八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 6-2

八大教材教本 天聖経(2012年版)p1572-1607

【天啓の御言】(6-2)

 


創造は、投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入しなくては、いかなるものも生まれません。完全な投入をするところから完全な対象が成立するという原則をおいて見る時、ハナニムは主体として、対象を造るために完全に投入されました。ハナニムご自身が、自分自身のためにではなく、対象のために生きるといって運動を始めたのが創造です。
(78-111, 1975.5.6)
創造するということは、力の投入をいうのです。投入をしたのですが、どれほど投入したのでしょうか。ハナニムがみことばによって造られる時、「このようになれ、あのようになれ」といたずらのように創造したかのように理解しています。しかし、そうではありません。ここには、真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。
それゆえに、創造する前と創造したあとが違います。創造する前には自分のことを考えましたが、創造を始めてからは対象のために生きました。私がいるのは自分のためではなく、相対のためだ、息子、娘のためだ、このようになっています。
(69-81, 1973.10.20)
ハナニムが人間を創造される時、自分よりも立派な愛の相対を造ろうとされたので、ハナニムのすべての要素、見えない無形の要素を100パーセント実体化させるために投入しても、もっと投入しようとされたのです。そのことが意味するのは、投入して忘れてしまうことができるその場においてのみ、真の愛の起源を発見することができるということです。簡単な内容です。正にこれが、宇宙の根本原理です。
(203-197, 1990.6.26)
愛を占領しようとするなら、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。なぜ、そのような愛をもたなければならないのですか。愛は、動けば動くほど小さくなるのではなく、大きくなっていくものだからです。力学世界での自然現象は、動けば動くほど、作用すれば作用するほど小さくなるでしょう? 自然世界は、動けば動くほど小さくなるのですが、真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。ハナニムがそれを御存じだったので、真の愛を中心として創造を始めることができたのです。
(237-127, 1992.11.13)
宇宙は、どのように出発したのですか。ハナニムをおいて見る時、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくって何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもてば、いくら消耗しても良いというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心としてハナニムが創造を始められたのです。ハナニムが損することをされたのではありません。投入することは損害ですが、なぜハナニムがそのようにされたのでしょうか。愛にはすべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を取り戻してくるのです。


真の愛は、投入するほどますます小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていきます。そうではなく、真の愛が小さくなるという原理ならば、ハナニム自体が投入して消耗してしまうのです。反対になります。真の愛は、投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。
(237-124, 1992.11.13)
愛には創造能力があるので疲れません。愛の心をもてば、いくら投入しても、消耗したエネルギー以上に、いつも補充し得る愛の力があるので疲れないのです。それで、難しくて苦痛でも、嫌ではないのです。それが嫌ならば行くことができません。愛ゆえに生きる道には、「嫌だ」という心を永遠にもつことはできません。真の愛ゆえに生きる道には、永遠に「嫌だ」という心はあり得ないというのです。ハナニムの本質には、怨讐おんしゅうの概念がありません。悪の概念がないのです。それは、真の愛の中にいらっしゃるからです。
(237-130, 1992.11.13)
ハナニムの創造理想を中心として、投入、投入、投入しなければなりません。投入をすれば、巡り巡るのです。空気を例に挙げて、絶対低気圧と高気圧があるならば、その中間の気圧が生じます。誰が呼ばなくても天が降りてくるのです。それゆえに、100パーセント以上、投入したいと思う人は、常に天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうです。完全に投入して忘れてしまうところには永遠の運動が連結するので、その基準において永生の論理が出てくるようになるのです。
永生、永遠の生命、そうでなければ、統一原則をどこから引き出すことができますか。「ため」に生きるようになればぐるぐる回るでしょう? ぐるぐる回って、どこに行きますか。どんどん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。くるくる回って広がれば下がっていきますが、徐々にすーっと上がっていくために、ハナニムは、自動的にアダムとエバの肩の上に両足を載せざるを得ないのです。
(205-95, 1990.7.7)
なぜ、ハナニムがいらっしゃるのでしょうか。何のためにいようとされるのですか。愛のためにいようとされるのです。それで、愛の相対が必要なのです。そのようにして全知全能のハナニムは、愛の相対を創造しなければならなかったのです。
創造の本質的理想が愛を中心として創造を始めたということを、これまで私たちは、全く知らなかったというのです。愛ゆえに、すべての被造世界が創造されたというのです。
(208-235, 1990.11.20)
ハナニムの願いは、真に与えることができる世界的な踏み台をもつことです。ハナニムは、与えることにおいても誰も讒訴ざんそし得ず、受けることにおいても誰も条件を提示し得ない、自由で平和で幸福な場を願われます。そのような場を世界的に広めて、万民がそこで暮らせるようにすることがハナニムの収めようとする所期の目的です。
(13-249, 1964.4.12)
愛が先ですか、生命が先ですか。愛が先です。地球がハナニムの生命から出てきたからといって、生命が一番だとはいえません。愛が一番だというのです。ハナニムが天地創造を生命からしたとしても、その生命の発源地、動機は、愛です。生命が生まれたのは、愛のためです。
(86-79, 1976.3.7)


世界の一番になるものは何ですか。ハナニムが一番です。その位置に上がっていくのです。上がっていって何をしようというのですか。ハナニムの愛を中心として、宇宙を自分のものにしようというのです。そうです、皆さんも全員、欲心があるでしょう? その欲心、欲望のすべてを完成するには、お金をもって、自分の知識、自分の権力をもってはできません。唯一、愛です。これが統一教会の「原理」の真髄であり、人生哲学の根本です。今までこれを知りませんでした。簡単な内容です。
(144-132, 1986.4.12)

 

2) 宇宙は主体と対象でできている

 

① ペア・システムが宇宙存在の原則

万物は、鉱物世界でも植物世界でも、愛を基台として、愛の主体と対象関係の因縁を通じて理想的分母をもって生まれました。万物は、結果の存在なのです。そして、結果の存在は、原因的内容なくしては生まれることができません。それで、私たちは、その原因的存在をハナニムといいます。それで、ハナニムを中心とした愛の圏内で、東西南北、上下、前後、左右を問わず、いつも和合して和動するために、すべての鉱物世界もペア・システム、主体と対象の関係にあるのです。このようにペア・システムで構成されているというのです。鉱物世界も動物世界も植物世界も人間世界も、同じです。
(173-35, 1988.2.1)
創造をするにおいては、人間を中心に、人間をモデルにしました。天地万物は、東西南北、四方に広げて橋を架けてつくったのです。それで、すべての万物、鉱物、植物、動物界、すべてが相対になっています。すべて相対につくったというのです。
そのように縦的な道と横的な道をペアでつづりながら行くのです。ジグザグに行くもの、このように運動するもの、様々な形態の作用を経ながら、ペア・システムを中心とした万物は、理想的愛を訪ねていく人間の教材です。
(173-211, 1988.2.18)
すべての被造物は、主体と対象のペア・システムになっています。なぜ、そのようになっているのでしょうか。すべての被造物、存在世界は、それ自体の愛を絶対視する立場に立っているために、それを中心として授け受けして一つになるために、主体と対象関係、ペア・システムになっているのです。そのようになっていないものがありません。すべて愛ゆえに生まれたのです。
(209-89, 1990.11.27)
宇宙には主体と対象の関係が必ず必要であり、存在するすべてのものは主体と対象の因縁に従って存在するようになっているので、この宇宙は、ペア・システムのコンセプトを中心として造られました。そのように生まれたのは、愛を中心として、愛を必要とするためにそのように生まれたという結論を下すことができるというのです。鉱物も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが授け受けします。植物世界も必ず雌しべと雄しべを中心として、動物も雌と雄を中心として、すべて存在するのです。
(207-9, 1990.10.21)


鉱物世界も陽イオンと陰イオン、すべて相対になっています。107個にもなる元素も、どこにでも行ってくっつくわけではありません。実験室でいくら強制して付けても駄目です。しかし、自らの相対になると、一つになれないように無理にいろいろしても、ハナニムが止めても、ぴたっとくっつきます。それは知っているでしょう? すべてペア・システムになっています。鉱物もそうで、動物も植物もそうです。すべてペア・システムになっています。すべて陰陽の道理に通じています。
(203-295, 1990.6.27)
この世の中のすべての存在は、ペア・システムになっているというのです。ペア・システムになっているために、鉱物世界、植物世界、動物世界を問わず、彼らが連合するためには、必ず主体と対象が愛という概念を中心として連結するようになっているというのです。
(189-190, 1989.4.6)
愛をもってする時は、通じないところがないのです。それゆえに、この宇宙はペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムです。植物もペアでしょう。動物もペアです。何を中心としてですか。レベルは違いますが、垂直の愛を中心として、次元は違いますが、この大宇宙に愛を中心として、どのような空間でもすべてそうだというのです。平衡線上の位置に自分の存在を決定し、宇宙空間に浮いているのです。これらはすべて、愛ゆえにそのように生まれたのです。
(198-304, 1990.2.5)
すべての被造世界は、ペアの組織体制で連結しています。鉱物世界もそうです。すべてのものがプラス・マイナス作用をするのです。重力をもった地球ぼし上でも、強い引力関係をもっている磁石は、その引力が地球の重力よりも強いために作用が表面上に現れるだけであって、磁石以外のすべての要素もプラス・マイナス作用をするのです。意識化の運動も電流を通したプラス・マイナス作用を通して展開するのです。ペア・システムの中心にあるものとは何ですか。その中央には、自分なりに二つを連結させて保護し得る中心軸があるのですが、その軸が、正に愛の軸です。
ですから、鉱物世界の元素も相対基準になるもの同士では自ら一つになりますが、相反した元素同士では、いくらハナニムが命令して、またどのような実験室の主人が命令して、いくら千年精魂を込めても、一つにはなれないのです。
(197-164, 1990.1.13)
宇宙は、愛を離れては生きることができないようになっています。ペア・システムになっているのです。昆虫たちも、雄と雌がいるでしょう? ある時は、庭のような所に行って土を一度掘ってみます。多くの虫がいます。見えない多くの虫がいるのですが、それにも雄と雌がいます。それらも子を産み、乳を飲ませます。それらも話をするというのです。話を感じ取ったり、雄と雌がこのように喜んだりしていますが、どのような力でそのような調和を起こすのですか。昆虫世界にも愛があるでしょう? 雄が雌に従っていき、雌は絶対に雄についていきます。
(191-220, 1989.6.25)


鉱物世界もペアになっています。陽イオンと陰イオンを中心として作用するのです。それゆえに、まことの愛を中心として、このつまみさえぱっと引き抜けば、ハナニムも引っ張られ、真の父母からすべての世界人類までが、すべて神経の筋にぶら下がって引っ張られてくるのです。すべてが、ペア・システムになっています。レベルは低いのですが、愛の天理に従って生きるのです。
(203-244, 1990.6.26)
ハナニムから造られたすべてのものは、ペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムであり、レベルは低いのですが陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史始まって以来、初めて発表するのです。
ハナニムご自身も真の愛を絶対視し、それに絶対服従して生きるというその起源を発表したのは、歴史上、レバレンド・ムーンが初めてです。それは観念ではなく事実です。ですから、ハナニムは、真の愛を探し出すために創造されたのです。
(203-103, 1990.6.17)
小さな虫も、それなりの愛を中心として、この宇宙のペア・システムという創造理想圏内で、同じ位置、同じ要素をもっていることを誇るのです。あなたは大きくて私は小さいけれど、二つが一つになって、分けてあげることさえできれば、億千万世たっても私を分けてあげられると誇っているというのです。人と違うのです。元素世界が一つになる時は、プラス・マイナスが自分の相対についていって一つになるのです。ところが、人間の取るに足らなさときたら何ですか。ですから、本質に一致できていないのです。これは事故です。
(209-189, 1990.11.29)
世上万事を見ると、すべてペア・システムになっているというのです。それを抱えて生きています。ハナニムが御覧になる時、「やあ! あなたも私に似ているなあ。あなたも一人では寂しいだろう」、そのようにおっしゃるのです。それで、この宇宙は、レベルは低いのですが、すべて理想的ペア・システムによって展開した、充満した自然博物館だというのです。自然博物館であると同時に、愛の博物館です。どうですか。過ぎゆく道端の松やそのポプラの木を、いつも見ているように何となく見たでしょう? これを見つめる時、「あなたも私のように、主体と対象が授け受けできる愛の相対的な因縁をもって生きているのだなあ! あなたと私を比較する時、今日、私は一人で生きていて、このように堕落した生活をしているので、あなたに恥ずかしい」と言うことができなければなりません。
そのような世界に至るようになれば、落伍らくごした人間でも価値がいくらでもあるというのです。それを見て尊敬できる人間になれば、世界がどれほど美化されるでしょうか。見る世界がどれほど美しいでしょうか。ハナニムが愛の心をもっていらっしゃるので、そのように造らざるを得ないのです。それゆえに、存在世界は、ペア・システムになっているというのです。
(209-189, 1990.11.29)


