八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 8-1

八大教材教本 天聖経(2012年版)p2126-2166

【天啓の御言】(8-1)

 


言葉だけの後継者ではなく、姿だけ同じ後継者ではなく、喜ぶだけの後継者ではなく、父母の悲しみと苦痛を自らのものとして、父に代わって苦痛を受け、父に代わって悲しみながら、心情的に天の前に忠孝の道理を立てようと身もだえする後継者のことです。そのような群れだけが、天の前に立つことができるのです。
(9-30, 1960.4.3)
今日までの歴史路程は、善と悪の闘争によってつづられてきた路程です。このような歴史が私の前に迫ってきたので、私を中心として、悪は悪として、善は善として分立しなければなりません。「私」という存在は、この勝敗を左右するかぎを握った人です。
したがって、私は、個人を超越した公的な存在だということを肝に銘じなければなりません。過去に忠誠と孝行で公的な使命を完遂するために苦労した先祖たちのその歴史的な偉業を継承する者は、彼らよりも公的使命の前に、より忠誠を尽くし得る人でなければなりません。したがって、私たちが公的な使命を担うためには、歴史を超越した宇宙的な忠孝烈の心情と覚悟を備えなければなりません。
(11-270, 1961.12.17)
忠臣とは何でしょうか。国王に対して精誠を尽くす人が忠臣でしょうか。違います。民を国王と同じように愛せる人が忠臣だということを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母のために精誠を尽くす人ではありません。父母を愛するのと同じように、兄弟のために精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。真の聖子せいし、ハナニムの息子、娘とはどのような人でしょうか。ハナニムを愛するように、ハナニムに属するすべてのもののために歩もうとする人が聖子です。
それゆえに、私は聖子の道を歩もうというのです。先生は、ハナニムも愛していますが、人類も愛しています。怨讐おんしゅうであるアメリカまでも愛しているのです。そうであってこそ、ハナニムが御覧になるとき、「私の息子よ」とおっしゃることができるのです。どこどこの国の息子ではありません。大韓民国で生まれましたが、韓国人ではありません。大韓民国の息子ではありません。ハナニムが、「私の息子よ」とおっしゃることのできる人は、ハナニムを愛するのと同じように、人類のために生きる人です。
そのような人がハナニムの息子です。ご自身のことを忘れて人類のために生きるハナニムなので、自分を忘れてこの人類のために生きるのです。そのように生きるので孝子だというのです。その定義をはっきりと知らなければなりません。私たちは、孝子の道と忠臣の道から聖子の道を尋ね求めて行くのです。聖人の道を尋ね求めて行くのではありません。そのような内容を中心とした孝子の道理と忠臣の道理を通じて、聖子の道理を成し遂げてこそ、その国が何の国となるのですか。地上天国です。そこで生きれば、そのまま天国に行きます。そのようにすることがハナニムの創造理想だったのです。
(133-241, 1984.7.19)


 

2) 真の父母様に対する忠誠はハナニムに対する忠誠

父母に親不孝した息子の立場に置かれているのが人類です。不幸を招いた張本人が、私たち人間です。天の前に言い表すことのできない不孝をしたので、親不孝した者が天の前に堂々と立つためには、孝子となれる立場に立たなければなりません。
統一教会食口シックたちは、天の孝子となることを誓って立ち上がったと自負しています。しかし、私たちは、再度冷静に批判、分析しなければなりません。私の手が、天の前にどれほど孝子の手として、天が慕う手となっていて、私の顔がどれほど天の前に孝子の姿として、天が慕える人になっているでしょうか。自らの一身が、どれほど孝子の触媒となり、いかなる逆境にあっても、昼夜、その逆境を克服しながら、孝子の行く道を開拓してあげるために努力される父の姿を現すことができるようにしてさしあげたのかという問題を考えてみるとき、そこでは、私たちは自分というものをもつことができません。
(60-19, 1972.8.1)
孝子になろうとすれば、父母のすべての苦労を、あるいは父母の前に最も困難な道を選んで責任をもつために立ち上がる者にならなければなりません。
また、そのような孝子とはいえない子供を孝子にしたい父母がいるとすれば、その父母はどのようなことをさせるでしょうか。死ぬほどのことをさせるのです。「おい、これをしなさい」と言って、兄弟の中で最も大変なことばかりを選んでさせるのです。
ただ一つしかない孝子の名をもってこられるお方が、メシヤです。ただ一つしかない孝女の名をもってこられるお方が、メシヤの新婦です。
エス様は男性なので、男性の前に女性だからといって、すべての人が新婦でしょうか。新婦がたくさんいるのですか。新婦は一人しかいません。しかし、新婦になろうとするところでは、誰もが競争することはできるのです。
(62-41, 1972.9.10)
故郷に孝子がいるとすれば、歴史時代において、その地にいた孝子の中のいかなる孝子よりも立派な大王の孝子にならなければなりません。忠臣がいたとすれば、それよりも立派な大王の忠臣にならなければなりません。いくら孝子、忠臣になったとしても、まことの父母と横的な因縁をもたなければ何の意味もありません。真の父母を中心として、横的な父が水平になる時、縦的な父が現れるのです。完全なマイナスが生じるようになれば、完全なプラスが訪ねてくるのです。
(177-347, 1988.5.22)
真の父母とは何かというと、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地では聖子せいしの伝統的道理をすべて果たした人です。
そのようなコンセプトをもたなければ、ハナニムを中心とした家庭において、ハナニムの願われる孝子として立つことができず、そのような中心を中心として築かれた国において、ハナニムの国を中心とした忠臣として立つことができず、そのような世界においてハナニムが願われる聖人として立つことができず、そのような天地において孝子となり得る聖子として侍ることはできません。


