3回死に、再び復活したのちにも、ハナニムに私のことを分かってほしいと願うよりも、ハナニムのためにもっと尽くそうとしなければなりません。そのような人々が生きる世の中がこの地上にあるならば、そこが正に天国です。この道を私が教えており、そのような世の中をつくっていっているのです。子供はお母さん、お父さんの愛の実ですが、愛の実というのは、愛と生命と血統が合わさって成されるものであることを知らなければなりません。子供たちが「自分のもの」を主張しますが、私のものの出発点は父母です。父母は根であり、幹です。父母がいなければ、すべて孤児です。父母に連結された愛のはしごを切ってしまえば、生きることができないのです。真の愛の起源であられるハナニムを父母として、私たち人間は、息子、娘の立場に立てられました。父母は本来、子女のための愛の最高の主人です。
父子の関係が縦的な垂直関係なのに比べて、夫婦関係は横的な水平関係です。ですから父子関係と夫婦関係は互いに直角(90度)を成して、ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。このように成された球形の中心位置ですべての愛が統一され、定着しますが、この場にハナニムがいらっしゃるのです。
すなわち、ハナニムとその息子、娘である人間の垂直関係を中心として男性の愛と生命と血統が右側に位置するならば、左側は女性の愛と生命と血統が定着するのです。ここに兄弟の愛が前後の方向に定着すれば、このすべての愛を中心として宇宙全体がバランスを取るようになりますが、これらが一番の核として出会うところにハナニムがいらっしゃるのです。これを平面的に横にしてみれば、愛の一番の根に、生命の一番の根に、血統の一番の根に、そして良心の一番の根にハナニムがいらっしゃるのです。このようにハナニムを中心とした家庭では縦と横、そして前後の愛が一つになりますが、このような家庭から宗族になり、民族、国家、世界、そして天宙に至るまで拡大していきますが、その根本中心は常にお一人、ハナニムであられるのです。
アダムとエバが堕落しなかったならば、真の夫婦の愛のモデルが出てきていたはずであり、彼らから愛の教育、すなわち、愛することを学んでいたはずです。彼らが子供をもてば、誰がその子供を結婚させてあげるでしょうか。それは父母です。それでは果たして今日、この社会で父母がどれほど子供たちの結婚に関与しているかを考えてみなければなりません。
統一教会では真の父母がいるので、世界の人々を父母の立場で結婚させてあげています。ここには、人種の違いを超えるだけでなく、聖人も悪人も一緒に結婚させているのです。真の父母は、悪なる愛、悪なる生命、悪なる血統を接ぎ木して勝利し、否定させることによって、アベルを殺したカインを除去してしまわないで、みな同じ立場で祝福してあげるのです。潮水を見るとき、出ていく水と入ってくる水が出合い、水平を成した時のように、歴史的に救援摂理(蕩減復帰)が終結する善悪の転換期において、善人と悪人を一緒にみな祝福してあげることによって、サタンは完全に追放されるのです。


エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させることによって、これを再びひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃し、数百数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させ、真の愛を中心とした本然の真の愛と真の生命と真の血統を取り戻し、真の父子関係を復帰するのです。こうして、ハナニムの創造理想である8段階の真の愛のモデルの主人を完成するようになるのです。
すなわち、腹中時代、幼児時代、兄弟時代、思春期時代(婚約時代)、夫婦時代、父母時代、真の祖父母時代、真の王と王妃の時代を経て、永遠に変わらない真の愛の伝統を立て、父子関係である真の愛のモデルが完成するようになるのです。真のハナニムの愛と生命と血統は、絶対、唯一、不変、永遠なので、子孫万代の不変の真の愛を中心としたモデルとして相続するのです。真の愛を中心としては、父子一体、夫婦一体、兄弟一体になるのです。父を愛の主人にしてくれるのは息子であり、夫を愛の主人にしてくれるのは妻であり、兄を愛の主人にしてくれるのは弟なのです。
反対に、子女に父母がいなければ、妻に夫がいなければ、兄に弟がいなければ、それぞれ愛の主人の立場を見いだすことができないのです。真の愛の主人になるためには、相対を自分よりも高め、「他のため」に生きなければなりません。ですから、個人においては心身一体、家庭では夫婦一体、兄弟一体、国家一体圏を形成し、8段階の理想のモデルである愛圏を完成するのです。
そうして父母と子女、夫婦、そして兄弟(姉妹)、国家がみなこのような真の愛を中心に8段階のモデルである主人になることを願うところが、私たちの理想家庭と国家です。ここで永遠の世界的標準化が始まるので、地上天国が出発するのであり、また天上天国も自動的に築かれるのです。
今、新たに始まった2000年代には、世界の至る所で定着した祝福家庭たちが、天地父母様と一つになり、真の愛を中心とした新たな家庭革命、世界的道徳革命を主導することによって、地上と天上すべてに永遠の平和と統一の理想天国を創建することを願うのが、ハナニムの願いなのです。
私たち全員がこの聖なる聖業に同参し、ハナニムの真の愛圏を相続する主人になることを願います。皆様の家庭にハナニムの祝福があることを祈ります。ありがとうございました。
(316-235, 2000.2.13)


 

4) 終末時代に人類とアメリカ(世界)が行く道

尊敬する内外の貴賓の皆様!
きょう、私の80回目の誕生日を祝賀してくださるために、全世界から参席してくださった各界各層の指導者の皆様に、心から感謝いたします。
特に、私は今日まで常に共にいてくださり、守ってくださったハナニムに、このすべての栄光をお返しし、深く感謝申し上げます。私は生涯を通じて、ただひたすらハナニムの創造理想実現のための諸般の難問題を解決するために、心を砕いてきました。知ってみると、ハナニムは栄光と尊貴の玉座にいらっしゃる方ではなく、堕落して地獄に落ちた子女たちを捜し、救援するために苦労してこられた、悲しみと嘆息と苦痛のハナニムであられました。このようなハナニムのみ旨と心情を知った私の生涯は、一言で言えば、夜も昼も季節も環境も超越し、ひたすらみ旨を成し遂げるために全身全霊を尽くしてきた日々でした。過ぎし80年の星霜を振り返るとき、ありとあらゆる迫害と苦難を受けたにもかかわらず、きょうこの場を皆さんと共にすることができたのは、ハナニムが共にいてくださったからです。
この意義深い日に、皆さんと共にハナニムの摂理的な観点から歴史と世界を理解するために、「終末における人類とアメリカが行く道」という題目でみことばを分かちたいと思います。ハナニムの救援摂理的歴史観の立場から見るとき、歴史の終末はサタン主管圏の悪なる歴史の終末であり、同時にハナニムの主管の善なる歴史の出発の起点となります。
したがって終末は、天の摂理の全般を完成させなければならない時です。すなわち、個人完成を完結させるべき「終りの日」であり、家庭、民族、国家、世界、ひいては天宙完成を完結させなければならない終末だというのです。ハナニムは摂理路程で、終末期を迎えるごとにハナニム中心の理念圏へと人類を導いてこられましたが、実に人類は自ら責任分担を果たすことができず、悪なる歴史を整理して善の立場に立つことができませんでした。
しかしハナニムは、絶対、唯一、永遠、不変の方であられるので、ハナニムのみ旨に対する予定も絶対的です。ゆえにハナニムは、堕落によって人類が失ってしまったまことの個人、家庭、社会、国家、世界、そして真の主権の復帰を通じて天上と地上にハナニムが運行できるその世界を取り戻し、成し遂げられることでしょう。ハナニムが求めていらっしゃる本然の世界とは、どんな世界でしょうか。その世界は、真なる父母を中心とした真なる世界です。ところが人類は、堕落によって歴史過程においてではなく、歴史の初めに、人類の真なる父母と真なる世界を失ってしまいました。
その結果、堕落によって私たちが住んでいるこの地も、人類が所有している理念も、どれ一つとして真の父母と直接因縁を連結させてあげることのできるものがありません。ですから人類はまず、「真」を求めなければなりません。
そうして真なる父母、夫婦、子女、民、万物、主権、宇宙が真なるハナニムの心情を通じて動じ、静ずることのできるその日が、人間世界において悪なる世界の「終りの日」となるのです。このような理想が成就する時が終末であり、再臨の時期です。したがって再臨期は、火の審判や、地が崩れ、信じる人が空中に引き上げられるなど、天変地異現象が起こるのではありません。もつれた曲折の悲運の歴史を蕩減とうげんし、個人から家庭、社会、国家を経て、世界を正しく立てる時なのです。縦的に失った個人、家庭、社会、民族、国家、世界を再び取り戻し、横的に連結させ、歴史的な個人、家庭、社会、国家、世界を成す時です。その日を願って生きてきたのが人類の所望であり、人類歴史が行くべき終着地だというのです。


ところが、個人も家庭も国家も行く道を失ってしまいました。世界には各種の公害問題、食糧問題、さらに宗教間の葛藤かっとう、人種間の対立などが至る所で起こっていて、各種の紛争の主要な原因となっています。誰がこの世界に責任をもちますか。深刻な問題です。過去の共産主義国家群も、自分の民族主義を超えることができませんでした。今日、強大国であるアメリカも、はんアメリカ主義の理想を超えることができずにいます。自国の利益のみを優先するときは、世界を指導することができません。自らを犠牲にしてでも世界人類を抱き、より次元の高い理想的国家へ前進しようという理念で団結した、民族や宗教が必要な時です。このような側面から私は、ハナニムの命を受け、ここアメリカに来て青年たちを教育しながら、没落していくアメリカの道徳的危機に強力な警告をするとともに、地に落ちたキリスト教の再復興のために全力を尽くしてきました。
皆さんは、レバレンド・ムーンの教えの核心とは何なのか、気になることでしょう。その答えは簡単です。
第1は、「より大きなもののために犠牲になって生きよ」ということです。個人は家庭のために、家庭は宗族のために、宗族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界はハナニムのために生きよというのです。そうすればそのハナニムは、結局、「私」を訪ねてこられるのです。家庭でも、父母は子女のために生き、子女は父母のために生き、夫は妻のために生き、妻は夫のために生きなければなりません。より多く「他のため」に生きる者が、善の中心者になるのです。
第2は、「怨讐おんしゅうを愛せよ」ということです。ハナニムは、堕落して悪魔サタンの子になってしまった人類を救うために、ひとり子イエスを送り、犠牲の道を行かせました。怨讐を本当の子供よりももっと愛するところには、サタンも自然屈服するのです。いつも、サタンの戦略は打って奪われるのであり、天の戦略は打たれて奪ってくるのです。それが公式です。私が全生涯を通じて、多くの迫害と苦難を受けてきたにもかかわらず、今日、全世界185ヵ国に宣教基盤を築いたのは、このような天理に従って生きてきたからです。
キリスト教の宣教歴史を見ても、イエスを信じるキリスト教徒たちが行く道は追われる道であり、迫害の道であり、殉教の道でした。そのように2000年の歴史を経て、殉教の血の跡が土壌となり、民主世界という巨大な体制を発展させてきましたが、今日では、その原動力となったキリスト教が危機にひんしています。