この宇宙は、すべてペア・システムでできています。鉱物世界においてもプラスイオン、マイナスイオンになっています。元素が違うものは、いくら科学者が研究し、何をしても一つになりません。しかし、自分と相対性をなすようになれば、いくら離しておこうとしても一つになるのです。ペア・システムになっているのですが、そのペア・システムの中心は何でしょうか。愛です。植物も、すべて男性と女性のような性稟せいひんを中心として和合し、種を結ぶようになります。このようにして本然へ帰るのです。二つが一つになってこそ本然へ帰るのです。分かれたものだからです。それで、正分合です。
(198-112, 1990.1.25)
皆さんが環境圏をつくらなければなりません。ハナニムも環境圏として太陽、地球、空気、水を造られたのです。環境圏には、いつも主体と対象があります。それが公式です。すべての被造万物は、ペア・システムになっているのです。鉱物世界もそうであり、動物世界もそうであり、人間世界もそうです。なぜ主体と対象になっているのですか。真の愛の完成のためです。主体なくしては、愛を中心として完成できません。公式です。そのように完成した先祖が、今までは、この地球上にいなかったのです。
(293-225, 1998.5.26)
雄と雌が一つになってこそ、すべての天地の調和をつくり出すことができるのです。雄と雌が一つにならなくては天地の調和が成せず、ペア・システムになっている宇宙世界に和動することができないのです。そこでは除去されてしまうのです。
(226-15, 1992.2.1)
一人では存在できません。一人で存在する道理はないのです。それゆえに、すべての存在世界はペアで存在するというのです。なぜペア・システムになっているのでしょうか。愛のためです。どのような愛のためですか。本然のハナニムが喜べる本然の愛、真の愛のために、存続するのです。
(248-284, 1993.10.3)
万物は、一人でいるものがありません。万物は、必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているというのです。これを、今日の人間たちは知りません。相対で宇宙を創造したところには、絶対信仰観が出てくるのです。ペア・システムが生まれたのは、愛のゆえだというのです。
(298-11, 1998.12.31)
この世の中をよく見てみると、ペア・システムになっているでしょう。環境圏内には、必ずペアがいます。そのペアの、主体と対象は、バランスをとっているのです。東西南北に滑ってしまうというのです。バランスがぴたっと合うようになれば、愛を追求し得るバランス基準さえできれば、世界のすべてのものが平衡となり、ぴたっと平面になるのです。宇宙に水平の氷の面が生じるのと同じです。ぴたっと一つになる時には、水平の氷の面が角張らずに丸い形態になるのです。その端は、自然にぐるぐると回りますが、妨害となる作用の形態をもたないのです。循環するにあたって、それが、遠心力作用を100パーセント加重できる円形に似て、一つになるようになっているのです。
(144-213, 1986.4.24)


ペア・システムは主体と対象の概念ですが、この主体と対象は、いったい何をするのですか。これがあるのは愛のゆえです。愛の概念があって主体と対象があり、主体と対象があって作用し、作用があって力が出てくるのです。今日の科学者は、これしか見ることができませんでした。それゆえに、このような理論をすべて整理しておかなければなりません。「ああ! このようになって作用があり、作用がある前に主体と対象が、主体と対象がある前に愛がなければならない」、これを反対に話すと、力が存在するためには作用が必要であり、作用するためには主体と対象がなければならず、主体と対象には愛がなければならないというのです。
(247-119, 1993.5.1)
環境には、必ず主体と対象があるようになっています。したがって、ハナニムが造られたすべての世界は、ペア・システムになっています。簡単な内容です。鉱物世界も相対になっていて、植物世界も相対になっていて、動物世界も相対になっていて、人間世界も相対になっていますが、その相対とは何ですか。男性と女性です。
(251-120, 1993.10.17)
力よりも作用が先です。作用は、一人ではできないのです。必ず主体と対象がなければなりません。この宇宙は、ペア・システムの原則、公式に立っています。ペア・システムになっているというのです。結論がそうです。世界がどれほど簡単か見てください。鉱物世界も相対でできています。すべて、そのようになっています。植物もペア・システム、動物もペア・システム、人間もペア・システムになっています。ハナニムも二性性相です。それは、永遠の真理であり、公式です。
(299-154, 1999.2.10)
すべての創造物は、ペア・システムになっています。それで、それを管理して、見て、聞いて、話すことができる五官も、すべて相対になっています。それらを感知することができるようになっているのです。相対をもてないものは、この宇宙創造世界から追放されてなくなるのです。
(279-41, 1996.6.9)
すべてのものは、主体と対象、ペア・システムになっています。完全なものが相対なので、そこに従っていかなければなりません。心と体のうちで、どちらがより良心的で、より善に近いでしょうか。体よりも心が善の面に立っているので、心に絶対に従っていけば天国であり、体に従っていけば破壊、なくなる存在、地獄、破滅だというのです。
(303-33, 1999.7.4)

 

② 主体と対象は愛の関係

この宇宙が、なぜ生まれたかということが問題です。これは、宗教世界や、すべての学問世界、あるいは哲学世界の根本問題なのです。宇宙の中心は人間ですが、人間がなぜ生まれたのかという問題さえも、みな分からずにいます。また、人間を中心として、横的に鉱物世界、植物世界、動物世界の3段階に連結されたすべてのものが、ペア・システムになっています。なぜ、ペア・システムになっているのか、今までは漠然としていましたが、そのすべてのものは、愛ゆえに始まったのです。
(253-219, 1994.1.30)


宇宙の根本は何かといえば、すべて愛ゆえに生まれたので、愛を求めるためには、愛をなすためには、雄と雌がいなければならない、このようになるのです。動物では雄と雌ですが、植物では何ですか。雄しべと雌しべです。鉱物世界では、分子をおいて見ればプラスイオンとマイナスイオンです。それが雄と雌です。すべてが雄と雌なのです。
(273-91, 1995.10.22)
作用しようとするなら、どのようにしなければなりませんか。作用は、一人のままではできないのです。プラスとプラスが会ってはできないのです。必ず、プラスとマイナスの相対的関係においてのみ作用が成立するのです。宇宙の現象の根本は、力によるものというよりも、ある作用が始まって調和の世界へ拡大していくものですが、作用の形成はプラスだけではできないのです。プラスとマイナスが授け受けすることから作用が始まるので、作用するところには必ず主体と対象がある、このように見るのです。それで、すべてのものは、相対をもっているのです。
(115-198, 1981.11.15)
このように、小さいものにも雄と雌があるというのです。雄と雌、プラスとマイナスになっているというのです。分子もプラスイオンとマイナスイオン、すべて相対的に主体・対象関係になっています。ハナニムは、何を好まれるお方ですか。ハナニムは、どのようなお方ですか。プラスとマイナス、雄と雌をつくられたことを見ると、そのように行動することを好まれるハナニムです。宇宙の根本とは何ですか。主体と対象であり、雄と雌である、というのです。
(278-100, 1996.5.1)
宇宙の根本に入っていけば、主体と対象関係において、すべての調和がなされるのです。もう少し入っていくならば、主体と対象関係がなぜ必要なのでしょうか。作用するためです。作用は、運動するためです。このようになります。この世に存在するものの中で、運動をしないものはありません。皆さんも運動しているでしょう? 先生と皆さんの間にも、必ずこの主体と対象を中心として何かが流れているのです。
(240-168, 1992.12.13)
主体と対象が一つになることによって、電気でいえばプラスとマイナスが一つになることにより光が発するのと同じように、宇宙の光が発し得るというのです。電気と同じだというのです。この小さな電球の中にあるプラスとマイナスが連結されてです。ここだけで一つになっても駄目です。これがもっと大きい変電所を通して発電所まで、結果的な立場ですが、根本的発電所と連絡できるところにおいてのみ、永遠の光を発し得るというのは常識的な結論です。
(73-331, 1974.10.13)


宇宙の根本は、力よりは、主体と対象の観念です。宇宙的根本は、主体と対象の観念で始まり、主体と対象には格位がなければなりません。主体格と相対格がなければなりません。その主体格がハナニムであり、相対格が人間です。ハナニムは、なぜ人間を創造されたのでしょうか。ハナニムは、主体であられるので、相対がなければならないからです。相対がいることによって刺激を感じ得るためです。何によってですか。美と愛と真理によって刺激を感じるので、人間を造られたというのです。
(67-50, 1973.5.19)
宇宙の根本である力というものも、物質世界において授け受けする愛的因縁と同じ形態の作用によって、生成されるのです。それゆえに、どのような存在でも、主体と対象の関係をもたなければ、この宇宙に存在できないのです。
(48-9, 1971.8.31)
宇宙の根本概念とは何でしょうか。哲学者たちも、宇宙の根本概念がどこから出てきたのかを知りません。まことの愛! ハナニムも、なぜ存在するのかといえば、愛ゆえに存在するのです。愛ゆえにハナニムが必要であり、愛ゆえにハナニムがいらっしゃるのです。ハナニムも、愛のために生まれたのです。
それゆえに、宇宙が存在する前に、愛の概念があったというのです。この愛の概念の完成は何かというと、雄と雌、陽性と陰性がなければならないということです。存在するすべてのものは、二種類の類型があります。
(247-119, 1993.5.1)
人類のすべて、宇宙の根本が主体と対象、ここにすべて入っています。それゆえに、すべてが相対のために生まれたというのです。主体と対象をもたないものがありません。鉱物世界も、そうではないですか。分子なら分子において、プラスイオンとマイナスイオンが主体と対象になっていて、植物の世界は雄しべと雌しべ、動物世界は雄と雌、人間世界は男性と女性になっています。すべて相対的です。
(260-252, 1994.5.19)
宇宙の根本は何ですか。宇宙は、何から始まったのですか。愛です。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。作用するのを見て、力があると分かるのです。力があって作用するのではありません。では、作用が先ですか、力が先ですか。男性が男性として成長する時は、愛の力は作用しないのです。
男性として作用しながら大きくなるのです。心と体が作用しながら、だんだんと成年になっていくのです。そして、女性に会う時に、横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経ていかなければなりません。力がある前に、作用があるというのです。それでは、作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係です。人も心と体、すべてのものがペア・システムになっています。この目も二つの焦点を合わせなければならず、鼻もまず焦点を合わせるのです。ペア・システムになっています。
(247-119, 1993.5.1)


