八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 2-7

八大教材教本 天聖経(2012年版)p571-606

【天啓の御言】(2-7)

 


このように言うと、既成教会では、「統一教会のレバレンド・ムーンは独善的な言葉をたくさん言う」と言うでしょう。統一教会でいう祝福は堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題になるのが、この祝福です。今日、一般の宗教を信じる人は、「救い」というと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じるというのです。
しかし、本来のハナニムの理想について見るとき、天国は一人で行くようになっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入るようになっています。
(143-235, 1986.3.19)

 

ロ) 夫婦の霊人体
我々は、愛の理想を探していく群れです。ですから、霊界の代弁者として立つために、愛の理想を横的な世界に扶植ふしょくさせなければなりません。種としてかなければなりません。ここで愛の心を授け受けしながら育つのです。大きくなるのです。
こうして、愛の実を結んで、その夫婦が霊界に入るようになるとき、ハナニムの永遠の愛の圏内に抱かれ、ハナニムと一つの体になるのです。ハナニムと一つになるのです。
(144-224, 1986.4.24)
皆さんは、真の愛の論理をたくさん習わなければなりません。我々統一教会霊神ヨンシン(注:草創期からいるおばあさん)たちは、50になったのに、顔を見れば40代のようです。50歳を超えたのに、世の中の人と比べれば大体30代にしかならないように見えます。ですから愛するほど若返るのです。
人はこの地上で、うわべは老けていきますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど、霊人体は若くなるのです。どういう意味かというと、人間が長く生きれば生きるほど、内的人間である霊人体は、最高の円熟した美男、美女になるのです。そのうわべは服のように脱がなければならないのに、(それさえも)若返ってくっついたらどうしますか。
ですから、外的なうわべは、老ければ全部駄目になりますが、内的な中身は、丈夫になって未来の相続者になり、美人になるのです。それゆえ、秋のいが栗のようになるのです。秋になり、丈夫だったいが栗が、れれば、殻はぶよぶよになって割れ、栗の実が落ちるようになっています。それと同じです。
(164-102, 1987.4.26)

 

ハ) 結婚と霊界
キリスト教では、ハナニムを愛するといいますが、漠然としているのです。聖書でいうには、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ22:37~39)とあります。そうなればいいのです。ハナニムを愛する前に、皆さんが食べる食物を愛さなければなりません。万物を愛し、体を愛さなければならないのです。
皆さんの第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は、地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、その要素を供給してもらうのです。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に行くには、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だったハナニムの形に似なければなりません。


したがって、結婚はなぜするのでしょうか。ハナニムの形に似るためです。ハナニムは、二性性相が合体化した一律的な存在であり、そのハナニムの分性的自体が男女なので、彼らも合性一体化して種のようになって、ハナニムの本性の位置に帰らなければならないのです。
しかし、その種をつなげるためには、愛の道を通じなくてはならないために、生まれながらも愛され、育ちながらも愛を目標として育ち、暮らしながらも愛を中心として暮らし、歩みながらも愛に帰るために歩まなければならないのです。その道は、「ため」に生きる目標を中心として訪ねていかなければ、方向が異なってしまいます。
(138-98, 1986.1.19)

 

ニ) 祝福家庭の霊界の立場
我々統一教会の信者たちは、霊界が確実にあるということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。多くの体験を通じて、否定しようとしても否定できないのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するまで、多くの体験過程を経てきました。それゆえ、「霊界がない」と言うことのできない立場にいる人たちが、統一教会の信者です。
霊界は絶対的神を中心として構成された世界です。その絶対的神がいるなら、その神は、宇宙の起源になる方です。その方によらないものがありません。その方に属しているために、その方に属した全体は、その方と共に感じ、その方と共に因縁をもって過ごしているのです。
(140-123, 1986.2.9)
そのような愛の圏が成される所には、サタンはいません。それゆえ、サタン世界は、自分を中心として愛するのです。天が一番ではなく、自分が一番です。天を否定し、地を否定して始まるのです。しかし、その反対に、天を認めて地を認め父母の平均的愛のもとで一つになれば、サタンが主管することができないと見るのです。それが本然のアダムの位置です。その基準を回復しなければなりません。
(140-201, 1986.2.9)
ある町内に、統一教会の夫婦が住めば、その町内で話題にならなければなりません。先生がどこへ行っても話題になるのと同じです。「あの夫婦は、この町内に実によく来た。あの奥さんは、この町内のすべての男性たちが好み、おばさんたちがみな好んでいる。子供たちまでが好んでいる」と、そうでなければなりません。
それができなければ、霊界に行って再び帰ってこなければならないのです。帰ってくるには、先生がサインをしてあげなければいけないのです。祝福を受けた家庭が、地上に勝手に来ることができますか。先生が祈祷をしてあげてこそ、可能なのです。それで、先に行った人たちが、みな縛られています。今まで統一教会の祝福家庭は、みな縛られているのです。それゆえ、地上が問題です。
(140-202, 1986.2.9)


ホ) 祝福は約束
統一教会の祝福家庭は祝福を受けたとき、永遠の家庭として暮らすということを、先生と約束しました。先生は、永遠の家庭を治める人であり、永遠の国を治める人です。永遠の国の家庭を設定するのです。その約束を守る人が、家庭はもちろん、永遠の国を引き継ぐのです。
(205-359, 1990.10.2)

 

ヘ) 祝福の栄光
真なる女性は、どうあるべきでしょうか。真なる男性を中心として、男性がしようというとおりにしてあげなければなりません。家庭のために奉仕して、宗族のために奉仕するようになれば、その周囲が全部拍手するようになります。
皆さんは、先生が好きです。なぜ好きでしょうか。苦労しながらも皆さんを生かしてあげようと、人類を解放させてあげようとするからです。先生が苦労しなければ、皆さんが霊界に行って、億万年待っても祝福を受けられないのです。不可能なことなのに、先生が苦労して、価値ある祝福の版図が繰り広げられたというのです。これは霊界とこの地上世界に、栄光なことであり、栄華なことです。
(162-68, 1987.3.27)


 

第2章 死と霊界

   

1) 人生必然の道

 

① 永生と距離が遠い体

地球も息をして運動をするのです。皆さんの細胞も息をします。皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体になった所で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体になった世界で永遠に暮らさなければなりません。ハナニムがご自身を見せてあげたいと思われても、皆さんの体ではハナニムを見ることはできません。ですから、霊人体が必要なのです。
見えない精神の中心がハナニムなので、ハナニムは相対的存在である人間に、ご自身が創造した永遠の理想圏を全部与えたいのです。
(111-112, 1981.2.1)

 

② 大部分の生涯

今、我々は、知る知らないにかかわらず、ある所に向かって進んでいます。私が動いている時間にも進んでいて、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって今、進んでいるのです。これは、否定することのできない事実です。
一生を経たのちに、自分はどこへ行くのでしょうか。これが、人間たちが解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学も歴史もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身も、このような運勢に引きつけられ、率いられていっているということを、否定することができないのです。
では、いずれ行くべき自分自身だというのに、この体はどこへ行こうとし、この心はどこへ行こうとするのでしょうか。また、この生命はどこに向かって傾いていて、自分の心情はどこに行こうとするのか、自分の願い、あるいは希望と理念は、どこへ行こうとするのでしょうか。この問題を解決できなかったとしても、我々はいずれ行くべき運命に置かれているのです。
我々が生きて死ぬ日、この体は土に埋められて終わるのです。それなら、体が埋められるその日、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは希望までも共に埋められてしまうのでしょうか。ここに、内容と、解決点と、目的観を提示しておかなければなりません。
それで、行く歩みをつかまえて、動く心と傾く心情を妨げておいて、「お前はどこへ行くのか」と聞いてみて、これを解決しようと闘ってきた人たちが、聖賢、賢哲であり、数多くの道主たちです。彼らはそれを解決するために出てきたのですが、今まで「私の体はこのような所に行き、私の心と私の心情、私の生命と私の理念は、このような所に向かって走っていく。ゆえに、全天下に存在するすべての存在物は、ここに向かって行け!」と、自信をもって命令した人はいないのです。
(8-194, 1959.12.20)


宗教は、私的な欲望から出発したこの世の中が滅びるのを願います。公的な世界を、一つに統一された平和の世界を、数千年前から待ち望んできたのが宗教です。
では、宗教人は、どのように生きるべきでしょうか。自分たち夫婦だけでおもしろく生きることより、もっとおもしろく生きることができるのは、この歴史的距離を短縮させ、世界とつなげて、天宙とつなげて生きることです。そのような家庭が、解放された家庭なのです。また、その家庭は、絶対的な家庭にならざるを得ないのです。
明洞ミョンドンの街を歩いてみると、若い男女たちは仲むつまじいのです。それは誰のためにそうなのでしょうか。一度しかない若い青春時代を楽しむためだと言って、仲がいいというのです。では、その楽しむことにおいて、主人は誰でしょうか。これが深刻だというのです。皆さんは、いつまでも楽しむことができますか。20代から楽しく60、70、80歳と過ぎるようになれば、楽しいはずはないのです。
しかし、統一教会式は違います。食べるのも何のために食べますか。世界のために食べるのです。悪なる世界をなくすために食べるのです。見るのも、悪なる世界を討ち払うために見るのです。悪の側になるために見るのではなく、悪を討ち払うために見るのです。聞くのも、考えるのも、歩くのも、行動するのも、全部世の中と違います。
(36-72, 1970.11.15)
もし、人を、何日間かいていなくなる、そのような存在として創造したなら、ハナニムは絶対者ではありません。ハナニムは、人間を永遠に見ていたい、貴い存在として創造したのです。
人間がハナニムの喜び得る対象なのに、ハナニムが永遠であるなら、人間も永遠であるしかありません。そして、永遠なハナニムは、永遠の世の中を相手にするのです。
ところで、「80年生きればいいだろう。死んでしまえば終わりだ」という考えで、今まで生きてきた人たちがたくさんいます。しかし、歴史路程を通じて考えを深める人たちは、「どのようにすれば人が死なずに永生することができるのか、もっと生きることができる道はないか」という考えをもちました。志を抱いたことがある人であればあるほど、「人生とは何か。人間はなぜ生まれてから旅人のように逝くのか」と言い、「人生は苦海」とか、「草露の人生」とかと言いました。しかし、永生することができるなら、そのように悩む必要はないのです。
(39-229, 1971.1.15)


 

③ 死は人生必然の道

皆さんは、いつかは霊界に行かなければなりません。間違いなく霊界に行くのです。大韓民国に訪ねてくるのに、金浦キンポ空港に降りたからといって大韓民国に着いたわけではありません。金浦空港からどこへ行くのでしょうか。全羅南道チョルラナムドに行くか、慶尚南道キョンサンナムドに行くか、平安道ピョンアンドに行くのか。平安道に行って、またどこに行くのでしょうか。グンを訪ねなければなりません。また郡でもどこへ行くのでしょうか。ミョンを訪ねていかなければなりません。また面に行って、どこを訪ねていきますか。です。里でも、あるパンを訪ねていかなければなりません。簡単ではありません。自分の居所を確定づけられない人間たちが出世して、何をするのでしょうか。問題です。
ハナニムが霊界から呼び出し命令をすれば、ムン先生も、きょうは偉いとしても、あすの夜に連れていけば逝くのであって、他に方法がありません。どんなに大きなことを言っても、逝くのです。私が大きなことを言いながら逝くにあたっては、正しいことを言って逝くのです。国が行くべき道を提示しなければならず、世界が行くべき道を提示しなければなりません。誤ってやれば死ぬのです。
(177-42, 1988.5.15)

