八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 2-4

八大教材教本 天聖経(2012年版)p459-494

【天啓の御言】(2-4)

 


真の愛で結ばれた夫婦が別れることは、ハナニムも嫌われるので、絶対的男性と女性の愛は永遠なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-340)
ハナニムは、全知全能であられる方ですが、その絶対的な存在も、一人では何の意味もありません。それと同様に、一人の男性がいくら美男で健康な人だとしても、女性がいなくてはその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って生きる男性は、どこにも使い道のない陰険な存在にすぎません。そのように、自己陶酔に陥って生きる男性が世の中に多いということが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因だというのです。自己陶酔に陥ってしまっている世の中を改善し変化させてきたのが、ハナニムの摂理だったということを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-341)

 

4) 愛は相対から来るもの

愛は、一人では成されないのです。愛は、どこから出てくるのですか。「私」から出てくるのではなく、相対から来るのです。相対から出てくるので、「私」が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きる」という天理がここから生まれるのです。極めて高貴なものが「私」のところに訪れるのですが、それを受け入れようとすればそれを貴く思い、敬わなければならないという「ために生きる哲学」を確立しなければならないのです。
(143-277, 1986.3.30)
人には愛があります。しかし、愛というのは、「私」一人では現れません。男性が一人でいるときには、愛は現れません。男性の前に相対的な女性が現れてこそ、愛が生じてくるのです。このように相対が現れて初めて、愛が生じるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-342)
父母の愛が素晴らしく、夫婦の愛が素晴らしいというとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、「私」から始まるのではなく、相対から始まるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。
愛は、自分一人から始まるのではなく、相対から始まるのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人となるのです。
(34-331, 1970.9.20)
愛は、どこから出てくるのでしょうか。相対から現れるのです。相対が醜くて憎ければ愛も後退しようとするし、相対がきれいで好ましければ愛の作用もその分早くなります。相対の言語、美、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定されるようになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-343)
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は「私」ではありません。「愛」という名詞は相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができないのです。


愛の根拠地は「私」ではありません。愛は「私」からだというのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は「私」ではありません。愛の根拠地が自分だと考えますが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。
今まで、夫人は夫人なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だから、私のために尽くしなさいというので破綻はたんが生じたのです。愛の根拠地は「私」にあるのではなく相対にあるので、その愛を「私」がもつためには、その愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を要求するのです。また、愛は克服を必要とするのです。このような観点から見るときに、今日サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他のところからは見いだすことができません。
ハナニムを中心とした愛の原則によってのみ見いだすことができるので、ハナニムは愛をしっかりつかんでいらっしゃるのです。世の中で「慈悲」という言葉も、愛がなくては出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てこないのです。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語られるものです。
(46-35, 1971.7.18)

 

5) 異性間で愛の調和を成せば

男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つになって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の筋肉はごつごつしていて、女性は滑らかです。男性はひげが生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べてみると、相対的に釣り合っています。調和がとれているのです。人間というのは、肉的構造を見るとき、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さん、高いだけあるいは低いだけでよいですか。調和を成すのがよいのです。水平線を中心に、下には魚がみ、上には乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度ずつ生理が生じます。月を中心にして潮が満ち引きするように、女性も同じです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和して平衡線にならなければなりません。
なぜ人々が、昇ったり降りたり、回ったりするいろいろな施設のあるディズニーランドを好むのかといえば、宇宙がそうだからです。
男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらが気持ち良いですか。男性と女性が和動するほうがよいのです。宇宙がそうだからです。宇宙が陰陽の調和を成して和動するので、人間が拍子を合わせなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-344)
異性間において愛の調和を成せば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ぶようになれば、ハナニムが降りてこられ、人間は上っていくようになり、中央で出会うようになります。


ハナニムは、この円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点から四方のどこにでも通じることができるのです。その求心点は、愛の調和が成される所であり、生命が胎動する場であり、平等主義と共同主義の始発点なのです。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容する力は愛なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-345)
人間にとって愛は、永遠なるものであり、二つではなく一つです。男性と女性の間が愛で結ばれれば、地上で夫婦が年を取るまで仲良く連れ添わなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっているのです。体は二つですが、一つとなって回転することによって一体化するのです。
二つの体が一つになれば、ハナニムのように回るようになり、愛の四位よんい基台をつくるようになるので、それが正に愛の理想世界なのです。そこには、偽りの愛は侵犯することができず、ただまことの愛のみが臨在するようになります。ハナニムを中心にして、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立ったならば、ハナニムはいつでも訪ねてこられるようになります。
愛の四位基台をつくるようになれば、相手側の体を通して心までも愛するようになり、心を愛するようになれば体まで従ってくるようになっているのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-346)

 

6) 真の愛に酔った本然の人間

この世で最も神聖なものは何ですか。世の中で最も神聖なものは、まことの愛です。真の愛は、ハナニムから出発します。ハナニムが存在されるなら、それ以外の道はありません。ハナニムが心から願われるのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなくては、ハナニムの前に出ていけないことを知らなければなりません。
ハナニムは、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいのです。人間も、ハナニムから愛の口づけを受けたなら、内部が爆発するような喜びを感じるはずです。ハナニムの願いはここにあるのであり、ダイヤモンドや宝石を所有してうれしいとおっしゃるのではありません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-381)
人間の全身を見れば、人体は五官をもっています。人間は、誰でも五官の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に染まって酔うようになっています。
酔ったひとみの色は、どれほど美しく光るでしょうか。真の愛に惹かれている人の、ほほえむその唇は、どれほど恍惚こうこつとしたものか考えてみてください。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、ハナニムに向かって動く五官の調和がどれほど美しいだろうかと想像してみてください。
そのような美しさを通した喜びは、ハナニムお一人では体験することができないのです。そのような美しさは、相手がいてこそ体験するようになるので、それがハナニムが人間を創造された目的でもあるのです。


真の愛に酔った瞳に触れてみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという美しい男性と女性がいれば、ハナニムはどのようにされるでしょうか。真の愛のエバがいるなら、そのエバの心情世界を一度は旅行したいという思いをもたれるはずです。
美しいエバの心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動をもたれるはずだというのです。ハナニムは、天地を創造された以上に美しい内容を所有しているアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われることでしょう。
ハナニムは、真の愛の人間に対して宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいと思われるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。
ハナニムが人間を造られたのち、人間の真の愛におぼれて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中にハナニムがお住みになるようになるので、ハナニムと人間が一つになってつくりだした世界は、喜びと美しさが充満した世界だということは確かです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-382)
真の愛が完成すれば、感応のハナニムは、その真の愛にどっぷりつかっても後悔なさらないはずです。真の愛の中ならば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方がハナニムであられます。真の愛の世界で人類が生きるとすれば、一生後悔のない幸福な生涯になることでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になっていたでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-383)

 

7) 愛は極めて自然なところで成される

先生が幼いときにあった話ですが、ある日、鳥を一つがい捕まえて、2羽のくちばしを口づけさせる遊びをしたことがあります。2羽が互いに口づけするのを見るために、巣を作ってえさをあげながら観察したのです。その鳥たちが互いに愛し合って、楽しそうに歌を歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。
それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための一つの好奇心、子供の実験のようなものでした。今考えれば、意地悪な行いを続けていました。
愛は、自然な中で成されるということを、しばらくしてから悟ることができました。愛は、自然な中で、最高に自由な雰囲気の中で成されるものが真実の愛なのです。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-353)
愛の価値を失った人を大学で教育して、何が変わるというのでしょうか。彼らは、みんな知識を蓄えるだけで、個人主義者になり、物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。된장찌개テンジャンチゲ(注:肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は、土鍋に入れてこそ本来の味が出るのと同様に、人格修養も、愛を基にしてこそ所期の目的を達成することができるのです。


世界文明は、美術的調和を整えた基盤の上で花を咲かせなければなりません。焼いた갈비カルビは皿に盛らなければならず、된장국テンジャンクッ(注:韓国風みそ汁)は土鍋に入れてこそ、本来の味を味わうことができるのと同じです。風味の良い된장국テンジャンクッの味は、一度味わえばどこへ行っても忘れることができないのです。
同じように、人間も風味の良い味に似たそのような愛を一度味わえば、変わることがないのです。甘いだけのインスタント食品には飽きを感じるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡単に求めることができれば、それは、真の愛だとはいえません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-354)
最近は、インスタント食品のように愛する人たちが、至る所に広がっていますが、それが問題なのです。
香水風呂に入って沐浴もくよくしても、愛が深まることはありません。田舎に住みながら冷水に体を入れて洗い、そして寝床に入る夫婦の愛のほうが、もっと純粋であり、長くたてば深まるものです。
夫婦がキスをするために歯をみがくとすれば、それは自然な愛ではなく、歯みがき粉のにおいのために、その人だけがもっている固有の体臭を味わうことができないのです。歯をみがいてキスをする人を見ていると、その人は愛を味わうためにキスをするのか、それとも歯みがき粉のにおいを味わうためにするのか分からないほどです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-354)
皆さんが好きな、愛する人と出会えば、抱擁したいし口づけもしたいのは、自然な異性間の本能なのです。「私」が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは、相手を探し出すための人間の自然な行為です。
すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件はないのです。真の愛の秩序は、相対的な理念をもとにして男性と女性が出会うときに生まれるものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-355)


 

第6章 思春期の変化と真なる結婚

 

1) 結婚の意義

結婚とは、幸福な宮殿の門を開けて入っていく儀式です。ですから、結婚は人生における重大事となるのです。愛は時空を超越し、人間にとって最も偉大なものであり、結婚はそのような愛を現して確認する儀式なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-356)
なぜ結婚式を「祝福を受ける」と言うのでしょうか。私たちの「原理」から見るとき、アダムとエバが堕落せずに完成していたなら、祝福の席に参加していたはずです。言い換えれば、アダムとエバは、ハナニムの実体対象として、ハナニムが主体であれば彼らは対象になるのです。
そのような立場で、愛の主体となられるハナニムから対象的な立場の愛を連結させ得るその基台において個性を完成し、結婚することによって祝福は成されるのです。
結局、完成とは結婚のことをいうのであり、結婚とはハナニムの愛の顕現をいうのです。
言い換えれば、結婚がなければ、今日、人間世界における愛というものが始まらなかったというのです。その愛の主人は誰でしょうか。人間ではなくハナニムであられることを私たちは知らなければなりません。そのハナニムの愛が人間の中に現れるようになるとき、ハナニムの喜び、誇りとなり、ハナニムの愛としてこれを感じることができるのです。
愛というものは一人で成り立つものではなく、相対的関係において成り立つものなので、男性が愛を成就しようとすれば、男性自体だけでは駄目なのです。女性も同じです。
このようにアダムとエバが愛で一つになることによって初めて、ハナニムの愛を受けることができるのです。このような観点から見るとき、私たち人間は、ハナニムから生まれたものであることが分かるのです。
(76-40, 1975.1.26)
天地間のすべての道理が主体と対象から成っているように、男性と女性が結婚するのも天地間の道理なのです。男性が右側なら女性が左側になるのは、宇宙間の横的な関係を築くためであり、男性が主体なら女性がその対象となるのは、ハナニムとの縦的な上下関係を築くためでもあります。ですから、結婚をするのは、男性だけのためでもなく、また女性だけのためでもなく、天理の法度を合わせるためにするのです。ですから、男性と女性は互いに違う形を備えています。天理の法度を一致させることができるように生まれたのです。
(101-38, 1978.10.28)


