八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 7-8

八大教材教本 天聖経(2012年版)p2089-2125

【天啓の御言】(7-8)

 


 

第2章 真なる忠誠と孝行

 

1) 真なる忠孝は困難の中でも自ら実行すること

易しい立場で易しいことをしながら孝の道理を果たそうという人よりは、限りなく難しい立場で孝の道理を全うしようという責任者、そのような立場に立った人、そのような立場に立った息子、娘が、孝子の行く道に踏み入った人です。それは間違いありません。
このように見るとき、ハナニムは世界的な問題を心配していらっしゃるので、世界的な問題に責任をもとうという人がいれば、その人は、世界のいかなる民族やいかなる人よりも、ハナニムの前で認められる近い立場に立っているということは言うまでもありません。
それゆえに、孝子の立場とは、「父母が受けた悲惨なことに対して代表的に責任をもとうとする立場だ」と結論づけることができます。
良いことがあっても、良いことは除き、常に悪いことに責任をもたなければならない道が孝子の行くべき道です。
(62-23, 1972.9.10)
周囲に散在する数多くの人々が父母に侍って孝行している生活環境において、父母の前に孝行するということは難しくありません。しかし、多くの人が、みな父母を排斥し、自らの行かなければならない道を避けようとする時に、たった一つしかない自分の生命を捧げたとしても、行かなければならないその道において父母のために生きようとする立場に立つならば、それこそ、環境を超越した立場で孝行の道理を果たした、ということになるのです。それゆえに、そのような人は孝子として立てざるを得ないという事実を、私たちはよく知っています。
(42-182, 1971.3.7)
孝子とは、豊かに暮らしながら孝行するのが本当の孝子ですか、貧しく暮らしながらも孝行をするのが本当の孝子でしょうか。(「貧しく暮らしながらも孝行します」)。1日に1食しか食事をとることができない家庭で育ち、母、父を、自らの血肉まで売ってでも3度の食事をとらせてあげるのが孝子ですか、3度の食事をとり、残って処理できなかったご飯をたくさん盛ってあげて侍るのが孝子ですか。どちらが本当の孝子でしょうか。(「血肉を売ってでも孝行します」)。本当の孝子は、豊かに暮らしている家からは出てきません。それを知らなければなりません。
母、父が飢えていて、弟が飢えているのを見る時、母が自分のご飯を弟に与えている姿を、その息子、娘は、夜を明かしながら見つめ、骨身にしみるほど知るのです。弟をあのように愛しているので、自分も母にならって、その弟に一文いちもんでも多く協力し助けてあげようと思い、自分のご飯を先に母に分け与えるようになる時、孝子圏、孝子の環境が生まれるのです。自分だけのために生きる人は、すべて追放されるのです。このような観点から見るとき、孝子が行く道は、「ため」に生きる道です。本当の孝子になる道は、「ため」に生きることです。環境が良い所で「ため」に生きることではありません。
(286-282, 1997.8.13)


私たちが誇れるものは、何もありません。天の主権と民と国土を滅ぼした、ということしかありません。今、私たちは、忠誠と孝行によって、天の主権と国土と民を売り飛ばして蹂躙じゅうりんした自分自身を反省しなければなりません。裏切った自分自身を反省しなければなりません。悲しみの中でも、天の主権と民と国土を取り戻してさしあげようという信念が明確でなければなりません。食べることも、生きることも、死ぬことも、ただこれだけのためになければなりません。
それでは、何のためにしなければならないのでしょうか。地と民と人類と主権のために忠誠を尽くし、孝行しなければなりません。自覚さえすれば、不忠をし、不孝をし、裏切ったすべてのことを父が忘れてくださる時なので、民族に代わって悔い改め、国土に代わって悔い改め、主権に代わって悔い改めてください。父のために悔い改める時は、過ぎ去ります。
また、地のために悔い改めなければなりません。今も、数限りない聖徒が待ち望んでいます。私たちは、天の主権と領土を回復するために悔い改めなければなりません。天の民を回復し、天の国土を回復し、天の主権を回復するために、皆さんを選んだのです。ですから皆さんは、もし間違えればアダムとエバのあとに従っていくようになります。自分で正しく判断して行えば、勝利の日を迎えるようになるでしょう。
(11-150, 1961.5.13)
歴史的なすべての先祖のように、霊界に行き「私はどうしたら良いのか」と言ってハンを残す群れになることなく、自分1代においてこれを終結させ、「私はどうしたら良いのか」と言う位置に立つ後孫を残さないために、私たちは、団結し、一つになってこれを完結させ、国家的な忠臣、国家的な孝子、孝女の基盤を築くべき責任があるのです。これが、現在、私たち統一教会の行かなければならない道だということを知らなければなりません。
干渉しない立場で、孝子となり、忠臣、烈女となることができ、天が指示し命令しなくても、怨讐おんしゅうサタンに対して復讐ふくしゅう蕩減とうげんするために、自ら責任をもって行くということが、どれほど福なことかというのです。
そのようなことを知って、この時代と、この世代に対する責任を担い、闘っていける自らの立場を感謝に思いながら、今からあすに向かって、「私はどうしたら良いのか」という問題にぶつかった時に、「私は忠臣となり、孝子、孝女となった」と言える時まで、倒れることなく、必ずや勝ち進んでくれることをお願いします。
(153-110, 1963.10.24)


 

2) 家庭を築き、父母と国を完成させる真の忠孝

父母を知ったならば、その父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行しなければなりません。孝子にならなければなりません。また、その父母を中心として、その国の忠臣にならなければなりません。その父母が、国を率い、世界を率いてきたからです。
忠臣になる前に孝子にならなければならず、孝子になる前にまことの兄弟を誇れる食口シックにならなければなりません。「食口」とは、兄弟間で褒めたたえられる圏を中心とした名称です。
それでは、孝子とは、どのようにするのが孝子でしょうか。昔、結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した男性と女性以上の孝行をしなければなりません。結婚しなくては、真の孝子、孝女となることはできません。
真の孝子、孝女とは、結婚したのちに初めてなれるのです。結婚して夫婦を成し、その父母の前で、夫の孝心に妻の孝心をプラスして、二人で父母に侍る孝心の基盤を備えてこそ、真の孝道圏を成立させ得るのです。
忠臣も、一人でなるのではありません。統一教会でいう忠臣は、一人でなれるものではありません。家庭を築いた夫婦であってこそ、忠臣になることができます。ですから、皆さんが忠臣という立て札を立てるためには、孝子を生まなければなりません。
皆さんは、ハナニムの前に孝子とならなければなりません。孝子は、一人でなれるものではありません。三位基台を中心として、3人の兄弟が一つになって初めて孝子となれるのです。皆さんには三位基台があるでしょう? その三位基台が一つにならなければなりません。
三位基台の三つの家庭が兄弟として一つになり、各家庭の4人の子供が再び糾合されなければなりません。そのようになれば、3×4は12で、12子女になるのです。それがイスラエルの第1の基盤です。部族、一族、別の言い方をすれば、氏族創立の起源となるのです。
(30-220, 1970.3.23)
天の皇族になろうとすれば、孝子、忠臣、聖人、聖子せいしにならなければなりません。その訓練場所が家庭です。完成した家庭が拡大されれば、理想的な王国になるのです。常に家庭がセンターです。男性と女性の二人の問題だというのです。理想的男性と理想的女性が夫婦となって家庭を築けば、すべてのものが完成します。理想家庭が拡大されて国家になり、世界になるのです。
私が家庭で奉仕して父母を敬うことによって孝子になるのと同じように、国の王に侍って「ため」に生きれば愛国者になるのであり、全人類のために生きれば聖人になるのです。ですから、私たちと聖子では、次元がどれほど異なっているだろうかというのです。私たちが変わろうとするならば、革命的に変わらなければならず、数多くの段階を経て上がっていかなければなりません。
(293-211, 1998.5.26)
ハナニムは、孝子を願われません。孝子の家庭を願われます。忠臣の家庭を願われたということを知らなければなりません。聖人の家庭を願われました。聖子の家庭を願われました。それがハンです。霊界に行けば、今までみな独身生活をしてきているでしょう? モーセも、今まで何千年という歴史を経たにもかかわらず、常にそばで世話をしてくれる女性がいると言ったでしょう? その女性に、「なぜ結婚しないのか」と尋ねてみると、「ハナニムが少し待ちなさいとおっしゃった」と言うのです。自分の思いどおりにできないのです。
(297-204, 1998.11.20)


国を愛することにおいて、息子が母、父に忠告し教育してあげ、国の忠臣とならしめ、天に記憶される母、父にした場合、その息子は、不幸者でしょうか、孝行者でしょうか。(「孝行者です」)。
それでは、息子が、「お母さん、お父さん、外に出ないで楽に休んでいてください!」と言いながら、国を愛することができないようにするのではなく、「お母さん、お父さん、何をしているのですか。私と一緒に、一人でも国を愛せる人、南北統一ができる人、以北を生かしてあげられる人を探さなければなりません」と言って血と汗と涙を流させ、そうすることによって、周辺のすべての国民がその功労を褒めたたえるようになれば、どうでしょうか。
その時は、自分の息子に対して、「こいつ、母、父をひたすら酷使して悪いやつだと思ったが、そのおかげで成功者として褒めたたえられるようになった。ああ、私たちの息子は孝子だ」と、そのように言うでしょうか、それとも、「不孝者だ」と言うでしょうか。どちらだと思いますか。
(209-266, 1990.11.30)
皆さんの母、父がみ旨のために忠誠を尽くすことができなければ、皆さんが勧告しなければなりません。「お母さん、お父さんは、何をしているのですか。み旨の道はこうであり、天のみ旨はこうだとみるのに、お母さん、お父さんは、なぜそのようにしているのですか。このように歩んでいかなければならないのに、なんですか。毎日のようにけんかをして、なんですか」と言いながら責め立てるのです。それは良いのです。母、父が誤れば、大変なことになるのです。
(100-153, 1978. 10.9)
父母が生き返り得る道をつくらなければなりません。それが子供としての道理であり、孝子の位置に立つことです。これが私たちの責任です。それゆえに、生死を意に介すことなくこの道を開拓しなければなりません。世の中の良いものや、世の中の迫害や、死の道も意に介すことなく、この道を開拓するために忠孝の因縁をもたなければなりません。
(20-122, 1968.5.1)
歴史的な女性になるためにも、歴史的に失敗して追われた内容を清算しなければなりません。
また、時代的なエバになるためには、時代的なすべての女性を代表して、天の前に忠孝の道理を全うした一つの基準を立てなければなりません。そして一人の女性として、一人の男性に対して、またハナニムに対して、烈女の心情をもって立ち上がらなければなりません。
(30-166, 1970.3.22)

 

3) 真なる忠孝は従順に「ため」に生きる愛を施すこと

孝子は、父母が生きている時に孝行しなければなりません。忠誠も、国王が生きている時に尽くさなければなりません。死んだあとでは、千万倍の孝行も無益であり、千万倍の忠誠も無益です。そのようにする者は、ずる賢い者たちです。死んでから大きな祭祀さいしぜんを捧げるよりも、生きている時に一言でも慰労するほうがまさっているのであり、自分が悲しみの相対となってその心を慰労するほうが、千万種類の食物を供えた祭壇よりも美しいということを知らなければなりません。死の道を追慕ついぼしながら行く人よりも、その死の道に行く前に、目的のために行く人のほうが貴いのです。
(51-223, 1971.11.28)