それゆえに、私たち自身が、このようなサタン世界の蕩減とうげん復帰のために、このような四大条件を完成し、天の前に奉献しなければなりません。聖子とは何かというと、天国の宮殿法と天国の法と、地上の宮殿法と地上の国の法を守らなければなりません。天国にも王宮があり、国があるのです。
地上のすべての宮殿法と国の法と、天上世界の宮殿法と国の法を完成し、それをすべて守ることができなければなりません。それを守ることができてこそ、聖子の道理と言えるのです。その故郷の地を訪ねていって何をするかというと、「家庭盟誓カヂョンメンセ」の第2番の孝子、忠臣、烈女にならなければなりません。2番を成すのです。今までハナニムは、そのようなものをもつことができなかったので、サタンのものだったというのです。
(266-145, 1994.12.22)
三千里半島の至る所で、三千万民族の代わりとなり、父のために忠孝を果たそうと誓う群れが現れることを先生は待ち望んでいます。
皆さんが胎中にもいない時に、先生はこのような誓いをなしたのであり、皆さんがこのような道を行くことを夢にも思わなかった時に、既に先生はこのような道を歩んでいたのです。涙が多いとすれば、三千万民族の誰にも劣らないほど涙が多いのです。誰かが現れて私に一言でも言えば、抑えることができずに痛哭つうこくしてしまうでしょう。
この世から見れば、先生は本当にかわいそうな人です。どれほどかわいそうでしょうか。心の安らぐ場所がありません。天地がどれほど広くても、心の安らぐ場所がないというのです。イエス様が、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)とおっしゃいましたが、その心が理解できます。
(13-35, 1963.10.16)
皆さんは、先生に対して、天の父母のように孝行したことがありますか。サタン世界に生まれて死んでいった数多くの孝子たちも、その国が追慕し得る孝子の碑を残したのではありませんか。
また、いつ忠臣の道理を果たしたのかというのです。死ぬ最後の時まで、生命を捧げるまでは、孝子になることはできないのであり、忠臣になることはできないのではないですか。私は、そのような人を願いました。私が教育をしたのは、そのような人を願って教育したのです。それにもかかわらず、標準がすべてずれてしまいました。
いつ皆さんが、本当の意味で国を愛し、本当の意味で兄弟を愛し、本当の意味で先生を愛し、本当の意味で先生の家庭を愛したことがありますか。蕩減復帰の原則において、いかなる孝子よりも、いかなる忠臣よりもまさっていなければならないのではありませんか。それが、「原理」が教えてくれている教示ではありませんか。そのような基準に立ったことがありますか。このようなことを皆さんは知らなければなりません。
(68-268, 1973.8.5)
先生が命令することのために、なぜ手が曲がるほどに忠誠を尽くすことができないのかというのです。それを見る時、その話を聞く時、なぜ胸がふさがって痛哭するほどの歴史の条件を残すことができないのかというのです。簡単で易しい方法だというのにです。


家庭を代表して父母の前に孝行し、国に対して忠誠を尽くし、天に対してすべてのことをなし、歴史的な勝勢の権限をもっていくことができるチャンス、天のすべての偉業を無条件に相続し得る絶対的なチャンスを得たにもかかわらず、なぜそれをすることができないのかというのです。そのようにしてこそ、地から国を経て天国に入っていく時に、遮る者がいないというのです。
サタンはどのようにするのかというと、家庭の前に立ちはだかったのです。私個人がいくら完成したとしても、父母の前に孝行しなければなりません。そのようになっています。また、いくら父母の前に孝行したとしても、国の前に忠誠を尽くすことができなければなりません。いくら国の前に忠誠を尽くしたとしても、人類の前に忠誠を尽くさなければ、天国に行くことはできません。
(158-143, 1967.12.26)
私が愛さなければならない万物の父母の前に孝子となれなかったのであり、私を生んでくれた父母の前に孝子となれなかったのであり、この霊界とハナニムの前に孝子となれなかったのですが、先生を中心として真の父母に侍ることによって、代わりに孝子の資格を与えてもらうことができるのです。それゆえに皆さんは、粘り強く従っていかなければなりません。
(105-112, 1979.9.30)
世の中の若い男性や女性たちも、「初愛(初恋)は忘れることができない」と言うでしょう? 皆さんは、みな結婚したことがなくて分からないかもしれませんが、初愛は忘れることができないものです。
ハナニムと私たち人間との間で父と息子の因縁をもち、父の前に孝行した孝子として記憶された息子、娘は、ハナニムの心の中から取り除いてしまおうとしても、絶対に取り除くことができません。それは、アダムとエバよりも勝っている立場に立っているからです。アダムとエバは孝子になったでしょうか。孝子になることができませんでした。孝子になる道とは、どのような道でしょうか。孝子の道を行こうとすれば、父のみ旨のとおりに生きなければなりません。父のみ旨のとおりに生きた人でなければ、孝子になることはできません。
(57-153, 1972.5.31)
自分のために苦労してくださる父母の前に孝の道理を全うするためには、まず涙をもって父母を慰労し、担った十字架を堂々と背負っていかなければなりません。
あなたが歩んでこられた十字架の道は、子女を愛するがゆえに悲惨だったという事実を告げる思いで、「父よ! これ以上苦労しないでください。父よ! 私のためにこれ以上心配しないでください!」と言える立場に立たなければなりません。これが、今まで悲しみを受けながら歩んでこられた父母であるハナニムの前に立ち得る孝子の姿ではないでしょうか。このようなことを思うとき、今日、私たちはハナニムの前にあまりにも厚かましく、あまりにも傲慢ごうまんだったという事実を発見するようになります。
(31-35, 1970.4.12)
歴史上のいかなる先祖よりも、天地を代表して真の父母に侍るにおいて、いかなる時代の人よりも忠孝を尽くすという自覚をもって行動しなければなりません。そのように行動すれば、天とその環境において、すべての人が影響を受け、自分を中心として一つになるのです。
(275-187, 1995.12.8)


皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会とは何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。
人格を復帰するには、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要だというのです。
それでは、どこに忠誠を尽くさなければならないのでしょうか。家庭に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体であり、家庭と社会は対象です。知恵深い人はどこに立つのでしょうか。対象の立場に立つのではなく、主体の立場に立つのです。主体の立場は一つしかありません。
対象は、東西南北の四方において360度回転しなければなりませんが、主体は、中心のただ1箇所しかありません。それは、ある圏内の絶対的な立場です。二つではありません。中心が二つになることができますか。これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が大きいのです。
(25-126, 1969.9.30)
大統領になるには、大統領になり得る基盤を築かなければなりません。いくら皇太子として生まれたとしても、王になるには、王になり得るすべての法度と規則を学ばなければなりません。ですから今は、言葉だけではなく、人類歴史最後の路程に同参しなければならないのです。ハナニムが、「あなたは孝子だった」といういんを押して、天国の孝子として天国に送ってくださるのです。これは、どれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤は何ですか。家庭教会という基盤です。天国は孝子が入っていくのです。
息子は息子でも、ならず者は入っていけません。孝子の名をもっていかなければならないので、「孝子」という名の印を押してもらうためのものが家庭教会です。
(122-124, 1982.11.1)
家庭で安楽に暮らす人々は、愚か者です。家庭天国の囲いの中にとどまるしかありません。ですから、代表的家庭になり、中心的家庭にならなければなりません。それで、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理は、私が行く道だというのです。天性的に、私が必然的に行くべき道だというのです。
それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。それから、国では忠臣にならなければなりません。忠臣は、生まれながらその道理を外れることがありません。夜も昼も、焦点を合わせていかなければなりません。先生は、一生の間、寝ても覚めてもみ旨という焦点を忘れたことがありません。とこから起き上がれば、それを続けます。千年、万年続けるのです。先生が勝利した内容があるので、「宗族的メシヤの責任を果たせなかったとしても、国家的メシヤの責任を果たして、自分たちの誤ったことを清算しなさい」と言って前に立てたのです。そこで孝子にならなければならず、忠臣にならなければなりません。世界と国家を愛する心で、兄弟たちのために祈祷しなければなりません。そのようにしてこそ、真の父母様に従って聖子の地位をもち、ハナニムのみ前に現れることができるのです。
(283-77, 1997.4.8)


先生が国を担っているのです。その道において、皆さんが功臣です。それゆえに、孝子の道、烈女の道、忠臣の道を築くために行く道だということを知らなければなりません。それが宗族的メシヤの使命です。孝子は家庭における息子の立場であり、烈女は夫婦の立場であり、国を代表する父母の立場は忠臣です。忠臣になることによって国と連結され、父母の立場を代表するのです。
(220-153, 1991.10.16)
先生のために、ハナニムは多くの涙を流しています。そのようなことを知らないでしょう? 皆さんの中で、先生に涙をたくさん流させる孝子、孝女がいますか。それを願っているのです。そのような人を、まだ探し出せずにいます。深刻なことです。
(256-26, 1994.3.12)


 

第15巻 天一国主人の生活

 

第1章 創造の原動力はハナニムの真の愛

 

1) 真の愛はハナニムのみ旨がとどまる中心

ハナニムは、真理の大王、善の大王、まことの大王、愛の大王です。
(301-38, 1999.4.16)
では、ハナニムは、もともといらっしゃったのでしょうか、お生まれになったのでしょうか。ハナニムも大きくなってこられました。それを知らなければなりません。それをどのように知ることができるのですか。ハナニムの本性に似たすべてのものが、小さな細胞から育ってくるのと同じです。それでは、ハナニムは何によって大きくなってこられたのでしょうか。愛ゆえに大きくなってこられたというのです。絶対的な愛を中心として大きくなってこられました。愛の主体がハナニムであり、人間はその愛の対象です。
(243-278, 1993.1.28)
ハナニムは、真の愛のために天地を創造されました。ハナニムが天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、ハナニムお一人でもつことはできません。お一人で愛を感じることはできません。もちろん、ご自身の中に愛はあるのですが、円満に和合する喜びが充満した愛は感じることができません。いくら美しい花が咲いても、香りが出なければならず、いくら香りをもっていたとしても、風が吹いて、初めて香りが飛んでいくのです。ですから、風のように相対的な刺激の対象が必要なのです。
(210-223, 1990.12.23)
真の愛は、ハナニムが創造される時の根源的力です。原動力だというのです。それゆえに、ハナニムも好むのは、真の愛だというのです。ハナニムも、私たちのようにご飯も召し上がり、目もあり、鼻もあり、すべてあります。そのようなお方ですが、そのお方が喜ばれることとは何かというと、私たち人間たちが喜ぶ黄金の塊ではありません。それは、いつでもつくることができます。
それから、知識も同じです。ハナニムは、全知全能のお方です。知識の大王であり、能力の大王です。
(212-295, 1991.1.8)
真の愛の深さは、ハナニムが生まれる時からの、その底まで包括するという話です。どれほど深いか分かりません。ハナニムが存在し始めた根源から始まったので、どれほど深いか分からないのです。一生の間生きても、すべてそこまで行けないので、あの世界に行っても、それに向かって永遠に発展するのです。ですから、夫婦でけんかをして別れるというのは、考えることもできません。


