八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 1-3

八大教材教本 天聖経(2012年版)p115-151

【天啓の御言】(1-3)

 


命には命で、目には目で、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義は、創造主、ハナニムの性稟であるはずはありません。ハナニムは愛であり、許しのハナニムです。
モーセの前にもハナニムは、何度か現れます。ホレブ山で柴の中の炎のうちに現れ、モーセを召命し、シナイ山いただきでも現れ、モーセ十戒を与えました。今日まで、モーセの前に現れた主なる神が天使であるとは知らずにいますが、新約聖書使徒行伝第7章を隅々まで見ると、天使だと記録されています。「40年たった時、シナイ山荒野あらのにおいて、御使みつかいが柴の燃える炎の中でモーセに現れた。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。このように旧約に現れた主なる神とは天使であって、ハナニムそのものではありません。旧約時代は、僕の時代です。息子ではない僕に、父としてハナニムが現れることはできないのです。
主なる神は、モーセがハナニムの名を尋ねたとき、「ハナニムは『わたしは、有って有る者』」と答えて、「主なる神」と名を教えます。しかし民族の前に出たモーセは、先祖の神、すなわちアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、主なる神が、先祖のハナニムであることを強調します。「主なる神」とは、天使のことです。旧約は、僕の時代だったので、ハナニムの本当の姿を現すことができない時代です。
旧約聖書を見ると、ハナニムが「闘え」と言いましたか、「闘うな」と言いましたか。サウル王が戦争に勝利したのち、「女と子供だけ残して、男はすべて殺せ」と言われたのに、殺さなかったので罰を受けたことを知っていますか。どうしてそうなったか、考えてみましたか。サタンの男を生かしておけば、サタン世界が再び侵犯するので、そのようにさせたのです。
サタンの男がいれば、自分の妻を連れていって思いどおりにするので、男さえ脈を断ってしまえば、子供と女は天の側に属することになり、その制度がなくなるのでそうさせたのです。そうしなかったことにより、異邦の神をあがめ、あらゆる異邦の淫乱いんらんな風俗が入ってきて、天の国が侵犯されたので、サウルが罰せられたのです。
(124-202, 1983.2.15)

 

② 宗教には新婦宗教と天使長宗教がある

ハナニムがアダムを造る前に天使を造ったので、今日の宗教は何かというと、天使世界圏を地上に造ったものです。それが宗教世界です。その宗教世界圏内で何をすべきなのでしょうか。アダムを造り出すということをしなければならないのです。それでは宗教の中で、世界的中心は何でしょうか。それはユダヤ教です。このようになるのです。そのユダヤ教は、何をする宗教でしょうか。新郎を紹介する宗教です。それがメシヤ思想であり、救い主思想です。
(50-56, 1971.10.31)

 

ハナニムがアダムとエバを創造するまでは、その伝統的思想を誰が受け継ぐかというと、天地長の立場にある方々が受け継ぐのです。そうしてアダムとエバが生活するための新しい風潮と伝統を誰が教えてあげるべきかというと、ハナニムが教える前に、しもべである天使長が、「主人の息子、娘はこのようにしなければならない」と教えてあげなければならないのです。主人の息子、娘が過ちを犯すのを制止して、正しく歩むように先頭に立って教えてあげるのが、年上の僕の責任ではないでしょうか。
(50-181, 1971.11.6)


堕落した人間を救うために、ハナニムは宗教を立てました。その宗教とは何でしょうか。エバの宗教と、天使長の宗教を世界につくったのです。エバと天使長ゆえに堕落したので、人類をエバと天使長の宗教をもって復帰するのです。その道を通じて復帰されるのです。宗教は、天使長圏の宗教です。100個、1000個あったとしても、すべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思想は、新婦の思想です。
(239-136, 1992.11.24)

 

ハナニムだけがまことの神であり、その他の存在は、神的存在の天使たちです。唯一神と多神に対する確実な区分をしようとするならば、多神教は神的な存在、天使たちが立てたものです。これらの宗教の中で、善なる天使たちが人間の心霊と精神を高揚するために誕生したものがあるのですが、これらが高等宗教であり、ハナニムはこの善なる宗教を通じて人類の心を開墾してきたということを知らなければなりません。
天使長宗教は、根本が明確ではありません。ハナニムが何か分からないのです。終末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです。それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。
(237-186, 1992.11.17)

 

旧約時代にハナニムのみ旨に従った人と、新約時代にハナニムのみ旨に従った人を考えてみましょう。旧約時代は、原始的な宗教形態をもち、新約時代は、時代的な宗教をもっていました。すなわち新約時代は、近代の20世紀文明まで連結されてきた宗教時代なのです。
統一教会は、何の宗教でしょうか。統一教会は、原始的宗教、時代的宗教よりも、新たな次元の未来的な宗教になるべきだと考えるのです。
(122-9, 1982.10.31)

 

3) イエス様が「父子関係の神観」を明かす

 

① 新約時代は養子の時代

イスラエル」という名を得たヤコブが勝利したというのは、ハナニムの息子として勝利したのではなく、ハナニムの前に僕として勝利したということです。こうして僕の僕から僕の立場に復帰し、僕の立場から新約時代には養子に復帰するのです。ローマ人への手紙第8章23節には「御霊みたまの最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(養子)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあります。「アバ、父」と呼べる養子となることを待ち望んでいるとあります。新約時代にいくらよく仕え、よく信じていた信仰者たちも、牧師、長老、学士、博士はもちろん、みなハナニムの前では養子です。正直な話です。養子になろうというのです。養子というのは血統が違います。
(154-257, 1964.10.3)


エス様は、何によって一段階上がるのでしょうか。この地上には人間の堕落によって人類の先祖がいないので、先祖の位置に上がればイスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、ハナニムの前で相続圏に対し得る息子の名分をもつようになります。それゆえ、ローマ人への手紙第8章を見てください。「御霊みたまの最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子(養子)たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子(養子)たる身分を授ける霊を受けたのである。・・・『アバ、父よ』と呼ぶのである」と書かれています。養子にしかなれないのです。今のキリスト教信者は、養子です。養子は、血統が違います。
(154-337, 1964.10.5)

 

養子は、直系の息子とは違います。養子は、もし直系の息子が来れば、夜でも昼でもいつでもすぐに自分のすべての所有物を直系の息子にあげることができなければなりません。その所有物は、自分のものではないからです。養子の立場に立っても、養子に定められたとしても、直系の息子が生まれたときに「こいつ、どうして生まれたんだ」と言ってはなりません。これはサタンの本性です。
ハナニムがアダムを造ったとき、天使長がそのアダムを見て喜ばなければならないのです。喜ぶべきなのに、「どうして生まれたのか」と言ってはなりません。養子はこれを知らなければなりません。養子は息子を保護しなければならないのです。直系の息子が腹中にいるときも、「ああ、生まれなければいい・・・」と言ってはなりません。
(49-135, 1971.10.9)

 

養子になるには、どうしなければならないのでしょうか。僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも良く、サタンよりも良くなければなりません。なぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは本来、天使長だったのですが、その天使長は僕だったので、その僕にも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。
それでは、その養子は、いかなる養子にならなければならないのか? 私がハナニムから相続を受けたとしても、それは私のものではなく、ハナニムの本来の息子、娘の前に返すべき相続だという思想をもった養子にならなければなりません。そのような養子をつくらなければならないのです。養子というのは、のちに来る息子、娘のために、自分が死ぬとしても命を尽くし、自分のすべてを犠牲にしても、ハナニムの願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、そのために準備する心をいつももっていなければならないのです。養子の名を立てなければ、息子と関係をもつことはできません。天使長よりも一段階高い中間的な存在として生まれたのが養子だということを、皆さんは念頭に置かなければなりません。
(89-203, 1976.11.22)


養子というのは血統が異なります。元来、新約の出発において、養子として立てられたのは誰かというと、洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネは、天使長の代表でした。ハナニムの息子であるアダムの前で反対した天使長ではなく、最後までアダムのために生きる天使長側の地上の代表者として立てられたのが、洗礼ヨハネでした。ところが、この洗礼ヨハネがイエス様に従うことができず、イエス様と一つとなれなかったので、悲運の歴史が繰り広げられたのです。
(48-92, 1971.9.5)

 

旧約時代と新約時代が連結される歴史だということを知らなければなりません。旧約を信じてきた人は、しもべとして養子の恵沢を受けることを願うのですが、それがすなわち、メシヤが来ることを望む理由です。すなわちメシヤによって僕の悲しい身の上を乗り越え、養子圏の立場に進むことが彼らの願いです。養子の立場は、直系の息子、娘がいない場合に、父母から相続を受け得る因縁が成立する立場です。
ですから、僕の立場を超越し、ハナニムのみ旨を迎えることのできる恵沢を受けるのを望むようにしたのが、僕の旧約時代を指導してこられたハナニムのみ旨です。それゆえ、彼らは僕の立場を免れ、ハナニムの相続を受け得る圏内に入れる特権的な一時を願ってきたのであり、それがイスラエル選民思想でした。
(42-281, 1971.3.27)

 

万物から養子的勝利圏を経て、息子の勝利圏を経て、父母の立場まで復帰して上がらなければなりません。ですから新約時代には、いくら深く信じてもハナニムの息子には絶対なれません。
(48-95, 1971.9.5)

 

今までの歴史を見れば、旧約時代は万物を祭物視しました。万物を犠牲にしました。万物を犠牲にした目的は、人間の解放のため、人間の復活を助けるためでした。万物を犠牲にして人を取り戻したのです。
言い換えれば、万物を犠牲にするのはハナニムの子女を取り戻すためです。旧約時代は、万物を祭物とし、新約時代は、ハナニムの子女たちが血を流し、この世界の復活圏に向かっていくのです。それが、キリスト教を中心とした歴史でした。
キリスト教の歴史は、イエス様、そしてイエス様に従うすべての個人、家庭、民族、国家が今まで犠牲となりながら、祭物的過程を経てきたものです。
(166-276, 1987.6.14)

 

旧約時代は、モーセに能力のハナニムを証させました。能力のハナニムとして信じなければ罰を下しました。次に、イエス様時代には慈悲のハナニムを紹介しました。病気の者を癒し・・・。イエス様が病人を治さなければ、追い詰められて死ぬことはなかったのです。病気になって死ぬのは、この世の先祖たちが過ちを犯したので、その罪の代価として死ぬのです。それをどうして生かしておくのですか。統一教会ムン先生が病気を治したとすれば、数十万の病人を治したことでしょう。病気を治さなくても私たちのみことばを聞いて喜べば、癩病らいびょう (ハンセン病のこと)が治らないでしょうか。どんな病気でも治るのです。
(194-334, 1989.10.30)


 

② 養子は父と呼ぶことができる

旧約時代を経て新約の新しい朝を迎え、イエス様は、ハナニムを父であると宣言し、堕落人間を養子の位置に上げ、ハナニムと父子の関係をつくってくださいました。養子は血筋が違います。しかし、来られたイエス様に接ぎ木されることにより、息子の名分をもってハナニムを父と呼ぶことができるのです。ハナニムとの父子関係の成立は、イエス様以外には誰にもできない天の秘密であることを知らなければなりません。
エス様がハナニムを父と呼ぶとき、当時、旧約の観念に浸っていた祭司長やパリサイ人は、ハナニムを冒涜ぼうとく する、けしからぬ言葉として聞いたのです。それほどイエス様の父としての神観かみかん は、革命的な神観であったことを知らなければなりません。
エス様は、一段階高めてハナニムの愛を紹介しました。旧約時代には、モーセが愛のハナニムを紹介できず、権能のハナニム、能力のハナニム、審判のハナニムだけを紹介しました。しかしイエス様は、愛を紹介しました。愛のハナニムを紹介し、愛のイエス様であることを紹介したのですが、当時の人間は受け入れませんでした。
(35-276, 1970.10.25)