キリスト教理念を中心とした国家群がハナニムを否定し、イエスを否定し、さらにはハナニムの摂理を否定しています。甚だしくは、「ハナニムはいない」、「ハナニムは死んだ」と主唱している神学までもあるのを見るとき、真なる子女を探してあらゆる犠牲の道を歩んでこられたハナニムの心情は、いかばかりでしょうか。
内外の貴賓の皆様!
ハナニムが今まで投入して犠牲になったすべてのものは、誰のためのものでしょうか。それは、アメリカのためのものでもなく、キリスト教自体のためのものでもありません。結局は、堕落によって失ってしまった「私」一人を救うためであったということを知らなければなりません。堕落が一人の個人から始まったので、救いも一人の個人から始めなければなりません。
したがって代表的な一人が出てきて、「この時代の責任を果たそう。人間がハナニムに負ったすべての負債を清算して、堂々と善なるものをお返しできる私になろう」と自覚せずしては、復帰する道がないのです。漠然とした立場では、絶対に蕩減復帰をすることができません。観念的であってはいけません。ハナニムの代身となり、悲惨なことがあれば、悲惨な目に遭う当事者以上の心情をもたなければ、ハナニムの心情に到達することができません。
皆さんは、皆さんの子女が死んでいくというそのような深刻な心情で、60億の世界人類のために祈祷したことがありますか。皆さん個人を犠牲にして、家庭を救い、宗族、民族、国家、世界を救うために、どれほど精誠を尽くされましたか。そのような点では、誰も簡単に自信をもつことができないはずです。そのような絶対的な基準の代表者として来られる方が、再臨主です。人間始祖が堕落したのち、救いの摂理を展開してこられたハナニムは、アダムから2000年後にアブラハムを探し立てられ、その後孫を選民とされ、新しい家庭、宗族、民族を編成されましたが、それが正にイスラエル民族です。
メシヤを迎えるための勝利的な基台の上に召命された選民がユダヤ民族だったので、将来メシヤを実体として迎えるための主流民族になったのです。その主流のかなめを求めていくと、人間始祖アダム・エバができなかった使命を再現するための基準と理念が必要ですが、それが正にメシヤ思想であり、クリスチャンの立場から見れば、新婦思想です。しゅを新郎として迎えるための新婦としての資格を準備することが、最も重要なキリスト教の使命なのです。
このような莫大ばくだいな使命をもっていたのに、ユダヤ民族がイエス様を十字架で処刑することによって、第1イスラエルとして召命されたユダヤ民族は流れ去ってしまい、第2イスラエルであるキリスト教がその使命を継承してきたのです。この一つの目的を中心としてハナニムは、6000年の摂理をしてこられましたが、その摂理の終盤が、今のこの時代なのです。それでは、メシヤ思想の核心とは何でしょうか。それは、世界を救い、統一させるための思想であり、本然の理想家庭を建設することのできる教えであり、人間始祖が堕落によって失ってしまった位置である真の父母の立場を取り戻すことです。


新・旧約聖書の教えを見ても、メシヤは父の権勢をもって来られ、聖霊の実体である女性神に出会い、真の父母の立場を回復されるのです。ヨハネの黙示録に預言されている「小羊の婚宴」後の新郎新婦は、真の夫婦の段階を経て真の父母になるのです。このような使命で来られた方がイエス様でした。イエス様はイスラエルの不信によって民族と国を失ってしまいましたが、ハナニムが願われた世界と天国のために生命を捧げました。
十字架にかかられたイエス様の苦難の行路は、ハナニムと共に歩まれた苦難の道でした。イエス様は死の場でも「彼らの罪をゆるたまえ」と切に祈られたのです。死にゆく場でも未来の勝利を期して、ローマと、反対する群れを祝福したのです。
したがってイエス様の生涯は、1代33年で終わったのではなく、ハナニムの協助によって歴史と共に残り、その精神を継承したキリスト教は、世界的な宗教にならざるを得なかったのです。
内外の貴賓の皆様!
アメリカが今は世界で一番の強大国だと言いますが、ハナニムの摂理線上にまっすぐ立たない限り、いつまでも栄え続けることはできません。
人類文化史を見れば、古代文明の発祥は主に熱帯圏から始まりました。マヤ文明、インカ文明、エジプト文明、インド文明、中国の黄河文明など、古代文明の発祥地は亜熱帯圏ないしは熱帯圏でした。人間が堕落しなかったならば、春の季節の温帯文明から始まるべきでしたが、熱帯文明から始まって、その次は、秋の季節の涼帯文明圏に属するようになりました。これが自由世界を中心とした温帯文明圏に属するようになり、西洋文明がその中心です。大体赤道を中心として見るとき、北緯23度圏で連結されていますが、アメリカ、イギリス、ドイツなど、西側の先進諸国がこれに該当します。秋の季節の涼帯文明が終わりつつ、冬の季節の寒帯文明がしばらく押し寄せるようになります。これが共産主義の出現です。
多くの知性人たちは、ソビエト連邦が解体したのち、戦後の冷戦体制は終わったと思っていますが、いまだに唯物論無神論は、無力化された民主と共産の2大思想の代替理念として世界の至る所に蔓延まんえんしているのです。
本来、ハナニムの創造理想は、春の季節の温帯文明から始まるべきだったのですが、堕落によって熱帯文明から、原始的な状態から出発したのです。今こそ、涼帯文明の危機と寒帯文明の脅威を貫いて、古代から人類が追求してきた本当の春の文明である温帯文明が現れることでしょう。誰が、寒帯文明の冬の季節を溶かすことができますか。権力や経済、科学や知識をもってしては不可能なのです。河川と海岸を中心とした文明の循環を見てみても、文明は巡礼します。ナイル川チグリス川、ユーフラテス川を中心として発達した文明は、ギリシャ、ローマ、スペイン、ポルトガルを中心とした地中海文明に移り、この地中海文明は再びイギリス、アメリカを中心とした大西洋文明を経て、最後にはアメリカ、日本、韓国をつなぐ太平洋文明で結実するようになるのです。


このような文化史的観点から、韓半島の位置はとても重要です。韓国は、北の方にはロシアと中国を結ぶ寒帯文明圏の極地点であり、南の方はアメリカと日本を結ぶ涼帯文明の極地点です。したがってここで、涼帯文明を消化することのできる世界史的な春の季節、温帯文明圏が誕生するというのは摂理観的です。このような側面から、涼帯文明の結実地として人類的課題として残された南北問題と東西問題を解決するために、生涯を捧げてきたレバレンド・ムーンが韓国から出てきたということは、ハナニムの摂理的な帰結だと言わざるを得ないのです。
実際に私が、生涯を通じて人種と理念と国境を越えて「ハナニムのもとの一つの世界」運動を展開してきたのは、このようなハナニムの摂理による道であったということを申し上げたいと思います。これは摂理史的な原則であって、私が作り上げた特別な理論ではありません。天のみ旨を悟った私は、理論だけでなく、このようなハナニムの構想を現実化するために、外的には五大洋六大州に影響を及ぼさない所がありません。
アラスカ、南極、南米33ヵ国、旧ソビエト連邦各国とアジア、アフリカ大陸の各国など、全方位的な宣教と事業基盤を通じて、到来した新千年時代に人類が当面した公害、食糧問題などを解決することのできる準備をしてきたのです。近年ではブラジルのパンタナールとアマゾンを中心に、地球環境保存に対する実際的な基盤を築いてきました。一方、これまで内的には、国際合同結婚式および真の家庭の価値誓約運動を通じ、約4億3000万組が参与することによって、ハナニムが長い間待ち望んでこられた理想家庭を土台にした地上天国建設に拍車をかけてきたのです。
内外貴賓の皆様!
これまで、世界は政治、軍事、経済において優越した力をもった国々が支配してきました。しかし、ハナニムの摂理と一直線上に立たないとき、永遠の国はありません。燦爛さんらんたるギリシャ・ローマ文明の滅亡はその良い例なのです。
今日、超強大国としてそびえ立ったアメリカは、過去のローマのような立場です。ローマの滅亡は、外からの侵犯よりは内部から崩れ始めた道徳的堕落に起因し、天の運勢が離れたからです。一時期は、労働者、農民を主体視した唯物論唯物史観に立脚した政治勢力が、旧ソ連と中国を中心に、世界人口の3分の1、地球面積の3分の2を占領したこともありました。しかし、それは永遠ではあり得ませんでした。これからは、ハナニムのみ旨を代弁する宗教人たちが勢力を得る時が来ることでしょう。宗教指導者は、ハナニムのみ旨を地上に宣布し、人類に進むべき方向を提示してあげなければならない預言者です。


しかし、今のように四分五裂し、続いてきた教派間の葛藤と宗教間の争いは、ハナニムの摂理に障害物となるだけです。それで私は、ずっと以前から教会全体の予算の半分以上を超教派、超宗派運動に投入し、宗教間の葛藤を解決しようと努力してきました。さらに「世界平和宗教連合」を創設し、宗教間の和解と一致によって、人類平和増進の先頭に立ってきたのです。近年には「世界平和超宗教超国家連合」を創設し、これまでにここワシントンDCで7回にわたって「国際訓読セミナー」を行ってきました。
全人類は、人種と宗派を超越して、創造理想世界の実現のためのハナニムの摂理を理解し、究極的にはハナニムの心情と一致点をもたなければなりません。堕落によって失ってしまったハナニムとの心情的関係を回復し、本然の父母と子女の位置を取り戻さなければならないのです。したがって、ハナニムが約束された終末は、真の父母が顕現される時です。言い換えれば、堕落によって父母を失ってしまった人類が、本然の父母を再び迎えることのできる希望の時です。したがって真の父母は、人類歴史の希望の結実体であり、願いの結実体であり、勝利の結実体です。
統一教会は、このような伝統を、国際合同結婚式を通じて世界化してきました。民族と人種、皮膚の色を超えて、黒人と白人、黄色人が一つの兄弟姉妹としてまみえ、夫婦となるのは、地球村を一つにしようとされるハナニムのみ旨成就において、最も重要なことの一つです。今日、このように人類は、失ってしまった本然の兄弟姉妹、夫婦、父子の因縁を回復し、究極的に、子供を失い、嘆いてこられたハナニムを解放してさしあげてこそ、真の幸福の道が開かれるのです。
これまで民主主義は、「人間の自由」と「人間の解放」を主張してきました。これに比べて私たちは、「ハナニムの自由」と「ハナニムの解放」を主張しなければなりません。この問題を解決するならば、人間解放はもちろん、人間の自由回復は自然に成し遂げられるのです。
内外貴賓の皆様!
特別に、きょうアメリカの首都ワシントンDCで、ハナニムの摂理を語っているのは深い意味があります。
アメリカは、いろいろな面でハナニムの祝福によって準備された国です。アメリカを建国した先祖たちは、信仰の自由のために命を懸けて自由の国を求めてきたピルグリム・ファーザーズです。彼らは真の信仰の自由を求めて、愛する父母、兄弟、故郷と離別し、さらには国まで捨てるという覚悟で、命を懸けて大西洋を渡ってきました。
メイフラワー号がニューイングランドに到着したのは1620年11月の晩秋でした。その年、初めての冬を越えながら共に到着した102名の中で、寒さと飢えによって半分以上の人々が死亡しました。彼らが素晴らしかった点は、後孫たちのために翌年にく種を残しておいて、自分たちは飢えて死んでいったという事実です。清教徒たちは、何をするにしてもハナニムのみ旨のために生きているという信仰が徹底していました。彼らは、初めの年の収穫をもってハナニムに感謝を捧げ、教会と学校を先に造ってから、彼らが住む家を造りました。清教徒たちが開拓する路程で、農業をする時も、戦争をする時も、常にまず祈祷をしました。独立戦争当時、あの有名な最後の激戦地フォージ渓谷で、ジョージ・ワシントン将軍は戦闘で激戦に臨む瞬間、命を懸けた祈祷をしたはずです。ハナニムのみ旨を先立てた戦闘で、ハナニムはアメリカに手を挙げてくださいました。


