八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 6-3

八大教材教本 天聖経(2012年版)p1608-1643

【天啓の御言】(6-3)

 


植物の花を見れば、自分の種があるのに違ったものを中心として他の種子には変わりません。変わらないのです。それを見れば種の区別が厳格だというのです。それゆえに、アメーバから猿に進化したという進化論の論理は、形成することができないというのです。種の区別が厳格なのに、どのようにして数千種類の種の協助を受ける体制において連結させ、発展したかというのです。進化論では愛の力を認めません。その愛の力を通して繁殖が可能なのです。愛の力がなければ、どのようなものも繁殖は不可能だというのです。どのように、アメーバから猿まで愛の力が正常に通じることができますか。そのようなことは、いかなる場合でもあり得ないのです。
(278-100, 1996.5.1)
アメーバから猿まで進化したとするなら、アメーバから猿までそのまま行くことができますか。数多くの異なる種を越えていくためには、どのようにしなければならないのでしょうか。愛の峠を通らなければ、越えていく道がありません。新しい大きな種が出てくることはできないのです。数千、数万の雄と雌の愛の過程を通してこそ、越えていくことができるのです。種の世界において、原則的なプラス・マイナスの概念が愛を中心として第三者の侵犯を容認しないなら、アメーバの世界からより高い段階に越えていくことはできないのです。
(237-135, 1992.11.13)
進化は別種が出てくることだといいますが、愛の関係を中心としないでは、他のものが出てくる道理がないのです。種の区別は厳格です。
(302-181, 1999.6.13)
進化論は、一度に壊してしまわなければなりません。自分勝手に理論をくっつけて進化論を議論したのです。人は、猿の子ですか。この者たち! 人間は、千年、万年を超え、ハナニムに侍るようになっています。何が猿というのですか? 猿と人は47の異なるものがあります。質的変化は起こり得ないのです。種の変化はあり得ません。だからといって、今日でも猿と人が暮らして人が生まれますか。猿が生まれますか。生まれません。種の起源というものは絶対的です。
(299-90, 1999.2.5)
宇宙は、なぜペア・システムになっているのでしょうか。自然になったという進化論もいいでしょう。しかし、進化論の前にさらされた事実は何ですか。男性と女性の生殖器、繁殖器官があります。そこに進化がありますか。進化があるなら、男性と女性の愛する方法が変わらなければなりません。昔の人と今日の人とでは、それが発展していなければならないというのです。昆虫世界においても、虫が愛する方法が、昔と今日とでは変わらなければなりません。鳥もすべて変わらなければならないというのです。そのような内容を中心として論ずることができるのです。生命の起源である愛の器官を中心として、その本拠地が進化的内容によって発展するようになっているのですか。狂っているというのです。
(191-53, 1989.6.24)


愛の世界の種別区分の厳格さは、天宙のいかなるものも犯すことができないのです。春になってすずめの雄と雌がカップルとなり、これから卵を産もうと巣を作り始める時には、第三者としてどのような鳥の種類も、どのような獣の種類も絶対に介入を許さないのです。皆さんの中で、結婚初夜に自分が最も愛する友人をそこに参加させたいと考える男性と女性がいますか。進化論は真理ではないというのです。嫁に行く女性が、母親以上にこの世で近い人がいないので、「死んでもお母さん、生きてもお母さん! どんなことがあってもお母さんと一緒に暮らしたい」と考えますが、それでもそのようにはならないというのです。そのような女性でも、夫を迎える初夜には、「お母さん、今夜、お願いだから一緒にいてください」とは言わないのです。そのような女性がいますか。第三者の介入は、絕対に必要ありません。それが本来、人間が迎えなければならない愛の伝統的で、公式的な基準だったのです。
(228-154, 1992.3.27)
皆さん! 生殖器官がどれほど複雑ですか。そのような構造的発達形態・・・。それを言えば、すずめと、ほおじろと、せきれいは、その姿が大変よく似ています。では、すずめとせきれいがくっつけば、何が生まれますか。それは可能ですか。この者たち、すべて訳が分からないのに言っているのでしょう。私が問い詰めれば、いくらも語らないうちに返事もできなくて、うんうんうめくのです。この者たち! 雌、雄! アメーバからこのように生まれたとするならば、どのようにしてこのような雌と雄、凸と凹が生じたのですか。なぜ、それを通って授け受けして、初めて子供が繁殖するようになっているのですか。それは、誰が設定しましたか。進化論者がそのようなことを設定しましたか。内的な力、生命の起源とは、偉大な宇宙観でも包括できない生命の連合基盤を通して生成が展開する、という内容を知らずにいます。猿と人とは、47箇所が違うそうですね。この二つが結婚すれば、子供を生めますか、生めませんか。昔、学生の時に共産党の者たちに尋ねてみると、全員答えることができなかったのです! このようなことは、きょうも数百種類の話をすることができますが、時間がありません。そのように、でたらめではいけないというのです。
(198-24, 1990.1.25)
進化が構造的形態の同位性によってできるのですか。違います。なぜですか。アメーバのような場合においても、より高い次元のものになるためには、雄と雌の愛の道を通じることなくしては不可能だということを知らなければなりません。ほおじろとすずめは、姿が同じです。しかし、それらが進化することができますか。足も同じで、くちばしも同じです。姿が同じです。見ても区分することができません。だからといって、ほおじろの雌とすずめの雄をペアにすれば発展しますか。白人男性とオランウータンの雌を結婚させれば何が出てきますか。子供が出てきますか、出てきませんか。進化論者、答えてみなさいというのです! 生殖器を通らないでは発展するものがないということを知らなければなりません。今晩、帰ってから研究してみてください。生殖器がどれほど複雑か知っていますか。すべての構成に必要な神経要素が、すべて集中しています。
(199-253, 1990.2.20)


今日の世の中の人たちは、人間が進化、発展したと信じていますが、アメーバに対する例だけ挙げても、それらも雄一つだけで発展し始めたのではなく、雄と雌が共に作用して初めて、より発展したものが出てくるのです。この進化論が大きな問題です。低級なものからより高いレベルに発展するためには、雄と雌の愛の過程を通らなければならないというのです。多くの愛の過程を通って出てこなければならないというのです。そうでなくては発展があり得ません。
皆さん、すずめとほおじろとは似ています。毛色が若干、違うだけであって、彼らの骨をおいて見れば、完全に同じです。だからといって、すずめとほおじろとペアをつくっておけば子供が出てきますか。進化論者、答えてみてください。一度してみなさいというのです。出てきません。また西洋の人々を見れば、比較的毛がたくさんはえているのですが、だからといってゴリラの雌と西洋の男性とを結婚させておけば、人が生まれますか。とんでもない話です!
(201-146, 1990.3.30)
種の区別は厳格なのです。したがって、進化論者たちの話のように、猿が人間の先祖ではありません。アメーバから人まで出てくるには、そのまま出てくるのではありません。数万種類の愛の過程を通します。愛の法度は、動物世界でも同じです。第三者が介入することを絶対容認しないのです。
ところが、どのように段階的に進化できるのかというのです。力の作用においては、入力より出力が小さいのです。作用すればマイナスになるのに、どのように大きいものが出てこれますか。そうではありませんか。だからといって、大きくならせる第三の力に、自分が加入できる能力をもった存在でもないのです。
(212-308, 1991.1.8)
アメーバのそばに他の者が来て、見つめるのを喜ぶでしょうか。それゆえに、連結性をもつことができないという論理を否定できません。進化という意味を話す前に、雄と雌の生殖器を除去する時には、進化論が根本的に壊れていくのです。進化する前に雄と雌がいたので、進化し得る相対的要因の運動が展開したのです。
(221-291, 1991.10.26)
雄と雌の愛の器官が進化して、そのように合うようになっているのですか。この進化論が問題です。それが連結してアメーバのペアと、それから中間のペアと接触できる道ができていますか。横的にだけでなく、すべてに、どこでも接することができるかというのです。とんでもない話です。雌雄しゆうの世界は、既に愛という概念を中心として生じたので、進化とは関係ない次元なのです。
(222-39, 1991.10.27)
愛の世界では、自分の相対以外には第三の存在を絶対容認しないのが天理原則です。すずめも虫も、すべてそうです。それでは、進化論を中心として見る時、アメーバから人まで行こうとするなら、その愛の系列が何千段階ですか。昆虫だけでも数千種ではないですか。植物から動物までも数千種です。


ところが、その数千種がアメーバからそのままさっと人になったと考えているというのです。とんでもないことです! 数千段階を経なければなりません。種の区別は厳格です。アメーバから進化して人になったというのですか。でたらめな者たち!
(227-296, 1992.2.14)
すべての存在物は、すべてペア・システムになっています。進化論者に、「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何というのですか。「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った者たちです。自然に生まれたのですか。すべての雄、雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄と雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々がその人たちです。では、あなた方は雄と雌を知っているでしょう。それがそのまま生まれたのですか。
(209-193, 1990.11.29)
環境には必ず主体と対象がありますが、一つになって対応的な主体と対象関係をもたなければなりません。環境の主体と対象から対応的な主体・対象関係に発展していくのです。ですから、一人では生きることができません。それゆえに、心と体は主体と対象関係です。主体が対象を見分けられなければ因縁がないのです。元素世界において、これが相対的に合わなければ、いくら実験室でくっつけようとしてもできません。ペアであれば、きちっとくっつきます。置いておくだけでもくっつきます。
(291-112, 1998.3.5)
種の区別は厳格です。かえるに似た鳥がかえるの世界に行って、「あなた、私とペアになろう」と言う時、「そうしよう」と言うのですか。逃げますか、闘いますか。あり得ないのです。進化論は、アメーバから猿まで行くときに何を否定したのかといえば、愛の門を経ることなくしては新しいものが生まれることができないという事実を否定しています。数千代の愛の門をすべてアメーバが経てきたというのです。そのようなことができますか。気が違うにもほどがあります。それゆえに、ムン総裁の前に共産主義が壊れていくのです。事由が先か、存在が先か、このような問題も気にかかるというのです。精神が先ですか、物質が先ですか。皆さんは、学校で進化論を学んだでしょう? それは間違いでした。進化論は間違っているというのです。今から私が革命をするのです。
(274-67, 1995.10.29)
再創造の環境では、プラスとマイナスの対応世界で発展する過程があり、雄と雌の概念が進化論よりも先立っているということを知ることができたでしょう? 愛の種の区別は厳格で、第三者が介入できないのです。進化論によれば、アメーバから猿まで行こうとすれば数千段階を一度に跳躍しなければならないのですが、そのようにすることができる道理はありません。千万種類の愛の門を通過してこそ、発展的なその種を連結させることができるのに、一度に跳躍して猿が出てくることができるというのですか。絶対不可能です。
(245-62, 1993.2.28)
もし進化論を認めるならば、アメーバから人まで何千段階を越えていかなければなりません。段階が同じだからといって、そのまま通過できません。ここは、何千種類の愛の門を通じて連結しているというのです。愛には、第三者の侵入を許す法がありますか。ありません。嫁に行った初夜に、「お母さん、頼むからここで一緒に寝ましょう!」と言う新婦を見ましたか。夫もそうです。「お父さんがいなければ嫌だ!」と言っていた男性でも、初夜に、「お父さん、ここで一緒に寝ましょう!」と言う男性はいないというのです。愛は第三者の介入を願いません。動物界でも同じであり、昆虫世界も同じです。このようにみる時、猿は猿を産むのであって、猿のような種類から人間のようなものが出てくる道理はありません。
(239-231, 1992.11.25)


