八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 4-8

八大教材教本 天聖経(2012年版)p1199-1238

【天啓の御言】(4-8)

 


蕩減復帰の道を中心としては、自分を第一に立てる人は、みな流れていくのです。ムン先生は、「自分が一番素晴らしい」と言いますか。私が今まで皆さんに教えたことは、私が行わないで教えたのではありません。私がすべておこなってから教えたのです。
(142-89, 1986.3.1)
ハナニムの解放は、まことの父母と一つになって地上のすべての祭物を捧げ、サタンの讒訴条件を清算しなければできません。皆さんが、どのようにしてハナニムの心情的な所有権に帰着するのでしょうか。父母と皆さんと万物が平衡線上で、ハナニムの所有だと決定し得る位置をもてなかったというのです。これを蕩減復帰しなければなりません。
(137-268, 1986.1.3)
皆さんが蕩減復帰の道を歩んでいるという事実、責任分担という宿命的な道を歩んでいるという事実を、どれだけ感謝して受け止めましたか。もう一度考えてみなければなりません。「ああ、統一教会の原理のみことばは良いが、蕩減復帰は嫌だ」と言うことはできません。
大学に入るためには、その関門を通過するために試験を受けなければなりません。私が願う反対の道が横たわっています。これを解決しなければ学校に入ることができません。同じことです。統一教会の行く道は、簡単ではありません。
(138-120, 1986.1.19)
私がどうしてついていかなければならず、私の心がなぜ促され、良心が生きた心地もなく追求されているのかということを、皆さんは誰よりもよく知っています。私の心は、どうしてこうなのだろうというのです。正道が目の前にあるがゆえに従っていくべき歴史、人間が行くべきであり、私が行くべき蕩減復帰の深刻な運命の道が残っているからです。落ちてしまっては、この道は行けません。
父母様の背に乗って行かなくては、行く道がないというのです。いくらハエが汚くても、走っている千里の馬(一日に千里も走る名馬)の腹の下にくっついて落ちることなく忍んでいけば、千里の道を行けるのと同じことです。ひっくり返っても、くっついていかなければならないのです。落ちてはなりません。
(138-120, 1986.1.19)
今日、信仰をする人たちは蕩減復帰の道を歩んでいるということを忘却しています。アダムとエバがどうして堕落したのでしょうか。責任分担路程を忘れてしまったからです。現実を忘却してしまったから堕落しました。責任分担圏を残したまま人類は呻吟しんぎんせざるを得ない立場に立ち、この責任分担圏さえも自由に迎えることのできない立場になりました。
堕落した人間であるがゆえに、責任分担圏を自由に迎えられるその位置まで出てくるためには、今日の歴史的なすべての堕落圏を解脱していかなければなりません。そうでなければ、復帰の道に出てくることはできません。
(142-82, 1986.3.1)
蕩減復帰を完成した人は、手を挙げてみなさい。こいつ、棍棒こんぼうでたたかれて、罵声ばせいを浴びせられ、雷に打たれなければならない邪悪な者たちよ。これをしなければ、先生もどうにもなりません。先生は、はっきり教えました。そのとおりに霊界が変形されるのです。


皆さんがこれをできずに逝けば、あの世に行って必ず引っ掛かってしまうのです。いくら夫婦同士が息子、娘を愛したとしても、全部行ってストップです。
霊界に楽園ができたのと同じように、統一教会において天国に入る前の家庭楽園ができてしまうのです。そこでは愛し合うこともできません。どうやって愛し合いますか。我が子だからといっても、愛したくとも愛することができなくなっているのです。そこに行けば、どうしますか。夫に、「あなたは私を愛していたのに、ここに来てどうしてそうなの」と言ったとしても、愛することができなくなっています。愛することができません。自分が立っている位置では愛するようになっていません。
(148-168, 1986.10.8)
皆さんに聞きたいことがあります。皆さんは、蕩減復帰の道を歩いてきましたか。そのように生きてきましたか。長子復帰をしなければならない運命として私の前に長子復帰の道が立ちふさがっているのに、これを必死に努力し、どのような代価を払ったとしても、この峠を越えなければならないといって身もだえをしましたか。しなかったというのです。しませんでした。ただ先生についてきたのでしょう。先生がどうだから? 先生が好きだからですか。どうしてついてきたのですか。ついてきたその動機も、原理よりも先生が好きだからついてきたのです。
(138-134, 1986.1.19)
統一教会に入り、すべて腰掛けていて天国に行くと考えてはいけません。心情圏を相続しなければなりません。皆さんは、いつ蕩減復帰すると考えましたか。いつ蕩減復帰しますか。蕩減復帰するために行けと言うのに、いつ行きましたか。
(140-197, 1986.2.9)
人間にとって、一番難しいこととは何でしょうか。サタンの三大門がありますが、一つ目は食べることです。この口は、食べて食べて食べたなら、「もっといい物をくれ」と言います。しきりにそうします。その次は、休むことです。寝さえすれば、しきりに休みたいのです。そうでしょう。仕事をしたくありません。その次は何ですか。情欲です。浮気をしようとします。
統一教会で浮気をして男女問題があれば一箇所に連れていって、ガソリンを掛けて燃やしてしまうでしょう。そのような時が来るのです。私が、そのような指示をしていないからこのようにしているのです。
ハナニムが、エデンの園にいたアダムとエバを追放したでしょう。この子たちを処理する道がありませんでした。二人しかいなかったので、処理する道がありませんでした。ところが今はそうではありません。おびただしいほどあります。先生の時代にそのようなことを見たくありません。ですから深刻だというのです。
(199-107, 1990.2.16)

 

7) 蕩減の道は絶対服従、絶対従順の道

宗教人は、なぜ絶対服従をしなければならないのでしょうか。絶対的な主体の前に絶対的な相対になろうとするので絶対服従しなければならないというのです。
そして悪に対しては、死んだとしても絶対に仲間になってはいけません。悪と絶対に仲間になるなというのです。愛せよと言いながら・・・。人間は愛しますが、人間と一つになっている罪を愛してはいけないということです。皆さんは、これを知らなければいけません。
(57-57, 1972.5.28)


ハナニムが絶対的ならば、私も絶対的な位置を願わなければなりません。ハナニムが不変ならば、私も不変でなければなりません。ハナニムが唯一ならば、私も唯一でなければなりません。ハナニムが永遠ならば、私も永遠でなければなりません。
このような観点で人間の永生は不可避です。それは結果的な帰一点でないわけがないという結論を堂々と下すことができると見るのです。いくらハナニムに愛があるとしても、私に愛がなく、いくらハナニムに生命があるとしても、私に生命がなく、いくらハナニムに理想があるとしても、私たち人間に理想がないならば、すべてが無駄だというのです。
(69-74, 1973.10.20)
我欲をもってはいけません。先生を中心にして完全に、絶対的に一つにならなければなりません。一つの根です。根を引っ張れば、引っ張られていかなければならないのです。幹や枝は、自分の存在意識をもつことはできません。主張することができません。二つの方向は、あり得ません。一つです。これが勝利的基盤を築き、位置を確保すれば東西南北に自由が広がるというのです。そうしなければ自由がありません。どういうことか分かりますか。ですから自由行動をすることができません。
(169-199, 1987.10.31)
今までの道人たちは、何を中心に生活してきましたか。イエス様もかわいそうな人です。人間的に見れば何の主張もない人です。夜も昼もハナニムのみ旨だけをもって、自分の思いはないのです。ハナニムのみ旨の前に絶対服従でした。絶対服従! なぜ絶対服従したのでしょうか。絶対的な主体、円形的な主体がいるにもかかわらず、もう一つの三角形的主体の圏を成したのがサタンなので、そのサタンを取り除くためにそうしたのです。
今日、人間は、サタン圏の中に隷属しています。サタン圏内に隷属している人間を脱出させるためには、サタンが一番嫌がる道を行かなければならないのです。それで宗教は、「良心を中心に絶対服従しろ」と言うのです。本来はハナニムが絶対的なので、絶対的なハナニムを中心に絶対的に一つになるようにしようとするので、宗教世界では、「マイナスになれ」と言うのです。
(57-114, 1972.5.29)
絶対的に服従しなさい。絶対的に服従することは滅亡することではないのです。服従したらどうなりますか。一つになります。一つになったらどうなるのでしょうか。悪は反発するのです。完全に一つになっているので、悪は反発するのです。それで悪を取り除くことができるというのです。これが原則です。
(57-114, 1972.5.29)
ハナニムのみ旨には、ハナニムの理想的なみ旨と、人間が堕落してしまったので、蕩減とうげん復帰しなければならないみ旨があります。二つあるということを知らなければなりません。それではどのようなみ旨の道を行かなければならないのでしょうか。二番目です。それではその二番目のみ旨の道には、天に従って信仰生活をする人たちが自由にすることができる内容が、少しでもあるのかというのです。これっぽっちもないのです。
(134-117, 1985.2.25)


絶対的な信仰をしなければいけません。「統一教会を信じるか」と言う時、「絶対的に信じて行く」と言わなければなりません。
(46-99, 1971.7.25)
絶対信仰とは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い隔たりがありますが、信じる心を中心としては平面的に対等な時代圏内に入ることができます。それで絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じる時、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。また、その人と一緒に暮らしているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させて刺激させるためのものが、信仰だということを知らなければなりません。
(32-162, 1970.7.12)
残るものは何でしょうか。絶対信仰も去り、絶対服従も去りますが、最後には絶対愛が残るのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもありますが、その中で一番は何ですか。愛です。信仰も去り、希望も去りますが、最後には愛が残るというのです。同じことです。絶対信仰も、みな去ります。
(169-130, 1987.10.29)
死ぬ場でも大胆でなければいけません。「死ぬ」と言って目を閉じて、「私は、死んだ」と言っていれば、既に別の世界に行っていたというのです。飛躍が起こったというのです。
統一教会は、そのように発展してきたのです。呆れて、呆れ果てて、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がることもできないその場を、死を覚悟して乗り越えていけば、生きていらっしゃるハナニムは間違いなく顕現されるのです。
ですから私には、ハナニムがいるか、いないかということは問題になりません。そして怨讐おんしゅうを消化しなければいけません。怨讐を愛さなければなりません。その道は、易しくはありません。自己否定を何十回、何百回するだけでなく、怨讐を愛せるところまで行かなければなりません。そうでなければ、神側に立つことができません。
(126-38, 1983.4.10)
宗教は、肯定概念から始めることができません。先祖がそうしたからです。それを否定する第一条件が何かというと、絶対信仰です。分かりますか。では、あなた方は絶対信仰を身につけましたか。ですから苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴かなければなりません。
今日、ムンなにがしが来て、宗教の秘密世界をすべて明らかにすることを願うでしょう? なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのか、なぜ絶対に信じなければならないかと、牧師たちを呼んで三つのことを聞いただけでも答えられず、「それは、信じることによってすべての救いを・・・」と言うのです。そのような妄想的なサタンの煙幕戦術に引っ掛かってはいけません。
(126-36, 1983.4.10)