 

④ 生命の主人はハナニム

生命の起源は何でしょうか。「私」ではありません。生命の起源も「私」を超越したものでなければならず、目的も「私」を超越したものでなければなりません。「私」の生命は、父母や社会や民族、国家を通じて生まれたのではなく、それを超越した絶対者であるハナニムから始まったというべきです。動機を、絶対的な立場にある超越的な動機と結びつけなければなりません。時代的な因縁とか、環境的な因縁、あるいは社会的な与件に結びつけてはいけません。超越的な原因に結びつけ、超越的な目的に結びつけてこそ、飛躍して、超越して、脱出することができるのです。「私」の生命を超越的な動機に結びつけなければなりません。「私」の生命の出発は、「私」から始まったのではありません。
絶対者であられるハナニムから出発したのです。自分を超越的な動機に結びつけるようになれば、死んでも超越的な過程で、ハナニムのみ旨によって死ぬようになるのです。
(36-64, 1970.11.15)
人間は、何千年、何百年生きるのではありません。百年ほど生きて、みな死にます。数多くの歴史時代を経てきながら、多くの我々の先祖たちが死んでいきましたが、全体に良いこと、全体の利益を考えたなら、百年生きたことが、千年たってもそのまま残されたことでしょう。ところが、個人を中心として歩みながら、全部滅びました。全体を滅ぼしてしまうのです。
そのような人生の暮らしをしてきたために、問題が起きたのです。ここで一番問題になるのは何でしょうか。自分を中心としたすべての測定方向を、どのように全体測定方向に代替するか、自分第一主義を強調していたのを、全体の利益になるように、どのように投入するかということです。
それで、個人主義、自体の利益を追求する人生行路の出発を、ひっくり返さなければなりません。ひっくり返すには、ただそのまま、何もなくひっくり返してはいけません。


1着しかない服を着ているのに、これを誰かが脱がそうとすれば、死んでも脱ぐまいとするのです。春夏秋冬の服を持って、春に冬の服を着れば、春服を持っていき「これは冬の服だ、脱ぎなさい」と言い、夏に春服を着れば、夏の服を持っていって「脱ぎなさい」と言うべきなのです。そのようなことを知らなかったのです。代替し得る、より価値があるものが何かを知らなかったのです。
(200-91, 1990.2.24)
この地上には父母がいて、師がいて、親戚しんせきがいます。この地には、そのような因縁を結んでいくことができる道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。
霊界では、すべてハナニムを中心として全体のために生きるのです。位置がすべて区別されています。それゆえ、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行くことができるようになっています。一度あの世に入れば終わりです。どちらにせよ人間は死にます。
生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が80年だとすると、あまりにも短いのです。霊界の時間では8時間にもなりません。永遠の世界の時間で考えれば、8時間にもならないのです。ですから、まことの愛の力は偉大なのです。真の愛の速度は、我々が認識できないほど速いのです。
(205-65, 1990.7.7)

 

2) 死に対する理解

 

① 「亡くなる」という言葉の意味

間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界はあり、我々人間は、霊界から生まれたために、いずれ霊界に帰らざるを得ません。
韓国の言葉の中で、おもしろい言葉は「돌아간다トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは、亡くなることではありません。出発した本処に帰るということです。その出発が共同墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて帰るということです。
人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ということを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るというその道ではないのです。我々人類の先祖の根源の世界に帰るのです。それは何を言うのでしょうか。創造主がいらっしゃるなら、その創造主がいらっしゃる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るのです。
宇宙は、循環作用をします。山に積もっている雪が解けるようになれば、小さな渓谷を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入るようになれば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。
循環運動をします。帰ろうとすれば、どこに帰るのでしょうか。高くなれる所に、もっと良くなれる所に帰ることを願います。誰も小さくなることを願いません。しかし、すべての自然界の運動法則というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるのです。我々が何かを転がしてみても、それが永遠に転がらないのです。早く転がって、だんだん遅くなり停止するようになります。
(141-269, 1986.3.2)


 

② 我々が行くべき所

我々は、この世の中に暮らしていますが、この世の中だけがあるのではなく、霊界もあります。この世の中と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界としてつながっています。
では、我々が行くべき所、我々が行って暮らすべきその所とはどこでしょうか。もちろん我々は、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。一般の人たちは、世の中に生まれれば、10代、20代、30代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして、壮年時代に入るようになれば、だんだん一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るようになるのです。このように沈む日のように、一生を終えます。
しかし、霊界があるという事実を知る人たちは、一生はちょっとの間であり、死んだのちに我々が迎えるべき世界が永遠だということを知っています。ゆえに、一生は、永遠の世界への準備するための期間です。
(140-121, 1986.2.9)

 

③ 亡くなる日は貴い日

アダムが生まれた日と成婚の日、そして、亡くなった日を記念する、世界的な統一圏が形成されていたなら、そのような日々を記念する人類は、一つの兄弟になり、一つの民になったでしょう。すなわち、一つの世界に暮らす人間になることができたということです。そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は、人類歴史に継承されたであろうし、その時に形成された文化は、永遠に継承されたでしょう。
(31-231, 1970.6.4)

 

④ 二つの死

皆さんがいくら「死なない」と言っても、死ぬ時になれば死ぬのです。霊界に行く人にも種類があります。自分の寿命どおりに生きて行く人と、自分の寿命どおりに生きられずに行く人がいます。自分の寿命どおりに生きられずに行く人にも、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減とうげんするために早く死ぬ人がいます。
もしある町内で、屈指の若者が3人だけ死ぬようになれば、その町内には福が来るというのです。ある一族を例に挙げるなら、その一族から期待を受けた若者が、3人だけ死ぬようになれば、その一族には福が来るというのです。すなわち、蕩減を払わなければならないということです。どこでもそうなのです。因果法則はどこでも作用します。
ハナニムが、千人の価値をもった一つの存在を中心的な立場に立てて、代わって死の道を行かせたとき、千人がその人の恩徳の前に感動して、その人を慈しみ、その人の生涯を見習い、その人のように生きるというようになれば、その民族はその人のような恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の思想を見習おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入るためにそうするのです。


昨年も何人かが霊界に行きましたが、今年も何人かが霊界に行くでしょう。言いはしませんでしたが、先生は既にみな知っています。これはなぜそうなのでしょうか。1段階越えていくときには、必ず蕩減を払わなければならないためです。
(33-10, 1970.7.28)
この地上に生まれた人間たちの中には、希望をもって生きる人たちがいて、希望をもてずに生きる人たちがいます。しかし、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つがあります。我々は、生まれたその日から、母の懐の中が何よりも自分に一番いいものと思って育ちますが、母の懐を離れ友達と付き合うようになると、友達が一番いいものと思って過ごします。しかし、結局は友達とも別れてしまうのです。
それで、人間たちは、だんだん育ちながら、愛する父母も自分の希望の全体になれず、愛する夫婦も自分の希望の全体になれず、さらには、愛する子女も自分の希望の全体になれないのです。
人間たちは多くのことを希望しますが、その心が薄れてなくなってしまうのです。家庭に対する希望、あるいは国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢が高くなるに従って、その希望をもった心がだんだん弱くなっていくのです。
地上に生きている人間たちの中に、その希望を自分の全体の希望として誇り、自分の生命を失うことがあっても、それを離れては生きられないという確固たる信念をもって生きていく人は多くありません。人間は、そのように生きて、最後には死と戦って越えなければいけない運命に逢着ほうちゃくするようになります。
人間は、一生の間、すべての希望を抱いて生きますが、のちには死にぶつかり、自分が抱いていた希望をみな捨てたまま行ってしまうのです。きょうも生きることを願い、あすも生きることを願い、新しい希望を探してさまよっていますが、死にぶつかるようになるときには、希望をもてなかったまま、絶望しながら最後の道を行くのです。
人間が自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることができる希望をもてずにいます。そのような希望をもてなかったまま、消えています。これを人生の手本と思って死んでいくのでしょうか。そうでなければ、死もあざ笑って、一つの希望を探して行くのでしょうか。これが今日、地上に生きている人間たちが考えなければならない、重要な問題です。
今日、世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、世界あるいはどの主義も、みな過ぎ去ってしまいますが、最後に残されるものとは何でしょうか。死と戦って勝利することができる一つの希望です。我々にそのような希望がなければ、人生の敗北者です。


反面、生まれながら世の中の人たちが願う一切の希望を拒否し、人間的なものを一切拒否し、天の希望、永遠の希望を抱いて生きる群れがあります。
天は、人間的な希望を中心として生きている地上の人間をして、新しい希望をもって死の峠を越えることができ、永遠の世界を欽慕きんぼしながら生きることができるようにするために、無限に苦労されました。それゆえ、信仰生活をする人たちは、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立つことができる永遠の希望の世界を夢見て生活すべきなのです。
(6-44, 1959.3.22)

 

⑤ 死の意味

「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。では、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。生きようとする人は分かりません。死の窮地に入って、生死の岐路で、天にしがみついて人生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。
(74-243, 1974.12.31)
今日世の中には、睡眠薬のようなものを飲んで自殺する人がたくさんいます。それは、女性が多いですか、男性が多いですか。女性が多いのです。なぜ女性が多いのですか。女性は一方的にしか考えるすべを知りません。
男性はどんなに見劣りしても、あれこれと考えるすべを知っています。女性は決心が一つしかありませんが、男性はああだこうだと考えて、死にそうな道を避けていくのです。ですから、女性より男性に自殺が少ないのです。
(222-70, 1991.10.28)

 

⑥ 死は3世界を連結する過程

「私」もハナニムに似ようとし、そして「私」がハナニムの息子、娘であるなら、ハナニムも似させたいという観念をもつのは必然的です。ですから、「私」はハナニムに似たいし、ハナニムは「私」を連れていきたいのです。これを可能にし得る道を模索するでしょう。それで人は、再びハナニムと似ることができる体を着て生まれなければなりません。そのように生まれる日をハナニムも待ち望むのであり、人間も待ち望むでしょう。そのような人として生まれる日が必要です。それが何ですか。死です。
では人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはいけませんか。歓迎すべきです。死ぬのに、何のために死ぬのかというときに、「ハナニムのまことの愛のために死ぬ」と言うべきです。それゆえ肉身を脱ぐのは、無限のハナニムの愛の活動圏に自分が同参するためであり、ハナニムの愛の世界のためにそうするのです。
ハナニムの愛の中で生まれることが、死ぬことですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎするのです。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入し得る喜びを迎えることができる瞬間が、死ぬ瞬間です。ゆえに死ぬ瞬間が、第2の出生しゅっしょうの瞬間です。