化学実験室で元素を研究する教授が、「やあ! こいつ、この元素とあの元素と一つになりなさい」といくら命令してもできません。自分の相対圏が成されなければ絶対に一つにならないというのです。作用しません。自分が相対の主体になってこそ一つになるというのです。このようなことが原則なのに、無責任に進化論をこの宇宙形成に当てはめたのですが、それはでたらめです。ここで私たちは、「すべての存在に内的作用の力を起こすことができる本然の宇宙力がある」ということを認めていくべきだというのです。
(117-74, 1982.2.1)
猿と人は種子が違います。猿が文化的な生活をしますか。人は、生命が始まった時から宗教が付いて回りました。しかし、猿が「文化をもって世界を統一しよう」と言いますか。他の国を占領して自分の国にしたり、国境線をつくり、「お前の国だ、私の国だ」と言ったりしますか。そうですか、そうではありませんか。人とは種類が違うというのです。猿がハナニムを賛美しますか。猿は、ただ食べることを喜び、食べて繁殖すればそれで終わりです。人と猿では全く違います。進化論を主張する学博士という人々は、猿が人に進化したと意地を張って詐欺を働いているのです。統一教会では、彼らの主張が誤っていることを明らかにして正さなければなりません。
(41-185, 1971.2.15)

 

ロ) 力の作用法則と進化論の虚構
今日、進化論を適用しているのですが、アメーバならアメーバが繁殖していくにおいて、アメーバよりも大きなものが生まれるためには、現在のものよりも大きくなるためには、他の力が加えられなければならないというのです。力がプラスされなければならないというのです。アメーバ自体が、自分で力をプラスさせながら発展することができますか。自分自体がそのような力を加入させられるのかというのです。そのような能力があるのかというのです。もう少し上がっていって、より大きなものになることができるならば、ここにもっと大きな力をプラスしなければなりません。それでは、自分自体で力を創造し、プラスさせることができる能力はないのに、どこからどのように来るのですか。そのような論理が成立しますか。ミスターキムならばミスター金、ミスターパクならばミスター朴が、「私は、モハメド・アリのようなものは問題なく片づける」といって、そのようなことができますか。そのようにしようとすれば、ここにより大きな力が加えられるか何かすべきで、そうでなければ、いくらやっても限界線を越えることはあり得ないのです。ミスター朴が「突然変異によって私の力が大きくなればアリをたたきのめすことができる」と言ってそのようになることができるでしょうか。そのようなことができますか。
(89-73, 1976.7.11)


力の公式的な原則を見れば、人間において入ってくる力と出ていく力とを同じにすることができますか。力が入ってきてこのように作用したのに、作用しようとして入ってくる力と作用したあとの力とが同じになることができますか。ここには消耗が生じます。そうではないですか。運動をすれば消耗が生じるでしょう? ですから、入ってくる力と同じにはなり得ないのです。作用したあとには、常に力が小さくなるものです。進化論者たちは、作用したあとに力がもっと大きくなるというのです。そのような公式はありません。そのようになれば、この世はひっくり返ります。それゆえに、第二の力が必要です。
(55-254, 1972.5.9)
進化論者たちは、アメーバが順次進化して高等動物である猿になり、その猿が進化して人になったといいます。ところが、皆さん、考えてみてください。人が人以上の力を発揮しようとするなら、その力をどこからか補充されなければなりません。力の原則がそうです。力が作用するようになれば、必ず消耗します。ここに力を補充してあげてこそ、再び作用するようになるのです。
(38-155, 1971.1.3)
主体と対象が作用して、現在よりも劣るようになれば作用しないのであり、より良くなり得るお互いの目的を発見すれば、作用するのが原則になっているというのです。この問題を中心として進化論を見れば、進化するところにおいても、より良くなり得る目的的なその何かをもてなければ発展できない、ということを考えることができます。発展するためには、横的により強い力が加重されなければなりません。そうでなくては発展できません。その力は、作用することができる目的と対象がなくては絶対にできないのです。
(54-11, 1972.3.9)
進化論の矛盾は何ですか。アメーバが進化、発展するためには力が必要です。どんどんと大きくなっていくためには第三の力が必要です。「私は上の段階、高い段階の物に生まれる!」とするなら、ある何かをそこにプラスしなければなりません。力が加えられなければ大きくなることはできないのです。第三の力が必要だというのです。アメーバがより大きくなっていける力を創造していきながら育つことができるのか、生きていくことができるのかというのです。そのようなことはあり得ません。
(265-58, 1994.11.20)
進化論では、どのように発展するというのですか。進化論は、入力と出力の法則と反対です。世の中にこのような原則がどこにありますか。進化論は絶対に大きくなることでしょう? 進化とは小さくなるということですか。進化論では、アメーバが自然発生してどんどん大きくなって上がっていき、猿に進化発展して人に進化発展したといいます。進化論によれば、それが大きくなるのですか、小さくなるのですか。しかし、力の原則においては、入力と出力が同じ時、絶対に大きくなることはできません。小さくなるのです。力の消耗が起きるというのです。
(37-16, 1970.12.22)


力学の世界では、入力・出力圏を中心として作動すれば、必ずロス(損失)が生じることになっています。落ちていくようになっています。ところが、大きくなって進んでいくことができるという論理がどこから出てくるのかというのです。「進化」ということ自体が、進んでいきながら変わるということ自体がプラスするという言葉ですが、それがどこでプラスされたのかというのです。投入した入力よりも出力が大きくならなければならないという論理を、どこから探し出すのですか。作用すればロスが生じるので、入力は出力より大きいのです。このような立場では、進化という論理は形成されないのです。それ自体が第三の力を投入することはできず、運動する世界では、入力よりも大きい出力を自分自体で発生することはできないのです。そのようになれば、無限の動力が出てきてしまいます。
その次の問題とは何でしょうか。今日、進化論を考える人々が、性関係を、プラスとマイナス、男性と女性、雄しべと雌しべ、プラスイオンとマイナスイオンが一つになり、その運動を通して出てきたということを忘れてしまいました。アメーバから人まで来ようとするならば、何千段階の愛の門を通らなければなりません。ところが、これがただ自然になったと考えています。でたらめな者たち! すべての種の原則は厳格なのです。第三者の介入を許す存在はありません。
(214-193, 1991.2.2)
進化論を主張しようとするなら、進化できるようにする力をどこからか補充することができなければなりません。そうでなければ、核の変革形態を自分自体に成し遂げて連合できる自制力がないというのです。それゆえに、進化は不可能だという結論です。
(117-72, 1982.2.1)
主体と対象があれば、必ず目的があり、方向性があります。ところが、進化にどうして方向性と目的があり得るのかというのです。進化論では、このような理論を適用できないのです。それゆえに、この目的と方向性によって共産主義を壊してしまわなければなりません。このでたらめな理論をもって世界を蹂躙じゅうりんしてしまおうとしたのです。アメーバが作用すれば、入ってくる力よりも作用が小さいはずですが、どのようにして大きくなるのかというのです。どのようにして大きいものが出てくるのですか。アメーバにおいて、入力より出力が小さいので、大きいものが出てくることができるようにするためには、第三の力が投入されなければなりません。そうでなくては進化論の根拠が壊れていくのです。アメーバ自身が第三の力を投入できる能力がありますか。このでたらめな者たち!
(210-155, 1990.12.18)
進化論を語る時、進化するアメーバ自体が進化の出発である3点をつくり出せるでしょうか。作用しようとするなら、運動しようとするなら、3点で回っていきながら、回転することができる4点基準を経ていかなければなりません。3点から4点を経なければなりません。円形で授け受けして運動しようとするなら、3点から4点を経なければなりません。ところが、アメーバ自体が、再び自己の位置に戻ってこられる、360度に循環させる力をもてるのですか。もてません。


それでは、3点の力は誰が加えたのでしょうか。それは、理論的に、他の違う力が加わらなければならないという事実を知らなければなりません。ですから、進化する時、進化の方向がどのようになるのですか。その方向性を誰が決定するのかというのです。進化するアメーバ自体は、方向性を備えることはできません。それを思うとき、突然変異というものは気が狂っている者のたわ言です。それを誰が受け入れますか。最近では、進化論というものは、既にごみ箱に入ってすべて腐ってしまったというのです。何というのでしょうか、肥料の山のように考えているのです。
(209-187, 1990.11.29)
今日では、物理学が発達し、「すべての原子にも意識がある」という二元論を主張しています。この論理は、統一教会の二性性相の原理と同じです。次元は違っても、すべての万物が聞き分けるというのです。そうではないですか。それでこそ細菌のようなものも生きるのです。そうではないですか。細菌のように見えもしない、何千万分の1にしかならない大きさで生きている細菌に耳がありますか、ありませんか。目がありますか、ありませんか。鼻がありますか、ありませんか。口がありますか、ありませんか。そこに生殖器がありますか、ありませんか。すべて備えているというのです。
(209-187, 1990.11.29)
ハナニムもこの世界を創造される時、3点から始めました。このように見る時、進化論というもの、「進化」という言葉を私たちは認めることができません。アメーバが作用するならば、作用するところにおいて3点基準を自分自ら選ぶことはできないのです。その3点基準は、もう一つ別の力によって形成されるのです。このようにして運動すればするほど、そこには必ず円形を経て運動したその点数を加え、球形運動を経ていくのです。
(212-277, 1991.1.8)
進化論を信じる絶滅分子たち、ここに進化論を信じる者たちがいますか。教授という安物がそのようなものをよく信じるでしょう? それがなぜそうなのでしょうか。ペアにならないものを、いくら力を通してやっても、ハナニムであっても、和合作用もしないのはもちろん、一つにもなりません! なぜですか。これが宇宙の法です! なぜですか。愛の理想を中心としてつくられ、相対性を分け与えたために、宇宙はペア・システムになっています。
アメーバから人になりますか。直線上では調和がありません。このようなことを理論的に話そうとすれば、時間がたくさんかかります。直線世界でどのようにして3点をつくり出すのですか。3点、4点、四角形をどのようにつくるのかという問題、ここから調和が成されます。円形はどこから出てくるのですか。直線からは出てきません。アメーバが3点自体を策定して、それを形成できる自力がありますか。ありません。運動すれば直線でするのです。
(211-254, 1990.12.30)
アメーバを中心として、数千の階段が愛の法ですべて積まれているのに、それがどのように愛の門、男性と女性の愛の門をすべて越えていくことができますか。できません。進化論の問題とは何かといえば、第3点はどこから来たのかということです。愛の峠を越えてのみ種の繁殖が可能なのに、その門を通っていったのか、そのまま越えていって猿になったのかというのです。その次には、雌と雄、このすべての鉱物においても、元素世界においてもプラスとマイナスがあるのですが、進化論というものが、プラスとマイナスの相対的概念より先にあったのかという時、それはあとだったというのが事実です。それでは、この宇宙の主体と対象関係を認めざるを得ないというのです。これは、自分の正道以上に越えていくことができないということです。
(263-273, 1994.10.15)


直線上には調和が成されません。直線は何かというと、2点を連結したものです。創造されるためには、3点、4点、スペースが必要です。この3点を誰がつくっておいたのですか。直線自体が知ることができるのかというのです。答えてみてください。上の3点に下の3点を誰がもってきて置いたのかというのです。そうしながら、宇宙のすべての発展をするのです。その話は、運動というものは主体と対象がなければならないということです。
それゆえに、主体と対象がなくてはなりません。また、それからもう一つは何ですか。力学の世界では、入力が出力より大きいのです。それでは、アメーバが運動するところにおいて出力が大きいという論理がどこにありますか。上がっていくのではなく、落ちていかなければなりません。そのような意味で、進化論は、すべて整理しなければなりません。
(215-232, 1991.2.18)
直線上には調和がありません。3点からすべての球形世界の調和基準が展開するのです。進化論には、3点を提示できる能力がありません。それゆえに、創造を無視できない伝統的な内容があることを知らなければなりません。直線上の点には、そのようなものはないのです。
(227-267, 1992.2.14)
宇宙の創造から見るとき、直線世界でどのようにして3点の基準を立てるようになったのかと考えてみるならば、進化論の観点で宇宙が始まったという結論は下せないことが分かります。3点を中心として始まったというのです。三つの点があるというのは、必ず相対を中心として見るとき、それを連結させてあげる核があることを意味するのです。
(227-30, 1992.2.10)
進化論は、既に過ぎた廃論です。方向性がありません。このようなことを中心として見るとき、方向性が設定されたということは、プラスとマイナスの二つに、相対圏にすべて共同的な利益をもたらし得る道が決定したのです。中道であると同時に、正道の道を行くのです。二つとも喜ぶことができる道を行くのです。進化論者たちは、入力と出力の関係に対する論拠に解答できませんでした。しかも、方向性を提示できませんでした。第3の力を加えて、より大きいものを引き込み得る内容的力を、アメーバ自体が介在させる自主力をもったのかというとき、もっていないのです。話もするなというのです。その方向性は、愛の方向性です。
(207-256, 1990.11.11)