統一教会員たちが蕩減復帰するためには、反対の行路を通じて行かなければならない以上、自己認定、自己肯定から始めるのではありません。完全否定です。完全な宗教は自己否定から、堕落した世界の完全否定から始まります。
それで世界を否定して、国を否定して、宗族を否定して、家庭を否定して、夫婦、男性女性自体を否定して、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどのくらい大きいか知らなければなりません。私の心を中心にして体まで否定しなければなりません。
(126-34, 1983.4.10)
統一教会を信じて福を受けようという考えをしてはいけません。福をあげようという考えをしなければなりません。統一教会自体内の福を、「国と世界のため、もっと大きいもののためにあげる」と言わなければなりません。そのように行く時、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任をもちます。皆さんの足を私が引っ張りはしません。そのような人にならなければなりません。
(130-61, 1983.12.11)
表では喜んでいますが、心の中で頭を横に振る人がいます。このようなことを見るとき、良い性稟せいひんをもって生まれなければならないというのです。信仰の道において自己と闘って勝つということは、世界を克服することよりも難しいのです。このような観点で見るとき、第一次の十字架は自己を克服しなければならないということです。
(46-95, 1971.7.25)
では、今まで責任分担の蕩減の役事を、誰が全部しましたか。それをお金で返すことができますか。皆さんの家を売って、国を売って返すことができますか。それでは、何をしなければなりませんか。することはありません。ただ絶対服従です。
皆さんが20代までは、絶対服従です。20代になる前に、エデンの園でアダムとエバがおしりを振って堕落したのです。自己主張していてです。20代までは絶対服従です。20代前は服従しなければなりません。
ですから子供たちは、絶対服従です。絶対服従を教えなくても、服従するようになっています。彼らも、もし父母と一つになれなかったならば滅ぶということを知っているのです。ハナニムと一つにならなければ滅ぶというのです。
(133-136, 1984.7.10)
四大心情圏と三代王権を失ったので、これを取り戻さなければなりません。これを成すためには絶対服従と絶対従順と絶対犠牲を中心として順応し、何をさせたとしても、「すべてをやる」と言わなければなりません。そのようにしてこそ、父母がサタン世界からここに来るのです。
ですからサタン世界の男性は、天使長なので切ってしまわなければならないのです。そうすれば、ここから上がっていくのです。
(235-293, 1992.10.25)
カナン復帰路程では、先生についていかなければなりません。がんが大洋を渡るとき、親分雁の前に絶対服従です。異議がないというのです。「飛べ」と言えば、飛ぶのです。死ぬほど疲れても、ただついていかなければなりません。今までそのようなことをしてきたのです。今は、目的地に来てひなを産む時です。すべてこのようになっているので、同族同士お互いのために生きて、愛して、一つの族属ぞくぞく(同じ姓に属する人)を成して、族属自体を誇ることができる、そういうことをしなければならないのです。これが「今、この時、しなければならないことだ」と言ったのです。今までは、カナンの福地に向かっていく時でした。今は、定着時代に入ったのです。
(115-107, 1981.11.4)


本当の孝子は、服従する者です。本当の忠臣は、奸臣かんしんとして追われて死んだとしても、王に対して「無能な王だ」と言うのではありません。奸臣として追われて死にながらも、忠臣の志操でかわいそうな心を抱いて涙を流しながら、王の安泰を願う人が、本当の忠臣です。絶対服従です。絶対服従で成功をもたらせるただ一つの道は、まことの愛の道しかありません。
(164-48, 1987.5.3)
先生は今まで、「ああ、お前たち、先生の言葉に絶対服従しろ」とは言いませんでした。私たちは、歴史的な路程に順応していかなければなりません。歴史的路程とは何かといえば、ハナニムのための摂理的な歴史路程です。
今まで、皆さんに復帰摂理路程を教えてあげたのは、そのような意味からです。統一教会の文先生のために教えてあげたのではありません。ですから先生も行くのです。主体となり得るハナニムの目的と、相対となり得る人類の目的に向かって行くのです。その目的を一点で結末を見ることができなかったので、この結末を締めくくってあげようとするのが今日、この時代の統一教会が主張する「統一原理」であり、「統一思想」だということを知らなければなりません。
(71-66, 1974.4.28)


 

第9巻 祝福家庭

 

第1章 真の父母と祝福

   

1) 祝福の意義と価値

 

① 祝福とは何か

イ) 祝福の意義
祝福は、まことの父母と真の子女が出会い、創造目的を成し遂げることを意味します。
(19-73, 1967.12.27)
ハナニムは、二性性相としていらっしゃいます。これをプラスに分立させたのが男性のアダムであり、マイナスに分立させたのが女性のエバです。そしてアダムとエバを再び合わせた姿と同じものが子女です。このようにハナニムを中心として1代、2代、3代が形成されるのです。では、この3代の中で問題が起こったのは何代かといえば、2代目のアダム、エバの代です。
アダム、エバがハナニムの愛を中心として一つになれなかったのです。もし、アダムとエバがハナニムの愛を中心として一つになっていたならば、ハナニムが臨み得る因縁が決定され、そのことによって子女にも、ハナニムと関係を結べる愛の基準が連結していたことでしょう。それを「祝福」と言うのです。
(32-239, 1970.7.19)
統一教会で行う祝福結婚式は、ただ単に男女が出会って一家庭をつくる婚礼式ではありません。今までの結婚式は、自分を中心としたものでしたが、私たちの結婚式は、ハナニムに喜びを返し得るだけの内容をもって歴史を蕩減とうげんする貴い条件として、神聖で盛大に挙行します。私たちの結婚式とは、アダムとエバの堕落によって始まったハナニムのハンを解き、イエス様が成し遂げられなかった新郎新婦の基準を通過することだ、ということを「原理」は明らかに説明しているのです。
(22-212, 1969.2.4)
「祝福」という言葉は、統一教会から始まった言葉ではなく、創世時から堕落した以後、今まで、歴史過程を通じてハナニムの内心の中に一つの願いとして、ハナニムがいつもこれを追求し願ってこられたものだということを知らなければなりません。そのような希望の1日を取り戻すためにハナニムは、今まで受難の道を歩んでこられましたが、いまだにこの日を取り戻せないでいるのです。
ゆえに、この1日を取り戻すならば、この日は、歴史的な解怨かいおん成就がなされる日となり、ハナニムの歴史的な願いを成就する日になるというのです。このようなことを考える時、この祝福の場が、どれほどとてつもないかという事実を知らなければなりません。
(30-164, 1970.3.22)


人間の先祖のアダムとエバが堕落したその日から、人間はハナニムが祝福してくださる1日を待ち焦がれてきました。
(19-23, 1967.11.14)
祝福の場は、過去から今までつづられてきた歴史過程における、あらゆる悲しみを清算できる場です。今まで成就できなかったハナニムの願いが新たに出発できる場であり、新たな人間の未来が出発するきっかけとなり得る、一つの基点なのです。
(30-166, 1970.3.22)
今の時代は、蘇生そせい、長成の段階を越えて、完成段階へと進んでいく時代なのです。縦につくられた歴史を横的に越えていくべき時代なのです。すなわち、6000年の歴史をすべて一度に越えていく時代なのです。
ですからサタンの侵犯圏内を抜け出さなければならないのです。それでは祝福とは何でしょうか。今までの歴史的なサタン圏を完全に越えさせる関門なのです。
(18-209, 1967.6.8)
祝福は、真の父母の因縁を継承することです。この日のために先生は、精誠を尽くして闘ってきました。したがって、真の父母がサタン世界と闘ったその看板を掲げて祝福するのです。
(19-23, 1967.11.14)
先生が生涯で最も貴いと考えたものとは何でしょうか。祝福です。皆さんにとっても、人類歴史始まって以来、最高の贈り物は、祝福です。
(23-317, 1969.6.8)
今日、皆さんは、まだ真の父母と完全な因縁を結ぶことができないでいます。ですから、その因縁を結んであげるためにするのが、統一教会の祝福です。
(23-333, 1969.6.15)
祝福を受けた人は、霊界に行っても先生が永遠に責任を負います。先生が主管して指導します。祝福とは、このように先生と永遠の因縁を結ぶものでもあります。
(御旨と世界-538)
祝福をしてあげるということは、天の全権を委譲してあげることを意味します。
(17-328, 1967.4.16)
祝福は、天国の門を開くことであり、天国は、子女と共に家庭が入っていく所です。
(12-266, 1963.5.25)
祝福とは、永遠の宝物です。子孫万代を、今から出発するという一つの契約です。
ですから、それを汚す時には、一族が関係します。イエス様を十字架につけることにより、一国家が関連することになったように、一族に連結されます。
(御旨と世界-550)
祝福とは、歴史が追求してきた万民解放の門を開くかぎなのです。
(22-206, 1969.2.4)
祝福を受けるということは、とてつもない事実です。祝福を受けた人は、ハナニムの代わりに「私が定めれば天宙も定める」という心で、主人として振る舞える人にならなければなりません。このような条件が備わってこそ、天が私たちを中心として生活理念を立てることができるのです。
(13-14, 1963.10.1)


ハナニムの祝福は、絶対的に公的なものです。その祝福は、ある個人だけのためのものではなく、またある家庭だけの、ある国家だけの、ある世界だけのためのものではありません。ハナニムの祝福は、宇宙全体のためのものです。
(15-67, 1965.2.13)
「祝福」という言葉は、福を祈るということです。祝願する(祈る、願うという意味)の「祝」という字です。福を祈るのに、どんな福が一番貴いのでしょうか。愛の福が一番貴いのです。統一教会は、そのような意味で「祝福」という言葉を使うのです。一番貴いもの、宇宙の公約を代表した一番核心的な起源が、男性と女性が結合するところから始まるので、その祝福が一番偉大だというのです。その偉大なものが福を祈れば最高の福になるので、統一教会では結婚式を「祝福」と言います。
初めて来た人々は、こういうことを知らなければなりません。統一教会で「祝福を受けた」というのは、今日この世で「福を受けた」というのとは違います。ハナニムの立ち会いのもとに、真の父母を通じて結婚式をしてもらったということです。
(83-226, 1976.2.8)
今、あのイギリスの王室にある518カラットのダイヤモンドは、昔、アフリカでは石ころの扱いを受けていたのです。ダイヤモンドが世界で、最も貴い宝石になることを誰が知っていたかというのです。きらきら光るのを見て、単なるガラスの塊だと思っていたのではありませんか。全く同じです。
この貴い祝福を受けたことは受けたのですが、これがダイヤモンドであるにもかかわらず、単なるガラスだと考えているのです。何も知らずにいたのが、先生から話を聞いてから「ああ! 貴いものだな」と言っているのです。
(83-240, 1976.2.8)
祝福の中で一番重要なものとは何でしょうか。お金ではありません。名誉でもありません。いかなる権力でもありません。息子、娘が栄えていくことです。皆さんがそれを知らなければなりません。祝福の中で一番良い福とは何でしょうか。息子、娘が天の愛を受けられるように生まれることです。それは、立派に生まれることです。
するとどうなるのでしょうか。その息子が私よりハナニムの愛をたくさん受ければ、恩恵を受けるようになります。そうではありませんか。山の谷間の向こうから、このように下りてきた電線のようなもの、この送電線のようなものを見れば、たるんでいますが、ここでぎゅっと引っ張ればピンと張るのです。同じように、子供が天の愛をたくさん受けるようになれば、私がそれだけ落ちていたとしても、ぐいっと上がることができるのです。恵みを受けるのです。
(78-42, 1975.5.1)
祝福の場に参加する人がいるならば、彼はただそのまま一人の男性、あるいは一人の女性という立場で参席してはいけません。その場は、今まで6000年間この世に来ては逝った数多くの男性、あるいは数多くの女性を代表した場です。その場に皆さんが招請しょうせいを受けたという認識をもたなければなりません。皆さんは、そういう事実を内情的な心情で体恤たいじゅつしなければなりません。
(30-169, 1970.3.22)


祝福が成される今の時は、どのような時でしょうか。今は、ハナニムの願いが成される最高の時であり、6000年間苦労してきたハナニムの恨が終わる時であり、この地へ来られ、御苦労されたハナニムの息子、すなわちイエス様の願いが成される時です。それだけでなく、人間が創世以後、初めて愛が始まる時であり、万物の歓喜と、尊貴と、栄光を受けられる時です。
ハナニムにとっても、この日がどれほど良いでしょうか。罪悪がみな消え、光明の太陽が昇った明るい天地を迎える日、すべての自然が和動し、すべての万象が踊る明るい朝、勝利の朝を迎える日です。
(19-106, 1967.12.31)
先生は今、現実はこうですが、後日、先生が祝福した者の中から最後に残った一人が、世界的な人間財として残り、栄光を受けることを希望として生きています。
(21-79, 1968.10.20)

