八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 4-2

八大教材教本 天聖経(2012年版)p979-1014

【天啓の御言】(4-2)

 


侍る生活は、なぜしなければならないのでしょうか。それは、ハナニムの愛を受けるためのものです。
(78-30, 1975.5.1)
今までの信仰生活は信仰によって救いを得ましたが、これからは侍ることによって救いを得ます。本来堕落しなかったならば、ハナニムに侍ることによって、私たちが行く道をみな行くのです。信じるといって、何を信じますか。待って生活することにより、みんなできるのです。侍るには、皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
(150-213, 1961.4.15)
今は、個人なら個人としてハナニムに侍る生活、家庭なら家庭としてハナニムに侍る生活、教会なら教会としてハナニムに侍る生活、あるいはこの民族を中心として、ハナニムが要求される侍る基準を、どのように新しい伝統として設定するのかが問題になります。
(38-12, 1971.1.1)
統一教会時代は、父母様の時代です。ハナニムが地に臨むことができ、ハナニムが来られることのできる道を築くのです。それゆえに、ハナニムが来られるようになるとき、「侍ることによって救いを得る」という言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。
(177-157, 1988.5.17)
侍る場に同参するためには、今まで悲しんでこられたハナニムを慰労してあげることができ、悲しい精誠の事情に同参することのできる内容を備えなければなりません。これを紹介し、それに伴う蕩減とうげん条件をハナニムの前に立てるために出てきたのが復帰原理です。
(17-245, 1967.1.29)
皆さんは、侍る生活をしなければなりません。では、侍る生活は、なぜしなければならないのでしょうか。ハナニムの愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですからハナニムに先に侍らなければなりません。ハナニムに侍らなければならないというのです。
(78–30, 1975.5.1)

 

② 法度に背けばお怒りになる

ハナニムに侍るには法度があります。その法度に背く時にはハナニムはおいかりになります。
(17-287, 1967.2.15)
皆さんは、生活の中で法度を守ることができなければなりません。天が要求する天国の法度を守り、また天国の法度を守ることができると同時に、天国生活をすることができなければなりません。そして天国生活をすることができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。
(1-337, 1956.12.30)
ハナニムが喜ばれ、悲しまれることをいつも鑑別かんべつしながら生きる人は、悪い人になろうとしてもなれず、天の法度に背こうとしても背くことができません。そのような男性は、いくら美人が誘惑しても堕落しません。そこに同化されないというのです。
(40-297, 1971.2.7)
今日、家庭を脱皮する不幸な青年男女が多い原因は、どこにあるのでしょうか。天倫の法度に一致した愛が喪失されたからです。


それで家庭を中心に、ハナニムにその家庭に座っていただくことのできる天地父母が顕現しなければならないのです。
(21-155, 1968.11.17)
主体のための対象の位置は、不平があり得ません。不平を言うのは妄動です。破綻はたんです。ですから、信仰の道は不平を許しません。感謝だけがなければなりません。
皆さん、それを知らなければなりません。天は、いつも主体としていらっしゃるので、主体と共に関係した運命をもって、それから離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ないのです。
(58-310, 1972.6.25)
天理は順序を正しく守るところで成立します。ですから主体と対象の関係で、天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので絶対的に一つです。ですから、見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入り、愛することまでもすべて対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。
(58-310, 1972.6.25)
最後に残るものとは何でしょうか。ハナニムプラス人間、神人、神人の生の道。神人生活観です。人生観も同じように、神人人生観、神人世界観、それが漠然とハナニムに対して人が知ることのできる程度の座ではなく、人が永遠に落ちようにも落ち得ない座です。
なぜですか。ハナニムと人は、本来落ちてはいけない座から落ちたので、落ちるべきではなかった座、それ以上の座に到達しなければなりません。そのような座で神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければなりません。
(65-127, 1972.11.5)
勝利的な主管権を立てるために、ハナニムと共に生きなければなりません。ですから皆さんは、絶対的な信念をもって侍る生活を中心として、立体的な立場で生活していってこそ勝利的基台を成すことができるのです。復帰の道がそのようになっています。
(14-247, 1965.1.1)

 

3) 真のお父様がハナニムに仕える法

 

① 至誠感天

心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいという言葉は、何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くしなさいというのは生命を差し出しなさいという言葉です。思いを尽くしなさいというのも、精誠を尽くしなさいというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。
「至誠、天に通ず」という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てとはどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くしなさいというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、ハナニムが「知らない」と言えないのです。
(38-242, 1971.1.8)


生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出しなさいというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことをハナニムが願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもよいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
(48-114, 1971.9.5)
先生が床に伏して祈祷する時は、涙が乾きませんでした。ここ(ひざ)にたこができるほどでした。「精誠を尽くした塔は倒れない」という言葉があるではないですか。ハナニムのために精誠を尽くさなければなりません。
ハナニムが慕わしくて狂うほど、胸が張り裂けそうな境地にまで入らなければなりません。ハナニムがいらっしゃる所が地上ならば、1日に1000回行ったり来たりしたい気持ちがありますが、そのような地上ではないので、仕方なく先生を送ったのです。そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。
どうしてわけもなく、そのように情が移りますか。涙を流し祈祷する時、真冬に綿入りのズボンを涙でびしょぬれにしたことがありました。どれほど気が遠くなりそうだったか考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷をしたのは、一度や二度ではありませんでした。
(60-212, 1972.8.17)
皆さん、ここにダイヤモンドの鉱山があるとしましょう。自分だけが知っている、そのような所があればどうなるでしょうか。それのために自分の家庭も売らなければならないことが起こったとしましょう。妻を売って多くの家庭を救うならば罪ではありません。自分の子供を売って国の多くの息子、娘を救うならば、それも罪ではありません。
しかし、自分の欲心のために売ってはいけません。その鉱山が、国と民族を生かせる道であり、世界万邦の人間たちが生きる道だという時は、自分の妻と子供を売ったとしても歴史の前に罪なるのではありません。国を生かすために、世界を生かすために、妻や子供を売るのはいけないことのようですが、かえって世界が称えることのできる宝の根源が宿り得るのです。
(21-314, 1968.12.8)
ご飯を食べても水を飲んでも、座っても立っても、誰に対しても、父母の前に、天の前にすべての心情を見せられれば満点です。知識や学識があるからできるのではありません。
ハナニムの前に、「私、誰々博士です」と言って生きますか。それは必要ありません。では、ハナニムの愛を私がどのように導くことができますか。ただ一つの道は「至誠、天に通ず」、これ以外にありません。
(78-38, 1975.5.1)
先生の一生のモットーは、「ハナニムの代弁者」でした。今日、皆さんは、天的な代弁者になってくれるようお願いします。そして、ハナニムの代弁者になり、ハナニムの代わりの存在になり、さらにはハナニムの代死者になってくれることを願います。
(9-7, 1960.3.13)


とてつもない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独な所にいらっしゃるハナニムの前に、私たちが信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもよいというのです。
私の肉身が水となって流れていったとしても、何のハンがあるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても、何の恨があるかというのです。この世には、犬畜生いぬちくしょうのように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。
(62-140, 1972.9.17)
不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけません。ハナニムを思いながら、「私が不平を言えば、どんなにハナニムの心が痛むだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続し得る一瞬が私の前に訪れたなら、それを引き継いでその方についていきながら、その方を慰労しよう」という心をもつのです。
そうしながら涙を流す、その場に天が共にいらっしゃるのです。間違いありません。ハナニムのために泣き、父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活であることを皆さんは知らなければなりません。
(114-281, 1981.10.20)
「ハナニムの愛と共に生きる」と言いましたが、さて皆さんの生活目標はどうでなければならないでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心で、ハンカチに向かって敬礼しても、偶像崇拝ではありません。
愛の心情をもって頭を下げるのに、何がそれを支配できるでしょうか。自分の栄光を超越して心情で敬礼するならば、サタンが「これ以上そうするな」と言うのです。天宙の心情を通じていくなら偶像がないのです。
(9-174, 1960.5.8)

 

② 孝子の道

先生は、おなかがすいて疲れて倒れることがあったとしても、どうすればハナニムが心配するその道を私が先立って行くか、背負うことのできる十字架の道があるならばどのようにその道を行こうかと考えました。しかし皆さんは、このような道を行こうと準備してはいません。今日、皆さんは、侍ることによって救われるということを知りながらも、ずうずうしく眺めています。そのような心でとどまっていてはいけません。
(13-233, 1964.3.22)
先生が何をされるか分からなければ眠れないので、夜中にでも飛んできて尋ねていくことのできる、そのような生活をしなければなりません。それで、「侍ることによって救われる」と言いました。先生はハナニムに対して、いつもそのように生きています。瞬時も気を抜けません。
(21-68, 1968.9.9)
皆さんは侍義じぎ時代、すなわち侍る生活において正確な中心をもっていかなければなりません。ハナニムに侍るには法度があります。その法度に背く時には、ハナニムはとてもお怒りになります。
子を愛する親が、子の言う一言で、胸にくぎを打たれたり抜かれたりするのと同じように、ハナニムも人間を愛していらっしゃるがゆえに怒りが多いのです。ややもすると、間違えてハナニムから怒りを買うことになります。ですから先生も、いつも先生なりにハナニムを喜ばせてあげようとします。
(17-287, 1967.2.15)


皆さんも、皆さんを思ってくれる人を訪ねていくでしょう。ハナニムも同じです。そのハナニムを占領できる道は、誰よりもハナニムを思い、ハナニムのために奉仕しようとする道です。その人を中心としてハナニムは訪ねてこられるのです。
(128-172, 1983.6.12)
先生は、ハナニムの前に、綿入りのズボンがびしょぬれになるほど祈祷したことが何回あったか知れず、ナイフを持ち、おなかにあてて誓ったことが何回あったか知れず、死の峠を越えながら、心に固く決意したことが何千万回あったか分かりません。
(19-19, 1967.11.5)
人間においてハナニムを愛するのが第1の戒めですが、愛するのに死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか。皆さんは、ハナニムを死ぬほど愛したいですか、死ぬほど愛したくないですか。雷に打たれて死ぬとしても愛さなければいけません。ハナニムを死ぬほど愛さなければならないというのです。死ぬほど愛さなければならないなら、死ぬ前までは、できないことがないというのです。
(37-25, 1970.12.22)
皆さんは、目がつぶれ、鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人が泣きすぎると胸が痛くなります。それほど激烈に慕わなければなりません。「お父様!」と呼ぶのに、死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼ぶ人もいるでしょう。遠い他国に旅立つ息子の立場で、哀絶あいぜつに父を呼ぶ人もいるのではないでしょうか。それゆえハナニム、お父様を呼ぶ時、そのような基準以上にならなければなりません。
(50-288, 1971.11.8)
白頭山ペクトゥサンの頂上に登ってそこで岩を砕き、畑を耕し、じゃがいもを植え、そのじゃがいもをハナニムに奉養できますか。それをしなければなりません。その時は、牛がいなくて、愛する妻を牛の代わりにして畑を耕したなら雷に打たれるでしょうか。打たれないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を耕すという時、ハナニムが「おい、やめなさい」と言えばやりますか。「あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさい」と言いました。やりますか。しなければなりません。
(37-25, 1970.12.22)
皆さんは、現在どこにいますか。昼も夜もいつも、どこに行っても先生と共に歩調を合わせて生きていますか。今まで先生は、この頭をもって生きてきたのではありません。ハナニムと共にハナニムが行く方向に歩調を合わせながらすべて、生命をすべて投入して生きてきたのです。
(31-320, 1970.6.7)
先生は1日1日の生活において、重要な問題は必ずハナニムに祈って解決します。いい加減にはしないというのです。
(43-33, 1971.4.18)