 

旧約時代は、僕の時代だったので、ハナニムの正しい姿を現すことができない時代です。ハナニムは父であり、愛の存在です。ハナニムは愛そのものなので、すべての罪悪を許される愛の父です。目には目で、歯には歯で復讐ふくしゅうした旧約時代の律法は消え去り、イエス様によって怨讐おんしゅうを愛し、兄弟の過ちを7回ではなく、70回でも許される愛のまことの姿を現すのです。父がどうして子の過ちを許さないことがあるでしょうか。
ハナニムは、目に見える存在ではありません。その見えないハナニムが、目に見えるハナニムとして現れた存在がイエス様です。ですからイエス様は、ヨハネによる福音書で、「わたしが父におり、父がわたしにおられる。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしい、と言うのか」と、ハナニムとの一体を主張しました。
ですからパウロも、「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どのような被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ8:38, 39)と言いました。イエス様も、ハナニムの愛のために来られたのです。
(4-308, 1958.10.5)


エス様がヨルダン川で洗礼を受けて天が開けた時から昇天するまで、3年という短い歳月だったことを知らなければなりません。イエス様が父子の関係の神観を明らかにしながら、具体的な内容をすべて語れずに逝かれたという事実を知らなければなりません。
ユダヤ教のメシヤとして来て、世界的メシヤ路程を開拓しようとしている途中で死んだというのです。そうすると、ユダヤ教はどうなるのでしょうか。ユダヤ教のためだけのハナニムとして仕える、そのようなハナニムであってはなりません。イエス様がこの地上に来て教えるべきことは何でしょうか。旧約聖書で教えてくれたハナニムを、そのまま教えてはいけません。新約時代のハナニムとして教えてあげなければなりません。
「国家的次元の時代を越えて、今は世界的次元の時代に入っていくので、世界を吸収するためには世界のために精魂を込める基台を築かねばならない」。このように教えるべきなのが、イスラエルの国家的メシヤとして来たイエス様の使命だったのです。そうして、生涯を捧げて世界的メシヤの権威を取り戻せるようにすることが、イエス様の生涯になすべきことでした。
(105-213, 1979.10.26)

 

4) 成約完成時代は神人一体の時代

 

① 真の子女は血統転換、重生を経なければならない

復帰途上でしもべの僕時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代へと上がっていかなければならないのです。それでは、完全に僕の僕時代を経て、僕の時代、養子の時代を経て、直系時代と因縁を結ぶことができるでしょうか。直系の時代と因縁を結ぶには、そのままでは結べません。必ず原理によって信仰基台を立て、実体基台を立て、メシヤを迎えなければならないのです。メシヤは、ハナニムの真の息子です。養子と真の息子は、血統的な関係が異なります。それゆえ血統転換が必要なのです。
(55-192, 1972.5.9)

 

エデンの園で誤った結婚をしたのが堕落なので、今真の父母が正しく結婚させることによってひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを、真の父母が清算することにより地獄を撤廃し、数千億の霊界の先祖まで結婚させるようになるのです。真の愛を中心とした地上の子孫が家庭基盤と通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つとなるだけではなく、このような家庭基盤を起点として東洋と西洋がつながるのです。
私たち人間は、血統的にサタンの血統を受けているので、自分では天の前に戻ることができません。ですからメシヤが絶対血統を復帰し、サタンが汚した血統を改造しなければなりません。これを転換しなければなりません。それゆえメシヤは、必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰がなされません。血統復帰をしなければなりません。
(172-53)

 

真の父母は、何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正し、間違った生命を取り戻し、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとすれば生き、生きんとすれば死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がどうして出てくるのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。
(169-37)


ハナニムが創造当時に理想とされていた真の愛、偉大なる愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つとなり得る神人愛一体の理想を完成したならば、今日の私たちは、天国だとか地獄だとか心配することなく、みなそのままで天国に行くようになるのです。
(275-54)

 

人類歴史を見ると、旧約時代、新約時代、成約時代、このように3時代があります。ところで旧約時代とは、どんな時代ですか。祭物を犠牲にして子女を救う時代です。ハナニムの息子が来る準備をするのです。新約時代は、イエス様が祭物となって父母を迎える時代です。
それゆえ、再臨時代を迎えて新郎新婦を立て、父母を迎えるための準備をしてきました。成約時代に先生が中心となり、「真の父母」という名をもって今まで四十余年間苦労してきたのは、ハナニムを地上に迎えるためです。そうして、神人一体となるのです。
(227-94)

 

ハナニムと皆さんは元来、父子の関係です。新約時代には、人間はハナニムの養子でした。しかし、今は父子の関係なので、息子のすることは父のすることであり、父のすることは息子のすることです。一緒にすることになるのです。父のものは息子のものであり、息子のものは父のものです。統一教会が恐ろしいのは、このような父子の因縁を教えるからです。
(31-324, 1970.6.7)

 

旧約時代に物質を犠牲にしたのは、真の息子が来れる道を築くためです。イエス様は息子として来て犠牲になりましたが、それは父母様が来れる道を築くためです。父母様が平面上に来て受難の道を行くのは、ハナニムを迎えるためです。どこにですか。本然の垂直の位置にです。天地の大道たいどうの起源がここで切れたので、この根本の根を是正しない限り、平和の起源はないのです。これは絶対的です。
(200-55, 1990.2.23)

 

ムン総裁のことを皆さんが、「ああ、私たちと同じ人間だ」と考えてはなりません。文総裁の使命は何でしょうか。旧約時代は、万物を犠牲にして息子、娘を取り戻す時代です。新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母がやって来る道を築くのです。父母が来て、この地で何をするのでしょうか。ハナニムがやって来れる道を築くのです。縦的父の水平世界を、万民世界を越えてつくらなければならないのがまことの父母の使命です。
それゆえ、この水平の父の心情圏が造られれば、縦的な父の心情圏は、自然にここに来て定着します。そうして縦的、横的な愛を抱き得る位置に行けば、ついに世界を越えてハナニムは核の位置に行き、本然の理想の権限を再び編成することによって、「すべて完成した」と言い得る時代になるのです。
(177-345, 1988.5.22)


堕落した人間がハナニムの前に出るための方法は、時代によって異なっていました。すなわち、旧約時代は、祭物を捧げることにより、新約時代は、ハナニムの息子であるイエス様を信じることにより、成約時代は、真の父母にはべることによってハナニムの前に出ることができるのです。
(20-340, 1968.7.20)

 

皆さんの息子、娘は今後、同じ国の人同士で結婚させることができません。ハナニムは、3代を見ているのです。今はこうですが、3代以後に一つにしようというのです。その中の一つが旧約時代です。ですから皆さんの結婚は、旧約時代です。旧約時代。その次が、新約時代と成約時代です。皆さんの息子、娘である二世が結婚して生んだ3代になって、伝統ができることでしょう。
(146-275, 1986.7.20)

 

成約時代は、真の父母が犠牲になることによって縦的なハナニムを地上に迎えるのです。それが最後です。ハナニムは、人類の前に真の愛を中心とした縦的な父であり、真の父母は、真の愛を中心としてその縦的な父の前に、横的に90度を合わせた横的な父母です。
それゆえ縦横の愛を中心として、初めてハナニムの愛とハナニムの生命が激動するのです。神人合徳が激動し、真の父母の愛を中心として新たな血族が広がるのです。そうなることにより、人類歴史の中で初めて本然的原理基準を中心として、ハナニムの愛の中で出発した生命の種が地上に顕現するのです。
(208-339, 1990.11.21)

 

これからは、所有権を復帰しなければなりません。旧約時代は万物を犠牲にし、新約時代は息子を犠牲にし、成約時代は父母を犠牲にしてハナニムを迎えたので、今は何をすべきでしょうか。
皆さんが母、父に代わって、その立場に立たなければなりません。息子、娘は新約時代であり、万物は旧約時代です。この旧約時代、新約時代、成約時代が一遍に真の愛を中心として抜け出すことで、サタンが主人となっていたものをすべて蕩減とうげんして本然の主人に戻り、これらを捧げなければなりません。
(208-345, 1990.11.21)

 

成約時代は、成就する時代です。個人的に完成し、家庭的に完成し、宗族・民族・国家・世界的に完成するのです。何を中心としてでしょうか。ハナニムの愛と、ハナニムの生命と、ハナニムの血統を中心として連結されるのです。単一の血統、単一の愛、単一の生命の伝統です。このようになれば、サタンは離れざるを得ません。接ぎ木することにより、サタンの血統的因縁がなくなるのです。
(226-275, 1992.2.9)


5) 創世以来初めてハナニムが顕現

 

① 初めてハナニムが姿を現される

統一教会時代は、父母の時代です。ハナニムが地に臨み、やって来れる道をつくるのです。それでハナニムが来られ、「侍ることによって救われる」という言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。
(177-157, 1988.5.17)

 

最後に残るものは何でしょうか。ハナニムプラス人間、神人、神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人人生観、神人世界観です。それは、漠然とハナニムのことを人が知り得る程度の位置ではなく、人が永遠に離れようとしても離れられない位置です。なぜでしょうか。ハナニムと人は、本来離れることのできない位置から離れたので、離れることのできなかったその位置以上の位置に到達しなければなりません。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければならないのです。
(65-127, 1972.11.5)

 

ハナニムは「ため」に生きる宇宙の中心存在なので、その近くに行けば、千年、万年主管されても、もっと主管されたいのです。ハナニムを中心とした侍る道理がそのようになっているため、今日、私たち人間もそうした立場で主管されれば、それ以上の幸福はないという事実を、私たちは想像すらできませんでした。
(77-328, 1975.4.30)

 

これから皆さんは、侍る生活をすべきです。今までの信仰生活は、信じることによって救いを得ましたが、今後は、侍ることによって救いを得ます。本来、堕落しなかったならばハナニムに侍ることにより、私たちが行くべき道を行くのです。侍るには、皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
(150-213)

 

ハナニムは絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一、不変、永遠の真の父です。そのような父は、絶対的な息子、唯一、不変、永遠の夫婦を成さなければなりません。そのような娘たちは、絶対的な夫婦、唯一なる夫婦、不変なる夫婦、永遠の夫婦を成さなければなりません。
それで彼らが安着するための家庭は、絶対家庭、唯一の家庭、不変なる家庭、永遠の家庭です。そのような家庭が、ハナニムと共に暮らせる地上天国の永遠の基地です。
侍義じぎというのは、生活化天国時代を言います。それで侍義を掲げてきたのです。復帰歴史は何かといえば、ハナニムの創造理想を再現することです。
(161-218, 1987.2.15)

 

ハナニムを心の中に迎え、私たち人間が体の立場で完全に一つとなれる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道はありません。このような観点から、はべる時代、侍義の救援時代と考えるのです。侍ることによって救われるのです。ハナニムは、あの空中に遠く離れたハナニムではありません。私たちの生活圏内の主体者としてのハナニムに、侍らなければなりません。
(144-274, 1986.4.25)


ハナニムは、妄想的で観念的なハナニムではありません。抽象的なハナニムではありません。生活的な主体性を備え、常に私たちの暮らしている生活の主人として、共にいるのです。侍られるだけではありません。共同的な愛を中心として、共同的な生活をしていらっしゃるハナニムなのです。
(168-111, 1987.9.13)

 