 

ロ) 祝福の価値
皆さんは、摂理的に見て、祝福がどれほど重要なのかを知らなければなりません。ハナニムを中心として祝福を受ける場は、地上天国と天上天国が出合う場です。横的に、永遠の世界と瞬間的な世界が出合う場です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-545)
祝福は、天地で最も貴いものです。同時に、極めて恐ろしいものです。もし祝福を受けた夫婦が、互いにほかのことを考えるならば、それは相手を蹂躙じゅうりんすることです。
皆さんから最初に善の先祖、地、国が生じるのです。したがって祝福を受けた人は、目覚めれば、天地を考えなければなりません。祝福は、人に福を分けてあげるためのものです。
(13-67, 1963.10.17)
祝福の場は、恐ろしい場であり、ここでは、いい加減な自分の感情は通じません。一生命の価値は、宇宙よりも貴いものです。ゆえに、一人に責任をもつには、永遠を中心として責任をもたなければなりません。
こういう問題が左右する場が祝福の場であることを、皆さんは、はっきりと知らなければなりません。
ですから自分の一生で、そのような一時をもったならば、彼は幸福な人です。このようなとてつもない祝福の場に皆さんが同参するためには、歴史的な決心をしなければなりません。
(30-186, 1970.3.22)
祝福は、その価値を知って受けなければなりません。祝福を受けることによって、第3イスラエルの民の位置に立つようになるということを知らなければなりません。
皆さん、祝福の意味と価値を知ってみると、祝福を受けずして、人間完成の道へと行くことができますか。結婚していない人々を大人として扱いますか、人間の世の中でも、処女が死ねば손말명ソンマルミョン(処女の怨霊おんりょう)で、チョンガー(注:独身の男性)が死ねば몽달귀신モンダルキシンチョンガーの怨霊)と言います。それは、誰かがそのようにしたのではありません。天道がそのようになっています。
(19-106, 1967.12.31)


国の国王も国民もサインするのは同じですが、その内容においては天地の差があるように、祝福においても外的に見れば何でもないようでも、その内容と価値において見れば、とてつもない差があるのです。
(21-339, 1969.1.1)
皆さんが衣食の問題が大変だといって、なすべき使命を忘れ、ハナニムが下さった祝福をお金で売るのですか、そのような考えでしょうか。ハナニムの祝福は、天と地を与えてもらっても絶対に引き替えることができません。
(14-161, 1964.9)
祝福には、全世界を与えてもらっても引き替えられない価値があります。時には、私が祝福してあげたことを後悔することがあります。祝福は、一人の男性と一人の女性がハナニムのみこころを中心として、「真の愛を実行する真の父、真の母になれ」と言って、してあげたものです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-552)
祝福の場とは、どんな場でしょうか。祝福の場は、世界で一番良い場です。その祝福の場は、誰と関係を結ばなければならないのでしょうか。皆さんは、自分自体で完成するのではありません。
父母の愛によって完成するのです。子供が親の懐から生まれれば、立派に生まれたとしてもそうでなくとも、その親の姿に似るのです。それと同じように、統一教会では真の父母の道理を教えます。それが皆さんには、福の中の福です。
(35-236, 1970.10.19)
80歳を超えたおばあさんたちも、祝福を受けることができずに死ねば、天国に行けないという事実を知っているために、死んでいく最後の瞬間でも何千里も何万里も向こうに男性がいても、その男性と絹織り糸を結んで、祝福の条件だけでも受けたいと思うのです。統一教会では、このようになっています。先生は、このことをやり遂げなければならないので、星回りが悪い人です。
(22-18, 1969.1.1)
祝福を受けたということは、メシヤが2000年間の苦労によって地上に基盤を築き、選ばれた民族と教団と自分の宗族を中心として、新郎新婦の名前で出発できる時が来たということです。
皆さんが宗族的メシヤになれるでしょうか。先生と父子の因縁が結ばれたがゆえに、サタンもどうすることもできないのです。このように祝福は、本当にとてつもないものです。
(21-14, 1968.8.13)
エス様が2000年の間、精魂を尽くして成したかったこととは何でしょうか。婚宴をしようとされたのですが、婚宴とは何でしょうか。正に祝福です。イエス様が2000年間願ってきた、その願いを成就する基準が祝福の婚宴です。婚宴しようとするならば、新郎の前に新婦が現れなければなりませんが、それがキリスト教の終末です。ですからキリスト教を越えずしては、天国に行くことができません。
(76-72, 1975.1.26)


エス様が来て、4000年の歴史を終結させて新しく出発しようとしたものとは何でしょうか。家庭がないために滅びました。家庭があったならば、宗族は自動的に、時間がかかっても横的な面において、歴史を通じて蕩減できるのです。そうなれば、イエス様の一族が生じていたのであり、イエス様の民族が生じていたのであり、イエス様の一国が生じていたのではないかというのです。そのようにし得る家庭をもつために、イエス様が33年間、苦労したのです。33年間、苦労してももてなかった家庭なのに、皆さんは祝福の価値を知っていますか。祝福は、6000年間、探し求めてきた恨の解決門なのです。
(62-231, 1972.9.25)
「小羊の婚宴」は人類歴史上、初めて人間が祝福を受けて家庭的な救いの基準を立てることを意味します。これが6000年の歴史が探し求めてきたものです。
「小羊の婚宴」をする新郎新婦が、真の父母の使命をもって現れることです。ゆえに、再臨主の祝福を受ければ、その家庭の救い主として、その家庭の救いの門を開くことになります。
(19-31, 1967.12.15)
統一教会に入って皆さんが祝福を受けたということは、ハナニムが4000年間、摂理してこられた土台の上に、イエス様を送り、み旨を中心として家庭を復帰したという勝利的基準に立ったということです。
それで皆さんの子孫は、復帰摂理において何の功労がなくても、皆さんの勝利の基準を通じて、4000年の復帰摂理で功臣となった先祖たちの恩賜を受け継げる立場に入っていくのです。
(23-235, 1969.5.25)
エデンの園で、男性の前に女性を創造しなかったならば、どうなっていたでしょうか。女性がいるという事実は、宇宙的な真理です。奇跡の中の奇跡が、男女が存在するということです。片方だけ存在するとすれば、何も存在しないのと同じです。人類は、おしまいです。統一教会の祝福の価値が、こういう角度から十分に理解しなければなりません。
一度、相対者に会えば、それは永遠と連結します。宇宙を与えても、ハナニムを与えても買えない本然の夫婦の愛に感謝して、強く大胆でありなさい。統一教会の真の愛を味わった者たちは、世界のどこへ行っても、その愛の光が共について回るようにならなければなりません。人類を、全宇宙を、真の愛を中心として愛さずしては、絶対に天国に行くことができないのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-553)
「ハナニムが変わらない限り、私は変わらない。過去、現在のいかなる人や、いかなる物が、サタン世界の生命、サタン的愛、サタン的理想を私から完全に奪っていっても、私は行くのだ。さらには、ハナニムが変わるようなことがあっても、私がハナニムを元に戻していくのだ。ハナニムが絶対的でなければ私が絶対的にしてみせる」と、こういう考えをもたなければなりません。
そのようになれば、ハナニムでも絶対服従します。「私は、金の輝きのように、ダイヤモンドのように硬く、変わらない光をもっている」と、そのように考えなさいというのです。そのような立場で、そのような日を見つめて、ハナニムがアダム、エバの祝福の1日を願っていらっしゃったというのです。
(91-235, 1977.2.20)


皆さんは、ハナニムを探す必要はありません。それよりは、愛が必要だというのです。この愛さえもてば、ハナニムは自然に私のところに来るということです。私に捕らえられるというのです。
ですからハナニムを探す方法、ハナニムの愛の方法は、世界人類を兄弟と思い、ハナニムのように、父母のように愛して行動することです。そうすれば、すぐにハナニムは私のところに来られるというのです。それで宗教では、愛を語っているのです。しかし、このことが成されなかったために、今日、統一教会はこれを再び復帰するために、このようなことをせざるを得ないということを知らなければなりません。
祝福はこの場で受けますが、一つになり、これを中心として拡大さえすれば、この宇宙は皆さんのものになります。
(91-235, 1977.2.20)
祝福は、生きるか死ぬかの決定点です。
(27-85, 1969.11.26)
三・一運動に参加した33人の中に李甲成イカプソンという人がいるでしょう。今、その人一人だけが生きていますが、三・一運動について考えるとき、その人が大統領よりも高いですか、高くありませんか。それは尋ねるまでもなく、より高いというのです。
同じように、先生を通じて祝福結婚をした人は、世界的な栄光を受けるでしょう。たとえ最後に結婚した1双が、夫婦とも、目も一つなくて、鼻も曲がって、耳も一つなく、腕も一つない身体障害者の中の身体障害者であったとしても、彼らは世界的な栄光を受けるようになるでしょう。そのような身体上のことが問題ではなく、先生を通じて祝福を受けたということ、それ自体が問題になるということです。それは数億万ドル与えても買うことができないのです。私たち統一教会のお嬢さんたち、それを知っていますか。どれだけ知っていますか。
(35-71, 1970.10.3)

 

ハ) 祝福は人類が通過すべき公式路程
統一教会を中心として成される合同結婚式は、統一教会にだけ限られる結婚式ではありません。これは、全人類が必ず通過すべき公式的な路程なのです。これをはっきりと知らなければなりません。
それでは、祝福結婚式をやらなければならない根本的な原因は、どこにあるのでしょうか。それは、私たち人間の始祖が堕落したからです。もし人間の始祖が堕落しなかったならば、今日、私たちが祝福を受ける、このようなことはなかったはずです。しかし、堕落することにより、再びハナニムの主管圏に越えていかなければならない復帰路程が残るようになったので、私たちは、このような道をさかのぼっていかなければならないのです。
今日、人間たちが宗教を信じるのも、このためであり、歴史が指向してきたのも、やはり同じです。
(35-215, 1970.10.19)
これから人類は、どこへ行くべきでしょうか。「全人類は、祝福の門を通らなければ、天国に行くことができません。数多くの人々がキリスト教を信じていますが、そのキリスト教自体も祝福という門を通らなければ、天国に行けません」。このように言えば、キリスト教では、「統一教会のレバレンド・ムーンは、独善的な発言を多くする」と不平を言います。こういう考えをする人、またそのように話す人がいるかもしれませんが、それはその人たちの言葉であって、統一教会でいう祝福結婚は、堕落した人類にとっては必ず行くべき道なのです。どんなに反対しても、霊界と肉界を連結して天国に入っていく上で重大な問題となるのが、この祝福結婚だというのです。
(290-167, 1998.2.18)