進化論を結論づけて越えていこうとするなら、進化することができるためには、アメーバが大きくなれる第三の力を自分で創造しますか、補給されますか。アメーバが進化して大きくなるためには、現在の状態から大きくなろうとすれば第三の力が加えられなければなりませんが、自分が創造しながら大きくなりますか、他人の力を受けて大きくなりますか。創造することができなければ、力を受けたという論理を否定することはできません。
また、骨が同じだからといって、無条件に進化するのですか。そのような狂った者たちは、いてはいけないというのです。精神病者です。アメーバから猿まで行くときには、数千種の階級があるということを知らなければなりません。種の区別があるということです。それは何かというと、すべての種は、男性と女性、雄と雌の愛の門を通じてのみ出てくるようになっているというのです。ところが、数千種の愛の門を通過することを忘れてしまって、骨が同じだ、似ているからと、「進化した」と言うことができますか。その数千の門の、階級の愛の峠をすべて越えていって発展したのかという話です。
(263-273, 1994.10.15)
生まれる時に、目を閉じて生まれますか、目を開いて生まれますか。では、私がいつ目を開けると思って開けましたか、自然に開けましたか。また、母親の乳を飲むという教育を受けましたか、受けませんでしたか。ところが、どのようにしてそのようになりましたか。そこには見えない磁石のひもがあります。作用するすべてのものに、原則的な道があるというのです。このように思うとき、すべての作用は、偶然に展開するのではないことを私たちはここで知らなければなりません。
今日、進化論者たちは、「宇宙が発展した、自然発生だ」とこのように言うのです。ところが、どのように自然発生するのかというのです。どのようにして、そのまま自然発生することができるのかというのです。原因もなく、動機もなく、過程もなく、結果もなく発生することができるのかというのです。動機が最初であり、原因が最初であり、その次が方向です。それでは、なぜ方向が出てきたのかというのです。存在それ自体が、「私はこのように行くべきだ」ということを意識して行きますか。目は、なぜ開かれるのですか。目を開ければ、開けるやいなや中を見つめますか、外を見通しますか。なぜ、そのように見なければならないのかというのです。そのような方向性がどこから出てくるのですか。どのようにしてそのようになるのかというのです。存在するものは、方向に従っていくために存在する、ということを私たちは知ることができます。
(94-10, 1977.6.19)
私たちは、目一つにしても答えることができないのです。今日の弁証法や進化論をもって、このことを話すことはできないというのです。皆さんは、今後、共産主義者と闘わなければなりません。今から進化論と弁証法を壊さなければなりません。進化論さえ壊してしまえば、弁証法は壊れるというのです。今の闘いは何ですか。意識が先か、物質が先かという問題です。共産世界は、「物質が第一である、物質が最初である」と言い、民主世界では、「意識が先だ」と言います。目がどのように生まれたのかというとき、「目がただ生まれたいと思って生まれた」と考える者は狂った者です。
鼻はじっとしているのに、なぜ目は動くのですか。「なぜ目が動くのですか」と言うときに、「動きたいから動く」と言うのが進化論式であり、弁証法式です。目の目的は見ることです。見ることに目的があるので動くのです。目的を達成するために動くのです。鼻は、ほこりがくっついてもじっとしているのに、目は、なぜこのように絶えずぱちぱちまばたきするのかというのです。なぜですか。なぜそうなのかというと、水分が蒸発して乾くので、水蒸気をまいてあげるためにそのようにするのです。まゆ毛は、なぜ生えているのですか。ほこりを防ぐために生えています。「なぜ、そのようになっているのか」と言う時、「そのようになってみたいと思うからそのようになるのだ」と言うのが進化論式であり、弁証法式なのです。それは、そのように簡単ではありません。それが「ただそのようになった」と言う者がいれば、「この者たち、狂った者め! たわ言を言うな!」と、このように言うのです。
(93-176, 1977.5.29)


ハ) 愛の論理から見るとき、進化論は間違っている
進化論を解決しなければなりません。進化論が問題です。進化論のコンセプトと実在は、共産主義が問題とするのです。見えないものが貴いのです。ハナニムが見えますか。良心が見えますか。愛が見えますか。人間に最も貴いのはこの三つです。見えない三つの貴重なものがハナニム、良心、愛です。良心があることはみな知っているでしょう?「良心はない」と言う人がいますか。「愛はない」と言う人がいますか。しかし、目には見えません。見えないのでどのようにするのですか。どこにでも入っていくことができ、どこにも一つになることができるのです。見えれば入っていくことができますか。見えないので細胞の中にも入っていくことができるのです。通じない所がないということです。それは論理の根源を探すことができます。愛だけは誰も制止できないのです。まことの愛は、宇宙が制止できず、妨げることができないのです。
(239-68, 1992.11.23)
進化論が先ですか、雄雌の概念が先ですか。どちらが先ですか。実在が先ですか、愛に対するコンセプトが先ですか。これは深刻な問題です。共産党を押し倒すためには、進化論を克服することができる論理を、はっきりと知らなければなりません。アメーバが現象世界以前にいたでしょうか、その以後にいたでしょうか。アメーバから人間までの発展の連結体制を成すには、どのようになっているのですか。愛によって実体が発展するという概念は無視して、そのまま進化によってアメーバから人になったという、そのようなばかげた論理が世の中のどこにありますか。
(235-23, 1992.8.24)
中世時代から今まで、歴史を経てきたキリスト教文化圏が最も混乱したものとは何かというと、人本主義思想です。人本主義思想を中心として出てきたチャールズ・ダーウィンの進化論が、キリスト教を滅ぼすことにおいて、首を締めてつるし上げるのに主導的な役割をしたのです。「ハナニムはいない」と言ったのです。環境圏内において、主体と対象になるのが雄と雌の相対概念です。雄と雌、人でいえば男性と女性のコンセプトですが、このコンセプトが先でしょうか、進化論が先でしょうか。環境には主体と対象があるのですが、そこには進化がありません。環境の中には必ず主体と対象があります。鉱物世界でも電子が陽子を中心として回っているのです。分子なら、プラスイオンとマイナスイオンが一つになって運動しているのですが、それらが進化論よりも先にあったでしょうか、あとにあったでしょうか。先です。先にあったというのです。
(245-49, 1993.2.28)


進化論が先ですか、宇宙の雄と雌の概念が先ですか。主体と対象が先ですか。鉱物世界にもプラスイオンとマイナスイオンがあり、主体と対象によってすべてペア・システムになっているでしょう? 植物世界もそうでしょう? 雌しべと雄しべがあり、主体と対象の相対的関係です。動物世界はどうですか。雄と雌になっています。宇宙の天理です。不変の天理です。これを人間の力、ある自為的な力をもって種別に対する雄と雌を変更させることができるものは、この地上に永遠に誰もいません。いれば大変なことになるのです。
進化論を片づけてしまいなさいというのです。進化論がある前に、そのような雄と雌の思想があったということを知らなければなりません。宇宙の神秘な秘密の中に隠された秘密、そのような秘密であり、今まで人間が知らずにいたのが雄と雌の概念であり、この概念が宇宙を形成したという、主体と対象関係で宇宙を形成したということを知らなければなりません。進化論が先ですか、雄と雌の概念が先ですか。雄と雌の概念です。イエス様がこの地に来て雄と雌の概念を革命しようと言いましたか、言いませんでしたか。
(272-255, 1995.10.6)
進化論を中心として見るとき、どのように進化したのですか。自分だけがいて、アメーバだけで進化したというのはでたらめです。自分だけがいれば発展するのですか。あなたと私とで喜ぶことができるその内容を中心として発展するのです。発展は、あなたと私の間の相関関係において、理想的な授受をすることによって、より次元の高い発展が展開されるのです。
(86-114, 1976.3.14)
進化論では、アメーバから人まで発展したと見ます。発展がどれほど複雑ですか。1段階より高い生物がそのまま環境に適応して発展してくるのではありません。1段階高い存在の位置に上がっていくためには、必ず雄と雌、プラスとマイナスの愛の過程を通してこそ成されるのです。ところが、進化論では、このような問題を無視しているというのです。雄から雄に行って再び雌に行き、また雌に行って、このように生きることができるのかというのです。その方向性を見れば、必ず愛の門を通じて次元の高い存在になるのです。ところが、進化論者たちは、それを知らずにいるというのです。進化するためには愛の門を通過しなければなりません。
(208-235, 1990.11.20)
進化して男性と女性になったという言葉が問題です。愛という観念が進化する前にあったのでしょうか、進化したあとに生じたのでしょうか。どうですか。前ですか、あとですか。前です。今では、細菌までも夫婦があるというでしょう? アメーバではなく細菌です。何十万倍、何百万倍に拡大して見ることができる細菌の世界にも夫婦というものがあるというのです。その細菌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか。どうですか。おもしろいでしょう? 万物がペア・システム、相対になっているということ自体は、愛を中心として成されたものです。このことを考えてみれば、愛の感性とは進化する前からあったという話になります。


それならば、アメーバから人間まで進化するのに、雄と雌が交流する何億段階の等級をどのようにして越えることができるのですか。これは、既に理論に合わないのです。そのような理論は、今ではもう古くなりました。進化論は大変なことをしでかしているのです。これは、歴史上において、「ハナニムはいない!」といってハナニムを否定する共産主義が発展した基台になったのです。
(223-355, 1991.11.20)
宇宙は、どの方向に向かっていますか。その方向性をつかむことができなければ目的観が出てこないのです。共産主義者たちは、進化論を語るので目的観がありません。しかし、すべての存在物は、既に主体と対象になっていれば、必ず愛というものを中心として作用します。ですから、それを連結させていく道が愛の道です。愛の道を訪ねていくのです。
(260-12, 1994.4.11)
今日、進化論もこのような原則で発展するものとして説明しなければなりません。二つの心が合って、お互いにより大きな目的によって刺激を受けなければなりません。刺激を起こし、その目的を中心として二つが追求してこそ、より高い所に行くことができるというのです。ですから、必ず主体と対象がなければなりません。その二つの間に起きる刺激とは何かといえば、愛だというのです。
(265-190, 1994.11.21)
進化論に愛の論理がありますか。なぜ凹凸が生まれたのかという理論的な根拠を語っているのかというのです。それでは、進化論が先ですか、雄と雌の概念が先ですか。どちらですか。雄と雌が先です。雄と雌が先ですか、愛の概念が先ですか。どちらですか。愛ゆえに雄と雌が生まれたのです。
(274-93, 1995.10.29)
宇宙の根本がどこから始まったのですか。進化論ではありません。それを知らなければなりません。進化よりも先に、創造の概念がある前に雄と雌がいたことを知らなければなりません。雄と雌はなぜ生じましたか。愛ゆえにです。愛、これが公式です。
(280-60, 1996.11.1)
すべての存在物は、すべてペア・システムになっているというのです。進化論者に「雄がなぜ生まれましたか」と尋ねれば、何と言うのですか。「自然に生まれたのでしょう」と、また「雌がなぜ生まれましたか」と言えば、「自然に生まれたのでしょう」と言うのですが、それは狂った人です。自然に生まれたのですか。すべての雄と雌は、自分の系列を存続させるために生まれたのです。他の系列ではありません。猿が人になって、蛇がかえるになるのではありません。それは正しいですか、正しくありませんか。雄と雌が愛の門を通るという事実を知らずにいる、全く無知な人々です。
(209-193, 1990.11.29)