孝子になろうとすれば、父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。
父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。10度行き、10度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。
反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。
それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。100人の孝子がいるとすれば、その100人の中から1番になれる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなれるのです。
(62-32, 1972.9.10)
孝子とは、父母を愛し、兄弟を愛した人です。より「ため」に生き、より愛する人が、その家庭の相続者になります。それゆえに、すべてそのような道に方向を取らなければなりません。今日のあらゆる理想的作用の主流は、まことの愛が行く道です。真の愛が主流です。それ以外のものは、すべて傍系的流れです。
したがって、「孝子、孝女になりなさい」という言葉は良い言葉です。今日、母親の世代と若い世代では差があると言いますが、とんでもないことです。母親の世代と若い世代では、愛に差がありますか。女性として生まれ、一人で生きることができますか。また、男性として生まれ、一人で生きることができますか。とんでもないことです。
1年を一緒に過ごしたのちに行く時に、「もう1日だけいてくれたらいいのになあ」と言うこと、それが貴いのです。100年生きたのちに逝く時も、「ああ、もう1時間だけ生きてから逝ってくれたらいいのに・・・」と言う妻になっていますか。そのような夫になっていますか。そのような兄弟になっていますか。


いくらかのお金のために、「お兄さんはお兄さんであって、私は私でしょう。お兄さん、私が100万ウォン貸してあげたのに、なぜ返してくれないのですか。愛であれ何であれ、私は嫌いです。お金が一番です」と、このように言ったとすれば、その人は、もって生まれた福をすべて売ってしまうことになります。千万長者や億万長者になれる福をもって生まれ、愛があればすべての宇宙の福が来て巣をつくってくれていたはずなのに、「ああ、あのけち」と言って無慈悲に逃げてしまうのです。ですから、人は孝子を好むのです。
(141-298, 1986.3.2)
父母の愛の道に従っていこうとするので孝子が必要であり、国の愛の道に従っていこうとするので愛国者が必要であり、世界の愛の道に従っていこうとするので聖人のような人が必要なのです。皆さんの息子、娘はたくさんいますが、その息子、娘の中で、息子の中の息子とは、どのような人でしょうか。父母のために厚い愛の因縁をもった息子を、「孝子」というのです。孝子の中の孝子を中心として、父母の行く方向を連結させるのです。
(136-205, 1985.12.29)
母、父が大便を漏らそうと何をしようと、すべて自分の赤ん坊のように愛し、抱いてあげられる息子、娘ならば孝子です。天国に行ける息子、娘だ、このようにみるのです。
(116-86, 1981.12.20)
息子、娘の中には、孝子もいて、ただの普通の息子もいて、不孝者もいるでしょう。3種類です。最高の孝子になろうとすれば、ハナニムと競って負けてはならないという結論が出てきます。
それでは、どうすればよいのでしょうか。歴史過程においてこの地上を経ていったいかなる聖賢、賢哲以上に、ハナニムのみ旨の前に、みじんも疑わない者にならなければなりません。
ハナニムに、「あなたが息子を引き離すような疑わしいことばかりを私におっしゃったとしても、私は信じます。『信じることはできないだろう』とおっしゃったとしても信じます。愛する父母が最も悪なる父母となって、むちで打ったとしても、私は、愛する孝子以上の心をもってあなたに従います」と言わなければなりません。ハナニムは、そのように思っていらっしゃいます。
(73-59, 1974.7.29)
父母が寝たとしても、孝子は眠ることができません。眠って起きたのちは、罪人のように悔い改める生活をしたのです。食べたのちも、申し訳なくて顔色をうかがう人です。結局は何かというと、孝子の道です。孝子の道を、どのように行くのでしょうか。これを見れば、先生は狂った人です。父母を顧みたでしょうか、妻子を顧みたでしょうか、兄弟を顧みたでしょうか、親戚しんせきを顧みたでしょうか、国を顧みたでしょうか・・・。私は、国を思ってあげなかったのではありません。より次元の高い立場で、国のために行こうとしたので・・・。日帝時代に、私が国のために涙を流したことは・・・。愛国者に負けない涙を流しました。
(62-58, 1972.9.10)
父母が、この道は死んでも行かざるを得ないということを本当に知ったならば、子供をハナニムのところに連れていかなければなりません。父母の使命を果たせなかったのは、知らなかったからであり、知ったならば、祭物としてでも連れていかなければなりません。むちで打ったとしても、それは善です。ですから、先生は、「父母が正しく立っていさえすれば、子供が救われないことはない」と言います。もし父母に対して不孝者がいるとすれば、追い出してしまいなさい。そして、父母に孝行する者を自分の家に連れてきて、養子として立てなさい。
(15-202, 1965.10.9)


 

第3章 忠孝の道理

 

1) 命さえも惜しまない真の忠孝

新郎のために自分の命を捧げれば、烈女だといいます。孝子も、父母のために命を捧げる人のことをいい、忠臣も、国のために命を捧げる人のことをいいます。
しかし、天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。この肉体は死にます。永遠の生命を懸け、それをすべて父のものとして、新郎のものとして、父母のものとして捧げることができる立場においてのみ、天的な烈女の基準が成立します。自らの命が動いて感じるすべてのものを、傾けなければなりません。
それゆえに、聖書にも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくしなさい」と書かれています。それでは、尽くす基準とは何でしょうか。世界のいかなる忠臣よりも、いかなる孝子、孝女よりも、いかなる烈女よりも勝らなければなりません。そうでなければ、ハナニムの威信が立ちません。
今まで、サタン世界にも多くの忠臣、烈女がいましたが、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を天が忠臣、烈女として立てれば、ハナニムの威信が立たないというのです。
(9-108, 1960.4.24)
孝子は、過去から現在まで、時代ごとにすべていました。その中から、一番の孝子を選ぶとすれば、どのような人を一番の孝子、孝子の標本として選ぶのでしょうか。老いて孝子の役割をして死ぬよりも、若くして老いた人以上の孝子の役割をしたとすれば、より貴いのです。孝子も千態万状です。貧しい人、裕福な人、力仕事をする人、物乞ものごいをして暮らす人、あらゆる階級がありますが、孝子は、どこにもすべています。
生きている人がまことの孝子になることはできません。生命をまだ残している人が、孝子の部類に入っていくことはできません。孝行するために数多くの人々が死んだのですが、死んでいない人が孝子の表彰を受けたとすれば、孝行するために死んだ人々から讒訴ざんそされるのです。
死んだ人の中にも、孝行するために道を行く途中で死んだ人もいるのです。母、父が病気になったので、薬を買いに行く途中で死んだ孝子もいるでしょう。
薬を買いに行くのに、自分のお金をもって買いに行った人もいるはずであり、借金して買いに行った人もいるはずです。困難であればあるほど、その価値が大きくなるのです。忠臣も、死ぬ前には忠臣になることはできません。同じ道理です。
(49-279, 1971.10.17)


孝子になろうとすれば、どのような立場に立たなければならないでしょうか。死の道、一番の受難の道に責任をもつことができる立場に立たなければなりません。孝子として行くべき道とは、何でしょうか。「父母である私を愛する以上に兄弟を愛し、お前が私のためにいるように、兄弟のためにいてほしい」。これが孝子の行くべき道です。父母は、このように自らの願いを言うでしょう。
(62-37, 1972.9.10)
孝子の中の本当の孝子とは、どのような人でしょうか。父母のために一生をすべて犠牲にし、70歳、80歳の高齢になるまで孝行を尽くした人と、若い青春時代に父母のために生命を捧げた孝子がいるとすれば、どちらをより孝子だと言えるでしょうか。
いくら70、80になるまで孝子の役割を果たしたとしても、青春時代に父母のために生命を捧げた孝子にはかないません。それゆえに、忠臣は、死んだのち、生命を捧げたのちに決定するのです。真の孝子も、生命を捧げる立場で決定するということを、私たちは、歴史時代においてたくさん見て知っています。
(48-65, 1971.9.5)
忠臣の名をもって立ち上がる人も、天のために生きてこそ「忠臣」という称号を天から受けるのです。孝子の行く道も、やはり同様です。ですから、どれほど貴重であり、大切なものかというのです。私が食べるのもそのために食べ、私が見るのもそのために見て、私が話すのもそのために話し、私が行動するのもその目的のために行動しなければなりません。
たとえ、それが悲しみと涙の道であったとしても、天上の主人であられるハナニムが行かなければならないその道を、代わりに受け持って行かなければならないので、孝子の道理と忠臣の道理を果たさなければならない責任があるということを、私たちは知らなければなりません。
ハナニムの涙の道をせき止めて、私が地に倒れることがあったとしても、再びその道を行かなければなりません。そこにおいて忠孝の道理を果たさなければなりません。
(41-157, 1971.2.14)
孝子や忠臣は、死を共にしなければ、本当の忠臣ではありません。本当の忠臣は、死ぬ前にはいません。いくら苦労したとしても、きょう、一言後悔の言葉を言えば、忠臣になることはできません。いくら忠臣であったとしても、この時間に不忠をすれば、逆賊になるのです。死の峠を越えていく時まで忠孝の道理を果たしてこそ、「忠孝を全うした」と言うことができる人になるのです。
それゆえに、公的な道においては、忠と孝はその過程が同じです。国のために生命を捧げた人を「愛国者」と言い、父母のために生命を捧げた息子を「孝子」と言うのです。
父母が死ぬ前まで親不孝したとしても、父母が死ぬ最後の場に置かれた時に、今まで孝行してきた子供が親不孝になり、親不孝してきた子供が転換すれば、孝行してきたその位置を受け継ぎ、一瞬の孝行をすることによって、父母から「孝子だ」と言われるようになるのです。そのようになれば、その1日の行動の基準とともに、孝子の称号をもって登場するようになります。生命が尽きる時まで、その目的に向かっていく人の前に、栄光の相続がなされるのです。
(64-75, 1972.10.24)


長く苦労するよりは、本当に忠誠の心をもって、重大な問題と世界的な問題に身を捧げて死んでしまいましょう! 爆発してしまいましょう! このような覚悟をもつことが、堕落した人間としては素晴らしいことだと、先生は考えています。もしハナニムの前で、そのような最期を遂げたとすれば、既にその人は、素晴らしい所に行くように決定されているのです。
(18-280, 1967.6.12)
父母は、孝子、忠臣、聖人、聖子せいしのような前進的なことを教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちにハナニムまで行かなければならないことを自分の息子に教えてあげなければなりません。そのように教える人がいるとすれば、ハナニムが御覧になる時、「やー、あの人は、父母の役割を果たしている。あの人は、先生の役割を果たしている。あの人は、主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。
「あなたには、父母の資格があり、先生の資格がある」とおっしゃる時は、主人の資格があり、さらには王になり得る父となれるのです。西欧の人々には、孝子という概念がありません。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がありません。ですから滅びるのです。
ハナニムは、聖子になることを願っていらっしゃいます。それならば、聖人は誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願うのです。これがまさしく、真の真理の道です。
(285-218, 1997.5.19)
真の父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので、忠臣になってはいけない。忠臣の道を行ってはいけない」と言いません。真の父母は、その孝子に、「あなたは、家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にしてハナニムを訪ねていかなければならない」と教えてあげなければなりません。
そうなるには、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければなりません。そのようにしてこそ、愛国者になるのです。聖人は、自分の国を犠牲にしてでも世界を救わなければなりません。
聖子は、世界を犠牲にしてでも、天上天国と地上天国を築かなければなりません。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲にならなければなりません。そのようにしなければ、一つの世界、一つの国は、永遠に現れません。
(285-218, 1997.5.19)