そうであるなら、ハナニムは、皆さんの肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか。第2の無限の世界の愛のために活動する子女として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのでしょうか。皆さんが死の恐怖から解脱せずには、ハナニムと関係を結ぶことができないからです。
(116-172, 1982.1.1)
人は、蘇生そせい、長成、完成時代を経ます。腹中の水の世界、地上の地球ぼし世界、天上の空中世界で暮らします。言い換えれば、腹中の水の時代、地上に生まれて生きる100年の地の時代、飛んでいく空中時代、このように3時代を経ます。
(116-174, 1982.1.1)
人は生まれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水の中の時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水の中に浮いています。水の中で暮らすために、水を吸って送り出さなければならないので、赤ん坊はホースをおなかにつなげて生きるのです。
赤ん坊は、栄養分をどこから供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをばかにしてはいけません。「へそや、お前は昔苦労した」と言い、たたいてやれというのです。へそをたくさんたたいてやれば、健康になるのです。そのように運動しろというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になるのです。いくら寒い部屋で寝たとしても、へそだけよく覆いかぶせて寝れば下痢になりません。腹中では、皆さんの口はへそです。この息をする器官が、へそを踏んで上がるのです。その次の口は何ですか。この口です。絶えず上がるのです。
では、へそにつながった緒を、どのようにすべきでしょうか。切ってしまうべきです。同じです。空気の世の中では、霊人体が体にくっついて、胎児のように肉身を吸い取っているのです。そうして肉身が老いれば、捨てていくのです。胎児が生まれて、お母さん、お父さんの前に愛の対象になるように、霊人体が、霊的父である永遠のハナニムと相対することができる人として、再び生まれなければならないのは、原理原則です。
胎児が生まれて、お母さん、お父さんと友達になることができる所が、地上世界です。お母さん、お父さんと、愛を共にすることができる地上世界に生まれるのと同様に、霊的に無限の世界に通じることができる父母の代わりのハナニムと、愛を分かち合うことができる霊界に生まれなければなりません。
(299-69, 1999.2.4)
水の中の時代があり、陸地の時代があり、飛んでいく時代があります。今日、人間が飛んでいくのをどれほど待ちましたか。飛んでいくというなら、世界で一番の注目のまとになります。
(49-284, 1971.10.17)
地上で愛を呼吸する人は、死んだのではなく、生きているのです。腹中で呼吸するときは、パイプ装置を通じていました。生きていますが、へそにつながった胎盤を破壊して生まれ出るようになるときは、新しい次元、高い次元に上っていきます。高い次元で供給されるのです。空気を供給されて出てくるのです。
腹中から出て何を発展させるのでしょうか。空気ではなく愛です。愛の要素を受けるということです。御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べていれば、死んでいくのです。水を飲んで、皆このように生きるのは、全部袋、水袋です。全部死んでいくのです。それは、第2の存在です。地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
(139-214, 1986.1.31)


この地上で、皆さんに必要なものとは愛です。お母さんとお父さんの愛を受けられない子供を、なぜ「孤児」と言うのでしょうか。あの霊界と永遠につながり得る愛がないためです。それで、一人で独身暮らしをするのを、「かわいそうだ」と言います。
(139-214, 1986.1.31)
死ぬということは、第2の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、愛の要素を受け継ぐことです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育つのです。ですから、ハナニムの法則のとおりに、胎内で正常な赤ん坊として育つのと同様に、地上でもよく育たなければなりません。
(299-69, 1999.2.4)
とんぼが初め幼虫になって、水の中で泳ぎ回って、地上に上がってきてしばらくの間、はい回ります。その次には、ひらひらと飛び回り、地ではい回っているときには食べるだろうとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として、飛び回るのです。
昆虫類の中には、3段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫といえば、大概羽があります。昆虫も水で、陸地で、空中で暮らすのに、万物の霊長という我々人間に羽があるでしょうか。次元の高い羽があるのです。死が第2の出生しゅっしょうの、幸福なる関門です。
(299-71, 1999.2.4)
死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は、空気中において「胎内で泳ぎ回って暮らすこと」と同じです。空気というおくるみの中で、生きているのです。死ぬということは、特別なことではなく、第3の人生へと出生することです。その瞬間が、死ぬ瞬間です。
(49-286, 1971.10.17)

 

⑦ 死ぬ前にすべきこと

イ) 最後の境界線を越えよ
どちらにせよ、一生に一度は死にます。ですから、いくら恐ろしい暴風雨が吹きつけても、最後の峠を越えなければなりません。しっかりと進んでいるのに、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんは、このような境界線に立って何をするのでしょうか。皆さんは、統一教会によく入ってきました。皆さんの姿は、各自自分勝手な姿をしていますが、よく入ってきました。しかし、気をしっかりもって走っていっても最後まで行くかどうか分からないのに、慌てたなら、行く途中でやめてしまうのです。最後の決勝点まで行き、境界線を突破しなければ勝利者になることはできないのです。
人として生まれるのは、価値のあることです。後ろから反対し迫害したとしても、自分の行くべき道を行けばいいのです。人が反対しても、関与する余地がありません。1歩1歩運命の道を経ていこうとする人こそ、最後の境界線を越えることができるのです。皆さんは、そのように行かなければなりません。
(24-77, 1969.6.29)

 

ロ) 形状と心情と神性に見習え
我々は、いつか肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。それゆえ、この世に生まれた我々は、死を覚悟しなければなりません。また、善なる自己を永遠の世界に第二の自分として立てるためには、苦労をしなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれるのと同じように、この地上世界での生活は、腹中での生活と同様なのです。


それゆえ、ハナニムの形状を見習い、ハナニムの心情を見習い、ハナニムの聖なる神性を見習って育たなければなりません。育って、また生命を懸けて越えていかなければなりません。
(14-17, 1964.4.19)

 

ハ) 罪を犯すな
皆さんは、「心がまっすぐだ」という話をします。電信柱がまっすぐだというとき、一直線に立っていることを言います。心がまっすぐだというのも同様です。それで、人は立って歩くのです。垂直にならなければなりません。
自分の心を完全に垂直になるようにすべきです。そして体が水平線になるのです。遠心力と求心力がなければなりません。垂直から引いてくれる力と、回る力が均衡を取らなければならないのです。それゆえ、自分を探さなければなりません。
自分が「私だ」というときは、ハナニムが「そうだ」と言うべきであり、まことの父母が「そうだ」と言うべきなのです。その次に、親戚しんせき、一族、一国が正しいと言わなければならないのです。糾弾される者は、問題になります。これからは、大陸を中心として、寒帯地方と温帯地方を分けるのです。罪をたくさん犯した人は、北極に送るという時が来るでしょう。伝染病患者を隔離するようにするのです。
(202-280, 1990.5.25)

 

ニ) 世界のために生きて死ぬべし
先生は、アジア情勢や韓国民族を中心として苦労したのではありません。世界的な分野で、いかに責任を果たすか。そのためには、死をも辞さないのです。
このようなことを考えてみるとき、皆さんは世界のために生きて死ななければなりません。世界的でなければなりません。では、どのような立場で死ななければならないのでしょうか。世界的な立場に立って、愛する妻を抱き、家庭を抱き、宗族を抱き、民族を抱いて死ななければなりません。統一教会は、今、宗族を編成して、民族を編成していっています。
それゆえ統一教会の先生は、死んでも、どのような立場で死ぬのでしょうか。民族と大韓民国までそっくり抱いて、世界のために死ぬでしょう。韓民族が一つになって、世界のために死のうとするときは、世界と共に生き得る道があるために、その道を探していくのです。
(34-193, 1970.9.6)

 

ホ) 多くの仕事をせよ
皆さんは、どの版図で働くのでしょうか。お金が必要ならお金を稼ぎ、人がいなければ人を育て、そのためには寝食を忘れてやりなさいというのです。誰かに助けてくれと、絶対言うなというのです。本部にもそうせず、助ける側に回らなければなりません。普通の人の3倍以上をすべきです。
それゆえ、私が70年を生きたとしても210年生きるのと同じです。皆さんも100歳まで生きると思わずに、70歳まで生きても3倍働くようになれば、210歳まで生きることになります。10倍するようになれば、700年を生きるのです。20倍するようになれば、1400年を生きるのです。一生の間、24時間働くのです。そうしてこそ、霊界に行って実を結び、愛の所有が多くなるのです。愛の財産が多くなるのです。自分の所有が多くなって、活動舞台が広くなるのです。
(102-38, 1978.11.19)


ヘ) 公的な仕事をせよ
天の法度とは何でしょうか。公儀を優先することです。私的なことはサタンのものであり、公的なことはハナニムのものです。皆さんは、公儀のために行くべきです。そのような路程で、すべての人たちがいくら反対したとしても、そこで侵害を受けることなく、難しい道も生命力をもって行く人がいるなら、その人は春を迎える天国人になるでしょう。
(47-272, 1971.8.29)
皆さんが市場に行って見ても、店の主人が自分の欲ばかり張るようになれば、お客が物を買いに来ないのです。自分の欲ばかり張れば、誰でも嫌がります。公的な仕事や、私的な仕事を中心として見ても、治める方法と秘訣ひけつを知らない人は、一人もいません。それゆえ、「知らなかったので天国に行けなくなった」と言い訳をすることはできないのです。なぜでしょうか。公的か、私的かということは、教えてあげなくても分かるのです。
例えば、皆さんのお母さんが、皆さんのお姉さんや皆さんにおいしいもちを全く同じように分けてくれたとき、皆さんは自分の分をみな食べ、お姉さんは食べずに真心込めて保管しておいたとします。それを、寝てからそっと起きて、一人で食べようとすれば、心が「こいつ!」と言うでしょう。そのような気がしないなら、人ではありません。そうなるべきなのです。なぜでしょうか。皆さんの心は、公的なものを追求するためです。私的なことについていけば、滅びるのです。
本来、天法に従っていけば、自分自身が滅びるのを防備してくれ、保護してくれようとする心があるのです。本来あるものとは何でしょうか。これは、ハナニムに本来からそのような心があるので、人間にも本来からあるようになったのです。自分が作った法ではないというのです。「良心よ、私がこうだからこうだ」と、そう言いますか。「私の考えがそうなのでそうであるべきだ」と命令するとして、良心が作用しますか。どこだか分かりませんが、他の所から命令を受けるのです。そのような感情が、自分を支配するのを見るとき、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。
(31-241, 1970.6.4)
今日、人々は、自分の生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で、内外にひっくり返って行ったり来たりしたあげく、結局は私的におぼれる場合がたくさんあります。しかし、そのようになれば、滅びるのです。ですから、過去は私的な生活であったと悔い改め、再び公的な生活のために歯を食いしばって歩んでいかなければなりません。行ったり来たりしているうちに、私的な側に入り込むときが多くなり、公的な善とは遠ざかる生活を送りがちです。これが今までの信仰生活です。それゆえ、私的な生活をするすべての人たちは、悔い改めなければなりません。
(31-242, 1970.6.4)