当時、世界的な強大国であったイギリスは、国王と国民が一つになって戦いましたが、アメリカは、ハナニムとハナニムが愛する息子、娘たちが共に戦ったのです。それで、アメリカという自由信仰の国家が成立するようになったのではありませんか。今もアメリカは、国会が開院される時は、祈祷から始めます。大統領が就任宣誓をする時、聖書の上に手を置いてハナニムの前に誓い、聖職者の祝祷を受ける国です。さらには、貨幣にも「我々は神を信ずる(In God We Trust)」という言葉を書いている唯一の国です。このようにしてアメリカは、地球上に唯一、プロテスタントを信奉する世界的な形態を備えた国家となったのです。
ところが、今のアメリカはどうでしょうか。公立学校では、公式的に祈祷を禁じています。創造論よりは進化論を教育しています。さらには50パーセントに至る離婚率は、家庭の神聖さをことごとく破壊してしまっているのです。このような現実を心配されているハナニムの声を聞いた私は、既に1971年に、祖国と家族をあとにしたままアメリカにやって来ました。
何度も全国を巡回しながら、私は、「火事になった家に消防士として来た。病気になっているアメリカを治療するために医者として来た」と叫びました。その時私は、既にアメリカを離れていらっしゃるハナニムを発見しました。アメリカのいかなる所にもハナニムがいらっしゃらなければならないのに、反対に至る所でハナニムが離れ始められたのです。人々の心から、家庭から、学校からハナニムが離れていらっしゃいました。
振り返ってみると、ニューヨークのマンハッタンの5番街を歩きながら、アメリカを離れていかれるハナニムにしがみついて限りなく涙を流したのが、きのうのことのようです。不幸にもアメリカは、私が予言したとおり、道徳的に衰亡の一途をたどっています。
皆さん!
レバレンド・ムーンがなぜアメリカで反対されながらも苦労してこのように叫んでいるのでしょうか。私は、ハナニムが今日アメリカを訪ねてこられるまでに流された血と汗と涙の苦労を誰よりもよく知っているので、去る30年間、アメリカにいながら1日たりとも楽な気持ちで過ごしたことがないのです。
アメリカの主人は誰ですか。ホワイト・アメリカンやブラック・アメリカンではありません。ハナニムがアメリカを愛されるようにアメリカを愛する人が、本当のアメリカの主人です。アメリカは地上に神の国を立てるために選ばれた長男のような長子権代表国家なので、今もイエス様は霊的に主にアメリカの地にいらっしゃりながら、そのみ旨を果たしてくれることを切に祈っていらっしゃいます。


一方、私は、ハナニムのみ旨に従って1982年にワシントン・タイムズ社を設立し、アメリカが行くべき方向を提示する保守正論紙として、アメリカの世論を主導してきました。そして真の家庭の価値運動と青少年たちのための純潔運動を通じて、強力な救国救世運動を展開してきました。このすべてのものに、アメリカがハナニムの摂理の前に正しく立つことを願う心から投資してきたのです。私が1965年にワシントンDCを訪問し、決定したホワイトハウスの近くの聖地には、今も夜を明かしてアメリカのために祈祷する群れがたくさんいます。皆さんすべては、心の門を開き、あのピルグリム・ファーザーズから歴代の愛国の烈士たちの切なる願いを聞くことができなければなりません。
内外の貴賓の皆様!
今、始まった新千年紀は、6000年の間追い求めてこられたハナニムの救援摂理歴史がみな終わり、エデンの園で失ってしまった創造理想が天宙的に実現される時です。
人間の堕落によって主人を失った万物の嘆きも解放される時であり、長い間別れていた父母と子女が再び出会い、これ以上涙を流さない新しき天と、新しき地が成し遂げられる時であり、霊界と地上が一つに通じ、地上と天上にハナニムの国が成就する時代です。生きていらっしゃるハナニムの直接主管が、全般、全能の権勢として現れる時代です。さらに東西両洋全体が、天地父母を中心に「一なるハナニムのもとに一つの宇宙」として地球ぼし大家族主義の世界が実現される時です。これは、聖書に預言された旧約の約束と新約の約束が成就される、成約時代の完成を意味します。今、時が来ました! アメリカが再び目覚めるべき時が来ました。第2の建国運動を挙国的に展開し、ハナニムを中心とした真の父母、真の家庭、真の国家、真の世界を取り戻すべき時です。そうして離れようとされるハナニムを再びお迎えしなければなりません。
6000年間も準備して訪ねてこられたハナニムがアメリカを離れられたら、どこに行きますか。ハナニムさえ正しくお迎えすれば、家庭問題、倫理問題、青少年問題、人種問題は自動的に解決されます。五色人種が一つに相まみえて生きていくアメリカは、地上天国のモデルなのです。
この時、私たちみんなが一致団結して、人類が進むべき道を開かなければなりません。「長子の国(注:兄弟の最年長のこと。最も期待が大きい国の意味)」であるアメリカが先頭に立って、天の父母様に侍り、世界各国をハナニムの前に導く先導者的な使命を完成すべき時です。この歴史的な課業を完遂するために、共に同参してくださるようお願いいたします。
もう一度この場を訪ねてくださった皆様に、深甚しんじんなる感謝を捧げ、天と地に平和と自由と正義があふれる新たな千年王国が始まることを願いつつ、お話を終えようと思います。
皆様の家庭と国にハナニムの祝福が共にあらんことを願います。ありがとうございました。
(2000.1.22, ワシントンD.C. ヒルトンホテル「真の父母様御聖誕80周年慶祝記念集会」講演文)


 

5) ハナニムの王子、王女が行くべき生涯路程

南北統一を熱望する内外の貴賓、そして紳士、淑女の皆様!
たった今、始まった新千年紀は、20世紀の遺物である分裂と葛藤かっとう清算され、和解と統一の地球村一家族という理想が実現されるときです。皆様の各家庭に新千年の祝福が共にあることを祈願いたします。
まず、私の80回目の誕生日を祝賀してくださるために、世界(全国)各地から訪ねてきてくださった皆様に心から感謝いたします。そして何よりも、この日まで見守ってくださり、共にいてくださったハナニムにすべての栄光をお捧げいたします。私の生涯を振り返ってみるとき、ただの一時も平坦へいたんな時期がありませんでした。韓半島を取り囲む列強の狭間はざまで、あらゆる苦難の道を歩んできた民族の受難史とともに歩んできました。私は、16歳(数え)の少年時代に、祈祷している中で突然、天のみ旨と出会い、その後、生涯を通じて神のみ旨を成就するために全身全霊を傾けてきました。
そして気がつけば、人間の不幸の根本原因は、人類始祖の堕落によって霊的無知に陥り、ハナニムとの関係が断絶されたことにあったのです。このことによって、人間はハナニムと人生と宇宙の根本問題等に対して無知に陥ったのです。今まで私は、世界各地の公式席上において1万回以上語ったみことばを通して、「神主義」に立脚したまことの人生観、世界観、歴史観を提示してきました。それらの内容は、世界各国の12の言語に翻訳され、既に300巻以上の本として出版されました。これは、文献による総合的な研究や学問的な探求の結果として解明したものではなく、有形・無形世界を自由に行き来しながら、原則的で根本的な解答を解き明かしてきたものなのです。
今日、私は、この意義深い場に感謝しながら、私たち民族の宿願であり、世界の冷戦問題の最後の決算というべき韓半島の統一問題を念頭に置き、その方案に対する根本的な解答として、「ハナニムの王子、王女が行くべき生涯路程」という題目でお話ししたいと思います。
内外の貴賓の皆様!
皆様は、どこの国の国民ですか。大多数の人が韓国の国民であると思います。そうすると、韓国が皆さんの祖国です。そうではないですか。それでは、ハナニムの祖国はどこになりますか。今、ハナニムの祖国はありません。この世界のすべての国家の起源はどこですか。ハナニムが起源になっていますか、そうでなければ、他のところが起源になっていますか。このような、すべての国家の歴史的な起源が問題になっているのです。
この世の国々は、すべて闘いによって分かれて生まれました。それゆえに、ある二つの国があるとき、その二つの国の境界線は、深い恨みが積もった境界線になっている場合が多いのです。第3国、第4国との境界線よりも、隣接した境界線を中心としてより熾烈しれつな闘いを繰り広げ、より多くの血を流した歴史的な事実があるということを私たちはよく知っています。このように、二国家間、二つの民族間の障壁が最も高いのです。