この道を行くためには、愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、ある意味で間抜けな人たちです。少しは愚鈍に見えます。くまのような性格があるというのです。自分の腕が切られても、「ああ、ここがあまり切れていない。もっと切りなさい」という愚鈍な面がなければなりません。熊やいのししは、銃に撃たれて足手まといになる部分があれば、その部分をかみ切って逃げます。死はあとで考え、いったん足手まといになるものを切ってしまいます。そのような愚鈍な何かがなければなりません。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。少しは愚かでなければならないというのです。
(26-143, 1969.10.19)
ハナニムを解放しようというのです。まことなるハナニムの権威を中心として、理想郷で人類始祖と共に無限の幸福を褒めたたえつつ生きる、侍る生活の中で、侍られながら過ごされるべきハナニムがこのように悲惨になったという事実を知ったので、そのハナニムを私たちの手で解放しようというのです。これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、ハナニムにおいて極めてうれしい知らせです。福音の中の福音です。このように見る時、仏教を立てられた方もハナニムであり、儒教を立てられた方もハナニムであり、イスラームイスラム教)を立てられた方もハナニムであり、キリスト教を立てられた方もハナニムなので、すべての宗教が両手を挙げて歓迎しなければなりません。
(176-242, 1988.5.11)
先生は今までみ旨のために苦労をし、今も寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は、先生のことをよく知りません。先生は寝ていても、目が覚めさえすれば、うつ伏せになって祈祷します。なぜそのような生活をしているのでしょうか。この夜にも世界に散らばっている愛する子女たちが、私を頼り、ハナニムのために祈祷しているからです。
私が精誠を一緒に尽くせなくても、それに劣らず拍子を合わせてあげなければならないのではないでしょうか。先生が寝る時は分からないので、ハナニムも許してくださるのです。その時間には、子供が疲れて寝たら父が見守るのと同じように、ハナニムが代わりに祈祷してくださるのです。
(26-138, 1969.10.19)
レバレンド・ムーンはどんな人ですか。一つの才能しかない人です。愚鈍にひたすら、まっすぐにのみ行く人だというのです。ああ、口をちょっとつぐんで適当に回っていけばよいのに、どうしてよく悪口を言われるような作用をしたりするのでしょうか。それは、多くの人々の反対を受けてこそ一つの峠を越えていくからです。
しかし、皆さんは帰ることを考えているでしょう。それではなぜ、この世のすべてのものを切ってしまって行かなければならないのでしょうか。お母さん、お父さんの愛に引かれれば、まっすぐに行くことができないからです。ハナニムは今まで正しい道を求めてこられたので、正しくまっすぐに行かなければならないというのです。
(97-257, 1978.3.19)
ハナニムがそのように寂しい方であり、ハナニムがそのように孤独な方なので、私が死ぬ日までそのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの土台でも拡大させて、ハナニムのために生きられる人を集めるのが使命だ、と思ってきたのです。


悪口を言われても、むち打たれても復讐ふくしゅうせず、愛によって耐えてきたのは、ハナニムの子供として生まれたからで、その方のみ旨を立てるべき責任があるからです。ですから、この伝統をどのように立てるかを考えながら、よろよろになって、あるいは腰を曲げ、腹ばいになりながら、これだけは残さねばならないといって闘ってきたのです。
(82-47, 1975.12.30)
人間は、自分が立ったと自慢してはいけません。自分が立てておいたとしても倒れるというのです。しかし、人間が立ててくれなくても、天が立ててくれれば必ずできるというのです。
(155-242, 1965.10.31)
真の父母がしているのは何ですか。すべてのことを勝利して、ハナニムの心の深いところまで訪ね入り、ハン解怨かいおんし、その勝利圏を地上に成すことです。そのような真の父母が出現したということを、皆さんは感謝しなければなりません。
(235-21, 1992.8.24)
皆さんは、み旨の道を歩んできながらどれほど深刻でしたか。先生は、一生の間そのような道を歩んできたのです。妻子も知りません。神のみぞ知るです。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中でハナニムが協助し、驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また、疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波を起こす、問題の人物になりました。このようになったのは、私が立派だからではなく、ハナニムが共にされたからです。
(82-45, 1975.12.30)


p986 第7巻 礼節と儀式

 

第2章 真の父母に対して侍る礼法

   

1) 真の父母様は祝福家庭の中心

 

① 真の父母様の息子、娘になるには

皆さんはこれから、まことの父母と共に生きなければなりません。ですから真の父母は、おじいさんの立場で、自分のお母さん、お父さんの立場で、自分たちは長子の立場だというのです。これが違うのです。3代にわたって共に生きるという結論です。

ハナニムが私と共にあり、真の父母が私と共にあり、自分の父母が共にあることを感じて生きなければなりません。「ハナニムはいない。死んだ」という考えをすることのできない時代に入りました。
(131-97, 1984.4.16)

一切いっさいについて父母と共に関わり、父母と共に決定し、父母と共に相談し、父母と共に解決しなければなりません。
(44-173, 1971.5.6)

良い食べ物を食べたり、良い服を着る時は、ただ食べたり着たりしてはいけません。一番良いものはハナニムに先に捧げなければなりません。道を歩くときも右側には父を、左側には母を、と侍っていかなければなりません。
(24-181, 1969.8.4)

父母の愛を受けるには何をしなければならないのでしょうか。父母様が愛する、すべてのことを愛さなければなりません。そうしてこそ愛を受けるのです。家庭でいえば、自分の父母に愛されることを願うならば、その息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛されなければならないということを知るべきです。これをしないで愛されようとする人は泥棒です。父母が貴く思うものを全部、自分がいい加減に、勝手に引き継いでは愛されません。
(133-26, 1984.7.1)

皆さんが思いのままにするのではなく、先生がするとおりに従ってやりなさい。先生が行くとおりについていくのです。統一教会の伝統を引き継ぎなさい。統一教会ムン先生がするとおりに、皆さんがすればよいのです。先生も家庭を捨てて、父母を捨てて、この道を歩んできました。皆さんもそのようにしなければなりません。皆さんは従順に従っていかなければなりません。
(49-214, 1971.10.10)

真の父母と皆さんは、すべての関係を結ばなければならないし、永遠にその関係が変わってはいけません。
(55-173, 1972.5.7)

皆さんは先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて買ってきた人たちです。ですから皆さんは、先生と同じ仕事をしなければなりません。先生は食口シックたちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。
(11-164, 1961.7.20)



サタンが天に反逆し、天地の法度を狂わせたので、皆さんが天を支持する天使の立場に立って、天の前に思臣の道理を立てなければなりません。そうすると、そこから初めて新しい復帰の道が開かれるでしょう。それで皆さんを先頭に立てるのです。
(25-203, 1969.10.4)

ハナニムの心情を感じることができず、涙で別れたアダムなので、涙で会わなければならず、涙で別れたカインとアベル怨恨えんこんを涙で解かなければなりません。その道でなければ合わさる道がありません。世界的に男性たちの中には先生に会いたくて泣く人もいます。さて、ここにそのような人がいますか。このでたらめな人たち。昔は、みんなそのようにしてきました。草創期にも、みなそうでした。

統一教会に通う婦人たちが先生に従うので、夫たちは、妻が自分のそばに来ないといってひどくしかりました。これと反対に女性たちも、夫たちが先生に従うので、自分のそばに来ないといってかんかんになるのです。そのようになっているのです。また男性たちも、先生に会いたければ涙を流さなければなりません。そのようにできない人は、統一教会天国時代に天国に入れません。
(31-332, 1970.6.7)

皆さんは、実体のハナニムの立場に立っている真の父母が慕わしくて泣かなければなりません。いつも会いたい気持ちがなければなりません。ご飯でも1杯炊いて、水でも1杯ついで侍りたいと思わなければなりません。そのような切実な心をもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていればよいのです。

そのようにすれば、先生を中心として心情一致し、先生と共に呼吸することにより、先生の人格基準とそれを裏づける先生の過去、そして、そこに絡んだ事情がどうなっているかを知り、さらにそれを相続することができるのです。
(38-75, 1971.1.1)
 

② 真の父母様にどれほど侍ってみたか

堕落した人間がハナニムの前に出ていくための方法は、時代によって違いました。すなわち、旧約時代には祭物を捧げることにより、新約時代にはハナニムの息子であるイエス様を信じることにより、成約時代にはまことの父母に侍ることによってハナニムの前に出ていくことができるのです。
(20-340, 1968.7.20)

エデンの園でアダムとエバは堕落し、その堕落圏内で生きたので、直接的に侍る生活をしたことがありません。侍る内容をもったことがない人たちは、天国に入る資格がないというのです。しかし皆さんは、堕落の血統を受けて生活したとしても、蕩減とうげん復帰するために、地上で実体をもって、アダムとエバが侍り得なかったハナニムに侍り、真の父母に侍って生きていくのです。そういう条件が、天国に入れる資格になるというのです。それで天国の市民権を得るようになるのです。
(150-233, 1961.4.15)



私は、愛すべき万物の父母の前に孝子になれず、私を生んでくれた父母の前に孝子になれず、霊界とハナニムの前に孝子になれませんでしたが、先生を中心として真の父母に侍ることによって、孝子の資格を代わりに受けることができます。ですから皆さんは、執念をもってついていかなければなりません。
(105-112, 1979.9.30)