ハナニムがアダムとエバを造った目的は、どこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見てください。体をもっています。しかし、無形のハナニムには体がありません。体をもたなければ、霊界の世界や地上世界を治めることができないのです。ですから、ハナニムがいらっしゃるにしても、ハナニムが人間の父母として現れるためには体をまとわなければならないのですが、その体をもった代表が誰かというと、アダムとエバなのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。
それゆえアダムとエバは、人類の始祖であると同時に、天地を主宰するハナニムとなるのです。実体をもったハナニム、すなわち永遠の無形世界のハナニムの形状を代わりにもって現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
(133-91, 1984.7.10)

 

無形のハナニムには実体がないので、その形体を表したのがまことの父母です。真の父母は個人的な父母であり、家庭的な父母であり、宗族的な父母であり、民族的な父母であり、国家的な父母であって、霊界に行ったのちも、真の父母の形状でハナニムが現れるのです。
(98-224)

 

統一教会が偉大なのは、それです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かというと、レバレンド・ムーンの形状をハナニムが使おうとしていることです。
(166-232, 1987.6.7)

 

億万もの人間の父母が一度に生き返ったとしても、今日、皆さんのいう真の父母の栄光を備えた父母はいないのです。千万代の先祖がみな復活して、復活した栄光をたたえたとしても、それは堕落圏から抜け出していない栄光であり、称賛です。
しかし、今日、統一教会でいう「真の父母」という言葉は、皆さんの立場が悲惨でも、幾千万の先祖と共に、この地に勝利をもたらし、万民解放圏を備えた栄光の立場で称賛する以上に価値のある、誇るべき言葉だという事実を知らなければなりません。父母様に出会った中で、ハナニムに出会える道がつながるのであり、統一教会に巡り合ったこの場は、近い将来、ハナニムの国と父母様の願われる祖国を取り戻すための道につながっている、という事実を知るべきです。
(138-105, 1986.1.19)

 

成約の侍義時代は、生活の中で直接ハナニムに侍って暮らす時代です。その時が、ハナニムの幕屋が人と共にある時であり、天にある新しいエルサレムが地上に下ってくる時なので、その時初めて、真のハナニムの姿が、人間の前に現れることでしょう。創世以来、初めてです。今までアダムの堕落以後、未完成級の歴史上ではハナニムは現れることができないのです。
(?)


 

第4章 真のお父様の見たハナニム

   

1) 歴史的な恨、苦痛のハナニム

 

① 人間の堕落により父母の立場を失う

私たちの本当の父親はハナニムなのですが、サタンが父親に成り済ましています。それでヨハネによる福音書第8章44節でイエス様は、「その父の欲望どおりを行おうと思っている」ととがめられたのです。サタンの血を受けたという悔しい事実を知ったならば、憤りの思いがほとばしり、自分の体を刃物で刺し、汚れた偽りの血を出してしまいたいという義侠心ぎきょうしんが生じるべきです。そのように感じたことがありますか。「この肉の塊め」と体を打ちながら憤りを覚える人は、天の忠臣です。
(11-243, 1961.10.29)
最後の心情の世界を連結させ得る宗教があるとすれば、それは、ハナニムが最もかわいそうだということを詳しく教えてくれる宗教である、ということができます。ハナニムは善くて、素晴らしいというだけではありません。哀れで憤りとハンに満ちたハナニムです。これを詳しく教えてくれる宗教が現れなければなりません。そうしてこそ孝子となることができるのです。
(151-102, 1962.10.28)
ハナニムがどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐おんしゅうに奪われたのです。ハナニムが栄光のハナニムとなることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡ろうらくの場としての地球となってしまいました。
(105-199, 1979.10.21)
今まで、ハナニムが主管し得る統一された民族や主権国家がなかったがゆえに、全知全能のハナニムは、その威信ゆえに来られなかったのです。そのハナニムの怨恨えんこんを解いてさしあげるのが統一家の息子、娘の道理であり、統一家の孝子の道理であり、統一家の忠臣の道理であり、烈女の道理であることをはっきりと知らなければなりません。真理を知っているので、真理があなた方を自由にしてくれるでしょう。知る人は解放されるのです。これをはっきりと教えてあげるのです。
(56-327, 1972.5.18)
皆さんは、ハナニムのためにどれほど涙を流したでしょうか。ハナニムの御苦労の前に、ハナニムに代わって苦労するために、「四肢が裂けるような道でも行こう」と、もがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なるハナニムにまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流せるようでなければなりません。


全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまい得るハナニムでありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられません。ハナニム御自身がもつべき環境をもてないまま、孤独単身でサタンの前に讒訴ざんそされ、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟しんぎんするハナニムの立場を考えると、言葉も出ません。このようなハナニムの立場に同情しながら、どれだけ涙を流したでしょうか。問題は、ここに帰結するのです。
(51-111, 1971.11.18)
世の中の父母も、自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されるようになったとき、その子が死ぬことを願う父母はいません。自分の思いどおりに子を助けることができるとすれば、百回でも千回でも助けてあげたいのが父母の心です。母親の気持ちは、なおさらのことでしょう。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能なるハナニムがいったい何ゆえに「終りの日」になって審判をしなければならないのでしょうか。どうしてハナニムが許してくださることができないのでしょうか。ハナニムは、どれほど愛していらっしゃるでしょうか。イエス様が7回を70倍した回数許すとすれば、ハナニムは7回を7000倍した回数以上許すはずです。ハナニムの心はそうなのです。
(48-235, 1971.9.19)
ハナニムの救援摂理は復帰摂理ですが、復帰摂理の出発はアダムとエバからでした。アダムとエバが堕落したからです。先生が現れるまで、アダム復帰はできないのです。これを復帰するために、全知全能であられ、この宇宙を創造されたハナニムが、一人の男性を探すために数千万年間、今まで、被造世界に顔を現し得なかったのです。そのようなハナニムの愛と恨を、皆さんは知らなければなりません。
(237-27, 1992.11.10)
ハナニムのみ旨とは何かというと、創造理想の完成なのですが、創造理想とは、私たち人間世界に三対象圏理想を実現することです。その愛を中心として理想が実現するとき、ハナニムは、「ああ幸せだ」とおっしゃることでしょう。ハナニムが何をもって「幸せだ」と言えるでしょうか。今日のキリスト教信者は、玉座にいらっしゃる万軍の主は全知全能であられるので、「おい」と言えば、「ははあっ」と万事が通じると考えていますが、いつも惨めで独りのハナニムは、どれほど悲惨でしょうか。
(170-95, 1987.11.8)
愛する息子をそのように死なせるしかなかったハナニムの痛ましい事情を、誰が知るでしょうか。それは聖書にはありませんが、息子を死なせるほどの痛ましい事情があったのではないでしょうか。キリスト教が「イエス様を信じる」と言って、あのように集まるのも悲惨なことです。


すべての選民の味方になるべきハナニムなのに、これを知っているのか知らないのか、行く先々で血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に・・・。このような運命にぶつかるのを見て、「ハナニムがこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難きを忍ばねばならないハナニムは、どれほどハンがしこりとなっていることでしょうか。そのように考えたことがありますか。それなのに、どうしてハナニムが最も高い所にいらっしゃることができるでしょうか。いつか、きれいに清算できたらいいと思います。
(64-222, 1972.11.12)
自分の愛する人は、命を投入してでも保護したいものです。本来、創造理想がそうなっています。ハナニム御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみのハナニムとなったのです。
(206-24, 1990.10.3)
堕落しなかったならば、ハナニムは創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することにより、サタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者に強姦ごうかんされ、愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。
天国の王となり得るアダムであり、天国の王妃となり得るエバでした。これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来、アダムとエバを中心として永遠の愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。
それゆえ、人間はもちろん、ハナニム自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのように恨多き歴史路程を誰が知るでしょうか。
(207-272, 1990.11.11)
今日、既成教会では、「ハナニムが栄光の中にある審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世で、最もかわいそうなお方がハナニムです。最も悲痛で身もだえしながらも、光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるかもしれないのを克服して、そこで身を持ち直し、目を開けて意識を確かにもち、死にはしたが、この子らを生き返らせようという心をもった方がハナニムです。創造主の能力、絶体者の力があったのでそれが可能だと考えるのであり、そうでなければおしまいなのです。
(232-114, 1992.7.3)
ハナニムは、いかなる方か? ハナニムは、本然的まことの父母の立場にあるお方です。ところが、真の父母となるべきハナニムが父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じたのです。この創造的世界にはあり得ないことが生じたのに対し、創造主であられるハナニムは、干渉することもできず、それに責任を負って消化し得る立場にも立てないのです。
(240-164, 1992.12.13)


 

② 復帰の恨、子女を尋ねて6000年

私たち統一教会では、原罪とは何だといっていますか。誤って愛したことです。ハナニムの愛と、ハナニムの生命と、ハナニムの血統が連結されなければならないのに、悪魔の愛と、悪魔の生命と、悪魔の血統が連結されてしまったのです。アダムとエバが悪魔の生命体になり、悪魔の血筋を残したので、今まで恨めしい歴史となったのです。それでは、ハナニムのように全知全能で天地を根本から創造し、すべての自主的な権限を所有していらっしゃる方がどうして悪魔の前に、歴史を通して人間をこのような姿、このようにしたのでしょうか。ですから、神はいないという結論は当然なのです。
(211-21, 1990.12.28)
過ぎし日には、いろいろなことがありました。悔しく、無念な内容が多くありました。私の性格では我慢できないようなことが多くありましたが、歯を食いしばってカインの世界を占領しなければならなかったのです。カインの個人ではなく、カインの家庭ではありません。カインの世界を消化しなければなりませんでした。苦く、どれほど苦いことでしょうか。氷山くらい大きくて苦いものを口に入れ、溶かさなければなりません。ハナニムを滅ぼし、人類を駄目にした億千万世の怨恨えんこんの大怨讐おんしゅうの悪魔、この悪魔を黙って屈服させなければなりません。
(163-163, 1987.5.1)
堕落した人類の始祖は、悪魔が父となりました。サタンの愛、サタンの生命を受けたがゆえに、救いの歴史は困難です。キリスト教では「全知全能だ」と言うハナニムが、なぜ無力なハナニムのようになり、人類が滅びていくのに手をつけられずにいるのでしょうか。死んだハナニムの立場にあるのです。
人間が罪を犯したがゆえに、人間がそれを解決し得る解放圏を備えなければ、ハナニムは人間を解放してあげることができません。解放してあげられるものならば、初めからエデンの園からアダムとエバを追放しなかったはずです。ハナニムが思いどおりにできるのならば、エデンの園からアダムとエバを追い出しませんでした。しかし、追い出さざるを得なかったのです。
(224-46, 1991.11.21)
ハナニムの求める真の心をもたなければなりません。ハナニムは、真の愛を訪ねてこられます。救援摂理歴史、復帰摂理歴史の前線から探し求めてきた真の息子として、今まであかまみれになり、傷つき、悲痛な傷跡のあるハナニムの心をさっと開いてさしあげ、余裕満々の純潔な愛が滝の水のように流れ出て、ハナニムが彼を抱き、万事を忘れ、「むしろ堕落があったことで、より幸福だ」と言い得る場はないのでしょうか。男ならば、誰でもそうでなければなりません。
(127-39, 1983.5.1)
悪魔がハナニムに対して、「あなたの創造理想を中心として愛の絶対圏理想である真の単一宗族圏をつくるための愛の血統圏がこのように滅び、破壊状態になったにもかかわらず、今も創造理想的論理が適用されるというのですか」と、あざ笑うのです。そういうときハナニムは、何と答えられるでしょうか。どれほど息の詰まるようなことでしょうか。本来、主人の息子となるべきであるにもかかわらず、怨讐の息子となり、抜け出たくても抜け出すことのできない塗炭とたんの苦しみの中に陥った人類を見つめられるハナニムが、どれほど悲嘆にくれていらっしゃるかを、はっきりと知る既成教会の人々はいるのでしょうか。
(200-235, 1990.2.25)