闘いは常に、何万里も離れた所に飛んでいってするのではありません。昔から、隣接する二国家の境界線を中心として闘いが起きてきました。ですから皆さんも、最も近い隣人との間から闘うようになっています。なぜなら、人間が堕落したからです。隣人との間から闘いが起きるのは、堕落による結果なのです。堕落とは何ですか。ハナニムと人間との間に葛藤が生じるようになったことであり、ハナニムとサタンとの闘争が起きるようになったことであり、人間とサタンとの闘争が起きるようになったことです。人類歴史において、この地球上に数多くの国があったということは、数多くの闘争があったということを証明することだという結論を下せます。
そのようにして生まれた国は、どこに行くのでしょうか。すべての国が平和の世界を追求しますが、本当に平和の世界に行くことができるかという問題が、今、人類共通の課題として残っているのです。
平和の世界というものは結果の世界ですが、誤った出発、すなわち誤った原因から平和の世界に到達するということは、論理的な矛盾と言わざるを得ません。それゆえに、このような戦争の起源を克服して乗り越えていくことのできる運動を展開するところにおいてのみ、理想世界に向かう出発点を探し出すことができるのです。原因が完全であるために結果が完全であり、平和で始まるがゆえに平和の過程をたどることができ、平和の目的に到達できるということは理論的に妥当なのです。
このように見るとき、自分の国と隣接している国が歴史的な怨讐おんしゅう国家だといって、ずっと憎み続けようとするならば、永遠に平和の世界には到達し得ないことを知ることができます。それでは、いくら理想郷を慕い、理想郷に向かって前進したとしても、その目的達成は不可能です。このような闘いが始まった、その動機を否定し、誤った歴史を消し去るためには、その反対方向の内容を主張する運動が必要だというのです。
内外の貴賓の皆様!
皆様は、国のない民と同様です。それでは、過去には国があったのでしょうか。歴史上に、「私の国である」ということのできる形態の国があったでしょうか。そのような国の形態も、もつことができなかったのです。それでは、その国を取り戻すために苦労した人がいなくてそうだったのでしょうか。そうではありません。その国は、過去の歴史時代の人が考えていた位置では、探し出すことができないために迎えることができなかったのです。その時代圏内において、内外を備えた基準を中心としてその国を探し出すことができなかったので、その国を迎えることができなかったのです。私たちが取り戻さなければならない祖国というのは、今日、この地上に存在する、いかなる歴史と伝統をもった国でもありません。そのような国とは本質的に次元が違うのです。
私たちは、次元が違うその国を受け継ごうとするならば、そのようにできる思想的な主体性をもった国民にならなければなりません。しかし、その主体的な思想は、絶対的な創造主がおられるならば、その創造主の思想と一致する思想でなければなりません。絶対者が願う国を成そうとするならば、その国の主権を中心として国民が一致することのできる国となることを願わなければなりません。そのような国民性をもって国家形態を備えなければならないのです。


一つの国が形成されるためには主権がなければならず、国民がいなければならず、国土がなければなりません。天の国もやはり同じです。主権に代わるものが父母であり、国民に代わるものが息子、娘であり、国土に代わるものが国なのです。この中のどれ一つとして除くことはできません。これは鉄則です。最も重要なことは何ですか。世界と国のために生きることです。そのようにしさえすれば滅びません。滅びない所が限界点です。
国のために生きる基準で実際に行動をしていて死んでいった人々は、死んでもその国の民になります。その国がなくなる時まで残るようになるのです。国が形成されるためには、国土がなければならず、国民がいなければならず、主権がなければなりません。
主権とは何ですか。根源であるハナニムと因縁を結ぶことです。国を統治する人たちは、国民が深く寝入ったあとに、ハナニムと因縁を結んで政治を行わなければなりません。そして、主権者は国民と一つにならなければなりません。国民と一つになり、自分の持つすべてのものは自分のためのものではなく、国のためのものであると考えなければならないのです。
そのようになれば、その国は繁栄します。そのような観点から地上に天国を実現するという問題を考えてみるとき、天国の主人は誰でしょうか。主権者は誰でしょうか。間違いなくハナニムが主権者です。そして国民は誰ですか。国民は万民です。それでは国土はどこですか。地球ぼしです。地上天国は誰に似ているのでしょうか。「私」に似ているのです。一つの国を見れば何がありますか。主権、国民、国土があります。これは人間と同じです。
地上天国は誰に似ているというのですか。「私」に似ているのです。「私」という個人が集まって国になるのです。したがって、「私」に心があるように、国にも主権がなければならず、人格体なので国民がいなければなりません。また、人間には万物が必要であるように、国土がなければなりません。
このような原則から、国土は人に支配され、国民は主権に支配されるのです。この国土、国民、主権が国家形成の3大要素です。そのようになっています。
人について見てみるとき、心は体を支配し、体は万物を支配するのが原則です。この原則があるために、全世界を見れば、天地人だという決定的な結論が出てきます。天とは何ですか。人間の心と同じなので主権と同じです。人は国民であり、地は万物です。結局、国は誰に似たのかというと、「私」に似ているのです。
いくら大きい社会、いくら大きい国家であっても、人に似なければなりません。それは、ハナニムが御自身の形状に似たものを好まれるからです。それでは、人が最も好むものは何ですか。自らの形状に似たものです。ですから、理想的な国家とは、何に似なければならないのですか。人に似なければなりません。天・地・人に似るのです。


統一教会の用語で「祖国」というものは、大韓民国という一つの国ではなく、世界的な国のことをいうのです。「世界的」という言葉は、堕落した世界圏でも使われる言葉なので気分が良くありません。それで、このような「祖国」を探し求めていく主義を統一教会では「天宙主義」というのです。
その祖国は、大韓民国ではありません。ハナニムが願われる祖国は、大韓民国ではなく、アメリカでもありません。共産国家でもないのです。その祖国は、ハナニムが願う祖国です。ゆえに、私たちは、新しいその祖国の文化をつくり上げなければならず、その祖国の歴史をつくり上げなければなりません。
私たちは、新しい理想的な祖国を建てるために、新しい基準を定めなければなりません。私たちの生活を変えなければならないのです。その世界は、今のこの世界と全く違います。言葉も違うのです。「原理主管圏」や「相対基準」、「相対基台」、「復帰基台摂理」という重要な言葉を、世の中の人々は知っていますか。ですから、違うというのです。
統一教会が願う国が建設されれば、統一教会の看板を外さなければなりません。そして、統一教会が願う世界が形成されれば、統一教会が立てた国はなくさなければなりません。大韓民国韓民族を中心とした文化と人格だけのための宗教は捨てなければならないのです。世界のために生きる宗教であってこそ、これからも残る宗教になるのです。
満場の内外の貴賓、紳士、淑女の皆様!
ハナニムのみ旨を受け継ごうとする人がいるならば、彼は、どのような主張をしなければならないと思いますか。この世の人々が好むような方向に行くようにという主張は絶対にできません。むしろその反対の道に行くようにと主張しなければなりません。それに該当する代表的な標語が、「愛の心をもって怨讐を愛しなさい」というものです。「怨讐を愛しなさい」、このみ言は、誤った歴史を元に戻すことができるものであり、台風に揺さぶられる船のいかりや錨綱のようなものです。
しかし、復帰摂理歴史を通じて、「怨讐を愛しなさい」というみ言を実践してきた人はいませんでした。もし、怨讐を愛することができる人々がいるならば、そのような人々によって一つの組織的な形態を備えた世界的な版図を確保しなければなりません。このような結論が出てくるので、そのような運動をハナニムが提示なさらなければならないのですが、ハナニムによって提示されたその運動の反映体が、歴史に現れた宗教運動だということを皆さんは知らなければなりません。
今までで、ハナニムが最も愛することのできる人は誰でしょうか。イエス様なのです。イエス様は、闘っているこの世界に新しい方向を提示してくださいました。ローマやイスラエルのような圧迫国家と非圧迫国家の間には、お互いを怨讐視する高い障壁があるのですが、イエス様の哲学は、それを壊してしまうべきだというものでした。イエス様は、「ローマよ、あなたは力で私を征服しようとするが、私はその反対に愛であなたを征服する」と考えられたのです。それで、十字架にかかりながらも怨讐のために福を祈ってあげたのです。


そのような思想は、ローマの兵士たちに対して、「彼らは、自ら犯した罪が分からないので、彼らをゆるたまえ」という驚くべき宣言として現れたということを知らなければなりません。イエス様がそのようになさることによって、世界のすべての国がお互いを怨讐視することを乗り越えられ、二つの国家間の国境を乗り越えられる一つの原型、または模範となりました。
エス様は、個人的な怨讐がすべてではないということを知っていたのです。家庭的な怨讐があり、宗族的な怨讐があり、民族的な怨讐があり、国家的な怨讐があり、世界的な怨讐によって四方から縛りつけられているということを知っていました。これは、自分に従い、自分が行く道を行こうとする人には、数多くの怨讐が待っているということなのです。そして、「家庭的に行けば家庭的な怨讐が待っていて、宗族的に行けば宗族の怨讐が待っていて、熾烈な闘いが予想されるけれども、そのたびに怨讐を愛しなさい」というみ言です。このような精神をもっていれば、いつかは勝利できるというのです。
それでは、ハナニムの理想国家の実現、すなわち祖国光復はどこから実現されるのでしょうか。怨讐を愛するという思想をもった個人から出発するのです。それゆえに、「ハナニムがいらっしゃる限り、愛で国境を崩し、すべての環境と文化的な垣根を越えて怨讐までも抱こう」という運動を提示したキリスト教は、世界的な宗教にならざるを得ないのです。大豆を植えれば大豆ができ、小豆を植えれば小豆ができ、真っ赤な花の種からは真っ赤な花が咲きます。同じように、あだを討つサタンの種をけば、あだを討つ悪の木が育つのですが、怨讐を愛する善の種を蒔けば、怨讐を愛する善の木が育つということです。これは自然の道理なのです。
ハナニムの祖国は、どこからどのような道を訪ねてくると言いましたか。それは、怨讐を愛する道、個人の怨讐を愛して、家庭の怨讐を愛して、宗族の怨讐を愛して、国家、世界の怨讐を愛する伝統を残す道から訪ねてくるのです。そのような道でなければ、ハナニムの祖国は現れ得ないことを皆さんは知らなければなりません。
見ていてください。アメリカが反対したがゆえに、国務省が反対したがゆえに、国会が反対したがゆえに、私は国会で勝利したという賞状を受け、国務省から勝利したという賞状を受け、アメリカで勝利したという賞状を受けることができる時が来るはずです。それで、反対する国務省の中にも友人ができ、国会の中にも友人がたくさんできています。勝利は、私に返ってくるようになっています。
私は、そのような友人が一人もいなかったとしても、あらゆる反対を克服して勝利に導くことができるという確信があります。反対すれば反対するほど、こちらの怨讐を愛する内容が相対的により大きくなるので、反対が激しいからといって落胆する必要はありません。