真の父母に遠く接する時は国の王であり、近く接する時は父母です。そのようになっているのです。
(150-235, 1961.4.15)

皆さんは先生のために、どれほど祈祷し、どれほど会いたいと思いましたか。本当に会いたく、本当に祈祷し、本当に思慕しぼしたならば、この体を見ることだけが問題ではありません。
(23-52, 1969.5.11)

ご飯を食べる時も、「お父様、お先にお召し上がりください」と言わなければなりません。
(11-218, 1961.8.26)

皆さんがお父様に侍る、その時、その時間が来ればどうしますか。どのように孝行するか、そして、どんな姿で父母様に侍るかを考えなければなりません。
(17-293, 1967.2.15)

祈祷室を設けて、先生の写真を掛け、千回、万回敬拝しなさいというのです。昔、再臨主に侍るために準備した許浩彬ホホビン氏の団体では、毎日3000回敬拝をしました。

皆さんも一度やってみてください。縫い物も、布目一つずつ手で縫いました。ミシンでやれば不敬だというのです。そのように精誠を尽くしても不足なのです。
(179-77, 1988.7.22)

皆さんが鏡を見ながら、この目がどれほど父母様に会いたくて涙を流し、この口が父母様の解怨かいおん成就をどれほど叫び、この手がどれほど父母様の地で血を流して仕事をし、自分の体が砕けるほど父母様が願う土台の上で働いてきたでしょうか。

「それができなかったのがハンです」と言える心を感じながら、その道を求めていくのが幸福な道であり、その道で天と共に因縁を結ぶのが幸福な人です。そのような人は、誰も支配することができません。その人を動かすことができるのは父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。そしてその父母を幸福にできる人は、その息子以外にいません。父母の希望は父母にあるのではなく、息子にあるのです。
(78-35, 1975.5.1)

皆さんが考える、ハナニムに対する侍る生活とはどのようなものですか。ハナニムを一体として考え、父母様を一体として考え、生活するすべてが一体となって、私が生きるならば、このすべてのものは、ハナニムのものであると同時に、真の父母のものであり、真の父母のものは、真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば、私のものである、というような観念をもたなければなりません。



この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、国も世界も真の父母のものなので、私は真の父母の息子だから、すべてのものは私のものだ、という結論が出るのです。
(161-231, 1987.2.15)

先生に差し上げようと家でよもぎもちを作り、その餅が汚れないようにと密封したまま本部まで来て、御覧くださいと言わんばかりに開けてみると、餅が腐って青かびが生えていたこともありました。餅に青かびが生えて、うじがわいていてもよいというのです。その餅は、食べられなくても億千万金に該当するのです。そうであるほど情が移るのです。
(33-113, 1970.8.9)

愛は、愚鈍で間抜けなものです。そうではありませんか。本当に愛するなら、横で誰が見ていても関係ないというのです。誰かが見ていることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ていようが見ていまいが意識しない、そのような境地の愛がどれほど愚直で愚鈍なのかというのです。ある時は、山奥で掘って採ったききょうを先生の前に持ってきて、涙を流すのです。そのようなことが霊界に行けば、彼を解放させられる良い材料になるのです。
(33-113, 1970.8.9)

皆さんは、先生が苦労した話をすれば、それが自分に遭ったことのように感じられ、胸が痛く、悲しく、涙が出るし、悔しく、憤慨する、このように同感できなければなりません。皆さんを同感させるための材料が、先生の苦労です。
(34-101, 1970.8.29)

「先生を知った」と言ってはいけません。先生は、原理しか知りません。原理原則に立脚した人だけを知っています。
(10-249, 1960.10.21)

先生が約3ヵ月間だけ毎日のように皆さんの家に行けば、どうしますか。「ああ、うんざりだ」と言いながら嫌がるでしょう。そうではないという人、手を挙げてください。先生は、あれこれと話すことが本当に多いのです。そのようなことをみんな知っている先生は、あきれて物が言えないではないでしょうか。ですから、「あきれて物が言えない」という言葉が出てくるのです。

このように皆さんは、自分の威信も知らず、身の振り方も知らずにいるのです。ですから、このようなことを教育しなければなりません。
(26-299, 1969.11.10)

先生が生きている時は先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くでしょう。ですから原理に公認されないことをしたならば、大変なことになるのです。

なぜこのように生きたのかということを裏づける、原理的内容があるかどうかが問題です。もしもこれができていなければ、今まで成されたことをすべて失うことになるでしょう。ですから、責任者は大変だというのです。
(33-167, 1970.8.11)



2) 真の父母様を愛し誇ろう

 

① 真の父母様は人類全体の希望

統一教会でいう「まことの父母」とは、どのような方ですか。堕落しなかったならば、ハナニムが縦的な愛になり、アダムとエバはハナニムの体になるのです。ハナニムの体と同じです。ハナニムは骨のようで、アダムとエバは体のようなものだというのです。そのようになれば、ハナニムにも心があり、体があります。

ハナニムは内的な立場で内的な父母になり、アダムとエバは外的な立場で外的な父母になるのです。内的、外的な父母が一つになったその場で愛によって結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。

ハナニムと人間との愛の結合によって、真の父母、すなわち、完成した人間ができるはずだったのです。愛で一体となれなければ完成人間になれないのです。
(184-71, 1988.11.13)

真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正さなければならず、間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書では、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いましたが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は、死ななければならないからです。
(169-37, 1987.10.4)

皆さんは、真の父母の本当の息子、娘ですか。真の子女とは、何を中心としていうのですか。真の血統です。もちろん真の愛を通じて因縁が結ばれますが、成されるのは真の血統を通じて連結されるのです。ですから、真の血統を通じて連結されれば、お母さん、お父さんに似るのです。では、皆さんは先生に似ましたか。

皆さんの目は青く、私は黒く、髪の毛も違うでしょう? 髪の毛がみんな白いではないですか。私は東洋人で、顔が平たいです。では、何が似るのかといえば、骨子だけが似るのです。骨子だけ似るとは、サタンに勝つこととハナニムを絶対に愛するところだけ似るのです。それだけ似るのです。そうしてサタンを主管し、コントロールするのです。
(170-237, 1987.11.21)

皆さんが先生をどれほど愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰るのです。サタン世界の愛の痕跡こんせきがある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。皆さんが、サタン世界で生まれたお母さん、お父さん、妻子、その誰よりも愛さなければなりません。

それで聖書に、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ10:37)とあるのです。そのような結論を下したのです。そうしながらあとでは、「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(同16:24)と言いました。「十字架を背負わなければならない」と言いました。反対に引いていく力を押さえて越えようとすると、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。
(178-97, 1988.6.1)



真の父母とは、どんな存在ですか。真の父母は、すべての希望の象徴です。堕落した人類の前に、絶対的な希望の象徴なのです。彼は歴史的結実体であり、時代的中心であり、50億の人類が生きている今日、この世界国家圏の中心です。真の父母は、将来の理想世界に連結できる、未来の線上においての出発点です。
(35-237, 1970.10.19)

万民が願うこととは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようとすることです。誰から出発したいのでしょうか。皆さんの新しい息子、娘は、皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血筋を通じて生まれたいというのです。ですから真の父母は、新しい未来の出発点になるのです。
(35-237, 1970.10.19)

今日、ハナニムは何を願っていらっしゃるのかといえば、この終末時代に御自身の姿を現すことを願っていらっしゃいます。それで、完全に心情的で、縦的に復帰され完成した男性、言い換えればメシヤとして再び現れようとされるのです。完成したアダムの代身となり、完成したエバの代身となる中心人物が出てこなければなりません。

成約時代は、ハナニム自体が真の父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは、正にこのためです。

生きているハナニムを私たちが直接目で見て、感覚をもって体恤たいじゅつできる圏内で、体験を積みながら出ていくのが、私たち統一教会の道なのです。
(御旨と世界-279)

人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても、出会わなければならない人が真の父母だというのです。歴史をみな失い、時代をみな失い、自分の子孫をみな失うことがあったとしても、真の父母に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。このような方が正に真の父母であることを皆さんは知らなければなりません。
(35-237, 1970.10.19)

「真の父母」というその名前の文字を考える時、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界に帰り得る起源ができ、真の父母によってサタンを屈服させられる内的な因縁が決定し、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服することにより、初めてハナニムを解怨かいおん成就してあげられる中心が決定するのです。ですから真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動できる、この驚くべき恩賜おんしに、皆さんがまず感謝しなければなりません。
(43-144, 1971.4.29)

皆さんが真の父母と完全に一つになる時、国家があるのであり、宗族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地におけるすべての栄光の価値を総合した実体基準が真の父母です。



真の父母をこの世のお金と換えますか。自分の生命を与えて換えられますか。ですから、昔と違うというのです。皆さんがどこに行っても、真の父母に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。

皆さんの息子、娘も、千世、万世の子孫たちも、そうしなければなりません。ですから統一教会は、違うというのです。
(30-237, 1970.3.23)

すべてのものは、どこに帰結するのでしょうか。真の父母に出会うことに帰結するのです。人類の真の父母が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、摂理の願いです。

それでそのような真の父母が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後前無後無チョンムフム)の時なのです。永遠な世界を通して見ると、人間の一生というものは一度息をする期間と同じです。
(51-354, 1971.12.5)
 

② 家庭ごとに真の父母様のお写真に侍る

きょう以後、皆さんは先生の写真を持ち歩くのが良いでしょう。そうすれば、どんな苦難に遭うとしても無事に耐えられるように保護してもらえるでしょう。

モーセイスラエル民族をエジプトのパロのもとから脱出させ、カナンへ導くために奇跡を行う時、長子が患難に遭い病気になって死にましたが、羊の血を門に塗った家は、その患難がみな避けていったのです。霊界は、私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれたりもするのです。
(130-290, 1984.2.7)

ムン総裁が有名です。国のための「愛国者」という言葉は、みな認めています。また私が立てた功績には天下がみな頭を下げます。

そして、「あの写真を掛けた以上、あの方の前においては夫婦げんかもむやみにできない」と言い、息子、娘の前にも、「こら、あの文先生の前ではいけません」と言うようになれば、何の悪いことがあるでしょうか。自分の親の写真以上に待ることによって先祖たちが来て、先祖として侍るのです。また先祖たちが来て、その家に侍ることのできる祭壇になるのです。

それゆえ、天上世界で福を受けられる道があるので、夜中の3時になれば、皆さんは寝ますが、(先祖たちが)一家の周辺の邪なる悪魔たちをみな追い出すのです。
(219-91, 1991.8.25)