再創造の公式は何ですか。宇宙は、プラスとマイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているでしょう。原子を見ても、陽子と電子になっています。すべて、そのようになっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性でしょう? すべて相対的になっています。そのように相対的になって、結局、一つの体制圏に収拾されなければならないというのです。ハナニムが主体なので、ハナニムを中心として収拾されなければなりません。その創造の意志と一体化した相対圏がつくられなかったとすれば、ハナニムの創造の喜びはあり得ないのです。
(247-183, 1993.5.9)
真の愛には、垂直的な愛と、水平的な愛の二種類があり、宇宙は、この原則によって動きます。宇宙の構成もそのようになっていて、植物世界、動物世界、鉱物の世界、このすべてが主体と対象の関係になっていて、垂直と客体の関係を中心として円形に似ているという事実は、レベルは低いのですが、すべてのものは愛をモデルにし、宇宙の根本に従い、伝送が始まったという事実を知らなければなりません。
(217-96, 1991.5.4)
この世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオン、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌になっています。近ごろは、細菌まで雄と雌があるといっています。すべてのものは、愛を中心として、自分のレベルを中心として、一つになるようになっています。このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは、人間の理想的愛が天地を代表して一つになる時、共に連結されて信奉するためにそのようになっているというのです。家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のために、このようなペア・システムですべてつくったのです。動物も、そうではないですか。雄と雌とが歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たでしょう。子をもてば、子のために命を差し出すのです。愛の道理は、そうなのです。それは本来、根本がそうであるので、そうなのです。
(222-123, 1991.10.28)
作用がある前に、宇宙の主体と対象がなければならないので、ハナニムご自身を中心として、宇宙の根本であるそのお方も、主体である心と、対象である体が愛の概念を中心として永遠に共存しなければなりません。愛においてのみ永生があるのです。
(209-87, 1990.11.27)
宇宙の構成体自体が、盲目的になっているのではないのです。この膨大な宇宙が、相対的、主体と対象関係において対応しながら、授け受けする運動をしながら、永続的なその法度の軌道に従って永続するのです。法度の軌道に沿っていってこそ永続するというのです。法度の軌道に沿っていかなければ、永続するのではなく、破壊が展開するのです。


私たちも、ご飯を食べて消化が正常にされ、栄養要素が正常に血管を通じて補給されてこそ永続が展開するように、正常に補給されなければなりません。良く授け、良く受けてこそ永続が展開するのです。
(182-116, 1988.10.16)
ハナニムが天地を、なぜ創造されたのですか。根本である、愛ゆえに創造されました。それゆえに、すべての存在世界は、ペア・システムで造られています。ペアのないものがありません。ペア・システムでぎっしり満ちています。
このように、人間を取り囲み、愛が宇宙の中心なので、この中心となる人間を中心とした愛の柱を打ち込み、そこに大木の根元のようにくっついて生きるようになっているのが、ハナニムの愛を中心とした創造理想だったというのです。「ハナニムの創造理想とは何か。ハナニムのみ旨とは何か」という時、そのみ旨が権力に行けば滅びなければなりません。知識に行っても滅びなければなりません。ハナニムの愛に行かなければなりません。愛が終着点にならなければならないというのです。
(185-165, 1989.1.8)
与えるものがなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのかということが問題です。それは、ハナニムが本来、この宇宙を創造された当時の根本と通じるためです。ハナニムが創造しようというのは、引き寄せることですか。与えることです。与えれば、絶えず大きくなるのです。すべてのものが与える概念に変われば、アメリカはますます大きくなります。絶えず受けていれば、すべてのものは小さくなるのです。なぜそうなのかというと、ハナニムの創造原則に同伴できるので、宇宙が私を協助するのです。宇宙が私を協助するからです。
(183-323, 1988.11.9)
宇宙の根本、90度の角度は、真の愛です。これがすべてのものの測定基準になっています。動物世界も、すべて雄と雌になっているでしょう? 左側にあるか右側にあるか、陽質か陰質か、そして、すべて自分の系列に従い、縦横を中心として愛するのです。それも、すべて愛するではないですか。ここに縦的垂直線と横的平衡線があるとするならば、ここが自分の存在位置です。
それゆえに、愛を中心として存在する博物館です。鳥も愛を中心としては、命を懸けます。獣もそうです。すべてそうだというのです。植物もそうです。鉱物世界もそうです。元素にもプラスイオンとマイナスイオンがあります。元素もすべて、自らの相対を中心として作用するというのです。
(198-360, 1990.2.11)
宇宙の根本は、運動の起源はどこから始まったのですか。すべての天体世界も、太陽を中心として衛星が運動をします。それが一つの核になり、もう一つの相対的な相応世界と連結し、またこれを中心として大きくなれば、もう一つの大きな世界と連結するのです。このようにして、全宇宙は、いったいどのように生じたのか、広大無辺なこの世界のすべての存在は、どのように生じたのかというと、これが運動するのです。すべて運動しながら、一つの球形のために動いていきます。そうしながら星が動くその世界が、ある時は大きくなり、ある時は小さくなったりするのです。息をするというのです。地も、大きくなったり小さくなったりします。そのことを知っていますか。大きくなったり小さくなったりします。
(222-174, 1991.11.3)


回るときには、何を中心として回ってみたいですか。真の愛を中心として、回りたいのです。これが宇宙の根本です。男性も「受ける」と言い、女性も「受ける」と言えば、どのようになりますか。お互いがそのように「受ける」と言えば、額を合わせてこのようにしていなければなりません。それは、互いに主管しようとするためです。宇宙の存在は、授け受けするのです。授け受けすることが原則なので、先に与える側が主体です。先に与える人が主体だというのです。
(123-227, 1983.1.2)
皆さん、体が重要ですか、心が重要ですか。心です。心の中心に真の心があり、その真の心が最も重要視するのが真の愛です。同じです。したがって、この宇宙の根本が真の愛なので、真の愛の心をもたない人は、ここから追放されます。宇宙から追放されないようにしようと、ハナニムがそれをすべて教えてあげようと、男性も女性も愛することができる、真の愛を行うことができる訓練をするためのものが結婚だというのです。このようにして男性と女性が一つになり、ハナニムの真の愛、すなわちプラスの前に相対にならなければなりません。これを完全に授け受けしようとするなら、人間が完全でなければなりません。
(123-107, 1982.12.19)
私たちが宇宙の根本を求めていけばハナニムに帰着するのですが、そのお方は、男性格位と女性格位の二つの性稟せいひんを所有していらっしゃるお方であることを知らなければなりません。宇宙出発の原因は、どのようになっていますか。ハナニムに対してはまだ分からないとしても、人間は男性と女性、主体と対象になっています。鉱物界の分子を見れば陽イオンと陰イオンによって構成されていて、植物界は雄しべと雌しべに、動物界は雄と雌に、そして、人間は男性と女性になっているのを見ることができます。
今まで数多くの博士、数多くの学者がいましたが、これ一つ考え出した人がいないのです。皆さんは否定することができますか。皆さんの父母、祖父母、またその祖父母、そして、人類の先祖である方と、さらには宇宙の根本であられるハナニムに尋ねてみても、すべて同意するのです。これは鉄則です。この真理こそ、宇宙が億万年過ぎても原理原則として残るための鉄則です。そして、ハナニムの前に進んでいくようになれば、この鉄則により、正しい人と間違った人の判定を受けるようになるのは、当然のことです。
(279-244, 1996.9.15)
自分のものを主張するものは、追放されます。宇宙万物を見る時、鉱物世界も主体と対象関係、植物世界もすべて雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌、人間世界もこのようになっていて、この根本の愛の主人が自分ではなく相対なのですが、この相対を否定したので、相対として認めるその世界には、存在することができないのです。ですから、追放してしまうのです。使用価値がないというのです。
(280-63, 1996.11.1)


3) 宇宙の根本は愛である

 

① 宇宙の中心は愛である

この宇宙全体、天国全体の中心軸は、何ですか。愛です。愛は、生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として成されているので、愛の軸に従って運動します。運動とは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心としてするので、それ自体の位置において、愛を中心として関係を結んで行動するのです。
永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっているというのです。作用とは、ただするのではないというのです。
(208-79, 1990.11.17)
宇宙の根本は、愛から始まりました。ハナニムは、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的なハナニムも、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
(198-237, 1990.2.3)
宇宙の根本の動機は、何を中心として動くのでしょうか。男性を中心として動くのではありません。女性を中心として動くのではありません。ハナニムご自身を中心として動くのでもありません。ハナニムが動く動機は何かというと、愛です。それゆえに、愛は、始まりであり終わりだというのです。コリント人への第1の手紙第13章を見れば、「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言いました。それは、なぜそのように言ったのでしょうか。それを解くことができなかったのです。
(185-157, 1989.1.8)
なぜまことの愛で愛さなければならないのでしょうか。宇宙の根本が、真の愛の原則から生じたからです。したがって、それに通じれば、宇宙のすべてと関係を結ぶことができるのです。理論的なのです。それで、一つが上ならば一つは下であり、一つが右側ならば一つは左側になるのです。鉱物世界、植物世界、動物世界がすべてそうです。お互いに与えようとする、そのような世界が起源となって出発したので、お互いに与えようとしながら暮らすのが宇宙です。
このような論理で、より次元の高い大きな存在にすべて吸収されようとするのです。このように見る時、宇宙存続の源泉は、どこでしょうか。より高い愛を中心として与えようとする運動圏内で作用するものが、宇宙的な存在です。
(128-291, 1983.9.11)
宇宙が存続する原則とは、理想的な根本の愛と接続できる環境的な与件であり、縦的、横的、すべての球形的な全体方向性の運動圏内に所属した属性だったというのです。それでは、その父母の前に皆さんは、どうでなければなりませんか。そこに報いなければなりません。相対にならなければならないでしょう? 一つになろうとするなら、父母のように相対にならなければならないという結論です。真の愛の相対になる時に、統一が展開されるのです。真の愛がなくては、完全に統一することができないのです。
(288-89, 1997.11.16)


ハナニムを中心とした人間は、ハナニムの体と同じであり、体と同様の実体を象徴型として、影のように送ってくださったものがこの宇宙万象です。この宇宙万象は、何を標榜ひょうぼうして造られたのかといえば、ハナニムご自身を標榜して造られたというのです。それが形象的、象徴的な位置にいるだけであって、その根本主体は、ハナニムを中心として造られたというのです。
(153-119, 1963.11.15)
宇宙の根本は、どこから始まったのですか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化より先に、創造の概念がある前に、雄と雌がいたということを知らなければなりません。では、雄と雌は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のゆえにです。愛、これが公式です。
(280-60, 1996.11.1)
ハナニムは、ハナニムよりもっと立派な愛のパートナーを願われます。皆さんも、愛の相対が皆さんよりも優秀なことを願うでしょう? 同じです。ハナニムご自身が主体と対象として完全に一つになっているのですが、それが創造の根本です。愛を中心として二つが完成するのです。そこでハナニムが解放されるのです。愛の位置で、歌って踊ってごろごろ転がり、すべての被造世界が一つになるのです。そのような世界は、どれほど楽しい世界でしょうか。
(276-123, 1996.2.11)
家を建てる時は、水平が合わなければならず、垂直が合わなければなりません。合わなければすべて倒れるでしょう? 宇宙がどのように存在するか、という根本問題に入っていくというのです。
それで、ハナニムご自身も愛が必要です。ハナニムご自身が天の玉座において、「ああ! 私は愛が好きだ」と歌いますか。ムン総裁が一人で踊ってこのように汗を流すようになれば、狂った人ではないでしょうか。1枚のハンカチを見ながら踊るなら、狂ったのではありません。これの10分の1、100分の1くらいのものを見て踊って笑ったとしても、それは気が狂っているのではありません。創造は、相対価値の絶対基準に該当する価値的内容をもっている、という事実を認めなければなりません。
(179-229, 1988.8.12)
アダムとエバが完成すれば、ハナニムが結婚させてあげることにより、アダムとエバの体の中に、性相と形状、男性と女性の形状をもったハナニムが入っていき、私たちの心の位置に創造主、お父様の体の位置に創造物、お父様が愛によって一つになるのです。他のものではないのです。知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。真の愛によってここで一つになることにより、真の愛を中心として形状が成され、家庭が成されるようになるというのです。真の愛が重要なのです。これがはっきり分からなければ、宇宙の根本を知らないというのです。
(286-16, 1997.7.1)
世の中の人たちが考えるのは、お金をもって世界で一番の代表者になる、権力をもって一番の代表者になる、知識をもって一番の代表者になる等の様々な考えをしています。しかし、宇宙の根本であるハナニムから関係しているすべてのものは、真の愛を中心とした代表者になることを願うのです。それが、人間が願い、ハナニムが願われる道だということを知らなければなりません。
(179-33, 1988.7.3)