人類の父母としてこられたのに、父母として迎えられずに、子のために血を流し、死ぬために来たという父母が、あり得るでしょうか。愛の祝宴を催して、「私の息子よ、私の娘よ、家庭よ、国よ」と、天下がすべて和合するとき、一つの平和と栄光の一日ひとひを称えるべき立場にある父母が、失った子女に出会わなければならないのに、会ってみると、子女の手によって刃物で刺され、死んでいったとは・・・。考えてみてください、イエス様がどれほど悲痛でしょうか。無知な人類に向かって教えてあげられない事情の中に埋もれたハナニムの心情は、いかばかりであったでしょうか。
(145-152, 1986.5.1)
悔しい歴史的ハンが先生にはあります。しかし、私の恨は何でもありません。ハナニムがハナニムの本分を果たせずにいます。このような多くの事情を残した歴史過程に、ハナニムの骨髄が溶け出るような悲痛な涙と、流された血の跡がこの地から喊声かんせいをあげているという事実を知らなければなりません。ハナニムを解怨かいおん成就しなければならない使命が残っていることを知っているがゆえに、私は今までこのようなことをしているのです。
(137-175, 1986.1.1)
堕落した世界に責任を負って復帰してこられたハナニムは、高く、貴く、聖なるきれいな所にだけいらっしゃるハナニムではありません。人間には想像もできない、形容することもできない悲惨で悲痛で残酷な背後をもっているのです。
(21-73, 1968.10.14)
皆さんは、自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されれば慰められます。しかしながらハナニムは、誰よりも悲痛さを感じていらっしゃるがゆえに、いかなる人も、ハナニムを慰労し得る立場にいる人がいないのです。
始まりもハナニム御自身であり、終わりもハナニム御自身なので、その心の中にしこりとなった怨恨えんこんをいかにして解くかということが、今までのハナニムの内情的な事情なのです。ハナニムは、このような事情を抱き、今まで復帰摂理をしてこられたのです。
(29-294, 1970.3.12)
ハナニムに会いたくて泣いたことがありますか。涙、鼻水を流しながら口蓋垂こうがいすいが落ちるほど泣いたことがありますか。それほど涙の出るような悔しく、悲痛な立場に立ったことがありますか。これはすべて、心情世界を越えるにおいての一つの峠となるのです。
(49-291, 1971.10.17)
人間と永遠に共にいるべきハナニムが、人間と引き裂かれる時のその悲痛さと、悔しさと、憤りと、悲しさは、どれほどのものであったでしょうか。人間は、全宇宙を与えられても替えることのできない愛の基地を目指して、成熟し、水平線上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。


そうなったならば、それが基準となり天地のあらゆる存在、あらゆる万物の測定基準になれたのではないでしょうか。その愛と因縁を結んだすべての物は、どこにでも合うようになっています。
(149-240, 1986.11.23)
悪魔は4代を蹂躙じゅうりんしました。まず王妃、その上は何ですか、王母、その次は王の祖母、次には娘、このように4代がみな生きているのを、王の目前もくぜんで真昼に裸にさせて蹂躙してしまうのです。娘まで蹂躙してしまうのです。次には、みな殴り殺します。これほどの怨讐を処断し得ないハナニムの悲痛な事情を知らなければなりません。
(200-68, 1990.2.23)
ハナニムにとって悔しいことは何でしょうか。偽りの血筋を受け継いだことです。偽りの血統を皆さんは受け継ぎました。起源はサタンです。サタンという存在は、被造物をすべて滅ぼすことを願っています。そのような宇宙、そのような所有権、そのような血筋が皆さんにつながっているのです。見て、考えて、においをかいで、話し、触る、五官のすべての根がサタン側にあります。
皆さんの先祖は、とても悪い父母の実です。そのようなものをハナニムが救おうというのですから、ハナニムは本当にかわいそうです。(堕落した)アダムとエバを片づけてしまい、アダムとエバを再び造ることができないのは、なぜでしょうか。造ることはできても、本来、永遠の真の愛を中心として永遠の因縁で造ったがゆえに、そのようにできないのです。
(216-36, 1991.3.3)
ハナニムの悲惨さ、悔しい立場に立っていらっしゃることを皆さんは知らなければなりません。「私が造らなかったならば、あのようにはならなかったものを。愛を求めて栄光の天国を願ったことが、このようになるとは」と言われるのです。なぜでしょうか。悪魔の血肉を受けたからです。
悪魔の愛が注がれ、悪魔の生命、悪魔の血統がそこにあるので、これを取り除かなければハナニムは所有することができないのですが、それを取り除けば死んでしまいます。ですから、そこに徐々に新しい血管と生命と愛を注入して第2の創造物、救援物としてハナニムのような代身者を探して立てなければならないのです。
その怨讐を愛してあげなければなりません。その怨讐を我慢して愛さなければならないのです。
(212-42, 1991.1.1)
ハナニムが、日が昇ったといっては休み、気候が良く、季節が良いといっては休むことがあるでしょうか。皆さんも同じです。怨讐を愛さなければなりません。この世の天地の背後にいたサタンを愛していかなければなりません。ハナニムの息子の聖なることを私がたたえ、驚くべき価値をもっていることを知っているとするならば、その価値の前に、悲惨でつらく、恨めしくとも行かねばならない道があるのですが、それが大怨讐を愛するということなのです。
(127-119, 1983.5.5)


2) 息子娘を失った衝撃、悲しみのハナニム

 

① 永遠のひとり子を失ったハナニム

純粋な本質的愛をもったハナニムの前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、ハナニムの心は、どれほど悲しかったことでしょうか。いかなる人間よりも、極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨の中の悲惨だというのです。そのような父なるハナニムが、失った子を再び探し出すために、復帰の道をたどっていかれたのです。
(127-18, 1983.5.1)
父母が、愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷くちゅう、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にはできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは、世の中のことを見れば分かります。
それではハナニムは、どうして悲惨になったのでしょうか。ハナニムは、漠然としたハナニムではなく、具体的なハナニムです。私たち人間とは、最高の関係をもったハナニムです。ハナニムが喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けられる出発の起点をもつことです。ところが、その出発の起点を人間によって失いました。それがアダムとエバの堕落です。
(20-205)
この世でも、父母が還暦を過ぎてから生まれた7代続きの一人息子が死ぬことを考えれば、絶望の中の絶望だといえます。若ければ、また生むこともできますが、年を取ってから生まれた7代続きの一人息子が死んだとすれば、7代圏を継承しようとしていた先祖たちの心は、いかばかりでしょうか。先祖たちは、自分の子孫、自分の血統を通して、世界にまたとない万福を受けたいのです。ですから、子が死んだとすれば父母は、あとを追って死にたいのです。
ところで、アダムは、7代続きの一人息子どころか、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムをして家庭を築かせ、創造の大業を果たした立場に立たせようとしたのに、そのアダムが死んだのですから、ハナニムの心はいかばかりであったでしょうか。このようによじれたのですから、どうしたらよいのでしょうか。ハナニムは、アダムとエバの堕落によって6000年間、衝撃から抜け出せずにいらっしゃいます。
(20-210)
元来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に入れば、永遠の所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが、ハナニムがそのような中心となるべきであったのに、サタンが中心となったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。ハナニム御自身がまことの理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは分かれてはならないものです。その血統もハナニムの直系子女となるべきであるのに、それが妨げられて反対となったのです。
(206-236, 1990.10.14)


人間の悲惨な姿を日々、時々に見つめられるハナニムのその心情は、いかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が肥だめのようになり、地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だというハナニムの威信はどうなるでしょうか。絶対的なハナニムの威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。
(218-240, 1991.8.19)
息子が犠牲になったとすれば、その父親は、息子が死ぬようにほっておくでしょうか。このような観点から考えると、愛のハナニムは、愛の対象である私たちを死の場に立たせることができないのです。全知全能のハナニムであるならば、理想的な世界を造って復活させなければならないのです。父母の愛というものを考えれば、それは十二分に可能です。
ハナニムがいらっしゃるとすれば、ハナニムは必ずそうし得る立場にいらっしゃるでしょうから、私たちをそのような理想的な復活圏へと移してくださらなければならない、という結論になるのです。ハナニムは、死ぬような所、悲惨な所に置いたのではなく、私たち人間を高次元的な世界に連れていくための一つの関門として、そのような所に置いたとするならば、それは素晴らしいことではないかというのです。
(67-219, 1973.6.21)
創造主の威信すらも忘れ、全知全能であるハナニムの威信すらも忘れ、あまねく偏在されるハナニムの実存性すらも忘れるような心情で、アダムとエバを愛したかったのです。そのような立場で堕落したアダムとエバを見つめられるハナニムの心は、いかばかりであったか、これを知らなければなりません。
(7-291, 1959.10.11)
今日、私たち人間は、ハナニムの息子、娘ではありません。ハナニムがいくら泣いても、見て見ないふりをします。いくら悲しんでも、見て見ないふりをします。それは、人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。むしろ、ハナニムが悲しむのを見て賛美しています。滅びるのを見れば、喜んで笑うのです。
ハナニムがこのような人間を指導し、開拓の方向を教えてあげようというのですから、どれほど御苦労なことでしょうか。ハナニムに、「ため」に生きようという心、憐れみの心がなかったならば、今まで摂理歴史を支えてこれなかったでしょう。
(42-257, 1971.3.21)

 

② ハナニムの歴史的に悲惨な姿

ハナニムが天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は、御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込み、「あなたの子孫はこのように凄惨せいさんな立場に処している」と、ハナニムに向かって嘲笑ちょうしょうしています。
サタンがまた、「全知全能のハナニムなのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、ハナニムは沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならないハナニムの歴史的に悲惨な姿を、皆さんは考えたことがありますか。
(183-19, 1988.10.29)


今日の既成教会で信じているように、全知全能で栄光のみ座におられるハナニムであるとすれば、御自身の息子、娘が死んでいくのに、み座から「ここに上がってこい。私が座を離れることはできない」と言うでしょうか。み座でも何でも投げ出して下りていくでしょうか。どちらでしょうか。そのままいらっしゃるでしょうか、下りていかれるでしょうか。王冠を脱いで急いで下りていくでしょうか。どうされるか考えてみてください。
(123-159, 1983.1.1)
ハナニムが泣き叫びながら、「私の息子よ、私の娘よ」と何万年、何十万年、何百万年も呼び続けてこられたという事実を知らなければなりません。そのようなハナニムの前で、「父よー」と声がかすれるほど呼んだことがありますか。舌が乾き、息が詰まり、目がつぶれて開けられないほどに、切に父を呼んだことがありますか。生命の主体であるその価値を抱くために、どれほど身もだえしたでしょうか。身もだえした基準に比例して、皆さんの人格の基準が測られるのです。
(184-219, 1989.1.1)
私たちは、全知全能であられるそのお方に対し得る何の内容も持ち合わせていません。しかも、堕落した人間として生まれた私たち、私たちの目は俗なるものです。私たちの五官の感情は、すべて俗なるものです。ハナニムに対し得るものは一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対し得る内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対することができるという唯一の道があるのです。
したがって、皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。そのような人は10年が過ぎ、20年、30年の生を経れば、自動的にハナニムの必要とする人になっていくのです。
(149-37, 1986.11.1)
ハナニムが数千年の間復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、ハナニムが善なる心をもっていたので耐えてきたのでしょうか。ハナニムが今まで人類歴史において数万年の間救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続けてきた原因は、どこにあるのでしょうか。全知全能であられるからですか。そうではありません。愛の道を求めてこられ、愛の息子、娘を探し求めていらっしゃるからです。
それゆえ、1000年を1日のごとく、受難の道を越えに越えることのできた偉大な力は愛でした。そうでしょうか。そのとおりなのです。
(109-281, 1980.11.2)
ハナニムがかわいそうです。かわいそうではありませんか。「全知全能のハナニムがどうしてかわいそうなのか」と言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても、愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道がハナニム御自身にあるならば、ハナニムが今まで6000年の歴史路程を経ながら苦労される必要はないのです。
(35-88, 1970.10.4)
人間が罪を犯したからといって、「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりのハナニムではありません。罪を犯した事情を、よく知っていらっしゃるハナニムです。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとするハナニムです。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。