ハナニムご自身も育ってこられたというのです。ハナニムがその深さまで、出発とともに根源と一緒にいらっしゃったのです。根源は、ハナニムが先ではなく愛が先です。「ハナニムは二性性相になっている」というのですが、なぜ二性性相ですか。愛ゆえに二性性相を大切に保管するのです。
(246-286, 1993.4.20)
真の愛は、ハナニムが思いのままにお出ましになることができる橋になるのです。すべての四肢五体が、いつ愛を中心として表面で一つになってもOKであり、内面で一つになってもOKです。北でも、南でも、東でも、西でも、天国でも、地上世界でも、どこでも同じです。愛を中心として和合することができ、愛を中心として自律的に和動することができるのです。それは、愛だけがもっているものです。
体制においても同じです。党をハナニムの絶対的な代わりとして立て、完全に一つになろうとするのは、ハナニムを中心として一つになるということです。
(139-200, 1986.1.31)
ハナニムも、真の愛に対しては絶対的に服従します。真の愛を中心としては、ハナニムも生命を捧げようとされます。男性や女性も、真の愛があれば、なぜ命を捧げようとするのですか。愛が生命よりも先だからです。ハナニムが、なぜ存在し始めたのでしょうか。愛ゆえに存在し始め、愛するために存在されるというのです。愛という概念がなかったならば、ハナニムも生まれる必要がなかったというのです。
それゆえに、ハナニムからつくられたすべてのものは、ペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムであり、レベルは低くても、陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史上、初めて発表したのです。ハナニムご自身も真の愛を絶対視され、それに絶対服従しながら生きようと思われるその起源を発表したのは、レバレンド・ムーンが歴史上、初めてです。それは、観念ではなく事実です。このようにハナニムは、真の愛を求めるために創造されたのです。
(203-103, 1990.6.17)
真の愛というものは、ハナニムを介在させることなくしては成立しません。ハナニムが介在されなければ、真という言葉、真という男性、真という女性、真という家庭、真という真理、真という愛がないというのです。ハナニムが介在してこそ、それらが可能なのです。ハナニムは、真理の大王であり、善の大王です。真の大王です。愛の大王様です。それゆえに、ハナニムを介在させない所には、善なるものがあり得ないのです。仕事もそうです。ハナニムを抜かして行うのは詐欺です。信じることができません。すべてのものがそうだというのです。ハナニムを介在させることによって、真の基準、永遠の基準が設定されるのです。
(301-38, 1999.4.16)
それでは、真の愛と偽りの愛を、何によって分別できるのですか。自分を中心として「ため」に生きようとする愛は、悪魔と通じる愛であり、相対を中心として「ため」に生きようとする愛は、天地の道理と通じ、ハナニムと通じる愛です。ここに境界線があるのです。ハナニムの愛は、与えて、与えて、与えても忘れてしまうのです。それが真の愛です。年老いたおばあさん、90歳になったおばあさんが、70歳を超えた息子に、「おい、なにがしよ。きょう外に出たら車に気をつけなさい」と言って、相変わらず幼い頃の息子に対するように接するのです。毎日のように繰り返すその話を、90歳を超えるまでしても疲れません。千万年たっても疲れないのです。そのような愛が真の愛です。
(142-333, 1986.3.14)


自分の生命までも投入して、また投入するという位置、与えて、また与えても忘れてしまう位置においてのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫きます。死の世界も貫いて上がっていくのです。生命の世界も、硬い心でも、どこでも貫いていけるというのです。愛が通れない所はありません。愛は、秘密の部屋も通れるのです。
(256-179, 1994.3.13)
最も速い速度をもったものが愛です。真の愛は、ハナニムの創造能力と一致した力です。ですから、その愛をもっていれば、地の果てからハナニムに、「来てください」と言っても、来てくださるというのです。醜い孫娘でも、指を少し動かせば、おじいさんがそれに従っていきます。愛は、そのように偉大だというのです。これが真の愛です。
(301-125, 1999.4.25)
愛というものは、ただそのまま出てくるのではありません。ハナニムの愛を通じなければ、栄光が出てこないのです。その人が栄光を享受するというのは、自分一人でいる愛をいうのではなく、億万長者になって金の畑に座っていることをいうのではありません。
愛の因縁を完全に備え、変わらない幸福な位置にいることを、栄光を享受するというのです。栄光は、ハナニムの愛を除いてはあり得ないというのです。責任を完遂したのちに、完成段階の基準を経たのちにハナニムの愛を受けるようになれば、栄光は自動的に訪れるのです。
(158-296, 1968.2.4)
真の愛は、ハナニムよりも貴くなり得るのです。それは何の話かといえば、ハナニムでも愛の相対は、何千万倍も立派であることを願うというのです。それは逆にいえば、真の愛の対象は、ハナニムより貴いというのです。皆さんも、相対が皆さんより立派であることを願うのが愛です。
(274-22, 1995.10.25)
真の愛は、ハナニムの愛です。霊界に行けば、真の愛の色と味を感じることができます。そのような世界が霊界です。その真の愛と和合すれば、通じない所や聞こえない所がなく、すべて通じるのです。真の愛の主人であるハナニムに産毛があるならば、その産毛も真の愛に属しているので、少し動いただけでも天下はすぐにそれが分かります。鋭敏だというのです。感情が宇宙的感情にまで、すべて通じるというのです。
(304-15, 1999.9.5)


愛を中心として、人間たちがハナニム、創造主以上の位置にまで上がっていける特権を許諾したその道を歩んでいける、従っていける方向を教えてあげるので「神主義」というのです。
「神主義」は真の愛主義ですが、真の愛主義は、堕落した生命を犠牲にして投入できる道を訪ねていかない限り、その道に到達できないのです。それで聖書は、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と、逆説的な論理を教えてくれたことを知らなければなりません。
(268-162, 1995.3.31)
愛の道を尋ね求めていく人は、どのようなものを備えなければならないのでしょうか。ハナニムの愛、ハナニムと父母、そして私が一つにならなければなりません。そうして初めて真の愛だというのです。これが、ハナニムのみ旨がとどまり得る中心です。私がそのみ旨と一つになり得る中心です。
(103-132, 1979.2.18)

 

2) ハナニムと真の父母と一体を成し遂げるための真の愛

本来、心と体は、離そうにも離すことができず一つでした。人間の心はハナニムの心であり、人間の体はその心を入れる器でした。ところが、人間の堕落が人間の体を悪魔に差し出したのです。それから、人間の体は悪魔のしもべになりました。
人間の良心は、ハナニムを代表する心です。良心は、自分のために存在するのではありません。天の義のために存在します。良心は、常に善に向かって走ろうとします。ここに体は、反抗します。体は、自分だけ楽をしようとし、利己的であり、本能的要求によって肉欲を表そうとします。良心は、この体を叱責しっせきして心に順応させようとします。ここに、常に血を流す葛藤かっとうと闘争が一つの体の中で起きるようになります。しかし、ハナニムを自分の中に迎え入れなければ、誰も自分の体を征服することはできません。唯一、ハナニムのまことの愛と真理の力を中心として、主体である心は、対象である体を率いてハナニムと一体理想を成すようになっています。これが宗教のいう、完成した人間です。
(219-118, 1991.8.28)
ハナニムを中心として、ハナニムはお父様であり、私たち人類の先祖は息子、娘でした。その真の愛が出てくるためには、ハナニムと一つにならなければなりません。一つになるのが原則です。一つになるための原則とは何かといえば、従順になることしかないという結論が出てきます。
ハナニムが人と一つになる日には、ハナニムのものが私のものであり、ハナニムであり私であり、私でありハナニムだというのです。ハナニムと一つになり得るのは真の愛だけです。
(91-220, 1977.2.20)
真の愛と和合すれば、彼はハナニムの体になり、細胞になります。神聖なハナニムの肢体になり、一体のようになって永遠に愛を呼吸し、愛を食べて生きることができるのです。そのような世界を天国といいます。真の愛を中心として一つになったことを、聖書は語っていません。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)、そこには愛が抜けています。
(177-149, 1988.5.17)