皆さんは、愛が良いと言うでしょう? 愛を求めていくでしょう? どのように求めていくことが、宇宙の根本であるその公式に合う愛の直線の道、近道なのかというのです。これが問題です。
(184-58, 1988.11.13)
この宇宙の根本は何ですか。ハナニムは、絶対者です。力がありますが、力が根本ではありません。知識が根本ではありません。それでは、お金ですか。これは、あの世から見れば退廃的な何と言うのでしょうか。廃物を拾って歩き回るのです。廃品を回収して歩き回る人々は、お金を集めようという人です。私たちのような人はお金があるといいますが、私は、そのようなお金を使わないのです。
(191-18, 1989.6.24)
ハナニムが天地を創造される時、どのようにされたのでしょうか。ハナニムの相対になることができるのは、人しかいないのです。それで、自分を100パーセント投入されました。それでは、知恵の王なのに、なぜ投入されたのでしょうか。完全に投入してハナニムはゼロの位置、無になり、あそこは120になるので、気圧でいえば、ここは低気圧中の低気圧である真空状態になり、あちらは高気圧になるので、ひゅーと循環作用が起きて自動的な発展原則、自動的な運動原則を追求します。
それで、絶えず押し込めば、こちらは巻き込むでしょう。自分を包囲する、そのようなことが展開するのです。それは何をもってですか。愛をもってするのです。宇宙の根本が愛なので、このような原則により、このように展開されるのです。
(196-320, 1990.1.12)
根本は個人です。個人で連結するのです。家庭も、宗族もすべてです。根本は、いくら小さくても同じです。角度は同じだというのです。90度です。それで、これを茎にして真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、真の愛、このようになって地球ぼし全体が真の愛で一つになり、宇宙でもどこでも、真の愛でぎっしりいっぱいになるのです。そのようになれば、いつでも「良い! あなたは私と似ている!」と言うようになり、どこに行っても、縦的でも横的でも全く同じになるのです。
(207-58, 1990.10.28)
人間は、歴史を通じて宇宙を越えていっても愛を必要とし、昼でも夜でもどこに行こうとも、若くても、年老いても、死んでも、いつでも愛の観念から離れられない存在です。なぜそうなのでしょうか。根本がそのようになっているので仕方がないというのです。愛だけが今でも、創造の能力を行使できるのであって、愛がなくては行使することができないのです。発電所のような愛の原動力を中心として、すべて行くのです。
(133-64, 1984.7.8)


愛も、もちろんハナニムがつくることができるとみますが、その愛を所有するのは一人ではできません。二人が所有しなければなりません。ハナニムも、愛を一人で探すことはできません。ですから、その基準の測定原器は何でしょうか。宇宙万象、存在世界、永遠世界で測定し得る絶対的に一つしかない原器、それは何でしょうか。根本問題です。それが愛だというのです。ですからこれは、春夏秋冬、季節の変化に影響を受けません。受けてはならないのです。
(137-235, 1986.1.3)
なぜ、愛のひもに結ばれて生きるようになっているのですか。ハナニムも喜ばれ、宇宙も喜び、この世界も和合し得る愛の紐に、人間が結ばれて生きるようになっているのですが、そのような愛の紐に結ばれずに、幸福になり得る心の基台がないのに、生活が幸福になり得ますか。なり得ません。根本が違っているのに、結果が幸福であり得ますか。歴史はこのような関係になっています。
(138-265, 1986.1.24)
心と体が一つになった、その場に入っていくようになれば、その場は、釈迦しゃかが経験した位置です。「天上天下てんげ唯我独尊」という、その境地に入っていきます。その中に入っていくようになれば、愛の球形内のすべての力は、この中心を通じなければ作用できないのです。これを通じない作用は、存在できません。宇宙のすべての作用は、これを基本として定めて拡大しました。
ところが、愛を中心とした軸が生まれなかったのです。それはすなわち、核心が生まれなかったのと同じです。人間だけではありません。今日、人間同士で連結された愛、家庭を中心とした愛、家庭を中心として拡大された宗族、民族、国家の愛、あるいは聖人が教えてくれた愛をもっては、その根本を悟ることができなかったというのです。
(141-113, 1986.2.19)
宇宙根本において、生命が先ですか、愛が先ですか。このようにみる時、それを突き詰めて入っていくようになると、生命が先にはなり得ないのです。ハナニムは生命の源泉ですが、生命の源泉であられるハナニムが存続するには、どのような基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。何の基盤の上で暮らすことを願われるのでしょうか。ハナニムは、平和の基盤の上で暮らすことを願われるはずです。平和の基盤設定は、何がするのですか。生命がするのか、他の何かがするのですか。それがまた問題です。それは、生命がするのではありません。主体と対象が高低を超越して、共通的価値を認め得る秩序的段階を超越した、その何かです。それは何ですか。真の愛です。
(173-84, 1988.2.7)
皆さん、細胞繁殖というものを知っているでしょう。これ一つを取ってみても、そこから再び目が出て鼻が出て、すべてが出てくるのです。髪の毛も出てきて、足も出てきて、すべて出てきます。すべてのものが全く同じなのです。真の愛と連結した細胞は、宇宙と同等な価値をもつことができるのです。なぜ真の愛がそうでなければならないのですか。真の愛は、原因であると同時に結果であり、根本であると同時に目的だからです。
(216-288, 1991.4.14)


愛は、宇宙をはじめ、どのような存在でも因縁をもたない存在がありません。小さな草1本でも、必ず愛を中心として生きているというのです。鉱物もプラスイオンとマイナスイオンを中心として生まれ、すべて愛ゆえに動いています。
(289-129, 1998.1.1)
真の愛で成された心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は、万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じハナニムの真の愛の原理のもとに存在するからです。ハナニムと人間との間の縦横、前後的真の愛の関係は、人間相互間の理想的真の愛の関係の根本であり、その完成は、四大心情圏を成した理想家庭においてのみなされます。
(260-128, 1994.5.1)
愛の本質は何ですか。どのような愛ですか。愛とはどのような愛ですか。今日のアメリカに蔓延まんえんしているフリーセックス、一夜の愛が愛ですか。それは、根本の愛とは関係がありません。それでは、根本の愛、真の愛はどのようなものですか。愛とは、始めであり終わりです。この宇宙が生まれたのは何のためかといえば、愛のために生まれたというのです。愛を訪ねていくというのです。ハナニムに対して聖書には、「私が最初であり最後である。始めであり終わりである」とありますが、それはどういうことですか。これは、愛をおいていう言葉です。
(255-56, 1994.3.5)
なぜ「ため」に生きなければならないのですか。なぜ、そのようにしなければならないのですか。それを願わないのに、なぜそうでなければならないかというのです。愛の紐が結ばれているというのです。愛の紐が万物に連結しているというのです。愛の紐が私の体を結んでいるというのです。このような時、すべてが手を差し出し、早く早く巻いてくれというのです。早く早く大きくなろうというのです。愛の宇宙を占領しようというのです。愛の宇宙も宇宙であり、それはパートナーの世界ですが、愛の根本がハナニムまで占領しようとするのです。
(278-142, 1996.5.5)
ハナニムは、いつでもうれしいでしょうか。皆さんは、いつでも嬉しいですか。うれしくありません。しかし、真の愛をもった時には、悲しみも、その愛によってすべて消化されるのです。これを見る時、愛の絶対権限が、この宇宙のある個別的権力や、知識や、何かをもって第一主義を主張する、それ以上のものとして残したいのが、人間の本性の欲求だったというのです。それはどこから来たのでしょうか。根本から来ました。その根本のどこからですか。ハナニムの愛からです。ハナニムもそのような愛を願うために、そこから来たのです。
(200-197, 1990.2.25)
最初から私たち人間は、近ごろの共産主義のように闘争概念から始まったのでしょうか、融合概念から始まったのでしょうか。どちらなのですか。電気でいえば、プラスとマイナスが闘争するというのですか。それでは、どのようになっていたのでしょうか。調和と融合から始まったのです。それで、お母さんとお父さんの愛を通してお互いに調和し、融合して私が生まれたのです。それは否定できません。このようにみる時に、宇宙の根本は、本性とは、調和にもなり融合される内容から出発した、ということを私たちは知ることができます。
(124-111, 1983.2.1)


すべての宇宙の中で、借金だらけの人間にならずに、借金を負わせて暮らすことができる方法とは何でしょうか。それでは、私の根本がないのでしょうか。違います。心にいくらでももっています。「ごめんなさい」、「ありがとう」と言うことのできる心、水を見て、山野を見つめて、野原を見つめて、三千里の山川、さらには大地球星を見つめて、「ありがとう!」と言うことができる心、ハナニムの前に有り難いと考え、環境に有り難いと考え、不平を言わないで侍って暮らすことができる、このような主人の心をもちなさいというのです。真の主人には、そのような人々がなるのです。
(198-150, 1990.1.28)

 

② 人間は万宇宙の愛の中心

イ) ハナニムの愛の対象として造られた
人の価値は、どれほど大きいでしょうか。ハナニムがつえをついて、千年、万年慕うことのできる存在が人です。統一教会ムン先生が見るとき、これが宇宙の根本だというのです。これが、内外関係になったので縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が展開されるのです。その中心にはハナニムが臨在されるのです。
心の深い谷間の位置に、一つにしっかりと結ぶことができるその場は、縦横の中心位置です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。縦的なものがどんなにあるとしても、横的なものは出てこないのです。それで、人をこのように造らざるを得なかった、ということを皆さんは知らなければなりません。
(48-223, 1971.9.19)
ハナニムは、絶対的な創造の観を所有した絶対者なので、絶対的な価値の対象を追求するのです。これは、この地上の被造万物の中で、何をもってしても取り替えることができないものです。価値として見れば、相対的存在とは、ハナニムを与えても取り替えることができない存在です。「相対的価値」という言葉は少し難しい言葉ですが、相対的価値というものは、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは、ハナニムを与えても取り替えることができないのです。ハナニムを与えてみれば、ハナニム一人になるのです。ハナニムが残るのです。それゆえに、ハナニムご自身を投入して、ハナニムご自身の力を、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。
それで、ハナニムを与えても、取り替えることができない対象の価値的存在として造られたものが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。ハナニムがそのような観をもって、価値的な存在として人間を造ってくださったのです。
(68-134, 1973.7.29)
ハナニムは、人間を愛ゆえに造られました。人間は、なぜ造られたのですか。愛ゆえに造られたのです。人間が万物と異なるのは、ハナニムの息子、娘として造られたからです。ハナニムの直系の愛を受けることができる対象者として造られたというのです。これが人間の特権です。
(132-244, 1984.6.20)