結婚というのは、愛する二人が寂しいときは慰め合い、うれしいときは共に喜び、困難なときは助け合える相対的な位置で授け受けしながら、ハナニムの前へ出ていく場合において、ハナニムの愛を土台として生活するために結ばれることなのです。これがすなわち結婚生活です。
ハナニムが男性と女性を天に造らず、地に造られたのは、平面的基準でハナニムの愛を横的に成すためです。すなわち、主体と対象の関係を造成し横的に一つになるとき、主体であられるハナニムと、二人で一つになった愛が、縦的な愛の因縁を結ぶことができるというのです。この事実は極めて重要です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-357)

 

2) なぜ結婚するのか

男性は女性を求めていくために生まれ、女性は男性を求めていくために生まれました。女性と男性は、二人が一つになってより次元の高いハナニムの愛に接するために生まれました。一人ではその愛に触れることはできません。一人で接しても、それは一方的です。立体的で球形的な愛に接することはできません。
ですから、男性と女性がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。
本然の世界においては、男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用において偉大な中心が生じて球形になるのです。横的に連結されればされるほど、縦的な力の愛の母体が連結されて入ってくるというのです。そこにおいて心と体が一つになるのです。
(109-273, 1980.11.2)
結婚は、なぜするのですか。天国へ行くのに必要なのでそのようにするのです。なぜなら、結婚をしなければ天国には行けないからです。ですから、天国へ行く資格者になるためには結婚をしなければならないのです。天国へ行く資格とは何でしょうか。ハナニムに似ることです。
どのようにしてハナニムに似るのでしょうか。ハナニムのみことばを実践する人になることです。ハナニムの愛を「私」の愛にすることであり、ハナニムが語られる言葉を「私」の言葉として語ることができればよいのです。
ですから、私は、ハナニムに代わって世界に対し、「人類よ、お前は天国に行かなければならない」と言うのです。その次には「天国に行くためには、ハナニムのように私が人類を愛して連れていく」と考えればよいのです。
そのような人は、ハナニムの人であり、天の側の人であり、天国へ行ける候補者だといって間違いないのです。このようになるときには、結婚する資格が整うというのです。さあ、結婚はなぜするといいましたか。天国に行くために、そして、人類のためにです。
男性の前にいるその女性は、ハナニムの娘であり、人類の女性を代表した娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、ハナニムが愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければ駄目です。


女性は、その反対です。「あれは私の夫である」と考えてはいけないというのです。「私」の夫だという前にハナニムの息子であり、人類の男性を代表した男性であると考えるのです。人類が愛する以上に愛することができ、ハナニムが愛する以上に愛し得る女性になればよいのです。
そして、自分が男性として右足になり、女性として左足になり、人類のため、ハナニムのための愛の足跡を家庭を通して伝えるのだと考えて結婚しなければなりません。
(88-316)
結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようとすることであり、男性と女性の愛の完成のためなのです。
そして、結婚したということは、そのような証拠を見せますと宣布したことになるのです。結婚生活を通して愛の完成と心の完成を成したならば、家庭の理想を実現したと見ることができます。そして、死ぬときにこれを成していれば、間違いなく天国に行くというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-360)

 

3) 真の結婚観

本来、心と体が完全に一つになったアダムとエバが、縦的に完全に成熟し、新郎新婦としてハナニムを喜ばせる対象圏を成し、ハナニムの祝福を受けることを通して、ハナニムの愛による家庭が形成されていたなら、それが本来エデンで堕落せずに成されていた完成圏でした。
その完成圏に現れたアダムとエバになっていれば、それは、どのような立場でしょうか。祝福を受ける立場です。
恵みの中で一番貴い恵みは、ハナニムの愛です。その次は、ハナニムの創造の権限を引き継ぐことです。ハナニムが愛を中心としてアダムとエバを創造されたように、創造的権限を賦与されるのが子女なのです。
皆さんは、なぜ子女を愛するのですか。ハナニムの創造の偉業を実体圏で横的に引き継いだのと同じなので、アダムとエバを造ってハナニムが喜ばれたその喜びを代わりに感じるためです。その次は、ハナニムが天地万物を主管されたように万物を主管させるために、横的な立場にいる私たちに、ハナニムは主管権を賦与されました。
その権限をもって秩序的段階にとどまれる、そのような世界が理想的天国であると見るのです。
ですから、結婚するその時には、ハナニムの愛を相続し、再創造の権限と主管権を、完成圏に立って引き継ぐようになるのです。ですから、結婚式というのは、愛の顕現をいうと同時に創造権と主管権を賦与されることなのです。
(76-45, 1975.1.26)
私たちの結婚観は、宇宙の座布団を・・・。宇宙の座布団、分かりますか。宇宙で一番いい絹は何ですか。洋緞ヤンダン(注:高級な絹織物の一種)ですか。洋緞の布団、ねんねこを敷いておいて新婚生活をすることよりも、宇宙の洋緞布団を敷いておいて、その中で愛し合う! そのように考えるのです。愛を中心として、所有権を私1代で決定する瞬間だというのです。私の当代に所有権が来るのですが、その所有とは女性の所有が決定されるのです。


その女性は、どのような女性ですか。宇宙の半分です! これを引っ張ってくる日には、私の後ろに宇宙がぶらさがってくるのです。考えてみてください。また、女性は、なぜ結婚しなければならないのでしょうか。男性にくっついて、半分(180度)と半分が合わさり、二人で宇宙の価値と対等の作用圏をつくるために結婚するのです! このように考えるとき、統一教会の思想は素晴らしいというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-363)
結婚は、私のためではなく相対のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、ハンサムな人、きれいな人を得ようとするのは間違った考えです。人間は人のために生きなければならないという原則が分かったなら、結婚をする時にも相対のためにするという観念をもたなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-363)
いくら醜い人でも、美人よりも愛そうという信念をもつことが原則的な結婚観です。
人間として生まれて、相対をハナニムのように愛し、人類のように愛し、この世の誰よりも愛することができるという観念が確立しなければ、天の国に復帰することはできません。一人の男性として一人の女性を愛することができないなら、ハナニムと人類を愛することはできません。
(97-319, 1978.4.1)
結婚は、誰のためにするのかといえば、人類のためにするのです。人類の共同利益のためなのです。世界を代表したものです。その男性は世界を代表した男性であり、女性は世界を代表した女性です。
(75-278, 1975.1.12)

 

4) 思春期とはどのような時か

皆さん、思春期の時は、天下の王子になる気分なのです。すべてのことを自分を中心としてひっくり返して考える時期です。このように思春期は反駁はんばくする時なので、自分を理解してくれなければ、いくらでも危険な道へ行く可能性があります。ですから、今日、青少年たちの問題が世界的な問題になったのです。
思春期の時は、どのようなことでも自分を中心としなければ気に入らないのです。しかし、自分と関係を結んだときは、それがいくら微々たるものであっても得意になるのです。
20歳前後の女性たちをよく見ていると、訳もなく「ふふふふふ・・・」と笑います。秋に葉のすべて落ちた柿の木から、熟した柿がぽとんと落ちるのを見ても、「ははは」と笑います。
それは、何か分からなくても通じるというのです。すべてのものが、すべて自分と関係を結んでいるので、最高の感情が誘発されるのです。ですから、思春期というのは、すべてのものに接して因縁を結び得る転換点なのです。それはなぜでしょうか。ハナニムの愛を中心として男性と女性を完全に100パーセント一つにするためのハナニムの創造本性が基盤となっているからです。
(33-332, 1970.8.23)


いくらきれいな娘でも、思春期はただ一時しかありません。その時は、一番の花の時であり、一生で一番貴い時なのです。それにもかかわらず、「私一人で生きよう」という女性がいるでしょうか。それは、女性ではありません。
また、男性たちの中にも、恰幅かっぷくの良い16歳前後の青春期に、自分一人で生きようという者がいますか。そのような時には、必ず相対を探すようになるのです。誰に似てそうなのですか。ハナニムに似てそうなのです。ハナニムがそうでないのに、そのような人間ができるでしょうか。ハナニムがそうなのです。一生のうちで一番貴い時である青春時代に、相対を探していくのは、男性でも女性でも同じです。
(32-248, 1970.7.19)
最も美しい花のような時期、花がぱっと開いた青春時代がいつかといえば、思春期です。その時期が正に18歳から24歳までの7年間です。この7年間は、一生に二度とない愛の花が咲く時期です。一度しかない花のようなこの時代がどれほど貴いでしょうか。
皆さん、芍薬しゃくやくの花を知っているでしょう。その花のつぼみに色の違う黄色の花房はなぶさがあるでしょう? それは、何枚から成っているでしょうか。花をしっかりと取り巻いているのです。それを押し開くことができますか。たやすく押し開けないようにしっかりと取り巻いているのです。男性や女性も、これと同じです。
皆さんの赤い愛、黄色い花のようなその愛のつぼみ、その愛のつぼみをいつ、ぱっと咲かせるのですか。天地の調和の中で、美しさが最もよく現れる時がその時期です。人間として見ても最高の時です。ハナニムの傑作品になり、最も中心の絶頂としてきらめく期間です。大きくなりながら最もきれいな花のような時代、一番美しい時代が青春時代です。
その青春期の姿は、最高の花のつぼみのようです。それを十分に愛し得る人がいるなら、その人は、ハナニムの部屋に招待を受けることができます。そのように愛し得る男性と女性は、ハナニムの恵みを受けることができ、ハナニムの部屋に招待を受けることができるというのです。それを知れば、皆さんは、男性なら男性としてそのような準備をしなければなりません。
(26-151, 1969.10.25)

 