皆さんは、ハナニムとどれだけ事情を通じたことがありますか。ハナニムは、私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、6000年という歳月を訪ねてこられたのです。
(9-231, 1960.5.29)
統一教会とは何でしょうか。ハナニムの心情を論じています。ハナニムを解放しようとしています。既成教会は、私たちがそのようなことを言うので、私たちを「異端だ」と言います。皆さん、立派な大統領でも自分の子が今死んだとすれば、その死んだ子の前で大統領の権威をもって、「子供は死んだけれども、大統領は涙を流すことはできない」と言うでしょうか。陰で鼻を打ちつけ、痛哭つうこくし、人前では涙をぬぐう、そうだとすれば通じますが、そうでないとすれば死んだ息子の霊が、「これが父親だなんて・・・。父親ではなかったのだ」と言うことでしょう。死んだ霊が活動するとすれば、その父親に協助するでしょうか、反対するでしょうか。世界の大統領でも誰でも、自分の愛する子供が死んだならば、涙を流さなければなりません。
(196-18, 1989.12.24)
人間の創造本然の特権的な価値を喪失し、堕落のふちであえぐ無価値な人生を見つめるハナニムの内情的心情は、どれほど悲惨なことでしょうか。本来彼らは、ハナニムの愛と、ハナニムの生命と、ハナニムの血統を通して直系の子となり、天国の勝利的栄光をもつはずでしたが、敗者の仮面をつけ、呻吟しんぎんと、苦痛と、絶望の中であえぎながら命を絶つ場にいるのです。ですから、それを見つめるハナニムの心は、どれほど悲痛でしょうか。そのように、ハナニムが悲しみのハナニムであることを知らずにいました。それゆえムン総裁は、ハナニムを知ってから何日も、何週間も痛哭しました。統一教会の出発には、そのように深いものがあるということを知らなければなりません。
(211-207, 1990.12.30)
ハナニムの心の中に苦痛があるとは、誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らずにいて、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。
また、宗教指導者の中で誰一人として、そのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて、世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。
(215-171, 1991.2.17)

 

3) 拘束されたハナニム、囹圄のハナニム

 

① ハナニムが立つ瀬を失った

私のハンは何でもありません。ハナニムがハナニムの本分を果たせずにいらっしゃいます。このような多くの事情を残した歴史過程で、ハナニムの骨髄が溶け出るような悲痛な涙と、流した血の跡がこの地で喊声かんせいを上げているという事実を知らなければなりません。このようなハナニムの恨を解怨かいおん成就する使命があるということを知っているがゆえ、私が今までこうしているのです。
(137-175, 1986.1.1)


ハナニムを解放しなければなりません。ハナニムは今、愛を中心として拘束されています。監獄に閉じ込められているのと同じです。解放されていないのです。全知全能のハナニム、宇宙を創造されたハナニムが、人間ゆえに愛を中心として築こうとされた理想世界をサタンに奪われたので、ハナニムも心情的に解放されないのです。
ハナニムの心情的解放基盤が、この宇宙にできなかったのです。ハナニムも拘束されました。愛する子供が死んだのに、父母が安らかでいられないのです。
(138-261, 1986.1.24)
ハナニムを、私の手で解放しようというのです。ハナニムは、解放されたハナニムではありません。拘束されたハナニムです。息子、娘を失った父母、それ以上に孝行息子が死んだのちの父母の心を解くためには、その孝行息子以上にすべての面を備え、10倍以上功を尽くして孝行しても、その本来の心を解放することはできません。レバレンド・ムーンが、そのようなハナニムを解放しようというのです。
(135-283, 1985.12.15)
悔しいハナニム、ハナニムがなぜ悔しいのでしょうか。人間世界では、青春時代に苦労すれば必ず未来に希望が保障されるのですが、ハナニムは、歴史始まって以来今まで苦労していらっしゃるのに、いつ希望があるのでしょうか。いつハナニムの希望が成し遂げられるのでしょうか。ハナニムは、若いハナニムでしょうか。今は、年老いたハナニムなのでしょうか。ハナニムは、何歳だと思いますか。ハナニムは、宇宙の外にいるので年齢もありません。ハナニムは、地球のように太陽系を1年に1周回るでしょうか。その外側にいるので数えられません。計算する必要がありますか。
(105-184, 1979.10.21)
万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立ったハナニムは、嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに、父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場にハナニムがいらっしゃるがゆえに、ハナニムを解放してさしあげなければなりません。
何によってハナニムを解放してさしあげなければならないのでしょうか。ハナニムは、万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛せる解放圏を、ハナニムの前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。
堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。
(65-100, 1972.11.13)
人間が堕落することによって、何がどうなりましたか。ハナニムが自由なハナニムになれませんでした。拘束のハナニムとなりました。


次に、人類始祖が拘束されてしまいました。その次には、天使世界まで拘束されてしまったのです。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内であがいています。人類も、やはり同じです。
(79-26, 1975.6.16)
親不孝者をもった親は、その親不孝者によって拘束されることを知らなければなりません。その親を解放するためには、親不孝をした以上の孝行を尽くさなければなりません。それだけでなく、大衆の前で公認されなければなりません。そうして初めて過去の罪を洗い流すことができるのです。これが天理です。同じ道理です。「先生だけのために・・・」というのは必要ありません。隣人とこの国、この民族はかわいそうな群れです。
5000年間「わらぶきの3間の家を建て、両親に侍って、千年、万年・・・」(韓国の童謡の歌詞)。両親に侍るという言葉は有り難いのですが、千年、万年わらぶきの3間の家に住むのですか。かわいそうな民族です。このかわいそうな民族を正しく指導しなければなりません。お金も何もないこの民族が、ハナニムの恵みまで受けられなければ、どこに行って暮らしますか。
(85-263, 1976.3.3)

 

② ハナニムがハナニムの本分を果たせずにいる

統一教会は、いつまで残るのでしょうか。地球を解放し、霊界を解放し、のちにハナニムを愛の心情で解放するときまで、統一教会は行かなければなりません。最後には人類を解放し、霊界を解放し、ハナニムを解放しなければなりません。このような話を聞くのは初めてのことでしょう。ハナニムが私たちを解放してくれるものと思っていたのに、私たちがハナニムを解放しなければならないのです。心情的にはハナニムが拘束されているということを知らなければなりません。
(85-270, 1976.3.3)
愛する父母の前に親不孝者がいるとすれば、その親不孝者が父母の願う基準、解放される位置まで上がってくるのを見なければ、その父母の心情の解放圏はできないのです。同じようにハナニムにおいても、最高の愛の相対として造ったアダムとエバは、ハナニムの愛の相対であると同時に、縦的な面では父子の関係であり、横的な面では、夫婦の縁となるようになっていたので、彼らを中心として天地のあらゆる愛の理想を実践しようとしたのです。ところが、堕落によってそのすべてを失ったのです。ハナニムまでも、拘束のハナニムとなってしまったのです。
(210-308, 1990.12.27)
天国を築いて生きる人でなければ、天国へ行くことはできません。私が監獄に入って手錠をかけられて暮らす立場に立ったとしても、「私」を拘束させ得ない愛があるのです。私が腰を曲げ、眠ることのできない立場にあるときに、夜に起きると手が光を放っていたのです。なぜ光るのでしょうか。ハナニムが抱いてくださっているからです。それが分かったのです。
ですから暗い部屋でも光を放ったのです。私がうめき声と泣き声を聞いては監房の隅で粛然しゅくぜんとしていると、次の日の朝には、みなはったい粉の包みを私に持ってきてくれたものです。通りを越えて、「どこどこの監房の何号の所に、お前がこれを持っていかなければ、この監房全体が安らかではなく、お前の家が安らかではないので持っていってあげなさい」と言うのです。私のハナニムは愛のハナニムなので、このようなハナニムを冷遇する恩知らずの統一教会の群れとなってはなりません。
(137-202, 1986.1.1)


「人類のゆえにハナニムが拘束を受けているのだ。私ゆえにハナニムが拘束されているのだ。私という一個体のためにハナニムがサタンの讒訴ざんそを受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖神聖霊)が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。ハナニム、私に力をお与えください。お父様を安息させ、イエス様も聖神聖霊)も解放の座に移してさしあげます」と言える、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者をハナニムが6000年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。
(7-162, 1959.8.30)
ハナニムとサタンが闘ったとすれば、止められる者はいるでしょうか。そのままで闘いが終わるでしょうか。ハナニムの前に孝子がいなかったし、ハナニムの前に、忠臣の道理、聖人の道理、聖子せいしの道理を果たしながら、天国を守れる、主流の愛の体制がなくなったので、ハナニムの立つ瀬がないのです。今まで囹圄れいごの身で、軟禁状態にあるハナニムとなったのです。天国は、完全に廃虚となりからになっています。そのような痛みをもっているのがハナニムです。
(302-226, 1999.6.14)
では、ハナニムの探し求めるおじいさん、おばあさんに会ったことがありますか。堕落したがゆえに、会うことができませんでした。ハナニムの探している母、父に会ったことがありますか。ハナニムの探している妻、夫に会ったことがありますか。ハナニムの探している息子、娘に会ったことがありますか。この恨みをどのように解くのでしょうか。この心情の拘束の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは、ハナニムの愛以外にはありません。ハナニムの本質的愛以外にはありません。
(209-106, 1990.11.27)
ハナニムはあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しいハナニムの心、気が遠くなるほど嫌気が差すのを誰が知るでしょうか。
(197-327, 1990.1.20)
既成教会では、「聖なる、聖なる神よ、栄光の神よ、私に恵みを下さい」と言うのですが、ハナニムは、そのようなハナニムではありません。悲惨なハナニムです。拘束された中にあるハナニムです。良い息子を生んで解放されるべきハナニムであられるので、ハナニムの運命は哀れな運命です。ですから皆さんは、ハナニムを解放してさしあげなければなりません。そうせずしては天道が正しく定められないので、この地上に理想世界は現れることができないのです。これを正すための役事が統一教会の役事であり、使命です。
(22-151, 1969.2.2)


統一教会のみことば統一教会の内容、耳で聞く内容の中には何があるのでしょうか。心情的に拘束されているハナニムを解放できる内容をもっているのです。人間が堕落することにより、ハナニムは嘆息されたと言われています。
嘆息の歴史は、出発から世界的なものとなり、世界的になったがゆえにパウロは、「万物が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までもが嘆息している」と言いました。そうして、ハナニムの多くの息子、娘が現れることを願っていると言ったのです。それは、嘆息圏から逃れることを、見極めていくことを願ったからです。
(65-100, 1972.11.13)

 

4) サタンを処断できない理由

 