結局、最後の目的はどこにあるのでしょうか。真の家庭を取り戻そうということです。これが堕落した人間が探し求めてきた、最高の目的なのです。
この真の家庭を成すためには、真の人が出てこなければなりません。真の人の中でも真の男性が先に出てこなければなりません。その真の男性が真の女性を探し立て、ハナニムを中心として聖婚式をすることにより、初めて真の家庭が出現するのです。人間が堕落することにより、このような起源をもつことができなかったので、私たちは今までのすべての家庭を否定し、新しくハナニムの摂理のみ意に従い、このような家庭的基準を踏んで越えていかなければならないのです。
もしその基準を越えていくことができなければ、堕落した人間は、本然の世界へ戻ることができない、というのが原理的な見解です。堕落した人間たちは、誰でもこの公式的な条件をたどっていかなければ、ハナニムの前に立てないということを知らなければなりません。
(35-215, 1970.10.19)
天国理想は、結婚して家庭をもたなければ成されません。統一教会ですべての善男善女たちが祝福を受けなければならないというのも、天国理想を実践していくためです。未婚者はもちろん、既に結婚した人であっても、一定の基準を備えて再び祝福を受けなければなりません。
すべての人が祝福を受けなければならない理由は、創造理想世界へ帰るためです。もともと創造理想の世界は、真の男性と真の女性が祝福を受けてつくっていく世界ですが、堕落によってそういう愛の歴史が一度も現れなかったのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-556)
堕落とは、サタンを中心として結婚式をしたことです。サタンを中心として結婚したので、ハナニムを中心として、ハナニムのみ名によって結婚しなければなりません。その結婚は、世界史的な結婚です。一民族の中での結婚ではなく、民族を越えてサタン世界を超越した立場での結婚です。サタン世界を越える場です。
(82-95, 1976.1.1)
エデンの園において、本来アダムとエバの息子、娘の結婚式は、ハナニムの命令によってアダムとエバがしてあげるのです。私たちの結婚式も、同じ道理です。それで私たち統一教会では、真の父母のみ名によって祝福してあげるのです。


今までこの世で、自分のお母さん、お父さんが結婚の主札に立って結婚式をするのを見たことがありますか。そのような人は、いないのです。それを見るとき、この世には完成した人がいないということを物語っています。結婚式は、正に愛の伝授式です。ハナニムの愛をもって父母が生きるように、皆さんも父母の愛をハナニムの愛の代わりに受け、「このように生きよ!」という愛の伝授式が結婚式だというのです。
ハナニムの愛を父母から受けるのです。ある有名な人から受けるのではありません。それは天使長がしてくれる結婚です。名のある人が片方だけ来て結婚式をするのは、みな天使長にしてもらう結婚式です。
(96-236, 1978.1.22)
愛で堕落したがゆえに、復帰するにおいても、天を中心とした新しい父母の愛と関係を結んでしなければなりません。それで統一教会合同結婚式をする時は、先生とオモニ、二人でしてあげるのです。それが愛の伝授式です。
ここで造成された伝統は、永遠の伝統になるのです。革命は、必要ありません。このように革命の必要のない新たな伝統がこの天地間に立てられるとき、ここから新たな家庭と、新たな宗族と、新たな民族と、新たな国家と、新たな世界が形成され、この地球ぼしを主管し得るのです。
(35-67, 1970.10.3)
誰も手をつけられないことに統一教会は着手して、再創造の道へと導いてきたのです。これができる日には世界が一つになるのであり、悪のサタン世界を天の国へと転換させ得るのです。
今日アメリカが、若者たちに自ら相対を得られるようにしてきたのはおかしなことです。キリスト教文化圏なのに、聖書が認めないことをやっているのです。これは物質文明と共にサタンに侵食され、サタン側的な自由主義により、そのようになったと見るのです。
ところが皆さんは、なぜそのようにしませんか。サタンがやってきたことを、私たちはすることができません。愛とは何でしょうか。ハナニムから、父母から受け継いだ結婚をするのが原則であるにもかかわらず、自由結婚を唱えたことが堕落なので、これを根本的に根絶しなければ、天の国に戻ることができません。
(82-115, 1976.1.1)
ここは、天道を立てる所です。私は死んでも原理原則を立てるために、私の生活を捧げてきたのに、この結婚という問題に対し、皆さんの言うことを聞き、適当にする男ではありません。
(75-284, 1975.1.12)

 

 

② 祝福から見た真の結婚観

イ) 真の結婚はハナニムの形状に似るためのもの
結婚は、なぜするのでしょうか。ハナニムの姿に似るためです。ハナニムは、二性性相でいらっしゃる方として各一性が合体化した一体的な存在であられ、そのハナニムの分性的人格自体が男女なので、彼らが合性一体化することにより、種のようになり、ハナニムの本性の場に戻らなければならないのです。
(290-170, 1988.2.18)


結婚の最高の神聖さを私たちはうたわなければなりません。男性と女性が愛し得る道は、結婚生活なのです。そのように一つになることによって誰に似るのでしょうか。ハナニムに似るのです。男性と女性が一つとなってこそ、ご自身の形状どおりお造りになったハナニムに似るのです。そうしてこそハナニムが臨まれるのです。
(70-76, 1974.2.8)
原理について考えるとき、アダム、エバが堕落せずに完成していたならば、結婚式の場へと進んでいたでしょう。言い換えれば、アダム、エバがハナニムの実体対象としてハナニムが主体になられれば、彼らは対象になるのです。そのような立場で、愛の主体なるハナニムから対象的な立場の愛を連結させ得るその土台として個性を完成し、結婚することによって、祝福は成されるということを知っています。完成は結局、結婚をいうのであり、結婚は、ハナニムの愛の顕現をいうのです。
別の言い方をすれば、結婚がなかったとすれば、現在、人類のこの世における愛というものが始まらなかったと見るのです。その愛の主人とは誰でしょうか。人間ではなくハナニムだということを私たちは知らなければなりません。
(76-40, 1975.1.26)
結婚は、創造理想を完成するためのものです。すなわち、創造目的を成し遂げるためにするということです。すると創造目的は、誰の目的でしょうか。アダムの目的である以前に、ハナニムの目的です。ですからアダムが喜ぶ前に、ハナニムが喜ばなければならないのです。そのようにならなければなりません。このように見るとき、結婚を誰ゆえにするのでしょうか。ハナニムゆえにするのです。言い換えれば、ハナニムの創造目的というみ旨のためにするのです。み旨は、創造理想を完成することです。
(35-231, 1970.10.19)
結婚を、なぜするのでしょうか。アダム、エバが自らの愛を探していくためのものではありません。縦的なハナニムの愛を核として、その核を中心に、その分身として一つの球形を成すためのものです。それが理想です。ハナニムの創造理想もそのような愛を中心として結着するのであり、人間の男性と女性も成熟して、そこで愛の結着点が生じ、生命が連結されるのです。
ですから、生命によって連結されるのではありません。愛によって連結されるのです。縦的父の愛と横的夫婦の愛を中心として、本然の愛の種が初めて連結されるのです。
(173-288, 1988.2.21)
成熟したアダム、エバが愛の因縁を結べるその時になれば、ハナニムは二性性相としていらっしゃるので、男性性相はアダムに臨在し、女性性相はエバに臨在するのです。ハナニムが私たちの体と心の中に臨み、ハナニムが結婚式をするのです。


アダムの心は至聖所のようなもので、アダムの体は聖所のようなもので、その中にハナニムがいらっしゃるのです。そのようになっていれば、アダムはハナニムの体になるのであり、エバもハナニムの体になるのです。ハナニムの男性格的性稟せいひんに似たのがアダムであり、女性格的性稟に似たのがエバです。この二人が結婚式をすることが、宇宙の王権を立てる式ではありませんか。それは何の王権ですか。愛の王権です。
(143-236, 1988.3.19)
結婚をなぜするのでしょうか。ハナニムを愛するために。ハナニムを愛して何をするのでしょうか。ハナニムの軸と一致するためです。一致して何をしようとするのでしょうか。一致すればどうなりますか。なぜ一致しようとしますか。絶対的なハナニムの愛を中心として、永遠の愛を中心として永生がなされるのです。それだけではありません。
そのように接触したそこから、宇宙の相続権が伝授されるということを知らなければなりません。愛を中心として造られた被造世界は、ハナニムのものですが、私のものとして相続権が与えられるのです。
(136-39, 1985.12.20)
結婚した夫婦の愛というものは、ハナニムの縦的な愛に接ぎ木されるのです。ハナニムの縦的な愛と一つになるときは、これを離す者がいません。しっかりくっついていて、離す者がいないのです。ですから人々が生きる生活において何がどうであれ、愛の道を求めていくのです。
(180-309, 1988.10.5)
自らの価値をどのように取り戻すのか、これが問題です。男性として生まれたのは女性のためであり、女性として生まれたのは男性のためです。この男性と女性がなぜ一つにならなければならないのでしょうか。一つにならずしてはハナニムの愛を感じることができないからです。これが問題です。男性と女性が完全な愛によって一つにならなければ、ハナニムの愛を所有できないということです。結婚をなぜするのでしょうか。ハナニムの愛を所有するためです。
(165-178, 1987.5.20)
絶対的なハナニムも、愛が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象が必要だというのです。
(144-219, 1986.4.24)
アダム、エバが完全に成熟し、新郎新婦としてハナニムの前に対象圏を成してハナニムの祝福を受けることにより、神的愛による家庭になったならば、それが本来、エデンで堕落しないで成し遂げていた完成圏でした。その完成圏に現れたアダム、エバになっていたなら、その場は、どんな場でしょうか。祝福を受ける場です。
(76-45, 1975.1.26)
福の中で一番貴い福は、ハナニムの愛です。その次は、ハナニムの創造の権限を引き継ぐことです。ハナニムがアダム、エバを創造したように、創造的権限を与えられるのが子女なのです。皆さんがなぜ子女を愛しますか。ハナニムの創造の偉業を横的に実体圏で受け継いだのと同じなので、アダム、エバを造っておいて、ハナニムが喜んだその喜びを代わりに感じるためです。


その次は、ハナニムが天地万物を主管されたように、万物を主管させるために、私たちに主管権を与えました。したがって、結婚するその時には、ハナニムの愛を相続し、再創造の権限と主管権を完成圏に立って受け継ぐようになる、ということを皆さんが知らなければなりません。
ゆえに、結婚式とは、愛の顕現をいうと同時に、創造権と主管権を与えられるものです。
(76-45, 1975.1.26)
創造理想は、自らを中心として成されるのではありません。すべての心情が主体的なハナニムと一体となり、ハナニムがどうずれば私が動じ、ハナニムがせいずれば私も静ずる、心情的一致点を中心として内外が一つにならなければならないのです。このようにハナニムの前に和することができる基準を立てなければ、創造目的を成し遂げられません。
(35-231, 1970.10.19)

 

ロ) 結婚は愛の完成のためにする
結婚自体は何でしょうか。結婚をなぜするのでしょうか。何ゆえにするのでしょうか。男性に会いたくて、女性に会いたくて、するのではありません。愛を完成させるためにするのです。男性が求めるべき愛は、女性なくしては見つかりません。一人では絶対に見つかりません。女性が求めるべき愛は、男性なくしては絶対に見つからないのです。
(144-234, 1986.4.25)
男性が個人完成をしようとするならば、相対完成をしなければならないので、結婚をしなければなりません。結婚をしなければ、愛圏内に行けません。
なぜ結婚をしなければならないかといえば、お互いにハナニムの愛に接するためです。ハナニムの愛に接するために、男性と女性は結婚しなければならないというのです。男性と女性が結婚し、ハナニムの愛がそこに臨むことにより、愛を中心として一つになるので、ハナニムがその時から、宇宙とハナニムご自身を相続させてくださり、ハナニムの愛まで相続させてくださり、ハナニムに属するすべてのものを相続させてくださるようになるのです。
(135-327, 1985.12.15)
結婚は、なぜするのかといえば、自分の個人的愛を完成させると同時に、相手の愛を完成させるためです。個人の愛を完成させると同時に、ハナニムの愛を完成させるために私が結婚するというとき、気分がどんなにいいですか。
地上にハナニムが愛することができる土台を準備するために、男性と女性は結婚しなければなりません。二人が愛によって一つになったその基準の上に、初めてハナニムの愛が訪ねてくるのです。
結局は、ハナニムの愛のために、またハナニムの愛のために生きることは、私がハナニムの愛をもつためなのです。「ため」に与えるから愛が来るのであり、愛が来るのでハナニムの愛を自分のものにできるのです。
(165-87, 1987.5.20)
結婚の目的は、男性と女性の心の世界を一致させようということであり、男性と女性の愛の完成のためのものです。それで結婚したということは、「その証拠を見せる」と宣布したということです。結婚生活を通じて、愛の完成と心の完成を成し遂げたとすれば、家庭の理想を実現したと見ることができます。それで死ぬとき、これを成し遂げたとすれば、間違いなく天国に行くというのです。
(97-276, 1978.3.26)