皆さん、福を受けるのを願いますか。永生するのを願いますか。そうするには、公的な人にならなければなりません。子供を教育するのに、自分の息子、娘として愛するだけではいけないというのです。世界の人のための祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子供を懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球ぼしの人類を代表した母の立場で、人類を代表した幼い赤ん坊にお乳をあげるという心で飲ませなければなりません。そして、自分の子供だけかわいいといって対するのではなく、人の子も自分の子と同じだという心情で対する母になるべきです。そのような母のお乳を飲んで育つ赤ん坊たちは、必ず偉大な人になるでしょう。すぐには駄目でも、1代、2代を経ていく間に、必ずその子孫の中に、世界を支配し得る人物が誕生するでしょう。これは公式です。
(31-168, 1970.5.24)
では皆さんは、私的な蕩減とうげんのために自分の一生を投入しますか。そうでなければ、公的な蕩減のために自分の一生を投入しますか。一生を投入するのは同じですが、公的な蕩減のために公的な環境に一生を投入すると生命を懸けて立ち上がる人は、偉大な人物になるのです。そのような群れによって、新しい歴史は創建されるでしょう。
では、そのような瞬間を前にしている我々は、残った時をどのように埋めればいいのでしょうか。これが今から皆さんが行くべき試練の路程です。それで、自体の生活で、個人的な生活をするのか、公的な生活をするのかということが問題になります。自分自身の生活で、自分が何を食べて、何を買って売ってというすべてが、誰のためのものでしょうか。自分のためのものでしょうか、ハナニムのためのものでしょうか。また問題になるのは、それが公的な生活か、私的な生活かということです。そして、皆さんの感情が私的な感情か、公的な感情かということも問題になるのです。
公的な道を行くために誓うべきです。歴史を蕩減させるべき使命を負った人なら、誰でも願う立場まで進まなければなりません。それゆえに、生活の中で私的な感情を超越して、公的な感情をどのように体得するかという問題が、信仰者が重要視すべき問題です。
罪とは何でしょうか。罪は、私的な所から生じるのです。滅びるのも、私的な基準から始まるのです。悪も同様です。私的なことが度を超えるようになれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があり、その限界を超えれば、悪くなり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。
では、永遠に善であり、永遠に繁栄することができ、永遠に福を受けることができる立場とはどこでしょうか。滅びることを避け得る立場、罪となることを避け得る立場、悪くなることを避け得る立場とはどこでしょうか。それは、正に公的な立場です。御飯を食べても、公的な立場で食べなければなりません。仕事をしても、公的な仕事で、言葉を話しても公的な言葉で消化しなければなりません。このように、一切を公的なことと関連づけて暮らさなければなりません。そのような人は、地獄に行こうとしても行くことができないのです。
(31-164, 1970.5.24)


ト) 愛を体恤すべし
皆さんは、自らが「私だけだ!」と、自分だけを考えてはいけません。皆さんは、皆さん自身だけで存在しているのでしょうか。皆さんから、お父さんとお母さんの要素を抜き取り、供給されたあらゆる万物の元素を抜き取っていけば、皆さんはなくなります。それゆえ、「私」という存在とは何でしょうか。お母さん、お父さんに代わる立場です。お母さん、お父さんを通じて生じた腹中時代を経て、お母さん、お父さんの血と肉を受け継ぎ、供給されて生きるのです。
それで、今日地上時代には、「宇宙の母、万物の母」です。これが地です。地球星が母なのです。元素を皆さんに供給してくれます。他の段階の元素を供給してくれる母なのです。母の腹中で育つようになるときに、腹中で呼吸するのに、何で呼吸するでしょうか。へそで呼吸します。へそが母の体とつながったホースです。
しかしながら、第2世界、空気の世界につながっていることを知っています。腹中で暮らしたのちにそれをけって出てくれば破壊です。そのときは、泣くと同時に何につながるのかというと、気管、鼻の穴で息をするようになっている、空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。では鼻の穴をふさいで生きることができるでしょうか。息ができなければ死にます。二重構造になっています。
腹から空気の世界に出てくるときは、腹中世界で暮らしたへその緒と羊膜をみな破壊して出てこなければなりません。その器官、腹中のへそと胎盤は破壊されて死ぬのです。死ぬのと同時に、何が出てくるのでしょうか。この宇宙、地球星の母に現れるのです。こうして、口から元素を補給されて生きているのです。
腹中から出て、この体は何をすべきでしょうか。腹中でへその緒で息をしたのと同様に、空気のパイプである鼻の穴を備え、ぽんと生まれるときに、それに切り替えて息をするのです。そして、今、この世界ですべきこととは何でしょうか。生まれてからすべきことは、愛というものを体恤たいじゅつすることです。愛という空気を吸わなければなりません。お母さんから、お父さんから、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給され、経ていかなければなりません。一家庭に赤ん坊として生まれて、サインカーブと同じように、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて成長して、年を取って死ねば分解されていくのです。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。
そのようになるときは、どのようになるのでしょうか。第2の腹中世界をけってしまい、第3の愛の呼吸器官につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛をけってしまい、大宇宙のハナニムの本体に和した愛の世界に入ります。霊界は愛の空気でいっぱいに満ちています。
それゆえ、皆さんは今、この地上世界で愛の息をすることができるパイプの装置をしなければなりません。それゆえに、霊界の体験が必要であり、霊的な愛を感じることができ、呼吸することができる人になってこそ、死なないというのです。


この地球星という母の胎内を蹴り飛ばして進み出るとき、皆さんは愛の呼吸器官で息をするというのです。第3の愛をつないでこそ、永生を得るというのです。それで、愛をつなげてどこに帰るのでしょうか。ハナニムに帰るのです。愛の呼吸器官につながって、霊界に帰りますが、ハナニムの本体に帰る道が残っているのです。種が出たなら、それは本体から出たので、結果を結んで本体に帰らなければならないのです。
それゆえに、人生行路は、旅人の行路ですが、ここで備えるべきものとは何でしょうか。愛の体恤をして行かなければならないのです。父母の愛をよく受けられなかったのが堕落なので、真の父母の愛、真の兄弟の愛、真の夫婦の愛、真の息子、娘の愛を中心として、縦的な家庭を成して、横的な環境を、東西南北に多くの家庭を広めておかなければなりません。
それゆえ、彼らが縦横をつなげることができる真の家庭の形態をなして、宗族圏、民族圏、国家圏、世界圏につながるようにするとき、愛でつながったその世界を天国というのです。
(139-212, 1986.1.31)

 

⑧ 霊界に行く前に残すべきこと

イ) 愛の墓を残すべし
普遍的に人は永生を中心として十年、百年だけでなく、千年、万年、億千万年を考えるようになります。人が死ねば、動物と同様ですが、それを残して何をするでしょうか。このごろは、宗教を信じないで、ハナニムを知らない人も、「ああ、名誉を残さなければならない」と言いますが、その名誉を残して何をするのでしょうか。アメリカの愛国者になって、記念館に入っていても、アメリカが滅びるようになるときは、消えるのです。名前を残して何をするのでしょうか。ですから、滅びたり繁栄したりする歴史時代に残ったとしても、良いというものも、悪く扱われるのです。
(103-16, 1979.1.28)
地上に生きているハナニムの息子、娘を残すことがハナニムの目的です。それゆえ、自分が霊界のハナニムの前に行っても、地上に生きたハナニムの息子、娘を残す立場になるときは、自分もハナニムと同じ立場に立つようになるのです。それが聖書の「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」というみことばの意味です。
(146-223, 1986.3.11)
生涯に何をすべきなのでしょうか。愛の墓を残すべきです。愛の墓を残していこう! 愛の墓の中で暮らせば、ハンがありません。墓のような所で、いくらじっと暮らしても、愛の中で暮らせば恨がないのです。我々が暮らしながら愛の墓を残せば、人生は永遠において成功するのです。そのように皆さんが暮らして死ぬときは、霊界でハナニムが息子、娘を連れて歓迎しに出てくるでしょう。そのときには、指輪をはめられなかった手なら、天国のダイヤモンドをはめてくれるだろうし、服を着れなかったなら、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれるでしょう。
(97-169, 1978.3.12)


ロ) 霊界の所有権は伝道で決定
霊界での自分の所有権とは何かというと、天国の民をどれほど連れていったかということです。それが自分の財産です。永遠の財産です。今からは、それを問いただすべき時が来ました。1日に何百万が伝道される時が来ます。統一教会には、そのようなすごい内容があるのです。世の中を見てください。今、死ぬとか生きるとか、人生とは何かとか、宙に浮いたようにさまよいながら、落ち着くことができず、狂ったようになって自殺する人がどれほどたくさんいますか。
(218-227, 1991.8.19)
霊界に行けば、愛の懐が大きいほど、その懐に入ろうと列をなすようになります。その人は、あの世で尊敬されるのです。千人、万人に囲まれて、「あ! この人と一緒に暮らしたい」という声を聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。あの世の金持ちは、どんな人でしょうか。愛のために投入した人が金持ちなのです。
伝道とは福を集めることです。愛の福を集めるのです。天のものを奪っていったサタン世界のどろぼうたちに、主人が愛をもって訪ねていくのです。お前のお母さん、お父さんを私がもっと愛するという、愛の心で訪ねていき、愛に因縁づけられたすべての福を取り入れるということです。
冷遇を受けるとしても滅びるのではありません。その後ろには数限りない聖徒が従い、万物がついてくるのです。ついてくるから、自然に金持ちになるのです。
(205-347, 1990.10.2)
霊界に入っていくとき、お金を持って行くのではありません。サタンの息子、娘を収拾すべきです。一人が120人以上収拾しなければなりません。天国の民をみな失いました。それを接ぎ木して、失わなかったという条件を立てなければならないのです。
霊界の12の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから天の民を取り戻さなければなりません。そうするためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造のまことの愛の心情を中心として、サタンの父母以上、サタンの夫と妻以上、息子、娘以上の心情を投入して、涙と血と汗とともに交差する過程を経ずしては、天国の自分の民を所有することはできません。この数に比例して、あの世の栄光の立場に、ハナニムに近づく条件が成立します。
(211-352, 1991.1.1)
これから、霊界に行くとき、何をもっていくかというと、お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。これから皆さんがすべきこととは何でしょうか。ハナニムが愛し得る息子、娘を、どれくらいたくさんつくるかということが問題です。人々が赤ん坊を生むとしても、何人かしか生むことができません。それは、誰もができることです。
復帰過程で経ていくべきこととは何でしょうか。皆さんがサタン世界で、ハナニムが愛することができる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功労は先祖とつながって、また、先祖を解放させることができるのです。これが復帰路程において、自分が取ることができる最大の贈り物です。