主体と対象の相対圏は、宇宙が保護します。このような道理で進化論を見れば、どのようになりますか。アメーバから、そのまま行くことはできません。必ずプラスとマイナスが一つにならなければなりません。この一つになったものは、また一つの大きなプラスになるかマイナスになるのです。このようになり、ある存在は上に上がっていって、ある存在は下に下りていくのです。このようにしてその全体的な一つの主体的性格の基準の前に、自分に合う相対的主体性に該当するプラスの対象的存在ならばプラスに行ってくっつき、その大きな主体に対してマイナスの対象的存在ならばマイナスに行ってくっつき、もう一つの大きなプラスになるかマイナスになるかして、より大きな世界に向かって発展していくというのです。
(218-266, 1991.8.19)
進化論をどのように撃破しますか。学者を中心としてその進化論が問題です。進化する前、猿の雄と雌も進化してそのようになりましたか。どうですか。雄と雌は進化してできましたか。すべてのものが、鉱物世界はプラスイオンとマイナスイオンであり、植物世界は雄しべと雌しべであり、昆虫世界の小さな虫もすべて雄と雌ですが、この雄と雌は、進化して生まれたのですか。進化論者に雄と雌が生まれた起源とは何かと尋ねてみてください。それを何だと答えますか。繁殖するためであり、愛するためだということを否定できません。
(221-145, 1991.10.23)
進化は、どこから始まったのですか。これが問題です。今日の若い知性人たちは、この問題に引っ掛かり、このわなから抜け出すことができずに、すべて地獄に行っているのです。進化は、どこから始まったのかといえば、アメーバから始まったというのです。進化なのか、ハナニムが創造した調和なのか、この二大論理が文総裁によって、きれいに整理されます。進化論は、ハナニムを否定する共産党無神論が作り出したものです。進化論は、科学世界に途方もない被害をもたらした怪物です。それは処断しなければなりません。進化がアメーバから始まったとするなら、それより何十万倍、何百万倍も小さなそのような世界を顕微鏡で見ることができますが、そこにいる菌の雄と雌は、アメーバがいる前にいたのでしょうか、あとにいたのでしょうか。
(222-78, 1991.10.28)
一つ知らなければならないことは何ですか。進化論よりも愛というものを中心として雄と雌が先にあったのでしょう? この進化論が問題です。進化して雄と雌が生じましたか、進化する前に雄と雌が生じましたか。愛という内容を中心として実体が生まれたのです。愛ゆえに生まれました。男性と女性、雄と雌が一つになるのは愛のためです。進化というものはあり得ないというのです。進化する前に愛のコンセプトがあって実体が生まれたので、進化という言葉は、男性と女性、雄と雌にはふさわしくないというのです。愛ゆえに生まれました。
(223-246, 1991.11.10)


進化論を主張する前に雄と雌、愛の概念が最初にありました。それは、進化論以前にありました。男性と女性は、愛ゆえに結婚して一つにならなければなりません。一つになるのは何のためですか。それは、愛の目的を得るためなのです。ここには進化論の内容も何もないのです。
創造の公式的な一致観を認めることはできますが、進化して雄自身がどのようにして雌になるのかという観念、また雌自体が、女性である私が男性になるという観念をどのようにもつのかというのです。そのようにはならないというのです。自分自体ではなりませんが、そのようになった結果論から見れば、その動機は愛であるという観念を否定できません。雄と雌を考える時、進化論は絶対に成立しません。結局、雄と雌は何のために生まれたのでしょうか。愛ゆえに生まれたというのです。
(224-126, 1991.11.24)
宇宙には進化という観念がなかったというのです。増加するという観念は、本来愛を中心にして始まったのです。愛の観念から進展の編成を展開させるものがハナニムの創造理想です。進化論に先立つ愛の観念を考えてみても、そこに連結する雄と雌の内容を、どのように進化論によって理解させることができますか。愛の感情は、進化する前からありました。それは、自分とは関係ないのです。
男性と女性が生まれる前から、存在前からあったのです。したがって、観念が先だというのです。愛の本宮とは何ですか。本宮が何か分かりますか。
(224-143, 1991.11.24)
進化論という言葉が出てきたので、一言話して次に行きましょう。鉱物世界にはプラスとマイナスの概念があります。動物世界にも雄と雌がいて、植物世界には雄しべと雌しべがあります。すべて雌雄しゆう関係です。それから人間世界には男性と女性です。
ところが、男性と女性がいたずらに生まれたのですか。それは、何のために生まれたのでしょうか。これは、すべて主体と対象関係です。授け受けするために、運動するためだというのです。それ自体の愛を中心としてこのようになったのです。
(240-290, 1992.12.13)
進化論がキリスト教を破壊させるのに、どれほど貢献したか分かりません。しかし、今、進化論を私の手で握りつぶすことのできる時代が来たというのです。進化論を信じますか、信じませんか。文総裁の話を信じますか、進化論を信じますか。今、整理して越えていかなければなりません。これは、うそだというのです。愛の力は何千万代を経るのに、アメーバがそのまま何千段階の愛の門を通って人になることができますか、アメーバ自体がそのような能力、飛翔ひしょう天することができる、そのような資質をもつことができますか。
(240-297, 1992.12.13)


 

② 進化論は既に時代後れの思想

今、世界の主流思想から見るとき、概念と実在が哲学世界の2大主流になり、有神論と唯物論、左翼と右翼の闘争によって世界に及ぼしたその被害は、莫大ばくだいなものです。左翼思想というものは、進化論によって世界的に覇権をもつようになりました。男性と女性という概念が先ですか、愛が先ですか。男性と女性がいる前に、愛という概念が先にありました。愛が先にあったので、男性と女性もそれに対して備えて、その愛の概念に一致するようになっているというのです。
それゆえに、概念と実在は分かれるものではありません。このように、概念と実在が愛によって一つになることができる、ということを共産主義は分かりませんでした。
(228-162, 1992.3.27)
今まで世の中の学者において進化論が先か、ハナニムの創造が先かということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先ですか。進化論が先ではなく、愛の概念が先にあったあとに、それがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じ、その中で形体的な構造が合うものが、進化論の形態に合っているだけであって、根本が進化の概念だからというわけではない、ということを知らなければなりません。
すべての鳥の種類は、形態がすべて同じです。しかし、種の区別は違います。すずめとほおじろが夫婦になって子を産むことができますか。それはできないというのです。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。とんでもないことです。種の区分は絶対的です。
(228-61, 1992.3.3)
共産主義も「ハナニムがいる」と言って帰ることができる、そのような思想的概念をどこで探すのかというのです。絶対的に唯物論を、絶対的に進化論を否定することができるように確定しなければならず、心と体が一つになることができるように確定しなければならず、理想的出発を自分から始めなければならないという、このような基準をどのようにしてつくるのか、統一するのかという問題が世界史的問題です。
共産ブロックが進化論を主張して、創造論は宗教圏が主張して、この二つが闘いました。それで、世界的ブロックが主張したことが、すべて失敗しました。ですから、どこからこれが出発しなければならないのかといえば、世界的基準ではないのです。個人に入っていかなければなりません。個人から誤ってこのような結果になったのですから、個人から唯心、唯物を中心として判定しなければなりません。
進化論を取り除いてしまい、絶対的ハナニムを中心とした創造論を中心として、絶対的ハナニムを中心とした絶対価値の核を立てなくては、世の中が行ったり来たりするというのです。
(270-96, 1995.5.7)
今日、進化論や唯物弁証法、認識論、唯心論、唯物論等により、世界の思想界は矛盾と混乱に陥ってしまったので、絶対真理を樹立してこそ絶対的価値世界の形成が可能なのです。絶対価値的存在は、永遠、不変、唯一の存在です。それでは、宇宙の中で永遠、不変、絶対の原理が何かというと、原因と結果、主体と対象の関係だという結論になります。
(89-226, 1976.11.27)


今日、進化論が事実か、調和の創造が事実か、ということが大きな問題になっているのです。その進化論の方向性は誰が決定するのですか。自分が決定するのですか。発展するその物質が決定することができますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結ぶ力をどのように育てられるか、もっと抱くことができるか、プラスさせることができるかということが問題です。
それは、ハナニムによって可能なのです。そのような問題は、科学も解明することができません。それゆえに、物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望的方向はハナニムと一つになることです。それが目的です。同じです。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的代表、この物質世界の代表が人間だというのです。
(111-127, 1981.2.8)
思考の根拠地はどこですか。ある人は頭にあるといい、ある人は胸にあるといいます。それでは、自分が胸にいるのですか、頭にいるのですか。それだけではありません。このように見ると、自分が、存在するというよりも、生まれたということ、存在するということは結果的なことなので、どのようにして生まれたのでしょうか。すなわち、起源がどのようになっているのでしょうか。これが問題です。自分は、どこから始まったのですか。
一般的に人々は、人間が動物界から進化したと考えます。それは、仕方なく作った方便的な理論です。論理的に連結させるために仕方なく方便的にくっつけたものであって、本当に進化したかということは知り得ないというのです。私たちの精神的本質がアメーバから始まったのですか。精神的先祖がアメーバなのかというのです。進化論では、アメーバから出発してすべて発展したというのです。
(117-68, 1982.2.1)
今日の哲学思想、その哲学思想とは何かというのです。これは、すべて一番下から探求していくのです。ところが、これが、「どのようになっているか」と理論的な追求をしてきましたが、「人間とは何か。まことの人間とは何か」ということに対してまだ結論が出ていません。すべての学者、すべての有名な哲学者が人間の問題を中心として考えましたが、この結論がまだ出ていないのです。「人間とは何か。人間の起源とは何か」ということに対して、進化論や創造説による様々な学説を通しても、まだ解決されていないというのです。「こうだ」と言える決定が出ていないというのです。
(170-144, 1987.11.15)
すべての経典を見れば、孔子もあいまいです。人格的神を知らなかったのです。お父様を知らなかったのです。生まれた私たち人間の根本であるお父様がいるはずですが、お父様を知らなかったのです。また、仏教も万象帰一の法を論じますが、人格的神を知らないのです。うっかり間違えば、唯物論に陥りやすいのです。進化論に陥りやすいのです。進化論的見地の発展的信仰基準に立つために、これは唯物論に接近しやすいのです。
(198-257, 1990.2.4)