人は、誰に似たのでしょうか。ハナニムに似ました。ですから、ハナニムが愛を願うのも、結局は人と同じだ、このようにみるのです。愛を中心とした理想の創造世界というものは、実体を中心とした愛の表示が形象として現れ、形象の表示が象徴として現れるというのです。
統一教会の「原理」では、そのように言っているのです。何を中心としてですか。愛を中心としてです。その実体が喜べば、その形象であるものも自動的に喜び、その形象である存在が喜べば、象徴的なものも自動的に喜ぶことができるというのです。そのような作用を、何がするのですか。愛だけがするというのです。
(166-48, 1987.5.28)
万物之衆マンムルチジュン 唯人最貴インチェ(注:万物の中で人が最も貴いの意)」と言いました。万物の中で人間が中心だというのです。何を中心として中心ですか。愛を中心としてです。知識とか、お金とか、権力というものは問題ではありません。
ハナニムは創造主なので、そのようなものはいつでも造ることができ、もつことができます。しかし、愛というものは、一人では探し出すことができません。愛は、一人ではもつことができません。愛は、必ず相対を通して現れて成されるようになっているのであって、一人ではハナニムでも成し遂げることができないというのです。
(272-275, 1995.10.8)
ハナニムは天地を誰のために造られたのですか。ハナニムのために造られたのではありません。愛の対象のためにです。それでは、ハナニムの愛の対象とは誰ですか。「万物之衆 唯人最貴」と言いました。人だけがハナニムの愛の対象として造られたというのです。愛の本質的内容を分析してみる時、属性には相続権があり、同位権、同参権があるために、愛に接すれば、いくら気高いハナニム、いくら偉大なハナニム、いくら宇宙的なハナニムといっても愛に乗せられるというのです。
(179-148, 1988.8.1)
今日の統一教会の教えは、ハナニムも愛が必要だというものです。いくら全知全能で遍在する全権のハナニムでも、愛は相対的に訪ねてくるのが原則なので、愛の相対圏を備えなければなりません。その相対がアダムとエバです。
(121-173, 1982.10.24)
ハナニムがいくら立派で、絶対者で、全知全能の方であっても、一人では良いことがあり得ないのです。「幸福」という名詞は、あるいは「良い」という形容詞は、一人で設定される言葉ではありません。必ず相対的関係を備えた位置にいてこそ、「良い」、「幸福だ」という言葉があり得るのです。一人でいながら「幸福だ」と言う人はいないのです。
したがって、いくら全知全能のハナニムでも、一人では幸福になることはできません。例を挙げれば、歌を上手に歌う音楽家がいて、一人で歌を歌ったとしましょう。幸福でしょうか。そうではないというのです。相対がいなければなりません。授け受けしてこそ良いのです。同じようにハナニムも、「良い」と言うためには、必ずハナニム一人でいてはいけないのです。
(65-20, 1972.11.13)


ロ) 人間成長の道はハナニムご自身の展開過程
人間創造とは、ハナニムご自身が成長してきたことを実際に再度展開させてきたものです。ここでハナニムが興味を感じられ、刺激を感じられるのです。人も同じです。画家が傑作品をつくるために絵を描くのは、自分の内的な素性そせいをすべて実際に形状に展開させることです。自分の骨髄の奥深くまで絞り出して投入するのです。
(225-198, 1992.1.20)
人間の完成はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。したがって、男性と女性が完全に一つになった愛を中心としてのみ完成するというのです。アダムが完成するには、誰が絶対に必要でしょうか。ハナニムが絶対に必要ですが、ハナニムは縦的に絶対必要なのです。
アダムが完成しようとするなら、縦横の因縁をもたなければなりません。縦横の愛の因縁をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。それゆえに、横的にアダムに絶対必要とするのはエバです。同じように、エバにも絶対必要なのがアダムです。
(145-319, 1986.6.1)
アダムとエバをおいて、ハナニムが愛したのは何ですか。アダムとエバが息子、娘として育ってきたということは、ハナニムもそのように育ってきたということを意味します。ハナニムも赤ん坊のような時があり、兄弟のような時があり、夫婦のような時があり、父母のような時があったので、そのように創造されたのです。
ハナニムは、無形のハナニムです。無形のハナニムがそのように大きくなってこられたというのです。それで、兄弟のように、夫婦のように、また息子、娘のように創造してこられたというのです。
(254-274, 1994.2.15)
アダムとエバをハナニムが造られたとすれば、どのような段階から造られたのでしょうか。アダムとエバを、成人した人として造ったと考えることはできません。赤ん坊から造られたというのです。ハナニムは、赤ん坊を身ごもった母が抱いて育てるのと同様の過程を経て造られたという論理を立てなくては、この三段階の秩序に通じた存在の形成ということを説明する道理がないのです。幼児期があったというのです。それから、長成期があり、完成期がありました。これは天理の道理です。
(225-198, 1992.1.20)
アダムとエバに幼児期があったのですが、その幼児期は、どのような幼児期だったのでしょうか。無形のハナニムが無形の世界から有形への過程を経てくることができ、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
それでは、赤ん坊が、生まれ育ち、成熟して結婚できる位置まで、父母になれる位置まで、どのようにして行くのでしょうか。ハナニムが青年期、壮年期、老年期のような過程を経てきたという事実を、ハナニムが育った無形の過程を、実体として見るための存在が、子女だというのです。このような論理が形成されてこそ、父子一身という論理が出てくるのです。一つは縦的で、一つは横的なので、縦横一身の理論を立てることができます。
(225-198, 1992.1.20)


愛する夫婦、アダムとエバが子女を生むということは、ハナニムの無形実体の性相と形状が、愛をもって一つになって創造され、父母の立場に立ったのと同じです。第一の見えないハナニムが見える第二の創造主としてアダムとエバを造られ、実体の第二のハナニムの立場に立ったアダムとエバが、再び息子、娘を生むことによって父母の立場に上がっていくのです。そして、その幼い子女を通して、実体のアダムとエバの幼児時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代等、ハナニムが経た過去を再び実体として展示するのです。それで、それを触ってみたいと思われ、愛してみたいと思われるのです。子女は第二の自分自身です。
(258-240, 1994.3.20)
結婚した夫婦の立場は、途方もない立場です。歴史時代に人類が望んだ子女としての希望峰が花咲く立場であり、兄弟として花咲く立場であり、夫婦として花咲く立場です。このようにして、夫婦として愛したハナニムが創造を始められたように、息子、娘を生んだそこから、アダムとエバが創造するのです。実体的創造主の立場となり、自分を中心として平面的創造主の立場で息子、娘を生むのです。第三の創造主を造るのです。それが子女です。
それゆえに、父母は、ハナニムの代身の実体父母の立場で、ハナニムの子女を養育するのです。そのようにしてこそ、見えない無形のハナニムが子女を養育したということを自分の実体で感じるのです。ハナニムも、そのように大きくなられたというのです。ハナニムも、子女時代、兄弟時代、夫婦時代、父母時代と、発展してこられました。見えないハナニムの過去の歴史を中心として、自分の息子、娘を生んで育てながら、ハナニムの見えない赤ん坊時代の第一の創造主、無形の創造主の姿を見るのです。第二の創造主、見ることができる創造主の立場で赤ん坊を育て、兄弟として育て、夫婦とならせていくことは、ハナニムがアダムとエバを息子、娘として、兄弟として育てられたように、無形の内的なすべての要求の実相を、実体的にアダムとエバを通して、平面図上で見るためのものなのです。これが息子、娘だというのです。
(263-148, 1994.8.21)
ハナニムが創造主として歴史的、内情的原則を中心として、存在の起源から今まで成長した過程を実体的に展開してくる過程がアダムとエバの創造過程です。それでは、どこから始まるのですか。ごく小さな細胞が合わさって大きな細胞になるのと同じように、赤ん坊が10ヵ月間で育つ過程を経ていきながら、男性と女性の形態に分かれて出てくるのです。なぜそのようになるのでしょうか。そうでなければ、生命遺伝をどのようにするかという論理に対して、解釈する方法がありません。遺伝的内容をどのように展開させるのか、という論理を立てることができないというのです。それゆえに、一つの本質的な無形の形態と有形的な形態の本質が、一体的内容の因縁を中心として横的に展開することを必要とするのです。


別の言い方をすれば、主体の前に相対圏が必要だというのです。内的性相は外的形状とすべての根源的な面において、一致することもでき、通じることもできる内縁があります。それゆえに、人が生まれて育つその過程は、見えない無形のハナニムが実体を見るためのものだったのです。ですから、ハナニムの内的なすべての存在が表現されて現れるので、愛さざるを得ないというのです。それが私であり、私が現れた実体だというのです。無形の実体が有形の実体として展開される以上、そこにすべてを投入しなければなりません。
(225-198, 1992.1.20)
ハナニムが愛を見いだす対象を造ろうとされる時、誰に似るように造られるでしょうか。ハナニムに似るように造られます。そのハナニムに似るように造られるなら、ハナニムの中にあるように男性性稟せいひんがなければならず、女性性稟がなければなりません。自分に似ているのですが、自分の本性相からすべて抜いて、見えない性相、見えない思考の形態を実体として展開させたものが人間だというのです。それゆえに、聖書の創世記に出てくる、ハナニムが自分の形に人間を創造されたというのは正しいというのです。
(170-167, 1987.11.15)
ハナニムと人間の拍子が合って和動することができる喜びの拍子の前に、すべてのものが、自分の姿どおりに音律を合わせることができ、自分の姿どおりに象徴的に形象的に踊ることができる、喜びの世界が本然の園です。そのようになれば、万物も、「ああ、私が生まれた甲斐かいがあるなあ」と言うでしょう。例えば、ハナニムと人間が愛の祝宴をするその日に同参ができる因縁をもち、その喜びをお互いに分かち合うことができる存在になったという事実が、被造世界の限りなく小さな万物が願う所願ではないだろうかというのです。
(166-46, 1987.5.28)
いくら真理だとしても、真理の核心とは何でしょうか。お金でもなく、権力でもなく、知識でもありません。愛です。本質的愛は縦的なところにあるのであり、真理的愛は横的に連結しているのです。それゆえに、万物を見てハナニムを知り、アダムとエバがハナニムの形状なので、アダムとエバを見てハナニムを知るというのです。なぜですか。アダムとエバは、縦的なまことの愛の対象的主体なので、これを二人とも完全にぴたっと男性と女性の愛を、東西南北を通して世界の軸に合わせるようになる時は、ハナニムと霊界が通じて、万世界がすべて通じるというのです。
(179-290, 1988.8.14)

 

ハ) 人間は被造万物の中心
ハナニムは、誰に似ているというのですか。私たち男性と女性に似ています。皆さんの心は見えないでしょう? 心が見たいですか、見たくないですか。ハナニムも同じです。ハナニムは、霊的な立場から見れば同じなのです。ハナニムには、体がありません。今まで体がありませんでした。アダムの完成がなされていないので、今まで体がなかったというのです。心のような宇宙に心のような主人、心のような師、あるいは管理者、心のような父母でいらっしゃいます。
(197-44, 1990.1.7)


万物は、ハナニムの息子、娘を造ることができる土台だというのです。関係して連結することができる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラスとマイナスがあります。植物世界もすべて雄しべと雌しべがあり、動物世界も雄と雌がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された最高の傑作品が人間の内的形状と外的形状です。それを実体化させ、男性と女性の性相、そのすべてに形状を付与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべて表して橋渡しするようにし、すべて連結するように、関係を結ぶようにしたのです。
(144-236, 1986.4.25)
ハナニムが被造物の中心である人間を必要とされるのは、お金のためではなく、知識のためでもなく、権力のためでもありません。ただ愛ゆえに必要とされます。そうではなく、ハナニム独りで愛を受けるという立場に立つようになれば、愛してくれる何の存在もありません。結論がそうなので、ハナニムは、必ずこの世界に自分が愛することができる、そのような対象者を造らないといけません。このようにみる時、被造世界においてその愛の対象になることができる、そのような度量の大きな存在とは誰ですか。全宇宙を創造されたハナニムの前に、相対的な条件を備えることができる存在は、人間しかいないのです。したがって、皆さんは、「私は宇宙の主人です。宇宙で第一である」と言うことができる度量をもたなければなりません。
(148-308, 1986.10.26)
ハナニムは、喜びを加えて、喜びの刺激を連続させるために万物をつくられました。瞬間的な喜びを感じるためにつくられたのではなく、被造物に対するたびごとに胸深く入り込んでくる喜びの刺激と幸福を感じるために、最高の心情を注いでつくられたのです。
ハナニムは5日間、万物をつくられたのち、6日目の日に、喜びの心情で人間を造られました。自身の形状を型として造った私たち人類の先祖は、限りなく美しい存在であり、限りなく貴い存在であり、限りなく誇らしい存在であり、限りなくうれしい存在であり、限りなく光栄の存在であり、限りなく愛したい存在でした。
(9-194, 1960.5.22)
ハナニムは、全知全能の方であられるがゆえに、知識も必要なく、能力も権力も必要なく、金銭も必要ないのです。それでは、ハナニムにおいて必要なものとは何でしょうか。それは、ハナニムが愛することができる一つの対象です。その対象は、被造万物の中で最も貴く、一番の霊長である人間以外にはいません。「ハナニムが最も好まれるものが人間だ」と言ったのですが、ハナニムは、なぜ人間を好まれるのでしょうか。ハナニムも愛が必要なためです。愛というものは、一人では、あるのかないのか知ることができないのです。
(112-291, 1981.4.25)