① サタンが讒訴する理由

今日、神学的な立場でも、もともと悪魔サタンがいたのか、いなかったのかということが問題となります。もし、もともとサタンがいたとするならば、問題は大きいのです。全知全能のハナニムの摂理に対し、6000年間反抗してはそれをさえぎってきた巧妙なサタンが初めからいたとするならば、このサタンを退治し、取り除ける人があり得るでしょうか。問題となります。
(54-56, 1972.3.11)
「サタンはどこから生じたのか?」と考えるときに、もともといたという人がいます。全知全能のハナニムに反対し、本然の人類始祖を堕落させたサタンがもともといてこのような結果を招いたとするならば、サタンがいる限り、私たち人間が救われるのを願うことはできません。そうなれば結局、世界は二元論となり、二つの目的をもって世界は永遠に続くという結論が出てくるのです。
(53-259, 1972.3.6)
本来、ハナニムのみ旨として立てられた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし、ハナニムは絶対的な権限をもった方であるがゆえに、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変われないのです。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、ハナニムは絶対的なお方なので、本来天使長である悪魔サタンまでも自然屈服させなければならないのです。
ハナニムは、いてもいないのと同様の立場に立ち、そこから絶対的なハナニムの権威を立てなければならないのです。ハナニムは先に打つことができません。ハナニムが悪なるサタンを打つことはできません。善なるハナニムが悪なるサタンを打つことはできないのです。
(210-340, 1990.12.27)
全知全能のハナニムが、どうしてサタンを一息に片づけてしまうことができないのでしょうか。それを片づけようとするならば、アダムとエバ、創造したものまですべて片づけなければならないという、愛の理想圏を爆破しなければならないという結論になるので、そうすることができないのです。絶対的な主人には、一度しようとしたことは絶対的に完成させるべき責任があるのです。それゆえ、よこしまな悪魔がいくら攻撃し、いくら迫害したとしても、立てられた道理を回復するために歴史を抱いていかれる主人がハナニムである、ということを誰も知らなかったのです。
(208-256, 1990.11.20)


ところで、全知全能で絶対的なハナニムは、なぜ今まで人類がサタンに侵犯され、サタンの足の下で犠牲になりながらも、ハナニムがいるのかいないのか分からないほどに、何も行使できずにいるハナニムとなったのでしょうか。これは深刻な問題です。それは、ハナニムが治められる国がなく、ハナニムが治められる民がなく、ハナニムが治められる宗族がなく、ハナニムが治められる家庭がなく、ハナニムが絶対的に公認できる個人がいなかったからです。
その個人が成立し、その家庭が成立し、その宗族が成立し、その民族が成立し、その国家主権が成立すれば、一時に悪なる国、悪なる国民、悪なる宗族、悪なる家庭、悪なる個人を処理することができるのです。そうしてこそ善となるのです。そうしてこそハナニムの権威が立つのです。
(56-247, 1972.5.18)
皆さん、サタンに勝つことができますか。知恵の王であられるハナニムも、サタンの讒訴ざんそにかかればどうすることもできません。一国の大統領もそうです。ある条件に引っ掛かって国民がわあわあとデモをすればどうなりますか。首を切られるかもしれません。条件に引っ掛かれば、全知全能のハナニムもどうすることもできません。大臣も条件に引っ掛かれば、夕方には首が飛びます。ですから条件防御をしなければなりません。いかにして条件防御をするかという問題が、信仰生活における極めて難しい問題です。ここに生死の問題がかかっています。
(76-58, 1975.1.26)
私たち人間は、サタンの愛を中心としてサタンの生命、サタンの血統につながってきました。これが問題です。このような位置には、ハナニムがいることができません。ハナニムが干渉することができません。今まで歴史において、全知全能のハナニムがなぜ無能なハナニムとなってきたのでしょうか。怨讐おんしゅうとなる立場にサタンが立ち、その怨讐は何を奪っていったでしょうか。ハナニムの愛を奪っていきました。ハナニムの愛の圏、ハナニムの生命圏、ハナニムの血統圏を蹂躙じゅうりんしたのです。この概念を常にもたなければなりません。
(206-236, 1990.10.14)
本来、サタンは天使長でした。ところがその天使長が、「私は堕落してサタンになったが、ハナニムは全知全能の絶対者であるから、あなたの立てた法度を中心として解決しなければならないのではないか。私は法に背いてサタンになったとしても、ハナニムは全知全能な絶対者であられるのだから、あなたの設定した法を中心として実践すべきではないのか」と言うのです。
(39-88, 1971.1.10)


なぜ怨讐を愛さなければ、私たちの道を越えていくことができないのか説明します。これは「原理」の本にはありませんが、とても重要なことなので知っておかなければなりません。堕落した天使長がハナニムを讒訴しても、ハナニムであられるがゆえに、たとえ天使長は堕落したとしてもハナニムが立てられた法度を遵守じゅんしゅせざるを得ないのです。ハナニムは絶対者であられます。
それゆえ天使長が堕落したとしても、ハナニムは被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。これは、ハナニムが堕落以前の天使長になさろうとされたことが何であろうと、堕落したのちもそうせざるを得ないということを意味します。それゆえ天使長はハナニムに、「ハナニム、あなたは私を完成期まで、完成期ののちまでも愛されることになっています」というのです。
(52-87, 1971.12.22)
アダムになろうとすれば、3人の天使長を治めなければなりません。天使長は、絶対服従しなければなりません。絶対服従して絶対に愛さなければならないのです。ハナニムに絶対従順せず、絶対服従できないサタンは、絶対従順して絶対服従すべき天理原則が残っている限り、原理原則が残っている限り、その原理原則をサタンの勝手にすることはできません。その原理原則に順応するしかないということをサタン自身が知っています。
ハナニムが全知全能であっても、原理原則に反すれば除去されるのです。大統領でも憲法を通してこそ行使できるのと同じです。憲法になければ、大統領も勝手にできないようになっています。
(172-66, 1988.1.7)
統一教会ムン先生という人は、深刻な人です。深刻でした。ハナニムがいるのか、いないのか。ハナニムは全知全能であられるのに、なぜ悪魔を一日で清算してしまわないでほうっておくのでしょうか。ヨブ記を見てください。あれほど無力なハナニムがどこにいらっしゃるでしょうか。そのようなことが理解できなければなりません。そうしなければならないハナニムがどれほど深刻でしょうか。死ぬか生きるかで身を投げ捨て、一身を絞首台に差し出し、闘い、より分けて取り戻したのです。自分の本然の生命を取り戻さなければなりません。
(187-122, 1989.2.5)
ヨブ記を見ても、ハナニムはどうして悪魔の願いを聞き入れられるのでしょうか。「ため」に生きる愛をもった本体であるので、悪魔にまで、悪魔に対しても、悪魔の行動をもって対することはできないのです。ですからまことだというのです。
(144-161, 1986.4.12)
ハナニムはハナニムの神秘的な創造力を活用して、サタンを屈服させるのではありません。自然屈服です。
(207-349, 1990.11.11)
今、悪魔は、世の中がハナニムのところに戻ることができないようにめちゃくちゃにしました。フリーセックスやら何やら・・・。アメリカでは近親相姦そうかんがどれほど多いか知れません。父親に3人娘がいれば、その3人と暮らします。そのような者たちがたくさんいます。フリーセックスなので叔父が母親とも一つになり、息子が自分の母親とも一つになり、そういった具合です。獣と変わりありません。ですからサタンがハナニムに、「こんなところでハナニムの創造理想である愛の理想を立てることができるのか、ハナニム。ははは」と笑っているのです。
(222-230, 1991.11.3)


 

② ハナニムは法度を守られる

ハナニムは、いかなる方ですか? 宇宙の心のようなお方です。この宇宙は、体のようなものなのですが、その体の真ん中には誰が入っているかというと、悪魔が入っているのです。空中(霊界)の権勢をつかんだサタンがこの宇宙を支配しているのです。これを消化するために、ハナニムはどうしなければならないでしょうか。力ずくで打ってしまうことはできないのです。宇宙の創造の本質は愛であり、宇宙の歴史的伝統が愛を通じたものであったので、誤った者がいたとしても、ハナニムはその原則の立場に立たざるを得ないのです。
それゆえハナニムが堕落したこの宇宙を回復するためには、今まで本質的愛を中心として創造されたまことの愛の理念を実現するために投入した本然的基準を、永遠に続けなければ、絶体者であるハナニムの権威を取り戻すことができないのです。ですからハナニムは、いかばかり大変なことでしょうか。
(210-229, 1990.12.23)
堕落とは、サタンを中心とした愛の因縁を父母の立場で結んだことです。堕落論だの、善悪の実の話は、必要もないのです。否定することはできません。ですからサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ血族が今まで残り、つながってきたのです。サタンは愛の怨讐おんしゅうです。
ハナニムが創造理想として万年夢見てきた事実を破綻はたんさせたのです。官吏の家門の一人娘をしもべ蹂躙じゅうりんしたとすれば、「その家の主人の娘だ」と言うことができるでしょうか。追い出されるしかありません。天地の大道たいどうの軌道を離れたということは、愛において過ちを犯したということです。これは否定することができません。
(218-230, 1991.8.19)
悪魔の子を自分の愛する息子、娘以上に愛さなければ、ハナニムの本然の創造理想を実現することができないのです。悪魔は、「私は堕落してこうなったのであり、私の血族がハナニムを裏切ったとしても、ハナニムだけは、天理の道理を守ってこそハナニムといえるのではないか」と提唱するのです。ここで引っ掛かっているのです。
(208-291, 1990.11.20)
サタンがハナニムに向かって、「あなたは永遠不滅の主体であられるハナニムであり、天地創造の大主宰であられることを私は知っています。真理の本体であり、愛の本体であり、原則の本体であるがゆえ、あなたはその法則、原則どおり、変わることはできません。ゆえに、私は堕落したとしても、あなたはあなたの立てた原則を実行すべきではないですか。そのため、あなたは原則的な存在として、堕落した天使を愛さずしては本然の世界に息子、娘を連れていくことはできません。あなたが私を愛し、あなたの息子までが私を愛さなければ天国へ行くことができないというのが、堕落前の天使長に対してあなたが立てた計画ですから、私が堕落したとしても、あなたはその原則を守らなければなりません。ですから私を愛さなければなりません。そうでなければ真のハナニムになることができず、真の息子、娘になることができません」と讒訴ざんそし、食い下がるのです。
(129-215, 1983.11.5)


悪魔が言うには、「ハナニム、私は変わる悪魔の親玉であり、変わり得る先祖になっているが、あなたは天地の大主宰であり、真理の本体であり、不変の主人公ではないか。生命の不変の原則を備えた愛をもったお方ではないか。私は堕落してならず者となってしまったが、あなたはあなたの立てた本来の理想基準というものを実践すべき責任がある。だから私は、あなたのみ旨が成されていく理想の門まで、その世界に入っても、そこに住むことができなかったとしても、そこに入ってから出てくることができる。そこでは生きられないので、出てこなければならない」と言うのです。これがサタンの主張です。するとハナニムは、「お前の言うことはもっともだ」とおっしゃるのです。
(191-244, 1989.6.25)
悪魔サタンは、私たち人間が一つでも罪を犯すなら、ハナニムの前に讒訴します。「この者は罪を犯したので、地獄に行かなければなりません」と即座に讒訴します。ハナニムの前に人間の罪を讒訴するこのサタンは、罪を犯したことに違いないのですが、この悪魔サタンの罪をハナニムの前に告訴した人は、いまだにいません。
「絶対的なハナニム、あなたの権限を中心として考えると、悪魔サタンは、私たち人類の前にゆるされざる悪なる罪を犯し、ハナニムの前に赦されざる悪なる罪を犯したので罰してください」と言える人さえ現れたならば、罪を犯したサタンを除去する道があるのです。
そのようにしてもサタンを除去できないとすれば、「ハナニムは全知全能のハナニムではない」と言うしかありません。ハナニムは人間の側のハナニムではなく、サタン側のハナニムだということになります。
(54-134, 1972.3.22)
サタンは天使長なので、アダムとエバが完成して天国に入るときには、天使長もアダムとエバについて天国に入るのです。天使長がハナニムの愛を受け、アダムとエバの愛を受けたのちに、共に天国に行くというのが原理であり、創造の原則です。
サタンは途中で失敗しましたが、サタンが「私は僕として裏切り者となったのですが、主人であるあなたは、天理の道理を定めた上で本質的伝統を立てました。あなたの立てた原則の上で、完成したアダムと天使長を愛してこそ天国に入れるというのが原則なのだから、あなたはその原則を捨てることができないのではないですか」と言うならば、おとしいれられてしまいます。「お前の言うことは正しい」と言うのです。「私はこのようになったとしても、ハナニムは私と同じというわけにはいかないのではないですか」と、サタンはこのように引っ掛けてくるのです。
(211-177, 1990.12.30)
悪魔は天使長なので、「本来、天国に入れる息子、娘は私を愛さなければならないのではないか。ハナニムも、アダム自身も私を愛してから天国に入るのが本来の創造原理ではないか」と言います。悪魔はまた、「そのようにならない限り私の讒訴条件を逃れることはできません。あなたは私を愛し、あなたの息子であるアダムも私を愛したという条件を立てなければなりません」と言うのです。