フランス革命以後、人本主義思想を中心として、啓蒙思想を経て、今の共産主義までに至るその過程において、このチャールズ・ダーウィンの進化論を中心として、共産主義が一つにまとめられ、今までキリスト教を完全に破壊のふちまで追い込んだのです。
(213-65, 1991.1.14)
今日の科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力がある前に作用が先だという事実を知らずにいます。作用があるがゆえに主体と対象があるという事実を知らないので、混乱が生じるのです。主体と対象の概念によって事物を判断するときには、進化論が根本的に壊れていくのです。
(131-212, 1984.5.4)
最近、進化論のようなものは、アメリカの大きな大学では講義しない所が多くなったといいます。それは当然のことです。「自然にできた!」と言いますが、皆さんが自然にできたと考えれば、それはどれほどむなしいでしょうか!「自然にできるのですか。自然も主体的な自然がありますか」と言えば、「それは、私には分かりません」と言います。
このような話がどこにありますか。どのようにして主体的な自然があるのですか。「それはそのようになっている。生理作用がそのように、発展現象はそうなるようになっている」と言うというのです。「そのようにですか。なぜそのようになるのですか」と言えば、「それは、誰も分かりません。それは、そのようになったので、そうなのです」と言うのです。そのような論法は、あり得ないのです。原因がない結果は、あり得ません。因果法則を否定する科学論理というものは、あり得ないのです。
(159-267, 1968.5.19)
今、進化論は、流れていった一つの歴史的遺物になっていますが、進化して発展するというでしょう? 進化すれば、なぜ逆にはならなかったのですか。逆さまになることもあり得るのではないかというのです。東にも行くことができて、西にも行くことができて。進化することができる方向を誰が定めてあげたのですか。自分で育ちながら方向を定めるのですか。アメーバから発展して人になる時まで、数多くの高次元の段階を経ていくのに、その方向を、高次元に向かって発展することができる方向を誰が定めてあげたのかというのです。なぜそのように高次元に向かうのかというのです。
(166-212.1987.6.7)
各宗教の経典の欠点とは何かといえば、創造説がないというのです。ハナニムが創造されたプログラムがないというのです。それで、あらゆる論理を中心として論考を書くのです。創造説がないので、創造の方向と創造目的を知らないのです。これだから世の中が自分勝手になり、進化論だ、何論だというものを掲げてきて自分の思いどおりにやってしまい、自分の思いどおりに行動してきたというのです。
ですから、創造説がどうだということをはっきり知らなければなりません。その次には、方向性と目的性があり、これがこうなのですが、なぜこのような悪なる世界になっているのかという、その理由を糾明きゅうめいしなければなりません。その原因を糾明し、聖書とか歴史的な過程において、人類歴史の中で滅びた国がなぜ滅びたのかという、そのすべての起源を解決していかなければなりません。一般常識的な立場で、誰でも妥当性があると公認することができる論理的体制を整えた歴史観がなければならないというのです。
(212-323, 1991.1.11)


絶対的な愛の前には、第三の相対者を絶対に付与しません。このような論理が本物ならば、進化論はあり得ないのです。アメーバも、それだけでは発展できません。陽性、陰性の内容を通して、愛の門を通じて新しい次元を経ていかなければなりません。すべての宗教の教理は、愛の門を通るという論理、またここには第三者の介入が不可能だという天理を考える時、進化論はあり得ないという結論が出てくるのです。
(203-343, 1990.6.28)


 

第2章 人間創造と愛の理想の完成

   

1) 愛の絶対価値

 

① 人間の男性と女性

宇宙の根本を考える時、何を考えて造ったのかといえば、男性と女性の概念を通じて、それに合うように相対的理想として造ったというのです。今まで、これが分かりませんでした。
(300-217, 1999.3.14)
宇宙の根本とは何かというのです。人間だとすれば、男性と女性がいます。その人間は、なぜ生まれたのかというのです。人間は、なぜ生まれましたか。これが問題です。宇宙の最も根本になる中心とは何かという問題、宇宙の最も貴いものは何かという問題を、私たちは扱わなければならないというのです。
(217-94, 1991.5.4)
宇宙の根本を探し求めていくと、主体と対象の概念が生まれてきます。ここにいる小柄な女性たちも、力をもっているでしょう? では、この小さい女性の力が願うものは、小さい男性の弱い力ですか、大きい男性の強い力ですか。男性も同じです。男性も小さい男性ならば、大きい女性の力を願うのです。それは、なぜそうなっているのでしょうか。バランスをとるためです。バランスが問題です。水平、または垂直にならなければならないのです。それゆえに、相対的理想というものがそこから出てきます。そこから、相対的理想が出てくるというのです。
(216-9, 1991.3.3.)
人間の中には何がいますか。男性と女性がいます。それでは、男性と女性とは何ですか。種の中の種、焦点は、男性と女性を中心として、誰が焦点となるのかということが問題です。この男性と女性も、プラスとマイナスでできているというのです。必ず、プラスとマイナスがあるというのです。何かの種を見ても、二つのかけらがぴたっと一つに包まれています。一つの殻の中に、二つが入っています。これは、宇宙の根本を表しているのです。宇宙の根本が、すべてこのようになっているというのです。
(255-79, 1994.3.6)
宇宙の根本は、どのようになっていますか。原因なくして生まれたものはありません。必ず原因があって、初めて結果が現れます。このように見るとき、男性と女性が生まれた原因とは何かというのです。女性が生まれたのは男性を捕まえて食べるためですか。男性が生まれたのは女性を捕まえて食べるためですか。愛のためです。愛のために生まれたとすれば、女性も愛のために生まれ、男性も愛のために生まれたというのです。愛が原因なのです。
(283-251, 1997.4.13)


女性は、なぜ生まれたのでしょうか。愛のために生まれたのですが、男性のために生まれたというのです。男性のために生まれました。男性は、なぜ生まれたのですか。女性のためです。宇宙の根本は簡単です。それが天理であり、真理です。これを変えることができる他のものはありません。この簡単な真理が今まで分からなかったのです。
(278-203, 1996.5.24)
女性は、生まれてどこへ行きますか。いったい女性がなぜ生まれたのでしょうか。これが問題です。女性は、女性に生まれたことを嘆いたことがあるでしょう? なぜ女性に生まれたのかというのです。簡単です。哲学の最も根本となるこのことを知らなかったので、そのように思うのですが、簡単なのです。男性のために生まれたのです。簡単です。宇宙の真理です。
(246-222, 1993.4.18)
根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、ハナニムが創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。
「男性と女性がこうなっているから、愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから、男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。
(226-81, 1992.2.2)
人は、なぜ生まれたのでしょうか。生まれるときに、自分のために生まれた人はいないというのです。人がこのように生まれたとすれば、生きるのも自分のために生きる人は、生まれてきた本来の根本原則に背くのです。そのような人は、脱線者であり、落伍らくご者であり、堕落者であり、破壊者だというのです。学校でこのようなことを習いましたか。「自分のために生まれた」と言う人は、この宇宙が要求しないのです。
(221-313, 1991.10.27)
女性のものは、女性のためのものではありません。男性のためです。そうではないと、否定できる人がいますか。それゆえに、何ももっているものがありません。「な(名)」しかない「おんな(御名=女)」だからといって、それが恥ずかしいことではないというのです。どこでも調和が可能です。おばあさんとも、お母さんとも、おじいさんとも、親戚しんせきのおばさん、おじさんとも調和することができます。女性という中心性を大きくしないので、その相対圏の幅がどんどん広くなるのです。これは、宇宙の創造原則に根本をおいた公式的な基盤に連結するものなので、それは確定していくのです。
(255-144, 1994.3.10)
種が一度一つになれば、その二つが一つとなった種は、その二つ自体に他の種がありません。それを壊すことは、宇宙を根本的に破綻はたんさせる立場、再創造過程をすべて破綻させる立場に立つのです。それはサタンです。それゆえに、自分の妻は、自分の妹です。そして、ハナニムの子女として見れば、双子です。生まれたのは、男性のために生まれ、女性のために生まれたのです。女性は、女性のために生まれたのではありません。女性は男性のために、男性は女性のために生まれたのです。人が生まれたのは、自分自ら生まれたのではありません。それゆえに、男性を好むのは男性ではないのです。女性です。女性を好むのは、女性ではなく男性だというのです。そうでしょう?
(253-65, 1994.1.7)


まことの愛を中心として私が完成するには、相対がいなくてはならないのです。相対がどれほど貴いかということを知らなければなりません。皆さん、真の愛がある前に相対が先です。相対が先であることを知らなければなりません。それを打つということは、宇宙の根本を打つことと同じです。ハナニムを打つことであり、ハナニムの体を否定することです。それを知らなければなりません。それゆえに、すべての真の愛が安着し得るところは、男性だけではなく、女性だけではなく、二人が、男性と女性が一つになるところにあるということを知らなければなりません。このような観点から、夫婦を中心として自分の家庭を中心に、「宇宙は、私に似ている」というのです。
(248-53, 1993.6.20)
男性と女性が、全く同じでもよいでしょうか。男性と女性は違うのです。根本的に違います。男性が東側ならば女性は西側であり、男性が南側ならば女性は北側です。女性が「なぜ男性は、私と同じではないのか」と言ってはいけません。女性が弱ければ男性が強くなければならず、女性がおとなしければ男性は大胆でなければなりません。また、男性は肩を振って進み、女性はおしりを振って進まなければなりません。このように違います。肩を振ることは、すべてを揺さぶることです。それが宇宙のトーン(tone)です。宇宙に拍子を合わせるのです。
(167-220, 1987.7.19)
男性は女性のために生まれて、女性は男性のために生まれました。では、男性と女性は、なぜ生まれたのですか。これは根本問題です。なぜ男性と女性が生まれたのですか。ハナニムの愛のためです。これが問題だというのです。男性と女性、二人がなぜ一つにならなければならず、お互いに出会って何をしようとするのかということです。水平となって球形の中央に到着するためです。宇宙は、すべて球形に似ています。地球も丸くて、ぷかぷか浮いているでしょう? 宇宙も、太陽もすべて浮いているのです。
(173-205, 1988.2.18)
なぜ男性が生まれたのですか。男性が生まれた目的は簡単です。女性のために生まれました。女性は、なぜ生まれたのですか。男性のために生まれました。女性は男性がいなければならず、男性は女性がいなければなりません。アダムとエバは何のために生まれたのですか。愛のためです。人間は、何のために生まれたのですか。愛のために生まれたのです。それはなぜですか。ハナニムが愛を必要とされるからです。愛のスープを飲んでこそハナニムが喜ばれます。朝食、昼食、夕食を食べながらも、「ああ、気分がいいなあ!」と言われます。


ハナニムがお金のふろしき包みをもらったとすれば、喜ばれますか。知識のふろしき包み、権力のふろしき包みを必要とされますか。しかし、人間が最も貴いと思う愛のふろしき包みには、ハナニムも一目でとりこになってしまうのです。「家和万事成いえわしてばんじなる」とはよく言ったものです。「家和万事成」という言葉は、宇宙の根本をいっているのです。それがなぜそうなのかということは、統一教会に来てみれば明らかでしょう?
(148-33, 1986.10.4)
女性は、なぜ生まれましたか。男性は、なぜ生まれましたか。自分が生きるために生まれたのではないのです。この宇宙と共に、ハナニムの本性の根本と結果のすべてを保護して、そのような価値的存在として生きるために生まれたのです。それゆえに、万物のすべての特性を、捕まえて食べようとするなら自分と似たものを捕まえて食べ、愛することができなければなりません。昆虫たちも、雄と雌で喜んでいるでしょう。それを知っていますか。虫たちもそうです。ちょうたちも、雄花と雌花が開いて香りを振りまく所を好むでしょう? 雄と雌が愛する運動圏内に行って、動き、暮らし、食べようとするのです。
(303-286, 1999.9.9)
堕落せずに本来どおりになっていれば、教えられなくても分かります。では、男性と女性は、なぜ生まれたのですか。それが問題です。愛のためです。その愛は、なぜ必要なのですか。愛で何をするのですか。愛のために死ぬとか生きるとか言うでしょう? そうではないですか。なぜ命を懸けて死ぬとか生きるとか大騒ぎするのですか。それが命の根源だからです。根本が絶対的愛、一つの愛を訪ねていこうとするのであって、二つの愛を訪ねていこうとはしません。これが宇宙の大道たいどう、天理です。億千万世がたっても、この法はなくなりません。天上世界に行っても、この法が審判の基準になっています。
(191-36, 1989.6.24)
母親の生命、父親の生命を何によって血筋に連結させることができますか。愛を中心として血筋が連結されるのです。宇宙の根本に踏み込んで入っていくと、このようになります。私たちのような人は、深刻な人です。深刻な人です。宇宙の根本とは何かという問題、これは深刻な問題です。
(191-11, 1989.6.24)
宇宙の根本は、愛、生命、そして血統です。それが「私」として結実しているというのです。それで、私は、愛の中心をもっているのです。生命の保護体です。それで、血統により歴史性、伝統性を連結するのです。皆さん、この三つが必要です。皆さんもこの三つをもっているでしょう? 愛をもっているでしょう? 生命ももっているでしょう? 血統ももっているでしょう? この三つを一つに合わせて、新しい人が誕生します。
(190-223, 1989.6.19)
ハナニムの愛と人間の愛がいつ一つになるのか、ということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、ハナニムは核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽はいがを包んでいるでしょう? それと同じように、ハナニムを核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。
(177-142, 1988.5.17)