自然の道理は、一方が低気圧ならば、もう片方は高気圧になっています。一方が高気圧になれば、もう片方は低気圧になるのです。アメリカの国務省が高い所から反対するとき、私が低気圧圏を成していれば、高気圧が低気圧に吸収されるように、アメリカの国務省は私に屈服してしまうはずです。
私が非難されながらも闘わずに彼らを愛してみると、彼らは私の友人になり、友人の家庭ができ、友人の宗族ができ、友人の国ができたのです。
怨讐を愛する精神をもった人々によって構成された国が現れれば、その国は、ハナニムが願う理想境となることができ、人類が入っていける理想郷になり得ることを知らなければなりません。
私、ムン総裁は、とても見すぼらしい男です。事実、そうではないですか。皆さんは「違う」と言いますが、世の中の人たちは、私が愚かな人であると思っています。しかし、ハナニムは、私が一番お好きです。世の中が私を愚か者扱いしたとしても、ハナニムが認めるので、世の中に対して堂々とした立場で攻撃できるのです。
怨讐を愛する心をもてば、言えないことがありません。なぜですか。ハナニムが送った男性であり、美男子というならば、そのような人が美男子であり、立派な人というならば、そのような人が立派な人であり、堂々として勇ましい人というならば、そのような人が堂々として勇ましい男であると考えるので、私はそれを栄光に思い、世の中に対して自信をもって攻撃するのです。
私一人がこのように陶酔して活動すれば、何が起こるか御存じですか。このようにすることによって、ハナニムを喜ばせる若い青年男女が生まれ、ハナニムを喜ばせる五色人種の家庭が生まれ、ハナニムを喜ばせる民族が編成され、ハナニムの祖国光復が可能になるのです。
「怨讐を愛しなさい」と言ったので、最も憎むべき人をも愛さなければなりません。一番の美男子に一番の醜女を夫婦として結んであげたとしても、怨讐を愛する以上に愛さなければなりません。そのような人は、この世の怨讐を愛するにおいて最高の王子の旗を掲げて前進する人の候補者です。事実そのような人がいるならば、どれほど素晴らしいか考えてみてください。そのような人は、民族の国境をさっと越えることができるというのです。
愛する心だけをもって暮らす日には、すべての障壁が崩れていき、復帰摂理歴史が短縮されて天国が近づいてくるということを知らなければなりません。
私の哲学は簡単です。より大きなもののために犠牲になり、奉仕することです。私は、やってみなかったことがありません。農夫にもなってみて、労働者にもなってみました。やれることはすべてやってみました。漁夫になってツナ(マグロ)も釣りました。そのようにして生涯を生きてみると、一人だと思っていたのに、振り返ってみるとイギリス人がついて来て、アメリカ人もついて来て、世界の数多くの人々がついて来ています。ついて来るなと足でけ飛ばしてもまたついて来て、後ろに飛ばされてもまたついて来ます。ですから統一教会を、いくら研究してみても、その内容のすべてを知ることはできないのです。


内外の貴賓、そして紳士、淑女の皆様!
今から行くべきなのは、どのような道ですか。いくら宗族を編成したとしても、サタンの国の主権が残っている限り、皆さんは国のない人々です。ここが皆さんの国ですか。皆さんには国がないのです。いくら宗族があるとしても、その主権が天を中心とした主権でないときは、この宗族の首を切ることもあり得るのです。そうでしょう。それゆえに、天が歓迎することのできる国を訪ねていかなければなりません。今日、この地上における第1イスラエル圏というものは、天全体が歓迎でき、個人も歓迎し、家庭も歓迎し、宗族も歓迎し、民族も、教会も歓迎することのできる、そのような地になるべきです。ところが、今日の統一教会を中心として見ても、既成教会を中心として見ても、大韓民国を中心として見ても、全体が歓迎できる立場に立ったでしょうか。そのようになることができませんでした。方向が違います。方向が違うのです。大韓民国が進んでいるのは外的です。そうでしょう。ハナニムを中心としたものではなく、世の中を中心として外的に進んでいます。この国の主流的な思想がないというのです。
したがって、この国の主流的な思想を中心として天と連結させ、新しい立体的、あるいは平面的内容を備えた新しい国家観を形成し、その形成された国家観を、今日の国家を中心としたもの以上の内容として備えていかなければ、祖国光復を迎えることはできません。
今日の「解放」というものは第1の解放です。今、統一教会においては、第2の解放が必要なのです。大韓民国も第2の解放が必要です。ここで大韓民国が第2の解放を迎えれば、国家と民族はそのことによって願いを成就できるかもしれませんが、統一教会は第3の解放を必要とするのです。そのようになるのです。大韓民国は第1の解放により、初めて内外において今の国家形態を備えましたが、第2の解放が必要な時が来ました。南北が統一されなければならないというのです。
その国はどのような国ですか。その国は、歴史過程において、民族が悲惨な路程をたどらねばならず、蕩減とうげん復帰の原則に一致することのできる国民性をもたねばならず、歴史的な伝統を引き継いできた国でなければなりません。その国はどのようにならなければならないのでしょうか。完全に統一された国にならなければなりません。今日の大韓民国がそのような国になろうとするならば、どのようにならなければならないでしょうか。
その国の基準に上がっていくためには、南北を統一しなければなりません。北朝イスラエル南朝ユダのように分かれた南北韓を、一つに統一しなければなりません。カイン・アベル国家に分かれたのと同じように南北に分かれたのですが、これを統一しなければ一つの勝利的イスラエル国家は現れないのです。それでは、この国において、大韓民国を中心として北韓南韓は、どのように統一されなければならないでしょうか。それは、新しい世界主義的な思想をもたなくては統一することができません。この時に備えて、新しい思想を掲げていこうというものが、今日の統一教会が主張する「統一思想」です。分かりますか。


今、私たちは二つのことをしなければなりません。世界において、いかなる国家もついて来ることができない団結した民族を形成しなければならず、そして、いかなる宗教もついて来ることができない鉄のような信仰で団結した国家を成し遂げなければならないのです。このような思想を中心として、南北が統一された国家が成し遂げられなければなりません。そうしなければ、ハナニムの国、世界に誇ることのできる天国の主権は誕生しないのです。これが、今日の私たちの行くべき地上の第1目的地だということを知らなければなりません。
祖国を取り戻すことができなければ、サタン世界の国家を凌駕りょうがすることのできる天を中心とした一つの国をもつことができません。その国をもつことができなくては、世界のサタン国家を打つことはできません。押し出せないのです。宗教、統一教会をもってしてもできません。真の父母の思想を中心として、国が方向を定めて進んでいかなければなりません。このような問題が残されているということを知らなければならないのです。このような観点で見るとき、イスラエル国家の精神的な支柱がユダヤ教であったように、今日の韓国において統一教会ユダヤ教と同じ立場であるならば、真の父母の思想が韓国の主流的な思想になるのです。ある人たちは、そのように言うのです。国会議員たちもそのように言います。真の父母の思想を国家の中心理念すれば、共産党は問題ありません。
紳士、淑女の皆様!
今日、天のために行く人々は、サタン世界に派遣された密使です。個々人において、大小、広狭こうきょう、高低の差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体においては、密使の生活から離れてはなりません。そこには、いつも生死の危険が伴っています。まかり間違えば、永遠の生命の問題が左右される立場に立つようになるのです。
それゆえに、永遠の生命を支えることができ、永遠の生命を保護してくれる私たちの祖国を取り戻すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活はできません。「祖国の栄光を願う心をもって祖国のハンを解いたとき、すべての万民が喜ぶ」ということを考えながら、新しい歴史を創建し、祖国光復の1日を迎えるその時に、自らの功労が現れることを思いながら、現在の立場を無視してしまうことができなければなりません。そのような心が先立たなければ、密使の使命を遂行することはできないのです。言い換えれば、祖国光復のための希望が現実の希望より、千倍、万倍強くなってこそ、今の生命を捧ることがあったとしても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。
もしそのように責任を果たそうとして、不意の事故で犠牲になったとしても、そこには新しい責任者を再び派遣できるのです。既に彼が死んでしまったとしても、彼の友人になることができ、彼の側に立つ人々が出てくるはずです。彼が模範となる立場で生きてきたゆえに、たとえ彼が犠牲になったとしても、そこには彼の側に立つ人々が残るのです。このような人々が残っている限り、ハナニムがその基台の上に代わりの者を送ることができるのです。しかし、そうでない立場で死んでしまうときには、そこで彼がいくら苦労したとしても、それで終わってしまうのです。


このような立場で皆さんは今、新しい時代を迎えてどのような姿勢を持たなければならないのでしょうか。祖国光復のための信念が、何よりも高く胸の中で燃えていなければなりません。言い換えれば、6000年間、ハナニムが待ち焦がれた祖国を建設する旗手となり、先鋒せんぽうに立った精鋭部隊の一員として開拓者になる、この途方もない使命に責任をもっているという自負心を感じなければならないのです。過去に生きた数多くの人々がもつことを願いましたが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時にしかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感をもたなければなりません。
したがって、食べること、寝ること、行くこと、来ること、すべての生活が祖国創建のためのものでなければなりません。「ハナニムから特別に派遣された密使として、凛々りりしく見事にこの使命を遂行しよう」と立ち上がってくれることをハナニムがどれほど期待していらっしゃるでしょうか。今までは、ひどく追い込まれ、激しく追い回されました。国家の基台を備え、全体の内容を提示して一度も広げてみることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができる、そのようなみ旨を立てなければなりません。今までそのみ旨を、一度も立てることができなかったのです。
しかし、今からはそのような祖国を建てることができます。その祖国には主権があり、その祖国には国土があり、その祖国には国民がいます。また、そこには単一民族の血統が因縁となっており、他の民族がもつことができない歴史があります。そのような祖国のために私たちは、密使の使命を遂行しなければなりません。そのような使命を自分自ら早く完遂して、やり遂げればやり遂げるほど、祖国光復の基台が自分によって徐々に近づくのです。きょうの苦労を代価として払うことが、祖国光復の1日を早く迎えることのできる基台になるのです。このような事実を思いながら、皆さんは生きて密使の使命を完遂するという決意をもっていかなければなりません。そうでなければ、これからハナニムが私たちに与えてくださる世界史的な祝福と天運を、私たちのものとして迎えることができないのです。
私たちは、天国を地上に建設しなければなりません。地上でその国を復帰し、その国の中心と一つになって、私たちの国において、天が願ったその希望の基準を備えてお父様のみ前に帰ってこそ、面目を立てることができるのではないかというのです。
ところが、皆さんに国がありますか。もっていないということを考えるとき、死ぬに死ねないのです。死ねば、どこへ行くのかというのです。死んで、その面目のなさと恥ずかしさを、どのように免れるのですか。自分の生命の長さというのは制限されているのに、その期間内にしようとするのですから、どれほど忙しいでしょうか。その上、悪なるサタンの環境は私たちに反対し、怨讐たちは私たちの道を妨げるのです。これを切り開いていこうとするので、いつも密使のような行脚あんぎゃの路程を避けることはできないのです。