真の人とは、真の愛で暮らす人です。真の愛は、与える愛であり、永遠にセンターのために生きるという愛です。これがハナニムの核心です。真の愛は、ハナニムの愛です。ハナニムを永遠に愛するならば、私は真の愛の所有者になるのです。
(123-328, 1983.1.9)
真の愛は、ハナニムとだけ関係を結んだ愛です。自分とか大韓民国とか、また世の中の習慣性、風習、国民の伝統性、このようなものがありますが、そのようなものと関係を結んだ愛ではありません。ハナニムとだけ関係を結んだ愛です。
人間が堕落したために、ハナニムとだけ関係を結んだ愛になれなかったのです。サタンと関係を結んだというのです。それが家庭だけではなく、家庭を越えて宗族、民族、国家、世界まで、地上世界、天上世界までそれが拡大されているというのです。今日、私たちが堕落した人として生まれ、生きている環境に染まったすべての習慣や伝統は、ハナニムと関係ないのです。これを否定して、これを解決することが、どれほど難しいか分かりません。
(274-195, 1995.11.3)
真の愛は、ハナニムまでもコントロールすることができます。真の愛を中心として一つになれば、所有権が生じます。愛する相対のものは、私のものだというのです。愛のパートナーは、いつ、どこにおいても取り替えることはできないのです。絶対的な愛の主人です。
(281-192, 1997.2.13)
真の愛には、ハナニムの心と体を絶対的に統一させ、一つにできる力があります。ハナニムも人と似ているとすれば、心と体があるのではないですか。心と体は、何を中心として一つになっているのでしょうか。知識でもなく、権力でもなく、お金でもないのです。唯一、真の愛だけがハナニムの心と体を完全に統一させるのです。
(210-132, 1990.12.17)
私たち人間は、欲が深いのです。しかし、ハナニムの真の愛圏に入ったならば、欲心がすべてなくなります。真の愛圏内には相続権があります。ですから、愛の主体であるハナニムまでも私のものです。ハナニムに属したものはあとにして、ハナニムの心と体も私のものになります。一体になります。ハナニムと私が一体だというのです。
(213-76, 1991.1.14)
真の愛は、ハナニムの一体圏に属するもの、ハナニムに支配されるものであって、サタンに支配されるようにはなっていません。皆さんの堕落圏は、そのようになっていません。したがって、垂直であるハナニムの心情圏の円形は残っていますが、血統を誤って継承したので、横的円形が90度になっていません。75度、または15度、このようになっているのです。その差によって、良心の呵責かしゃくを受けながら、苦悶くもんを避けることができず、圧迫を受けています。
(183-42, 1988.10.29)


真の愛は、ダイヤモンドより貴重です。そのアンテナから強い電波が送り出され、自分の方向に従って触れ、出会い、キスをするというのです。それが真の父母のアンテナです。決して変わらないで、最後まで消滅しない貴重なものです。それで、全霊界の善の霊たちが真の父母を通して、新しい自らの明るい道を行こうとするのです。
(217-264, 1991.6.2)
世の中で最も悲しいことは、真の父母を失ってしまったことです。真の父母を失ってしまったことが、どれほど悲しいことかを知らなければなりません。そうしてこそ、真の父母に会うことが、どれほど喜ばしいかを知ることができます。
それで、私が皆さんに一つ一つ指導するのです。ハナニムの真の愛は、真の父母を通して出てくるので、真の父母には天使世界も支配されるようになっていて、すべての万物世界も支配されるようになっています。世界がその愛圏内にあることを、いつも考えなければなりません。
真の父母は、世界の人が冷遇する立場で生まれなければならず、世界が反対する難しい立場で生まれなければならず、万物世界のどのようなものよりも貴い立場で生まれなければなりません。天使世界の天使が反対しても、それを克服してこなければならず、ハナニムが反対しても、それを克服してこそ、それを越えて新しい理想的なものが出てくるようになるのです。
(107-92, 1980.4.6)
真の愛は、女性から始まるのではなく、ハナニムを通して、男性を通して来るのです。それゆえに、女性に生命の種を植えようと、男性たちが女性を尋ね求めて歩くのです。女性は器です。完全に空の器です。空の器とは、その器に入っていくものと対等な価値をもつのです。
(259-244, 1994.4.10)
人間に真の愛と偽りの愛というものが生じたのですが、偽りの愛とは何であり、真の愛とは何でしょうか。偽りの愛は、サタンと関係を結んだものであり、真の愛は、ハナニムと関係を結んだものです。では、男性も女性も真の愛を願いますか。本来は、真の愛を願うのが人間ではありません。堕落したために真の愛が必要なのです。堕落したのです。これが問題です。
(189-75, 1989.3.19)
女性が女王になり、男性が王になるには、真の愛を中心としてなるようになっています。真の愛を中心として女王、または男性の王が生まれるようになっているのであって、真の愛がなければ生まれることができないようになっているのです。真の愛は、最高の位置で会うのです。最高の位置で二人がぴたっと一つになり、ここにハナニムが連結するのです。
結婚するのは、最高の男性世界と女性世界を成し、ハナニムを占領するためなのです。二つの世界を占領するためだというのです。男性や女性は半分にしかならないので、完成するために結婚するのです。真の愛は、ハナニムと一つなることです。
(260-154, 1994.5.2)
ハナニムと人がどこで一つになるのでしょうか。結婚式の時に一つになるのです。本然の真の愛の中心であるハナニムを中心として、ぴたっと一つになるのです。それは何かというと、ハナニムがアダムの心に入っていき、エバの心に入っていくという意味です。アダムとエバの結婚式は、ハナニムの体の結婚式です。ハナニムの結婚式です。外的な位置が体であり、内的な位置が心です。それで、直接的にハナニムが私たちのお父様です。ハナニムの愛が私の愛であり、ハナニムの生命が私の生命です。ハナニムの血筋が私の血筋です。
(217-196, 1991.5.27)