いくら教区長をしたといっても、信仰の息子、娘がいなければ、あの世に行くとき、手ぶらで行くのです。自分を中心として一人もぶら下がっていないために、そうなのです。
天国は、無限の世界なのに、そこでは愛の心情でつながることができる橋がなければならないのです。それゆえ、自分が伝道した人が世の中にたくさん広がっていれば、霊界に行っては、それだけ広く往来することができる道が生じるのです。全部が自分と因縁を結ぼうとします。
地で解いてあの世に行くようになれば、霊界で解くことができる相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になるのです。それが全部、自分の所有になるのです。それゆえ、自分が活動する舞台は、その基準を中心として全霊界に通じることができるのです。それがなくなれば、コーナーに追い込まれて活動するのが難しいのです。ですから、歳月を送りながら休む間がありません。
御飯を食べて暮らし、息子、娘を食べさせて育てることは、あの世に行くようになれば大したことではありません。それゆえ、天国の民を訪ねていかなければならないのです。それが天国では自分の所有になるのです。
それゆえ我々が、早く世界人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、霊界のすべての霊たちも再臨復活していくようになっています。今、長子権がサタンの基盤ですが、ハナニムの基盤として逆さまになれば、アダムが長子権をもてば、天使長はアダムの言うことを聞いて、ついてくるようになっています。絶対服従する位置に行くようになれば、ハナニムの愛とともに、アダムの愛の圏内にあるために、自然に天国に入るのです。原理がそうなのです。
地上で人間が、この責任を果たせないことによって、裏返しになったために、人間がすべきことは、裏返したものを再び解かなければならないのです。蕩減とうげん復帰して、道を開いてあげなければなりません。ですから、伝道という仕事がどれほどとてつもないことかを知るべきです。それゆえ、自分が何人を永生圏内に受け付けさせるかが問題です。統一教会という看板をつけていても、何の役にも立ちません。実がなければなりません。
エス様がエルサレムに上ったとき、いちじくの木に実があると思って行ってみたのに、実がなくて、それをのろうことによって、いちじくの木が枯れて死んだのです。ちょうどそのようになるのです。うわべだけ良くてどうしますか。それゆえ、自分が祝福家庭を何家庭つくったかということが、皆さんの収穫になるのです。
120人、何百人を伝道しなければなりません。それもできずに、自分の息子、娘を愛するというのはあり得ません。原理を見ると、120人を伝道しなければなりません。120数は、イエス様の世界国家を代表したものです。430家庭は、一つの国を中心として、その中にある姓氏(名字)と同じです。4300年を中心とした430家庭です。それはすべての姓氏と同じであり、国民が天国に入れる門を開いておいたのです。門を開いておいたのであって、入ったのではありません。


これは、空論ではありません。理論です。歳月を無為に送るなというのです。青春時代に息子、娘を生んで、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのと同じです。また、その子供たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇ることができるのです。そのような歴史に対して、誇り得る実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国には入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残り得る実績がなければなりません。
それゆえ、誰でも国に何かを残すのを願い、世界に何かを残すのを願い、天地に何かを残すのを願うのです。同様な道理です。それゆえ、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念を確実にもたなければなりません。それゆえ、み旨の道で「嫌だから辞める」と考えることはできません。
先生が監獄に入って苦労を一人でしたとしても、その責任をもつということは何のためでしょうか。その環境で、苦労する人たちを救ってあげるということです。苦労する環境で、自分たちが利益になり得るなら、ついてくるのです。ついてくることによって、収穫になるのです。霊界に行くとき、これを全部公的なものとしてもてなされるために、その人は天国の一番高い位置に行くのです。
国民教育をよくすれば、その国が繁栄するのです。同様の道理です。天国の生命圏を中心として、これをどれほど悟らせて、精神を正して、自分以上の息子、娘として残し得るかということが問題です。そのようになるとき、世界は早いうちに復帰されます。それゆえ、精誠を尽くして育てなければなりません。
先生もそうです。先生が今までみことばを語るようになれば、5時間、6時間ずつしますが、そのようにしたくてするのではありません。その骨子は簡単です。15分話す内容にもなりません。しかし、それを中心として多方面の人たちに、来たすべての人たちに、いろいろな例を挙げて分かりやすく説明して、その人たちをその圏内に共に同参させようとしてそうするのです。目的は、春が来るようになれば、何としてでも種をたくさんこうということです。種をたくさん蒔いておけば、たくさん生えるのです。
では、種を蒔くには、どこに蒔かなければならないのでしょうか。処女地に蒔こうとすべきです。処女地とはどこでしょうか。青少年たちです。分かりますか。その時、一度植えておけば、一生もつのです。その時、一度植えておけば、抜いてしまうことができません。
人は、どの時が一番鋭敏でしょうか。小学校の時が一番そうなのです。中高等学校に行けば、だんだん希薄になるのです。大学に入ると、隣町をただ素通りするようなものです。あたかも旅行(休暇)に来て何かをしているような感じです。一番難しいのが小学校の時です。その次に中高等学校の時です。時がたつほど、だんだん薄らぐようになります。ですから、その時に生命の種を蒔かなければならないのです。
日曜学校で子供たちと遊びながら、童謡も教えてあげ、話もしてあげれば、それが自分の将来のための永遠な財産を積むことになるのです。年取った人たちも、会いさえすればみ言をあかすのです。統一教会の指導者たちは、このようなことがよくできていません。


バスに乗る場合には、10人に、どこに行くのかと聞きながら、親しくなり、もう一度会って話をしようと言って、また会えば「原理」のみ言を伝えるのです。いくらでも伝道することができるのです。材料はいくらでもあるのです。伝道しようとするなら、自家用車に乗って回るよりも、バスや地下鉄に乗って回るのが良いのです。通勤時間に一つのコースだけ行っても1年12ヵ月を毎日通ってみると、顔が分かるようになります。ですから、あいさつするようになれば、互いが受け答えできる人脈がつながり得るのです。そのような道が通じているのに、なぜ歳月だけ送るのかというのです。
御飯を食べることよりも重要なことが、天国の民を刈り入れることです。それが我々には、うまくいっていないのです。それが本職です。この地上に生きる我々の本業です。生涯にすべきことの中で、それ以上貴いものはありません。就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、みな流れていくのです。あの世で、お金は何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要でなく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かるのです。1週間以内に、何でもみな通じるのです。
そして、あの世では、権力が必要ありません。霊界で必要なのは愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。それゆえ、愛を中心として感化力をもてなかった人は、愛で感化され得る本然の世界に行ったら、本質的に和合できず、反発するのです。それは地獄に行くのです。
皆さんは、今まで統一教会に入ってきて暮らしながら、仕事をすると言いますが、どの立場で仕事をしたかを考えなければなりません。方向がどこで、位置がどんな立場なのかをいつも考えなければなりません。そのようになって、祈祷すれば、ハナニムが自分と共にあるというのです。それは目をつぶっただけで分かります。祈祷をしなくても分かるのです。どこかに行って話せば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人に行けば、自分がすっと引かれて入っていくのです。
全部が相対的です。花も、自分と相対し得るものを引っ張る力があるのです。自分の主体や対象になれば、引っ張るのです。初めて会ったといって、相手にならないのではありません。磁石がそうです。その本質は、永遠に不変です。それと同じように、そのような所に行くようになれば、心がうれしく、言いたくなるのです。その境地に入れば、話すまいとしても口が開くのです。
皆さんが、これからあの世に行って、復帰歴史をされるハナニムの前に、一人のアダムを探すために、今まで苦労したハナニムの前に行って、何と言うのでしょうか。ハナニムは創世以後、今までアダム完成者を探してきました。そして皆さんは、「原理」を知りました。これは数千、数万の民を救うことができる武器です。今までハナニムが人間に教えることができず、知らないうちに摂理されました。それに代わって、地上でハナニム以上に我々が仕事をするのです。我々には「原理」で数百、数千のアダムを教化して連れていくことができる道があります。


ですから、生命とつなげなければなりません。永生問題は、深刻なことです。春になれば、娘たちが山菜を摘みに回るのと同様に、自分が要求するものがどこにあるかを探し回るのと同様に、皆さんは一生をそのように生きていかなければなりません。そうして、相手が現れれば、夜通しで彼のために「原理」のみことばを伝えてあげるという心をもたなければならないのです。一度会って感動を与えるためには、精誠を尽くさなければなりません。
皆さんがすべきことは、天国に連れていくことができる息子、娘を探すことしかありません。いくら億千万の金をもって、豊かに暮らしても、それはみな流れていくのです。自分のすべての物質と知識と生命まで投入してでも、しなければなりません。それを別々に投入するのではなく、一遍に投入して天国の民をつくろうとしなければならないのです。投入する全体が加重するに従って、その価値は比例していくのです。
ここの統一教会の長という人たち、肩に力を入れて誇り、そのように考えるかもしれませんが、恥ずかしいことです。自分を中心として、いくつの生命を救ったかが問題です。
皆さんが、どれほど永遠に天の前に功績を褒めたたえられるかということは、どれほど天国の民を収穫して刈り入れたかという問題にかかっているのです。それを刈り入れるすきが今まではありませんでした。知らないからできなかったのです。ですが、皆さんには背負子しょいこがあります。熱烈にみ言を伝えるようになれば、爆発的な収穫を収めることができるのです。しかし、そのような内的な実力をもちながらも、ただ歳月を送っているので、ハナニムが雷を落としたいはずです。
夜12時が問題ではありません。明け方が問題ではありません。夜も昼もそれが問題ではないのです。天は、それを受け入れるのを願いますが、「ああ、私は眠りたいです」とは言えません。その立場は直行する立場です。
永生問題を教えてあげなければなりません。これからは、皆さんが責任をもたなければなりません。それゆえ、今まで私は、統一教会に反対する人をのろうことができませんでした。天は、自分と関係を結び、決定づけるのを願うのに、その人が落ちれば、我々の統一教会の責任だというのです。先生が責任を取らなければなりません。サタンによって、世の中が反対するようになりましたが、その反対される環境を早く克服すべきことが、我々の責任なのです。それができないことによって、被害を受けるすべての環境は悲惨なのです。
それは、赤ん坊にお乳を飲ませるのと同じです。赤ん坊を生めば、お乳を飲ませなければなりません。それゆえ、会いに訪ねてくるのです。訪ねてくれば、絶対冷遇してはいけません。先生も一生をそのように暮らしています。誰かが夜12時にここに入ってきても、その人が行きたいと思わなければ、自分が座り続けるのであって、「行け」とは言いません。その人は、必要なものがあるために行きたくないのです。それなら、み言を語ってあげなければなりません。先生は一生をそのように暮らすのです。絶対事務的ではありません。霊界はいつも目覚めています。


皆さん、統一教会員同士けんかをし、一人でも落ちれば、その被害は大きいのです。その人がこれからみ旨を知って、天の前に自分の責任を果たすとき、何千人、何万人を救うことができる、自分より優秀であり得る、驚くべきこともあり得るのです。ですから、人事措置を誤れば、全部引っ掛かるのです。それゆえ、自分が低い所にいて、みな高い所に置こうとすれば、引っ掛かる所がありません。それが謙遜けんそんだというのです。
しかし、誤れば下がります。夜に妻と子供たちがいる部屋に入るとき、父として責任をもち、夫として責任をもたなければなりません。夫が正しくすれば、あの世で妻が自分についてくるのです。もちろん、その父の家に入るためには、訓練過程がありますが、ただそのまま行くことができれば早いのです。あの世は、許しのない世界です。その世界に拍子を合わせるために、今、準備をするのです。
そのことのためには、食事を抜いてもしなければならないのです。「御飯を食べてきてからしよう」と言ってはいけません。今、ダイナマイトの導火線に火がついて、爆発しそうなのに、御飯を食べてはできないのです。深刻なのです。それゆえ、永生問題をどのようにつなげるかということが問題です。
電気でいえば、全部送電所を経て、配線器具につながってこそ明かりがつくのと同じです。発電所の電気がここに来ているのです。つながってこそ残ります。
それで、信仰の子女を自分の息子、娘よりももっと愛し、信仰の子女は、信仰の父母を、自分を生んだ母よりももっと大切にしなければならないのです。自分を生んでくれたのはサタン世界の父母ですが、信仰の父母は、天の世界の父母なので、自分を生んでくれた母よりももっと大切にしなければなりません。そして、信仰の子女たちはみな、自分を救ってくれた人の子供を精誠を込めて育て、結婚させてあげるべき責任があるのです。み旨がそうなのです。ですから、その子供たちを全部育ててあげなければなりません。
それゆえ、永生問題とつなげなければ、すべてが無駄です。彼らがみ言を聞いたとして終わるのではありません。催促し、催促して、祝福の場にまで出させなければなりません。祝福を受けなければならないのです。それで、祝福を受けて伝道するようになれば、それは自然につながるのです。難しい環境のサタン世界で、迫害を超えていくことができれば、その人は、既に命の道に入るのです。祝福を受けるところまで行けば、終わるのです。
そして説教をしても、「私」というものが生きていてはいけないのです。血と汗を流しながら、話さなければならないのです。出産の苦労をしなければなりません。涙を流しながらしなければなりません。皆さんの目から涙が乾くようになれば、それは偽者です。
(230-25, 1992.4.15)