私が行き来するのも、その国を取り戻すための、祖国光復のための建国の功臣になるためであり、そのような使命を担い、あるいは天の密使として指令を受けて、今日の悪なる世界に来てこのことをおこなっている、という事実を思いながら生きていかなければなりません。
そのようにしなければ皆さんは、今後、訪れる国の国民として、その威信と体面を立てることができないということを知らなければなりません。
皆さんは、個人的に影響を与えたいですか。家庭的に影響を与えたいですか。国家的ですか。世界的ですか。どのように影響を与えたいですか。世界的に影響を与えたいでしょう。しかし、世界的な舞台に上がっていこうとするならば、一人ではできません。国がなければなりません。しかし、皆さんの国があるでしょうか。
ですから私たちは、夜も昼もその国のために食べて、寝て、暮らそうとするのです。そのために生まれたということを、皆さんが天地を中心として誓う生活をしなければならないということを知らなければなりません。寝ているときにも、世界の数多くの人々のベッドを集めて、その頂上で寝ていると考えなければなりません。食膳しょくぜんを見てもそのように考え、どこにいても自分一人で座るのではなく、世界の人種をすべて集めた頂上の玉座に座っているという心をもたなければならないのです。天の息子はそうでなければなりません。
サタン世界の権限を凌駕する位置に立つことができ、その栄光の位置に立って生きなければならないのが天の息子、娘の生活だということを、皆さんは知らなければなりません。ハナニムが息子、娘を愛そうとするならば、そのような息子、娘を愛すべきなのであって、サタンにさえも劣る息子、娘を愛すれば、父の威信が立たないのです。皆さんは、そのような信念をもって今後、全世界と手を結んで日々の生活をしていかなければならないということを、新しく決心しなければなりません。そこにおいて、統一戦線の基盤は確固たるものになるとみています。
「私は、たとえサタン世界圏内にいたとしても、天の密使だ、天の一大使だ」と考えなければなりません。密使には、その国の国王と直接連絡し得る道があるのです。ほかの人には分かりませんが、そのような密使の使命と威信のために生きているという信念をもっていかなければならないのです。このことを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。国の国王も密使の報告を待っているのです。それと同じように、私たちがこの地上で、そのような使命をもっているならば、ハナニムも私たちの報告と私たちの要求を待たれるようになるというのです。
したがって、自分が密使の立場で、「至急に願うものを送ってください」と言えば、あらゆる冒険を克服しながらでも送ってあげようとするのではないでしょうか。これと同じように、皆さんがそのような信念をもってハナニムの特権的な栄光の息子、娘であることを認識しながら、「私は、これを願うので成し遂げてください」と言えば、成し遂げてくれるのです。そのようにすれば、生きていらっしゃるハナニムを発見でき、生きていらっしゃるハナニムが働かれるのを見ることができるのです。


そのようになってこそ、指導者になることができ、病気の者がいれば病気を治すことができ、困難なときには、ハナニムが直接助けてくださるようになるのです。そのような生活を通じて多くのことを学ばなければなりません。そうしてこそ自信が生まれ、そうしてこそ、信念をもってすべてのものを打開していくことができるのです。
尊敬する内外の貴賓の皆様!
私たちが行くべき所はどこですか。個人を尋ねていくことが、私たちが行くべき目的ではないのです。また、家庭を尋ねていくことが現在の私たちの目的ではありません。私たちが行くべき道は、国を尋ねていくことです。分かりますか。母や、父や、息子などということなく、これを尋ね求めなければならないということです。ところが、今日の統一教会の教会員たち、祝福を受けた家庭、宗族圏内にいる人々は、「ああ、国だとか何だとか、教会だとか何だとか、そんなことは知らない」と言います。そのようになれば、すべて落第です。原理的にそうなのです。
死ぬときまで国を求めていき、もてる精誠のすべてを尽くして、正に天国の主権復帰のために祝典を行い、祝賀することができ、勝利の凱歌がいかを上げることができる、その時を迎えなければなりません。イエス様の言葉ならば何であっても、その一つだけしか知らないというようでなければなりません。方向を提示するにおいては、二つではなく一つです。行こうと言えば行かなければなりません。そのようになっています。そのようになっていますか、いませんか。それでは、夫を捨てて、息子を捨てて、家庭を捨てて行こうと言えば、行かなければなりませんか、行ってはならないでしょうか。統一教会のためにそのようなことはしないのです。国のためにそのようなことができなければならないというのです。
今、以北(注:朝鮮半島で休戦ライン以北を言う語。北朝鮮)では、家庭の戸籍をすべて作り直しています。これはどういうことだと思いますか。サタン世界が先に行うということなのです。国のためには、自分の夫や、妻、父母、息子など、すべて捨てて立ち上がることができなければなりません。そうしなくては、希望の国を取り戻すことができません。その国を復帰するとき、その国とともに父母を取り戻すようになるのです。国を見いだすことができなければ、血を流す父母を見なければならず、血を流す妻を見なければならず、血を流す子女を見なければなりません。それ以上に悲痛なことがどこにありますか。それゆえに、国を取り戻す前には妻を愛することはできないのであり、父母を愛することはできないのであり、息子を愛することはできないのです。これがキリスト教が行くべき道であり、統一教会が行く道なのです。
皆さんは、自分自身を否定して、その国とその義のために生きる人にならなければなりません。いかなる困難な環境にぶつかったとしても、皆さんは、自分自身に対するお父様の願いがあることを思いながら、その環境と闘って勝つ人にならなければなりません。そのような皆さんになって初めて、「ハナニムの真の息子、娘である」と言うことができるのです。


それでは、ハナニムの国を建設できる人はどのような人でしょうか。それは、自らの一身を否定し、切ない心で天のために生きる人です。自分を否定して、社会と民族、国家、世界のために生きる人が、正にハナニムの国を建設することができる人だというのです。さらには、国家と世界を否定してでも天のために生きる人が天国を建設することのできる人だというのです。また、いかなるつらい環境にぶつかったとしても、自分一身のゆえに悲しむのではなく、社会と国家、世界、さらには天のために悲しむ人であってこそハナニムの国を建設することができます。
それだけでなく、皆さんは、ハナニムの国とハナニムの義を捜し立てる過程において、サタンとの闘いに敗北せずに勝利して、皆さんが個人から家庭、社会、民族、国家、世界を一つに連結させることができなければなりません。すなわち、皆さんがどのような立場に立ったとしても、そこでサタンと闘って勝利する人にならなければならないのです。社会に出れば、その社会のどのような環境の中にあってもサタンと闘って勝利すべきであり、国家に出れば、その国家の一番難しい問題に責任をもち、サタンと闘って勝利しなければならないのです。
6000年間、ハナニムを縛りつけてきたサタンが、そのまま素直に、「ああ、私は降参します」と言って、目を伏せて帰ると思いますか。皆さんは、雑巾ぞうきんでも、捨てようとすればもったいないと思うでしょう。雑巾でも、引っ繰り返してにおいをかいでみてから捨てるのです。サタンは、そのまま退いてはいきません。ですから、がむしゃらな闘いをしてくるのです。それゆえに、中心に合わせなければなりません。統一教会ムン総裁も、中心から外れるようになるときには負けてしまうのです。方向が合わなければ、発展しないということです。
その国を取り戻すのは世界を取り戻すためであり、世界を取り戻すのは霊界のためなのです。そうして何をするのでしょうか。ハナニムを地上にお迎えして定着し、万国がハナニムを中心にお迎えして、そのハナニムの前に勝利の栄光をお返しするために行くのです。そのような闘いをしなければならないのが私たち統一教会の使命だということを知らなければなりません。
私たちは、はだしで出ていき、祖国を創建しなければなりません。食べ残したもので、この国を生かすことができますか。食べること、着ること、行き来することに、いつ神経を使うことができるでしょうか。はだしで、素手で開拓していかなければなりません。このようなことを行うところが統一教会なのです。
皆さんは祖国を探し出さなければならない勇士ですか、それとも滅ぼす亡国の士ですか。勇士とは国を代表し、ほかの人ができない仕事をなせる人のことを言うのです。誰でもできる仕事をする人を勇士とは言いません。そのような人は兵士です。同僚たちができずに後退するとき、その仕事をやり遂げることができる人であるならば、その人は勇士です。「勇」という字は、「すばしこい」という意味です。誰よりも早く走り、鉄砲玉もよけるほどにならなければなりません。誰でもできる仕事をする人を勇士とは言えないのです。


国を建国するにおいて、開拓の勇士となるべき先鋒に立つ将軍は誰ですか。そして、国を成すことのできる基台はどこですか。一つの国を成そうとすれば、主権がなければならず、国土がなければならず、国民がいなければなりません。それでは、天の国を中心として見るとき、国土となり得る基盤は何ですか。それは、教会の人と物しかないというのです。そうでしょう。
その次に、天の国の民が誰か。教会員です。また、主権者は誰か。皆さんです。皆さんが長の代身者であり、ミョン長の代身者であり、郡主グンスの代身者であり、知事の代身者です。皆さん、主体者になりましたか。サタン世界から爆弾が運ばれるなら、真っ先に駆けつけなければなりません。分かりますか。そのような心がありますか。
そして、お金が1銭でもあれば、教会を広げることに使うのです。その国の版図を広げ、国民を結集させることに使うのです。教会の責任者は、主権者の代わりです。里長の代わりであり、母父の代わりなのです。このような伝統的思想を残さなければなりません。私たちには何もないのです。
この韓国に建てられる国は、どのような国でしょうか。互いが流通し交流するようになるときは、共産国が建てられるでしょうか、それとも今日の大韓民国として、そのままにしておくのでしょうか。そうでなければ、どちらでもない新しい国を追求するのでしょうか。このような問題について見るとき、私たちの時もますます近づいてきているということを感じるようになります。皆さんが、このことを成して責任を負うべき統一の群れであるならば、それに対する責任感をどのくらいもち、また、どの程度の犠牲の代価を払うことができる決意ができているのかというのです。自信がありますか。38度線の以北を越えて、以北、5道の市、グンを中心として、私たちの基地を準備しなければなりません。
人員が不足なこの時に、誰が北韓の地の、定州チョンヂュならば定州の責任者になるのかを考えてみなければなりません。定州の郡ならば定州の郡を中心として、「私が責任者にならなければならない」と10年、20年準備して、それでもなれなければ、後孫に、「お前は一生懸命に勉強して、一生懸命に準備をし、その日を迎えたら定州の地で天との因縁を代表した責任者になりなさい」と、遺言を残してから死ぬことのできる、そのような精誠を尽くす皆さんになってみましたか。私は今まで、そのように考えて準備してきました。
そのようなことを考えるときに、若い者たちは地方に帰って自分の子女と妻を連れて、笑いながら暮らすようになっていますか。そのように暮らすようになっていますか、いませんか。死んでも国を残していかなければなりません。死んでも、子女たちに国を残してあげなければなりません。新しい決心をしなければならないのです。
「私は、ソ連満州に隣接する地方に行って共産党と額を突き合わせ、朝夕に銃声を聞きながら国境地帯の見張り役をする責任者にならなければならない。国が理解してくれず、誰も理解してくれなかったとしても、生命と取り替えても、国を愛する忠節の心は変わらない」という決心をしなければなりません。それで満点です。世の中が分かってくれなくてもかまいません。霊界に行けば、すべて明らかになるようになっているからです。