イスラエル民族がエジプトから出てくる時、門に血を塗って災いを免れたのと同じように、お写真を持っていればそのようなことができるかもしれません。霊界は、先生の写真をポケットに入れておくだけでも分かるのです。このように小さな条件が、門に血を塗ったのと同じになるのです。
(132-190, 1984.6.1)

先生のほほえみは、モナリザのほほえみほどにも神秘なところがあるという経験をしたでしょう。ある時はこうで、またある時はこうで、数十万種の姿に見えるこの神秘的な姿が、霊界を皆さんに協助できるようにしてくれるという経験を大部分がしているだろうと思います。



霊界の霊人たちは、みな先生をよく知っていますが、この写真を見れば霊界が喜ぶでしょうか、悪く思うでしょうか。皆さんの先祖たちがこれを媒介体にして連結できるのです。このように良い材料だということを知っていてください。
(132-190, 1984.6.1)

今、レバレンド・ムーンの名声は国境を越えました。至る所にいる為政者たちの中には、書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けておいて慕い仰ぐ人が多いということを、私がよく知っています。

ユン博士も私の写真を掛けましたか。毎日あいさつしますか。毎日キスしますか。熱情的でなければなりません。キスしなければなりません。だからといって失礼ではありません。ハナニムの愛を代表してキスすることにより、「霊界に行った人たちに私がキスすることで同参権、同位権をもつようにするためにこうする」と言う時、ハナニムが「ノー」とは言われません。「そうだ。お前の言葉が正しい」と言われるのです。どうですか、尹世元ユンセウォン博士? そのようにされたら。
(171-239, 1988.1.1)

父母様の写真をって統一教会の旗さえげれば、それは天の国の眷属(一族)になるのです。天の国の眷属けんぞくにしてあげるというのです。ですから今回、旗を揚げることをのろってばちが当たった人が多いではありませんか。本当に不思議です。先生に後ろ指をさして、手が病気になり、何日も夜祈祷して悔い改めたら治った、そのようなことが起こっているではありませんか。なぜですか。天運が訪ねてくるので個人の運勢では止められません。宿命的な道です。

モーセ竿さおにかけた青銅のへびを上げている時、それを見上げた人はみな生き残りました。統一教会の旗を見つめて、行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝して、写真を見て、行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝すれば生きるというのです。
(219-91, 1991.8.25)

統一の旗を揚げるのは、通り過ぎる食口シックたちに、「おなかがすいたらここに来て休みなさい」という表示であり、お昼時なら、「昼食でも食べていきなさい」という表示です。ですから、いつもお客さんをもてなすことのできる準備をしなければなりません。父母様の代身となって、そのような準備をしなければなりません。ですから部屋もなければならないでしょう・・・。

しかし、父母様が来られないので、父母様の代わりにお客さんに侍るというのです。この思想は天の最高の基準の前に平準化思想を連結させるためのものです。そのような意味で、お客さんをハナニムのように、父母様のように侍りなさい。そのような人は福を受けます。
(169-220, 1987.10.31)
 

3) 真の父母様に侍るにも法度がある

 

① 侍義時代の法は最高の法

皆さんが挙動すること、座ること、すべてのことが、条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法のようなものも、条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法、それはみなあるのではないですか。そうではないでしょうか。社会にもそのような法があるのですから、そうなるべきではないですか。
(66-267, 1973.5.16)



今日までの人倫道徳は父母が子供を愛し、子供は父母に孝行し、夫婦には区別がなければならないというものでした。これは三綱五倫さんこうごりん礎石そせきとして今まで伝わってきましたが、これがやはり変わりつつあります。

このように既存の慣習や規範などが自然に変わる気勢が社会環境に、生活環境に浸透して入ってくる日が「終りの日」だというのです。メシヤがこの地上に現れるとするなら、その方がこの問題を収拾しなければなりません。
(11-19, 1960.12.11)

堕落した習慣に対する、すべてのことを正すための新しい法があるのではありませんか。私たちの前には数多くの法的過程が待っていることを、皆さんは知らなければなりません。それを越えていかなければなりません。
(66-299, 1973.5.16)

韓国の礼法(風習、しきたり)では、目上の方から何かをもらう時、両手でもらうようになっています。それは水平になってこそ愛を受けることができるというのです。受けるのは垂直を通じて90度で受けなければなりません。「人心は天心だ」と言うでしょう。私たちのすべての規範は、良心の道理に従って相対的につくられて出てきたものなので、水平にならなければなりません。
(171-236, 1988.1.1)

また、道を歩くときも東洋思想は、目上の人が先に立たなければなりません。なぜですか。先に出てきたからです。そのように、環境を合わせようとしてそうするのです。あとの者は後ろに立ち、高いものは高いものに、低いなら低い所に、前のものは前のものに、後ろのものは後ろのものに、上のものは上のものとして、前後を整えなければなりません。そのような観は、変わるものではありません。それは永遠不変のものです。
(168-252, 1987.9.27)

一国の王様と臣下の間にも毎朝、朝会があるのです。「韓国の家庭を見れば、朝、父母が起きればまず父母にあいさつをします。このようなものが韓国の法度ではありませんか。皆さんは、歴史時代を蕩減とうげんするためには法の中の法、孝行する法なら孝行する法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を越えることのできる法を立てなければならないというのです。
(31-275, 1970.6.4)

この世には父母が死んで、3年の喪に服す時には毎日、朝夕に上食サンシク(注:喪家で朝夕霊前に供える食事)を供え、出ていく時や入ってくる時、霊座ヨンヂャ(注:位牌の奉安ほうあん所)に告げてあいさつする法度があるではないかというのです。皆さんは、それ以上にしなければなりません。皆さんの今していることが、み旨から見る時、天の格式にぴったり合わせた生活ですか。とんでもないというのです。
(31-275, 1970.6.4)

家庭の伝統を立てる最も早い道は、先生が生きている時にすることです。元来は毎朝、斎戒沐浴さいかいもくよくし、1里の外から歩いてきて先生に敬拝を捧げなければなりません。このような伝統を立てられなければ、自分の子孫たちの道がふさがるのです。
(21-88, 1968.11.3)



統一教会の中に、先生がたまに映画を見に行くと、「私たちも映画を見に行かないと」と言います。とんでもないことです。昔、先生は、劇場の前に行ってみたこともありませんでした。そのような訓練を経て、そのような所へ行っても自分が汚されず、支配されない自主的な人間になったので問題にならないのです。

しかし、先生がするとおりにみなすると・・・。私が地方へ行ったときある者が、私が良くない言葉を使うと言うのです。このようなやからたちがいます。私がぞんざいな言葉を使う時までは、幼子にまでも仕えて敬拝し、ハナニムの前に侍る生活をしてきました。み旨を知ってみると、先生が皆さんに敬語を使えば(皆さんは)決まりが悪くて顔を上げて話ができないのです。礼儀正しく対してみましょうか。どれほど、ばつが悪いでしょうか。
(57-277, 1972.6.4)
 

② 人間が貴いのは人倫道徳のため

ローマ法が現在、世界法の基礎になっていますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。良心の基礎は善です。善を標準とするのです。善を外れて間違う時は、良心がその間違ったことを正していきます。そして、良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとすると、法令も必要なのです。ですから結局、人倫はどこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
(33-44, 1970.8.2)

人倫は何を通じて形成されるのかといえば、情を通じて形成されます。家族関係や道徳観念、社会制度、秩序というのは、全部情緒的な面です。情を先に感じた、それが長くなったとか次元が高いということになれば、そこに頭を下げるようになります。皆さんは、それを知らなければなりません。人倫形成の動機は情からです。父母が子女を愛するところから人倫が始まります。子供が父母を愛するところからまことの人間関係は成立するのです。
(64-124, 1972.10.29)

皆さんは父母を愛し、必要とします。いつも父母に会いたがり、一緒にいたいと思います。それはなぜでしょうか。年齢で見ても差があり、秩序的関係を見ても上下の関係があるからです。ですからそこには礼を備え、尊敬し、孝行しなければなりません。このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において、一つは主体であり、一つは対象の立場に立たなければなりません。ここで孝子になるには、従順や服従という内容を介在させて、自分が会いたいと思わなければならないというのです。これが親子関係です。
(112-251, 1981.4.19)

人間が貴いのは、人倫道徳があるからです。人倫は、人と人の関係をいいます。一人の人のみでは人倫という言葉は使いません。人倫という言葉は、二人以上になってこそ成立します。男性と女性が結婚した家庭から、社会の倫理という言葉が成立するのです。倫理は人間関係の道理であり、法則です。
(136-208, 1985.12.29)



宇宙が、日月星辰じつげつせいしんの創造の法則、すなわち、天道によって縦的秩序の体系を成しているように、家庭においても、祖父母、父母、子女によって成される縦的秩序と、兄弟姉妹によって成される横的秩序の体系が立てられると同時に、相応する価値観、すなわち規範の成立を明らかにしなければならないでしょう。
(122-304, 1982.11.25)

私たちは超民族的、超国家的な新しい伝統を立てていかなければなりません。その伝統を私たちの思いのままにするのではなく、ハナニムが願うとおりに伝統の相対的基盤を築いていかなければなりません。皆さんの習慣性や過去の風習、現在の流行というものに歩調を合わせるのではありません。完全に違うということを皆さんが知らなければなりません。世界を見れば全体が調和するようになっているのです。ぎこちないところがないように、自然ながらも全部和合するための一つの刺激的な動機になれるようになっているのです。そのように、見た目に良くないところを注目するようにはなっていないのです。
(66-299, 1973.5.16)



p997 第7巻 礼節と儀式

 

第3章 礼拝と教会生活礼節

   

1) 教会に対する正しい認識

 

① 教会はみ言と人格を総合する所

教会が目指すべき目的は、ハナニムの国を求めて建てることです。ハナニムが本来もたれた創造理想は、国を中心として一つの世界をつくることなので、教会が目指すべき目的地は、教会を建てることではなく、国を建てることなのです。
(149-48, 1986.11.2)

今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。教会は堕落圏内で、復帰の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は終わるのです。それゆえ統一教会は、教会活動をするのではありません。教会の名で社会に適応し、社会を改革し、社会の廓清かくせい(浄化)運動をするのです。そうすることが、その国と民族、そして世界に住む人類には果たすことのできない、開拓者の使命を成し遂げることになるのです。今こそ皆さんは、この道を行かなければなりません。
(28-222, 1970.1.11)

教会は、過去、現在、未来の因縁の本拠地です。それゆえ、蕩減とうげん条件を立てるための媒介体であり、みことばと人格と心情を総合する所になります。
(牧会者の道-238)