 

ハ) 息子、娘をたくさん生むべき理由
統一教会の人たちで、ハナニムを知らない人はいません。霊界を信じます。愛から始まって、ハナニムから分かれて出てきて、結局はハナニムに帰る路程です。


霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。愛は一体だといいます。女性の中をのぞいてみれば、男性が入っています。ハナニムの二性性相と全く同じです。性相と形状、それが分かれて出てきたために、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まったために、このはしごに乗って入らなければなりません。結局終着点は、ハナニムと共にあるのです。
霊界では赤ん坊を生みません。霊界は縦的な世界です。ハナニムを中心として円形を成した世界なので、赤ん坊を生む必要がないのです。横的な基盤が必要であるために、人間を、体として造ったのです。繁殖する畑です。霊界の民は、全部この地球から行くのです。このように考えてみれば、今、産児制限をなぜすべきなのか分かりますか。それは、天命によるものです。悪なる血統をこれ以上繁殖させるなというのです。
統一教会の祝福家庭は、どれほど天国の国民を繁殖させるかということが財産です。信仰の息子、娘より、自分が生んだ息子、娘がもっと価値があるのです。信仰の息子、娘は、祝福という関係を知りません。そのような息子、娘をどれほど残していくかによって、天国で自分の位置が決定されるのです。
(205-99, 1990.7.7)
完成は地上でするのであって、霊界でするのではありません。地上で真の愛を中心として、可能なのです。霊界ではありません。それゆえ息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民になるのです。皆さんの息子、娘が、理想的な天国の民になるのです。ですから、皆さんは息子、娘をたくさん生まなければなりません。本来は12方向以上にならなければなりません。それで、先生が12方向以上を願います。
(217-130, 1991.5.12)
息子、娘がいなければ、天国が繁栄しません。ですから祝福家庭たちは、地上で産児制限してはいけません。飢えて死んでも、全部霊界に行きます。飢えて死んでも、愛の中で飢えて死ねば、天国に行くのです。
それゆえ、サタン世界は産児制限しますが、統一教会では産児制限をしてはいけません。先生がみ旨のために苦労しましたが、飢え死にはしませんでした。飢えて死ぬような場に行っても、生きることができるのです。そのような訓練が、すべてなされているのです。絶対的な愛のために、すべてを犠牲にするようになるとき、ハナニムも調節することができ、サタン世界も調節することができ、天運も調節することができるのです。調節するのは何でしょうか。ハナニムがついてくるということです。ハナニムがついてきて、この世界がついてきて、天運がついてくるのです。
(201-133, 1990.3.27)
皆さんは、地上で子女を立派に育てて残していかなければなりません。将来、その子女はすべて霊界に行くのです。霊界に行って、天国の国民になるのです。自分が何人を天国の国民として捧げたかというとき、地上ではつらいことでしたが、永遠の世界では、それが高貴な栄光の道になるのです。


地上では、教育とか、食べさせることの問題で、とても苦労します。しかし、霊界では、食べるものは問題ありません。着ることは問題ありません。暮らすことは問題ありません。できるだけ多くいればいいと思うのです。
(218-319, 1991.8.22)
霊界に行けば、繁殖がないのです。ハナニムは、縦的な父母の立場でいるために、一点しかないのです。
(221-204, 1991.10.24)
ハナニムがすることとは何でしょうか。世の中を救うことです。霊界に行ったすべての次元の高い人たちの仕事とは、地の仕事です。地とはどんな所でしょうか。天国の国民を生産する生産工場です。広大無辺な天国です。
一人が子供を約100人ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということはありません。あの世は、いくらでも収容できる世界です。産児制限してはいけません。あの世に行けば、天国の民を、どれくらいつくって率いてくるかといことが問題になります。真なる天国の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自分の権益になり、天上世界で表彰され得る等級の等差を設定し得る資料になるというのです。
(202-40, 1990.5.1)

 

⑨ 死の前での姿勢

エス様がみな教えてくれました。「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と教えてくれました。世の中に、そのようなでたらめな言葉がどこにあるでしょうか。そのような言葉はありません。しかし、その言葉は事実です。
では、死ぬのはなぜ死ぬのでしょうか。死ぬ目的とは何でしょうか。生きるためにです。生きるにも何か目的があるのです。生きていく人間の目的は、全部違います。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22:37)というのは、何のためでしょうか。ハナニムの息子になるためです。ハナニムを愛するために、首を差し出せということです。その首が一つしかないのに、差し出せというのです。
どこに行って死ぬべきでしょうか。あのどん底に行って死ぬのではなく、最高の立場で死ななければなりません。それゆえ、天国を中心として死ぬべきです。天国は世界のどの国よりも大きいのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。では、どこで死にますか。これが問題です。死ぬのにも方法があるのです。
死ぬのにも場所があるのです。つまらない韓国的なものをもってしてはいけません。韓国的なものをもってしては、いくら死んでも駄目なのです。最高の立場、ハナニムの心情の国を中心とした、最高の立場で死ぬべきです。天国の真ん中で死ぬべきなのです。その天国が一番です。天下が、旗を掲げて歓迎する立場で死ぬべきです。
(34-185, 1970.9.6)


今日、我々は最後の復活の1日、希望の1日を願っています。すべての人が願っている、その希望の時は、万民が楽しむことができる希望の時とはいえ、その時はたやすく近づいてくるものではありません。そして、その希望は、死に勝った者だけが所有することができます。その希望は、ハナニムと共に、サタンと戦った者だけが占有するでしょう。その希望は、天のために、ハナニムと共に迫害を受けた者であってこそ、占有するでしょう。
このような時が、我々の前に来るということを考えるとき、この生活環境を乗り越え、死の恐怖までも乗り越えることができる切なる心をもたなければなりません。そのような切なる心が、皆さんからわき出なければ、その希望の1日を皆さんの生活圏内に引き込んで暮らしていくことができないのです。
それゆえ、まことの生活をするという人は、「私はどんな姿で死のうか」ということを考えるのです。80年生きてから死ぬその時になって、「私はどんな姿で最後の1日を飾ろうか」と考えてはいけないのです。イエス様は死の場に行って「すべてが終わった」、「父よ、私の霊をお受けください」と言いました。やはりあの方は、人生行路に勝利された方でした。
皆さんは、これからある1日に死ぬようになります。そして死を前にして過去を回顧しながら、そのとき、どのような一言の言葉を残して行くか、ということを考えなければなりません。
この道は、友達もいないのです。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行くべき道です。再び行ってみることもできず、行って帰ってくることもできず、一度行けば永遠に帰ってくることができない道です。このような道を行くようになるとき、皆さんはどのような心をもって行くのでしょうか。皆さんが死に逢着ほうちゃくするその瞬間に、その死を乗り越えることができる希望がなければ、そこで終わりです。
今日までハナニムのみ旨を奉じて、ハナニムのみ旨を立てて歩んできた数多くの人たちは、どのような人たちかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と乗り越えた人たちでした。そのような人たちが、天の道を立ててきました。
皆さんは、死に逢着するようになっても、それを乗り越えることができる希望を抱かなければなりません。そして、この道を越えてしまえば、自分は天の前に堂々と立つようになるだろうという希望と、心であこがれた本郷に向かって、喜びで走ることができなければなりません。ハナニムの理想世界を希望する心が切実であってこそ、死に勝つことができる存在になるということです。
世の中の万事は、みな過ぎ去ってしまいます。愛する父母、愛する妻、愛するすべては、みな過ぎ去って、あとには死の前に逢着するようになります。しかし、その死までも過ぎ去ってしまうようになる勝利的な希望をもった人であってこそ、天の前に立つことができます。


今日、地上に生きている人間たちは、苦痛の道や悲しみの道を願いません。ある喜びの場面があれば、その喜びの場面が過ぎ去るのを惜しく思い、懐かしむのが人間の心性です。
我々が生きているこの地は、悲しみと喜びがひっくり返っている世の中です。我々が楽しんでいるこのすべての喜びは、死とともに消え去る喜び、すなわち死を越えて残り得る喜びになり得ないというのです。
では、悲しみが死とともに消え去り、楽しみも死とともに消え去れば、人間が喜びを探して、もっと良いものを願い、永遠の世界に憧れるその心も、死とともに終わるのでしょうか。違います。心がそのような方向に動き、心情がそのような方向に動くということは、そのような世界が実際にあるという証拠です。
人間は、霊的な存在であるゆえに、その生命は永遠です。天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行った人がいれば、彼は普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったのです。そうなったので、死の道も行くことができたというのです。
皆さんの憧れることが、現実生活でぶつかるどんな逆境と困難と悲しみ、あるいは死よりも、もっと強くなれなければ、皆さんは死の前で後悔する者であり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれないということです。イエス様が死の峠を越え、永遠の世界に行かれたので、復活の世界を建設されたので、今日我々も、いずれ死の峠を越えなければならない運命に置かれているのです。
では、天の希望を抱いて生きる人は、どんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで乗り越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱く者です。それゆえ、皆さんは死を前にして、世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、天の前に立って自分の死の価値を誇り得る人になるべきです。天は、このような希望の息子、娘たちを探していらっしゃいます。このような立場に立って、天の喜びを感じた人がいるならば、彼はハナニムが愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。
そのような立場で天に対して泣き叫ぶ群れがいるとしたら、天がその叫びに答えまいとしても答えざるを得ないのです。
(6-53, 1959.3.22)
み旨のために、「死なんとする人は生き、生きんとする人は死なん」というこの言葉はどういう意味でしょうか。み旨のために死ぬべき立場では、死ななければならないのです。
では、死ねばどのようになるのでしょうか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだのちにはハナニムのものになります。それは、我々が堕落した血統を受けたためです。それゆえ、死ぬ前までは、我々の生命が、サタン側の因縁を逃れられないのです。しかし、死んだのちには、ハナニムと因縁が結ばれるのです。