夫婦は、すべて違う所から来て結ばれるでしょう? しかし、母と父が父母になって私を生み、父子の因縁を残すようにしたのですが、その横的な要素のうち一つは他の所から来ました。それゆえに、夫婦は別れても、父子の関係は別れることができません。縦的なものは一つしかないのです。これを知らなければなりません。天地間に、本然の真の愛を中心として、人類歴史をつなぐことができる血統的伝授の道は、垂直の位置一つしかないのです。垂直の位置が、なぜ必要なのですか。垂直に入っていけば影がなくなります。正午になれば影がなくなるでしょう? ハナニムと人間の理想的な愛の理想を中心とした垂直関係ができませんでした。
それゆえに、この宇宙の中で、人間とハナニムが真の愛を中心として垂直的な直短距離で連結できる道とは何でしょうか。このように連結できる関係は、父子の関係です。直短距離は、垂直以外にはありません。少しだけ違っても垂直ではありません。直短距離なので垂直です。その垂直を中心として、母、父は東西に直短距離で連結しています。それから、兄弟も前後に直短距離です。これが90度です。これを面で見れば24面です。全知全能のハナニムがそのような理想的構想力をもっておられたので、垂直と水平が90度を成し、前後、左右、すべて90度を成した球形の中央に、宇宙の真ん中にいらっしゃるのです。ハナニムは、何を中心としていらっしゃるのですか。真の愛を中心としていらっしゃいます。ハナニムに尋ねてみれば、それしかないとおっしゃるのです。
(198-298, 1990.2.5)
真の愛は、通じれば絶対的になり得、唯一的になり得、永遠不変になり得るというのです。真の愛に一致した人は、ハナニムに対して相対の位置に立つことができます。唯一的なハナニム、絶対的なハナニム、不変的なハナニム、永遠のハナニムにいつでも相対できる環境圏内に入っていくというのです。
(304-286, 1999.11.9)
私たち統一教会員の関係は、自分の兄弟より近いのです。このように、今後、世界は、前後の世界が一つになり、その次には夫婦が一つになり、左右の世界が一つにならなければなりません。上下、前後、左右が一つにならなければなりません。
上下、前後、左右、これは何ですか。上下は子女の道理、前後は兄弟の道理、それから左右は夫婦の道理をいうのです。このようにして完成すれば、霊界のハナニムの位置に上がっていき、ハナニムに帰らなければなりません。それは、真の愛によってのみ可能だということを知らなければなりません。


真の家庭は、このような公式的基準に訓練され、完成したアダム家庭を拡大させたものなので、この世界に拡大させれば東西が一つになるのであり、それは、男性と女性が一つになったのと同じです。男性を中心として、主体を中心として相対が一つにならなければならず、前後が一つにならなければならず、上下が一つにならなければならないというのです。そのようになれば、原理的な内容を中心として、真の愛によって一つの世界が間違いなく完結するのです。
(222-321, 1991.11.6)
ハナニムを中心とした真の愛の道が、天国に行く道です。偽りの愛の終着地が、いわゆる地獄です。今まですべての宗教は、それをはっきりと知りませんでした。地獄と天国のバウンダリー(境界線)を知らなかったのです。今、明らかになりました。堕落した愛を復帰して再出発することが、天国の出発だというのです。
(278-30, 1996.4.28)

 

3) ハナニムの愛の絶対対象は人類の先祖アダムとエバ

新しい万物をつくっておいたそのエデン、新しい万物と共に永遠の福楽を享有すべき主人公のアダムとエバ、そのアダムとエバを立たせておいて、新しい心情的な理念を抱いて見つめていらっしゃったハナニム、そのハナニムには、一瞬でも貴重でない時がなかったのです。アダムとエバが挙動するその一瞬一瞬は、表現できないほど深刻な瞬間であり、表現できないほど貴い因縁の時間だったというのです。
成長するアダムとエバは、日が経つに従って理知と知能が明るくなり、ハナニムの本性の代身として不足なものがありませんでした。彼らは、ハナニムによって造られる新しい世界に対して、ハナニムの心情に代わって見ることができ、聞くことができ、触れることができる資格者に間違いなかったのです。
ハナニムは、アダムとエバを見つめられながら、彼らの動きがハナニムご自身の動きであり、彼らが話す言葉はハナニムご自身の言葉となり、また彼らが聞いて、見て、感じるすべてのものが、ハナニムご自身が聞いて、見て、感じるものになることを願われました。そのような関係と因縁圏内にいるアダムとエバは、ハナニムが心中で描かれた、ハナニムの全体に代わる存在だったことに間違いないというのです。
アダムとエバのためにつくられた万物を抱いていらっしゃるハナニムは、アダムとエバを立てておいて、どのような1日を待ち焦がれ、慕われたのでしょうか。6日目までにすべて万物をつくり終えられたのですが、アダムとエバを完成した姿で創造されなかったということは、アダムとエバとハナニムの間に、必ず何か残っていたということです。
ハナニムが願われたのは、造っておいた状態のアダムとエバではなく、彼らが成長する姿を見つめるその期間でもなく、アダムとエバを通じて成し遂げようとする1日であったことを知らなければなりません。
この1日を迎えるその瞬間、ハナニムも喜ばれ、アダムとエバも喜び、万物も喜ぶので、万物もその日を待ち焦がれ、人間もその日を待ち焦がれ、ハナニムもその日を待ち焦がれておられたに違いないのです。
(8-267, 1960.2.7)