私が結婚するのは、私だけのためではなく、相手のためのものでもあります。結婚が自分より相手のために行われるというのは、どういうことでしょうか。天地間のすべての道理が、主体と対象でできているように、男女が結婚するのも天地間の道理です。男性が右側ならば女性は左側になりますが、それは宇宙間の横的な関係を成すためです。
男性が主体ならば女性は彼の対象になりますが、それはハナニムとの縦的な上下関係を成すためです。したがって結婚とは、男性だけのためのものではなく、また女性だけのためのものでもない、天理の法度を合わせるためにするものです。それで男性と女性は、互いに異なる姿を備えています。天理の法度を合わせられるように生まれたのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-358)
女性が男性を迎えるのは、男性の世界を得るためです。女性が男性の世界を得て何をしようとするのでしょうか。それは愛の一体を成すためです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-359)
男性は女性を探していくために生まれ、女性は男性を探していくために生まれました。女性と男性は、二人が合わさって、より次元の高いハナニムの愛に接するために生まれました。一人では、その愛に接することはできません。一人で接しても、それは一方的です。立体的で球形的な愛に接することはできません。それで、男女がより高い次元の立体的な愛の圏内にジャンプするために結婚するのです。
(109-276, 1980.11.2)
本然の世界において男性と女性が一つになればなるほど、その力の作用において偉大な中心が生まれて球形になるのです。横的に連結すればするほど、縦的な力の愛の母体が連結し、入ってくるということです。そこで、体と心が一つになるのです。
(109-273, 1980.11.2)
結婚は、私のためではなく、相手のためにするという信条をもたなければなりません。結婚するとき、優秀な人、きれいな人を得ようとするのは誤った考えです。人間は人のために生きるべきだという原則を知ったなら、結婚をする時にも、相手のためにするという観念をもたなければなりません。どんなに醜い人であっても、美人よりも愛そうという信念をもつことが、原則的な結婚観です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-364)
ハナニムの最高傑作品として造られた美しい男性と女性が、ハナニムを中心として愛し合うことができるならば、それは最高の愛であり、超越的な愛であって、この世的な愛ではありません。その愛は、最高の美しい愛であり、愛の中の代表的な愛であり、永遠に輝くことができる愛です。
(26-153, 1969.10.25)


新郎新婦は、お金や権力、名誉を中心として一つになるのではなく、ハナニムの本然の愛を中心として一体にならなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-883)
人間として生まれて相対をハナニムのように愛し、人類のように愛し、この世界の誰よりも愛することができるという観念が立たずしては、天の国に復帰されません。一人の男性として一人の女性を愛せなければ、ハナニムと人類を愛することができないのです。
(98-319, 1978.4.1)
結婚すれば、皆さんは、どこに行かなければなりませんか。ハナニムの愛を迎えるために行かなければなりません。人間がなぜ男性に生まれ、女性に生まれたのでしょうか。愛のためです。なぜ愛ですか。夫婦が一つにならなければならないのですが、なぜ一つにならなければならないのですか。二性性相に分立されたそれ自体が、合性一体化されれば、どのようになりますか。ハナニムの愛を受けるために、ハナニムの愛のために訪ねていく道になるのです。
(144-132, 1986.4.12)

 

ハ) 結婚は天地合徳、宇宙合一の道
結婚とは、何をしようとするものですか。何の発展をするためのものですか。ハナニムの愛を発展させるためのものです。ハナニムの族属ぞくぞくを発展させるためのものです。血統を発展させるためのものです。
(144-80, 1986.4.8)
結婚を、なぜするのでしょうか。天国へ行くために、そして人類のためにです。男性の前にいるその女性は、ハナニムの娘であり、人類の娘であることを男性たちは知らなければなりません。人類が愛する女性として愛することができ、ハナニムが愛する娘として愛することができれば、夫になる資格がありますが、そうでなければ失格です。女性は、その反対です。「あれは私の男だ」と考えるなというのです。「私の男だ」という以前に、ハナニムの息子であり、人類のすべての男性を代表した男性だと考えなさいというのです。人類が愛する以上に愛することができ、ハナニムが愛する以上に愛し得る女性になればいいのです。
それで私が男性として右足になり、女性として左足となって、人類のために生き、ハナニムのための愛の足跡を、家庭を通じて残そうという考えをもって結婚をしなければなりません。右足は夫であり、左足は妻だということは、結婚をしなければ、片足が不自由になるということです。
また右足、左足が完全でなければなりません。どちらか片方だけで、完全でなければ、片足が不自由になります。ですから完全な男性と完全な女性になってこそ、円満な結婚ができるのです。それで私が夫を好むのは、人類を好むことであり、ハナニムを好むことであり、また夫を愛することは、人類を愛することであり、ハナニムを愛することです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-360)
結婚は、厳粛なものです。結婚は、天地が合わさることであり、東と西が合わさることであり、南と北が合わさることであり、上と下が合わさることです。それでは愛というものは、どこへ行くのでしょうか。二人が一つになって、愛はどこへ行くのでしょうか。なぜ愛を探していかなければならないのでしょうか。そうすることによって、そのすべての環境の中心の場に行って立つのです。私の家庭がなければ、この社会では不完全です。信じてくれないのです。それは宇宙存続の原則に不合格であるために、その価値を認めないのです。それは理論的です。
(139-64, 1986.1.26)


男女が合わさることは、天地が合わさることです。
(67-63, 1973.5.20)
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。二人が合わさって調和を成し、平衡線を成さなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-344)
男性と女性が愛し合って抱擁するそれ自体が、宇宙が一体を成す場となります。ハナニムの理想の中で成される創造本然の姿は、そのようなものです。
(22-201, 1969.2.4)
私たちの結婚観は、「宇宙で一番すてきな宇宙シルクの布団を敷いておいて、その中で愛し合う!」と、そのように考えるのです。愛を中心として所有権を私一代で決定する瞬間だというのです。私の当代に所有が決まるのですが、その所有とは、女性の所有が決定されるということです。その女性とは、どんな女性でしょうか。宇宙の半分です。これをつかむ日には、私のおしりに宇宙がついてくるのです。
また、女性は、なぜ結婚をしなければならないのでしょうか。「男性にくっついて半分(180度)と半分が合わさって、二人が宇宙の価値に対等な作用圏をつくるために結婚する!」と、このように考えるとき、統一教会の思想はすてきだというのです。
(113-33, 1981.4.26)
皆さん、香りのない花は好きですか。香りのない花には無関心です。「私は、花になるならば緑色の花になろう」と言いますか。緑色の花を見たことがありますか。私は植物園に行っても、今まで緑色の花は見たことがありません。木の葉のような花は、咲いても咲かなくても意味がないでしょう。それを見れば、天地の道理は実に奥妙おうみょうだというのです。それ一つ見ても、「ハナニムがいる」と言わざるを得ません。葉がみな緑なのに、緑色の花があり得ますか。ただ、縁に近い花が一つあります。それは、唐辛子とうがらしの花ですが、それも細かく注意深く見れば緑ではありません。
中身を見れば、赤などもあります。それは自分を現すためです。現すのは、この世の調和圏に入っていくためです。天地調和の創造法に適用されるためには、自分を現さなければならないということです。私たちの結婚観は、このようにすてきなのです。そういう結婚、私たち統一教会の結婚観がどれほど素晴らしいでしょうか。
(113-33, 1981.4.26)
この世で盛んに行われている自由結婚は、サタンが人々を堕落させて、ハナニムの前に行くことができないようにするためにつくったわななのです。その罠に引っ掛かれば、死んでサタンの支配を受けたり、餌食えじきにならざるを得ません。


今日の西欧社会、特にアメリカは自由結婚が盛んに行われることによって、まことの家庭が成されず、家庭生活に失敗した人たちが日増しに多くなり、遠からず家庭をもたない人が多数を占めるようになるでしょう。そのようになればアメリカ社会は、愛に渇いた社会になり、不信によって不安と恐怖が支配する地獄のような社会になるだろうと、自信をもって確言できます。
このような時点に立っている皆さんには、このような社会風潮を一掃して、アメリカ社会に愛があふれ出る、ハナニムが願う社会を建設しなければならない義務と使命が与えられているということを知らなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-364)
私たち統一教会は、結婚観が違います。結婚というものは根本へ帰るためのものです。
(182-186, 1988.10.23)

 

 

③ 祝福を受けなければならない理由

イ) 堕落によって偽りの父母から生まれた
アダム、エバは、堕落のゆえに血統が変わったというのです。誰の愛によってですか。ハナニムの怨讐おんしゅう姦夫かんぷであるサタンの愛によって、サタンの生命体になったのです。男性の生命体、女性の生命体が、サタンの愛に入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが、息子、娘です。したがって、その息子、娘は、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。
(227-41, 1992.2.10)
聖書的内容を観察してみれば、人類始祖が不倫な愛で愛することによって、悪魔サタンを中心として父子の関係を結んだという事実を否定できません。ハナニムの血筋を受けて、ハナニムの絶対的な愛の中で、ハナニムの直系の息子、娘として生まれなければならない価値的な人間が、悪魔サタンの血統を受け、サタンの息子、娘として生まれたというのです。ローマ人への手紙第8章に「聖神聖霊)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる(養子の)身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(23節)と記録されています。養子は血筋が違うのです。これが、私たち人間の正体なのです。
(53-261, 1972.3.1)
ローマ人への手紙の第8章を見れば、「御霊みたまの最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる(養子の)身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(23節)とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷(しもべ)の霊を受けたのではなく、子たる(養子の)身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(15節)と書いてあります。養子にしかなれないのです。
今、キリスト教徒たちは養子なのです。養子は血筋が違うのです。ヨハネによる福音書の第8章44節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」とイエス様が言われました。ここで「父」と言われたので、血筋が、先祖が悪魔ではありませんか。ですから割礼とは何ですか。陽部を切ることです。このようになっています。善悪の実とは、何が善悪の実ですか。
(154-337, 1964.10.5)