男性と女性の二人が出会うのはなぜかといえば、愛のために会うのです。男性がなぜ生まれたのかといえば、愛のために生まれ、女性がなぜ生まれたのかといえば、愛のために生まれたのです。その愛をして何をするのかといえば、ハナニムを占領するためなのです。ハナニムを占領して、宇宙の根本を占領するためなのです。原因と結果が一体となって和合するのです。実というものは、原因と結果が一つになった位置で、すべてのものを一致化、合致化させたものです。実がなったので、ここから芽が出てくるのです。子が出てきて広がっていくのです。それゆえに、二人の父母の血肉を受けて生まれるのです。
(197-143, 1990.1.13)
「私」が生まれたのは、愛のためです。愛! このことが分かりますか。宇宙の根本がこれです。愛、真の愛! 男性も女性も同じです。
(198-122, 1990.1.25)
二人が一つになるには、何を中心として一つになるのですか。ハナニムを中心として一つになるのではありません。男性を中心として一つになるのではなく、女性を中心として一つになるのではありません。ハナニムとアダムとエバが真の愛を、絶対的愛を中心として統一が展開するのです。これが宇宙の根本です。簡単です。ハナニムも、愛がなければ孤独なハナニムです。
(144-150, 1986.4.12)
かぼちゃの葉は、何のために呼吸しますか。生命を維持するためです。生命は、何のために維持されますか。愛のためです。女性は、何のために生きているのですか。男性は、何のために生きているのですか。お金のために生きているのでしょうか。愛のために生きているというのです。
(223-150, 1991.11.10)
愛する妻を100億、1000億のお金と取り替えますか。深刻な問題です。本当に愛が貴いということを知ればです。この愛は、宇宙の根本と通じるのです。これがなければ、すべての根源が損傷するということをはっきり知っている立場にいるとすれば、これを何と取り替えますか。国と取り替えますか。
(201-15, 1990.2.28)
共産党を支持しますか、民主世界を支持しますか。民主世界は有神論です。「精神が先だ」と言います。私たち統一教会は、「精神と物質は一つだ」と言うのです。これが統一論です。主体と対象を論じています。宇宙の根本原則は、一人では存続できないということです。二つの存在ですが、それが愛を中心として、絶対に一つに帰結されるのです。男性と女性、プラスとマイナスなら二つですが、一つになることができなければ唯一論になりません。すべて二元論になるので、二つの世界が生じて闘争の世界が展開するという論理が形成されるのです。ですから、男性と女性は二人ですが、一つにならなければならないのです。真の愛を中心として一つになるようになっているのが原則だというのです。
(274-71, 1995.10.29)


 

② 男性と女性を完成させるものは生殖器

宇宙の根本は何かというと、男性と女性です。プラスとマイナス、男性と女性の愛を中心として成り立っているのです。それが生殖器原論です。すべてそのようになっているでしょう? カンガルーなど、何の動物であれ、見てみれば、生まれるとすぐに、まず乳房を探していきます。生殖器を見てみても、羽の付け根の中にあるものもいて、ありとあらゆるものがいるのですが、それをどうやって探していきますか。それは、超音波のようなものがあるのです。それを連結させる宇宙の根源が万有原力です。万有原力は、ハナニムの本質的力をいうのです。
(299-154, 1999.2.10)
男性と女性は、何ゆえに違うのですか。目が違うから違うのではありません。五官が違うから違うのではないのです。何が違うために男性と女性は違うというのですか。生殖器が違うために違うのです。それ一つのために違うようになったのです。
(246-220, 1993.4.18)
男性と女性は、なぜ生まれたのですか。男性という言葉は、女性のために生じたのです。男性という言葉は、先有条件として女性を認めるのです。男性は体が大きいのですが、体の小さな女性のために生まれたのです。女性は何のために生まれましたか。その男性と女性において、違うものとは何ですか。何が違いますか。手が違い、目が違い、鼻が違い、口が違うのですか。何が違いますか。一つだけ違うものは何ですか。一つは凹で、一つは凸です。それが生殖器です。男性に絶対必要なものは、女性の真理です。女性に絶対必要なものは、男性の真理です。男性の真理とは何ですか、女性の真理とは何ですか。それは生殖器ではないですか。そうです、生殖器を合わせるために男性と女性が生まれました。その生殖器を、なぜ合わせるのですか。何のためにですか。愛のためです。生命を結合して、血筋を結合するためです。三元素を混ぜるためです。
(196-130, 1989.12.31)
男性と女性を完成させるものは生殖器です。考えてみてください。皆さんもそうではないですか。目は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。鼻の穴は二つですか、一つですか。なぜ二つですか。唇は二つですか、一つですか。なぜ二つですか。耳は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。手は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。足は一つですか、二つですか。なぜ二つですか。女性の生殖器と男性の生殖器も二つですか。それも同じですか。違います。それは別個になっています。この違うものを、どのようにすれば良いのかということが問題です。すべてが相対的になっているのに、男性のそれと女性のそれは別個でしょう? 生殖器というのは、いったい何をするものですか。それが何をするのですか。その目的は何ですか。生殖器というのは、いったい何をするものですか。それで何をするのですか。その目的は何ですか。おなかがすいた時にご飯を食べるために、それがあるのですか。その使用目的は、いったいどこにあるのかというのです。自分一人では使用目的を、絶対に果たすことができません。男性と女性が一つにならなければ、永遠に無用の長物になるというのです。


考えてみてください。それが何のためにあるのですか。誰が女性を呼びますか。目が呼びますか、頭が呼びますか、体が呼びますか、心情が呼びますか。誰が呼びますか。また、女性は、何のために男性を呼びますか。誰が、どちらが呼びますか。口が呼びますか。使用目的を成し遂げるために、生殖器は相対が必要なのです。それで、女性は、絶対的に男性を呼ばなければいけないというのです。また、男性は、絶対的に女性を呼ばないといけません。これが絶対的ですか、相対的ですか。絶対的です。歴史を超越し、環境を超越します。それゆえに、いかなることがあっても、いかなる出来事があっても、これは成し遂げなければなりません。
(247-203, 1993.5.9)
男性と女性は、お互いに何が違いますか。性器官を含んだその体がまず違います。それでは、男性の性器官は誰に絶対必要なのですか。男性の性器官は、女性のためにあるのです。
人間の性器官は、一つは凹で一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがっているものにするか、二つとも平たくすることもできるのに、なぜそのようにできていますか。すべて相対のためです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願います。女性のものが絶対に男性のものであり、男性のものが女性のものだという事実を知らなかったのです。それを占領することによって愛を知るというのです。
(299-119, 1999.2.7)
平和の基地もそうで、地上天国と天上天国、すべてのものが愛から生じてくるのです。どのような愛ですか。男性の愛です。女性の愛です。男性と女性が一つとなった愛です。その男女の愛がどこで一つになりますか。顔で一つになりますか、指先で一つになりますか。凹凸で一つになるのです。
(263-52, 1994.8.16)
心と体は、何を中心として統一するのですか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、まことの愛だけが心と体を統一するのです。それは、何を見て知ることができますか。存在世界をすべて知ってみると、男性と女性に生まれたのですが、哲学に入門する人々にとって、なぜ人が生まれたのかということが疑問でしょう? それは簡単なのです。この世に人がなぜ生まれたのですか。人といえば男性と女性です。この男性と女性がなぜ生まれたのかという問題を見るときに、女性という動物と男性という動物がいるのに、生殖器がそのようにできているのは、一つになるためのものです。何を中心としてですか。愛を中心としてそのように生まれました。本来のハナニムが愛だという概念を考えた時、愛のために男性と女性が生まれたということは否定できません。これが、何を中心として一つになるのですか。愛のために一つになるので、愛を中心として造ったということを否定できないのです。


それゆえに、宇宙の最大の神秘、最大の興味、最大の趣味、最大の関心、最大の魅惑、すべて最大が入ります。それから何がありますか。最大の滅びる運命。反対もあります。いくらでもそのようなことを思いのままに、こうすることもでき、ああすることもできる内容をもった化け物のようなもの、それが何かというと、愛です。愛の化け物だというのです。
(219-166, 1991.8.29)
生殖器は神聖なものです。それは正しいですか、正しくありませんか。なぜ、おかしな目で見るのですか。「統一教会の教主が生殖器の話をする」という目で見ていますか。牧師がそのような生殖器の話をすることができますか。皆、つばを吐きます。生殖器に対してつばを吐く男性、女性がいますか。男性が女性の生殖器につばを吐き、女性が男性の生殖器につばを吐きますか。生殖器は神聖なものです。それは神聖で、神聖で、神聖な生殖器です。神聖なものです。堕落していない、完成したアダムの位置です。神聖な場所であり、神聖な宮殿です。最高の宮殿です。生命の本聖殿が生殖器であり、愛の本聖殿が生殖器です。
(285-259, 1997.6.5)
男性と女性の生殖器は、何をするためのものですか。愛するためのものでしょう? それゆえに、その愛が現れるためには、男性と女性が必要なのです。男性と女性は、真の愛のために生まれたのです。それは否定できないことです。
(221-145, 1991.10.23)
いくら凸があっても、凹がなければ大変なことになるのです。それでは、ハナニムが人を造られる時、凹凸、男性と女性の概念が先だったでしょうか、人という概念が先だったでしょうか。それを考えて、はっきり答えてみてください。男性と女性、人の概念が先ですか、男性の性、女性の性の概念が先ですか。根本はそれです。いかなるものよりも重要だというのです。女性の生殖器官が、宇宙創造の先祖だったという事実を知らなければならず、男性の生殖器が創造の先祖だったという事実を知らなければなりません。これを知らなかったのです。
生殖器が人間創造の先祖だったのです。第1の先祖が生殖器だというのです。この生殖器から男性と女性が現れたのです。事実です。生殖器から男性と女性に分かれました。分かれるという概念は、本来の概念の次だというのです。本来の概念から分かれて、男性、女性と呼ぶようになったのです。
(272-171, 1995.10.1)
雌と雄が生まれる時に、体が先に生じたのでしょうか、生殖器というものが先に生じ始めたのでしょうか。途中で雌か雄か決定されますか、雌か雄か決定されてから育ち始めますか。どうですか、ユン博士? 決定されてから育ち始めるのでしょう? そうだというのです。その雌、雄を誰が決定しましたか。アメーバが、「私が雄になる」と思って雄になれますか。雌のアメーバは絶対的に雌のアメーバであり、雄のアメーバは絶対的に雄のアメーバです。行ったり来たりできないのです。