私たちの先祖アダムとエバは、ハナニムの愛の懐で育ち、ハナニムの至聖、至大な愛の心情のもとで育てられました。しかし、いくら育つ姿がかわいくて、暮らす環境が自由だったとしても、彼らがもっていないものがあったのですが、それは何だったのでしょうか。許諾してくださった万物がなかったわけでもありません。使いがいなかったのでもありません。それは、アダムとエバがハナニムの息子、娘になり得る心情の因縁を結べなかったということです。それがハンです。
ハナニムが無限の創造の理念とともに享受し得る希望の世界を立てられ、アダムとエバによって天下万象が自由自在に主管される姿を見て喜ぼうとされたのは、彼らを愛しておられるからだったのです。外的なある条件が貴いからではなく、ご自身の心血が彼らに浸透していて、ご自身の骨肉が潜在していて、忘れようとしても忘れられない心情の流れがアダムとエバに向かっていたがゆえに、アダムとエバに天地のすべての万物を許諾されたということを、私たちは知らなければなりません。
しかし、アダムとエバは、堕落することによってハナニムに背きました。万物に背いたのでもなく、施してくださった祝福に背いたのでもなく、背いてはいけない一つの原則に背いたのですが、それは何でしょうか。それは、ハナニムと心情の因縁を結ぶことができる基盤です。心情の基盤に背いたのです。それが堕落です。
ハナニムは、アダムとエバを見つめるたびごとに希望の心情が燃え上がり、彼らを見るたびごとに、彼らが自己完成して幸福な生活をすることを思われて幸福の感情が燃え上がり、ハナニムがつくってくださった天地万物を彼ら自身がつくったもののように主管して、楽しみ、なでてあげることを願われました。しかし、そのような希望の心情は、アダムとエバの堕落によって、すべて途絶えるようになったというのです。これが、私たちの先祖が過ちを犯した罪状の中でも、容認されることのない、とても大きな罪状だということを知らなければなりません。
しかし、ハナニムは、堕落した人間をそのままほうっておくことができないのです。なぜですか。本来、人間を永遠の基準である原理的な法度によって造られたがゆえに、その基準を無視することはできないからです。
堕落したアダムとエバを無にしてしまいたい心は切実でしたが、彼らを無にすれば、6日間でつくられた全被造世界の原則を無にすると同時に、永遠の基準まで無にしなければならない立場になり、永遠の主体であられるハナニムの実存まで侵害されざるを得ない立場になるので、これを知っていらっしゃるハナニムは、アダムとエバをもう一度救援する摂理を始められたのです。
(9-49, 1960.4.10)
サタンは、エバと愛の関係を結び、ひいてはアダムまで堕落させました。すなわち、エバがアダムを主管したのです。それゆえに、今までこれを蕩減とうげんさせるために、歴史的に数多くの女性が男性たちに蹂躙じゅうりんされてきたのです。女性は悲しく思うかもしれませんが、それは事実です。


それでは、ハナニムは、何のためにアダムとエバを造られたのですか。聖書を見れば、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊みたまが自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ 3:16)と記録されています。体が堕落して救援歴史を経なければならない人々も、体を何だと言うのですか。「神の宮だ」と言います。神の宮とは、ハナニムが臨在される場所をいうのです。
堕落して救援歴史を経なければならない人が、ハナニムが臨在できる聖殿になったとしても、堕落していないアダムと比較すれば、堕落していないアダムが良いというのです。それでは、アダムの心にハナニムが入っていって、そこにいらっしゃるのでしょうか。言うまでもなく、100年でも1000年でもいらっしゃるというのです。
それでは、アダムは、そもそも何でしょうか。アダムとエバが何も分からない間抜けならば、ハナニムが創造された天地万物を主管することができないのです。すなわち、天地を創造した技術者のような実力がなくては、主管できないというのです。それでは、誰が主管の能力を下さるのでしょうか。正にハナニムであられます。すなわち、ハナニムがアダムの心と体に入っていき、アダムをコントロールして初めて正しく動くというのです。
このように考える時、ハナニムの体になるように造られたアダムが人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体のハナニムです。無形のハナニムが実体の世界を主管するためには、実体、すなわち体があってこそ見聞きできるので、ハナニムの実体になるように創造された存在がアダムだというのです。
それでは、エバは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。したがって、アダムが実体をもったハナニムならば、エバは実体をもったハナニムの妻です。神聖なハナニムが妻をもらうなどとんでもないと思うかもしれませんが、アダムは実体をもったハナニムの体であり、エバは実体をもったハナニムの妻として造られたのです。
そのようなアダムとエバは、どのようにしなければならないのでしょうか。見えないハナニムの内在的な性稟せいひんにそのまま似て一体を成し、愛の実を結ばなければなりません。そのようにすれば、その息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、ハナニムの息子、娘だというのです。まことの愛を通してアダムの息子であり、ハナニムの息子をつくらなければなりません。
ところが、正常な軌道で愛の因縁を立てられなかったことが億千万代の恨の歴史であり、今日この悲惨な堕落の歴史だということを皆さんは知らなければなりません。
(22-279, 1969.5.4)
ハナニムが王ならば、アダムとエバは、ハナニムの初代王子、王女です。ハナニムの相対として、天宙のすべてのものを相続し得るハナニムの初代王子と初代王女が、私たちの最初の先祖であるアダムとエバだったことを、はっきりと知らなければなりません。このように、王族心情圏に一致する生涯を終えて入っていく所が天国です。これを今まで歴史始まって以来、どの宗教家も分からず、誰も分かりませんでした。