もともとサタンは、どんな存在ですか。悪魔という存在は、どんな存在かといえば、ハナニムの僕です。ところが、この僕が主人の娘を強奪したのです。これが堕落です。聖書に出てくるその堕落とは何かといえば、エバが善悪の実を取って食べたことが堕落だといいますが、善悪の実とは果物ではありません。僕が主人の娘を強奪したことです。
将来、代を継ぐ息子と娘を生み育て、ハナニムの理想を成就しようとしていたのに、僕としてつくった天使長が主人の娘を強奪したことが、人類の堕落の起源となりました。全く、そのようなことがあっていいでしょうか。天地がそのようになったというのです。複雑に絡まった内容ですが、皆さんが「原理」を聞けば、大体分かるでしょう。
(85-308, 1976.3.4)
堕落した結果、どうなったのでしょうか。私たちは、死亡圏内に落ちました。ハナニムが、「善悪の実を取って食べたら必ず死ぬだろう」と言われたみことばのとおり、死亡圏内に落ちてしまいました。堕落した結果、どうなったのでしょうか。ヨハネによる福音書第8章の44節を見れば、悪魔サタンが私たち人類の父になったと、イエス様は指摘しました。ハナニムを父として侍らなければならないアダム、エバが堕落することにより、悪魔サタンを父として侍るようになったという、この恨めしい事実が、堕落の報いであることを知らなければなりません。
(74-140, 1974.11.28)
アダム、エバが確落しなかったならば、ハナニムを中心としたアダム直系の長孫ちょうそん(長子の長子)の子女たちが出てきたでしょう。アダムは長孫であり、まことの父であり、王です。地上の国と天上世界の王です。また真の父母であり、真の長子です。ですからアダム家庭は、天の国の王室です。それでは、アダム家庭のおじいさんは、誰でしょうか。ハナニムがおじいさんです。その次に、お父さん、お母さんはアダム、エバです。
そして過去の立場を身代わりした観点から見れば、おじいさん、おばあさんはハナニムの代わりであり、また、ハナニムは父母の代わりです。縦的に見れば、1代圏、2代圏、3代圏を中心として、ハナニムが家庭に着地するのですが、1代圏が横的に展開したのがおじいさんであり、2代圏が父であり、3代圏が私です。それで息子、娘を中心として万世一系の天的皇室を受け継ぐのです。
(218-255, 1991.8.19)
真の父母権、真の王権、真の長子権、これがアダム、エバが出発しなければならなかった原点です。そこにハナニムの王宮があり、ハナニムの愛があります。そして人間と創造主が一つに連結され、真の愛の基盤になるのです。そこが完成した本然のアダムの家庭基盤であり、ハナニムが永遠に臨在できるハナニムの王宮です。
(218-189, 1991.7.28)
堕落しないで、完成の場まで行ったとするならば、アダム、エバは個人完成だけでなく、宇宙史的な完成をしていたはずです。また、ハナニムの愛を中心とした新たな家庭が出発していたことでしょう。このように家庭から氏族・宗族そうぞく・民族・国家・世界が成されていたならば、ハナニムに侍る一つの大家族社会になっていたでしょう。


このような大家族社会の中心は、ハナニムとアダムです。それでその世界では、ハナニムを中心としたアダム家庭の生活や、一生の路程が歴史的伝統として残されるのです。彼の生き方、風習、慣習、彼の生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは、ハナニムの愛を中心とした伝統でないはずがありません。ハナニムの愛は、生命の根源であり、すべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れることができず、離れたとしてもまた帰ってこざるを得ません。
(91-240, 1977.2.23)
アダム、エバの堕落は、アダム、エバだけの堕落ではなく、全般的な人類歴史を総合した立場での堕落です。言い換えれば、アダム、エバが堕落したというのは、善の父母になることができず、悪の父母になったということです。悪の父母によって悪の子女が生まれ、悪の子女が生まれることによって悪の宗族、悪の国家、悪の世界が形成され、この世界圏内に50億の人類が存続しているのです。このような堕落圏内にある今日の人類歴史は、喜びの歴史ではなく、悲しみの歴史であり、人類も喜びの人類ではなく、悲しみの人類であることは間違いありません。
(38-149, 1971.1.3)
愛を知るようになるとき、すべてのものが通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく、霊眼が開いて、立体的な世界までも分かるので、ハナニムを直接見て、接することができる境地に至るようになります。ところが愛の知覚が発達する前に、堕落してしまいました。天使長と不倫の関係を結んだのです。これが宇宙を破綻はたんさせた根本原因になったのです。
(137-127, 1986.1.1)
このような話を、お金を払って聞くことができますか。自分の家を売り、財産をはたいて、千年、万年祭祀さいしを捧げても教えてくれる人はいません。統一教会ムン先生しかいないのです。これは、宇宙の秘密です。聖書にも、このような内容はないでしょう。聖書では、善悪の実を取って食べて堕落したといいます。善悪の実とは何の果実ですか。そのように幼稚園児にも劣る実力でもって、博士学位を検証し、博士学位の総会長になった文総裁に「異端だ」と言うことができますか。異端というのは、終わり(端)が異なるのではなく、終わりが見えないということです。私の言うことが合っていますか、間違っていますか。合っているのです。
(238-213, 1992.11.22)
私が解き明かした原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起きた、天使長との不倫の事件でした。「統一原理」でいうサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。ハナニムの愛の理想を破壊して、ハナニムの血統をサタンを中心とした血統に変えた元凶です。イエス様もヨハネによる福音書第8章で、人類の父が悪魔であることを、はっきりと語られました。ハナニムがご自身の外的体であるアダム、エバを通じて実現なさろうとしていた愛の理想を剥奪はくだつした愛の姦夫が、まさしく悪魔サタンなのです。


皆さんには耳新しいかもしれませんが、私が霊界を開拓して、宇宙の根本の曲折を究明しようと血と涙のにじむ闘争をした結果、得た結論がこれです。皆さんも真剣に祈祷すれば、解答が得られるでしょう。
(135-12, 1985.8.20)

 

ロ) 怨讐の血統を受けた
堕落人間は、偽物になったので、接ぎ木をしなければなりません。血統的に見れば、皆さんは、先祖が違うというのです。なぜ養子にしかなれなかったのかといえば、お父さん、お母さんが違うからです。ですから統一教会で、愛によって堕落したと主張するのを否定することができません。聖書を見れば、善悪の実を取って食べて堕落したと書かれています。善悪の実とは何か知っていますか。善悪の実は果実ですか。風が吹けば、落ちてごろごろ転げ回る果実でしょうか。違います。
(157-158, 1967.4.2)
アダムとエバの心にサタンが入って、一つになったので、サタンの血統を受け継いだというのです。愛のハナニムが、なぜサタンを許せないのでしょうか。強盗、殺人も許し、みな許すと言ったのに、イエス様を信じるならば許されると言ったのですが、サタンを許してあげることができない理由とは何かといえば、人類の血統を汚したからです。それは何のことですか。ハナニムの立場から見るとき、サタンは姦夫です。愛の姦夫。何のことか分かりますか。
(156-226, 1966.5.25)
サタンを中心として結婚式をしたので、サタンを中心とした愛、サタンを中心とした生命、サタンを中心とした血統を受けなかったと否定することができません。もし善悪の実を取って食べずに堕落しなかったならば、ハナニムを中心として結婚式をしていたでしょう。統一教会の父母様が皆さんを祝福してあげたように、アダム、エバが成熟したあとには、ハナニムが呼んで、祝福してあげたはずです。
(228-254, 1992.7.5)
アダム、エバが善悪の実を取って食べずに完成していたならば、天地を創造した大王の息子、娘になるのです。大王の息子、娘ですから、その直系の長男、長女は何になりますか。正に王子、王女になるのです。天の国を代表した地上の王国を治め得る基盤になります。王権は、二つではありません。一つだというのです。
(231-27, 1992.5.31)
ハナニムの手によって直接造られたひとり子、ひとり娘がアダム、エバです。アダム、エバが堕落したので、問題になったのです。それでは、堕落することによってどうなったのでしょうか。「取って食べるな」と言った善悪の実を取って食べて堕落しましたが、「取って食べるな」と言ったその言葉を実践していたなら、どうなっていたでしょう。キリスト教は、そのことを考えることができませんでした。考えてみても分からないのです。それは蒼々そうそうたる大海なのです。深いか浅いかについて、深さを測ろうとしても、それを測定する方法がありません。分かろうにも分かるすべがないので、無条件に信じなければならないという冠をかぶせたのです。けれども、無知には完成がありません。
(231-21, 1992.5.31)


体を打つというようなことを、なぜするのでしょうか。サタンの血、ハナニムの怨讐おんしゅうの血を受けたからです。ハナニムの怨讐とは誰かといえば、姦夫です。ハナニムの愛の怨讐です。その姦夫の血を受けたのです。
天国の王権を受け継いで王妃になることができたはずのエバが、悪魔の配偶者になり、僕の対(妻)になりました。これは天地の秘密ですが、先生の時代になって初めて暴露されたので、サタン世界は退かなければなりません。
(172-277, 1988.1.24)
無知には完成があり得ません。サタンとは誰ですか。ハナニムの姦夫です。こういう問題を見抜いたのに、これをみな伏せておいて、天国へ行きますか。伏せておいて救いを受けますか。とんでもないことです。でたらめな者たち! そのように信じて救われるのなら、私たちのような人は、とうの昔にみな救われて余りあるというのです。このように苦労しません。
(188-230, 1989.2.26)
悪魔は、なぜハナニムを憎むのですか。ハナニムは、なぜ悪魔を憎むのですか。キリスト教の論理でいえば、キリスト教は「怨讐を愛せよ」と言っているのに、ハナニムは、怨讐であるサタンをどうして愛することができないのでしょうか。愛の怨讐を愛せば、天地がなくなるというのです。治める法がなくなります。存在する法がなくなるのです。
(191-43, 1989.6.24)
サタンが、ハナニムの理想的愛を破壊させ、理想的生命、理想的血統を蹂躙じゅうりんしたのです。そうして子供を生んだのですが、それが人間たちです。サタンの愛の表示、生命の表示、血統の表示であるその息子、娘を、ハナニムは干渉できません。
(197-286, 1990.1.20)
サタンがなぜうんざりするほど、今までの人類歴史において、道義の道を行こうとする人のところに例外なくやって来て、首を押さえて、背中に乗り、犠牲にするというようなことをやってきたのでしょうか。そのサタンとは、ハナニムにとっては、ハナニムの家族を奪っていった、強奪していった姦夫だというのです。お母さんが本来、ハナニムに仕えて平和の王国を成し、平和の天地を成さなければならないのに、お父さんと私たちを追い出したというのです。サタンが入って、今日の人間をこのような姿にしてしまいました。何か他の罪を犯したのではありません。
(156-226, 1966.5.25)
堕落は、血統の否定的動機から始まった事件でした。それで堕落の結果が現在まで、原罪として遺伝してきているのです。血統を転換しなければなりません。なぜ血統を転換するのでしょうか。サタンの血統を受けて継承したので、血統を正さなければなりません。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。
(183-308, 1988.11.7)
サタン圏に属している人たちは、ハナニムの血統とは全く関係がありません。すなわち、善の父母の子女として生まれなければならない人類が、悪の父母との因縁によって生まれました。それで、悪を中心とした家庭、宗族、民族、国家、世界へと拡大されたのです。
(55-133, 1972.5.7)


堕落とはいったい何でしょうか。生命の因縁が切れたということです。アダム、エバがどうなったかといえば、アダム、エバが関係してハナニムと一つになるべきところを、僕と一つになってしまいました。結局、ハナニムの血統を受けなければならないこの人間たちが、僕の血統を受け継いだということです。ですから、堕落した人間たちがどんなにハナニムを父と呼んでも実感がわかないのです。それで自分のお父さん、お母さんがしたのと同じように、サタンの本性を引き継いで、自分を中心としてすべてのものを考えるようになり、天も何も、高いものはみな自分と連結させるのです。
(91-242, 1977.2.23)
堕落することにより、真の父母を失い、真の夫を失い、真の子女を失ってしまいました。失うようになった動機は、エバと天使長によるものでした。こういう観点で見るとき、この地に生きている女性たちは、天使長の父、天使長の夫、天使長の兄に頼って生きているのです。ですから女性たちは、悲惨なのです。裕福な家のお嬢さんが、自分の家の僕と暮らす立場になったのです。すなわち、僕の血統を受け継いで生まれたということです。ですから本来の夫、本来の父、本来の兄の愛を受けられなかった女性たちなのです。
(51-182, 1971.11.21)
悪魔は、何によって堕落させたのでしょうか。善悪の実だというのですか。善悪の実を食べてどこを隠しましたか。口を隠しましたか。手を隠しましたか。下部を隠したでしょう。それが悪をいた種になりました。青少年時代、成熟する前に堕落しました。この歴史的な人間の世の中の血統がそこから広がったので、それが人間の終末時代において盛んになるのです。全世界的に青少年たちが、アダム、エバのように日陰で独自に愛の倫理を破壊し、天地を恐れない時になれば、サタンの全権時代が地上に到来すると思え、ということです。その時は、ハナニムの鉄槌てっついが目前に迫るのです。
(200-227, 1990.2.25)
血統的にこじれたために6000年かかるのであって、そうでなければ、1日でみな復帰できるというのです。血統的に固まってしまったので、能力のあるハナニムが一度にみな抜いてしまえば、死んでしまうのです。それで6000年かかってやってきたのです。善悪の実を取って食べて堕落したというのですか。そうであるなら、どんなにいいでしょうか。
(155-295, 1965.11.1)
罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、こういうものは具体的にどのように生じるのかということが問題です。アダム、エバに戻って考えてみましょう。アダム、エバがなぜ堕落したかという根源を探ってみると、アダム、エバはハナニムが命令した、「善悪の実を取って食べるな」という言葉を不信して堕落しました。
二つ目は、自己中心的だというのです。三つ目は、自己を中心として愛そうとしたことです。これが堕落した中心的骨子の内容であるので、この内容を共に行おうとする者は、サタン側だという結論が出てくるのです。堕落した人たちはみな、不信の愛で、自己中心の愛で愛した人たちです。結局、自己中心の愛を主張するのが、この世界の人たちだと見るのです。
(79-198, 1975.7.27)