5) 思春期に起こる身体的変化は何のためか

少年期には、漠然とした夢の中で健康に育つことだけを望みますが、思春期になり身体的、生理的変化が生じるようになれば、異性に対する関心が高まり、ひとみは好奇心と美しさできらきら光るようになります。
体もおしゃれをするために着物の身だしなみを整えるようになり、顔もよりきれいにするために、整えることに余念がなくなるのです。そのような時に唇を見れば、彼が思春期に差し掛かっているのか、そうでないのかを知ることができます。
女性たちにおいても、思春期に差し掛かれば月経が始まり、身体的に多くの変化が起こるようになります。おしりが大きくなり、胸がふくらみ、唇は赤くなり、瞳は神秘的に輝いたりします。


そのような女性の変化は、どうして、誰のために起こるのでしょうか。女性の身体的変化は、直行していた道をぐるぐる回るための変化なのです。ぐるぐる回っていける運動を始めるための変化だというのです。直行する道には何の調和もありません。直行する道は、2回行ったり来たりすれば、すべてのものが消耗され、何も残るものがないのです。直行する道を行ったり来たりすれば、環境を破壊するだけで、環境の調和は起こりません。
環境の調和と保存のためには回っていかなければなりません。ですから、すべてが回っていくべきです。回っていく場合は、自分を中心にしては回っていくことができないので、相対を中心として回っていかなければなりません。
回っていく場合は、相対とぶつかってこそ、回っていくことができます。相対者とぶつかれば自動的に反作用が起こり、回る運動が始まります。これは天地の道理です。
ですから、女性に身体的な変化が起こるのは、相対者と出会って回っていくためです。ぶつかれば回っていくための力が生じるようになります。女性が化粧をしてきれいに飾るのは、自分のためというより相対のためです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-367)
美しく身なりを整えた女性を見ると、その女性が男性を見る目はひときわ輝きます。自分の相対を見つけるため、自らをきれいに装うのは自然の現象といえるでしょう。素晴らしい男性に出会うため、理想的な男性に出会うため、気をもみながら歩き回るようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-367)
皆さんのような思春期の独身の男性と女性が共に会って話をする時は、胸がはずむのです。はずむでしょう? はずみますか、はずまないですか。分からないのですか。はずみますか、はずみませんか。(「はずみます」)。
見てください。興奮するでしょう? そして、興奮するようになれば、心のうちに変化が生じます。ところが、その心がハナニムを中心とせず、反対の立場に立てば悪になるのです。心は誰を中心とするのでしょうか。ハナニムです。そのハナニムを中心とした心と心情が、一つになり得る所に上がることができるようにするのが愛です。何の話か分かりますか。このような立場で一つの生涯を送らなければならない人間なので、人間は、愛を中心とした理想と希望をもたなければならないのです。そして、最後の場で輝けるのが愛なのです。
(26-158, 1969.10.25)

 

6) 思春期の初恋

思春期には、愛を探して心と体が衝動を起こすようになります。父母の言葉を聞かず、自分勝手に歩き回ります。心の目と体の目が一つになって動きます。また、愛の鼻をもてば、ふだん嫌いだったにおいまで好きになります。愛の口をもてば、ふだん嫌いだった味までも好きになります。夜を徹しながらでも愛の話を聞きたいと思うのです。


愛する対象は、触れば触るほどもっと触りたいというのです。このように思春期になり、愛の感情に包まれるときは、目がおかしくなり、すべてのものを良く見ようとします。
心と体が一つになり、愛の銃を撃てば、愛という弾丸が相手の心臓に打ち込まれるようになるのです。男性のそのような愛、女性のそのような愛を願う人は手を挙げてみてください。愛は、消化できないものがありません。すべてのものをおいしく食べることができ、すべてのものをみな消化することができるのです。
真実の愛をもったなら、いくら醜い男であっても美男に見えるようになります。愛は驚くべきものです。ですから、良くても悪くても思春期時代に結んだ初恋は、男性でも女性でも永遠に忘れることができません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-374)
死ぬほど好きな恋人のいる女性が、父母の反対で別の男性に嫁いだとしたら、その女性は一生の間幸福でしょうか、不幸でしょうか。その女性は、自分が初めて愛した男性が、たとえ鼻がつぶれ目が不格好だとしても、花のように良く見えるのです。
父母が決めてくれた男性は、外見からしても学歴からしても、1000人なら1000人がみな良いと言う人であり、昔自分が心の中でささやき愛した男性は、ひどく不出来なのにもかかわらず、その初恋の男性のほうが良いというのです。
初恋は、すべてを占領するのです。愛の主体は、誰ですか。ハナニムです。愛の主体がハナニムなので、愛することができるのもハナニムお一人しかいないのです。元来、初恋はハナニムとするようになっていました。ところがそのようにできなかったことが堕落です。
エバは誰と愛し合いましたか。天使長と愛し合いました。ところが、喜びながら愛さなければならないのに、顔をしかめて泣きながら愛し合ったのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-361)
皆さん、堕落するときエバが、「ああ、いいわ! 善悪を知る木の実を取って食べると本当においしい、おいしいわ」と言ったでしょうか。エバが天使長に強奪されたとき、その心はどうだったのでしょうか。良心の呵責かしゃくを受け、嫌がりながら天使長の誘惑に引かれていったのです。すべての細胞がうれしくて花が早春を望むように愛し合うべきであったにもかかわらず、細胞が朽ち果て、心情が朽ち果てた場で顔をしかめながら愛し合ったのです。
もし堕落しなかったなら、誰と初恋をしたのでしょうか。ハナニムとしたはずです。アダムとエバのハナニムを中心とした初恋には、すべてがつまっているのです。初恋を中心とした父母の愛、初恋を中心とした夫婦の愛、初恋を中心とした子女の愛、すべてにハナニムの愛と根がしっかりとくっついているのです。
皆さんのように何千年の歴史的距離をおいて、個人復帰や家庭復帰という段階を経なければならない愛ではありません。一遍にぱっとくっつく愛です。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛がひとまとめにすべてくっつく愛なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-374)


 

7) 結婚の適齢期 ‐ 愛はいつから連結されるのか

全知全能のハナニムは、人間において華やかに花開ける時を造られました。その時期が青春時代です。ハナニムは、愛の青春時代を中心として、自ら幸福を培っていくように造られたのです。ですから、ハナニムが存在する同一理想的な人間世界にあって、男性と女性が華やかな青春の時期に幸福になることができる関門として、結婚という祝福をしました。
この世に存在するすべてのものは、相対的理想を経なければ存在価値がなくなるのです。ですから、人間が成長したのちに祝福を受けて結婚をするのは、至極自然の摂理なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-371)
愛は、いつから連結されるのでしょうか。愛の力は、いつから押し出してくれるのでしょうか。男性と女性も思春期を迎え、すべての器官が100パーセント完成圏に到達するようになるとき、停止状態へ入っていくのです。すべてのものが飽和状態になります。
運動というのは、必ず飽和線を経ます。その後、いったん停止したり、また回ったりするようになります。そのような飽和状態に入っていって停止します。そのような飽和状態に入っていく前段階とは何かといえば、思春期です。思春期というのは、私の肉体の発育において、すべての器官が完成した時期をいいます。気球でいえば、空気がなくてペちゃんこの状態から、空気を入れてぱんぱんになり、破裂する直前になったということです。もう少し入れば破裂します。
その破裂するとはどのようなことでしょうか。愛が完成してそれが破裂するのならどれほどよいことでしょうか。同じように人間も、18歳ぐらいになればゴム風船のように張り詰めてきます。そして、破裂直前の立場まで行き、そこから見事に永遠に転がっていくことができます。
(110-80, 1980.11.9)
霊肉が完全に一体となるときは、本然の愛が私たちの中に訪れてくるときです。堕落した世界の人間たちの場合も、思春期とは、霊と肉体の細胞が和合し、平衡線上に立つことのできる時期だというのです。
思春期のときの霊と肉体の細胞は、すべての門を開いて喜んで迎えるのです。ハナニムを中心とした思春期時代に人間世界を眺めるとき、喜びと幸福のみが満ちるようになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-371)
愛するようになれば幸せになり、愛に酔って感じる感情は本当に万華鏡のようだといって、早く経験してみようと飛びつけば、それは、大変なことだと言わざるを得ません。愛の門は、時になれば開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主体になったと思った時、堂々と開かなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-369)
結婚適齢期は、いつごろだと思いますか。心と体が最も完成した力をもつときが結婚する最適齢期です。青年期を越えれば、だんだんと気力が衰えていくので、いくら純情を保ったとしても、相対者を求めるのが難しくなるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-369)


それでは、完成した人、すなわち完成した男性と女性が住むようになる場とは、どのような場でしょうか。天の公的なみ旨を中心としてハナニムの愛を受けることができ、心と体が完全に一つになり、ハナニムを主体として待り得る場です。このような場に住むようになるとき、完成したアダムとエバの立場に立つようになります。このような人々が、家庭を築いて出発するのが歴史的な出発なのです。これが歴史的な人生行路の第一歩です。
(26-160, 1969.10.25)

 

8) 心と体が一致した愛

皆さん、三点が分かりますか。三点。この三点が一つになれる点は、ハナニムとアダムとエバが一つになれる場です。ハナニムがアダムとエバと一つになれる場は、彼らの心と体が一致する場です。
(26-158, 1969.10.25)
男性は、心と体が主体と対象の関係になっていますが、心と体は縦と横の作用を継続することにより、存在の力を発生させます。
女性も、やはり心と体が縦と横の関係をなしていて、存在の力が起こってくるのです。男性でも女性でも、すべて縦横の相対的関係をもっていますが、その力は愛なのです。愛だけが心と体の理想的関係を永遠に成すことができます。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-378)
貧しい農夫として田舎で草を取り、農作業をする場にいたとしても、その農夫の心と体に愛の情熱が燃えあがれば、心の五官と肉の五官が完全に一つになり、これ以上ない喜びを味わうようになるのです。
このように、ハナニムの愛が皆さんに臨み得る安着点を皆さんがもっているなら、時計の振り子の振動のように、ハナニムの心が一度揺れれば、皆さんの心が一度揺れ、そして、皆さんとハナニムが一緒に回っていくというのです。
一度回り始めれば、どんどん回っていきます。行けば行くほど加重された力、遠心力が作用して、家庭を愛しなさい、社会を愛しなさい、国家を愛しなさい、世界を愛しなさいと要求するようになるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-378)
皆さん自身の心と体が一つになる中で、愛の門が開かれる時が近づけば、皆さん自身の心が宇宙に共鳴して小説家や詩人になったりするのです。
愛を主題として詩や小説を書けるのは、愛を美しく幸せにつづっていく資質を発揮するようになるからです。人間が愛の目を開けるようになれば、自分の心と体は宇宙の中で、立体的な関係を結びたくなります。
そして、秋風に舞う落ち葉を見て、自然の道理を悟ってほほえむようになり、春の園に咲く花の中に美しさを比べてみたくなり、自分が一輪の花になったりするのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-378)