生命と死について見るとき、どちらが強いでしょうか。死より生命がもっと強いでしょうか。生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。それゆえ、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬのを嫌がってはいけないのです。サタン世界では、いずれ死ななければなりません。死ななくては、復活することができません。一つの時代が過ぎなければ、他の時代を迎えることはできないのです。
では、聖書でいう、「死」とは何をいうのでしょうか。ハナニムが、永遠にもつことができる生命を殺せというのではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せというのです。ですから、み旨のために死のうとする人は、生きるのです。この言葉は、逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰ができないのです。これは、復帰の正常な論法です。
それゆえ、生命を差し出すことができるかというのが、最も大きな問題です。先生がこの道を出発するとき、生命を差し出すことができる覚悟ができているかを考えました。
先生は、死ぬ覚悟をしました。死ぬとき、どのように死ぬかも考えました。そうしながら、死ぬ時は、どんな言葉を残して行くのかを考えました。どのようにすれば生きるかを考えたのではありません。
大韓民国を中心として、役事しなければならないために、死ぬ立場を訪ねていったのです。死ぬ立場とは、どこでしょうか。怨讐おんしゅうと対決する立場、すなわち怨讐を訪ねていったのです。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤が、サタン側に回ったために、それを探すためにサタンの巣窟そうくつである北朝鮮に行ったのです。
先生が、今後の世界的な共産党と戦わなければならないために、それのために北朝鮮を訪ねていったのです。手錠をかけて牢屋の身になるのを覚悟して、不倶戴天ふぐたいてんの敵の国を訪ねていったのです。いくら暴悪ぼうあくな試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくら極限の飢えの立場でも、ハナニムの威信を失いませんでした。組織的な生活圏内で、いくらつつかれる生活をしても、天の法度に背きませんでした。
先生は、すべてのことが拘束されても、その拘束される基準で、すべてを探すことができ、さらにハナニムの前に新しい出発の動機と、新しい生きがいを探してきました。そのようにして出発したのです。先生は、ありとあらゆる重労働をする立場に入っても「私は負けない、他の人はみな死んでも私は死なない」という信念をもってきたのです。
統一教会は、生きようとする所から出発したのではなく、死のうとする所から出発したのです。しかし、皆さんは統一教会のみ旨を知ってから、死を覚悟しましたか。自由党時代の特務隊長金昌龍キムチャンヨン殺害事件の首謀者である、許大領ホテリョン(大佐)が死刑を受けるときに、「今回のことを計画して指示した者としてハンがないか」と聞くと、彼は「何の恨もない」と言いながら男らしく死んでいきました。そのような殺害事件や銃殺事件が起これば、それを自分と比較してみなさいというのです。比較してみながら、自分は果たしてどのように死ぬだろうかと考えなさいというのです。


怨讐の謀略で、国家の大反逆者として追い込まれて死ぬこともあるでしょうし、同志の妨害や、友達の妨害、あるいは愛する人の妨害など、いろいろなことによって死ぬこともあるでしょう。しかし、死ぬときには、世の中のためになる心で死ななければなりません。恨みを抱かずに死ななければならないのです。いずれ死ぬからには、恨みを抱かずに何かを植えておいて死ななければならないのです。怨讐を怨讐ではない友達として愛しながら死のうということです。そのような意味から見るとき、イエス様が十字架上で怨讐のために祈ったのは、偉大なことです。
(34-47, 1970.8.29)

 

⑩ 霊界に入るとき

イ) 死が差し迫ったとき
人生の勝敗は、何十年の期間によって決定されるのではありません。それは一瞬に決定されるのです。
我々の人生について見ても、皆さんが生まれるその瞬間は、長い時間ではありません。もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の10ヵ月という期間は、出生しゅっしょうする一瞬のための準備期間です。ところが、10ヵ月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎えるようになるのです。
10ヵ月の期間を安全な生命体として絶えず育ててきたのは、生まれるその一瞬を飾るためです。言い換えれば、出生を望む目的の一瞬のために、腹中時代があるのです。それゆえ、腹中時代がいくら立派だったとしても、生まれる一瞬に誤るようになれば、非運の結果を迎えるようになります。
(31-185, 1970.5.31)
この地上に生まれて、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔いる人がいるなら、その人の心には、過去のすべての事実が、映像として過ぎていくでしょう。これこれこういう人だということを、誰が教えてくれなくても、自ら分かるでしょう。先祖から受け継いだ生命体をもって、今まで因縁づいた環境と、残しておいた事情など、過去のすべてが一生の最期の瞬間に、自分の心に映像として現れるでしょう。
その中で、「まことがあった、自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるなら、彼はたとえこの地に生まれて死んでも、甲斐かいのある一時を残す人になるでしょう。しかし、「生まれて死ぬこの一生の行路が、通行人のようにただ通り過ぎるものだった」という人もいるのです。そのような人のすべての過去の事情を回想してみるとき、そのすべての事情が、頭を振って回想したくない過去をもったなら、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のすべての問題が理想に浸ることができるなら、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。


このようなことを見るとき、過去を回想する瞬間が、恐怖の瞬間でなく、他の何かを残したなら、彼の過去も死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。そうできる過去をもった人は、必ず民族が従ってくることができる因縁をもった人であり、世界万民がついて来ざるを得ない因縁を残した人だと見ることができます。
では、それはどのような事情でしょうか。ある民族に、当面した問題を解決できない悲惨で非情な時があるとき、その問題を自分が責任をもって解決するために、命を懸けてそこにぶつかった時があったなら、それはその過ぎ去った時の中で忘れられない一時でしょう。
生涯路程で、自分のために死の場まで行くことより、兄弟なら兄弟、親族なら親族、他人なら他人のために、自分の命をみな捧げて彼らを救ったなら、彼らを救うためにぶつかった時があったなら、そのような事実が最後の運命の場で、彼の心の線上に映像として現れ得るということになるでしょう。いくら自分を中心とした幸福な時があり、数多くの群衆から歓迎されて、自分が輝かしくたたえられた聖なる時があったとしても、それはその瞬間には効力を発揮できないようになっています。
善であったか、真になったか、ハナニムの前に一人立つことができたかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分に終わるのではありません。自分から始まり人に結果を結ばせるとか、人によって始まって自分に結果をもたらすことができてこそ、善になり得るのです。我々の原理で、天地のすべての存在は与えて受ける因縁を経なければならない、というのと同じです。
過去の生活が与える生活だったなら、死の道にも恐怖がないでしょう。人のためにすべてを与えて、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人によって流し、自分の命も人によって投入し、自分の願いも人によったものなので、自分の脈拍から流れ出るすべての生命力を引き集めて、人のために投入したというなら、その過去は輝き得る過去でしょう。
そのような過去を懐かしく思いながら、民族を思うようになるとき、希望の民族はこのような民族であるべきだという結論が出てくるでしょう。彼がそのような過去を懐かしく思うようになるとき、人のために犠牲になり、希望する本然の善は、こうであるべきだという決定を下すことができるのです。「私がそれのために戦ってきた過去があるために、必然的にそうすることができる未来がなければならない」という内容をもって、ハナニムの前に行くというとき、その内容は、自分の永遠の生命の基盤になります。
聖賢が行く道と、凡人が行く道は違います。聖賢は、歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。しかし、凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によってあるようにしようとした人です。
(31-308, 1970.6.7)


ロ) 霊界に入るとき
我々人間が生活するのを見ると、生まれてみな同じ生活をします。転がっていっていますが、これがだんだん弱くなるのでしょうか、だんだん強くなるのでしょうか。
自分を知って、ある決心をしたのに、その決心したものが10年になり、20年になり、30年の生涯路程を経て、50、60、70、80年、老後の生活圏に入っていけばいくほど、だんだん小さくなります。これが問題です。作用すればだんだん小さくなるようになっています。自然力学の世界でなされるのと同様に、ある力があれば、その力を中心として作用すれば、小さくなるのです。
それゆえ、入力、入ってくる力、電気でいえば入ってくる力が、どのようなモーターを回しても、作用をしていくときには小さくなるのです。ここには、必ず消耗が起きます。このように見るとき、我々は一生の間、停止していることができません。一生の間動くのです。否応なしに動くのです。動くのに、正しく動くか、間違って動くか、いろいろあります。
では、人間が行くべき、自分が転がりゆくべき方向とはどこでしょうか。どの方向に行くのでしょうか。それを知らずに転がっています。岩にぶつかるか、あるいは、ある下水のたまりに落ちるかもしれないという立場で、転がりゆく生活をするというときに、それがどれほど危険千万なことか。どれほど不幸なことか。どれほど不安定なことか。これが問題です。霊界に入るようになれば、今日我々人間たちが、空間と時間圏内の内容をもって測定したすべてのものでは、相関関係もなすことができません。その世界は、時空を超越した世界です。
(141-270, 1986.3.2)
霊界に行くようになればどうでしょうか。心霊基準があります。一度なら一度の限界内においての心霊基準があるために、最初にあの世に行く時は、祝福された人たちも、ある時は分かれます。なぜでしょうか。心霊の程度が違うからです。
(194-62, 1989.10.15)
皆さんは、天国の何になるのですか。大使になりますか。その大使館で使いをするしもべになりますか。大使にならなければなりません。大使になるのは易しくありません。死ぬことがあれば、自分が先に死ななければなりません。
私たちは、霊界があるということを知っています。この世界よりももっと確実なのです。その世界は、どんな世界でしょうか。ハナニムが良いと言うことができる構想で、すべてが可能な世界です。
(107-56, 1980.1.20)
皆さんは、天国に行く時に、献上品として持っていくものがあるでしょうか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずっと並んでいるのに、彼らの前に、皆さんが包んでいったふろしきを開いておくことができるでしょうか。
統一教会が何の苦労をし、皆さんが何の苦労をしましたか。それだけの苦労もせずに、どうして国のため、世界のためだと言いますか。「苦労するにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。
霊界に行ってふろしきを開いておいて、「これは一生の間、私が準備した贈り物なので、お受けくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行くときは、一包みずつ持っていくのに、天国に行くときは、ひょいひょいと体だけ行くことができますか。
(32-71, 1970.6.21)