このような問題を中心として、「怨讐を愛せよ」という言葉が宗教人の中から出てきたのです。
(219-36, 1991.8.25)
ハナニムと父子の関係になれば、息子が痛哭つうこくする立場において父なるハナニムも痛哭するようになっています。そうなれば、サタンはびっくり仰天して逃げていくのです。その場にいられないのです。
(228-217, 1992.4.3)
人間として自分の本然の権威を取り戻せる人、すなわち悪魔サタンよりも上になる人が現れなければ、この世の中を天の側に取り戻すことができないのです。言い換えれば、全知全能のハナニムの前にサタンを引っ張っていき、「ハナニム、悪魔サタンがこのような罪を犯したのに、なぜ審判してしまわれないのですか」と告訴できる人が現れなければならないのです。
(53-335, 1972.3.6)
今まで私たちは、サタンに主管されて引きずられてきたので、反対に私たちがサタンを捕らえ、ハナニムの前にサタンを引っ張っていって讒訴しなければならないのです。ところが今日この世では、サタンがいるということは知っていても、サタンがどのような罪を犯したのかは知りません。いまだに全知全能のハナニムの前で、「ハナニム、この罪を犯したサタンを、あなたの全知全能の権限でもって処断してください」と讒訴した人は、誰一人としていないのです。
(53-88, 1972.2.10)
それでは、ハナニムは全知全能であられるのに、なぜ天使長を打ち捕らえることができないのでしょうか。なぜ悪魔サタンをやっつけることができないのかというのです。サタンを打ち捕らえられないのは、ハナニムもサタンを愛さなければならないからです。絶対者であられるハナニムが立てた天使長が悪魔になったとしても、ハナニムは、天使長を本来の堕落していない立場で考えてあげる基準をいつももって歩まなければならないのです。ですから天使長を愛さなければなりません。ハナニムに造られたアダムとエバは、ハナニムの体です。ですからハナニムのみならず、アダムとエバもサタンを愛さなければなりません。
(175-14, 1988.4.6)
ハナニムが6000年間、愛する息子、娘の首を数千万回も切り落としてきたサタンを追及できないのは、天使長を完全に愛してやれなかった責任があるからです。ですから今まで誰かが過ちを犯せば、「ハナニム、あの者がこのようなことをしようとしています」と讒訴するサタンの仕業が背後にあったのです。このような内容は、今日、統一教会が現れたので分かるのであって、誰も知らなかった内容です。
(35-95, 1970.10.4)
もし悪魔サタンを引っ張っていってハナニムの前に訴えるならば、ハナニムが「お前、そうするものではない」とおっしゃられるでしょうか、喜ばれるでしょうか。ハナニムは間違いなく、「おお、私の息子よ、たった一人の我が息子よ」と万世の前に立てて祝福してあげたいことでしょう。そうしたいハナニムの内情がどれほど懇切で、それをどれほど願っていらっしゃるかということを私たちは推し量ることができます。ハナニムは、絶対的なハナニムであり、全知全能のハナニムであり、公義の審判主であられるがゆえに、もし悪魔サタンを告訴し、讒訴する人が現れたならば、ハナニムはサタンを審判することができるのです。
(54-60, 1972.3.11)


アダムとエバは罪を犯したので、ハナニムが思いのままにできないのです。自分の息子、娘が殺人をしたからといって、母親が代わりに責任を負ったり、兄弟が代わりに責任を負うということができるでしょうか。できません。それが天の法です。誰と罪を犯したでしょうか。サタンと罪を犯しました。
アダムが罪を犯したのですが、サタンがどうで、アダムとエバがどうだということについて、ハナニムはいまだに審判していません。追い出しはしましたが、ハナニムが今でも救いの摂理をしていらっしゃるので、サタンに讒訴されながらも審判することができなかったのです。このような問題は、神学的に見て大きな問題です。なぜ処理できなかったのでしょうか。全知全能のハナニムが、なぜ悪魔を処理できないのかというのです。
(223-304, 1991.11.17)
ハナニムは、闘いには関心がありません。ハナニムの創造理想圏、その理想圏内には戦争、闘争という概念はありません。闘争の概念があるとするならば、二元論に陥るのです。根本的にこれが一つの理想世界、絶対的な平和の世界とは関係ないところに落ちることになるので、ハナニムの創造世界圏内には闘争という概念はない、ということを知らなければなりません。
(224-224, 1991.11.24)
サタンがどのようにして落ちたのでしょうか。それをはっきりと知らなければなりません。サタンは大きいもの、下がっていったものをすべて裂きましたが、天は小さいもの、下がっていったものをすべて合わせて大きくするのです。反対の道です。宇宙の原則、宇宙の生成の原則からすればどのようになっているかというと、真の愛を求めようとする宇宙の根本に立脚してみて、この根本に順応することにおいてサタンは根本的に反対したので落ちていくのです。全知全能で唯一無二であり、永遠であられるハナニムの本性は、すべて100パーセント「ため」に生きるということです。
(179-52, 1988.7.3)
全知全能のハナニムも、歴史を通じて愛の怨讐に報いるにおいて、力と権能であだを討つのではなく、愛の法度を通して屈服させるのです。怨讐が自らハナニムの前に完全に屈服し、僕の立場で世界人類の審判を受けても感謝できる立場、怨讐をそのような立場にまで引っ張っていこうとされるのです。そうでなければ、その罪を蕩減とうげんすることができません。
(42-279, 1971.3.27)


5) ハナニムを解放してさしあげよう

 

① ハナニムは囹圄の立場

誰が悪霊と善霊の闘いを終わらせることができるのでしょうか。それはハナニムでもなく、サタンでもありません。それでは誰でしょうか。まことの愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていける愛の主人公が現れなければ、ハナニムの闘いと、サタンの闘いを終わらせることはできないのです。この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において平和という言葉は妄想的なものです。
「理想」という言葉は、抽象的で感傷的な言葉にすぎません。それで、ハナニムは真の愛の代表者を遣わすのですが、その主流思想をメシヤ思想、救世主思想というのです。救世主は人間だけではなく、ハナニムまでも解放する人のことをいいます。悪を処断することを意味します。ハナニムを解放し、悪を決算するための総責任者が救世主です。
(136-219, 1985.12.29)
救世主の使命は、ハナニムを解放することであり、サタンを処断することです。あれほど人間に食いついては讒訴ざんそした怨恨えんこんのこの元凶を、誰が清算するのでしょうか。ハナニムにはできません。唯一メシヤ、救世主だけができるのです。
(136-219, 1985.12.29)
私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。甘い生活を求めるのではありません。道義的な関係ではありません。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうしてハナニムを解放しようというのです。愛の原則条件が結びついていなければ解放されないのです。
(136-222, 1985.12.29)
お父様が愛され、そのお父様が求めようとされる国を考えてみたことがありますか。監獄の道をもいとわずに行けば、何らかの道があります。その生死の岐路を開拓してきたのが、民族が進み得る道であり、暗黒のふちを越える希望ある道であることを知る人はいません。世界万民を解放するためのトンネルを貫通するために、そのような事情を抱いて苦労したということを知る人はいないのです。
ハナニムに忠誠を尽くし私がこの道を行くということは、中心をお迎えした中で細心の注意を払って暮らしながら、愛を貴く抱いて侍るべきお方であることをわきまえていく、ということです。この道は時が移り、歳月が変わっても変わることのない、たった一つの道であると考えて生きているのが、この私です。
(163-304, 1987.5.1)
ハナニムを解放しなければなりません。私がハナニムを救わなければならないのです。私が救われようとするのではなく、ハナニムを解放しなければなりません。これが救いの摂理の総決算です。
(136-263, 1985.12.29)
統一教会は、ハナニム解放のための解放軍です。世界解放ではありません。世界解放は容易です。人間が団結すれば世界解放はできますが、ハナニムの解放は心情圏を団結させなければなりません。愛の圏を団結させ得る原理と思想体系を備えなければなりません。そうして霊界を解放し、地上に心情圏の橋を架けなければなりません。どのような革命よりも恐ろしい革命であり、困難な革命です。


人類の解放は容易でも、ハナニムの解放は困難なのです。世界にまたとない困難なその仕事をレバレンド・ムーンが旗手となり、今日、摂理史の総決算という表題を掲げて進み出たということは驚くべき事実です。
(136-285, 1985.12.29)
今日の宗教指導者は、ひれ伏して、祈祷をして、恵みを受けようとしますが、私は、恵みを与えてくださいと祈祷したことはありません。「私一人が祭物となってハナニムを解放しよう」と祈祷したのです。
旧約時代は、万物を立ててハナニムの人を探し求めるための時代であり、新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母を探し求めるための時代であり、成約時代は、これまで父母様の家庭を犠牲にしてハナニムを解放するための時代です。
本然の父母をこの地上にお迎えし、共に千年、万年暮らし・・・。韓国の童謡の中に「月よ、月よ、明るい月よ、李太白りたいはくが遊んでいた月よ・・・」というのがあります。月桂の木が植えられているのでどうこう、父母をお迎えして千年、万年生きたいものだと、これはみな韓民族の啓示的なものです。天の父母をお迎えして千年、万年生きたいものだ、私はこの歌を思うたびに胸に熱く込み上げるものがあります。
(137-185, 1986.1.1)
ハナニムがアメリカに200年間、世界的な祝福をすべて与えたのですが、これをすべて自分たちのための福だと思い、自分たちキリスト教の福だと思い、アメリカだけの祝福だと思っているのです。アメリカとキリスト教を犠牲にして、世界万民を解放し、万民の福地を建設すべき責任を忘れ、アメリカ第一主義アメリカ単一主義、個国主義に陥ってしまったのです。
世界主義的アメリカのために、自分の一国を犠牲にし、一つのキリスト教を犠牲にしてでも世界的基盤、版図を築くのがハナニムのみ旨であるにもかかわらず、それに背き、反対の立場に立ったので、アメリカ自体も真っ逆さまに落ちるのです。家庭が崩れ、教会が崩れ、国が崩れ、すべてがめちゃくちゃです。すべてが病んでいます。
(143-189, 1986.3.18)
ハナニムと真の父母を解放し、世界を救うために進み、地獄を貫かなければなりません。地獄の底を貫いていけば天国です。それが近いのです。地獄の底を貫くのです。ですから犠牲になり、奉仕せよというのです。「私が救われるために統一教会を信じる。この道を行く」というのでは零点です。それでは絶対に世界舞台には立てません。「ハナニムを解放し、真の父母を解放し、世界を救うために私はこの道を行く」と言わなければなりません。分かりましたか。内容が違うのです。
(148-163, 1986.10.8)
死んでも生きても、この道を正さずしては行けません。これを知っているがゆえに先生は、一生の間このようなことをするのです。迫害を受け、あちこちの監獄に入りながらも、この荷を背負っていくのです。監獄に入るのが良くて入るのでしょうか。ハナニムのため、ハナニムの解放のために行くのです。人類の解放のため、サタン世界を解放するために行くのです。蕩減とうげん復帰の道を行かずしては、解放圏ができないのです。安逸な中ではサタンを分立できないので、蕩減復帰の道を行くのです。
(148-168, 1986.10.8)