キリスト教徒の数が問題ではありません。ハナニムの体となり、ハナニムの命令によって、いつでも、どこにでも行こうと決意する人、ハナニムが「命令を待ちなさい」と、喜んで命令したいと思われる人が要求されるのです。
今日、何億という信者を誇るキリスト教徒の中から、果たしてそのような人を探すことができるでしょうか。わき腹に剣を突きつけて、「あなたを天の祭壇の犠牲物として捧げようと思うが、生命を捧げられるか」と尋ねた時に、その峠を越えられなければ何にもなりません。命を懸けてハナニムを愛する孝心に燃える人、天に対して身もだえし得る群れがこの時代に必要です。私は、そのような群れが、「終りの日」の天の革命軍だと考えています。
全世界の人類の前に、そのような責任を全うすることのできる、徹頭徹尾の思想と一致する個人、家庭、民族、国家がどこにあるのかと、ハナニムは探されることでしょう。ハナニムは、早くからそのような個人を探してこられました。そのような個人は、ハナニムの心情を慰労してさしあげ、ハナニムの前に忠誠の道理を果たし、孝道を尽くさなければなりません。天地のあらゆる事情を解き明かさなければなりません。
そのようにして、ハナニムが、「この時代の前に責任を負える者があなただ。あなたを見ると、あすに望みをもつことができ、あなたを見ると、きょうの闘いを勝利に導いていくことができる」とおっしゃってくださる一個人にならなければなりません。このような個人が絶対的に必要です。
そのような個人をハナニムがつかまれ、「あなたは骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、心情の中の心情だ」とおっしゃることができなければなりません。いくら歴史上の多くの先祖がいて、時代的に多くの人類がいたとしても、心情を中心として、「あなたは、歴史において、あとにも先にもない最高の先祖の立場にいる」とおっしゃり得るお方がこの地上に現れない限り、人類始祖の堕落による悲しみの歴史は清算されないのであり、その中で生まれた私たちは、また再び、ある父母に侍らなければならないのです。
(15-216, 1965.10.10)
世界のためのハナニムのみ旨が残らなければならず、世界を愛するハナニムの愛が残らなければなりません。したがって、皆さんは、死んでもそれらを残してあげなければなりません。それを残すために自らの生涯を犠牲にする人は、孝子になり、忠臣になるということを、皆さんは知らなければなりません。
1日孝子や1日忠臣は、必要ありません。1日孝子には、どれほど悪い強盗でもなれるのであり、1日忠臣も、やはり誰もがなれます。その場で悔い改めればなれるのです。ハナニムは、生まれる時から孝子、忠臣として生まれ、孝子、忠臣として生きたのち、孝子、忠臣として死ねる人を願っていらっしゃるのです。
先生と皆さんを比較すれば、先生は、ハナニムの前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。
しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも考えていません。歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、忠臣の道理を果たしたと考える人は、そこで孝子や忠臣としては終わりです。


「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。歩めば歩むほど孝の道理が残っていて、歩めば歩むほど忠の道理が残っているということを発見し、その孝を果たすことを自らの生活哲学として生きる人であってこそ、天の孝子になり、忠臣になれるということを、皆さんは知らなければなりません。
(35-341, 1970.11.1)
今、私たちが学ばなければならないことは、幸福の中にいらっしゃるハナニムを学ぶことではありません。それは、そのようにしても良く、そのようにしなくても良いのです。先に知らなければならないことは、孝子になり、忠臣、烈女になることです。孝を立てる人は、困難な中から生まれます。忠を立てるのは、その国が完全に平安な立場において成されるのではありません。国が泰平で、国民が安らかな立場において成されるのではありません。国の状態が最後の峠にぶつかり、「お前が死ぬか、私が死ぬか。全体が死ぬか、生きるか」という最後の逆境において、自らの命を懸け、あらゆる精誠を尽くして、国運を転換させ、国難を解決してあげる責任を果たした者であってこそ、その国の「忠臣」と言うことができるのです。困難な時に「忠」の名詞、困難な時に「孝」の名詞、困難な時に「烈女」という名詞が、歴史路程の中に記録されるのです。
(151-219, 1962.12.15)
皆さんは、妻に関心をもつよりも、南北に分断された皆さんの国を思わなければなりません。分断されている民主世界と共産世界を思わなければなりません。南北を一つにしたのちは、自由世界と共産世界に分立されたこの世界を一つにしなければなりません。それを一つにしたのちには、分かれている霊界と地上を一つにしなければなりません。これを一つにしてハナニムを解放することが、息子の名前をもった孝子の行かなければならない道だ、ということを知らなければなりません。
(115-160, 1981.11.8)
したがって、真の孝子の道を行くためには、歴史始まって以来の迫害がどれほど激しく、困難な峠道が多かったとしても、それを克服し得る余裕に満ちた男性にならなければなりません。艱難かんなんと試練の中で苦しめられ、後退して悲しいハンの道を行くのではなく、億千万代の苦衷くちゅうと受難の道を克服して、また克服しながら、決意して誓い、あすの希望にあふれた再出発の道を促していきながら、死の道も選んでいける道を残していかなければなりません。そのような歴史的要求とハナニムの要求がある、ということを知らなければなりません。
(174-43, 1988.2.23)

 

2) 相手の心を読んで真の愛を施す真の忠孝

人類歴史は、堕落した世の中の歴史ですが、人倫道徳を中心として流れてきました。その道徳の中心は、愛です。父母の前の孝子は、父母をより一層愛する人であり、国の前の忠臣は、国をより一層愛そうという人であり、国を越えて世界に愛を教えようとするのが聖人の道です。


自分の家庭よりも、自分の国よりも、世界を愛そうとするのが聖人の道理です。聖子せいしの道理とは何かというと、天と地のすべての法よりも王宮法を中心として、「最高の愛を行いなさい」というのが聖子の道理だ、ということを知らなければなりません。愛を中心として、すべてのものはこのようになるのです。
孝子は、家庭を愛するにおいて正しく行かなければなりません。忠臣は、国を愛するにおいて正しく行かなければなりません。聖人の道理は、世界の人々を愛するにおいて正しく行かなければなりません。
天子は、天国の王宮法を守り、天国の国法を守ることはできますが、天国の王宮法の道理までは知りません。その王宮の法まで備えてハナニムに侍ることができてこそ、聖子になるのです。人間が行かなければならない段階は、そのようになっています。
孝子になれば、国が歓迎するのであり、忠臣になれば、聖人が歓迎するのであり、聖人は、聖子が歓迎するのです。聖子は、ハナニムが歓迎するのです。その骨子こっしは、まことの愛です。不変の真の愛、絶対的な真の愛です。
しかし、絶対的な真の愛をもって絶対的な孝子、絶対的な忠臣、絶対的な聖人、絶対的な聖子、絶対的な父の息子、娘の因縁を連結させ得るこの道を知らなかったので、さまよっているのです。どのようなことをしてでも、天理と共に行かなければならない道が残っていることを知れば、さまようことはできません。
(206-62, 1990.10.3)
孝子は、自分のためにいるのではなく、父母だけのためにいるのです。忠臣は、自分のためにいるのではなく、国王のためにいるのです。聖人は、ハナニムだけのためにいるのです。それゆえに聖人は、ハナニムの道理を教えてくれました。
それでは、ハナニムの願いとは何でしょうか。世界を救うことです。ハナニムの事情とは何でしょうか。息子、娘を愛したいと思っていらっしゃるということです。ハナニムの愛の願いとは何でしょうか。その愛に酔って暮らしたいと思っていらっしゃるのが、ハナニムの愛の願いです。
それゆえに、ハナニムの願いと事情と心情に通じなければなりません。それに通じなければ、孝子になれません。それが統一教会の骨子となる思想です。ハナニムの事情を知ろうという人が、ハナニムがいるのかいないのか分からなくてよいのですか。ハナニムの願いが何なのか分からなくて、孝子になれますか。ハナニムの心情が悲しいのかうれしいのか分からなくて、孝子になれますか。到底、不可能な話です。孝子になる道は、簡単です。父母のより多くの苦しみに、自分が責任をもとうという立場が、孝子となる道です。
(62-61, 1972.9.10)
食膳を立派に整えてもてなす孝子と、食膳も何もなく手ぶらで来て、何をもって来たかというと、愛をもってきた孝子がいるとすれば、どちらの孝子が良いでしょうか。愛をもってきた孝子だとしても、おなかをすかした母の前に何も食べる物を持ってこなければ、そのような親不孝者がどこにいますか。しかし、「親不孝者が参りました」と言いながら涙を流せば、食膳を整えること以上になるのです。それならば、ご飯のかまを持って歩くのが孝子でしょうか、愛の釜を持って歩くのが孝子でしょうか。愛は、24時間、時間と空間を超越していますが、ご飯は、時間性を超越することができません。それを知らなければなりません。
(179-270, 1988.8.14)


国家に忠誠を尽くす前に、ハナニムが臨在されるその臨在点で、忠誠を尽くそうと誓わなければなりません。社会に奉仕する前に、ハナニムが臨在される所に入っていって奉仕し、認定を受けなければなりません。そのようにしなければ、ハナニムの内的な因縁は、結果である外的世界で実を結ぶことができません。
これが信仰生活の本質です。皆さんは、「世界のために奉仕し、国のために忠誠を尽くす」と言うでしょう? それでは、忠誠を尽くすにおいて、その起点は、どこにあるのでしょうか。必ず、家庭におけるその父母の心と体の中から出発しなければなりません。
(22-42, 1969.1.19)
その時のために、忠誠を尽くして歩調を合わせれば福を受けるのであり、歩調を合わせられなければ嘆息が生じるのです。
その命令を遂行するにおいて、「私は、私のすべての精誠を尽くして、このような仕事をした」と言い得る人が統一教会の中にいるとすれば、その人々が精誠を尽くして一致化した基準がどの程度か、またその数と量がどの程度か、そして天運をどれくらい多く吸収したかに従って、地上と関係を結び得る広い基盤になるか、ならないかが左右されることを、皆さんは知らなければなりません。広い基盤にならなかったとしても、先生は、個人を中心として、そのような足跡でも残していかなければなりません。これが蕩減とうげん復帰の道です。
(40-159, 1971.1.31)
愛国者は、国の愛を受けようとする人のことです。孝子は、母、父、家族の愛を受けようとする人のことです。家族の愛を受ける孝子になることも、簡単なことではありません。人が食べている時に食べずに、人が食べることができるように助けてあげ、人が寝ることができるように助けてあげ、人よりも良い服を着てはならないのです。
遊ぶ時に遊ばずに、その国のために生き、家庭のために生きる人が孝子になるのです。自分の家だけではありません。3代を中心として、おじいさん、息子、娘、おばあさん、それから伯母さんがいて、母の兄弟がいて、それから何でしょうか。孫娘まで、すべての人に好かれなければなりません。一人でも好きでないという人がいれば、孝子になれません。そして親戚しんせきがいれば、親戚全員が「あのような息子にならなければならない。あのような姉にならなければならない」と言うことができてこそ、その一族の中における孝子の称号をもって、定着することができるのです。自分の位置が生じるのです。
(298-278, 1999.1.16)