皆さん自身において、自主性をもたない人は、霊界に入れません。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、宗族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「そこで絶対的に必要な存在だ」と言うことができる自主性がなくては入れない所が、天国です。家庭を中心として見るときも、宗族を中心として見るときも、やはり「自分が絶対的に必要だ」と言うことができる、そのような自主性がなければなりません。そこで自分が絶対的に必要だという自主性があってこそ、行くことができる所が天国です。
(19-45, 1967.12.24)
霊界では、天地というもの、地球というものは、ほこりの一点のようなものです。霊界はどれほど広大か知れません。時空を超越した無限の世界です。そして、「ある時代に、これこれこういう心情をもって、地上で生まれて暮らして行った人がいれば、ここに直接出てきなさい!」と言えば、瞬く間に現れます。そのように、直感的感覚が現実化する世界です。
一度に百万人の宴会をすると言っても問題ないのです。「私がこのような理想的な愛の喜びを、みなに分けたくて、晩餐ばんさん会をもとうと思いますが、女性はこのような服、男性はこのような服を着て現れろ!」と言えば、すぐに現れるのです。食事も、果物も問題ありません。瞬く間に願うとおりに現れます。そして、おなかがいっぱいになれば、残ったものはどのようになるのでしょうか。
そこでは炊事場もありません。そこでは、何の心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません。花は、いろいろな花があります。家も、愛の心情の基準に相応する家を、自分が願うとおりに、いくらでも造ることができます。
(224-105, 1991.11.23)
凡人は過去を思えば暗黒ですが、聖人は過去を思えば光明です。その光明とは何でしょうか。それは、自分のためのものではなく、希望の民族を描き出すことができるのです。それゆえに希望の天国があるなら、その天国は彼らによって出発を見なければならないのです。それが天国です。
皆さんは、見るからに険しい環境を備えたこの堕落圏内で、皆さん自身が行く姿を図表を書いてみるようになるとき、1年はこのように行き、1年はあのように行くだろう、あるいは10年はこのように行き、10年はあのように行くだろうと言って、自分なりに一生の行路を計画しながら、高低を予測するでしょう。その高低が、自分を中心として高くなった、低くなったという人は、最後の運命を迎えるようになるとき、自分のために生きながら、人を犠牲にしたそのすべてが、自分をがんじがらめにするでしょう。
(31-308, 1970.6.7)
皆さんが「70になっても私はこのように行く」ということを一度考えてみましたか。「年が80になって死ぬ瞬間にも、私はこのように行く」ということを考えてみましたか。死ぬ場でも、「私はこのように歴史を明らかにし、今までこの時代にこのようなことをし、これからもこのようなことをすることができる私が死ぬが、お前たちが代わりにしてくれ」と言える証拠物を提示できなければなりません。それを言葉だけで言ってはいけません。彼が死んだときに人々が彼にしがみついて、涙を流して「そうだとも、そうだとも」と、そのように言えなければなりません。
(73-116, 1974.8.16)


ハ) 霊界の手続きに必要な証明書
皆さんは、最初にどこで証明書をもらってくるのでしょうか。「私はこのようになった。このようなことをした。これが勝利の証明書だ」と言い得る証明書のことです。そのような証明書を自分自身で書くことはできません。では、誰が書くのでしょうか。初めには、サタンが書きます。ハナニムは書くことができません。サタンから、その勝利の証明書をもらわなければいけないのです。
エス様は、それはよく知っていらっしゃいました。それで、3年の公生涯路程の出発のときに、40日間サタンを呼び出して証明書をもらう戦いをされました。それが三大試練でした。イエス様が三大試練を勝利すると、サタンは「あなたは、民族的に勝利しています。ですから、私が証明書を書かざるを得ません。そうでなければ、私の活動舞台をすべて天の側にすぐに捧げなければならないためです」と言ったのです。
それゆえ、皆さんは、まずサタンに証明書をもらい、イエス様の証明書をもらわなければなりません。その次に、ハナニムの証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要です。
(15-121, 1965.10.3)

 

⑪ 死んでみてこそはっきり分かる

皆さんが、祈祷で霊界と通じるようになれば、霊界では子孫たちを天の前に近く立てるために努力しているということを知るようになるでしょう。しかしここでは、先祖の悪口でも言って、自分だけよく生きようとします。
それゆえ、死んでみてこそ分かるのです。先生の言葉が合っているかいないか、死んでみれば分かります。しかし、死んで生き返ることができればいいですが、死ねば終わりです。ですから、人々は、統一教会ムン先生が恐喝きょうかつをしても、とてもすてきな恐喝をする、誰もできないとてもすてきな恐喝をすると言います。しかし、死んでみなさいというのです。先生が何もすることがなくて、このようなことを言っているのではありません。
(22-338, 1969.5.11)
ハナニムの最高の愛は、どこで発見されるのでしょうか。王宮ではありません。死んでいくあの地獄のどん底に、血を流して倒れていくその中に、ハナニムの最高の愛を占領し得る道があります。先生が共産治下の監獄にいるとき、言葉を話さなくても霊界から伝道しました。それで、先生のために死を覚悟して、どんなことでもできる弟子たちをもっていました。私が世の中の悪党なら、監獄を爆破して出てくることができる道が、いくらでもあったというのです。そのような立場にハナニムが共にあるのです。
(91-175, 1977.2.6)


 

⑫ 「ため」に生きればハナニムの近くへ行く

霊界は3段階になっています。霊界では、誰が高い所に上がるのでしょうか。より「ため」に生きた人です。自分のために生きた人は、反対の世界が展開します。それも同様に3段階です。「ふん! 我々はお前のような者は嫌だ!」と反対するのです。自分のために生きた人は、全部反対し、人のために生きた人は、全部歓迎します。
地上に生きて霊界に行った人たちで、高い所に行く人たちは、全部人のために生きた人たちです。世界40ヵ国なら40ヵ国を回りながら、自分の母と家庭を拡大したような心情で「ため」に生きた人たち、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心をもった人たちが、高い所に行くのです。
それで先生は、「私は一人の男として、歴史時代の孝行者を代表した総大将であり、愛国者の総大将であり、聖人の総大将だ。ハナニムの息子という名前をつけたすべての人たちは失敗したが、私は勝利した息子として生まれた」と考えます。そのように言えるようにしてくれるものは、たった一つありますが、それは何でしょうか。簡単です。絶対「ため」に生きることです。与えて忘れ、「ため」に生きて忘れてしまって生きる人だけが、その世界を消化することができます。
皆さんが天国に行くやからか、地獄に行く輩か、はっきり知るべきです。レバレンド・ムーンが、ただ考えて言う言葉ではありません。霊界をよく知っている人です。
死を避けることができる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。自分のために生きた人は、地獄に行くのであり、人のために生きた人は、天国に行くのです。この二つの世界が、死から分かれるのです。
(203-100, 1990.6.17)
これからどんなことが起こるかというと、自分の財産を天のものとして捧げるための仕事が展開します。「ため」に生きなければなりません。全体のために、より大きいことのために生きなさいというのです。世界のために、ハナニムのために、人類を解放するために生きなさいというのです。自分によって、新しい血筋に転換させなければなりません。血筋が引っ掛かっているために、今までハナニムが無力なハナニムになりました。今は、転換時期に入ってきたので、自由天地が訪ねてくるのを知って、皆さんが善の種を植えなければなりません。自分がどのようにすべきか、よく分からなければなりません。これから、メシヤの一族、天国の国民、永遠の天国とつながり得る、永生をもった群れになるべきです。
(203-187, 1990.6.24)
これから何の競争が起こるでしょうか。互いが「ため」に生きようとするのです。なぜでしょうか。天国では「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために自分が生きれば、その人に乗って跳躍できるからです。ケープ・ケネディ(現ケープ・カナベラル)に行けば、人工衛星の発射台がありますが、そこで人工衛星が発射されて空に飛んでいくのと同様に、そのようになるのです。その人のために生きるということは、ハナニムが創造して相対を造ったのと同じであり、その人の愛の対象圏に立とうということです。誰かについていって、「ため」に生きるのも、みなそのためです。


先生のために生きるのは、先生を利用してしまおうということです。先生の愛の対象になって、跳躍して、ハナニムを占領しようということです。人工衛星が出てきたのは、今日信仰者たちが跳躍して、天国にどのように行き、何千里、何万里をどのように行くかということを表示するものです。
いずれ、人間は本然の故郷に帰るようになっています。世の中の故郷もあるでしょうが、それよりも本然の故郷に、永遠の故郷に帰るようになるとき、そこで歓迎され得る内容を備えられなかった人は、悲惨なのです。グループに入れないということが、どれほどあっけに取られることか分かるでしょう。
(213-194, 1991.1.20)
今までは家庭がありませんでした。しかし、今から家庭の組織が始まるのです。全部分かれていったのです。なぜでしょうか。文化背景が異なり、心情的背景が異なり、暮らす風習が全部異なるので、みな分かれたのです。
ですから、家庭とは何かというと、新しい風習と新しい文化をつくって、習慣化する所です。しかし、家庭がないので、社会があり得ません。一国の社会がありません。その次には国がなく、世界がないのです。
それゆえ、今、主流を成しているのが宗教です。仏教圏やキリスト教圏ということで、ここにとどまるのです。他国の者同士は共にいられませんが、同じ宗教圏は共にとどまることができるのです。宗教圏は、一つの世界を願ってきて、一つの神を信じてきたために、共にとどまることができるのです。しかし、すべての宗教がハナニムの圏に属しているのに反して、すべての国はハナニムの圏に属していないのです。
統一教会から、個人が生じ、家庭が生じ、宗族的メシヤ、国家的メシヤ、世界的メシヤが出てくるのです。個人が行く道が家庭につながり、家庭が行く道は宗族が行く道につながるのです。
では霊界は、どんな世の中なのでしょうか。まことの愛を中心として、他の人のために生きる所が霊界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きる所です。ここの地上でも、100パーセント人のために生きる人は、「私を踏み越えて行け!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりも、その国民のために生きる人がいるなら、その人が大統領を踏み越えていってもみな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るようになるときは、全部怨讐おんしゅうになるのです。
霊界に行っても同じです。より大きなことのために生きるというときは、自然に通過するのです。より大きなことのために生きれば、自然に通ずるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。


では、行くにおいて、家庭もそのまま通り過ぎて、すべてが歓迎し得るその方向の内容とは何でしょうか。それは「ため」に行く、愛の道しかありません。
この二つは、地上のサタン世界でも妨げられません。この二つは、サタン世界も絶対順応しなければならないのです。いくら悪徳な父母、いくら悪い者でも、真の愛をもって自分のために与えようとする人は、すべてが歓迎するのです。
(215-174, 1991.2.17)

 

⑬ 審判

皆さんに霊界の大審判の法廷に出廷しろという命令が下るだろう、ということを考えてみましたか。いつかは大審判の法廷に出廷しろという命令が下るのです。
その法廷を管理して支配するためには、判事がいなければならず、検事がいなければならず、弁護士がいなければなりません。では、その判事は誰で、検事は誰で、弁護士は誰でしょうか。判事はハナニムであり、検事はサタンであり、弁護士はイエス様です。
(17-177, 1966.12.18)

 

3) 高い霊界に行くには

 

① 宗教人たちの標準は霊界

宗教を信じる人たちが、信じない人と違うこととは何でしょうか。彼らは一生の間、霊界を標準として信じます。宗教というものは、ハナニムに会って生活しようとするところから始まるのです。
すべての教祖たちが残していった経書の内容は、人間の暮らしを紹介したものではありませんでした。これは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、ハナニムならハナニムがいらっしゃる所を中心として、我々が関係を結ぶことができる内容を教えてくれたのです。
(187-286, 1989.2.12)

 

② 霊界での所有権決定基準

昔、我々は、麦飯もなく、食べられずに冷たい部屋で震えていた、そのような日が多かったのです。かえって、そのような日がハナニムの前に近かったのです。その時は、国を心配し、世界を心配しました。すべてが大きくなって、すべての基盤が拡大されるに従って、多くの人が、どのようにすれば「私」という人を喜ばせられるかを考えるのです。
知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、そのようなものはみな流れていくのです。死ぬとき、みな置いて行くのです。もって行くべきものは、ハナニムの愛を世界に拡大するために努力したことです。人類を愛し、ハナニムを愛したことが最後に残って、あの世の所有権決定の基準になるのです。
(127-38, 1983.5.1)
復帰の道には、値引きというものはありません。我々がこの世に来るときは、一人で来ましたが、行くときは一人では行けないのです。多くの人たちを連れて行かなければなりません。
(14-105, 1964.6.20)