このようなことを考えるとき、人が足りないということを皆さんは知らなければなりません。分かりますか。人が不足しているということを知らなければなりません。かかしのような男性であってもラッパをかつがせ、あるいはロボットを造って北韓の地を歩き回らせてラッパを吹かせたいというのが私の心情であり、ハナニムの心情です。口があり、感情をもった男として生まれ、それも20歳、30歳の若い心と体をもっていながら、「原理」のみ言を語ることができないというのでは話になりません。
目玉が腐って飛び出すくらい、夜、寝ずにでも勉強をしなければなりません。おなかがすいて骨と皮だけになったとしても、準備をしなければなりません。そのようにして骨と皮だけになったやせこけた体が、天の愛をすべて受けることができる体となるのです。ハナニムは、そのか細い一人の男性ならば男性に、すべての期待をもつことができるのではないかというのです。
エス様も、国を建てるために来られました。祖国がなければ、かわいそうなのです。祖国がないので、宗教人たちは悲惨でした。審判しようとすれば、個人と家庭、宗族、民族、国家、世界が不変の基準に立ってこそ、その基準を基台として審判するのです。祖国は、最後の希望です。祖国の中には、民族も、宗族も、家庭も、個人もすべて含まれているのです。
この三千里(注:朝鮮半島全体)が祖国になりましたか。そのようになっていないので、清算しなければなりません。ハナニムが望まれ、イエス様と聖神聖霊)が望まれる祖国を創建するために、私たち全員が一片丹心で頑張らなければなりません。
善というものは何でしょうか。家庭のために個人が犠牲になり、宗族のために家庭が犠牲になり、祖国光復のために宗族が犠牲になることが善です。祖国光復のためにすべてが犠牲になって、祖国光復が成し遂げられれば、すべての人が愛国の忠臣となるのです。国家的基準の前に忠誠を尽くして国家基準を立てれば、家庭、宗族の基盤を築いたという公認を受けるようになります。道義の基準とは、ハナニムのために絶対忠誠することです。そのようにすれば、その過程のすべてのものは認められるようになるのです。
私たちは、どのようにすべきでしょうか。イエス様は、「わが父よ・・・わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」(マタイ26:39)と言われました。ここにおいて、「わたしの思い」とは世の中の思いであり、「父のみこころ」とはハナニムのみ旨です。統一教会員である皆さんは、何をしましたか。忠臣の道理を立て、またその実績をもってきましたか。孝子の道理を果たして、その実績をもって、個人、家庭、宗族、国家、世界的な闘争をする覚悟ができていなければなりません。
エス様は、祭物の使命をもって来られました。皆さんは、世界的な闘争をなしていきながら、民族的な基盤を築いていかなければならないのです。メシヤとの相対的な価値を備えなければならないのです。指導者が世界を開拓するところにおいて、指導を受ける皆さんは、民族的な道を築いていかなければなりません。数多くの人々がハナニムの主権復帰の道を願いながら死んでいきました。いつになるとしても、「必ず成る」という信念をもって死んでいったのです。


統一教会員は、個人から民族、国家基準まで築いてきました。今からは、全世界の人類とすべての国家を動員しなければなりません。私たちは、祖国光復、自由、平等、幸福の日を探し出していかなければなりません。その道が困難であっても行かなければなりません。それが、私が望む観点であり、ハナニムが望まれる基準です。イエス様は、この基準を望みつつ、歩まれている途中で亡くなりました。私たちは、祖国光復の過程において、苦労しながら行かなければならないのです。
韓国は、私たちが責任をもたなければなりません。きょうもあすも変わることのない祖国創建という覚悟と信念をもって、イエス様の祖国、聖神聖霊)の祖国、先知先烈(注:預言者と、義のために戦って死んだ烈士)の祖国、ハナニムの祖国、その祖国を成せなかった恨を解かなければなりません。そうでなければ、面目が立たないのです。
私たちは、祖国を取り戻さなければなりません。祖国を取り戻そうとすれば、祖国のために生きなければなりません。祖国のために生きることができない人は、祖国を見いだすことができません。それでは、どのように生きることが祖国のために生きることになるのでしょうか。世界を自分の祖国と思って世界のために生きなければならないのです。そのような人は、祖国を創建することができます。食べること、寝ること、歩いていくこと、すべての生活と行動が祖国創建のためのものとならなければなりません。
それゆえに私たちは、共産党から白昼に、刃物で刺される覚悟をもって闘っているのです。この民族ができないときは、私たちがしなければなりません。この民族が行くことができなければ、私たちが行かなければならないのです。そのためには、誰よりも祖国を愛さなければなりません。ご飯を食べるのも祖国のために食べ、結婚するにしても祖国のために結婚しなさいというのです。私たちの祖国のためにです。
今は、私が言えば何でも聞くことができる群れが生じ、私が方向を提示すれば動くことができる群れが生じましたが、これで幸福を感じる男ではありません。統一教会を犠牲にしてでも、祖国光復を約束できる、そのような基台を広めていくのです。6000年摂理の中心的み旨として立てた家庭を信奉することのできる、教団と民族と国家がなければなりません。ハナニムを信奉することができる、そのような基台を準備し、それが一時に連結することを願って送られたのですが、それが粉々に壊れたゆえに、再び収拾しなければならない運命が残るようになったのです。これを収拾するために先頭に立って走らなければなりません。
夜になって寝床に入る時間にも、その願いの国と共に寝なければなりません。今はハナニムの国がありませんが、その国の国民の一員として、その国のために眠るのであり、目覚める時もその国を建国するための一員として眠りから覚めなさいというのです。見て、聞いて、感じるすべての感覚も、祖国という命題を思うことなくしては感じてはならないというのです。その日が来るまでは、死んではなりません。その日が来るまでは忙しいのです。そのことを成すためには、激しい受難と逆境を克服しなければなりません。
成すべき仕事があれば、寝るのが遅くなったとしても解決しなければならないのです。祖国の光復というものが時間を中心とした犠牲の量を加重させてこそ訪れてくるということを思うとき、自分の涙と精誠の量を、きょうこの時間を通じて少しでも補充すべき責任があるのにもかかわらず、安らかに寝て伸びをしながら起きられるのかというのです。起きては腰を曲げて、「お父様。あなたが訪ねていかれる明日の安息の住みかであり、あなたが行使されたかった世界を支配することのできる勝利的国家の基台に向かっていく寂しく孤独な男の行く道が、このように悲惨であることを感じます。私自身がそうであるのに、天が訪ね求めてこられる道はもっと悲惨なのではありませんか」と、祈祷しなければなりません。


疲れたといって思いのままに横になることができないのです。死んでも、国のために死ななければなりません。それゆえに、年を取って疲労を感じるそのような立場で、自分がもし死の場に行くとすれば、その場で残すことができる一つの願いが何かというとき、それは、「天のためにできることはすべて果たした。その国のためにできることはすべて果たした」という言葉を残すことです。
エス様は「(あなたがたは)何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。・・・まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:31~33)と言われました。このように聖書の主流思想は国です。国、その国を求める思想なのです。自分の幸福を求める思想ではありません。国の民として生まれ、夫をもったとしたならば、その夫は国を代表した夫です。ゆえに、国を愛した後に夫を愛さなければなりません。妻も国を代表した妻なので、国を愛したのちに妻を愛さなければならないのです。死ぬにしても、「私が成し得る力をすべて果たし、私はこれ以上できないというその位置で死なせてください」と言えなければなりません。「これをやっておけばよかったのに」という言葉を残して死んではいけません。それゆえに、やってもやっても忙しいのです。行っても、また行かなければならないのです。ほかの人が休む時間に、私たちは一歩でもさらに進まなければなりません。「サタン世界よ、休んでいろ。サタン世界よ、お前は何もしないで遊び暮らしていろ。我々は、その国のために歩むのだ」と思わなければならないのです。
南北統一を熱望する愛国同胞の皆さん!
特に女性の使命として、子女格である青年男女および学生たちを、真の教育を通じて真の子女として復帰しなければなりません。
さらに、母と子女が一つになって模範を示し、教育を通じて夫までも真の天の息子として復帰し、真の父母に従い、ハナニムを中心に侍り、地上天国理想を復帰しなければなりません。
改めて、きょうのみ言が、南北韓が共に真の愛で出合う、その日を早めるはん国民運動になることを願いつつ、私の話を終わりたいと思います。ハナニムの祝福が皆さんと、皆さんの御家庭に共にあることを祈願いたします。ありがとうございました。
(2000.3.9, 「文鮮明先生御聖誕80周年祝賀 南北統一前進大会」講演文)


 

第14巻 真の孝の生活

 

第1章 忠孝の意義

 

1) 忠孝思想は韓国人の中心思想

孝行する人は、自らの生活の中で良いことがあれば、先に父母を思います。良いものを見た時に、先に自分の夫や妻を思うのは堕落した世の中ですることです。先に自らの父母に貴い物を買ってさしあげなくては、自分の妻に買ってあげることはできません。
男性たちも、自分の服を買おうと思えば、先に父母に買ってさしあげてから買わなければなりません。そして、妻や子供たちにも買ってあげなければなりません。ご飯を食べる時も、父母に侍って食べなければなりません。サタン世界の父母が亡くなっても、3年間喪に服するのが韓国の風習です。ですから、この地上で3年以上精誠を尽くして父母に侍らなければ、天上世界に行って、「大韓民国の後孫だ」と言うことはできません。
昔、孝子が父母の3年の喪に服する時、墓地に穴蔵を建て、そこで起居しながら孝の道理を履行したのが、韓国の礼法ではありませんか。私たちは、それ以上にしなければなりません。私たち祝福家庭は、お互いの良い面を備え、父母に侍る生活をしなければなりません。
(26-297, 1969.11.10)
韓国人は、古くから忠孝の志操が高い民族です。国軍の日(注:韓国軍創設記念日、10月1日)に五・一六広場に招待され、壮年国軍の威容を見て満足感をもったことがあります。そして、その国軍の勇士たちが査閲台の前を通り過ぎながら叫ぶ「忠孝」というスローガンは、本当に印象的でした。ハナニムから召命を受けた民族として叫ぶスローガンとしては、あまりにも啓示的でした。世界のどこの国にも、このようなスローガンを叫ぶ軍人はいないでしょう。
韓国は、最後にハナニムに忠誠を尽くして孝行する民族なので、今日、その忠孝精神が国家の中心思想になったのです。沈清シムチョンの父母のために尽くす哀切な孝行心、春香チュンヒャンの夫に対する志操、鄭夢周チョンモンジュの君主に対する忠誠、柳寛順ユグァンスンの殉国精神、このような忠孝の志操は、古今東西、どこにもその類例を見ることができない韓民族の魂です。
このような忠孝の精神と、松や竹のような志操は、今後、成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国はハナニムの国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、ハナニムは人類の父であられるので、その父に永遠に孝行しなければなりません。世界の様々な民族をいくら試験してみても、韓国のように忠孝の烈と志操が高い国はないので、ハナニムは、韓国を選んで訪ねてこられるのです。
(100-252, 1978.10.19)