教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門戸であり、すべての人に相互扶助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となるのです。教会は、霊的生活の源泉であり、日々の生活に力を補給してくれます。
(牧会者の道-238)

家庭に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くし、社会に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くすのが原則です。教会が主体であり、家庭と社会は対象だからです。賢い人は、どこに立つのでしょうか。主体の立場に立ちます。主体の立場は、一つしかありません。対象は東西南北、四方にあり、360度回転しなければなりませんが、主体は中心のたった一箇所にあるだけです。そこは絶対的な圏内です。二つではありません。中心が二つになることがあるでしょうか。中心が行ったり来たりすると、滅びる可能性が増すのです。
(25-126, 1969.9.30)

「全知全能で慈悲と愛に満ちたハナニムであるゆえ、千回、万回罪を犯してもゆるしてくださる」と、クリスチャンは言っています。そうしながら彼らは、教会で祈祷して出てくるやいなや、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔ざんげ堂ではありません。それほど多くの罪を赦せるハナニムならば、エデンの園でサタンが一度犯した罪を、どうして赦すことができないのでしょうか。そうではないですか。また、サタンが赦される道があったならば、サタンは悔い改めていたはずです。千回、万回涙を流して悔い改めたはずです。
(19-161, 1968.1.1)



教会が一つから二つに分かれ、二つから四つに分かれ、そのようにして3回分かれると、ハナニムは去っていきます。天理の原則はそうなっています。そうして家庭的に集まります。恵みのある人は、家庭的に集まるのです。教会に行きません。家庭でひれ伏して祈祷します。そのようになるかならないか、見ていなさい。
(9-266, 1960.6.5)

統一教会の目的とは何ですか。人類に対して、ハナニムとメシヤとで地球ぼしで踊りを踊り、サタンまでもみんな福を受けるようにしようということです。これが統一教会の道です。どれほど偉大でしょうか。そこまで行こうというのが統一教会です。さて、話を聞いてみると、統一教会はどうで、異端で、何かの邪教だと言いますが、私たちは鼻にもかけないのです。聖なる人たちが道を行くのに町内の犬がほえている、このように考えるのです。
(80-285, 1975.11.2)

「終りの日」、この時代の統一教会の使命は、「ハナニムの願いとは何か。人類の願いとは何か。ハナニムの愛とは何か。人類の事情とは何か。ハナニムの心情とは何か。人間たちの心情とは何か」ということを教えてあげることです。

そのために出てきた教会です。そのような世界を教えてあげることができ、千人、万人をみな教育するとすれば、この理念圏内の世界は、統一されまいとしても統一されざるを得ません。
(151-209, 1962.12.15)
 

② 教会は家庭の延長である

「私は誰々のために教会へ行く。私は愛する息子、娘のために教会へ行く。愛する夫のために、妻のために教会に行く」と言う人は、みな乗り越えていくことはできません。誰のために教会へ行くのかというと、ハナニムのために行くのです。ハナニムを私のハナニムとして侍るために、ハナニムの愛を私の愛として得るために教会に行くのです。
(8-162, 1959.12.6)

公的な教会は、自分の家よりも貴いものです。
(15-271, 1965.10.24)

天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は、家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場になります。
(牧会者の道-238)

顔が良くて若くなければ伝道ができないというのですか。とんでもないことです。教会は、家庭の延長です。家庭の延長であることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさんがいなければならないし、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないのです。教会に若い人しかいなければ荒廃します。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えです。年上の人に侍ることができなければなりません。おばあさん、おじいさんはハナニムの代わりであり、お母さん、お父さんは父母であり、自分と息子、娘まで4段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こういう段階で見ると3段階です。



この運命圏を外れることができないのが人生だというのです。おばあさん、おじいさん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘、3段階は線を4本引いて初めて三つの段階ができるでしょう。7数の基準なので、これを結び合わせなければ3段階はできないのです。これを結ばなければ、すべてが勝手にばらばらになります。3段階ができるにはこれを結ばなければならないのです。
(70-149, 1974.2.9)

教会生活でハナニムから公認を受け得る立場に立っていない人は、社会生活においてハナニムに代わる生活をすることはできません。内的な教会生活で、ハナニムの公認を受けるかどうかが問題です。

ところが今、皆さんの教会に対する観念について考えてみると、教会で集会するその時間がどれほど貴いかを忘れています。教会の公的集会に対する観念が希薄なので、み旨の進んでいる方向に対しても希薄になるのです。

内的に自分がどういう立場に立ち得るかを確実に知らないがゆえに、外的基準も確実ではないのです。
(22-36, 1969.1.19)

教会生活は良くできても社会生活は良くできないという人もいれば、社会生活は良くできても教会生活は良くできないという人もいます。このような点から見ると、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人は、実を結ぶための要因と、その内容がありません。

教会生活は良くできても社会生活が良くできない人と、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人とでは、どちらのほうが良いかというと、教会生活が良くできる人のほうがよいのです。

結実の要因をもった人は、あすの希望をもって動いていくことができますが、結実の要因をもっていない人は、結実と関係を結ぶことができないのです。
(36-20, 1970.11.8)

皆さんは血統を通してハナニムの息子、娘であることをあかし、真理を通してハナニムの息子、娘であることを証し、生活を通してハナニムの息子、娘であることを証し、仕事を通してハナニムの息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができないならば、教会に来て信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。
(3-40, 1957.9.15)

家庭と教会と社会の三角圏を中心として考えると、皆さんは家庭を中心とした思いが強いですか、教会を中心とした思いが強いですか。それとも社会を中心として自分が出世しようという思いが強いですか。皆さんは、どの思いが強いかを考えてみてください。



ハナニムは、どのような人に協助し、同情するでしょうか。教会を考えるというのは、ハナニムに代わって人を愛することなのです。そして人を救うことなのです。
(42-169, 1971.3.4)

人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集団的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じることができるかが問題です。そのような関門が、教会になるのです。
(9-8, 1960.3.13)

皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心とした生活全体を考えて、どちらが内的であるかというと、教会生活が内的です。それでは皆さんは、どれほど内的生活の価値の基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこうすること、それがみ旨になるだろう」と勝手に考えます。そのようなところにハナニムは、いることができるでしょうか。
(22-38, 1969.1.19)

統一教会に反対する人が教会でご飯を食べていったとしても、笑いながら送りなさい。絶対に食べ物を惜しんではいけません。

また、統一教会員ではない人が来てご飯を食べたからといって、「なぜ食べるのか」と言ってはならないのです。先生がこのようなことを言うのは、今まで八道江山パルドガンサン(国中)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員ではない人も、ここに来てご飯を食べなかった人はいないだろうと思うからです。
(37-329, 1971.1.1)

人が最も好むのは赤ん坊であり、最も嫌がるのは先の短いおじいさん、おばあさんです。極と極です。天の運動とはどのようなものかというと、極と極を包括するための運動ではないかということです。子供と一つになろうとして、おばあさん、おじいさんがつえをついて来ては、遊んでご飯を食べていく、そうなればそこは栄えるのです。

皆さんがおじいさん、おばあさんの友達になり、おじいさん、おばあさんは皆さんに夢中になって夜も眠らず、自分の家の良い庭や、床の間、鯨の背中のような(とても大きくて立派な)家をさておいて、教会の板の間で寝るというようになれば、そこ、その団体、その人がいる所は、どんどん栄えるというのが原則なのです。
(60-158, 1972.8.17)

おばあさんが「ここに教会長はいるか」と訪ねてきた時に、遠くから見て「いないよ、いない」と言えば罰を受けます。「教会長は出掛けたけど、おばあさん何の用? 年寄りのおばあさんは要らないよ」と言ってごらんなさい。ハナニムが御覧になって、「こいつ、お前はどこから来たのか」と引っ掛かるのです。

年を取ったおばあさん、おじいさんを否定するということは、お母さん、お父さんを否定することです。ですから年を取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんを良く奉養してこそ、孝行者なのです。
(56-38, 1972.5.10)



2) 礼拝はハナニムに最高の敬意を表す儀式

 

① 礼拝時間はハナニムに出会う時

安息日を聖なるものとして守る目的は、ハナニムが願う国を建て、人類を救うことでなければなりません。キリスト教安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることにより自分自身が昇華され、自分自身を思う、すなわち救いという目的に重点を置いたためです。

私たちが安息日を守る目的は、自分の救いの道を促進することでもありますが、さらに進んで全体を救い、今後、ハナニムの摂理である国と世界を救うという目的に、より重点を置いているのです。これが、より高い責任をもつハナニムの願いであることを知らなければなりません。
(69-240, 1973.12.30)

礼拝を捧げる時間は、祭祀さいしを捧げる時間です。自分の過去をハナニムに贖罪しょくざいしなければなりません。ゆえに礼拝の時間は自由のない時間です。
(11-163, 1961.6.24)

礼拝時間は、押し寄せるいかなるサタンの権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しすることを約束する時間です。
(6-263, 1959.6.7)

礼拝を捧げる、その時間は、怨讐おんしゅうと一騎打ちをするよりも深刻な場です。
(9-296, 1960.6.12)

礼拝が始まる前に早く来た分だけ、その時間はハナニムのために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買えない価値があります。礼拝の時間はハナニムに捧げる時間であるために、その時間に遅れることはハナニムから盗みをすることと同じです。

礼拝には、決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけハナニムの前に面目を立てることができます。そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷するときも目をぱちくりさせながら、「先生はきょう、どんなみことばを語られるか」と座っている姿を見ると、惨めで仕方がありません。
(36-125, 1970.11.22)

ハナニムの前に出て侍る場に、礼服を着ないで参席できるでしょうか。目に見える礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんのその心から、み言とともに賛美とともに感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。

堕落した人間がエデンの園から追放されたとき、涙を流しながら追われましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑い顔でハナニムに会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない者が、喜びの涙を先に流してはなりません。
(9-296, 1960.6.12)



礼拝時間のために、三日前から心を焦がして準備しなければなりません。万民の幸福を祈り、万民を蘇生そせいさせるための復活の権限と生命の因縁を結ぼうと苦悶くもんしながら教会の門に入らなければならず、ハナニムの前にのどの詰まるような心で礼拝に参席しなければなりません。それでも足りないのに、皆さんはむしろ行商人よりもずうずうしいのです。
(20-284, 1968.7.7)