考えてばかりいてそのことを行わなければ、考えていない人よりも悪いのです。そのような人は、本当にどろぼうです。それがもし思ったとおりにならなければ、盗みしかできないのです。
それでは、ハナニムが喜べる孝子、孝女とは、どのような人たちでしょうか。どのような人たちですか。自分のおなかを満たす人ですか。自分が食べる物までも人に食べさせてあげなければなりません。「食べない」と言えば、口を開けて食べさせてあげなければなりません。
それでは、父に代わって、皆さんを統一教会の忠臣、烈女、孝子、孝女にするためには、どのようにしなければならないでしょうか。分別しなければなりません。1年でできると思いますか。忠臣というものは、もちろんそのように生まれついたという言葉もありますが、生まれつきそのような天性をもっているのならば、死ぬ時までその志操が変わってはいけません。
忠臣になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。苦労の道で、苦労するしかありません。それが最も近い位置であり、最高の近道です。忠臣、烈女になり、孝子、孝女になれる最高の近道とは何ですか。公的な立場で涙を流す生活だけです。涙を流して苦労の道を行く方法しかありません。
(155-259, 1965.10.31)
国をもっていなくても、もった以上にその国の忠臣となり、民をもっていなくても、その民以上に世界の人々を愛そうとしながら、天の忠臣と孝子の道を一生歩めば、自分に何もなく死んだとしても、滅びる人ではなく、逆にもっと価値があり、その国とその世界の忠臣になり得るということを知らなければなりません。
(88-27, 1976.7.1)
真の愛を国に与えれば愛国者になり、それが父母に向かえば孝子の中の孝子になります。世界万民の前に立てば聖人の道理を果たすのであり、ハナニムの王国まで行けば聖子の道理をすべて果たすので、ハナニムまでも見守ってくださる息子となれるのです。
(176-49, 1988.5.3)
真の愛でなければ、真の孝子はいないという結論です。今、誤った愛の伝統を受け継いだ人間たちによる世俗的な愛、フリーセックスなどというものが、この愛の基盤、孝子の基盤、忠臣の基盤をすべて破壊しています。
絶対愛を中心として真の孝子の道理、真の忠臣の道理、真の聖人の道理、真の聖子の道理を経て、ハナニムの前に立つことによって、天国において初めてその時に相続を受けるのです。個人的家庭であるアダム家庭で堕落した内容を相続する時は、未来の国と未来の世界と未来の天国のすべてのものを合わせて、自動的に大きくなったものを相続するのです。
(286-300, 1997.8.13)

 

3) 無条件に従い代価を要求しない真の孝子

おじいさんがつばを吐こうと、おばあさんがつばを吐こうと、また母が気に掛けず、兄弟が知らないふりをしたとしても、おじいさんのことを思い、おばあさんのことを思い、家庭全体のことを思って忘れてしまう人になってこそ、歴代に残り得る孝子の班列(位階の順序)に入っていくのです。


「私は孝子だ。孝子になるためにこのようにしている」。それは偽りの孝子です。「ため」に生きて忘れてしまえる人が、孝子の班列に入っていくのです。
どのような人が忠臣でしょうか。すべての閣僚の中で、自分が王を愛するにおいて、もちも作り、何でもしてさしあげ、王に侍る臣下や、王妃に侍る侍女がみな責任を果たせない場合は、それを見てじっとしているのではなく、それに対して説教しながら、自分がそれ以上にして、その環境がそのようになるように教育し、それを忘れてしまうのです。そのようにして、「もういい」と言うのではなく、「もっと良くしなければならない」と言わなければなりません。なぜでしょうか。大韓民国よりも大きい国の王がいるのであり、天下には天子がいるのであり、天国の王子がいるので、大韓民国という一分野の代表にしかならない忠臣では、自らの欲求を満たすことはできないのです。
(204-94, 1990.7.1)
父母の前に孝行する人は、孝行するその天の心が、動脈に行ったのちに静脈に回ってくる血の流れのように動くのです。家庭の一番末端に立ったとすれば、天理の愛の力が動脈側に行ったのちに静脈に回ってくるのです。見えませんが、自然に動くのです。
静脈の血は、自分で入っていきますか、押されて入っていきますか。押されて入っていくのです。それは、福を受けようとしなくても福を受けるということです。動かないようにしても、大きな心臓によって次第に回っていくのと同じです。福を受けようとしなくても福が訪ねてくるようになっているのです。ですから、一生懸命に孝行しなければなりません。
統一教会の教育は、孝行せよというものです。孝行する母、父がいなければ、国のために尽くしなさい。国が危険な時に、孝行しなければならない母、父を残し、母、父の反対を受けてでもこっそりと荷物をまとめ、一線の将兵として出ていって死んだとすれば、その人は、孝の道理の完成体になることができるのであり、忠の因縁の立場に入っていくことができるのです。
(147-306, 1986.10.1)
私たち人間を見れば、困難に直面した時、大概、自分の悲しみでいっぱいになります。そのようなことがよくあります。しかし、忠臣はそのようにすることができません。孝子も、そのようにしてはいけません。自分の子供が死に、自分の妻が死んだからといって、その子供をつかんで泣いたり、妻をつかんで泣いたりしてはいけません。本当の指導者は、そのようにすることができないのであり、まことの忠臣ならば、自らの事情を見せたりはしません。自らの心の奥深くにしみ込ませるだけであって、表に出して泣くことはできないのです。
国王のためにそのような一時をもつことができなかったとしても、父母以上の心をもって、善の立場に立って、国王よりも悲しい立場に立てば、天がなすべきことを教えてくれるのです。そして、孝子、孝女の立場で考えるとき、私たちは、自分が悲しくても、自分の悲しみだけを中心として悲しんではいけません。また、悔しいことがあっても、その恨みを晴らそうとしてはいけません。
(18-252, 1967.6.11)


良いことよりも、嫌なことにもっとOKすることができてこそ孝子です。自分の一生の貴重な愛を犠牲にしながら、父母に孝行しようとする人は、天上世界のどこに行こうと、四方に12真珠門があるとすれば、そこでふさがっている門はありません。完全に開くのです。興進フンヂンが霊界に行く時、イエスはオールド・キリスト(Old Christ:年を取ったキリスト)であり、興進はニュー・キリスト(New Christ:新しいキリスト)だと決定して天上世界に送ると、そのとおりになったのです。
(163-264, 1987.5.1)
エス様を愛することができなかったハナニムのハンを解くためには、一つの国の代表者として、おじいさんとおばあさんを愛しなさいというのです。私たち統一教会は、そのようにしなければなりません。おじいさんとおばあさんを愛するにおいては、国のおじいさんとおばあさんが愛することができず、教会のおじいさんとおばあさんが愛することができず、家庭のおじいさんとおばあさんが愛することができなかったものを、愛さなければなりません。このような3段階の内容を代表した、忠孝の道理を備えた真の兄弟の因縁をもって愛さなければなりません。
(40-44, 1971.1.16)
孝行する父母がいるとすれば、その父母は、自分よりも孝行する息子を願うでしょう。そのようになってこそ、おじいさんが死ぬ時に目を閉じて死ぬことができるのであり、父が死ぬ時にも目を閉じて死ぬことができるのではないかというのです。息子を自分よりも苦労させることができる心情は、息子を愛しているということです。
それは当然の考えです。そのようにして、自分と共に苦労してこられたハナニムを慰労してさしあげなければなりません。このような息子、娘が必要であり、そのような後継者が必要なので、死んでも忘れることができない孝行をするように教育するのであり、私よりももっと苦労させるのです。
先生は、自分に対してはけちです。自分のためには、お金を使うことを知らない人です。おなかがすいたからといって、食堂に入っていって一人でご飯を食べる、そのような人ではありません。オモニに対しても、食べたり着たりする物まで干渉する人です。
(43-60, 1971.4.18)
孝子をもった父母は、その孝子に対することができる父母であり、愛する孝子のための父母であって、そこには第三者が関与することはできません。
それゆえに、天は、真の孝子をつくるために、サタンと人間がどのようなことをしたとしても、タッチし得ない最後の道を中心として深い因縁を結ぶために、愛する子供を死の場に立てながらも知らないふりをされるのです。それが、不孝者になった人間に再び孝行の道理を立てさせるための天の心であり、孝子を立てるための天の指導方法ではないかというのです。それは、言うまでもないことです。
(62-47, 1972.9.10)


孝子をもった父母よりも、その父母の前における孝子のほうが、より心配が多いということを知らなければなりません。孝子、孝女のほうが、父母よりもより多くの心配をもたなければなりません。孝子、孝女になるためには、父母よりも多くの心配をもたなければならず、孝子、孝女になるためには、その父母よりも各方面に多くの心配をしなければなりません。
(155-253, 1965.10.31)
エスは、ハナニムの前でしもべしもべとなり、十字架を背負いながら死んでいきました。義人とは、国のために僕の僕のような悲惨な立場で死ぬ人のことをいいます。自分が死ぬにしても、国のために死ぬという人が愛国者です。僕の僕の立場でも、感謝して父母のために生きようという時、その人には孝子という名称がつきます。これが、人間世界の道徳の骨子こっしであり、核心だということを知らなければなりません。ハナニムのためにより公的にしもべになることが、より義人になり得る道であり、国のために、僕よりももっと徹底した僕になることが忠臣になり得る道であり、父母のために、より僕となった立場で犠牲になっていくことが孝子の道であるということも、ここから発見することができるのです。
(88-294, 1976.10.3)
この地上の復帰摂理に対してこられたハナニムの前で、「ハナニムの真の孝子」と命名できるようにするためには、また息子や忠臣として認めることができるようにするためには、どのような人でなければならないでしょうか。アメリカで一番裕福な人でしょうか。飛行機に乗ってビラをまいて回りながら、「さあ、イエスを信じなさい!」と言う、このような人々でしょうか。飛行機に乗ってビラをさーっとまいて、「信じるならば信じ、信じないならば信じなくてよい」と言う、そのような人々でしょうか。そのような人々と、1枚を渡す時も、その人をつかんでぶるぶる震えて涙を流すほどの精誠を尽くして与える人とでは、どちらの人がハナニムの前に近いと思いますか。
(155-261, 1965.10.31)
結論的に、孝子とは、特別な者ではありません。父母様を絶対信仰し、絶対愛と絶対服従するのが孝子です。国王を中心として、国の民を中心として、絶対的に国王を信じ、絶対的に民を信じ、絶対的に愛し、絶対的に自分を投入するところからのみ忠臣が出てくるのです。
(270-156, 1995.5.29)


 

第4章 ハナニムに対する忠孝

 

1) ハナニムの願い

ハナニムは、どのような方ですか。ハナニムは人類の父母でもある方であり、ハナニムは人類の王の中の王でもある方であり、すべてのものの中心でもある方です。そのハナニムの息子になるために、個人的には1対1の立場で、一つの家庭を中心として見るならば孝子にならなければなりません。それも、世界的な孝子にならなければならないのです。
そして、孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表し得る、そのような位置を占有した者だけがハナニムに侍ることができるならば、それらを別々にしてはいけないのです。ハナニムの願いは、この三つを一度に成し遂げた人です。孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなる、そのような人を願うはずです。
このような観点から見るとき、ハナニムは、そのような方であることに間違いありません。私たちは、そのハナニムを父母として侍り、子女の名分をもつために努力しています。そのように、最上になることができる孝子の行くべき道を訪ねて、それを守ろうと努力する群れになろうという者たちが、あるいは宗派が、あるいは民族がいるならば、彼らの行くべき道は、楽な道ではありません。楽な道を求めていくところには、そのような孝子は生まれてこれないのです。それは、正常な形態として現れることはできません。見ればすべての人が、「間違っている」と言うでしょう。他の人々は東に行こうとするのですが、この人は、西だけではなく、南にも行き、東にも行き、北にも行き・・・。誰かがついてこようとしてもついてこれない、そのようなことをさせるはずです。そのようなことをする宗教が出てこなければならないというのです。それは、私たちが常識的に判断しても、そのような結論に到達します。
(62-33, 1972.9.10)
今まで、歴史的に国王のための忠臣、孝子、烈女は多かったのですが、それに比べてハナニムのみ旨のための忠臣、孝子、烈女はいませんでした。しかし、今日の私たちは、違うというのです。彼らは、すべて地の基準に立脚した自由解放のために捧げてきたのです。ですから彼らは、ハナニムの前に心配の対象にはなったとしても、慰安や喜びの対象にはなれませんでした。「忠臣、孝子、烈女だ」とハナニムが誇った人は、今までいなかったというのです。
ハナニムの前に、忠臣、孝子、烈女になることが人間の正道ですが、そのような人は、いなかったのです。国王と父母にはそうであっても、ハナニムの前に、そのような人はいなかったというのです。ハナニムは、世の中の忠臣、孝子、烈女を見つめながら、彼らがハナニムのための忠臣、孝子、烈女になることをどれほど慕い願われたでしょうか。
(11-77, 1961.1.29)