孝子は、100年たとうと1000年たとうと、父母を離れてはいけません。「一緒にいるとよい!」と思わなければなりません。父母に、「できるならば、私と千年、万年一緒にいるとよい!」と思わせる、そのような父母の心を引きつける者でなければ、孝子ではありません。父母の愛には、子供がいくら悪くても、「その子供と共にいたい」という思いがあるのです。それゆえに、まことだというのです。しかし、親不孝者とはどのような者でしょうか。父母と共にいることを嫌うのです。聖書にもそのような比喩ひゆが出てくるでしょう? 兄弟たちと共にいることを嫌うのです。自分一人で自由にしてみたいというのです。それは何の種ですか。不孝の種です。
(147-292, 1986.10.1)
孝子とは、自らの立場を忘れて先に父母の事情を思い、涙を流す心情で父母のために生きる人です。忠臣とは、国家が乱世に置かれている時、自らの一身のことをすべて忘れて国王の困難を先に心配し、忠誠の道理を果たしながら生きる人です。自分を忘れ、自分の利益とすべてのものを犠牲にするところから、忠孝の極が連結されるのです。
(37-33, 1970.12.22)
家庭において、男性でも女性でも兄弟でも、すべての人が願うことは、孝子、孝女にならなければならないということです。それは、愛を中心として一つの体にならなければならないということです。
家庭を一つにするためには、孝子が必要です。国も同じです。国の父と母である国王と王妃、そしてその国王の息子、娘を中心として、相対的世界の夫婦と兄弟同士が上下、左右、前後で合わなければなりません。前後がなければ、父母と子供は関係を結ぶことができません。ですから、上下、左右、前後です。兄弟が絶対的に必要です。結婚は、兄弟から連結されていくのです。
(286-268, 1997.8.13)
皆さんは、忠孝の道理について話しますが、その定義を知りません。父母を家庭の中心としてハナニムと同じ立場に立ててさしあげ、心と体を一つにし、子供を愛するその父母の心が変わらない限り、その愛する心の前で、常に心と体で100パーセント受け入れ、100パーセント順応できる立場に立った息子、娘を何と言うのですか。「孝子」と言うのです。今日、忠孝の道理について話しますが、本当の忠孝の道理を知らないのです。
(101-13, 1978.10.28)
父母の願いとは何か? 母、父として、血統的に一つになった根がありません。息子、娘を生んでこそ、その家庭の血統が続いていくのです。息子、娘が父母を愛することによって、関係のなかった母、父の血統が、その息子、娘によって統一されるのです。子供によって父母の完成がもたらされます。その息子、娘が孝行することによって、母、父の完成がなされるのです。


私に、孝行できる父母がいるというのは、幸福なことです。私は、父母の生命と、父母の愛と、父母の血統を得たのです。父母の愛を通して、父母の愛が私において再び二重になるのです。核になります。
皆さんの愛と生命と血統は、副体となるのです。それゆえに、父母を完成させれば、私の完成をもたらすことができるのです。私が成長すれば、母、父と同じように一つにならなければなりません。それゆえに、お互いが完成するのです。
(223-174, 1991.11.10)
家庭が願う世界とは、どのような世界でしょうか。国です。家庭が直行していかなければならない国です。その国が行かなければならない所とは、どこでしょうか。世界です。その世界が行かなければならない所とは、どこでしょうか。世界が行かなければならない所、地上天国が行かなければならない所は、天上天国です。ですから、国の忠臣とは、国の孝子のことです。世界の忠臣とは、どのような人でしょうか。世界の聖人とは何かというと、世界の孝子のことです。天地の聖子せいしとは、どのような人でしょうか。天地の孝子のことです。孝子という存在、息子という存在には、自分というものがありません。
(280-107, 1996.11.11)

 

2) 聖人、聖子は忠孝の完成者

大韓民国は、忠孝思想が本当に素晴らしいのです。それでは、大韓民国の民は、大韓民国に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。これが問題です。日本人は、日本の天皇に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。ドイツ人は、ドイツの主権者に忠誠を尽くせば良いのでしょうか。あるいは、アメリカの国民は、アメリカの大統領に忠臣の道理を果たせば、すべて通じるのでしょうか。違います。通じません。
大韓民国の国民に、「あなた方は聖人になりますか、忠臣になりますか」と尋ねるとき、「今、大韓民国は忠孝の道理が中心なので、聖人のことは分かりません。忠臣になろうと思います」、これではいけません。
忠の道も重要ですが、誰にとっても聖人の道理を行くべき道が残されているので、聖人の道を行こうという新しい国民がいるとすれば、その国民は、世界の福を人類の前にもたらすことができる人々となります。
忠臣とは何かというと、忠臣は、その国家の福をすべての国民の前にもたらしてくれるのです。孝子とは何かというと、その福を家庭にもたらしてくれる人です。それを知らなければなりません。
(101-16, 1978.10.28)
愛国者である忠臣と聖人では、どこが違うのでしょうか。忠臣は、自分の国のために生命を捨てる覚悟をし、公的にすべてのものを投入していく人です。そのような人を「忠臣」と呼びます。
聖人とは、自らの民族を越えて世界人類のために生き、さらにはより公的なハナニムのために生き、世界人類に対して、その前で忠孝の道理を果たすために、いかなる孝の道、いかなる忠の道よりも、それ以上に尽くさなければならないと決意して立ち上がった人です。それをなすために、忠臣の位置を捨て、自分の国の国王を捨てていこうという人です。国王がその手をつかんで、「あなたが行けば、我が国は滅びる」といくら頼んだとしても、国王の立場を考えずにそれを捨て、世界に向かって聖人の道理を全うするようになれば、その国王に対して世界にない忠臣の道理を果たすこと以上の価値を、天から認められるようになるのです。
(101-150, 1978.10.29)


愛国者の中には数多くの孝子が入っています。孝子になったとしても愛国者になることができなければ、それは、愛国者の隊列に上がっていくことはできません。しかし、孝子になることができなかったとしても、愛国者になる時には、自動的に孝子の列位に上がっていくのです。
そのような意味で、聖子せいしの位置に立てば、聖人を統治することができます。孝子となることができず、愛国者となることができず、聖人となることができなくても、聖子の位置に立てば、すべてのものはその下に抱かれるのです。しかし聖子となる道は、それほど易しい道ではありません。愛国者の中の最高の愛国者となり得る、そのような困難の峠を克服した歴史をもった人とならなければならず・・・。孝子ならば孝子として、愛国者ならば愛国者として、聖人になる時まで、あらゆる困難を経て、それ以上の立場で克服し得る自主力をもち、その基盤において聖子の道理が連結されるのです。そのような過程を経ていない人は、短時日のうちに世界的迫害を受けなければなりません。
(196-125, 1989.12.31)
人に絶対的に必要なものは、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。堕落したので、聖人が必要です。聖子の道理を完成するのです。
それゆえに、ハナニムのすべての相対圏は、私から、天、世界、そして私たちの家庭まで連結できるのです。それは、生きている間に成し遂げなければならない道です。完成する道です。国についていえば、国王は、父、母の骨です。そこに接ぎ木して大きくなろうというのです。私が家庭をもたなければ、国の前に立つことはできません。また家庭も、国がなければ、サタンの国の前に破綻はたんするのです。
(285-91, 1997.4.21)
愛の生命力がそのまま通じる家庭を愛することが孝子の道であり、国の生命力を中心として愛することが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように見るとき、このような方向を通して人倫道徳を教育してきたという概念は、確かだというのです。それが正しかったことを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理だ、ということを知らなければなりません。これが、人倫の道徳教育の標準となってきたのです。それが間違いでなく正しかったということを、ここから見いだせるのです。
(111-173, 1981.2.15)
人間世界で生きる時、愛を中心とした孝子が最初の円であり、忠臣はその外側の円です。これが大きくなっていきます。小さい時は、これは小さいのですが、大きくなっていくのです。この円が、聖人はもっと大きく、聖子はもっと大きいのです。ですから、これをきちんと並べれば、その一点は孝子です。孝子が最初です。その次に忠臣、聖人、聖子、この4段階です。


その中心は垂直です。垂直を中心としています。すべて中心は一つです。二つではありません。愛は中心が一つです。それゆえに、父母の前における孝子は地獄に行きません。国の前における忠臣は地獄に行きません。救世主を信じなかったとしても、それは、自然に収拾するようになっています。ですから、聖人は地獄に行きません。
すなわち、孝子になれなかった人は、忠臣にはなれないという話です。それでは、孝子になりたいと思っても、父母がいなくなればどのようになるのでしょうか。孝子が良いというのですが、自分に父母がいなければどのようになるのでしょうか。大変なことです。「ハナニム、私に父母を下さい!」と言っても、天地の道理は、そのようにはなっていません。父と母が死ぬこともあり得るのです。
そのようになれば、孝子になりたいと思っても、なれるでしょうか、なれないでしょうか。なれない時には、どのようにするのでしょうか。忠臣、聖人になりなさいというのです。聖人の位置は、孝子や忠臣の位置よりもまさっているのです。
(197-44, 1990.1.7)
父母を愛し、息子、娘も愛するのが孝子です。それは、最初のページも愛であり、過程も愛であり、最後の結論のページも愛です。家庭は、核となることはできません。家庭の核の上には国がなければなりません。国の核は何かというと、忠臣の道理です。それはどういうことでしょうか。国を愛しなさいということです。
忠臣、聖人、聖子、これらはすべて核は核ですが、何を根拠として核になっているのでしょうか。それが愛だということを人間は知りませんでした。しかし、漠然とそのように立ててきたということは、今後、「終りの日」の時代に定着し得る安定点は、愛以外にはないということを意味しています。
それゆえに、男性と女性の夫婦同士で愛する人こそ、孝子になるのです。孝子になり、忠臣になるのです。忠臣になり、聖人になるのです。聖人になり、聖子になるのです。
聖子になって、すべての相続権をもつのです。このようにしてハナニムの息子になれば、ハナニムも私のものになり、それからハナニムがもっているものも私のものになり、今後、ハナニムが創造する希望的な未来のものも私のものになるのです。聖子の位置に立ってこそ、過去と現在と未来のすべてのものが伝授されます。そこにおいては、被造万物は頭を上げて抗議することはできません。そこにおいて初めて、統一天下をうんぬんし得るという結論が出てくるのです。
(206-175, 1990.10.7)
私たちが人生行路をどのように歩んでいくべきかという問題について整理してみるとき、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の、その骨子こっしとは何でしょうか。とこしえに共に暮らしたいと思うことです。そのような人々は、上下で共にいたいと思い、前後や左右で、昼夜を問わず、生涯を超えて共に暮らしたいという思いが心の奥深くまでしみ込んだ人々ではないでしょうか。このような推理的な結論が出てくるのです。
(148-258, 1986.10.11)


それでは、皆さんは、ハナニムの前に何にならなければならないのでしょうか。第1に、孝子にならなければなりません。第2に、忠臣と愛国者にならなければなりません。忠臣と愛国者の上は何でしょうか。聖人です。
孝子とは、家庭において、父母の前に絶対的な忠誠を尽くす人です。愛国者とは、国に対して絶対的な忠誠を尽くす人です。
それでは、聖人とはどのような人々でしょうか。イエス釈迦しゃか孔子のような人々です。彼らは、自分自身を主張した人々ではありません。ハナニムを主張した人々です。ハナニムを中心として生きた人々です。また彼らは、人間たちに被害を与えた人々ではなく、利益を与えようとした人々です。また彼らは、国家主義者ではなく、世界主義者です。
(54-214, 1972.3.24)