男性も女性も、どうして愛を好むのでしょうか。人間の身体は、数百兆にもなる細胞から構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するかといえば、愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かせる時が、正に男性と女性が愛し合う時だということを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-379)
心と体が一つになって恋しい涙を流すようになれば、骨が鳴り騒ぎます。
動物の場合においても同じです。皆さんも知っていると思いますが、雌牛が発情するとどうなりますか。食べることさえ忘れてしまいます。その時、すべての神経がそのことだけを願うようになります。それと同じで、心と体が一つになった場所で愛し互いに恋しく思うようになれば、体の中で動かない細胞はありません。
一切の細胞が本来の方向感覚を忘れて一つに集中します。このようにして、相対に出会うようになれば、爆発するようになります。その爆発力はものすごい力になります。
そのように愛して何をしようというのでしょうか。ハナニムに似ようというのです。ハナニムが喜ばれることに同参できる場に出ていこうとするのです。言い換えれば、ハナニムが喜ばれることを共に感じようとするのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-379)


 

第7章 真なる夫婦の愛

 

1) 創造本然の夫婦関係

ハナニムは、プラスとマイナスの二性性相であられます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。
(32-238, 1970.7.19)
一男と一女は、無形であられるハナニムの実体対象として現れた息子、娘です。男性はハナニムのプラス(+)の性稟せいひんを、女性はハナニムのマイナス(-)の性稟を代表した実体対象です。
創造理念は、両性の中和体としていらっしゃるハナニムの性相を二性に分立し、再びハナニムの本性相に似た姿に合性一体化するものです。
一人の男性と一人の女性は、各々ハナニムの一性に似て現れました。したがって、彼ら一男一女の結合は、ハナニムのプラス(+)の性稟とマイナス(-)の性稟が一つになることです。すなわち、ハナニムに似た中和体となるのです。
ですから、二人の人間、すなわち夫婦は、ハナニムの全体を表象する結合体です。
男性はハナニムのプラス(+)の性稟を代表することによってまことの父の分身となり、女性はハナニムのマイナス(-)の性稟を代表することによって真の母の分身となるのです。彼らは、各々ハナニムの身代わりでもあります。夫婦が愛で一つになることは、天宙をいだくことと同じです。
これは、宇宙的な出会いです。夫は、多くの男性を代表して現れた存在なので、夫であると同時に、お父さんの身代わりであり、お兄さんの身代わりであって、妻は、多くの女性を代表した存在なので、夫人であると同時に、またお母さんの身代わりであり、同時にお姉さんの身代わりなので、互いに愛し合い、尊重しないようにしようとしても、尊重せざるを得ないのです。
(9-83, 1960.4.16)
男性はハナニムの陽性的形状であり、女性はハナニムの陰性的形状です。夫婦は、天下を1枚のふろしきに包んだのと同じです。ゆえに夫婦は、ハナニムの理想的な愛の心情を感じることができます。
(13-67, 1963.10.17)
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が一つとなって調和を成し、平衡線を成さなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-868)
夫婦というのは自分一人に限った夫婦ではありません。天地を代表した夫婦だということを知らなければなりません。


男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛が壊れる日には、宇宙の秩序が破壊され、縦的な世界がすべて台無しになります。
男性と女性が互いに喜んで抱擁すること自体が、宇宙が一体を成す場となります。ハナニムの理想の中で成される創造本然の姿がそうなのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-869)
人間が男性と女性として生まれたのは、愛のためです。愛は、夫婦となって一つとなることにより、実を結ぶことができます。男性と女性は、ハナニムの愛が二性性相に分立した実体なので、分立した実体が合性一体化するために、ハナニムの愛を尋ね求めていかなければなりません。
ハナニムの愛に出会おうとすれば、男性と女性が愛で一つにならなければなりません。男性と女性が一つにならなくては、ハナニムの愛に出会うことはできません。ハナニムの愛に出会うことによって、私たちは、ハナニムの同位圏にとどまるようになるのです。
同位圏とは、ハナニムの横に立てる位置をいいます。夫婦が完全にハナニムの愛を中心として一つとなるようになれば、その夫婦は、ハナニムの位置まで出ていけるということを知らなければなりません。
ハナニムの位置に上がっていけるだけでなく、ハナニムがもっているすべてのものが自分の所有圏内に入ってくるようになるのです。愛の力は、このように驚くべきものです。ハナニムが皆さんに同参的権威を許されると同時に、皆さんは、ハナニムがもっていらっしゃる所有権限全体を伝授されるようになるのです。
(144-132, 1986.4.12)
アダムの願いは、天宙を治めることでした。アダムがいだいて愛した夫婦の価値は、世界の中心的価値を代表したものです。
(64-84, 1972.10.24)
ハナニムがつくった堕落していない本然の人、すなわち本然の男性と女性を中心としたその愛は、どのくらい貴い価値があるのかをはっきりと知らなければなりません。
(145-267, 1986.5.15)

 

2) 夫婦の愛が必要な理由

皆さんは、天国がどのような所だとお思いになりますか。天国は、一言で言って、完成した人が入って暮らす所だということができます。天国がまことなる愛を備えた完成した人が入る所であるとするならば、その真の愛を備えた人とは、どのような人でしょうか。人間は、男性と女性で成り立っています。ハナニムの理想的愛の完成が、地上でどのように成り立ち得るかを見るとき、男性と女性を離れては成り立ち得ないという結論に至るのです。完成した愛の主体性を備えた男性と女性でなければ、ハナニムの愛が完成されません。
(145-266, 1986.5.15)
真の家庭は、家庭天国を築かなければなりません。家庭天国を築くようになれば、間違いなく地上天国が築かれます。なぜでしょうか。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激しようとするので、不可避的に相対が必要ですが、家庭において相対からその刺激を受けることで、未来の天国理念を今日の生活感情から体得することができるからです。


それを体得するために、夫婦が必要なのです。その刺激によって、夫婦は永生することができます。発展は、刺激がなくてはできないのです。
夫婦の愛は、理想天国を建設し得る刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引き込み、刺激を与えて推進力を補給させ、その場まで行くようにするのが夫婦の愛です。
その愛の中には、国の愛も入っていて、世界の愛も入っていて、ハナニムの愛も入っています。したがって、その愛は、どこでも無事通過です。結局、天国には、互いに愛し合う夫婦だけが入ることができます。
ですから、この地上でそのような思想をもって互いに愛し合う夫婦は、いつも天国生活をしているのです。イエス様は、「天国はあなたの心の中にある」と言われたでしょう? けれども今日、統一教会では、「あなたの家庭に天国がある」と言うのです。家庭で天国を築くことができないというときには、統一教会のみ旨が成されないのです。しかし、築くことができるというときには、そのみ旨が成されます。このような観点から、皆さんは、原理を中心として正道を選んでいかなければなりません。
(37-7, 1970.12.22)
今後、天国を築こうとすれば夫婦同士が愛し合うのと同じように、結婚した男性は世界のすべての女性たちを自分の妻を愛する心で愛そうと思わなければなりません。「世界のすべての女性の中から代表的な伴侶はんりょとして私は妻を選んだのです」。このように考えなさいというのです。また女性たちは、自分の夫なら夫に対して、ただ一人の夫としてではなく、全世界の男性の中から代表として選ばれた人が夫だと考えなさいというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-869)
女性の皆さんは、どのようにしなればならないかと言えば、一人の男性を愛しますが、その男性一人としてだけ愛するのではなく、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性は、お父さんを代表し、お兄さんを代表し、夫を代表するのです。
それは、どのような意味でしょうか。夫をお父さんのように思い、おじいさんのように思い、その次にはお兄さんのように思い、弟のように思わなければならないということです。
このような因縁を通してお父さんを愛し、おじいさんを愛し、お兄さんを好きになり、弟を好きになれる、そのような女性こそ相対を迎えることができるのであり、「お父さんも嫌い、お兄さんも嫌い、おじいさんも嫌い、弟も嫌い、みんな嫌い、ただ自分の夫だけ好きだ」、それは、ハナニムの公約を外れた立場です。
ですから、どのようにしなければならないのかといえば、全世界の男性をすべて愛し得る心を内包し、その結実のような男性を私が抱いて愛するのは、全世界のすべての男性を代表して愛するのだという観念をもたなければなりません。私のお父さんのように、私のお兄さんのように、私の弟のように、万国を超越して、国境を超越して愛し得る心をもつようになれば、その人はハナニムの息子だということができ、娘だということができます。これが統一教会の思想です。
(83-219, 1976.2.8)


 

3) 理想的な夫婦の関係

まことの夫とは、「私が生まれたのはあなたのためですから、あなたのために生き、あなたのために死ぬでしょう」と言う人です。真の妻も同様です。このように相応しながら、自らを越えて相対のために生きる原則をもてる家庭なら、この家庭こそ理想的な家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭に違いありません。
(77-106, 1975.4.1)
男性がいくら優れているとしても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。女性がいなければ、男性がこのように生まれることができますか。その反対に、女性はいくら美しい化粧をし、私がアメリカのある女優だと誇っても、その女性は女性のために生まれたのではありません。
ですから、男性は肩が大きく、女性はおしりが大きくて、それを合わせればよく合うようになっています。ですから、真なる愛の妻、真の理想的で幸福な妻と夫は、どこに存在するのでしょうか。私のためではなく、互いのために生き、またそのような心が一致するとき、理想的な夫婦が現れます。
それは、間違いない事実です。このような原則から見るとき、理想的な人、また幸福で善なる人をどこで探し出せるのかといえば、自分のために生きようとするところでは探し出すことができず、人のために生きようというところに根拠を置けば探し出すことができるのです。夫は妻のために、妻は夫のために生命を捧げられなければなりません。その夫婦は、ハナニムの愛の圏内に連結され、直接的な保護を受けるので堕落はあり得ません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-882)
男性が自分の妻を愛することにおいては、世の中のどの男性が自分の妻を愛する以上に愛さなければなりません。女性も自分の夫を愛することにおいては、世の中のどの女性が自分の夫を愛する以上に愛さなければなりません。それが真の家庭を築いた夫婦が守るべき愛の倫理なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-965)
真なる父母は、子女のために生きて死にます。そこには愛が成り立っているからです。同様に、真なる愛の妻と夫、幸福な妻と夫とは、互いのために生き、愛で一つとなるときに現れ得るのであり、また、それが理想的な夫婦です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-883)
新郎新婦は、お金や権力、名誉を中心として一つとなるのではなく、ハナニムの本然の愛を中心として一体とならなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-883)
この世の夫婦関係においては、夫がお金を稼いでくるときに力が生じます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出るし、その妻の姿を見て夫も力が出るようになっています。
ですから、彼らは、お金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦関係が壊れたりもします。真なる夫婦は、ハナニムを中心として愛の一体を成さなければなりません。