ハナニムは、すべての人々が孝子、孝女、忠臣になることを希望していらっしゃいます。また、ハナニムは、その中でも最上の基準にある人を願っていらっしゃいます。忠孝を尽くす道しかないという人を、ハナニムは願っていらっしゃいます。
父母の生命と財産に責任をもって家庭に平和と発展をもたらすことができない者は、孝子になり得ないというのです。父母の財産が崩れる時は、自分のすべてのものを投じることができなければなりません。
ハナニムの創造理想が破綻はたんしたので、生命、財産、平和、理想を蹂躙じゅうりんする位置では、忠臣、孝子にはなり得ないのです。私がいつハナニムのために自分のことのように悔しく思い、私がいつお父様の生命に対して偉大さを感じ、私がいつお父様の家庭の平和と統一のために苦闘してみたでしょうか。そのようにしようとはしましたが、それがハナニムの前に忠孝になり得ずに、不忠、不孝になったのです。
(18-341, 1967.10.1)
ハナニムは、忠臣、孝子を立て、彼らを通してご自身のハンをサタンに譲り渡そうというのです。しかし、この恨を無条件に渡せなかったので、忠臣、孝子を立てて、個人的に歴史的な苦痛の道を歩むようにすることによって、その恨をサタンに譲り渡そうとされるのです。
(13-128, 1963.12.20)
ハナニムも解放して、愛自体も解放する、そのような孝子が存在し得るだろうかという問題が重要なのです。ハナニムもその場に入ってきて、「私も一度、孝子になってみることができれば良い」と言われ、まことの父母も、「一度、孝子になってみることができれば良い」と言い、ハナニムと真の父母が一つになって愛の前に孝子になれる、そのような道があるならばどれほど良いですか。
ハナニムご自身が、お父様として愛を完成した立場に立たれ、息子自体が、ハナニムの愛と宇宙の根本的愛を中心として孝子の道理を果たし、父と息子が一つになって、その愛の前に、より次元を高められる孝子の道をどのように植えつけられるかというのです。植えつけられたとすれば、堕落も永遠に生じないのです。
解放の解放圏です。それは、原理圏を凌駕りょうがしたというのです。根本世界です。このようなことを考える時、今後、皆さんが家庭理想と地上天国が成され、天上天国が成されればそれで終わりだと考えてはいけません。そこにはまだ、解決しなければならない、サタンの血統によって汚された痕跡こんせきが内的な根に残っているというのです。
数千万年の歴史を経てきたのですが、その何倍、何十倍、何百倍以上の消耗を経ても、堕落したその世界の過去の出来事を忘れられるかというのです。それを忘れてしまい、あなたと私が一つになり、息子、娘が一つになり、愛自体の苦労を慰労し得る孝子になれるならば、それがハナニムの最高の願いだということを皆さんが推し量らなければなりません。
(300-33, 1999.2.21)


ハナニムが手を挙げてアダムとエバを祝福なさる時に、ハナニムは、彼らの父として心で何を願われたのでしょうか。「おお! あなた方は、私が造った大天宙を抱いて、私を王として侍り、忠臣になってくれ」と思われたのです。ハナニムは、そのような心だったというのです。
したがって、アダムとエバは、この天地間に忠臣の志操を立て、それを伝統として億千万年残さなければならなかったのです。アダムとエバがハナニムを真のお父様として侍り、真の孝子、孝女になっていたならば、彼らがハナニムの前に立てた忠孝の志操は伝統になっていたのであり、この地の役事は、連結したハナニムとアダムとエバの心情を中心として受け継がれてきたことでしょう。そのようになれば、悪が主管できないのです。ハナニムの心情の世界を悪が主管し得るならば、復帰歴史、救援歴史は絶対に不可能です。
(9-105, 1960.4.24)
ハナニムが息子、娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子せいしになることです。皆さんは、ハナニムが願われるように、家庭で孝子になるという考え、国で忠臣になるという考え、世界で聖人になるという考え、そして、天地の前に聖子になるという考えをもってみましたか。
歴史的に見る時、すべての聖人たちは、孝子になり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきました。これを教えることができない宗教は、宗教として千年、万年の歴史を越えることができません。いずれ行くべき私たち人間の宿命的な路程です。宿命は、父子の関係のようなものをいうのです。宿命は分けることができません。運命は代置し得るものがありますが、宿命はそのようなことはできないのです。
このような内容を知らなくては、家庭において真の父母の役割を果たすことはできないというのです。真の父母ならば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。自分の息子たちをして、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たすようにして、さらにはハナニムにまで行かなければならないということを教えてあげなければなりません。
(287-23, 1997.8.10)
ハナニムが理想とされた1双の夫婦は、ハナニムに栄光をお返ししなければならないのに、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返してしまったというのです。ここには、アダムとエバの責任だけでなく、天使長の不忠もあるのです。天使が先にハナニムに忠孝の道理を立てなければならなかったのですが、その道理を果たせずに堕落したのです。したがって、復帰摂理は、忠孝烈を立てることです。
ハナニムが忠・孝・烈の心的中心を立ててこられたので、すべての宗教と道もこれを立ててくるようになっているというのです。すべての道人たちは、これを探し立てるために出てきたのであって、イエスも忠・孝・烈を立てるために家庭を尋ね求めてこられたのです。
ハナニムがイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を復帰するためでした。イエスが先に忠・孝・烈の道を立てていなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってこそ、サタンを屈服させられたのです。
私たち祝福家庭は、忠・孝・烈を立てることにおいて誰にも負けてはいけないのです。忠も、孝も、烈も、家庭から始まらなければなりません。祝福は、お父様の希望を相続することです。今まで、ハナニムに対する忠孝はありましたが、烈の家庭はなかったのです。「神の日」が訪れるまでは烈を立てることができず、サタンの讒訴ざんそが残っている限り烈は立てられないというのです。
(14-209, 1964.11.4)


それゆえに、本来は、皆さんが天の前に完全に立つためには、韓国ならば韓国という一つの国に忠誠を尽くすことだけではいけません。それでは、天の前に完全なハナニムの息子、娘になることはできないのです。使徒パウロのような人は、そのような事実を知っていたというのです。自分の民族は、誰でも愛することができます。自分の民族は、誰もがすべて愛することができるというのです。
しかし、異邦の人々までも愛さなければなりません。なぜなら、ハナニムは、自分たちの国の人々だけを愛するのではありません。全体を同じ立場で愛するハナニムだということを知らなければなりません。
そのハナニムの心情を知るためには、逆境にぶつかり、難しい環境に置かれている一つの国を訪ねていき、私たちが因縁を結んでいかなければなりません。そのようにしなければなりません。原理的に見る時も、3ヵ国を経ることができる忠誠の道理を立てなければなりません。
皆さんが今、韓国でお父様に侍り、天の前に忠孝の道理を果たそうと考えるようになる時、ここで忠誠を尽くすその忠誠は、自分自らのために忠誠を尽くすのだと思ってはいけません。「先に民族のために、先に世界のために、先に天地のためにこれを捧げ、これを残しますので、天のものとして受けてください。天のものとして、地のものとして残してください!」、このように祈祷しなければなりません。そのようにすれば、それは、私が死んでも必ず天のものとして残るのであり、地のものとして人類が残すようになるはずです。そうだというのです。
(155-235, 1965.10.31)
ハナニムの前に孝子になれる時は、いつもあるのではないのです。
孝行できる時は、死んだのちに霊界でつくられるのではありません、永遠を中心として見る時、限りなく短い期間、チックタックという瞬間のようなこの一生の間に、ハナニムを愛したという条件を立てなければならず、ハナニムの前に孝行したという条件も立てなければなりません。
また、私たちが生きている時に、ハナニムの前に絶対必要な息子だという決定もしなければならないのです。私たちは、生きている時にそのようなことをしなければなりません。
(26-114, 1969.10.19)
ハナニムが、一時に6000年の恨の因縁を解くという目的のもとに今までつづってきた歴史の結果として、私たちが因縁を結んだのです。それゆえに、私たちは、お互いの姓が違っても、同じ血筋をもった兄弟以上の情をもって生きなければなりません。
私たちは、父母でない父母に侍っていますが、ハナニムを中心として、自分の血肉の父母以上に、その父母に侍ろうとする群れです。また私たちは、国をもっていますが、その国以上の忠・孝・烈をもって、天国のために生きようとする群れです。
(47-81, 1971.8.19)


今は、最後の時が来たというのです。父母から私の国まで、復帰するのです。祝福を受けた家庭が母、父の代わりに横的に囲んだので、私の国を取り戻すにおいて、忠孝の道理を果たすことにより、孝子の代わりに忠臣、忠臣の代わりに聖人、聖人の代わりに聖子の立て札を持ち、天宮法を守り、天国の道、天国の法を立てなければなりません。私たちによって天国の憲法が始まる、という事実を知らなければなりません。このような意味で「私の国」というのです。
(197-87, 1990.1.7)
ハナニムの心さえ知ったあかつきには、この民族は、天地を支配するはずです。どうしてでしょうか。数多くの子女がいて、数多くの民族がいたとしても、最高の孝子、孝女、忠臣は、一人です。堕落した人間の父母も、同じ子女であっても、無念に打たれている子女をより考えるというのが誰もがもっている人情ならば、ましてやハナニムがそうでないということがあるでしょうか。
ハナニムは、ある民族を探し求められるのではなく、最も愛する孝子、孝女を探し求められます。孝子、孝女を探し立てて、その民族に誇りたいと思われます。
世界を収拾して一つの民族を取り戻し、イスラエルを立ててここで一つの血族を取り戻し、一つの血族を収拾して一つの家庭を取り戻し、一つの家庭を収拾して一人を取り戻すのです。
その一人を取り戻すことが世界を取り戻すことなので、その一人は、ハナニムのすべての歴史的な恨を解いてさしあげられる心を所有した孝子でなければなりません。そのような孝子が出てきてこそ、彼によって悪なる人々が贖罪しょくざいを受けることができるのです。
(10-239, 1960.10.16)
「終りの日」の私たちは、何よりもハナニムの心を知っている人にならなければなりません。人間には、知・情・意の3要素があり、知と意を踏み台にして情的な天情をなすべき部分が残っています。ハナニムの情的な流れがあり、私たち韓民族に対して天的な摂理があるために、韓民族は、誰よりも天に対する切実さと、忠孝の心が強く働いているというのです。
(4-250, 1958.6.22)
天の忠臣になろうとすれば、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐おんしゅうをそのままにしてはなれないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠の命を懸けて覚悟して行かなければ、闘わなければ、皆さんは、堕落の恨に満ちた峠を越えることはあり得ないのです。この峠を越えて、初めてハナニムがすべての悲しい心情を解かれ、皆さんに、「6000年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」とおっしゃって、両手を挙げて祝福してくださるはずであり、三位神は安息し得るのです。このように、心情基準が解決する前には安息できないというのです。
(9-122, 1960.4.24)