ムン総裁がオモニのような「女性になる」と思ってなることができますか。既に、生まれる時に決定されるのです。精子卵子が一つになる時、既に決定されているのです。男性、女性が現れる前に、生殖器が決定されるのです。男性になるところだったのに女性になったのではありません。男性は男性として絶対的であり、女性は女性として絶対的です。
(197-51, 1990.1.7)
結論として、ハナニムが人間を造られる時、最も苦労してつくられたところはどこでしょうか。目ですか、口ですか、鼻ですか、手ですか。人間たちは、そのことを考えてもいないというのです。それが愛の本拠地です、愛の本拠地。愛の本拠地とはどこですか。男性と女性のそれをいうのです。それが愛の本宮だったというのです。そこから、男性の愛を知り、女性の愛を知るようになるのです。それがなければ愛が分かりません。愛の主人は、現れることができません。男性の愛の主人は女性であり、女性の愛の主人は男性です。愛の主人になり得る資格をつくるのが愛の器官です。
(302-220, 1999.6.14)
純金という24金は、韓国の地から出てきたものも、景色の良い所から出てきたものも、水中から出てきたものも、どこかの山の谷間、人とかかわりのない地から出てきたものも、価値は同じです。自分が愛そうとする相対に対して、生殖器の愛というものが、「ああ、あなたは顔が悪いから私は嫌だ」と言いますか。愛の関係を結べば、そのあばたがかわいくなるのです。白人と黒人が愛するようになれば、その白人女性は、黒人男性を黒人と考えることはできません。そのようなことが起きるのです。
(276-87, 1996.2.4)
自分勝手にまゆ毛が生えてきたり、勝手に涙が出てきたりしますか。狂ったことを言うなというのです。この宇宙の根本となる主人が存在し、その考えがなければなりません。私たちのこの体が、どれほど神秘的ですか。この体は、ただ生まれたのですか。生殖器がどれほど神秘的でしょうか。それは、想像できないくらい神秘的なのに、それがただそのようになっているのですか。生命が連結されているものは、簡単ではないというのです。
(191-53, 1989.6.24)
男性は、男性の生殖器を千年、万年きちんと守る主人にならなければならず、女性は、その生殖器を千年、万年きちんと守る女性になりなさいと教えるのが文総裁です。そのようにこれを間違いなく守るようにして、そのようにさせる責任を負った人が、「真の父母」の名前をもった父母だというのです。真の父母は簡単です。浮気者の女性と男性を連れてきて、浮気をせず、絶対的に節操を守る男性と女性にすることができる力をもった人が真の父母です。
(271-188, 1995.8.28)

 

生殖器は根本問題解決の出発点と終着点

皆さん、勝手におしりを汚してはいけません! 女性のものは誰が主人なのですか。笑うなというのです、宇宙の根本を明らかにしているのです。そうか、そうでないか、考えてみなさい。私がこれを知るために、骨髄が溶け出すくらい、それほど苦労したのを知っていますか。言葉は、簡単だというのです。しかし、内容がどれほど途方もないか知っているのですか。天下が分かれ、世界が二つに分かれて、悪なる人、善なる人がここで分かれるのです。
(177-219, 1988.5.20)


愛の王宮は、どこですか。このような話をするからといって、おかしく思わないでください。それを正すことができなければ、世の中がすべてずれていくのです。前後関係が合わなければ、全天下によこしまなものが生じてくるのです。ムン総裁が今まで苦心して宇宙の根本を追求した結果、ぴたっと到着したところが生殖器でした。生殖器に至ってじっと考えてみると、天地の調和がここで渦を巻いていたというのです。驚くべき事実です。
(197-24, 1990.1.7)
先生が、すべての複雑な世界の真理を探究したでしょう? すべて知り尽くそうとすると、ハナニムがすべて許してくださいました。そのように苦労して、苦労してきてみると、座っているその場で自分が持っていて、知っているものだったというのです。ですから、もちろん驚き、感謝しましたが、むなしいこと、この上なかったのです。
(295-15, 1998.8.16)
今まで人間が悩んだ根本問題がこれほど簡単で、これほど易しいとは、私は本当に知りませんでした。ひどく苦労しました。全く、このようになっていることを知らずに、私が泣いたりわめいたり、霊界に入っていって隅から隅までくまなく探してみて、ありとあらゆることをすべてしました。ところが、よくよく見ると、私がすべてもっていたのです。「ああ、これを知らなかったのだなあ!」と思いました。私にすべてあります。宇宙がすべて私の中にあります。宇宙がすべて私に入ってきています。
(199-314, 1990.2.21)
先生は、宇宙の根本が何かという問題をめぐって9年間も苦闘し、解決しました。よくよく見ると簡単な道理でした。「やあ、こんなに簡単なことを知らなかったのだなあ。すべてもっていたのに、分からなかったのだなあ!」と思いました。そうではないですか。朝鮮人参にんじんで生計を立てているおじいさんが、太白山テペクサンのような深い山中に入っていき、山に自生する人参を探して歩き回っていたのですが、「あ、ここは朝、出てきて、小便をして一休みした場所、しりに敷いた場所が人参畑だった」というのです。分からなかったのです。帰ってくる途中で、出発した時、小便をしてタバコの吸殻を捨てた所に行って、またそれを拾って吸おうとして見ると、なんと人参畑だったというのです。そのようなことがあるのです。そのような時は、タバコの吸殻を探して吸うことも「幸福だ」と言えるというのです。
(196-130, 1989.12.31)
文総裁は、与太者式ではありません。宇宙の根本を切り開いてみると、あれです。それをすべて知ってみると、全くこんなにも苦労をして、一生の間どれほど苦労したことでしょうか。唖然あぜんとします。すべてもっていました。すべてもっていたというのです。それゆえに、霊界の神霊な場所に入っていくようになり、「ハナニム、どこにいますか」と尋ねる時には、ハナニムが私の中で、「どうした、ここにいる」と言われるのです。それで、「人すなわち天」という言葉が出てきたのです。
(191-43, 1989.6.24)
宇宙の根本が何であり、どのようになっているのかという問題を解くために、千辛万苦、苦労したその背後を皆さんは知りません。それは、通りすがりに何かの笛の音を聞くようにして、歌の調べによって探し出したのではありません。血と涙ですべての五官、神経の感覚を一つの焦点に集めて、身もだえしながら奪ってきたのです。それを奪ってきても保管できる能力がなければ、ハナニムが許諾しないのです。
(225-281, 1992.1.26)


今までこのように生き残ったのは、誰が保護したから生き残ったのだと思いますか。文総裁が保護したからですか。滅びたい人がどこにいて、栄えたくない人がどこにいますか。しかし、天運の保護を受けようとするなら、栄えない道を行かなければなりません。その道は、どのような道ですか。この地上に、自分のために生きなさいという歴史の教訓を広げておいたのが悪魔ですが、これを越えて本然境においての、ハナニムの思想的基盤においての、根本思想に従って「ため」に生きる創造の偉業を通し、「ため」に生きつつ理想を求めていこうとしていた創造主の本意に一致し得る行動をする人は、この宇宙が保護します。「宇宙が保護する」ということを実感できるように一言話しましょう。
(197-253, 1990.1.19)
私が、誰も知らないこの道を探すために、どれほど大変だったでしょうか。人生問題の根本を解決するためには歴史を解決しなければならず、宇宙を解決しなければならず、ハナニムの苦衷くちゅうまで解決しなければ解決できないということを知った時の、暗中模索していたその若い時期の苦痛を皆さんは知らないでしょう。しかし、そのようなことができる組織をすべてつくり、言葉だけでなく実践途上において、それが証された世界の版図をすべて得ました。これからは、誰でも走ってきて旗を受け取って後ろにつけば、すべて天国に入れる時代が来たというのです。
(209-292, 1990.11.30)
最も根本の問題は、心と体が闘うことから始まり、宇宙的な宝石を埋蔵した基地を失ってしまったということを知らなかったことです。内的な面において自分を統一する道は、自分を完成させる愛を発見する道であるという事実を誰も知りませんでした。それは、宇宙すべてを解読してこそ発見できるのです。それが分からない以上、答えは出てきません。先生の話を聞いて、どう思いますか。不幸だと思いますか、幸せだと思いますか。どの程度、幸せだと思いますか。
(224-164, 1991.11.24)
この宇宙の存続、歴史の存続、国家の存続や理想の継承等、すべては何を中心としているのですか。様々な関係世界を支えることのできる、その根源的な要素は何か、全体を代表できる、その中心要素は何かというのです。これが、重要な問題です。私たち統一教会食口シック関係において、統一教会に入ってくる時と、今まで10年、数十年たった時と比べると、だんだん習慣化されていって、昔、教会に入ってくる時に情熱を尽くして全体を考えていた、そのようなすべての関係はだんだん消えて、あとからは自分の利益だけを取ろうとして、悪魔の網に包まれ始めるのです。それは、滅び始めるということです。
(253-223, 1994.1.30)


なぜ原理ですか。根本の理論だというのです。原理というのは、根源の道理、理論をいうのです。人生の根本問題、宇宙の根本問題、そういったものが、原理を解きほぐすことによってすべて明らかにされるので、地上に行っても天上に行っても、その原理の行く道を妨げるものは何もないのです。それで、平和、安定、安息の生涯路程が見いだされるのです。一つになれば感じないというのは重大なことです。
(258-304, 1994.3.20)
宇宙の根本とは何かというこの問題に対して、祈祷して、ハナニムにすがって大騒ぎをしても、教えてあげることができないのです。誰にも教えてあげることができない内容であるのを知らなければなりません。それはおかしいでしょう? ハナニムが教えてくだされば、天下に一日で統一がなされるはずですが、人間が誤ったので、人間自体が罪を犯したので、罪を清算しなければなりません。
未知の立場に落ちたので、この未知の立場を克服し、この線を越えた人でなければなりません。病気が治った人でなければ病院から退院できないのと同じです。根本に入っていけば、ハナニムと人間との関係は何かという問題が台頭しますが、答えは簡単です。
「宇宙の根本は何ですか」という問題を中心として、誰よりも苦心した人がここにいる、この人です。そのような問題を解決したので、「統一教会」という言葉を掲げてきたのです。それは、人間世界ではできません。霊界に行き、すべて、公判廷に入っていって競売の入札をするようにしなければなりません。
(198-104, 1990.1.25)
万一、宇宙の根本であられるハナニムがいらっしゃらないとするならば、この世に絶対価値の基準はあり得ないのです。そうなれば、人間の道徳と倫理の基準が成立せず、その社会は、人間が万物の霊長になり得る、いかなる哲学的根拠ももてないのです。
(259-127, 1994.3.29)
私は、科学を勉強した人です。このような理論的な基準で、宇宙のすべての根本を暴いて、間違いないという自信があるので出発したのです。一生の間、監獄を出入りし、むち打たれ、悪口を言われて、あらゆることをすべてしながら、一言も反対できず、このように黙って世界を征服してきたのです。まことの愛の中心であるハナニム、すべての力の根本であるハナニムが倒れますか。
ハナニムの愛のパートナーが倒れますか。打てば、自分が壊れるようになっているでしょう? ハナニムはどうですか。「ハナニム、あなたは、あなたの愛の対象がご自身より劣っていることを願いますか、優れていることを願いますか」と尋ねれば、「お前たちと同じだ!」という答えです。
この驚くべき事実、この宇宙の根本がこのようになっているという驚くべき事実です! その次には、「あなたも息子、娘がいれば、息子、娘がご自身より立派であることを願うでしょう?」と尋ねれば、「同じだ」と言われるのです。人間がもつべき権威的価値、これを失ってしまいました。
(217-189, 1991.5.27)
文総裁がすべての真理を探究し、霊界、肉界を探査し、すべての経典を探査しても、これを解決する道がありませんでした。ハナニムがいるか、いないか。ハナニムがいらっしゃるならば、世界をこのように造られたハナニムを私が抱えて放しません。勝負を決定するための闘いをしたのです。


人間が生まれた根本原則は何であり、なぜ生まれたのですか。男性は女性のためです。それが全体真理の中の最高の真理です。女性の前に理想的な男性は、最高の真理です。宇宙全体が完成した理想の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙における真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。
(267-230, 1995.1.8)

 

2) 生殖器は三大本宮、天の至聖所

 