堕落が善悪の実を取って食べたことだというのですか。善悪の実とは、女性のそれです。女性は善の夫に出会えば、善の母になり、悪の夫に出会えば、悪の母になるのです。今日、統一教会の文総裁が言うことは、理論的に否定できません。心と体が争う起源は、夫婦の争いの愛によって始まったからです。これを理論的に否定できません。
(267-240, 1995.1.8)

 

ハ) メシヤとしての真の父母が必要
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、ハナニムの愛の接触点へ帰ることです。
ところが人間は、ハナニムとは関係のないサタンの実体をもった存在になってしまいました。これは、ハナニムの愛とは正反対なので、蕩減とうげんされなければなりません。蕩減とは原罪を除去することであり、原罪を除去するには、血統的なことが根本的に存在します。血統的なものは、堕落人間としては到底、解決できないものです。それで、メシヤが必要なのです。
(35-159, 1970.10.13)
アダム一族において、真の父母が生まれることができずに、罪の父母が生まれたので、これを真の父母の役事を通して蕩減復帰し、ハナニムに接ぎ木しようということが、メシヤの思想であり、救世主の思想です。そのようになったのは、人間の堕落のゆえです。
(101-76, 1978.10.28)
メシヤとは誰でしょうか。真の父母です。それでは真の父母が、なぜ必要なのでしょうか。真の父母の愛に再び接ぎ木されなければならないからです。ですからメシヤである真の父母が現れなければ、堕落した人間は原罪を脱ぎ、罪のない解放された立場から完成段階の祝福を受ける場に出ていくことができないのです。
(35-216, 1970.10.19)
堕落した人間が要求する救い主とは、どんな救い主でしょうか。堕落した父母の立場ではなく、堕落していないアダムとエバのような立場でハナニムのみ旨と一体となって、ハナニムの愛を受け、ハナニムの祝福を受けることのできる、真の父母の立場で人類を生んでくれる救い主でなければなりません。そうでなければ、人間は、原罪と関係のない立場に上がることができません。
(22-269, 1969.5.4)
真の父母が必要なのは何ゆえでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないためです。今は、根が違います。堕落により、幹と枝がすべて違います。ここで新たに、根が真の父母から始まり、幹と枝が出て接ぎ木をするのです。切って、接ぎ木するのです。接ぎ木して、それが宇宙の大きな主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。
(164-155, 1987.5.10)


エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることにより、再びひっくり返したのです。偽りの父母が誤ったことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃して、数百、数千億の霊界の先祖たちまで祝福結婚をさせてあげるということが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を基点として、東洋と西洋が互いに連結されます。
(316-244, 2000.2.13)
皆さんは、新しい血統を受け継がなければなりません。受け継ごうとすれば、メシヤが父として来て、サタン世界に勝ち、サタンが干渉できない超世界的な基盤の上で、エバに待って蕩減復帰しなければなりません。そうして、夫婦の因縁を中心とした家庭における息子、娘を立てて、横的に接ぎ木するようなことが行われなければなりません。それで、統一教会で祝福してあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血統がどこから始まったのでしょうか。ハナニムから始まったのです。ですから、いくらでもサタン世界で反対してみなさいというのです。反対していれば、損害賠償を払うようになるのです。
(169-37, 1987.10.4)
真の父母は、血統転換する新しい祝福結婚行事を通じて、全人類をハナニムの真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して、真の人として救い、さらに真の家庭を成して地上天国を建設なさるのです。
(282-224, 1997.3.13)

 

2) 真の父母と重生と血統転換

 

① 真の父母はどんなお方か

イ) 真の父母は原罪のない始祖
まことの父母とは何でしょうか。堕落していなければ、ハナニムは縦的な愛になり、アダム、エバはハナニムの体になります。ハナニムの体のようなものだというのです。ハナニムは骨のようなもので、アダム、エバは体のようなものです。ハナニムも心があり、体があります。ハナニムは内的な立場で内的な父母になり、アダム、エバは外的な立場で外的な父母になります。内的、外的父母が一つになったその場で、愛で結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。ハナニムと人間との愛の結合によって、真の父母、すなわち、完成した人間が成就するはずだったのです。愛と結合しなければ、完成人間がいないというのです。
(184-71, 1988.11.13)
真の父母の立場は、どんな立場でしょうか。アダム、エバがハナニムを中心として完全に一つになり、サタンの讒訴ざんそ圏を抜け出した立場です。サタンが讒訴できる内容を残さずに、完成基準を越えた立場に上がって、初めて真の父母の起源が生じるのです。これが原理的見解から見た真の父母の起源です。しかし、その見解にふさわしい立場は、簡単につかめるものではありません。
(25-30, 1969.9.21)


新しい父母とは、どんな父母でしょうか。昔、エデンの園で堕落したアダム、エバは堕落した父母ですが、これから人類を再び生み変えてくれるその父母は、堕落していない立場で、ハナニムのみ旨と一致した立場で、ハナニムの公認を受けられる本来の父母なのです。堕落しないで、み旨を完成し、ハナニムの愛を中心としてハナニムの懐で理想的な家庭を成し、善の子女を繁殖できる、そのような本来の基準に立ち得る父母なのです。その父母は、堕落とは関係がありません。
(22-269, 1969.5.4)
もともと、アダム、エバが堕落しなかったならば、人類の父母になってハナニムを中心とした世界を成し遂げていたことでしょう。ところが彼らが堕落することにより、サタンが主管する偽りの父母になってしまいました。
したがって、本来、ハナニムの創造理想によって立てようとした真の父母は、いなくなりました。真の人類の先祖がいなくなったということです。
(20-117, 1968.5.1)
真の父母とは、どんな存在でしょうか。真の父母は、全体の希望の象徴です。堕落した人類の前に絶対的な希望の象徴なのです。彼は、歴史的な結実体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界へ連結し得る未来線上における出発点です。
(35-236, 1970.10.19)
참부모チャムプモ(真の父母)」というその名前の3文字(韓国語で)を考えるとき、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界へ戻れる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させられる内的な因縁が決まり、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めてハナニムの解怨かいおんを成就し得る中心が決定されるのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動できるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。
(43-144, 1971.4.29)
人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が真の父母です。歴史をみな失い、時代をみな失い、自らの子孫をみな失ってしまうようなことがあっても、真の父母に出会うならば、歴史を見つけることであり、時代を見つけることであり、未来を見つけることになるのです。このような方が、正に真の父母だということを皆さんは知らなければなりません。
(35-236, 1970.10.19)
メシヤがこの地上に来られるとき、その方は、個人として来られても個人ではありません。その方の価値は、全世界の人類が信じている信仰の結実体であり、全世界の人類が願っている希望の結実体であり、全世界が願っている愛の結実体です。その結実体には、すべての歴史路程が連結されています。すなわち、過去、現在、未来がみな連結されています。そして個人から家庭、宗族、民族、国家、世界がすべて連結されていて、天と地がすべて連結されているのです。
(13-143, 1964.1.1)


エス様は、人類の父母の位置に立たなければならない使命をもって来られましたが、そのみ旨を成就できずに亡くなりました。
したがって再臨時代には、そのような立場を蕩減とうげん復帰して勝利しなければ、その理想の世界へ上がれないのです。その仕事を、これまでやってきたのが統一教会です。
(55-143, 1972.5.7)
真の父母は、完成したアダムとして、アダムが失敗した第一の父母の基準を復帰しなければなりません。また、第二アダムとして来られたイエス様が、失敗した父母の基準を完成させなければなりません。
再臨時代において先生が苦労の伝統を立てざるを得なかったのは、イエス様が霊的基台しか立てられず、霊肉ともの世界的な基台を立てることができなかったからです。
(55-173, 1972.5.7)
私たちが知っている真の父母とは何でしょうか。人間の先祖です。人間の先祖なのです。ですから、真の父母を自分の父母のように侍らなければなりません。
(118-147, 1982.5.23)
人類には、真の父母が必要なのです。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結し得る原則的なことが、歴史始まって以来、初めて起こったのです。歴史始まって以来、前にもなく、あとにもありません。はっきり知らなければなりません。軸は一つです。絶対に二つではありません。その軸とは、正に真の愛です。
(137-108, 1985.12.24)
歴史始まって以来、ハナニムの名によって人類の男性を代表して勝利した人がいませんでした。これまで先生は、そういう勝利の基準を立てるために闘ってきました。
統一教会と先生は、苦労をしなくてもいいのですが、こういう原則を知っているために、苦労せざるを得ないのです。
(91-257, 1977.2.23)
人類が願うものとは何でしょうか。真の父母に侍ることです。6000年前にアダム、エバが成婚して全人類がハナニムの子孫にならなければならなかったにもかかわらず、堕落することにより、人間たちはサタンの子孫になってしまいました。したがって私たちは、6000年前に失った天の側の真の父母を再びこの地上に探し立て、真の父母の愛の因縁を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天国の国民になれるというのです。
(19-203, 1968.1.7)
真の父母とは何でしょうか。肉身の父母は、真の父母と何が違いますか。真の父母とは何ですか。何をするのが真の父母ですか。愛を中心として話すとき、その肉身の父母と真の父母とでは何が違いますか。何が違うかといえば、愛に対する概念が違います。正に愛の概念が違うということです。


肉的父母は肉身を中心とした愛を教えてくださるのであり、霊的父母は霊的な世界を中心とした愛を教えてくださるのです。内容が違うということです。
(129-99, 1983.10.1)

 