真なる夫婦は、愛を中心として漸進的発展を成していかなければなりません。妻は夫のために生き、夫は妻を愛する中で、一組の夫婦がハナニムを愛する家庭をつくり上げていかなければならないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-883)
夫と妻が互いに愛し合うことにおいても、ハナニムの身代わりとして、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。
人間的な立場で愛するようになれば、互いに足らない面が現れるようになって、結局は離婚する事態まで起こるようになります。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-881)
最近、済州島チェヂュドの娘が嫁ぐとき、田畑を与えれば、登記するのに娘自身の名前でするというでしょう? いつ夫と別れても、自分のものだと主張できるようにするためです。それは、本当に理想的な夫婦でしょうか。お金を使っても、これは夫のお金、これは自分のお金、お金を持っても、つるつるしたのは自分のお金、しわが寄ったお金は男性のお金・・・。それは、愛ではありません。
お金の包みを広げて使っても、「どうなった?」、「私が使った」、「そうか。良いことに使ったわね。もっと使って」、これでこそ良いのです。口をぶるぶる震わせて、「ああ、また使ったわね!」、これでは落第者です。ですから、いつ与えても、無限に与えることができ、いつも思いのままに、深い所でも低い所でも、夜でも昼でも授受し得るようになるときに幸福なのです。
ですから、与えようとしても与えることができないときは不幸なのであり、受けようとしても受けることができないときも不幸なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-886)

 

4) ハナニムも酔うことができる真の夫婦の愛

私たち個々人は、心と体が相反しているので、心を中心として体を一つにし、心の中にハナニムが臨在できる相対的基盤を造成しなければなりません。
このような男性と女性が祝福を受けて、完全な愛を授け受けしながら喜びを享受するとき、ハナニムが御覧になると、地上に咲いた花のようだというのです。また、彼らの愛によって築かれたすべての調和的万象は、ハナニムには香りのようなものです。
このような美しい花と香りの中にハナニムは暮らしたいと思われて、訪ねてこられるのです。ハナニムの愛が訪ねてこれる土台が、すなわち夫婦愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が調和する場となることでしょう。このような内容と道を教えてくれるのが統一教会であり、統一教会の「原理」です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-889)
ハナニムが最高に喜ばれるメロディーとは何かといえば、男性と女性が互いにうれしくて喜ぶ、永遠なる夫婦の笑い声なのです。そのような夫婦が世の中を理解して抱くことができ、宇宙全体を受容できる心で生を営むとき、笑いは自然発生的となります。
そのような男性と女性の美しい姿が、ハナニムの前に一輪の花でなくて何でしょうか。これは単純な理想でも抽象でもありません。本然の世界を語っているだけです。


夫婦同士、家の前にある山を眺めながら、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ねてみて、全宇宙を考えながら、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねてみます。そうすれば、自分のためであると同時にあなたのために生またのだ、と答えるのです。夫婦とは、正にこのようなものです。
この宇宙ができた目的を成就すること、すなわち主体的な目的を重要視することが、夫婦が一つとなる道です。夫婦は、心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話をするのです。夫婦は、同じ道を行くのです。田舎者の娘だとしても、大臣と結婚すればどうなりますか。同じ道を行くのです。その田舎者の女性が小学校も出ていないとしても、すべての人が「大臣の奥様だ」と言いながら、頭を下げなければならないのです。
このように夫婦は、共に行くのです。夫婦において、あなたの愛が別にあり、私の愛が別にあるのですか。あなたの愛であるとともに私の愛なのです。お前の愛であるとともに、私の愛なのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-889)
本当の愛とは、全身が一つとなり、心情と血筋がすべて一つになって愛することです。このように愛し合うことができる人は誰ですか。夫婦です。夫婦のいない世の中ならば、生きる味わいがありますか。
(26-151, 1969.10.25)
愛し合う夫婦が対話する姿を見れば、世の中のどのような詩や絵よりも美しいのです。また「愛し合う者同士、私たちだけ、私たち二人で」という言葉がどれほど美しく素晴らしい言葉ですか。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-893)
良いには良いのですが、その中で最も良いものは何でしょうか。相対者しかいません。私が「ねえ」と言えば、相対的に「なあに」と答え、「おい」と言えば、「なによ」と答えるのです。夫が愛する妻の名を優しく呼びかければ、優しく「どうしたの」と答えます。しかし、無愛想に呼びかければ、同じように「なんなのよ」となるのです。山びこと同じで、みな相対的なのです。
(37-11, 1970.12.22)
愛に酔った人々の笑いを見れば、それも相対的です。男性は、笑うとき、目を一層大きく開くのに、女性は笑うとき、そっと目を閉じます。夫の目が大きくなり、妻の目がだんだん小さくなれば、彼ら夫婦は愛に酔った幸福な夫婦だ、ということができるでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-890)

 

5) 会えば会うほど一層会いたいのが夫婦の愛

男性が幸福な時はいつであり、女性が幸福な時はいつだと皆さんは思いますか。二人が相対を成して愛を授受する時が、幸福な時だということができます。男性が女性に対するとき、こぶしを振り回したり物理的な力を動員すれば、彼ら夫婦は決して幸福であるとはいえないでしょう。
男性が女性に対するとき、力で胸に抱いて保護しながら愛するとき、女性は本当の幸福を感じることができるでしょう。


男性と女性間の愛において、力だけでも駄目であり、心で愛するといってそれだけでいいのでもありません。愛する心を力で確認してあげたとき、女性は本当の幸福感を味わうことができるのであり、また、女性が男性に対して心と体で愛を返すとき、本当に幸福な夫婦となるでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-890)
人は、いつも刺激が必要です。幸福は、刺激なしには成されません。刺激がなければならないというのです。いつも食べる御飯も、食べるときにおなかがすいていてこそ新鮮であるように、夫婦間の愛も同様に、いつも新しくなければならないというのです。妻と夫が互いに見つめ合えば見つめ合うほど、もっと見つめたいと思い、一日中共にいたいと思わなければなりません。
(23-57, 1969.5.11)
愛は、互いに恋しく思うとき価値があります。口があれば口を広げ、目があれば目を開けて「愛を下さい」と言えば、愛を与える人も気分が良いでしょう。ぼーっとしていると、愛が来ても逃げていくということを知らなければなりません。
愛する人が真剣でなく、消極的に出ると、どれだけ気分が悪いでしょうか。皆さんは、愛する者同士一緒にいることが良いですか、離れているのが良いですか。近くに一緒にいればいるほど良いのです。なぜでしょうか。すべてのことが一遍に作用するので良いというのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-892)
一番良いこととは何でしょうか。食べることですか。おなかがすいた時、御飯を見て、「良かった」と言って食べますが、そのようなことは一時的だというのです。飽きるほど食べたのに、また食べ物をあげれば嫌になります。
しかし、自分が愛している人に対しては、そうではないというのです。愛する人に、「私は忘れてしまいたい。嫌いだ」と言う人がいますか。見ても見ても限りなく見たくなるのです。そうでしょう? 見てもまた見たいし、また見てもまた見たくなるのです。だから互いが、「あなたが前に立ち、私が後ろに立つ」と言いながら、車輪のように回るというのです。ここから統一が始まるのです。
(37-11)
愛を知った妻は、夫の胸に頭をうずめて昼寝を楽しみたいという衝動が起こったりもします。それは、幸福に酔ってふらふらになるからなのです。
結婚する前には、恐ろしくて気持ち悪く見えた男性が、結婚して夫になってからは、会いたくて一日に何度も見なければ駄目なほど、心境の変化を引き起こすのが女性です。ですから、電話をして、昼食の時間にちょっと家に立ち寄りなさいと、呼び出したりもします。愛を知った男性も同様です。暇さえあれば、妻のひざをまくらにして眠ろうとします。ですから、昼食の時間やコーヒーを飲む時間はもちろん、時間があれば家に飛んできたりします。
また、結婚する前には、「そのようなことは女性がやることだろう、男性がすることか」と言いながらしなかったことも、妻が願いさえすれば、ためらいなくしたりします。このようなことは、愛を知った男性と女性においてよく起こる変化です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-894)


ハナニムは、人間をお造りになり、祝福してくださるとき、夫婦が幸福になれるようにしてくださいました。そのような祝福の門を開いて入った夫婦は、二人でささやくのに余念がないというのです。「私はあなたに会うために、このように待ってきました。私の生命はあなたを通してその価値を花咲かせるでしょう。あなたを愛するために生まれ、また、きょうのために待ってきました」等々、互いを賛美し合う甘い話ばかりだというのです。この世に愛の蜜語みつごほど甘いものは存在しないでしょう。
夫婦が寝床に入って、ささやく蜜語は、この世のすべての疲労と憎しみを溶かす清涼剤となるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-893)

 

6) 夫婦の愛の発展過程

男性と女性がハナニムを仲保として出会うとき、どのように愛の表現をするのでしょうか。愛の発展過程を見れば、最初が口であり、2番目が胸であり、3番目が生殖器です。女性が初めて男性に出会って愛し始める前に、恥ずかしさを感じて隠すのは口なので、手で口を覆うのです。愛が口づけから始まるからです。
愛が次第に成熟すれば、その結実として息子、娘が生まれるようになるのです。女性において生殖器は愛の聖所ですが、その門を開けられるかぎは、夫だけがもっているのです。
夫が妻の愛の聖所を開けられる鍵を二つ、それ以上もっているなら、その夫はサタンです。
また、妻の聖所が開くのは、夫がもっている鍵だけでなければならないにもかかわらず、どのような鍵でも開くならば、それもまたサタンなのです。夫がもった愛の鍵が妻の聖所を開けて入れば、そこから世の中で最も貴く価値のある息子、娘が誕生するようになるのです。
その息子、娘の価値は、この世の何ものとも取り換えることのできない愛の結晶体なのです。息子、娘を通して、ハナニムが人類の先祖であるアダムとエバを創造された心情を体得するようになるのです。ですから、父母は、息子、娘を見ながら、「こう見ても我が愛する人、ああ見ても我が愛する人・・・」と歌い、喜ぶようになるのです。
愛で生まれた赤ん坊が、何をしても憎いと思わずひたすらかわいいのは、その赤ん坊が自分の血と肉で、そして、愛でつくられた分身体だからです。小便をし、大便をし、はなを垂らしても、ただひたすらかわいく愛らしいのです。それらの中に愛がしみ込んでいるからです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-894)
夫と妻の関係でも、愛の強い力で結ばれたなら、相対が何をしようと、どのようなことをしてもうれしく、愛らしく感じなければならないのです。夫の体から出るにおいが嫌だといったり、妻の身振りが嫌だと考えたり、感じたりするのは、二人の間に完全な愛が築かれていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害関係で結ばれたからです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-895)