① 愛と生命と血統の本宮

男性と女性は、なぜ生まれたのですか。男性と女性の違うものは何ですか。男性と女性がどのように一つになるのですか。男性と女性が何を中心として一つになるのですか。生殖器を中心として一つになるのです。これは調和の箱です。この場で、愛の完成が展開するのです。まことの愛が初めて完成するのです。それから、男性と女性の生命が一つになる所も、その場です。男性と女性の血筋が交流して植えつけられる所も、その場です。その場が理想的な愛の本宮であり、血統の本宮なのです。絶対的な本然の場を本宮といいますが、誰もその価値を変えることはできません。
(228-51, 1992.3.3)
アダムとエバ生殖器、その場所が偉大だというのです。それゆえに、その生殖器は愛の本宮といいます。驚くべき言葉です。天地創造のすべてを、ハナニムまで完成させ、安息させることができる王宮であり、本宮です。天国も一番目ではなく、地上の国も一番目ではありません。家庭から始まるのです。これが本宮です。驚くべき言葉です。また、その場は、真の愛を中心とした本宮ですが、真の生命を中心とした本宮でもあります。その次には、血統を中心とした本宮であり、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地なのです。
(263-347, 1994.10.27)
人間の生殖器が真の愛の場所です。そこで愛の行為が連結されるでしょう? ほかの所でそのようになるのではありません。そこが男性と女性の生命が連結され、一つになる宮殿です。そして、男性と女性が一つになれば、その血統から息子、娘が出てくるのです。ですから、血統の宮殿です。それほど重要なのです。
(231-275, 1992.6.7)
男性と女性の生殖器は、愛の宮です。愛の王宮です。子宮が貴いですか、男性と女性のそれが貴いですか。言ってみなさい。子宮のために生殖器ができましたか、生殖器のために子宮ができましたか。深刻な話です。笑い事ではありません。男性がいるために子宮ができたのです。女性のそれは、男性のためにできたのです。それがなくては愛がありません。愛を探せません。それを通らなくては、生命が連結されません。男性と女性がいても、何になりますか。生命が連結されないのです。それを通らなくては、歴史を連結させる血統が連結されないのです。
(245-70, 1993.2.28)


生殖器とは何ですか。それは、真の愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。最も貴いものです。これがなくなれば天地がなくなり、これがなければハナニムの理想、ハナニムの家庭、ハナニムのみ旨を成し遂げることができないのです。これは、全体の完成を成すことができる一つの起源です。
(216-218, 1991.4.1)
女性の生殖器が宇宙的な本源です。愛の関係をするその位置が愛の本宮になっています。本然の宮中だというのです。愛は、そこから始まります。結婚初夜の愛が愛の本宮の出発です。女性の生命、男性の生命が初めて一つになるのです。それゆえに、理想的な生命の本宮がその場所であり、血統がそこから始まるので、血統の本宮がその場所だというのです。そして、天国がそこから始まるので、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、ハナニム完成の本宮です。
(257-324, 1994.3.16)
男性完成、女性完成、ハナニムまで完成させることができる、その本拠地は、どこですか。どこでハナニムの愛を完成させることができ、どこで男性と女性を完成させることができるのですか。その中心定着地は、どこですか。これが問題です。これが分からなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大できません。それは、目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか、どこですか。凹凸です。
(261-167, 1994.6.9)
生命が出発する本拠地とは、どこですか。愛の本郷の地とは、どこですか。血統の本郷の地とは、どこですか。男女の生殖器です。男性と女性が何によって一つになるのですか。愛を中心として一つになります。それを中心として始まるのです。生命がそこから出発します。血統もそこから連結されます。その貴重な三大基地を失ってしまってはいけません。天下をもらっても取り替えることはできません。
(218-133, 1991.7.14)
愛の本宮が生殖器であり、生命の本宮が生殖器であり、血統の本宮が生殖器です。ハナニムが最高に探し求めていた真の愛の起源地であり定着地は、男性と女性の生殖器です。そこから男女の生命が結合するのです。そこから血筋が受け継がれ、歴史性をもった人類という、すべての血族が関係をもっているのです。それゆえに、最も貴いのです。
(212-297, 1991.1.8)
頭よりも、それがもっと重要です。頭には真の愛の起源がありません。頭には真の生命の起源がありません。頭には真の血統の起源がありません。その起源は生殖器にあります。それは間違いないでしょう? 生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そこが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通じて最も貴いところです。それがなければ人類の繁殖が不可能です。
(203-104, 1990.6.17)


私の生殖器は、愛の本宮です。「私の生殖器は、生命の本宮だ、王宮だ。私の生殖器は、血統の王宮だ」というのです。このようになってこそ、ハナニムが臨在なさる王宮になることができるのです。ハナニムは、王の王でいらっしゃるので、本宮を訪ねていってお住みになる方なのです。それゆえに、ハナニムに侍るために愛の本宮になり、生命の本宮になり、血統の本宮になり、良心の本宮にならなければなりません。
(280-197, 1997.1.1)
生殖器は、愛の王宮です。今その愛の王宮は、どのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であるもの、そのように貴いものが人間の生殖器です。神聖なのです。最も貴いのです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように神聖なものをサタンが汚しました。
(218-176, 1991.7.28)
男性と女性が愛する本宮、生殖器とは何ですか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。おじいさん、おばあさんもそれを中心として生き、父と母もそれを中心として生き、自分たち夫婦もそれを中心として生き、将来生まれる息子、娘もみなそれを中心として生きるのでしょう? それを中心としないで生きる女性がいて、男性がいますか。そのような人はいません。ところが、それがなぜ悪いものになりましたか。下品な言葉だというでしょう? なぜ下品な言葉なのですか。神聖な言葉です。神聖な言葉として受け止めなければなりません。そこから永遠の愛が連結され、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。最も貴いのです。
(210-101, 1990.12.1)
女性と男性の生殖器は、生命の王宮です。生命の最初の出発地です。永遠に変わらない本然地です。生命の王宮であり、変わらない愛の王宮です。良心が理想を中心として定着することができる基地です。血統の基地です。そこから生命が芽生えるのです。そこから愛が一つになります。そこから男性と女性が一体になるのです。そのような生殖器が堕落して天地を破綻はたんさせた怪物になってしまったので、今日これを悪いものとして扱っているのです。
ハナニムが精誠を尽くしてつくられたものが、それです。すべての被造万物の核心的な骨髄を絞り出して連結させたのです。ここに愛の本質が100パーセント連結され、生命の本質が100パーセント、歴史の本質がここから芽生えるのです。そこから初めて希望があり、そこから初めて幸福があり、そこから初めて愛を中心とした自由圏が始まるのです。
(262-114, 1994.7.23)
生命の根源地、愛の根源地、血統の根源地はどこですか。それは、どこですか。生殖器です。それを、ひっくり返して打ち込んだので、世の中で最も下品な言葉になったのです。それが誤らなければ、下品な言葉ではなく、王の言葉です。神聖な言葉です。「下品な言葉」の反対語は、「神聖な言葉」でしょう?「真の言葉」よりもう少し高いものは何ですか。「真の言葉」というのは相対的関係で成されますが、「神聖な言葉」は縦的、球形的圏をいうのです。


人間が堕落していなければ、男性の生殖器が愛の王宮です。それで、それをいい加減には使用できません。そして、生命の王宮です。そこから生命が生まれるでしょう? 生命がどこから出てきますか。生命の王宮です。血統の王宮です。そこから、自分の命が血統を受け継いで生まれるのです。私の生命の根源地であり、私の血統の根源地であり、私の愛の根源地です。それゆえに、先祖がそれを通じ、貴く思い、「ため」に生きなければならなかったのです。
(206-125, 1990.10.3)
ハナニムが、どれほど喜んでつくられたでしょうか。最も喜んでつくられ、最も精誠を尽くしてつくられたものが、男性と女性の体の中のどこだろうか、何だろうかと考えてみてください。それが生殖器だというのです。生食せいしょくする米を入れる器(生食器)ではありません。生殖器といえば、「生きるものを植えることができる器だ(生植器)」というのです。生命の生植です。生命を植えることができる器だというのです。その場がなければ、千年、万年たっても生命が生まれないので、国もなく、世の中は暗黒天地、砂漠天地になるのです。
(283-256, 1997.4.13)
真の愛がどこから生まれるのかといえば、息子、娘、ハナニムの息子、娘を生むその局面から生まれるのです。それが生殖器です。これが最も冷遇されました。天地がひっくり返ったために最も卑しいものとして扱われましたが、復帰された天下では、これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、良心の本宮だというのです。
これがなければ国も生まれず、理想世界の発展も、起源もなくなるという事実を知らなかったというのです。
(286-170, 1997.8.9)
生殖器がなぜできたのかというのです。愛のために、生命のために、血統のために、良心のためにできました。そこを通らなければ、愛もなく、生命もなく、血統もなく、良心もありません。ハナニムが人を造られる時、目や鼻等、五官をつくるのが大変だったでしょうか。生殖器をつくるのが大変だったでしょうか。五官が愛をアピールするところですか。それが、愛と生命と血統と良心が集まっているところですか。違います。絶対に違います。ただ一つ、そのような箇所があるならば、生殖器です。そこで愛、生命、血統、良心の第二の実が結実するのですが、それを私たちは、息子、娘というのです。それがなければ何も存在できません。すべての被造世界がストップするのです。
今まで人類は、このように貴い生殖器を知らなかったのです。「私が世界で1番だ!」と誇らしく思ったかもしれませんが、生殖器がなければなんでもないのです。その生殖器は、真の生殖器をいうのです。
(281-189, 1997.2.13)


生命の王宮とは、どこだといいましたか。愛の王宮とは、どこだといいましたか。血統の王宮とは、どこだといいましたか。家庭でしょう? 夫婦でしょう? 夫婦の愛の基地ではないですか。男性の生殖器、女性の生殖器がそれをしなければなりません。皆さん、王孫を生まなければなりません。ハナニムの愛を中心として、天国の真の王子、王女を生まなければなりません。それが真の生命でしょう。真の血統を残さなければなりません。後世を残さなければなりません。
(221-13, 1991.10.20)
生殖器は生命の王宮です。王宮とは、第一に全体を代表した根源的な家です。王とは何でしょうか。蘇生そせい、長成、完成の中心です。3段階の中心が王です。それを見れば、漢字も啓示を受けて作ったと考えるのです。愛の王宮をもっていますか。男性と女性、愛の王宮をもっていますか。それなのに、愛の王宮をもっている人たちがなぜ心配するのですか。不幸という言葉がどこにありますか。簡単なのです。
(228-266, 1992.7.5)
なぜ皆さんは、歴史的伝統と関係を結ばなければならないのですか。愛と生命と血統、この三つが最高の伝統であり核心だからです。そうです。生殖器官は、その三つを同時に連結させてくれるものです。接ぎ木をするところです。愛を接ぎ木し、生命を接ぎ木し、血統を接ぎ木するところです。
(230-119, 1992.4.26)
愛する夫婦二人が関係を結ぶ生殖器は、愛の王宮だというのです。そこから愛が始まるのです。真の愛の王宮です。最初の出発をする場所なのです。そうか、そうでないか考えてみてください。生殖器は、愛の王宮です。堕落する前の観念で見るならば、生殖器は、愛の王宮だというのです。生命の王宮、血統の王宮です。愛を中心として男性と女性が一つになる、そこに生命が連結して血統が受け継がれるのです。
(254-281, 1994.2.15)
皆さん、男性と女性が、堕落していない復帰されたハナニムの息子、娘を生むことができる生殖器に向かって、全存在世界は、自らの生命全体を投入して自分より高い次元に吸収されるのです。鉱物は植物に、植物は動物に、動物はより大きい動物に、大きい動物を経て、人間は、すべてのものを吸収して消化することができる主人の資格を備えなければならないというのです。
それゆえに、愛して食べなければならないのです。愛しましたか。そこがどのようなところですか。生殖器だというのです。生殖器は、生きた食器です。生命を食べる食器だというのです。それが愛の王宮です。それがないのに男性と女性が愛を感じることができますか。できないというのです。
(286-144, 1997.8.9)
全万物世界の最終の理想的な吸収の終着点がどこかといえば、男性と女性の生殖器だというのです。それは事実です。なぜですか。どうしてですか。ハナニムの愛と人間の愛と宇宙の愛が結合するのです。愛と生命が一つになる位置が、その場です。