ハナニムは、父母の中で1代の父母であり、王の中で1代の王であり。この天地を一人で主管し得る方であり。理想を形成し得る1代の先祖である方です。その方を中心として孝誠を尽くし、その方を中心として忠誠を尽くし、その方を中心として聖人の目的を達成し得る息子、娘となって、初めて、ハナニムの天地創造の大基業(基礎となる事業)を相続するに恥じない位置に行こうというのが、私たち統一教会の目的です。
(84-205, 1976.2.29)

 

2) ハナニムを感動させる絶対忠孝

ノアじいさんは、迫害が激しく、乱れた環境の中でも、渾身こんしんの力を出したので、その環境に勝つことができました。ハナニムの法度の前に、子女として忠孝の道理を果たすだけだ、という謙遜けんそんな心をもっていたのです。
ハナニムの前に行けば行くほど、環境の非情さを感じて悲しみましたが、そのような時であるほどノアじいさんは、ハナニムに申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼が行く道を妨げる者はいなかったのです。
そのようにして120年間を過ごしてきたノアを、一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打ち得るすべての方法を動員して反対しましたが、ハナニムが中心として立てられたその基準から、ノアは少しも外れることがなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、まこと勝利者として立てたものです。それでハナニムは、この基準に反対になる、すべての怨讐おんしゅうの要素を清算しようとされたのです。
(18-159, 1967.6.4)
生きるためには、皆さんが一生の間、忠誠の道理に変わることがあってはならないというのです。自らの立場と、環境が自らを評価すれば評価した分だけ、私たちの舞台は、世界へ拡大されるというのです。今日、国内事情を中心として身もだえしていますが、環境が平安ならば平安なほど世界を中心として身もだえしなければなりません。世界のために行かなければならないというのです。
それで、世界のために忠誠を尽くすハナニムの息子、娘をお迎えして、ハナニムが祝福してくださり、ハナニムが誇り得るその日を迎えなければなりません。そのようにして、初めて韓国に安息がもたらされるというのです。皆さんが、3000万民族が、世界のために忠誠の道理を果たして、世界万民が、「韓国によって自分たちもハナニムの息子、娘になった」と言って、忠誠を尽くせる環境の基台を迎えるようになる時、初めて韓国に安息の基台が展開するというのです。
(155-263, 1965.10.31)
今まで大韓民国のために、ハナニムが苦労してこの歴史的な環境をつくっておかれ、あるいは今日、時代的な時を私たちが迎えるようにしてくださり、そして今、その時が来たとすれば、ここで忠誠を尽くす牛のような人々が出てこなければならないというのです。アブラハムの祭壇の中に3大祭物がありますが、一つははとであり、一つは羊であり、一つは牛です。今の時は、象徴的な型から見れば、牛の時代です。ハナニムは、牛を好まれるのです。


牛の時代! 捕まえて食べるために好まれるのでしょうか。牛を好まれるのは、肉を食べるために好まれるのではありません。農夫が牛を好むのも、未来に食べる肉の塊が集まっているから好むのではなく、働くからです。働かせて、肉を食べて、また食べて食べて、さらに食べるというのです。そのようになっています。
それでは、ハナニムの息子になるためには、何にならなければなりませんか。豚にならなければならないでしょう? (「いいえ」)。象徴的に言えば、その方が大王の牛のような忠誠と至誠を人間のために尽くされ、子女のために尽くされたので、今日の私たちも、牛のような方の前に子女になるためには、牛の子のようにならなければならないというのです。
だからといって、牛の子になりなさいという話ではありません。例えて言えば、そうだというのです。
(156-17, 1965.11.2)
この全天地間に、私よりも天の前に忠誠を尽くす人がいるならば、その人は誰か、東方か、あるいは西方か、どこにいるのかと、気にならなければなりません。
忠誠を尽くす人がいるならば、その人は、どのような人かと、気にならなければならないのです。どのように忠誠を尽くす人なのか、その人は、どのようなことをする人なのか、そのようなことが気になるべきだというのです。
(155-248, 1965.10.31)
ハナニムのために忠誠を尽くすことにおいては、一歩も譲歩できないという信念をもたなければならないというのです。どのような人、どのような忠臣、誰よりも私がより一歩、わずかでも先んじなければなりません。地上で生きていった霊人たち、地上で一生懸命に仕事をしていった霊人たち以上に、その人々が国のために忠誠を尽くし、すべての公的な仕事に一生懸命に働いた、それ以上に実践しなければならないというのです。わずかでも多くしなければなりません。鉄則がそうなのです。
(102-98, 1978.11.26)
しもべの時代において、絶対的な忠誠を尽くし、養子時代において、生活面で絶対的な忠誠を尽くさなければなりません。
このように2代の環境を経ることなくしては、養子としてハナニムの直系子女と一体となれる基準を決定できないのです。一つになれる基準を決定できないというのです。地の世界を中心として天の世界との関係を結ぶことを、世界を代表して最初に成した民族が第3イスラエル民族になるのです。
(45-82, 1971.6.13)
皆さんは待ちわびる思いをもって耐え、その環境において、すべてのハン的な要件を皆さんの一身で蕩減とうげん解怨かいおんしようと見もだえしなければなりません。そのような人は、倒れず、滅びないということを、皆さんが銘記しなければなりません。倒れて、今やもう主の前に行く道がないと考えても、天は生きているというのです。天は、今まで耐えながら歩んでこられたゆえに、そのような立場で誠の限り忠誠を尽くして、倒れた群れを再び起こし、天の前に祈祷だけでもできる道を開いてくださり、また今から生きていく方向を提示してくださり、また彼らを起こして協助できる人を遣わしてくださるのです。
(153-255, 1964.1.7)


ハナニムが御覧になる時に、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を貫徹し得る人にならなければなりません。ハナニムと通じ得る愛情をもったその孝子、孝女は、深い悲運が漂う立場でも、その悲運の主人公になった王ならば王、父母なら父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防いで解決しなければなりません。このような忠孝の因縁をもった人が天堂(天国)に行くのです。イエスを信じて、一人で天堂に行くという人は、天堂どころか、地堂(エデンの園)にも行くことができません。このような人々に、今まで悪口を言われて迫害されてきたことは無念で悔しいことですが、だからといって、銃刀で復讐ふくしゅうしてはいけません。
(19-300, 1968.3.10)
皆さんが文字を書く時に、点を一つ書くにしても、その時の心の姿勢いかんによって喜ぶことができます。また、その一点が希望の象徴になり得るというのです。
それゆえに、天地を創造されたハナニムが、いくら小さな物をつくられたとしても、それはハナニムの孤独な立場を埋めて喜びを得るための対象なので、それは、ハナニムの前においては最高の喜びの対象になるのであり、忠孝の要件にならざるを得ないのです。ここで私たちは、ハナニムはつくったものを鑑賞されながら、これを取ったり付けたりしたらどうなるだろうかという、希望の中でいつも喜びをもってお過ごしになるという事実を知ることができます。
(39-226, 1971.1.15)
誰がハナニムを解放してさしあげるのでしょうか。忠孝の道理を誓って孝誠の道理を尽くす、限りなく最善を尽くす孝子が現れて、その方のすべての十字架の恨に責任をもたなければなりません。そのような息子、娘が現れなければなりません。そうでなければ、ハナニムは解放されないということを、皆さんは知らなければなりません。
(101-255, 1978.11.1)
勇気を出して、悪なる世界を押し倒そうと奮い立たれるハナニムになるとすれば、その瞬間、ハナニムの活動舞台が自分によって生じます。それは自分にとって、尊い位置、玉座、栄光の位置において、一生ではなく幾重の生涯にわたって、それ以上のものをプラスしたとしても及ばない、喜びの賜物なのです。
歴史を越えてまで、迫害に対して自分が立ち向かうという、それが、永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと考えるのです。それが、永遠の国に対する忠誠の道ではないかというのです。
(255-121, 1994.3.10)
結論的にハナニムは、絶対家庭、絶対忠孝を願われるのです。今まで、そのような絶対的な忠孝が出てきませんでした。絶対聖子せいし、ハナニムの息子のような世界的な基盤がなければ、ハナニムが地上に降臨できないのです。ハナニムお一人では、地上で何の役事もできません。ですから、私たちは、「悲しいハナニム、かわいそうなハナニムだ」と言うのです。


今から、レバレンド・ムーンを中心として、ヨーロッパのメンバーが初めてそのような家庭を築くということは、驚くべき事実です。誰でもみな、忠孝を願います。今までハナニムは、この堕落した世界に対して、かわいそうな立場にいる以外になかったのです。そのハナニムを、どのように解放することができるのですか。それは、どのようにそのような家庭、宗族、民族、国家、世界を建設するかということにかかっています。
(297-202, 1998.11.20)

 

3) イエスの忠孝

エスは、「どんなに難しい環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならない」と主張しました。「罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に、ハナニムのみ旨のために忠誠を尽くさなければならない」と言ったのです。これがキリスト教でいう、聖神聖霊)の九つの結実(ガラテヤ人への手紙5:22〜23)の根本です。愛の生活をするようになれば、喜楽と和平が現れ、忍耐を通して慈悲と善良が現れ、忠誠の生活をすれば、柔和と謙遜けんそんが現れます。
エスは、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してくださるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。
また、忍耐と忠誠心がありますか。イエスは、ハナニムの心情に代わって顕現なされた愛の化身体であり、寂しいゴルゴタの道においても万民の苦痛を心配なさった忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。
それでは、このようなイエスの愛、忍耐心、忠誠心はどこから来たものなのでしょうか。これらは、イエス自身が起源となったものではありません。イエスは、ハナニムの愛を人間に連結させる仲保の役割をするのです。無知な人間を救うために来られたイエスは、ハナニムの愛の化身であり、神的な価値の実体でした。
ハナニムは、このようにまことのみ旨を成すために、ご自身のような人、全体の価値を代表し得る人を求めるために、人間がハナニムに対して忠誠を尽くす前に、ハナニムが人間に対して先に忠誠を尽くされたのであり、無限に忍耐してこられたのです。したがって、皆さんは、天倫を中心として運行なさるハナニムと、み旨を成就するために人間に対して無限に忠誠を尽くされたその事情を体恤たいじゅつしなければならず、そのみ旨を立てるために無限に犠牲になってこられたハナニムの心情、また未来の理念を立てるために無限にご自身を超越なさったハナニムの心情、無限に与えようとされるハナニムの愛の心情を、体恤しなければなりません。
(2-344, 1957.8.4)