結婚後の家庭生活は、ハナニムを真ん中に奉り、そのハナニムが共に喜ばれる姿を見ながら、互いに愛し合える関係になってこそ、本当の喜びを感じることができます。
男性と女性が結婚して互いに愛し合うことは、本来恥ずかしく思うことではありません。これは最も尊厳なことであり、神聖で美しいことであるにもかかわらず、ハナニムの戒律を犯したために、愛の歴史は、罪悪によって恥ずかしい方向に流れてきました。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-891)
エデンの園で裸になって踊りを踊るのを誰が見たでしょうか。ですから、人がいない所では、そのようなこともできるのです。部屋で夫婦が裸で踊るといって、それが心配することでしょうか。しかし、人が見ている前でそのようにすれば、それは、社会から非難を受けて当たり前なのです。夫婦だけであってこそ、裸になって踊るばかりでなく、何をしたとしても誰が干渉するでしょうか。ですから、祝福家庭も、二人で裸になって踊りを踊りなさいというのです。夫婦同士なのに何の問題がありますか。
(21-236, 1968.11.24)
この世に男性と女性がいくら多いといっても、私たち二人しかいないという心をもたなければなりません。その女性しかいないという思いの中に精誠を尽くすのが原理です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-892)
真実の幸福といえば、相対者と共に愛に酔って笑い、歌い、ささやくところで見つけることができます。愛する恋人からささやきの言葉を聞ける人は、幸福な人です。耳元で愛をささやくことは、正に夢を見るかのように幸福感を感じることができるからです。
(137-216, 1986.1.3)

 

7) 愛する人が死ぬとなぜ悲しいのか

夫を失えば、女性はどうして泣くのでしょうか。恋しい人を失ったので、悲しくて泣くようになるという、そのような漠然とした理由のためだけではありません。
愛は四方性を備えなければなりません。そうしながら、立体的に前後、左右と相関性を備えなければなりません。
このような愛なので、夫は、その女性と左右の相対として愛の四方性を成すようになるのであり、したがって、このような妻は、夫がいないことによって、全宇宙が保護する立場から、保護を受けることができない立場に陥ることになるので、宇宙から受ける力が苦痛に感じられるようになるというのです。
愛する妻を見れば、なぜ良いのでしょうか。一人だけでいるときは、宇宙の球形的な四方から保護される基準に立てなかったのに、相対がいることによって、その相対と授け受けする横的な愛の関係を結び、縦的な宇宙の力と接し得る場をもつようになるので、その相対をもつ者は、宇宙の保護力によって無限にうれしくなるのです。
ですから、愛する妻を見れば、全精神が統一され、その妻しか見えないというのです。ですから、踊りを踊り、歌を歌うようになり、共に一団となって回るのです。踊りを踊り、歌を歌って喜ぶ、そのようなことを、何のためにするのでしょうか。保護圏を拡大するためです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-903)


多くの人々がレバレンド・ムーンに反対しますが、そのようなレバレンド・ムーンがアメリカに行って、アメリカの若者たちと徹夜しながら、彼らを教育して運動させ、時には彼らと共に踊りを踊り、歌を歌って楽しむのは何のためですか。保護圏の拡大が私と関係があるからです。
宇宙保護圏の拡大作用が私とともに始まるので、反対を受け監獄に入るようになるとしても、恐れることなく押し続けていくのです。
いくら幸福を謳歌おうかし、何がどうだといっても、一人で生きるのが幸福ですか。夫婦のうち一人が死ねば、悲しくてわあわあ泣くのです。
一人で自分の行く道を準備できるでしょうか。なぜ片方だけだと、かわいそうだというのですか。天地が喜べるすべての重要な日々の前に、不合格者だからです。
天地法度の規律から外れたというのです。明らかにその法度を通してのみ天地の運勢は回り、幸福の要件とその動機が決定されるのです。
悲しいというのも、それだけ法度から遠のいたからであり、そのような悲しみが生じるのは、天地法度とは順応しない立場にあるということです。心がうれしく、良いというのは何ですか。その人を世界で歓迎してくれる場があるということです。悲しいのは追い出される立場だからです。喜びと悲しみが、そのように分かれるようになっているのです。
(19-334, 1968.3.29)
夫婦が共に暮らして、一人が先に死ねば泣くようになります。なぜそうなのかといえば、この宇宙の公法に不合格の基準に該当すれば、この宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、またそのようになるときに、悲しみの度合いが強くなるからです。
それでは、喜びはどのようにして生じるのでしょうか。そのような宇宙の公法に一致する自分となれば、宇宙の力が彼を抱こうとします。その力が大きければ大きいほど強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど彼はその内的な中心に入っていくようになるので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、どこから生じるのでしょうか。皆さん自身から生じるのではありません。これは、力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として生じます。
それでは、その宇宙の公法とは何でしょうか。男性と女性が最初から最後まで完全に一致していく道であり、またこの道は、天運が行く道です。
一人で行くのではなく、男性と女性が一致して、すなわち夫婦が一心となって行く道です。皆さん、今までこのような話を聞いたことがありましたか。ですから、互いに争い、泣きわめき、死んでやると大騒ぎをする人々は、早く除去されます。公的法度圏内で、合格品でない不合格品としてみなされるのです。そして、どこに行きますか。ごみ箱に行くというのです。心はそれを知っているので、それに対しては、即時に悲しみを感じるのです。
(24-223, 1969.8.17)


 

8) 死ぬ時までに成すべき永遠の夫婦の愛

夫婦が互いに愛し合うことにおいて、いつまで愛し合うのかと尋ねるとき、若い時だけ愛するというなら、気分が良いでしょうか、悪いでしょうか。
いつまで愛することを願うでしょうか。「永遠に」とも言いますが、死ぬ時まで、その次に永遠に愛することを望むというのです。
永遠は、未来を中心として全体をいうのです。死ぬ時まで愛するということは、自分のすべてのものを根こそぎ与え、愛するということです。そうでしょう? 「永遠に」は全体的であり、「死ぬ時」までは、すべて愛するということです。そのようにしてこそ、相対が喜ぶのです。
この場にいる娘たちが今からお嫁に行けば、夫に間違いなく、「あなた、私を愛しますか」と聞いてみることでしょう。「愛する」と言えば、「私をすべて愛しますか、少し愛しますか」と、このように尋ねたとき、「すべてを愛する」と返答してこそ、気分を良くするのです。男性もそうです。仕方がありません。ハナニムの調和がそのようになっているのです。
(37-23, 1970.12.22)
人々が結婚するとき、互いに「死ぬほど愛する」と言います。「愛する」という言葉を語るとき、ただ「死ぬほど愛する」という言葉と、「死ぬ・・・」と言いかけて、十年、百年、億万年経ってから「・・・ほど愛する」という言葉のうち、どちらを願いますか。
ここにいる女性たち、答えてみてください。ただ「死ぬほど愛する」という言葉より、「死ぬ・・・」と言いかけて、億万年経ってから「・・・ほど愛する」と言ったほうが、もっとうれしいことでしょう。これが十年、百年、このように長くなるほどもっと良いのです。
夫が妻と出会って「死ぬ・・・」、その次に十年が過ぎても「死ぬ・・・」、また50歳を過ぎても「死ぬ・・・ほど愛する」と言うとき、そのようにさえできるならば、その妻は、自分の年取った旦那だんなさんがどれほど良いか分からないのです。そういうものです。おなかが出て、よたよたと歩いていても喜ぶのです。
(37-25, 1970.12.22)
まことの妻、真の夫とはどのような人でしょうか。人は、ある程度成熟すれば家庭を築くようになりますが、自分の相対を永遠なる愛の相対として考え、初恋とともに日がたてばたつほど、その初恋にプラスされる愛の家庭を築かなければなりません。その家庭的な愛が拡大され、宗族を成し、永遠に愛を拡大させていける、永遠なる愛の実体としてつながれるようになるとき、そのような夫婦は、真の夫婦であり、真の妻と夫となるのです。また、そのような夫婦がハナニムの愛に同参できるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-882)
妻の目には夫が最高であり、一番に見えなければなりません。夫の目にも妻がそのように見えなければならないのです。初恋で結ばれた因縁が最高の因縁です。人が何を言おうと最高です。このようなものは、何億あげても買うことができないのです。このような世界を自分が永遠にもつことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょうか。


すべての人が、そのくらいにはならなければならないというのです。妻は、夫によく従い、よく助けなければなりません。そのようなことが、文学作品や映画の一場面にだけ現れてはいけません。現実に一生の間、そのように暮らさなければならないのです。最高の歴史と最高の文化が崩れたので、先生はそのような世界を立てるために、そのように暮らすために、新しい歴史を創造してきたのです。
(23-56, 1969.5.11)
統一教会でいう理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。実体をもって最高の芸術を展開できる夫婦です。最高の文学を実体で展開できる夫婦です。最高の理想と世界最高の文化世界に触れる前に、最高の愛で夫婦が授け受けする甘い愛が、世界最高の芸術作品とならなければならないのです。それ自体が最高の文学作品であり、それ自体が文学の実体とならなければならないのです。
(22-269, 1969.5.4)


 

第8章 真なる父母の愛

 

1) 何でも与えたいと思う父母の心

子女を生んで育ててみた親たちは分かるでしょう。愛している大切な息子、娘を通じて恵みを受けたいし、幸福も感じたいのです。また、うれしいこと、恵みを受けることがあれば、その息子、娘に永遠に残してあげたいでしょう。そのような希望の心を抱き、その息子、娘がまっすぐに育って万国からあがめられ、万世にたたえられる息子、娘になることを堕落した人間も願っています。
夜も昼も、その息子、娘がけがをしないかと保護し、切ない心情で落ち着かないのが父母の心です。堕落した父母の心でさえもそうだというのです。
胸に抱き、乳を飲ませて育てる母親の切ない心、子女が大便をし、おしっこを漏らしてにおいがしても、愛でその環境を忘れることができるのが父母の心です。堕落した父母が子女を思う心がそうであるならば、ましてや愛の主体であられるハナニムが、本然の心情を通じてアダムとエバを愛されたかったそのみ心は、どれほど切なかったでしょうか。皆さん、一度考えてみてください。皆さんが子女を抱いて育てるとき、子守歌を歌ってあげ、話し掛け、立派になることを願うその心は、父母ならば誰でももっていることでしょう。
いくら愚かで足りない父母でも、その子女に欠陥があれば、父母の心はその胸が涙ですべて濡れるほど、これ以上ない苦痛を味わうのであり、これが解かれれば、その苦痛に比例して喜びが伴うのです。堕落した父母の心でもそうなのですから、ハナニムの御心情はいかばかりでしょうか。
(20-209, 1968.6.9)
父母は、息子が罪を犯して牢獄へ行けば、「あいつ、よく行った」と言うのではなく、その子を許し、涙を流して愛そうとします。それが父母の愛です。
それで父母の愛が貴いのです。もしも、その息子が死刑囚になって死ぬ時間になれば、息子の死刑執行の時をお母さんが知っていれば痛哭つうこくするでしょう。
この世のすべての法をみな変えてしまうことがあったとしても、息子を救える道が一つでもあるならば、どのような冒険でも命を懸けてやるのです。そのような変わらない愛をもっているので、父母の愛は貴いのです。
(91-147)