ロ) 真の愛によって人類を生んでくださる
皆さんは、真の父母と関係ない立場で、天の前から追い出された偽りの父母の血統を受けて生まれたので、この血統から抜け出すためには、血統を否定し、否定して抜き取らなければなりません。そうして、血統を根本的に変えずしては、天の国に行けないのです。
(22-271, 1969.5.4)
真の父母は、何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根の間違った血統を正さなければならず、間違った生命を元に戻さなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。
(169-37, 1987.10.4)
血統的転換を成すためには、アダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入っていき、将来の赤ちゃんとなるその種にハナニムの愛と結束した勝利的条件を充足させなければ、ハナニムの子女として生まれることができません。これは、理論的に間違いないというのです。聖書に、そのようにしてきた記録があるでしょうか。あるとするならば、聖書はハナニムのみことばだということです。
(35-163, 1970.10.13)
堕落した人間が要求する救い主とは、どんな救い主でしょうか。堕落した父母の立場ではなく、堕落していないアダム、エバのような立場でハナニムのみ旨と一体となってハナニムの愛を受け、ハナニムの祝福を受ける真の父母の立場で、人類を生んでくれる救い主でなければなりません。そうでなければ、人間は原罪と関係のない立場に上がれないのです。
(22-269, 1969.5.4)
真の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情圏を中心として、その根を下ろさなければならないからです。今は、根が違います。堕落によって幹と枝がすべて違います。ここで新しくこの根が真の父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。幹と枝が出てきて、接ぎ木するのです。切り取って、接ぎ木します。接ぎ木して、それが宇宙の大きな主流になるのです。サタン世界の、すべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。
(164-155, 1987.5.10)
今日、万民が願うこととは何でしょうか。世界国家を迎える前に、真の父母を迎えようということです。また、未来の子孫たちは、誰から出発したいのでしょうか。皆さんの息子、娘は、皆さんの血統を通じて生まれたいのではありません。真の父母の血統を通じて生まれたいのです。ですから真の父母は、新たな未来の出発点になるということです。
(35-237, 1970.10.19)
真の父母は、何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、間違った愛の道を正さなければなりません。聖書に、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。正にサタン世界は、死ななければならないからです。
(169-39, 1987.10.4)


真の父母と真の父母の子供というのは、永遠不滅の宿命的なわざ(関係)です。これは誰も分けられないのです。千年、万年、その道を行かなければなりません。行く道は、二つの道ではなく一つです。他の方法はありません。秘法がないのです。その道を行かなければならないのです。
(203-192, 1990.6.24)
エデンの園で結婚を誤ったことが堕落なので、今、真の父母が正しく結婚させてあげることにより、再びひっくり返したのです。偽りの父母が誤ったことを真の父母が清算することにより、地獄を撤廃して、数百、数千億の霊界の先祖まで祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。真の愛を中心とした地上の子孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋が互いに連結されます。
(316-244, 2000.2.23)
養子は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の息子から接ぎ木を受けなければなりません。野生のオリーブの木を切り捨てて、真のオリーブの木の芽を接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木が真のオリーブの木になる運動をしなければならないのです。重生するためには、真の父母の血統を受け継がなければなりません。それで人類が願うのは真の父母であり、イエス聖神聖霊)が願うのは「小羊の婚宴」です。
(19-164, 1968.1.1)
まずは、父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の願いの一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として、父母に侍らずしては、救いを受けられません。皆さんは、そのように侍ってみましたか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。ですから、「私は、真の父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるほどに固くもたなければなりません。そうでなくてはならないのです。
(30-238, 1970.3.23)
皆さんは、買ってきた人たちです。人類を与え、天宙を与えて、買ってきた人たちです。ゆえにハナニムは、皆さんをおいて天地を審判したいと思われるのです。ハナニムは、サタン世界の奴隷の立場にある皆さんを買い、ハナニムの息子、娘として立てました。ゆえに皆さんは、福を受けた栄光の子女たちです。ですから全世界で皆さんを「くれ」と言うとき、与え得る皆さんにならなければなりません。サタンにまでも与え得る皆さんにならなければなりません。皆さんは、先生の血と汗の代価で買ってきた人たちです。先生の体を与えて、買ってきた人たちです。したがって、皆さんも先生のような仕事をしなければなりません。先生は、食口シックたちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。
(11-164, 1961.7.20)


 

② 重生摂理の核心

イ) 生まれ変わるということの真の意味
再び生まれなければならないというのは、堕落したアダム、エバの子孫の父母の血肉を通じて、もう一度生まれなければならないということではなく、堕落と関係のない父母の血肉を通じて再び生まれなければならないということです。そうでなければ、ハナニムに帰ることができないのです。罪の根本の根はアダム、エバから始まったがゆえに、これを踏んで越え、すなわち原罪と縁がない立場で生まれたという資格を備えなければ、ハナニムのそばに絶対に帰ることができないのです。
(22-269, 1969.5.4)
ハナニムが私たち人類を救おうとする目的は、どこにあるのでしょうか。堕落圏以下では、どんなに救おうとしてみたところで、救援ができないのです。それでハナニムは、堕落していないアダム、エバ以上のまことの父母をこの地上に再び送り、その父母を通じて人類が再び生まれる路程をたどらせ、永遠にサタンとの関係をなくさせ、讒訴ざんそしようにも讒訴できないようにされ、ハナニムだけが主管し、ハナニムだけが干渉できるようになさるというのです。そのような立場で人類が再び生まれなければ、原罪をもった人間が原罪のない立場に戻ることはできないのです。
(22-269, 1969.5.4)
真の父母が真のオリーブの木ならば、皆さんはみな、接ぎ木されなければならない野生のオリーブの木です。わきの芽であり、わきの枝です。これは、新しい枝が出てこそ、正常な生態作用をすると見ることができます。人類は、信頼と愛と実体を失ってどうなってしまったのでしょうか。血統的に逆になってしまいました。それで、ひっくり返さなければなりません。すなわち、ニコデモがイエス様に、「天国に入るには、どうしなければなりませんか」と尋ねると、「生まれ変わらなければ、天国に入れない」という最も重要で、事実的な内容を明らかにしたのです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-509)
生まれ変わるというのは、心が改変されなければならないということです。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-509)
ニコデモがイエス様に、「どうしたら救いを受けることができますか」と尋ねると、「生まれ変わら(重生し)なければならない」と言われたのです。それは、サタンの子として生まれたので、救いを受けるには、ハナニムの御霊みたまを受けて、再び生まれなければならないということです。今までサタンと結んできたすべての関係を清算して、ハナニムと創造本然の関係を結ばなければならないという言葉です。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-509)
ハナニムの摂理で信仰を立てたとしても、ハナニムの子供に復帰されるためには、接ぎ木されなければなりません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-509)
生まれ変わるには、アダム、エバより劣っていてはできないし、またアダム、エバより劣っていては根本復帰もできません。生まれ変わるにも個人が生まれ変わらなければならず、家庭、民族、国家、世界が生まれ変わらなければなりません。この事実を、今日のキリスト教徒たちは知らずにいます。
(58-42, 1972.6.6)


今日、キリスト教を信じる人たちの中には、「再び来られる主は、雲に乗って来られる」と信じる人々もいます。何も知らない中でも、信じれば救われるという考え方では、真の信仰をすることができません。そのように簡単に救いを受けられるならば、統一教会は、この世に必要な宗教ではありません。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-509)
野生のオリーブの木に真のオリーブの木を接ぎ木するときは、枝を切ってそこにつけるのではなく、木の下のほうを切って根だけ残しておいて、その上につけるということです。この話は、既成教会が再び来られる主によって、既存の体制や制度、またはすべての儀式を変えて、新しく出発するようになるということを意味します。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-510)
彼らが信仰生活を通じて結んだ実は野生のオリーブの木の実なので、真のオリーブの木の実を結ぶためには、大木を切り取り、芽接ぎをしなければならないのです。もし接ぎ木することができなければ、根まで引き抜いて燃やしてしまわなければなりません。そのまま置いておけば、野生のオリーブの木の実が畑に蒔かれ、数多くの野生のオリーブの木をつくり出すからです。
野生のオリーブの木を切るのは、新しい真のオリーブの木の芽を接ぎ木するためです。問題は真のオリーブの木の芽や野生のオリーブの木の芽が、外から見ると全く同じなので、いさかいが起こるようになっているということです。特に再臨主が来られる時には、多くの偽キリストが現れるので、真実を見つめる価値観と目が混乱を起こしかねないのです。それで、「絶えず目をさまして祈っていなさい」と言ったのです。
野生のオリーブの木の下のほうを切り、真のオリーブの木を接ぎ木することによって、野生のオリーブの木はみななくなり、真のオリーブの木の畑になるはずです。このような作業をレバレンド・ムーンがしようとするので、大騒ぎなのです。彼らは、自らの体が切られる痛みを恐れて、「いかさま庭師ではないか」と思うからです。摂理歴史の春とともに、野生のオリーブの木に接ぎ木をする作業が始まりました。
(祝福家庭と理想天国 Ⅰ-510)

 

ロ) 重生しようとすれば
新郎のイエス様の愛と新婦の聖神聖霊)の愛が一体となったその愛が、私の骨肉と一つにならなければなりません。すなわち、「私があなた方の中にあり、あなた方が私の中にあって」というイエス様のみことばのように、愛の心情基盤が成される前には、キリスト教でいう重生はあり得ないということです。
(114-27, 1981.5.14)
皆さんは、重生されなければならないといいますが、重生されるには、イエス様を誰よりも愛さなければなりません。堕落圏内で、すなわちサタンの愛圏内でなされるそのいかなる愛よりも、ハナニムを中心としてなされる愛が、より次元が高くない限り、ハナニムと連結できる道がないことを知るべきです。


これが受難の道であり、宗教人たちが行くべき険しい道だというのです。キリスト教徒たちもイエス様を日ごとに思慕しぼしていて、イエス様が再臨されることを首を長くして待っていて、無心になり、「新郎イエス様、おいでください」と2000年間、叫んできませんでしたか。しかし、体がばらばらになり、胸が裂け、骨髄が溶ける立場、体の中にあるのか体の外にあるのか分からない境地、ただハナニムやイエス様とのみ通じる境地に入るとき、初めて聖神聖霊)が臨むのです。
聖神聖霊)が臨むことにより、霊的な赤ん坊として再生できる霊的重生の役事が起こるというのです。皆さん、そのような体験がありますか。そのような体験がない限り、まだサタン世界の息子、娘だということです。まだ、サタンの讒訴を受けざるを得ない人だということを皆さんは知らなければなりません。そのような人は、天国に行くことはできません。地獄に行かなければならないのです。
(114-27, 1981.5.14)
エス様はニコデモに対して、「あなたが生まれ変わらなければ、天国に入ることができない」と言われました。今まで生きてきた私は、いずれにせよ歴史的に否定されなければなりません。どんなに「良くやった」と弁解し、自ら立てた何かがあるとしても、私自体は、否定されなければなりません。堕落人間であるがゆえに、そのような圏内を抜け出すことができないのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべきしかばねの人生であったというのです。
(6-278, 1959.6.7)
血統を転換するのはメシヤがするかもしれませんが、転換できるように行動するのは自分自身でなければなりません。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至ることができません。それは決して容易に成されるものではなく、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。40日断食祈祷であるとか、血を吐く死の境地に行ってこそ、血統転換が可能です。
(35-160, 1970.10.13)
世界の万民は、真の母が現れる前に生まれたので、意味もなく生まれたことになります。それでイエス様と接ぎ木した立場でイエス様の腹の中に入っていって、イエス様が夫婦になったとき、聖神聖霊)を通じて再び生まれなければなりません。偽りの愛によって生まれたので、真の愛を通じて再び生まれなければならないということです。キリスト教で愛を強調する理由も、そこにあるというのです。
(17-192, 1966.12.18)
エス様と一体になるには、愛以外にはありません。真理でも正義でもありません。生命があるのに先立って、愛が必要です。愛は、歴史も跳び越えることができ、距離や空間の支配を受けないというのです。
(35-164, 1970.10.13)

 

 

③ 真の父母の中心思想は血統転換

血統的転換は誰がするのでしょうか。それは誰でもできることではありません。先生がこのことをするために、涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。こういう基準があるので、皆さんは何の功労もなく祝福という新しい伝統を受け継ぐようになりました。転換の勝利圏を立てるには、数千年に及ぶハナニムの労苦と、実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これを土台として立った所が、正に皆さんが立っている所です。祝福を受けるというのは、悪の血統を断ち切って、新たに接ぎ木することです。接ぎ木することにより、血統が変わるのです。
(35-178, 1970.10.13)