見えないハナニムの形状を、私たちの体に象徴的にすべて投入したというのです。目は誰に似たというのですか。ハナニムです。それゆえに、顔の中で見れば、目は深い所にあるというのです。そうしながら、すべてのものを観察するというのです。それから鼻は、アダムとエバを象徴します。これが中心です。その次に、口は万物です。横的です。それゆえに、4掛ける8で32(4×8=32)、32の歯をもっているというのです。世の中の万物を中心として、4数を中心としてです。それから、耳は四方を象徴します。この首から上は天国です。天国の情報の場があります。
(201-83, 1990.3.4)
皆さんの生命の根は、どこにあるのですか。堕落していない父母にあります。それでは、堕落していない善の父母の位置は、どのような位置ですか。ハナニムが二性性相の主体であられるので、ハナニムが自らの二性性相を展開して、ハナニムの形状どおりに万宇宙を造って人間を造られたのです。
アダムは、ハナニムの男性的性稟を展開させたものであり、エバは、ハナニムの女性的性稟を展開させたものです。このようにみる時、私たち一般の人々が普通、「天のお父様!」というのは、一人のお方なのでそのように言うのですが、その一人のお方という概念の中には、「天のアボジ、オモニ」という概念が含まれているのです。
(140-123, 1986.2.9)
もし、人間先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは、ハナニムと一体となり、ハナニムと同じ位置に立って、ハナニムの創造の偉業を受け継ぎ、ハナニムが創造後に喜ばれたのと同様の位置に立つようになっていたのです。ハナニムと人間との間にそのような関係を結ぶようになるのです。堕落していない本然の人は、ハナニムの聖殿になるのです。
(54-64, 1972.3.11)
ハナニムがお父様になり、人間はハナニムの子女になったとしても、お父様は上にいて子女は下にいる、上下関係のような気分がするというのです。その時に、私たち人間は、どのように考えるのでしょうか。「お父様、お父様が座っていらっしゃるその席を、私に一度下さい。私も、お父様の位置に座ってみたいのです」という欲望が私たち人間にはあるというのです。
ここでハナニムが、「なんだこいつ、駄目だ」と言えば、すべて壊れるのです。しかし、ハナニムは、そのようにはできないのです。むしろハナニムは、私たち人間がそのような欲望をもっていることを知っていらっしゃるので、「早くそう言いなさい、早くそう言いなさい」と言われながら、その席までも私たち人間に下さるのです。その席まで人間に与えて、ハナニムは、私たちの心に臨在され、私たちの心を聖殿として、そこにいようとされるのです。
(54-89, 1972.3.20)
心身一体になれば、宇宙の力が保護してくれます。宇宙の力が保護してくれる心と体になれば、父母も宇宙の因縁をもった父母、兄弟もそのような因縁をもった兄弟、このようにすべてが因縁を結んでいます。民族、国が因縁を結ばなければならないのです。素晴らしい結論です。ですから、国を越えて他の国に行っても、そのような一体圏を成すようになれば、そこでも通じるのです。どこにでも通じるのです。


サッカーをする時、ボールが転がっていって途中で止まれば、どのようになりますか。その表面全体が一つになることができる所は、垂直線に通じるのです。それで、球形体を理想的な存在だといいます。表面のどのような所でも、その垂直線が安着することができます。それで、転がり回るのです。どこでもすべて良いために、そうなるというのです。それで、心身一体圏、90度になれば、どこでもすべて合います。西洋人と東洋人、過去の人と現在の人、未来の人を問わず、どこでもすべて合うのです。
(205-53, 1990.7.7)
本性の心が行くべき道を行けば、宇宙が一つになるのです。そのような何かがなければなりません。そのような位置に入っていけば、自分の心と話すようになるのです。そのような境地では、心と話をします。何かをしようと考えれば、すぐに答えが出てきます。そのような境地まで行くのです。そのような境地にいる人が、自分の行くべき道を知らないでしょうか。既に行くべき道が明確で、宇宙におけるすべての作用の力が助けるようになります。手を引っ張り、試験場に入っていくようになれば、すぐにすべてのものが協助します。それでこそ、大きなことができるのです。
(120-313, 1982.10.20)
私たちが自然を見て、「ああ、私には四季は必要ない。私は、春だけが必要だ、夏や秋や冬は嫌いだ」と言うことができますが、ハナニムに尋ねてみれば、「私は四季のすべてが好きだ」と答えるというのです。それゆえに、嫌いでも夏を好むことを学ばなければならず、秋と冬を好むことを学ばなければなりません。雪が降る冬になれば、ハナニムは、白い雪が世界的に積もったのを見て喜ばれる時、「ああ、私も良い」と言うのです。そうでなければならないのです。
(133-28, 1984.7.1)
ハナニムのような心で自然を見ることができなければなりません。そのような心をもたなければなりません。洪水が起き、雷が鳴る時は、「ああ、私は、あれが嫌いだ」と言うなというのです。ハナニムは、「ハハー、あれはキスして結婚しているのだなあ」とこのように考えるというのです。そして、嫌いだと言う人々に、「ハハハハ、こいつめ! 悪いやつめ!」と言われるのです。
(133-28, 1984.7.1)
知恵の王であられ、全体の中心であられるハナニムが、真の愛や、真の理想や、真の幸福や、真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどちらに置かれるでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、理想の要件をどこに置くのかということが、創造主であられるハナニムとして問題にならざるを得ないのです。
それで、真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心にして対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くべきか、対象を中心にして主体が対象のために生きるところに理想的起源を置くべきか、という問題をハナニムは考えられたのです。ハナニムが、主体の前に対象が「ため」に生きなさいと言う立場にその理想的起源を立てるならば、ハナニムがそのようになると同時に、すべての人も、自分がある対象をもち得る立場に立つならば、同じようになるというのです。それでは、一つになる道がふさがってしまいます。これを知らなければなりません。
(75-318, 1975.1.16)


一つになることができ、平和の起源になることができるその道は、どこにあるのでしょうか。ハナニムご自身だけでなく、真の人間は、「ため」に生きる存在だという原則を立てざるを得なかったのです。それゆえに、真の愛は「ため」に生きるところから、真の理想も「ため」に生きるところから、真の平和、真の幸福も「ため」に生きる位置で成立するのであって、「ため」に生きる位置を離れては探すことができないのです。これが、天地創造の根本だということを私たち人間は知りませんでした。
(75-318, 1975.1.16)
男性と女性が生まれたのは、男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれたのであり、女性は女性のために生まれたのではなく、男性のために生まれたのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではないのです。自分のために生まれたのではないのに、自分を主張します。「私」というこの思想を壊してしまわなければなりません。これさえ壊してしまえば、統一の世界は展開するのです。
(61-265, 1972.9.1)
自らの価値を自分から追求するよりも、相対から、すなわち相対的基準でその価値を追求できる道を探求する人は、不幸な人ではありません。いつでもどこでも、心情の基台は相対圏をもつので、孤独ではなく、幸福になることができるのです。
(59-200, 1972.7.16)
調和というものは、一人で展開する道理がありません。楽しいということも、一人で展開する道理がありません。幸福もまた、一人で展開する道理がありません。絶対者だとしても、一人ではできないのです。必ず、自分に対応することができる相対的な与件がなければなりません。絶対者の前には絶対的な相対者がいなければならず、絶対的な主体の前には絶対的な対象がいてこそ、幸福や、調和や、喜びや、踊りや、歌というものがあるのです。
(38-155, 1971.1.3)
今日の既成教徒たちは、「全知全能のハナニムは元から栄光の中の栄光の主体であり、幸福の中の幸福の主体であり、すべての愛と生命の主体なので、それによらないものがない」と大声を張り上げています。しかし、いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、仕方なく不幸になるのです。
ハナニムも絶対的な立場に立つことができる一つの対象を探せなければ、滅びるしかないのです。いくら絶対者だとしても、絶対的な対象をもたなければ、やむを得ず不幸だというのです。したがって、ハナニムが滅びないためには、仕方なく相対的な存在を造らなければなりません。
(38-157, 1971.1.3)

 

③ 被造世界は人間のための愛の博物館

イ) 被造世界を造られた意味
被造世界のすべてのものは、ハナニムが愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていくことができるように、教材として造っておいたものです。それで、相対的構造なのです。


鉱物も主体と対象の関係で作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないというのです。運動しなければ永続と存続はできません。それゆえに、宇宙は、人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界だというのです。
(137-59, 1985.12.18)
ハナニムは万物をつくられ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造っておかれました。人間を造られる時は、ハナニムが何かふざけて造られたのではありません。趣味で造られたのでもありません。人間を造られ、万物を代表する中心として立てるようになる時までのハナニムの苦労と精誠は、到底、言い表すことができなかったという事実を私たちは知らなければなりません。
ハナニムが人間を造られる時、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血とご自身の生命の核心をすべて注いで造られ、ありったけの愛と愛情を降り注いで造られました。どのような力を用いて離そうとしても離すことができず、分けようとしても分けることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、その人間を御覧になるハナニムには、平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してこそ宿ることができるのです。
(20-205, 1968.6.9)
ハナニムは人間のお父様であり、人間はハナニムの息子、娘です。ハナニムが骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をありったけ施して造られた人間なので、このような人間がハナニムを引けば、引かれざるを得ないのであり、またハナニムが人間を引き寄せてくだされば、引き寄せられざるを得ないのです。
ハナニムは、このような因縁の中で、内容と目的が一致する人間に造られたのです。もし、そのように造っておかれた人間を御覧になり、ハナニムが称賛することができる、あるみことばや詩があるならば、それは世の中のどのような詩人も、文人も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は、ハナニムでもなく、万物でもない、唯一、万物を代表した人間なのです。
(20-207, 1968.6.9)
宇宙は何ですか。ハナニムの体と同じです。見える体と同じです。ハナニムの分身です。それゆえに、私が本当に愛することができるという観念が成立します。宇宙を愛するということが実感できるというのです。自身の頭も、このようになでてあげたりします。服も、何かがつけばはたきます。それは、なぜそのようにするのですか。私のものだからです。私と共にあるので、そのような観念があるというのです。
皆さんが今後、どのようにしなければならないかといえば、心の中にハナニムをお迎えして、心が一つになり、体が一つになり、万物が一つになって、このような統一の世界を成し遂げなければなりません。
(86-173, 1976.3.28)
宇宙がどれほど大きいかというと何億光年です。光が1秒間に30万キロメートル進むのですが、30万キロメートルとは、地球を7周半回ることができる距離です。その距離を1秒間で走る光が1年かかって行く距離を、天文学では1光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きいのです。
(127-213, 1983.5.8)


グリニッジ天文台では、今まで100億光年向こうの世界の星まですべて発見したのですが、今ではもう150億光年向こうの世界の星も見ることができる時代が来て、それ以上の時代に入っていっているというのです。
この宇宙がどれほど大きいかといえば、大体210億光年です。これは、原理的な数です。そのように大きいというのです。それがどういうことかというと、光がここから出発し、それが1日かかるのを1光日、1ヵ月ならば1光月、このように出発して1秒間で3億メートル、光の速度が3億メートル行きます。距離で言えば、地球を7周半回る距離です。ぱっと行ったら、既に7周半を回るというのです。
そのように速い光が1日でも、腰が曲がって、考えが鈍って、「私は分からない」というはずなのに、100年でもない100の何万倍にもなる1億光年です。出発してから1億光年たってもまだ進んでいるのですが、人が100歳生きるとすれば、100万人が死んでいきます。1億光年のうちにです。1億光年なので、人が生まれて100年生きて死んでいくのを続けて、100万人目が死ぬその時になっても、まだ進んでいるのです。
では、210億光年といえばどのくらいですか。その人々が続いて生きて死んで、また生きて、100歳まで生きて、このように2億1000万人が生きて、それほどたっても、まだ進み続けるというのです。その遠い距離は、直線で行くのではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙だというのです。
(181-195, 1988.10.3)