主日聖日)礼拝の時は斎戒沐浴さいかいもくよくしてハナニムの前に敬拝をして、聖地へ行って祈祷しなければなりません。たとえ訪ねてくる人がいなくても、ハナニムがその部落を照覧しょうらんされて役事することのできる心情的な基盤をつくっておかなければなりません。ハナニムの前に一人祈祷し涙するという立場は、絶対に孤独ではありません。ハナニムが共にあられるので、絶対に寂しくはないのです。皆さんが3年以上精誠を尽くしたにもかかわらず、その町で訪ねてくる人がいなければ、その町は滅びるのです。
(17-293, 1967.2.15)

礼拝に来るにしても、ただ何も考えずに来るよりも、見えない心を尽くして1日、2日と、精誠を尽くした時間が長ければ長いほど光るのです。ですから見えないものが多いほどに、天が自分を保護し守ってくれるのです。妻が、目には見えない心で、一日中、夫のことを思った上で、目に見える顔で、口でほほえむと、光るというのです。栄光の光がです。その笑顔には、夫を引きつける魅惑的な力があるのです。同じような道理です。
(228-84, 1992.3.15)

今後は、礼拝をするにも説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇り得るものでなければなりません。ですから家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうしながら良い家庭があれば、見習い、あまり良くない家庭があれば、うまくいくように導いてあげなければなりません。そのようにして、家庭天国を建設するのです。先に家庭天国をつくることができなければ、地上天国はつくられないということを確実に知らなければなりません。
(23–62, 1969.5.11)

まず、教会生活を徹底しなければなりません。そのためには、公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席すべき時間を守る模範とならなければなりません。
(31-269, 1970.6.4)

天の前に出るときに、約束は絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が、どうして恵みを受けることができるでしょうか。そのような人は、途中でやめてしまいます。今後、先生は皆さんが動けば、すぐ指導します。嫌だったらおやめなさい。誰が滅びるか見てみようというのです。
(11-133, 1961.3.26)

聖日の公的な集会に出席する模範とならなければなりません。礼拝に来るとき、子女たちがうらやましがってついてきたがるように、夫婦が一緒に仲良く来なければなりません。10時前に教会に来て、聖日の準備をしなければならないのです。
(21-87, 1968.11.3)



礼拝時間はサタンと闘う時です。一騎打ちする時なのです。それなのに眠っていてよいでしょうか。そういう人がいれば、揺すって起こしてあげなさい。「サタンよ、退け」とイエス様がペテロに言ったように、横腹を1発たたきなさい。それは愛なのです。先生は礼拝の時に居眠りをする者がいれば、そのままほうってはおきません。
(15-121, 1965.10.3)

精誠を尽くすべき人が、礼拝時間に遅れてもよいでしょうか。そのような人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人中の罪人だという思いをもたなければなりません。そして、今後は時間をきちんと守ることを誓って、人よりも多くの精誠を尽くさなければなりません。

時間も守らずに、「ああ、天よ」と言うことができるでしょうか。精誠は、人に知られるように尽くすのではありません。教会に来て精誠を尽くそうとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。ここに来て祈祷するのではなく、祈祷して来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠というのは、このようにして尽くすものなのです。
(42-235, 1971.3.14)

天は、懇切に慕い苦労する人に対されます。誰でも訪ねていったからといって、対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後、時間を守らなければ、前に立たせて恥をかかせます。
(11-133, 1961.3.26)

本来は、礼拝時間が過ぎれば戸を閉めてしまわなければなりません。遅れてきた人を集めて話したくありません。このような皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとするので、2時間、3時間話をするのです。そうして初めて、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準とつながれるのです。
(11-132, 1961.3.26)

ハナニムの前に出ていく上で、時間というのは何よりも重要なものです。時を知らなければ滅びるのです。時を逃せば滅びるのです。ハナニムは極めて聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、時間も守れずに後ろのほうで賛美歌を歌っているのです。天は、そのような賛美を願われません。
(11-132, 1961.3.26)

公式的な礼拝の時間を守らなければなりません。そうすれば間違いなく発展します。
(31-268, 1970.6.4)
 

② 夜の礼拝(夕拝)、早朝集会、徹夜精誠

夕拝に力を注ぎなさい。
(10-249, 1960.10.21)

土曜日の夜は、教会で徹夜をしなければなりません。
(17-347, 1967.5.11)

今後、集会は夜に多くしようと思います。やみの世界を切り開いていかなければならないからです。そのためには、懇切な心情をもたなければなりません。
(11-247, 1961.11.1)

夕拝には、伝道をして来なければなりません。そうしなければ、教会の威信が立ちません。礼拝時間には、引導者(司会者)よりも先に来ていなければなりません。
(10-250, 1960.10.21)



人が眠る時間にぐっすり寝て、食べるだけ食べて、楽に来て座って礼拝を受けたらよいのに、どうして早朝から礼拝を受けるのでしょうか。どうして早朝から礼拝をするのでしょうか。人とは違わなければならないというのです。他の宗教集団や信仰者と同じではいけないのです。違わなければなりません。
(84-194, 1976.2.29)

先生は早朝3時に集めて、1年なり何年なり伝統を立て、眠らせないようにするつもりです。人は怠惰になってはなりません。楽にしてはならないのです。楽な世界では発展がないのです。それゆえ、いかなる国家でも新たに復興したからといって、それに満足して陶酔していれば、滅びるのです。
(51-280, 1971.11.28)

昼間は働かなければなりませんが、宗教的なことは夜にしなければなりません。夜が効果的なのです。また、早朝に教えても効果的です。そして、一度来た人が、来ないではいられずに家から逃げてくるほどにしなければならないのです。

皆さん自身が、そうならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったのであれば、もっと一生懸命に、もっと上手にやりなさい。他の方法を研究してでもやりなさいというのです。
(97-196, 1978.3.15)

12時が過ぎ、にわとりの鳴く声が聞こえるまで、みことばを伝えてみなさいというのです。どれほど神秘的なことでしょうか。しんと静まり返った夜に、近所の犬がほえるのを聞きながらみ言を伝えてみなさいというのです。あたかも明るい陽光を求めて新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような気分を感じるのです。周囲が神秘でいっぱいの世界を一人で行くような勇敢な姿、たくましい姿、荘厳な姿を感じるでしょう。

このような心情的なきずなをもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。
(29-196, 1970.2.28)

夜、深夜は神秘性があります。それゆえ復興会をするなら、昼間するよりも、夜するほうが恵みが多いのです。なぜかというと、昼間は私たちの感情がみな分散しているからです。視聴覚、五感で感じるすべての感覚が、昼間は分散しやすいのです。

しかし、夜はそうではなく、むしろ集中します。すべてが私を包囲し、私というものをはっきりとさせます。そのような圏内に私が自動的に立つので、夜はハナニムと共に恵みの役事をしやすいのです。ハナニムも良く役事をしてくださることができるのです。
(29-196, 1970.2.28)

早朝に起きて、自分の1日の生活が父の前に感謝の実体となることができるよう祈りながら、花の咲く春の園のごとき自由の園で、ハナニムが私を立てて摂理することのできる希望の結実体になろうとしなければなりません。昼になって仕事場に行けば、希望の結実体が育つ夏のようにもう1歩発展し、ハナニムが共にいらっしゃる価値を現すことのできる存在になろうとしなければなりません。



また夕方は、全体をみな集約して一つの決心を父の前に捧げることのできる秋のような時なので、祭物になれる立場に立とうとし、冬に当たる夜は、生命力を携えてハナニムと内在的な父子の起源を結び、すべての価値を受け止め得る自身となろうとしなければなりません。このように1年365日を勝利の日としながら感謝する生活をする人であれば、その人は父と関係を結んで生き、生きがいのある生活をしていると感じることができるでしょう。
(29-340, 1970.3.14)

皆さんが時間の過ぎるのも忘れているのは、ハナニムの愛に酔っているからです。ですから草創期には、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが常でした。
(97-307, 1978.3.26)

眠る時間を計算して、「きょうは眠れなかったから、あすはもっと寝なければならない」と言ってはなりません。皆さんはそうでしょう。「聖日の朝は断食だから土曜日の晩にご飯をもっと食べよう」、このような断食は、してもしなくても同じです。

むしろ断食をしないほうが良いくらいです。断食をするからといって前の日にたくさん食べると、かえっておなかがすくのです。そのように食べてみなさい。胃を広げておいて突然空にするのですから、おなかがすいて当たり前でしょう。
(44-161, 1971.5.6)
 

3) 教役者(牧会者)がもつべき姿勢

 

① 教役者(牧会者)は公的でなければならない

1000人以上を率いる人は、霊界の鑑定を受けて立てられた人です。
(18-223, 1967.6.9)

自信があって責任者になるのではありません。先生も「自分に自信がある」と考えたことはありません。自信よりも、ハナニムが慕い、ハナニムが訪ねるその人を慕うべきだということを知っていたがゆえに、いかにしてその心情をもって立ち上がるかということが問題でした。その心情さえ通じれば、できないことがありません。慕うその人をより高め、悲しむ人を慰労できる心をもつべきであることを知らなければなりません。
(70-170, 1974.2.9)

まことの牧者(牧会者)は、自分が真の牧者だとは言いません。いつも黙々とハナニムのみ旨とすべての万象を自分の心に抱いて進むのみであり、自分の立場を弁明しないのです。
(3-210, 1957.11.1)

公的なことのために疲れも忘れて走り、いつ寝たのかも知らずにぐっすりと寝て朝起きると、体がどれほど軽いか分かりません。そのようなことを思うと、「ああ、天に行く道はこうして行くのが原則なのだ」と思われます。

ところが、「ああ、きのうは3時間しか眠れなかったからきょうは5、6時間寝なければならないのだが」と思いながら寝て起きると、腰が痛く、体中がとても重いのです。ですからそのように思ってはならないということです。
(44-160, 1971.5.6)



責任者は、いくら疲れても先に横になるのではありません。みんなを寝かしてから横にならなければなりません。祈祷をする時も最後までしなければならないし、信仰生活をするにおいても食べられず、良いものを着ることもできず、貧しいながらも精誠を尽くさなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。
(33-169, 1970.8.11)

先生は、精誠を尽くす人の前ではどうすることもできません。今まで教会を指導してきながら、二人の人がいて、その二人のうちのどちらが優秀かという問題を解決すべき時は、顔の良し悪しを見るのではなく、心がどこに向いているかを見ました。すなわち、私的であるか、より公的であるかを見たのです。
(31-260, 1970.6.4)

朝、第1歩を踏み出す時も、公的な1歩であるか、私的な1歩であるかを反省しなければなりません。そして1日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な1日を送ったのか、私的な1日を送ったのか反省しなければなりません。また、1年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません。
(39-76, 1971.1.9)