自分の体を打ち、自分の体を失ってでも、自分を犠牲にしながら子女のためには死んでもかまわないというのが父母の心情です。
(50-281, 1971.11.8)
子女を愛する父母は、子女を愛するとき、「私がお前に何日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したのだ。その価値は何千何百何十銭だ」と言って帳簿に付けますか。
父母が子女を愛するのに、この世の王宮の王子、王女以上にしてあげたいのですが、それ以上にしてあげたい気持ちを感じる場で、「私が精誠を尽くしても、これだけしかできなくて済まない」と言うのです。「もっとよくしてあげたい」という気持ちを父母はもっているのです。それで父母の愛を好むのです。
皆さん、それを知らなければなりません。与えても不足を感じ、愛しても愛し足りないことがないかといってもっと愛したい心、与えてからも物足りずにやりきれない思い、このようなものがあるので、これは永遠の愛と通じ、本質に属することができるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。
(60-84, 1972.8.6)
父母は、子女に対して自分の一番良いものをすべてあげたいのです。それが父母の心です。
これは、誰に似てそうなのかといえば、ハナニムに似てそうなのです。それでは、ハナニムはどのようなお方でしょうか。子女となる人間が本当に現れれば、彼には自分よりもっと貴いものをあげようとするお方がハナニムなのです。
(56-147, 1972.5.14)

 

2) 子供がより素晴らしくなることを願う父母の心

ここで中年以上の皆さんに、「昔、若い時、自分の相対を探すのに、自分よりできの悪い人を求めましたか、それとも自分より素晴らしい人を求めましたか」と聞くならば、答えはみな同じでしょう。
できの悪い人ではなく、素晴らしい人です。洋の東西を問わず、誰に聞いてもそのような結論を下すでしょう。ましてや、愛する父母が子女に対する時は、その子女が父母である自分よりもできの悪いことを願う父母はいないのです。
ある美男美女が結婚して初めて子女を生んだ時、その子の顔を見ると、その父母の顔に比べると何でもないような顔でも、その父母に対して、あなたの子女はあなたよりもきれいだと褒めれば褒めるほど、その父母はとても気分が良くなるのです。
(77-102, 1975.4.1)
父母の心情とは、おばさんの顔がきれいだとしても、そのおばさんが抱いている赤ちゃんを見て通り過ぎる人が、「わー! この子はお母さんより何千万倍もかわいい」と言えば、喜びます。それは、お母さんがその赤ちゃんよりも何千万倍もブスだという言葉です。しかし、そのような言葉を言われて、「何ですって? 私より何千万倍もかわいいって? それでは私は何千万倍もブスだってことじゃないの」と言いながら食って掛かるお母さんはいません。ただうれしくて、どうしていいか分からないのです。これが母親の心です。このような心は、誰に似たのでしょうか。お母さんは、結果的な存在であって、動機的な存在ではありません。


息子が父親よりもできの悪いことを願う家庭があるならば、その家は滅びるのです。父親は大統領なのに、息子がそれより劣るようになり、そのような形態が数代か続けば、その家はだんだんと滅びるのです。しまいには肩身の狭い立場になるのです。息子がお父さんに、「私がお父さんよりも愚かでよいでしょうか」と言えば、お父さんが「この野郎!」と言うでしょうか。「それは良くない」と言うでしょうか。後者を選ぶのです。
(41-283, 1971.2.17)
どのような父母でも、家庭の責任を任せるために自分の後継者を立てる時は、自分よりもできない者を後継者に立てることを願いません。なぜでしょうか。子女が自分より優れてはいけないと考える父母は絶対にいないからです。また、国を中心として見る時も、やはり同じです。国の主権者は、自分以上の後継者が現れることを願う主権者にならなければなりません。
家庭においても、国家においても、誰彼を問わず自分より素晴らしく、自分よりすべてのものを備えている後継者が現れることを願わなければなりません。これは、歴史の変遷を超越する永遠に近い要求条件です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1008)
父母の愛が永遠に持続するためには、その伝統を継承した誰かがいなければなりません。明らかに子女たちが相続者です。私たちが子女たちをそのような伝統の相続者になるように教育しなければなりません。そして、その伝統をより高い価値に向上させ得る方法が私たちには必要です。各世代ごとに既存の伝統の重要さを認識しなければならず、その伝統を継承するだけでなく未来に向かって発展させなければなりません。
そのような伝統は、いつも父母が自分たちよりも子女が勝ることを熱望する、そのようなまことの家庭からのみ出発することができます。このような熱い望みをもった父母たちは、絶えず子女たちに注意を傾け、励ましてあげることでしょう。
そのような父母は、子女たちが彼らよりもっと素晴らしくなるその日を待ち望み、できる限り子女たちに最善の条件を準備してあげようと精誠を尽くすことでしょう。このような父母は、子女たちの幸福のためにすべてのことを犠牲にするはずであり、さらには、子女たちを父母よりもっと素晴らしくしてくれる方向に自ら進んで強要したりもするでしょう。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1007)
父母は、子女が自分より素晴らしいとき幸福を感じます。ですから、女性として生まれて自分よりもできの悪い息子、娘を生めば、天の国に入る面目を失います。お父さんとお母さんは、自分を愛する以上に自分の息子、娘を愛することができなければなりません。また、子女もそのように考えるとき、自動的に愛の世界が現れて天国が築かれることでしょう。
(97-310, 1978.3.26)


 

3) 父母の愛は永遠不変の愛

父母が子女を愛する愛のその起源的な動機は、どこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子、娘を中心とする愛は、なぜ変わらないのでしょうか。これは、その男性と女性を中心とする愛から来た愛ではありません。変わらない愛は、横的な夫婦の因縁でできたものではなく、縦的なある流れの起源を通じて関係ができたものに違いありません。
そのような縦的な主体は、誰でしょうか。そのような主体を私たちは、ハナニムといいます。その愛は、夫婦が思いのままにできる愛ではありません。その愛の前に、私がしたければして、したくなければしないという立場に立っていることができません。
それは、切ろうとしても切れません。横的な人間としてはタッチのしようがありません。ですから、父母が子女を愛するその愛は、永遠不変です。
今日、民主社会において、個人主義思想が澎湃ほうはいしたこの時代において、子女たちは「新時代と旧時代は次元が違う」と言いますが、子女たちはそのように変わっても、その父母の心は変わりません。旧時代だ新時代だと叫ぶからといって、「お前がそうなら私もそうしよう」と言うようにはなっていません。父母の愛はそうではないのです。それは動物も同じです。赤ちゃんを愛するにも、自分の生命を超越するのです。
(48-155, 1971.9.12)
それでは、そのような愛はどこから来たのでしょうか。私自身が第一のある相対的な結果の存在ならば、それは第一のある力の因縁の中から来たものです。それは、私たち人間としては触れることができるものではありません。ですから、「父母が子女を愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」と言う人を見ましたか。
もしある父母が、この愛を革命して人類歴史を改造してしまおうといって、「私は、父母は父母だが、子女を愛さない」と主張したとしましょう。しかし、その父母は、子女のへその緒が離れる瞬間、子女を愛する心が自然にわくことでしょう。すべての生物は、ものの高低を問わず自分の子女を愛さざるを得なくなっているのです。愛するために生命を投入し、生命を踏み台にしてでも愛したいと思う作用があるのを見る時、永遠不変という概念に近いのが父母の愛です。
それは、「絶対性」を求めていくにおいて、「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支え石にはなることができます。ただ一つの土台になり得るのです。その次に、これが人間の世の中において、それでも歴史を見るとき永遠の土台になっているのではないかというのです。
そのような父母の愛は、どこから来たのでしょうか。それは、お父さんから何か勧められて習ったのでもなく、自分の相対に忠告されて習ったのでもなく、自分自身がこうだろうと思って出てきたのでもありません。自然にそのようになるのです。愛というものは、自然にそのようになるところで成立するのです。
(48-156, 1971.9.12)


本質的な愛を分析してみれば、愛には革命がないことを知ることができます。父母が子女を愛するのはまことの愛に該当します。ですから、人間始祖の時に人が子女を愛した心も、数千年後の子孫である私たちが子女を愛する心も同じなのです。また数千年後に、私たちの子孫が子女を愛する心も同じでしょう。
愛には、発展もなく、終わりもないのです。革命の必要のない純粋なものが真の愛です。それでは、ハナニムの愛とはどのようなものでしょうか。ハナニムがある存在を絶対的な基準の立場に立ててその存在性を認定し、彼を愛されるならば、その愛は、それ以上革命が必要のない愛です。
(18-12, 1967.5.14)

 

4) すべてを犠牲にする父母の愛

愛は、一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成り立たないのです。親子関係の愛を見てみても、そこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中で希望をもっている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。
生命の因縁を離れては、愛の関係を結ぶことができないのです。ですから、愛には必ず生命の因縁が投入されなければなりません。また、生命をどれほど投入して愛するかによって、より価値を感じるか感じないかという問題が決定されるのです。
(32-15, 1970.6.14)
例えば、子女に対する父母の愛は、ただ単純に生活的な因縁だけを通じて愛する愛ではなく、骨からわき出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切ろうにも切れない愛の心を父母はもっているのです。
それで生命の余力が残っている限り、父母は子女を愛するのです。子女と生命の因縁が結ばれているということを感じる時、父母からは子女を愛する心が自然にわき出るのです。
「あの子は私の息子だから愛する」という意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりも、その因縁よりも先立った自分の生命力が子女と連結されているので、愛さざるを得ないのです。このようなことを私たちは、家庭生活でよく感じています。
(32-15, 1970.6.14)
それでは、ハナニムはどのようなお方かという時、千年、万年与えてもまた与えたい、そのような心を絶えずもっていらっしゃるお方です。そのようなお方なので私たちがハナニムを求めるのであって、与えてから、「ああ、これはいくらいくらだ」と言われる商売人のハナニムなら、そのようなハナニムは必要ありません。万民は、なぜハナニムが好きで、ついていかなければならないのでしょうか。