責任分担解放圏というのは、心情の解放圏のことを意味します。ハナニムが解放されなければならず、父母様が解放されなければなりません。悪なる父母が現れたので、それに対さざるを得ない立場に立ったハナニムは、どれほど苦痛でしょうか。ですから父母の解放、ハナニムの解放をしなければなりません。そのような孝子とならなければならないのです。父母様がいまだに苦労をしており・・・。天の父母に苦痛を受けさせておいて、自分は楽に暮らそうというのですか。自分の息子、娘には良いものを食べさせ、楽に暮らそうというのですか。そのようにし、そのように考えることができるのでしょうか。
(148-222, 1986.10.9)
ハナニムを解放してさしあげるべき私たちの生活路程において、摂理のみ旨に対するハナニムを呼ぶときには、胸が締めつけられ、痛哭つうこくする心情をもたずしては呼べないハナニムであることを知らなければなりません。ですから洗礼ヨハネも荒野で、「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んだのです。イエス様も、「悔い改めなさい。天国が近くまで来ている」と言われたのです。悔い改めなければならないのです。皆さんが摂理のみ旨に向かう立場で、どれほど無礼であり、どれほど厚かましかったかというのです。世界において解放できなかったとしても、自分だけでもハナニムを苦痛から解放してあげなければならないのです。
(161-113, 1987.1.11)
世界を統一するにはどうすべきであり、解放はどのようにするのでしょうか。サタン圏を統一できるハナニムのような能力をもった人が現れれば、霊界と肉界に分かれたものが一つになるのです。解放されるのです。サタンを主管できる人さえいれば、霊界も解放され、肉界も解放されます。
ハナニムに解放が必要でしょうか。ハナニムは、既に解放されています。ハナニムに解放が必要だというのは、人間を解放するために必要だということです。ハナニム御自身は、解放されているのです。人間が解放されていないので、人間を解放するに当たってハナニムが解放条件に引っ掛かっているだけであって、ハナニム御自身は、解放されていないお方ではないのです。人間にかかっているのです。
(161-243, 1987.2.22)
キリスト教思想は、再臨思想です。イエス様が再臨して何をなさるのでしょうか。今日のキリスト教信者の中にはとんでもないことを言う人が多くいます。雲に乗って空中に上り、1000年の祝宴をするのですか。よく知ってみると、それは全く根拠のないことを信じているのです。イエス様が来て何をするのでしょうか。イエス様が来て誇れることは何でしょうか。ハナニムの前に不義を立ててくれと抗拒こうきょするサタン、そのサタンを切ってしまわなければ、ハナニムはその永遠の抗拒を避けられないのです。


この地に再臨主が来てすることは何でしょうか。キリスト教信者、その数億人にすぎない人々に良い暮らしをさせるための再臨主ではありません。ハナニムを解放しなければなりません。公義の道理の前に立ち、ハナニムを解放するという責任を果たす主役として来られる方が再臨主でなければならないのです。
(162-186, 1987.4.12)

 

② ハナニムの解放は人間がしなければならない

世界を救うには、まずハナニムを解放しなければなりません。ハナニムが解放されてこそ、世界を解放できるのではないでしょうか。ハナニムを解放してから、世界を解放しようというのです。ですから統一教会を地の果てまで伝播でんぱし、心情的きずなを結んでくいを打ち、世の中すべてを愛でもって溶かそうというのです。その闘いをするのです。
(162-221, 1987.4.12)
ハナニムを解放できるその位置まで行くべきことを知り、父母様の行く最後の終着点を目指して同調する群れが雲集するようにしなければなりません。そうすることにより、個人から家庭がつながり、家庭から宗族がつながっていくことでしょう。
宗族と民族、国家が犠牲となった祭物的価値を相対的世界、第2次の父母様を迎えた世界に再現させることにより、歴史的に犠牲となったすべての聖人たちを、復活圏の実体として代わりに蕩減復帰しなければなりません。そうせずしては、この地を離れられないのが人間の運命であるがゆえに、死んでもこれをなさなければならず、この溝を埋めなければならないのです。これは宿命なので、誰もが行かざるを得ません。早く行かなければならないのです。
(166-74, 1987.5.28)
ハナニムを解放しなければなりません。この地の隅々までハナニムが訪ねてこられ、「私の創造理想が夜も昼も、歴史を通して成し遂げられたのだ。感謝であり、驚くべきことだ」とたたえられると同時に、どこへ行ってもハナニムが愛さざるを得ないこの世界の舞台となり、宇宙となり、霊界や肉界も同じようにならなければならないのに、そのようにはなっていないのです。いまだに天のみ座の下まで、サタンのやみの権勢が占領しているのです。ですからハナニムを解放するためには、霊界を解放しなければなりません。
(166-78, 1987.5.28)
私という人は、解放を本当に好む人です。皆さんが好む以上に好きです。また、統一を好みます。どれほど好きでしょうか。生きられないほど、死ぬほどに好きです。統一の門、解放の門はこのムンという人にあるのではありません。よく知ってみると、万有の大主宰であられるハナニムにあるのです。
ですから、「ハナニムが好まれるものといってもたくさんありますが、最も好まれるものは何でしょうか」と言うと、「私が一番好きなのは解放である」と言われるのです。答えは簡単です。「私が一番好きなのは解放だ」と言うのです。それで、「では、なぜ解放ができないのですか」と言うと、「一人ではできない」と言われるのです。それが病気なのです。ハナニム一人ではできないというのです。
(166-99, 1987.5.30)


国を愛しましたか。息子、娘を愛しましたか。息子、娘の道を開いてから民族を愛しましたか。世界が行く道を開いておいて、世界を愛しましたか。天に行ける道を開いておいて・・・。そのようにできるところにだけ完全な解放の夜明けが訪れるのです。夜が明けるとき、その陽光は谷間にまでさし込み、死の中に閉ざされ、拘束されていたすべての人間を完全に解放するのです。自由と平和を謳歌おうかし、解放とともに統一の世界が私たちの前に来たと言ってこそ、千年の歴史をすべて無視して解放の王者となり、統一の旗手となり、ハナニムの前に褒められるだけでなく、ハナニムの愛の懐に抱かれ、永遠無窮の幸福を享受すべし、ということになるのです。そのようにする自信がありますか。
(166-121, 1987.5.30)
人類の解放も必要ですが、人類の解放よりも先に、ハナニムを解放しなければなりません。そうしてこそ、人類の解放につながるという事実を考えている人はいません。既成教会の牧師たちは、「ハナニムは、栄光の中にいる審判のハナニムだ」と考えているのです。誤った考えをもっているのです。私の知っているハナニムは、そうではありません。ハナニムを死亡圏から解放しなければなりません。
(166-150, 1987.6.5)
旧約時代、新約時代、成約時代、その次は完成時代です。完成というのは、愛を中心とした完成です。完成は父母の解放、子女の解放、万物の解放、ハナニムの解放です。それが一度になされなければなりません。堕落した父母によって一遍に地獄に行ったものが、天と地をかけて一度に成し遂げられるのです。
(166-326, 1987.6.14)
民族的背景と民族を代表した人、または団体が現れるとするならば、どんな人であり、どんな団体であるか? 民族の歴史的伝統をもち、時代相を代表して世界へと進んでいける時代的な使命を、未来的な使命につなげられる、そのような団体と個人でなければなりません。それがレバレンド・ムーンと統一教会だということを皆さんは知らなければなりません。統一教会の真理には、侵略性がないのです。反対に救ってあげようというのです。次元の高いところに引き上げようというのです。解放しなければならないのです。万民をすべて解放しなければなりません。解放をもって進むのです。霊界と肉界が合わさってハナニムを解放しようというのです。
(168-55, 1987.9.1)
私が称賛され歓迎されることは夢にも思いません。統一教会の思想は、統一教会を犠牲にして人類を救い、世界の人類を救って天と地を解放し、その次にはハナニムを解放するのです。ハナニムは、御自身が回収したものすべてを再び投入して、完全に堕落のない次元の高い別の世界、天国大移動の局面を願われることでしょう。
(227-272, 1992.2.14)


先生は何でもありません。「人類歴史は150万年だ」と言われていますが、永い歴史過程において自分の威信と権威とすべてを忘れて、失った子を探し求めて身もだえするかわいそうな父母の身の上を、誰に訴えるのでしょうか。子が現れてそれを解いてさしあげるまでは、その胸の内にしこりとなったハンを解くこともできないし、打ち込まれたくぎを取り除くこともできません。釘を取り除いて愛の涙で、血肉で、それが肉となるように解いてさしあげなければならないハナニムの怨恨えんこんの心情を、誰が解放してさしあげるのでしょうか。私の解放よりも先に、ハナニムが解放されるべきであることを知らなければなりません。これが宗教人の追求する、究極的な解放の道だということを知らなければなりません。
(187-273, 1989.2.11)
幸福の種がどこにあるのか知らなければなりません。堕落して失ったので、それを取り戻さなければなりません。ですから統一教会を中心として、まことのハナニムを求めていこうというのです。
今までのハナニムは、復帰のハナニムです。本来のハナニムではありません。怨恨のハナニム、かわいそうなハナニムです。喜びのハナニムではありません。落胆のハナニムです。それゆえ元どおりにするためには、復帰のハナニムを解放してあげなければなりません。お金でするのではありません。権力でするのでもありません。いかなる人でもない、真の愛でしなければなりません。
(174-248, 1988.3.1)
苦労で出発したので、苦労で終着点を目指していこうと思います。「レバレンド・ムーンの名は悲惨であった」という結論を出そうと決心した人物です。私にはお金が必要ありません。名誉も必要ありません。唯一ハナニムを解放し、人類を解放し、サタンまでも解放して、永遠なる平和と愛の基地をつくるのが、新しい祖国を訪ねていく希望峰なのです。
皆さんはそれを知って、行く手にいかなる険しい山々がはばんでも、朝食を忘れ、昼食を忘れ、夕食を忘れ、昼と夜を忘れながらもその道を行こうと身もだえしなければなりません。そのような生涯が長ければ長いほど天の恨みを越えたハナニムの理想的愛が、皆さんと共に、皆さんの家庭と共に、皆さんの一族と共に、皆さんの国と共にあるというのが天理の原則であることを知って、そのように生きてくれることを願うのです。
(174-53, 1988.2.23)
偉大だというのは、顔が偉大なのではなく、体が偉大なのではなく、思想が偉大なのです。ハナニムまでも動かざるを得ず、ハナニムまでも私についてこざるを得ないという精神、それが偉大なのです。愛の目的を達成できていないハナニムを、私が愛をもって解放することを主張するのです。愛の目的を成就できなかったという恨をもっているハナニムが、今日レバレンド・ムーンに出会って解放されたというのは、理論によるものです。妄想ではありません。体系的な理論、科学的なデータによる実証的結果により、これを主張するのです。
(165-185, 1987.5.20)
ハナニムを解放するのです。そうすれば終わりです。ハナニムが思いどおりにできるのですから、全知全能のハナニムの全権、全能を行使する時代が来るので、そこは太平王国とならざるを得ないということを知らなければなりません。そうしてこそ「アーメン」です。
(221-25, 1991.10.20)