公職に就いている人は、かわいそうです。もてる精誠を尽くしたのに、仮にみ旨の前に誤って、自分のせいで千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか。そのような心情で生活するのです。
(46-55, 1971.7.18)

過ぎゆく歳月とともに流れていってはいけません。新たな日に備えて前進する群れとならなければ、荒野ではげたかの餌食えじきとなります。
(135-279, 1985.12.15)

私たちは歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を突破して、あすへと向かう希望の前に準備態勢を整えて進むべきです。
(牧会者の道-63)

いったん責任を負ったならば、次は戦闘です。闘争です。お前が負けるか、私が負けるかという戦いをしなければなりません。皆さんはその戦いで、皆さんの1代で少なくとも3人以上、反対する立場にいる人を自然屈服させ得る基盤をつくらなければなりません。
(14-13, 1964.4.19)

皆さんはまず、理論に対する知識をもち、次に、できるという信念をもつべきです。自分の考えが及ばず、自分の信念が及ばなければ、自分のものにならずに人に奪われやすいのです。しかし自分が実践してつくった基盤、根をしっかりと張ってできた基盤は、それ以上の力を加え、それ以上の信念を加えない限りは、絶対に奪われることはありません。
(19-39, 1967.12.24)

責任をもつ前に、どのような心をもたなければならないでしょうか。責任を負えなければ命に替える、という信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決する解決点が生じるのです。
(19-142, 1968.1.1)



「人間としてできる限りの最大の努力をしました。夜も昼も心のすべて、精誠の限りを捧げました」と言える立場、天が見てもそれ以上できないという立場でそこを去る時、たとえその人がすべてを成し得なかったとしても、天は成した価値以上に報いてくださるのです。皆さんは、それを知らなければなりません。
(56-33, 1972.5.10)

教会長は、その地方の祭司長です。寝られなくても、恵みを祈ってあげなければなりません。多くの人を救うために祭物を扱うのですから、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀さいしには実体(教会長)と主人(ハナニム)が一つとなって初めて、返ってくるものがあるのです。
(9-80, 1960.4.12)

祭祀は、誰が管理するのでしょうか。祭司長が管理します。客が管理してはいけません。それゆえ、公的な和合の場を重要視しなければ発展することができません。
(17-293, 1967.2.15)

祭物の前に立った人たちは頭を下げなければならない、というのが天法です。その祭壇にはハナニムが臨在して干渉されるのです。心情的に私は、きょうこの祭壇の前に情熱とすべての力と努力を捧げきり、自分の生涯で最高の誠心誠意を尽くして口を開くとき、ハナニムが協助されるのです。祭物は深刻な立場で捧げられるものなのです。
(60-347, 1972.8.18)

一生の間、嫌になるほど食べて、笑って、踊って生きたのちにお墓に行けば、福となることが何かあるでしょうか。そのような人のお墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人のお墓には、その国が生きている限り花が咲くでしょう。
(46-347, 1971.8.17)

統一教会の先生になるのは易しくありません。極めて難しいのです。それは罪人のように、囚人服を着て死刑場への道を歩いていく、そのような気分で歩んでいる人だというのです。皆さんは、刑務所生活をしたことがないので分からないでしょう。豪華な家に住んでいますが、私はその家を必要とする人ではありません。

私は、草屋にも住める人です。草屋にも住めるように訓練されています。服を脱いで、それを持って労働の場に行けば1等労働者になれる、そのような訓練をした人です。そこにハナニムが愛する人がいれば、私が行って抱き締め、環境をすべて収拾してそこで涙を流し、友達になれる、このような心情的な訓練をした人なのです。
(85-43, 1976.3.2)
 

② 食口の指導は精誠によって

教会員(食口シック)を慕うのも、初恋をするような心で慕わなければなりません。
(牧会者の道-290)



核心要員は、夜を徹してでも精誠を尽くして育てなければなりません。そのように三日間精誠を尽くせば、その人は一生忘れることのできない恵みの因縁を結ぶのです。伝道対象者が夜遅くまでいて帰る時にも、帰らずにもっといてほしいと思うようであれば霊界が協助してくれます。
(23-249, 1969.5)

まず自分自身がみ旨に酔ってこそ相手にも伝わるものです。
(23-249, 1969.5)

先生が食口シックを育てるために千辛万苦したように、皆さんもそうしなさいというのです。夜に客が来たならば、ひざまずいて天の恵みを祈ってあげ、昼間に来た客には奥の間に通して自分の親戚しんせきよりもうれしい客としてもてなし、「私の家は、こういう家です」という家風を立てなければなりません。そのような家風を立てるならば、その人は誰のために生きるでしょうか。他人をもてなす伝統をもった人たちが教役者きょうえきしゃ(牧会者)を飢えさせるでしょうか。教役者を飢えさせておきながら恵みを受けようという人たちには、口に砂を入れてあげなければなりません。
(60-308, 1972.8.18)

夜を徹して話をする時も、楽しくすべきです。夜の12時が過ぎて、夜中の2時、3時になり、「帰ったらいいのに。寝なければならないのに・・・」という思いがあると、みな逃げていってしまいます。明け方の3時、4時になっても「帰ってほしくない。時計が止まればいい」という思いがなければなりません。そのような場に因縁を結んでいけば、その人の霊は分かるのです。霊は申し訳なくて食事をするやいなや、おしりは後ろを向こうとするのです。先生はそのようにしたのです。
(56-51, 1972.5.10)

誰に会うにしても、会っただけで終わってはいけません。天を中心として会った人ならばなおのこと、絶対にその因縁を忘れてはいけません。教会に来ていたのに来なくなったからといって、切ってしまったり、のろったりしてはいけないということです。その人が離れて出ていったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
(42-162, 1971.3.4)

食口が離れていったと、失望してはいけません。不思議なのは、一人の食口が出ていけば、その人と性格も、話し方も、歩き方まで似た人が入ってきます。どの面を見ても、不思議なほど出ていったその人ととても似た人でありながら、すべての面でとびきり立派な人たちが入ってきます。そのようなことを見るとき、精誠を尽くしたことは失われないということが分かります。これは間違いない事実です。
(42-162, 1971.3.4)

もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことが良くなり得る条件を探し求めつつ、それを保留にして処理し得る余裕をもたなければなりません。もし1年前に間違ったことを見て切ってしまったなら、その人は完全に死んだでしょうが、1年、2年、3年と切らずに保留にして、それを番外のことと考えながら処理するならば、1年、2年、3年以後にはその人が生き得る道もあるのです。
(72-313, 1974.7.14)



新しく入った食口を愛すれば、蕩減とうげん条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにできないところにあります。ですからハナニムは、「互いに愛し合い、和睦わぼくしなさい」と言われました。
(18-40, 1967.5.15)

教会の草創期に、韓国で食口を育てるときには眠りませんでした。1対1の作戦をしたのです。一人の人の前で講義をするにしても、千人の前で講義をするような思いでしました。その一人の人に数千、数万人がかかっていると考えたのです。どんな命令でも聞くことのできる、そのような人にするためには、それだけの精誠を尽くして、そうなるための動機をつくってあげなければなりません。
(96-284, 1978.2.13)

皆さんは、欽慕きんぼの心情をもった食口にどれほど会いましたか。先生は、そのような人にたくさん出会いました。地の果てからやって来て先生に敬拝するではありませんか。それは、なぜでしょうか。先生が地の果てまで愛の心情的な綱を投げたので、既に電気を通したので、方向が分かるからです。そうでなければなりません。
(171-30, 1987.12.5)

指導者になるためには、心から病人を治療する医師の立場に立たなければなりません。病んでいる人の心霊状態が下がれば、夜でも昼でも時間を問わず、共に涙しながら心霊を治療するために努力しなければなりません。それが霊的指導者なのです。皆さんは生命を救うために幾晩も夜を徹したことがありますか。生命を救うためにどれほど忙しく歩き回りましたか。そのようなことが今後、霊界に行けば、表彰の対象になるのであり、人格的な基準になるでしょう。
(69-165, 1973.10.31)
 

③ 男女問題、公金に厳格でなければならない

今後、男女問題に許しはありません。許しよりも天が願われません。堕落というのは何ですか。性の問題を自己主管できなかったために堕落したのではありませんか。男性にとって最も問題となるのが衣食住の問題、性欲、次に物質に対する欲望、欲心、これらが罪悪の根です。これを主管できない人は、責任者にはなれません。
(194-87, 1989.10.17)

男女問題が大きな怨讐おんしゅうです。これが天地の法度に背き、世の中を滅ぼしたからです。これに自信のない人は祝福の場に出てはならないということをはっきり言っておきます。ところが、万が一、皆さんがこれを破り、あの世へ行って引っ掛かるようになった時は、私は知りません。私の責任ではありません。引っ掛かった場合には逃れる道がないのです。歯を食いしばってでも脱線してはいけません。
(120-220, 1982.10.16)

今後、男女問題には特に注意しなければなりません。男性でも女性でも、愛し合っているといううわさがある人は、今後、絶対に責任者になれません。それは、そうしてはいけないようになっています。
(67-55, 1973.5.20)



男女問題に関して、はっきりさせなければなりません。責任者は、この原則に厳格でなければなりません。そうでなければ誤解を受けるのです。弁明する道理がありません。ここで一度この問題に引っ掛かると、それこそ永遠に道がないのです。
(66-226, 1973.5.12)

宗教の背後には、いつも男女問題がつながっています。霊的な集団は、必ず男女問題にぶつかりました。それはどうしてなのでしょうか。エバが堕落する時、自分の夫アダムと天使長を相手にしたからです。

ですから「終りの日」になって、女性は二人の男性に対して善悪を判断すべき運命に置かれるのです。そういうわけで、男性が宗教に入門して修道すると、最後の峠で美人が現れて誘惑するのです。もしその誘惑に乗せられるようなことがあれば、千里、万里のがけから落ちるのです。
(138-286, 1986.1.24)

教役者きょうえきしゃ(牧会者)たちが息子、娘を育てていますが、非良心的な、良心の呵責かしゃくを受けるようなことをしたり、あるいは公金をいい加減に使ったりするよりも、いっそのこと食べないほうがましだというのです。食べなければ天と地が同情します。食べない人に同情しない人はいません。子供も飢えている時、食べさせてあげなければなりません。もうすぐ死ぬ人には同情するのが人情の原則なのです。

それゆえ殺人犯が死刑場で死刑になる時、彼に「最後の願いは何か」と尋ねて、その時だけは願いを聞いてあげるではないですか。そのように、悲しみ、困難に陥った人に同情すべきだと見るのです。
(60-162, 1972.8.17)