ハナニムをなぜ愛さなければならないのかというと、ハナニムは万民のためにすべてのものを下さり、また下さりながらも恥ずかしく思われ、「今は、これしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっと良いものをあげるから」とおっしゃりながら、きょう現在、下さったもので満足するのではなく、与えられながらも未来にもっと良いものをあげると約束され、与えることができる心の余裕をもっていらっしゃるお方だからです。そのような方と共にいれば、たとえ食べられず、貧しくても幸福だというのです。食べられない立場に立つならば、未来の希望となる刺激が現実圏内に衝撃的に感じられるのです。
何の話かといえば、かえって新しい決心ができるというのです。与えながらも恥ずかしく思う立場、そのような父母をもった子女が、「お母さん」と言って抱きつくようになれば、体だけ抱きつくでしょうか。どれほど有り難いですか。
その場は、未来のために互いに慰労の涙を流すことができる場です。絶望が共にあるのではなく、あすの希望を現在の刺激として感じ、決意し合ってぶつかり合い、激励し得る爆発的な場がまさしくそのような場です。ですから、そこで現れる現象は、悲惨なものではありません。
未来に対する刺激を引き込み、現実圏内で価値をたたえ得る場は、そのような愛の圏内においてのみ成されるのです。ですから、愛の圏内に生きる人は、不幸がないという結論が出ます。
(36-291, 1970.12.13)
父母は、愛する子女に対してすべてを犠牲にしようとします。ハナニムと同じだというのです。それは、何を物語るのでしょうか。ハナニムは、ハナニムのために投入されるのではありません。自分のために存在するのではなく、相手のために存在しようとし、相手のために生きるハナニムの立場に立とうというのです。ハナニムがハナニムのために存在しようとすれば、それはまことの愛ではありません。自分をすべて子女に投入し、その子女と共にいようとするところに愛が、生命が、希望が成されるのです。
(69-62, 1973.9.10)

 

5) 子供に対する父母の愛は絶対的

先生は幼いころ、鳥の巣をたくさん見ました。鳥の巣を見ようと木に登ってみると、親鳥が来てつつきます。それは決死的です。一度だけではありません。たたいて追い払うと、飛んでいって、また来ます。これを見る時、自分の生命を超えて、愛するひなを保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。
人も同じです。愛のために生命を投入できなければなりません。そのような人がまことの人です。本当に善なる人とは、どのような人でしょうか。愛を根本とし、自分の生命を投げ出して愛する人を保護しようとする人です。そこには、主体的な善があるのであり、相対的な善の論理を立てることができるのです。これは、永遠不変です。
(186-18, 1989.1.14)


私がアメリカのダンベリー刑務所にいた時、おもしろいものを見ました。坂道を平たいテニスコートにするために、毎日ブルドーザーで地面をならす作業をしましたが、長い間しました。作業の途中で中止をすることもありましたし、また雨期になったらなったで乾期になるまで待つのです。2、3週間、雨期が過ぎてから作業をしたのですが、そこに水鳥が雛を産みました。そこには囚人たちが運動のために歩くコースがありましたが、そこからわずか3メートル離れた所に水鳥が巣を作ったのです。
その水鳥の色は、ちょっと見ただけでは見分けがつきません。通り過ぎる人は分かりません。その保護色はなんとうまくできていたことでしょう。卵を産んで孵化ふかするまで、人々は通り過ぎても分かりませんでした。うつぶせになった姿を横から見ると、黒い砂利の色のような保護色だったので気づかなかったのです。そうこうするうちに、雛が孵化し、(親鳥が)何かをくわえて食べさせようとしたところ、「ちゅんちゅん」という鳴き声がするようになり、ようやくみな気づきました。意地悪な人たちはみな、いろいろとちょっかいを出しました。
ところで、その水鳥は自分の子に対してとても保護力がありました。どれほどあるかというと、えさを探してそれをくわえて来るとき、絶対に自分の子の近くに飛んで行きません。他の所に下りて、雛がいる所まで這って行くのです。ところで、それが毎日方向が違うのです。なぜそのようにするのかといえば、雛たちを保護するために方向を変えるのです。そのように雛を育てるのです。
この雛たちがだんだん大きくなり、人がそのそばに近づこうものなら親鳥がつついて大変です。雛を見るなというのです。誰がそのように教えたのでしょうか。それが宇宙の力です。ハナニムの愛を軸として、すべての万物が平面的位置にあるので、位置は低いのですが、その平衡線上の基準は変わらないようになっています。
(136-23, 1985.12.20)
蜜蜂みつばちが花を探し回って蜜の味を味わえば、足を深く入れ、おしりを突き出して吸いつきます。先生は、蜂についてよく知っています。蜜を吸う蜂をピンセットで引っ張ると、尾が取れても花から離れません。真の愛は、そのような愛です。自分の生命までも捨てることができるのです。計算して、いくらの利益になるから、というものではありません。生命までも捨てながら忘れていける道が真の愛の道です。
父母は、その道を行きます。子女を愛する父母は、子女が死地に行くなら、子女のために死地に立とうとします。愛の前に自分の命を捨てていこうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。
(144-209, 1986.4.24)
ある人がこの世で誇れる金銀財宝を得て、血と汗を流して多くの財産を築いても、子女が死ぬ運命にさらされたなら、その子女を生かすためには、外的なものが問題ではなく、自分の生命までも犠牲にして生かそうとします。
(34-161, 1970.9.6)


 

6) 限りない父母の愛

私たちが愛というものを中心として見るとき、父母の子女に向かう愛の限界点はどこまでなのでしょうか。父母は、子女が幼い時だけ愛そうとするのではなく、生涯を通じて、さらには永遠を通じて愛そうとするのです。
愛することによって生きがいを感じることができ、愛することによってさらに価値を感じられる親子の関係が結ばれるなら、無限の力と無限の刺激と無限に新しい何かがその関係圏内から生じるというのです。
(32-12, 1970.6.14)
お母さんの愛やお父さんの愛は、人間世界において最も偉大な愛の中の一つです。この世でいくら高い地位にある人も、自分の子女の前ではどうすることもできません。
父母の愛は、子女の前に無条件であり無限定です。父母の愛は愛の母体だからです。
ですから、父母の愛を受けられずに大きくなった孤児たちは、何よりも父母の愛を渇望するようになるのです。孤児たちは、寝る家があり、食べものがあったとしても、彼らの胸にいつも満たされない思いと慕わしい気持ちがありますが、それが何かといえば父母の愛です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1020)
皆さんは、愛する父母の子女として生まれました。父母の愛を受けて育ちました。年を取っても若くても、父母はその子女をいつも愛するようになっているのです。もし70歳になる息子がいたとしても、昔自分が育てたその基準をもっていつも子女を見つめるのが父母の心なのです。年を取っても、心情はだんだん近くなり、息子に対する責任が大きくなるほど、息子に尽くす心はもっと広くなるということを、私たちはこの世で子女に対する結びつきを見るとき、はっきりと知ることができるのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1020)
父母は、愛する子女のために骨が溶けるほど苦労しますが、疲れることを知りません。なぜですか。愛するからです。自分の骨身を削って、その代価がいくらか帳簿に付けておきますか。そのようにはしないでしょう。かえって、すべてを与えられないことをもどかしく思うでしょう。
ここにいる女性たちもそうでしょう? 赤ちゃんに乳を与えるのに、飲まなければどうして飲まないのかともどかしく思います。それは、ホースをつけておいて自分の血と肉を取っていくことではありませんか。ある意味では、泥棒の中の最高の泥棒ではありませんか。それでもそのお母さんは、赤ちゃんが乳を飲まないのをもどかしく思うのです。どうしてそんなにも愛するのですか。愛の法度だからです。
(39-334, 1971.1.16)
お母さんの胸に埋もれている赤ちゃんを見るとき、父母は、愛を中心として愛の感触に触れ、またその赤ちゃんを抱くことによって、自分の幸福よりも天地が平和の境地に入るので、良い雰囲気が芽生えることを感じるのです。ですから、赤ちゃんがいくら激しく騒いでも、「さあさあ、やってみなさい」と言える度量の大きな心があるのです。


ですから、父母は、子女を無限に愛することができるというのです。ある意味では、その赤ちゃんはホースをつけて血と肉を吸う怨讐おんしゅうです。しかし、そのように考える人はいないのです。それは、何かといえば、お母さんとしての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激、その赤ちゃんによって見つける新しいものが多いからです。そのような時には、通じる何かがあります。その境地は、誰も思いのままにすることができないものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-1021)

 

 

7) 父母の愛はすべての愛の基準であり、伝統になる

何よりも父母の愛が初めなのです。その愛を動機として、その愛で円満に育った人ならば、愛がどのようなものかということを知っています。お父さんとお母さんを愛するので、父母との間で愛がどのようなものかを父母を通じて習うのです。それが子女には二つとない喜びになるのです。愛を体得することは、父母をもった立場でなければできないことです。
(62-16, 1972.9.10)
子女の間の愛は、どうでなければならないのでしょうか。何を基準にして愛さなければならないのでしょうか。お父さんとお母さんが愛するように、兄弟姉妹たちも愛し合わなければなりません。愛は誰から習うのかというと、それは、父母から習わなければなりません。
(66-120, 1973.4.18)
息子、娘がお父さんとお母さんに対して、「私のお父さんとお母さんは世界で一番素晴らしい人だ。ハナニムのような存在だ!」と言うことができなければなりません。夫婦間の変わらない心といちずな愛を見て、子女たちが「その愛を見本として、子女である私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭を築くことができるのです。
また、子女が成長して思春期になれば、心と心情が一つになり得る相対を求めるようになります。これは、結婚を通して成すことができます。
ですから、相手をこの上なく大切にして、愛と心情の基準を立てるために努力するのが男性が行くべき道であり、女性が行くべき道でもあります。
ですから、お母さんとお父さんもハナニムの心とハナニムの愛に一致し、子女も父母に似て、ハナニムの心とハナニムの愛に一致できる家庭にならなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-917)
父母の愛を中心として、兄の立場に立った人が、自らを犠牲にしつつ、父母に代わって弟たちを愛することが、愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は、兄弟たちの中で一番苦労しなければならない、責任ある立場です。
父母の立場も同じです。子女の代わりに、子女よりももっと苦労する立場が、父母の立場です。愛を中心として、父母が子女のためには涙が交差する場をも甘受しようとすれば、子女たちは、涙を流しながらその父母についていきたいと思うのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-917)