エスは、人類の父として来られ、聖神聖霊)は、人類の母としてこの地に来ました。しかし彼らは、霊肉を中心とした父母になることができずに、霊的な父母としてのみ役事してきました。
エスの十字架における死は、霊肉が一つになった立場でサタンに勝利したのではなく、サタンに追い込まれて死んだのです。それゆえに、体はサタンに差し出し、霊だけが復活したのです。3日後に復活して弟子たちを集め、霊的な基準を中心として第2イスラエルを出発しました。これが今までの、キリスト教2000年歴史なのです。
それでは、第1イスラエルは、どこにいるのでしょうか。第1イスラエルは、滅びました。第1イスラエルであるユダヤの国は、イエスを殺した罪によって滅び、第2イスラエルが登場しました。ハナニムは、メシヤを待ち焦がれたイスラエル民族を4000年間、率いて保護し、育成し、4000年間、苦労したその功績の基盤の上にメシヤを送られました。
それにもかかわらず、この民族は、メシヤを信奉することができずに十字架の死の道に追い込んだのです。それで、この民族は、ハナニムの前に怨讐おんしゅうになったのです。
イスラエル民族は、この時から国のない民族になりました。そして、イエスが再び来る時までは独立できないのです。イエスを殺した罪を蕩減とうげんするために2000年間、多くの苦労をしなければなりませんでした。イスラエル民族は、全人類のために万民の先祖として来られたイエスを、刑場に立たせて血を流させたので、国のない民族として苦労したのです。
その時のイスラエルは、霊的にも肉的にも、どこに出ても堂々とした権威をもった国でした。イエスは、このような国家圏の上に来られて、国家を収拾し、世界を復帰しなければならない責任があったのですが、イスラエル民族が信奉せずに死の位置に追い出したので、イエスは、やむを得ず霊界に行くしかなかったのです。
しかし、イエスは、ハナニムのみ旨を立てることができる忠孝の道理をすべて果たしました。死の道を行きながらも、万民に代わって天倫の使命と責任を全うしようと思い、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と言いながら、忠孝の道理を立てたのです。ゆえに、イエスは死んだとしても、その精誠の基準はサタンが占領できません。そして、イエスが霊的に復活することによって、霊的なイスラエルの基準がつくられたのです。
(19-207, 1968.1.7)
エスは、「わが神、わが神。なぜわたしをお見捨てになったのですか」という立場に出ていき、自分の体が引き裂かれて、自らの魂がずたずたに引き裂かれる犠牲の道、死亡の峠を越えていきながらも、お父様を離さずに最後まで忠孝の道理と忠臣の道理を誓うにおいて、サタン世界の誰にも負けない立場で、静かに死の道を迎えていったのです。イエスが、その場において、サタン世界で死んでいったどのような人よりも上に立つことができた、その条件とは何でしょうか。怨讐に対して福を祈ったという事実、その条件を中心として、サタンがそれ以上は侵犯できないたてとして決定されたというのです。ハナニムはイエスを愛して、イエスは天を愛したので、愛を中心として復活の権限を発揮して、復活したのです。
(50-201, 1971.11.7)


エスは、幼いころからハナニムが喜ばれる立場でイスラエル民族の慕心ぼしん(慕う心)を受けなければならず、ハナニムの前に召命されたイスラエル民族は、忠孝の道理を果たさなければならない立場でした。しかし、イスラエル民族がそのような使命を果たせなかったので、そのことをすべて、腹中教を中心としてイスラエルの勝利的立場を再現し、そのことを再び推進させたのです。
(24-191, 1969.8.10)
本来、ヨセフとマリヤが、イエスはハナニムが送られた真の息子であり、ハナニムの王子であり、また万民のメシヤだということを知ったなら、彼が生まれたその日から、ハナニムの王子として侍っていかなかればならないのです。毎日のようにイエス様に敬拝しなければなりません。王の王であり、永久に全天宙を支配することができる天の主権者として来られた方であるがゆえに、イエスが生まれたその日から、ヨセフとマリヤは、彼に最善を尽くし、忠孝の道理を果たして侍らなければならなかったというのです。人間的に見れば、自分の息子に忠孝の道理を果たさなければならないという法がどこにありますか。しかし、天法では、そのようにしなければならないのです。
(16-27, 1965.12.26)
エスは、どうして父母、すなわちハナニムに侍ることができる天の法度を自ら教えてあげることができなかったのでしょうか。本来、堕落していなければ、ハナニムがアダムの父母になっていたはずですが、堕落によって父子の因縁が途絶えたのです。それで、父子の因縁として、忠孝の道理を果たせなかったことを私たちが蕩減復帰するために、忠の道理と孝の道理の代わりをするのです。それまでは、ハナニムが父母の位置で教えてあげることはできないというのです。
(15-219, 1965.10.10)


 

第5章 孝行と忠誠と宗教は不可分の関係

ハナニムを占領する方法は忠誠を尽くす道理しかなく、父母を占領する方法は孝行する道理しかありません。ですから、皆さんは、ハナニムの前に忠孝の道理を果たさなければなりません。
(14-90, 1964.6.12)
家庭で本当の孝行をする人は、国の忠臣の道に直通します。国に本当の忠誠を尽くす人は、聖人の道に直通します。それを知らなければなりません。結論は何かというと、家庭において父母を絶対的に愛していこうという道が孝子の道であり、国のすべての国民と主権者を絶対的に愛していこうという道が忠臣の道であり、世界を絶対的に愛していこうという道が聖人の道です。
国の国王も、聖人の道に従っていかなければなりません。絶対的に信じなければなりません。愛国者と忠臣は王に従っていかなければならず、孝子は愛国者に従っていかなければなりません。一つの道です。それでは、聖人は誰に従っていかなければならないのでしょうか。ハナニムに従っていかなければなりません。
ハナニムも永遠・不変・唯一の愛、この聖人も永遠、不変の愛、国王も永遠、不変の愛、忠臣も永遠、不変の愛、孝子も永遠、不変の愛であり、これは一つのコースにあります。いくら回り道をして行ったとしても、この道に従っていかなければなりません。
個人が行き、家庭が行き、宗族が行き、国が行き、すべてのものが行くので、仮に、父母にも孝行しなければならず、国にも忠誠を尽くさなければなりませんが、一度に二つともできない場合は、どちらを先にしなければならないでしょうか。孝子の道と忠臣の道の二つがある時は、孝子の道を捨て、忠臣の道を取るのが法度に準ずるということを知らなければなりません。なぜならば、国の中には数多くの家庭が入っているからです。数多くの父母が入っているからです。
(99-67, 1978.7.23)
友人たちがすべての秘密のふろしき包みを持ってきて、それを千年、万年保管しておいても、安心できる友人にならなければなりません。そのようにすることができる友人が一番の友人です。自分の妻や父母や兄弟をほうっておいても訪ねてくるような友人になれば、友人の中の代表的な友人になります。
友人として、過去・現在・未来の代表者にならなければなりません。それから、家庭における代表者になりなさいというのです。それゆえに、父と母は、息子を自分の家庭の代表者として立てるために、「孝行しなさい」と教えます。別の言い方をすれば、孝子になりなさいということです。


それでは、情緒的に最初に一つになることができる道とは何でしょうか。孝子になる道です。天地が知り得る孝子の因縁をもった人は、その国を中心として相続し得る特権をもつのです。
三綱五倫の教えとは何でしょうか。その家庭において、国が知り、世界が知り得る孝行を尽くしなさいということです。そのような孝子はハナニムも御存じなので、ハナニムは、その血統を通して国を治める人を送られるのです。
孝子は家庭を中心として決定され、忠臣は国を中心として決定されます。忠臣とは、心を尽くし、思いを尽くし、性稟(精神)を尽くして、主なるハナニムを愛した人ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、性稟(精神)を尽くして、自分の国を愛した人です。そのような人だけが忠臣になれます。
(32-258, 1970.7.19)
どのような人が主人になるのかというと、一番の主人になる人は、至誠を尽くし、忠誠を尽くす人です。そのような人だけが主人となる資格をもちます。学士や博士が主人になるのではありません。
仮に、学士や博士が来て、働いて協助したとしても、彼らは労働者にすぎません。主人になることはできません。最後の帰結点は、知識が問題ではなく、学識が問題ではなく、その人に力量があることが問題ではありません。至誠と忠誠を尽くすことが問題です。
昔を見てください。日本が3000万民族を掌握して思いどおりにしていた時に、柳寛順ユグァンスンのような少女が日本人に反対したのですが、その当時で見れば、それは正常な人ではありません。しかし、彼女は、民族が忠誠を尽くせない時に、民族を代表して忠誠を尽くし、民族が精誠を尽くせない時に、民族を中心として精誠を尽くしたのです。それゆえに、私たち韓民族にとって、常に忘れることのできない思想的な指導的権限を彼女が占めるようになったのです。
時でない時、環境ができていない時、その時と環境ができていない時だったので、その目的は、達成できずに失敗したのですが、時と環境ができている時に精誠を尽くし、忠誠を尽くす人がいるとすれば、どのようになるでしょうか。誰かが捕まえて殺すでしょうか。どのようになるのでしょうか。
環境ができていない時に死を覚悟して忠誠を尽くした、そのような忠誠をもって、時になり、環境ができた時に立ち上がる天の子女がいるとすれば、その子女はどのようになるでしょうか。その人は、動けば動くほど、上がっていきます。その代わり、歩んでいる途中で中断してはなりません。私が生まれたのは、このために生まれたのであり、私が働くとすれば、これしかないという、このような観念をもって至誠と精誠を尽くす立場で、1年を過ごし、2年、3年と過ごしていけば、その過ごす年数に比例して、その人は、どんどん上がっていくのです。
(156-12, 1965.11.2)
皆さんは、李舜臣イスンシンや柳寛順のような人が愛国者だということを知っています。彼らがこの国の愛国者ならば、彼ら以上に忠誠を尽くそうという心はもっているのですが、今まで、そのようにできる実質的基準をもてなかったので、今から皆さんは、忠誠の道を歩まなければなりません。


国を復帰するための、解放の先駆者にならなければなりません。それゆえに、この道を行く所で、党派的に追われ追われて、あるいは投獄されたとしても、闘争しなければなりません。この闘争において、敵対する相手が誰かということを決定していかなければなりません。これが、統一教会の行かなければならない道です。
「自分は父の前に孝行した」と誇ってはいけません。孝は、忠の道理を果たすための一つの土台です。父に代わって忠の道理を果たし、一つの家庭の父母を中心として愛の祝福を受け得る私にならなければなりません。
そして、国を中心として永遠の愛を祝福してくださろうとする父の願いに、いかにして私がその基準を突破し、成就するかということが問題です。これを一生の事業だと考え、国民としての道理をもって、その責任と使命を果たさなければなりません。
(29-110, 1970.2.25)
おそれ多くも、天は、父子の因縁に対するみことばを私たちに提示してくださったのですが、私が、どの程度まで、父に侍ったのか、どの程度の孝子になったのかというのです。
個人的には孝子として、国家的、民族的には忠臣の気概をもって天に対さなければなりません。東洋の三綱五倫のようなものには、すべて一理があります。それを教えてあげるためのものです。天に対する忠孝も同じです。同じことで、父母に孝行できない者が、天の前に孝子となることはできません。国に対する忠臣の志操をもてない者が、天の前に忠臣となることはできません。天の前でも、この世界でも、同じです。心情の世界も、内容が異なっているだけであって同じです。
(7-66, 1959.7.12)
愛国心は天の理想に連結されるので、本心は忠孝の道を賛美するようになっています。しかし、日本の中心と韓国の中心は、方向が異なります。
韓国の李舜臣将軍といえば、日本では怨讐おんしゅうです。また、日本の伊藤博文は、韓国の怨讐です。そのようなものです。ここにおいて、韓国と日本がお互いに中心に立とうとします。ですから、偉人は各国ごとにすべているのですが、聖人はいません。偉人は、国を中心として愛した人であって、世界を中心として愛した人ではありません。伊藤博文が、アジアと世界をより一層愛していれば、あのような悪いことはしませんでした。
(229-247, 1992.4.12)
家庭において、父母に孝行するために、日々、父母の考えと一致する生活をする人と、今すぐに孝行できないものの、国を取り戻し得る道を求めて民族の願う最善を追及し、世界のために最善を尽くそうとしながら、ある瞬間を待ち望んでいる人を比較してみるとき、今すぐには父母に孝行できなくても、未来に孝行しようという人が、この世の中においてはより必要です。このような観点から見るとき、「宗教とは、未来を追及する立場で、未来の国のために忠誠を尽くすものであり、未来の孝行の基盤を強固にするために出てきた」と言うことができます。
(27-307, 1969.12.28)