 

ロ) 万物世界は人間のための愛の教材
まことの愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造られた愛の自然の園を見ながら、学び成長するようになっていました。育ってどのようにしなければならないかということは、つくっておいた万物を見れば、すべて分かるようになっていました。万物が正にハナニムの博物館です。アダムとエバを教育する愛の博物館です。鳥も雄と雌、ちょうも雄と雌、すべてがペアで生まれ、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て育つようになっています。
このように成熟してハナニムの愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナスを代表した愛の王女が女性だということを悟るようになっていました。女性が考えるに、「あの男性が正に私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり女性に対して、「本当に私に必要な女性だなあ!」と思うのです。
(201-161, 1990.3.30)
真の愛の基準から見れば、アダムとエバは、ペア・システムで造っておいた愛の自然の園を見ながら学び、成長するようになっていました。鳥も雄と雌、蝶も雄と雌、すべてがペアで生まれて、愛し合いながら繁殖して生きていくのを見て、人間は成長するようになっています。
(201-356, 1990.4.30)


少年時代から育って、青年時代に行くのです。思春期になって、ここから学び始めるのです。皆さんもそうです。赤ん坊の時は何も分からないので、「お母さん、これは何ですか」、「お父さん、これは何ですか」、このようにして知っていくのです。
そして、男性は男性についてすべて知ってみると、世の中のすべてが、ペア・システムになっています。「いやあ、動物世界もペアがあり、昆虫世界もペアがあり、ああ、すべてがそうなのだな! 花の世界もそうで、鉱物世界もそうだ」。それをすべて学ぶのです。「そうだ、主体と対象になり、このようになって、このようになるのだなあ! よくよく考えてみると、私が行くべき道は、このように求めていかなければならないのだなあ! ああ、これではないな!」と知るようになるというのです。
(219-31, 1991.8.25)
アダムとエバは、成長しながら世の中を学んでいきます。二人の息子、娘が大きくなりながらじっと見てみると、世の中はペア・システムで造られた博物館です。愛の博物館です。これを見ながら学ぶのです。「やあ! 彼らがあのように愛し合っている。はえも雄と雌、蝶も雄と雌、すべてペアが戯れている。それから、愛し合って繁殖している!」、それを学んだでしょうか、学ばなかったでしょうか。
(200-246, 1990.2.25)
天地をペア・システムで、造ったのは何のためですか。これは、愛の博物館です。それ以上に、あなたは鳥よりももっと幸福に、昆虫よりももっと幸福に、あなたはこの世の何よりも幸福に生きなさいというのです。
(200-57, 1990.2.23)
この世の中のすべての被造物は、ペア・システムになっています。ペア・システムになっているこの環境は、人間のための理想的愛の博物館です。それゆえに、鉱物世界が作用するのもペアを求めてするのです。また、草木もペアを求めて運動するのです! 繁殖するのです! 鳥もそうで、昆虫の中でうまおいむしもそうです。うまおいむしも歌いますね。
(199-309, 1990.2.21)
ハナニムが万物世界をペア・システムで造られたので、男性と女性を中心として、そこにすべての要素を抱いてもっています。自然は何ですか。男性と女性が愛することができるように、愛を教示するために造った博物館です。
それゆえに、男性が愛する妻を慕わしく思いながら歌うようになる時、何の歌を歌うにしても罪ではありません。堕落すれば罪になるのです。愛の問題によって家庭が破綻はたんし、天理原側がすべて壊れていったがゆえに罪なのであって、天理原則の基盤の上でお互いに愛して、「私はあなたを真に愛する。永遠に愛する。あなたは私の永遠の相対である」と言うのは罪ではありません。これをはっきりと知らなければなりません。
(199-280, 1990.2.20)
(*)「1990.20.20」を「1990.2.20」に訂正
ペア・システムで造られたこの宇宙は、愛のハナニムが創造された博物館です。生きた博物館です。国立博物館にある骨董品こっとうひんのように死んでいる、主人のいない記念物ではありません。生きた記念物です。
(195-136, 1989.11.7)


真のハナニムがいらっしゃるのですが、その方を通して造られたすべてのものは、理想的愛の条件を備え得るように主体と対象関係になっているのです。それゆえに、この宇宙のすべての被造物は、ペア・システムになっています。鉱石も夫婦同士になっています。夫がいて妻がいます。
それゆえに、二つがお互いに引き合うではないですか。そのような話を初めて聞いたでしょう? 実験室の先生が完全に暴君となり、自分に合わない元素をいくら激しくくっつけようとしてもくっつきません。ハナニムが「しなさい」と言われてもしません。しかし、相对が合えば、「くっつかず、一つになるな」と言ってもくっついてしまうというのです。ですから、すべてがペア・システムになっているというのは、ハナニムの愛のためだというのです。
(177-271, 1988.5.20)
小さな昆虫も、愛を中心としてペア・システムになっていることを知らなければなりません。鉱物世界も同じです。何のためにですか。愛ゆえにです。レベルが低ければ低いなりに愛を中心として繁殖し、この宇宙が人を通してハナニムの理想を完成し得るように、すべての体制にギアが連動して回るようになっているのです。
(293-308, 1998.6.7)
エデンの園に展開しているすべてがペア・システムになっているので、アダムも自然にそれを見て、「やあ! 私も雄のような男性だが、私も雄のようにできているが、雌のようなものがどこにいるのか」と探すと「エバだ!」、このようにして二人が結婚式をするのです。「雄、雌があのようにすれば子を産むのだなあ」というのです。女性は、嫁に行くことは嫌でも、赤ん坊は好きな女性が多いのです。
(288-304, 1998.1.1)
エデンの園におけるすべてのものがペア・システムになっていたので、動物が繁殖して「雌と雄が楽しい環境をつくっているな」、このようにして愛というものを学んだというのです。ですから、アダムとエバも「二人が会わなければならないな」と考えるのです。昔、アダムとエバが育つ時、どれほど複雑ですか。男性はワイルドで山に登って飛び回るのに、女性は毎日座って見物して、おもちゃで遊んでいたのです。このように性格が違うのですが、このような環境から学んで自然に相対を訪ねていくようになっています。
(278-280, 1996.5.26)
よく考えてみると、世の中がペア・システムになっているのですが、アダムとエバも一人ではいけないというのです。動物世界の、鹿しかや牛もすべて雄と雌がいて、お互いに好んで子を産むのを見るようになります。それで、アダムとエバも、動物世界の昆虫から、鳥やはちや花までもそのことをしているので、教えてあげなくても知っているというのです。
(246-58, 1993.3.23)
皆さん夫婦は、双子で生まれた兄と妹です。エデンの園のアダムとエバと同じです。そこでは、妹一人しかいないのです。世の中に友人もいなくて一人娘です。エデンの園に女性一人しかいなくて、男性一人しかいないので、間違いなくアダムが、エバの友達になってあげなければなりません。兄と妹だというのです。


それで、大きくなって、万物のすべてのペア・システムがどのように繁殖して育つのかということを知り、世の中のすべてを知るようになったので、自分たちも歴史の伝統を残すために、このように愛を行わないといけないとして夫婦になるのです。歴史のために、人類のために夫婦になるのです。
(243-177, 1993.1.3)
アダムとエバが生まれた時は、お互いに、子女になっていましたが、兄弟の因縁の中には相対がいませんでした。相対がいないでしょう? 女性は、女性一人で教育を受けて女性完成しなければならず、男性は、男性一人で教育を受けて男性完成をしなければなりません。その教育を受ける材料は、天地間にいくらでもあります。すべてのものがペア・システムになっているので、男性はそれを見て、「あのように大きくならなければならないのだなあ!」ということを知り、女性もそれを見て、「あのように大きくならなければならないなあ!」と自ら知るようになるのです。愛に対するすべての教材を、すべての自然が博物館のようにそのまま見せてくれています。自然はすべて、ペアになっているというのです。
(228-268, 1992.7.5)
縦的な基準には、相対性が移されてこなければなりません。この縦的な基準には相対がいるのです。そして、この息子、娘が大きくならなければなりません。成熟しなければなりません。万物世界を見れば、すべてペア・システムになっています。鉱物世界も同じであり、植物世界も同じであり、動物世界も同じです。人間世界もすべて男性と女性のペア・システムになっています。
自然世界というものは、レベルは低いのですが、ペア・システムになった愛の博物館です。それでは、愛の博物館をなぜ造りましたか。誰のために造ったのかというのです。人のために造り、ハナニムのために造ったのです。それゆえに、ハナニムは、万物におけるすべての愛の感触、鉱物世界や植物世界や動物世界の愛の感触というものをすべて感じることができるのです。
(238-29, 1992.11.19)
男性と女性がこの道を行くにおいて、この時までは相対がいないのです。それで、男性として女性をもらわなければなりません。すべてペア・システムで子を生んで暮らすことを見るのです。春になれば、牛もそのようにし、豚もそのようにし、犬もそのようにし、猫もそのようにし、ねずみもそのようにし、いなごもそのようにするのを、すべて見るのです。「ああ、そのようになるのだなあ! 一人はいけないのだなあ!」、このように目覚めることを、目が開くといいます。その方向が、今までこのように45度で、「ああ、私が必要なのはアダムだな!」と思い、「私が必要なのはエバだな!」と思うのです。
(229-321, 1992.4.13)
環境には、必ず主体と対象があり、ペア・システムになっています。この宇宙は、愛を核にした博物館です。ペアの博物館になるのです。それゆえに、2羽の鳥がお互いに喜びながら一生懸命に巣を作り、子を産んで、食べさせるのを見ながら学ばなければなりません。「わが子のためにそれ以上、何百倍もしなければ」と、このように思わなければなりません。虫たちも雄雌2匹が愛し合って子を産むのです。彼らも、自分の命を懸けて子を育てようとします。それが、教育です。
(229-287, 1992.4.13)


アダムとエバが成熟するに従い、ここで横的に回ってアダムが自分の相対だと思い、エバが自分の相対と思うようになるのです。アダムは、外に向かって出ていき、歩き回ろうとします。ハンティングもして、どこに行っても、握ってつかまなければなりません。エバはどうですか。エバは、根本の性格が違います。このようにしながら大きくなり、女性として知るべきこと、男性として知るべきことを知るようになるのです。すべて、世の中のすべてがそのようになっています。
鉱物世界も植物世界も動物世界も、すべてペア・システムになっているでしょう? それを学ぶのです。大きくなりながらじっと見てみると、何を見てもすべて相対的です。ですから、我知らず学ぶのです。
(225-201, 1992.1.20)
誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。園に走る動物を見ても雄と雌、蝶を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっているというのです。花が咲けば、美しい園には鳥が「ピーチクパーチク」、しきりに鳴いています。鳥がなぜしきりに鳴きますか。雄の鳥と雌の鳥がしきりに鳴くのは何のためですか。何を呼ぶためなのですか。
鳥がしきりに鳴くのには、三つの理由があります。一つは空腹で鳴くのであり、一つは愛ゆえに鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは、愛ゆえにそうなのです。
(208-251, 1990.11.20)
標準的なアダムとエバの相対圏に立つために、自分たちもその形態として準備されなければならないので、この宇宙の創造物はペア・システムになっているというのです。ペア・システムで存在しているというのです。アダムは大きなプラスであり、万物は東西南北に広がった小さなプラスです。それゆえに、すべて相対的になっているのは、人間も万物も同じです。人間と万物が、共通した絶対的主体圏を中心とした基準において平面を成すようになれば、ハナニムが垂直に臨在されるようになるのです。
(230-252, 1992.5.8)
すずめが「ちゅんちゅん」と鳴いて目を覚まさせてくれることが、自分で起きるよりどれほど素晴らしいですか。どれほど詩的ですか。皆さんは、自分が歌うのが良いですか、歌を聞くのが良いですか。それはまた、どれほど詩的ですか。自分が「ちゅんちゅん、ちゅんちゅん」と鳴くよりも、第三者が「ちゅんちゅん」、自分で起きるより愛する人が目を覚まさせてくれるということです。そのように、調和の音律によって声を変えながら目を覚まさせてくれるのが理想的ではないかというのです。ですから、すずめも私の友人です。何が友人にさせるのですか。ペア・システムから見る時、それが私の友人になるのです。男性と女性もペアです。友人だと考える時、どれほど詩的ですか。
(177-271, 1988.5.20)