統一教会の幹部の中に、公金や物質の扱いを誤って、人情で自分の家庭を中心として公金を使い、心情的に蹂躙じゅうりんする人がいます。それは、自分の息子、娘の前に毒薬を配給するのと同じです。間違いありません。サタン世界ではこれが引っ掛かるのです。公金に対してはどうすべきか、公金にどのように対すべきか、公的なことをどう決定し処理すべきか、統一教会の牧会者は、今後、一大革新をしなければなりません。
(46-95, 1971.7.25)

霊界の法の中で最も恐ろしいのが、公金横領と公的な人を冷遇することです。最も恐ろしいのがこれです。責任者やハナニムが送った人をないがしろにすれば国が引っ掛かり、世界が引っ掛かるのです。
(96-154, 1978.1.3)

人間の生活において物質をないがしろにしてはならず、公金をきちんと扱わなければなりません。公金をきちんと扱わなければ天国の憲法に引っ掛かるのです。また、自分が出世したからといって勝手に人を人事措置することはできません、自分が出世して入った所に自分の怨讐の息子、娘がいたからといって、引き抜いて他の所に回して死ぬような立場に送ると問題が起こります。
(196-235, 1990.1.1)



先生は、公金を使うときは、全体のことを案じる気持ちで使います。
(19-266, 1968.2.19)

これからは公私の問題を徹底的にしなければなりません。公金は、サタンが配置した毒薬です。そのような公金を誤って使おうものなら滅びるのです。その公金から事が起こるのです。奸臣かんしんもそこから出てくるのです。そのために国が滅びることもあり、国を売り渡すこともあるのです。
(33-172, 1970.8.11)

私が血と汗を流して稼いだこのお金を、いい加減に使うことはできません。いい加減に使うことがあろうものなら、親戚しんせきどころか自分の先祖まで引っ掛かるのです。恐ろしいのです。ハナニムがいんを押したお金だと思います。公務員が国の国庫金を横領すると罰を受けますが、ハナニムの公認を受けた天の公金を横領すれば、天罰を受けるのです。
(85-209, 1976.3.3)
 

4) 説教は恵みと感動がなければならない

 

① 説教の実際

説教する時は、女性がお産の時に苦痛を感じるような立場で説教しなければなりません。すべての精神をそこに集中させなければなりません。説教の壇上に立つときには、産婦が産室に入るような感覚がなければならないのです。その境地に達すれば準備が必要ありません。説教の内容が問題なのではなく、そのような心情になっているかどうかが問題なのです。
(96-168, 1978.1.3)

説教の時間は、ある人を天国へ行かせるか、地獄へ行かせるかという境界線になります。「今まで統一教会のことが気掛かりだったけれど、一度行ってみよう」と教会に来たのに、「この説教は何だ」ということになれば、その人の首を完全に切ることになるのです。公廷で判事が宣告をする場よりも深刻な場が、説教の場なのです。
(96-169, 1978.1.3)

人にとって最も大変なのが、前に出てみことばを語ることです。人前で話をすると、みんなが注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、またキム氏ならば金氏、パク氏ならば朴氏と、みなそれぞれに聞いて批判なり判断をするのです。ですから人前で話をする人は、とても大変なのです。
(39-150, 1971.1.10)

牧会者は、説教についてのことを常に補充し、特に教会員に必要で、ためになることをいつでも供給してあげなければなりません。
(56-12, 1972.5.10)

霊的指導者には、体恤たいじゅつ的な信仰なしにはなれません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教しても、その本の中にハナニムがいますか。いません。ハナニムは霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないことを、皆さんは知らなければなりません。
(76-151, 1975.2.2)



皆さんが説教する時、昔その題目で説教したことがあるということを食口シックが知れば、気を悪くします。それは、人が春夏秋冬の四季によって変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分が良いとは限りません。何も心配なことはないのに、とりわけ憂鬱ゆううつな日もあります。

朝の日ざしも明るく、爽快そうかいな天気でも自分では憂鬱な日があるのです。そのような時、どうすれば解決できるでしょうか。これを急に変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂鬱なところを求めて入りなさいというのです。このように正反対の新たな刺激を与えるなり、それを克服し得る新たな刺激を起こして補充していかなければなりません。

皆さんが解決方案を立てて1日1日の生活を調節していくことができなければ、今後、多くの人の心霊を指導することはできないのです。
(30-126, 1970.3.21)

新たなものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷してでも補充すべきです。それでも駄目ならば、命を懸けてでも談判しなければならないのです。
(30-126, 1970.3.21)

準備のできていない説教をして恵みを与えられなかった時、ありったけの力を尽くしても駄目だった時は、振り返り、帰ってきて、ただただ大声で痛哭つうこくする時間がなければなりません。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知るべきです。そうしてこそ発展するのです。
(96-168, 1978.1.3)

朝御飯を食べる時、新しく炊いたご飯を食べるでしょう。新しい味がしなければならないのです。同様に、説教するにも、新しい説教をすべきです。霊的な面で新しい何か、保養剤とでもいうか、そのようなものを供給して、そこに付け加えて説教しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて酸味をきかせ、塩味をきかせ、さもなければ苦みでもきかせて新しい味を出さなければならないのです。
(75-176, 1975.1.2)

恵みを与えられずに説教を1時間してきたならば、3時間悔い改めなければなりません。皆さん、それを知らなければなりません。説教がうまくできずに恵みを与えられなかった時には、3倍以上悔い改めなければならないのです。

一つの生命のために命の水を与え、育てるべきなのに、水をやるどころか水を奪い、土を掘り起こしてきたとすれば、その責任を取らなければなりません。その人たちが帰ったあとでも、きょうのみ言を中心として恵みを施さなければならないのです。
(160-194, 1969.5.12)

聖日ごとに、「聖書はどこを読もうか、賛美歌、出てこい、聖歌、出てこい」と言うのではありません。それではいけないのです。人にとっての生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を取り上げて、その人のことと聖書の内容を対照しながら興味深く説教するのです。



そうすると聞く人は、自分の話なのですっかり引き込まれるのです。喜ぶのです。本を見てしようとしてはいけません。本も人から出てくるのです。人自体が本の原本だということを知るべきです。
(46-284, 1971.8.17)

牧会者は、苦労をたくさんしなければなりません。人生の修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食こじき、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏にある立場まで一度は経験することも必要です。そしてそのような状況を中心として、その時に公的立場で経験した事実などを取り入れた体験談には実感がわくのです。
(160-194, 1969.5.12)
 

② 真のお父様の説教

先生は、説教のために祈祷する時間よりも、食口シックのために祈祷する時間を多くもちます。「父よ! この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいのですか。これですか、あれですか」と、精誠を尽くしてから心の命ずるままに説教します。
(9-81, 1960.4.12)

先生は、説教のために準備をしたことがありません。生きた体験で事実を語る時は、みな感動せずにはいられないのです。
(16-345, 1966.10.14)

一時先生は(北朝鮮にある)咸興ハムフンでトンネルを貫通する仕事をしました。おなかをとてもすかせて仕事をすると、つるはしを強く握りしめた手が上がらず、精根尽きていました。「昼飯だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしかったか分かりません。その時のご飯! そのご飯を食べるためにつるはしを地面に突き立てて振り向くその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が数えられないほど多いのです。
(30-152, 1970.3.21)

悲惨だった復帰歴史の事情は、私を滅ぼすのではなく、青史せいし(記された歴史)に永く光り輝く資料であることを知らなければなりません。それで、ハナニムが秘めた宝物をかき集められるその日まで行かなければなりません。その受難の事実を世界万民の前に打ち明け、話せば、他の内容で1時間説教するよりも、この内容で10分だけ話せば痛哭するというのです。そのように良い説教の内容が、どこにあるかというのです。
(30-152, 1970.2.21)

ハナニムと密接な関係にあれば、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そのような訓練が必要です。私は、有名な人に会って1日に10回話をしたことがあります。その時は、場所によってみな内容が違う話をしなければなりません。

ところで、それをみな準備してするでしょうか。そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全に捧げられる立場に立てば、天が共になされるのです。
(60–348, 1972.8.18)



皆さんがいつも注意すべきことは、先生が今、どの方向に向かっていくのかということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する上で一番効果のある方法です。恩賜おんしを施せる動機になるのです。

先生がこの時間に、何のために、どんなことをするのかを知ろうとするならば、相対的に心情的基準を先生と一致させるために自分の心を引き上げて、先生の心をどのように身代わりできるかが問題なのです。皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪れるでしょう。
(60-349, 1972.8.18)

聖日の説教をする時は深刻でしょう。私が皆さんだったら、夜寝ることができません。どうして寝ることができますか。人の生命を生かすために注射するのです。強壮剤の注射をするのと同じです。

食口たちに1週間分の薬をあげ、強壮剤の注射をしなければならないのです。生命を扱う医者が、生死の岐路に立たされた人に注射する時、深刻なのと同じように、そのような立場で指導しなければなりません。ですから壇上に立つ時は、死刑場に出ていくのと同じなのです。
(75-176, 1975.1.2)

説教する時は、汗を流さなければなりません。後頭部に汗が流れなければなりません。涙と汗がなければなりません。それが鉄則です。
(160-194, 1969.5.12)

説教は心配する必要がありません。先生が一生の間に説教した200巻を超える説教集があります。皆さんが霊界に行って問答する時、「私は見ることも読むこともできませんでした」と言いますか。英語には翻訳させないでしょう。これを読まないで逝けば大変なことになります。指導者たちがこれを読まなければ、大変なことになります。
(173-76, 1988.1.3)
 

5) 献金は法度に合うように捧げるべし

 

① 10分の1献金を捧げる法

公金に対して厳しくなければなりません。10分の1献金は徹底しなければなりません。自分の総収入から10分の1の献金を必ずハナニムの前に捧げなければなりません。
(11-218, 1961.8.26)

10分の1献金は、所有している物質中の10分の1をハナニムに捧げることにより全体を捧げる、という意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の10分の1に精誠を込めて捧げることにより、残りの10分の9も聖なる物として取り扱えるようになります。このように10分の1献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
(31-239, 1970.6.4)

精誠を込めて10分の1献金をしてみなさい。絶対に飢え死にしません。その子孫は、物質に対して窮乏きゅうぼうしないのが原則です。10分の1献金を捧げるために精誠を込めなさい。それが信仰の本質です。適当にすればよいだろうと、それは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。それで、一番貴重な物を捧げるのです。
(63-338, 1972.10.22)