国を愛することは、国を中心としたものではありません。父母を解放しようという愛の心をもった孝子になろう、というのが統一教会の思想です。国を愛する前に、父母を愛さなければなりません。孝子にならなければなりません。それを通って国を愛せるのであり、国を愛する道を通って世界を愛し、世界を愛する道を通って天を・・・。そのようになるのです。まず、父母の前に孝子にならなければなりません。
(139-275, 1986.1.31)
宗教が追求しているある瞬間、忠孝を行うことができる未来のある瞬間とは、どのような瞬間でしょうか。
人類が共に幸福を謳歌おうかすることができ、人類が初めて希望の起点を称賛することができ、歴史を支配されるハナニムが喜んで誇ることができる時です。
その瞬間を迎えて勝利を誓い、その一瞬に自らを全天地の中心として現すために宗教が出てきた、ということだけは間違いありません。
(27-307, 1969.12.28)


 

第6章 忠孝と真の愛の有無は天国行きと地獄行きの尺度

いくら邪悪な社会環境に直面したとしても、愛する父母がいて、その父母の懐に行って涙を流しながら寄り掛かれるならば、それはどれほど幸福なことでしょうか。
私が悲惨な立場にいる時に、誰も私を抱いて慰労してくれなくても、その重荷を背負いながら苦しんでいる体を、母、父の懐に身を託して涙をぽろぽろと流すとき、無言でなでてくれるお母さん、お父さんの手は、億千万金を出しても買うことができません。そこには、天下の名将として敵対軍を退けた勝利の気分を凌駕りょうがするほどの感謝の気持ちが訪れてくるのです。
それで、孝子、孝女になりなさいというのです。夜に傷つこうと、昼に傷つこうと、母、父に報告すれば、その母、父は常に準備しています。なでてあげ、包んであげる心が常に準備されているのです。
たとえ包帯や薬は準備できなかったとしても、愛の包帯と愛の薬で私をなでてくれるという驚くべき事実、その場所は平和の香りで満ちあふれるようになります。これを支配し得る力は、ほかにないということを知らなければなりません。
一生の間、子供のために愛の関係を結んで生きる父母が血と汗を流し、腰が曲がり、その容貌ようぼうがどれほど悲惨になったとしても、その心の世界に燃え上がる希望は、誰もくじくことができません。直面する困難がどれほど強かろうと、そこには、それを一歩一歩踏み越えていける偉大な力があるのです。
愛国者の道も同じです。我が国の先祖たちが、愛国者の道を行き、父母を愛する立場に立ったので、それと同じように愛そうとするのは、先祖の愛を受け得る後孫としてもてるプライドです。
ですから、一つの国の国民になったならば、国を愛さなければなりません。国に依存して生きてはいけません。成長して分別がつく時までは、依存して生きるでしょう。ただ勉強するだけの時は、そうです。
しかし、分別がついてからは、依存して生きてはいけません。赤ん坊も、何ヶ月か乳を飲めば、乳離れするでしょう? ちょこちょこ歩き回る時は、母、父が隠しておいた物をどれだけ盗み食いしても、それは罪悪ではありません。お母さん、お父さんが隠しておいた物を、子供がちょこちょこ行って取り出して食べたからといって、「やい! こいつ、どろぼうをしたな。罰を受けろ」と言うでしょうか。「こいつ、とんでもないな。どうやってそれが分かったのか。私よりもまさっている!」と言いながら、おしりをたたいてくれるではありませんか。それが父母の心です。
(175-207, 1988.4.17)


エデンの園において、アダムとエバが堕落することによっていた罪の種は、彼らの息子であるカインとアベルによって刈り入れられました。それで罪の種を蒔いた父母が復帰されなければいけないのです。そして、天宙史的な父母復帰の基台を中心として、忠孝の道理を全うできる子女の基準を復帰しなければいけないのです。この基準が決定したのちに初めて、万物の日が出てきたのです。
愛は、自分の家庭から母、父の助けを願うことではありませんか。自分が母、父の愛を受けたならば、母、父を愛さなければなりません。天理はそのようになっています。すべての心情的な誘発点は、父子の関係から連結されるのです。それは、すべて郷里から植えられてくるのです。
しかし、堕落することによって、これがすべて食い違ってしまいました。それを、この地で解かなければなりません。郷里に帰っていって、サタン側に立って愛する数多くの孝子、孝女以上に孝子、孝女の立て札を立ててこそ、天使長ではなく、善の霊人たちが地上に来るのです。そのようにして横的に活動する霊人たちが、故郷で愛する心をもってソウルの家に来て協助するのです。
そのようにして横的基盤を広めていくことができるのです。それが復帰です。
(175-44, 1988.4.6)
最高の立場で自己陶酔して満足しているその群れから迫害され、追われて、涙を流す立場で、血だらけになって倒れていく体を立て直しながら、たった一つ私が残さなければならない遺業とは何であり、私が残せる遺産とは何であり、私が相続させ得る最後の遺言とは何でしょうか。天に対して燃え上がる心情と、忠誠を尽くしたい孝子の心、忠臣の心、烈女の心をもつ群れがいるとすれば、その群れは、絶対に滅びることがありません。
(150-153, 1961.1.9)
正義の道をはっきりと知って、分別していくのが忠孝の道理です。ですから、皆さんは、何の価値もない1日1日を送ってはいけません。それは負債を負うことと同じです。自分に近い人々をここに引っ張ってこなければなりません。力が足りなければ、脅迫してでも連れてきなさいというのです。それは罪ではありません。
なぜそのようにでもしなければならないのでしょうか。教育して良い所に連れていくためです。そのような条件があるので、何でもすることができるのです。ですから、これからは、そのままほうっておいてはいけません。
(243-51, 1993.1.1)
皆さんが忠誠を尽くせば、皆さんの後孫の前に道が残されるのであり、皆さんが霊界に行けば、その苦労の功績の道が褒めたたえられるのです。今はもう、蕩減とうげんの時代は過ぎ去りました。今は、皆さんが動くほど、輝く伝統を立てることができるのです。それが皆さんの財産になります。このような時点に置かれているということを知って、すべての精誠を捧げなければなりません。
(38-126, 1971.1.3)


絶対的に忠孝を尽くせば、ハナニムの本性の天国に行くのですが、ここに反対すれば、天国と180度反対の地獄に、直行で落ちていくのです。
フリーセックスは、サタンが人類を滅亡させ、地上地獄を膨張化するための悪魔の計略的愛の版図だということを、皆さんは知らなければなりません。絶対的な愛のハナニムを中心として見るとき、おばあさん、おじいさんと、これが絶対的に一つになっています。分かれることができません。ハナニムを中心として絶対的に、おばあさん、おじいさんが愛を中心として・・・。愛とは何でしょうか。その凹凸を合わせるにおいて絶対的であり、母、父も絶対的であり、夫婦も絶対的であり、自分の息子、娘たちも絶対的であることを願うのです。
(280-135, 1996.11.24)
父母は、孝行する子を見て涙を浮かべ、永遠をかけて祝福するのです。心情圏には、そのような背後があります。恐ろしいのです。この世には、お互いを比較しながら祈祷しているうちに、後ろ指を指されて消えていく人もたくさんいますが、本当に忠孝を行う孝子が中心になる時は、父母と自らは、涙を流してその家庭を守り、未来の国の祝福がその家庭と共にあることを願う孝子になり、父母になるのです。
(247-32, 1993.4.21)
ハナニムのために生きる孝子の道は、客死の身になったとしても、その環境を守り、その環境が喜ぶことのできる立場を残していかなければなりません。そのようにしてこそ、天国に行くことができるのです。そうでなければ行くことができません。
(280-41, 1996.10.13)
一つの世界、一つの目的の世界を成し遂げるためのハナニムがいらっしゃるのであり、そのハナニムは、遠くに対する時は万軍の主であられ、中心の中の中心であられるので、そのお方に対して私たちが信仰するのは、忠臣になるためです。それが、私の生まれた義務であり、責任です。近くに対する時は父であられるので、孝子、孝女になることが私たちの責任だということを知らなければなりません。それが先にしなければならないことです。そのようにしておいてこそ、「地獄に送ろうと、天国に送ろうと、自由にしてください」と言うことができるのです。そのように生きたのちに地獄に行った人はいません。
(154-314, 1964.10.5)
アメリカは、世界の代表国家として責任を果たし、皆さんは、世界の国家代表としての責任を全うするという立場で結束しなければなりません。ですから、先生の前において完全なカインにならなければなりません。国家を代表した者、世界を代表した者として、完全なカインにならなければなりません。そこにおいては、個人の観念はあり得ないということを知らなければなりません。この時だけは、皆さんが世界史を代表したカインの中のカインになり、天使長に恥ずかしく思わせる天使長になり、天使長の蕩減条件を越え、天のために忠誠を尽くす天使長になるという心をもって立たなければならない、ということを知らなければなりません。
(88-143, 1976.8.10)


 

第7章 ハナニムと真の父母様

 

1) 真の父母様は忠孝の標本

私たちは、イエス・キリストを「万王の王」と言っています。「万主の主」、あるいは「絶対者の主体者」と言っています。しかし、そのお方の前で、「忠臣だ」と言って祝福された人はいません。このことを知らなければなりません。天の忠臣が現れず、天の孝子が現れず、天の烈女が現れなかったのです。
ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が、天地を統治し得る位置にその人を立てて祝福してあげたいと思われるとすれば、その人は、最高の位置に行くようになるでしょう。そのようにしようとすれば、その人は、その国の「最高の忠臣」という名前をもたなければならず、その国の「最高の孝子」という名前をもたなければならず、信仰者たちを「新婦」と言われたので、その国の「最高の烈女」という称号ももたなければなりません。しかし、ハナニムは、6000年間、復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは、天地が生じたその日から今日までの歴史において、かけがえのない私の忠臣だ」と言って祝福してくださった人はいません。「創世以後、今日までの歴史において、あなたは私の前におけるまことの孝子だ」と言って祝福してくださった人はいないのであり、烈女として祝福してくださった人はいないというのです。
それは、この地の各国家が、天が誇り得る主権をもった国になり得なかったからであり、この地の家庭が、天が永遠に愛して守ってくださる真の父母をもった家庭になり得なかったからであり、この地の人々が、天が永遠に信じてくださる真の新郎新婦となり得なかったからです。
ですから創世以後、今日まで、創造主が、この地上で暮らす人間たちの中で、「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って誇った人はいません。「あなたは私の前における忠臣だ」と言って誇った人はいないのであり、「烈女だ」と言って誇った人はいないのです。
堕落した私たちは、慕っています。天が認める忠臣になり得る、その国を慕っているのです。真の父母に侍って孝子となり得る、その世界を慕っているのです。真の新郎新婦となって、天の懐に抱かれ得る、本然のその世界を慕っているのです。これが、人間の願う最大の目標です。
(9-102, 1960.4.24)
この世界は、父母が慕わしいので、その父母が来られる日のために準備するのです。その一人の主人公、一つの父母、一つの世界が、ハナニムが今日までの6000年間、苦労してこられた結実であり、願ってこられた目標です。ここに、その父母に代わって立ち得る心情的な後継者が出てこなければなりません。心情的な後継者です。