世の中のすべてのものがペア・システムとして繁殖するようになっているのを見る時、アダムとエバも、成熟すればそのようにしなければならないことを知るのです。成熟する前は、アダムとエバはそれを知りませんでした。
アダムとエバが二人で暮らしているのですが、この二人の性格を見れば、アダムは男性的で外向的です。朝、起きれば飛び出していき、山に行ってうさぎを捕まえたくて、きじを捕まえたくて、しかを捕まえたくて、蛇を捕まえて腹を裂いてみたいというのです。今後、主人となり管理しようとするなら、すべて管理できる責任者になるためには、すべて知らなければならないというのです。山に何がいるのか知りたくて、動物は何がいるのか知りたくて、水にはどのような魚がいるのかすべて調べてみようとするのです。男性なので、主人になろうとすれば、何でも調べなければならないというのです。
(262-74, 1994.7.23)
ハナニムが喜びを感じながら創造されました。それは、どれほど楽しかったでしょうか。ペア・システムをつくったので、細胞までもペアになって喜んでいるのを見る時、どれほど楽しかったでしょうか。写真に撮ったものだけでも、よく写っていればのぞき込んで「良い」と言うのに、実物がしゃべって踊っているのですから、どれほど良いだろうかというのです。
(283-102, 1997.4.8)
男性と女性をハナニムが造られ、抱いて育てていくにおいて、しもべである天使長をつくり、彼らを保護して育てるようにしました。それで、彼らがすべて育って成熟すれば、ハナニムが結婚させてあげようとしたのです。その時までは成熟しなければなりません。
そのために、生まれてから分かれて、男性は男性として育ち、女性は女性として大きくなっていくのです。大きくなって成熟した男性と女性になり、世の中をじっと見てみると、鉱物世界も動物世界も植物世界も、すべて相対理想、ペア・システムになっているというのです。「あ! 動物たちも二つが一つになってあのように子を産んで、幸福に生きている。やあ、お母さんは、子を育てるために自分の命を捧げてでも保護する。私たちも、あのようにしなければならない」、このようにすべて見て学ぶのです。それで、アダムとエバの理想的な発達のための展示博物館だというのです。
(262-74, 1994.7.23)
真の愛圏の深い境地に入っていくようになれば、万物と通じるのです。岩にも通じるのです。真の愛の世界は、通じないものがないのです。なぜですか。ペア・システムになっているのは、ハナニムに属することができる愛と因縁をもって、一つになるための作用をするためです。
真の愛は、共鳴するようになっています。そのような真の愛の圏内に入っていくようになれば、ハナニムの内的な世界と外的な世界を感じることができるのです。それゆえに、誰が教えてくれなくても霊界を知ることができ、ハナニムが分かり、この地で父母にどのように侍らなければならなくて、また国にいかに仕えなければならないかということなど、すべてのことを自然に知るようになるのです。愛が行く道は、いい加減に行くようにはなっていません。公式になっています。愛が行く道は、一つの道しかありません。


真の愛が行く道には、二つの道はないのです。人間として行く真の愛の道や天の世界、ハナニムとして訪ねてくる真の愛の道は、いつも一つの道です。ハナニムが降りてくる時は、人間が上がっていってこのようになります。
それでは、これがどこで会わなければならないのですか。ここでしか会うことができないのです。最高に成人した位置がこの位置です。この位置は同じ位置です。この二人が一つになろうとするなら、どこで会わなければならないのですか。この位置で会わなければなりません。この位置しかないのです。この点で会わなければなりません。
(238-31, 1992.11.19)
愛の理論を話してみると、それが解けない理論がありません。知識の中の王の知識です。愛を探してみると、このすべての被造世界がペア・システムになっていることを知りました。鉱物世界もプラスイオンとマイナスイオンによって成り立っているでしょう。ペアです。それは何のための相対ですか。そのレベルに該当する愛を中心として、愛ゆえにそのように生まれるのです。それでこそ繁殖が展開するのです。
動物世界もすべて雄と雌、人も男性と女性です。それはなぜ生まれたのですか。女性のために愛が生まれたのでもなく、男性のために生まれたのでもありません。「男性と女性が愛ゆえに生まれた!」、このようにならなければなりません。その命題を否定する邪悪な者たちは、地獄の一族であり、破壊の一族です。
(221-257, 1991.10.25)

 

4) 進化論か創造論

 

① 進化論の根本的な誤り

イ) 種の区分は厳格、第三者の介入を絶対排斥
歴史はいつからですか。進化を始めてからですか、その前からですか。進化とは何ですか。すずめとほおじろは、いとこです。全く同じです。骨なども全く同じだというのです。色が少し違うだけであって、生殖器と目も全く同じです。だからといって、すずめとほおじろの雌と雄を取り替えて子を産ませようとしても、子を産むことができますか。千年、万年すれば子を産むでしょうか、産まないでしょうか。千年、万年試してみなさいというのです。できるかどうか。
(232-126, 1992.7.3)
すずめとほおじろとは、兄弟です。どうですか。猿と人間に比較すれば100パーセント理にかなった話です。
それでは、すずめとほおじろをペアにすれば、新しいものが生まれますか。全く、学者と言われる人たちの考えることときたら、雄と雌が愛して子を産んで発展したという論理を否定し、外形的な形態の構成が同じだからといって進化したというのです。皆さん、生殖器官がどれほど複雑ですか。魚は雌と雄がくっつきません。陸地に出てきて変わるのです。
(199-307, 1990.2.21)
この太陽系の地球が、何億年になったでしょうか。何億年も回っているのに寸分の違いがありますか。毎日そのようにぴたっ、ぴたっと合います。同じです。また、アメリカのすずめと韓国のすずめと巣を作るのが同じですか、違いますか。答えてみてください。同じですか、違いますか。同じです。これは進化論的に見るならば、すずめが巣を作るのも、発展しなければならないのではないですか。学んでいないのに、どのように何千年、何万年そのようにするのかというのです。それはどのようにして知るのですか。つばめはつばめなりに、すずめはすずめなりに、うぐいすもうぐいすなりに、巣を枝に作ります。
(179-246, 1988.8.12)


立派なオランウータンの雄と女性を結婚させ、万年祈祷をして精誠を尽くしたからといって人の子が生まれるでしょうか。赤ん坊が繁殖すると思いますか。答えてみてください。猿の子孫、共産党の者たち! オランウータンを人間の女性と結婚させ、共産党世界が祈祷して、あらゆる力を加えたからといって子が生まれると思いますか、生まれないと思いますか。分からないなら、共産主義を主張するなというのです。進化論を主張するなというのです。明確にして暮らさなければなりません。
(262-80, 1994.7.23)
アメーバから猿まで行こうとするなら、数千種の愛の門を通じて上がっていかなければなりません。進化論は、数多くの種における愛の門を通過して上がっていかなければならないことを省きました。そのように行くことができますか。種を通じなくても思いのままに上がっていくことができますか。鳥が昆虫と通じることができますか。鳥が動物世界に通じないで上がっていくことができますか。愛の門、愛の関係を通して大きくならなければならないという事実はすべて抜いてしまい、骨が同じだからといってそのようなことを言うとは話にもなりません。生むほど、より良いものが出てくることができますか。より悪いものが出てこなければなりません。ここで問題になるのが何かというと、彼らが愛の関係を知らなかったということです。
(254-264, 1994.2.15)
種の区分は厳格だというのです。アメーバから猿まで数千種がいるのです。進化論は、数千種の段階をすべて無視して、そのままこれを通ろうとするなら、すべてその種の雄、雌の門を通じて何千回も生んで子が出てくるのに、一度にすっと出てきたと考えるので、「これは間違っている」と言うのです。愛の門を通過しなければならない、ということを否定したのです。数千種の愛の門を、アメーバがどのようにすべて通過して人になることができるのかというのです。骨が同じだから同じなのですか。同じような骨はいくらでもあります。狂った話はやめなさいというのです。
(266-39, 1994.12.4)
今日、この進化論を考えてみる時、種の起源を話せば、一つの種が生まれるには、そのまま生まれるのではありません。必ず雄と雌がいなければなりません。これは、鉱物世界も同じです。プラスイオンとマイナスイオンが一つになり、一つの物質を造成するようになっているのです。必ず雄と雌の陽陰になっているのです。
(213-63, 1991.1.14)
再創造は、環境の創造、主体と対象の創造、その次には対応的な発展、このようになるのです。進化論もこのように発展しなければなりません。ただ発展するのではないのです。主体と対象が一つになり、より大きなものに吸収され、必ず愛の門を通らなければならないというのです。このような原則によれば、愛のないアメーバからこの人間世界までは数千段階を経ていかなければならないのに、そのような愛の門をただ越えていくことはできない、このように見るのです。
(230-68, 1992.4.19)


今日、進化論がいうには、アメーバが発展して、進化して人になったといいます。ここで考えなければならないこととは何ですか。雄雌が人間にまで到達するためには、数千段階の愛の道を通らなければならないということです。それを知らずにいます。種別の限界は厳格です。ところが、それがそのまま進んでいって進化するのですか。
(209-29, 1990.11.25)
皆さんの中で、愛する妻の前に他の男性が来て介入することを喜ぶ人がいますか。動物もそうであり、植物も同じです。いないというのが普通ですか、絶対的ですか。絶対的だというそこには、他のものが入ってくる場所がありません。種においては、そのレベルが完全に違うというのです。ところが、アメーバは雌と雄の愛の門を通じて出てきたのですが、どのように違う種類を連結させて出てくることができたのですか。そのまま上がっていったのですか。必ず愛の門を通らなければなりません。それを無視して進化ですか。西洋の人たちは、猿のような姿なので進化論を主張したのです。そうなのです。頭の色もそうで、毛もすべて猿のように褐色ではないですか。
(216-247, 1991.4.7)
愛は絶対的です。二人だけです。第三者の介入を願いません。このように見る時に、アメーバから人にまでなるとすれば、何千段階の愛の過程を通して連結するのです。存続するのです。愛がなければ、すべて壊れるでしょう。1年しか生きることができません。そのようなものですが、愛というその部分を通して、これが、連続的な系列的存在が残されるのです。その愛の門に第三者が介入して、まだらなアメーバを願いますか。猿と人と結婚式をして、1000年くらい生きれば子供が生まれるでしょうか、生まれないでしょうか。1000年ではなく、1万年たってもできません。話にもならないたわ言を言うのはやめなさいというのです。
(222-185, 1991.11.3)
昆虫の世界もそうです。このようなことが原則ならば、進化論は成立しません。相対圏、対象の路程を通したアメーバから猿まで、何千、何万回の愛の門を通じた雄雌の関係を無視すれば、連結されないというのです。すずめもそうです。冬のような時は、相対ということが分からないので、いたずらをしてそれぞれ他のプラスになっていますが、春になって巣を作り、相対圏をつくった時には絶対的です。第三者であるすずめに対しては、雄と雌が共に絶対的に排斥するのです。雌が来れば雄が排斥し、雄が来れば雌が排斥します。なぜですか。自分の相対圏を壊すために、宇宙法圏の侵略者になるために、それを排斥するようになっているのです。
(218-338, 1991.8.22)