ところが、既成教会では、「イエス様を信じれば、すぐに救われる」と言います。そのようなばかな話はありません。心情圏、長子権において、アダムとエバは、初代の長子と長女でした。初代の真の父母であり、地上王国の初代の中心人物でした。その王を中心とした王族が地上に残っているならば、今、この世界はどのようになっていたでしょうか。
ハナニムの理想を中心として、すべてのものが準備されていたはずですが、堕落することにより、サタン圏を中心として数百、数千の民族が分裂し、闘いの渦中で王族圏を制圧してきたのです。それが堕落の結論です。
(228-169, 1992.3.27)
無形の二性性相の主体としていらっしゃるハナニムの男性格性稟を実体として展開し、ハナニムの内的性稟を見えるように実体として展開して相対的に造ったものがアダムであり、ハナニムの内的な女性格性稟を実体として展開したものがエバです。別の言い方をすれば、ハナニムの内性的なすべてのものを投入して実体化させたものが人間の体だというのです。
(143-80, 1986.3.16)
エバゆえに、本来の理想的なアダムとエバが二人とも壊れたのです。それゆえに、理想的「のちのアダム」として来られたイエス様の前に、堕落したエバ、すなわちマリヤがイエス様の妻になるエバを復帰してあげなければなりません。復帰するには、マリヤ一人ではできません。創造主がアダムを中心としてエバを造る時も、天使長が協助したので、復帰歴史完成のために、「後のアダム」を型としてエバを造る時も、天使長が協助しなければなりません。そのようにすることによって、エバが復帰されるのです。
そして、イエス様と復帰されたエバが一つにならなければなりません。天使と天使長の立場であるしもべたちが、アダムの立場であるイエス様を中心として、エバの立場である娘を創造したとすれば、その娘は堕落していないハナニムの娘ではないですか。マリヤとヨセフが、そのハナニムの娘とイエス様を祝福してあげなければなりません。ここで、ハナニムの娘とハナニムの息子が一つになるのです。
主管性転倒問題は、エバが引き起こしたことなので、女性が責任をもたなければなりません。それゆえに、マリヤが天使長も復帰してあげるべきであり、アダムも復帰してあげるべきであり、エバも堕落前のエバに復帰しなければなりません。マリヤが、このすべてを復帰しなければなりません。ですから女性は、主管性を転倒しなければなりません。マリヤは、天使長とアダムとエバ、この三つを復帰するだけでなく、ハナニムの心情まですべて探し立てなければなりません。
それをすることによって、ハナニムのみ旨と人類の目的が成し遂げられるのです。ハナニムが4000年間願ってこられたみ旨と、人類が今後、天国を成し得る起源が、ここでできるのです。ですから、これが人類の目的点となってきたのであり、ハナニムの目的点となってきました。
アダムとエバが愛を結び、愛を完成すれば、そこから完全なものへの出発がなされるのです。それゆえに、主管性転倒を必ずしなければなりません。
(38-70, 1971.1.1)


もしアダムが堕落しなかったならば、アダムとエバが成し遂げた家庭は、ハナニムが喜ばれる家庭であると同時に、人類始祖において最高の幸福を感じられる基台になったのです。苦痛とか失望とか、あるいは嘆息などを見たり感じたりせず、喜びと幸福だけを感じて永遠を希望とし、ハナニムの直接主管圏内でハナニムの主管を受けたのです。ところが、アダムとエバの堕落により、このようなすべてのことが狂ってしまいました。
したがって、それを復帰しなければならないのですが、それをそのままでは絶対に復帰できないのです。必ず、創造原則によって復帰していかなければなりません。これが原則なので、今までの復帰歴史を見れば、再創造歴史を通してそれをなしてきたことが分かります。エデンの園には、天使長がいて、エバがいて、アダムがいて、ハナニムがいらっしゃいました。別の言い方をすれば、ハナニムを中心として四位よんいの形態を備えた位置だったというのです。そのような位置で堕落したので、復帰するにおいては、再創造原則を通さなければなりません。それで、今まで復帰歴史は、男性が担当してきたのです。
(46-196, 1971.8.15)
ユダヤ民族がイエス様を受け入れなかったために、イエス様は、一人で国家と世界のために自らを犠牲にすることに決めました。イエス様は、家族を離れなければならず、孤独に生きなければならなかったのです。しかし、ハナニムの愛を受けました。結局彼は、堕落したアダムとエバの救援のために堕落していない兄弟が犠牲にならなければならなかったように、人々のために自らを犠牲にしました。
すべての人が堕落したアダムとエバの位置にいました。彼は、彼らのために自らを犠牲にしました。祭物になりました。自分を殺そうとする人々をのろわなかったのです。むしろ、ハナニムに彼らを祝福してくださるように願われ、祈られました。それゆえにイエス様は、ハナニムと堕落したアダムとエバの間に仲保者として立ったのです。イエス様は、堕落していないアダムとして亡くなりました。そして、全世界、人類の救援のための公式的な道を行きました。それで、彼に従う者は誰でも救われるという、代表的なアダムになったのです。
(52-66, 1971.12.22)
もしアダムとエバが成熟し、完成していたならば、彼らは、夫婦の愛によって一つになれたのです。彼らは、肉体的だけではなく、霊的にもお互いに愛するようになっていました。その場において、アダムは、お父様であられるハナニムと縦的に一つになることができ、エバは、お父様と娘の立場でハナニムと一つになることができました。その時、アダムとエバが望んだ位置は、一つになる位置でした。そして、ハナニムとエバも一つになってアダムを望んだのです。
横的にはハナニムとアダム、そして、ハナニムとエバ、3人がいます。この3人は、完全に一つになることを望みます。それでは、どこで彼らが会うのですか。あの上ですか、でなければこの下ですか。違います。彼らは、横的に出会って一つになったのです。もしアダムとエバが横的に一つになっていたなら、彼らはどのようになったでしょうか。完全に一体になったのです。何も彼らを離すことはできなかったはずです。


これを成したのちに、初めて愛の位置に対する欲望が生まれます。男性と女性には、これが唯一の道であり、唯一の目標です。それは、ハナニムとアダム、そして、ハナニムとエバが一緒にいたいと思う唯一の位置なので、最高の位置です。ハナニムとアダム、そして、ハナニムとエバが一つになれなければ、彼らはその場を占有することができないのです。その時から、ハナニムを中心としたアダムとエバの間の授受関係が疎遠になります。
このような観点から見るとき、私たちは、ハナニムが縦的にだけではなく、横的にも創造していらっしゃることが分かります。これがアダムとエバを中心とした創造理想、ハナニムの理想です。アダムがハナニムと一体になり、エバがハナニムと一体になれば、彼らの間ではどちらも、「私のほうがあなたより貴い」と言うことができないのです。より貴いものも、より貴くないものも存在せず、ただ完全な一つのものだけが存在するのです。しかし、様々な理由で、ハナニムとエバの隙間、そして、ハナニムとアダムの隙間が生じるようになりました。
(52-261, 1972.1.2)
アダムとエバが成熟して成婚式をすれば、彼らはハナニムを中心として直接的な愛圏内で一つになるのです。ここで中心は、誰ですか。ハナニムです。そのようになったとすれば、私たち人間は、実体をもったハナニムの体になるのです。そのようにしてアダムとエバが一つになっていたならば、彼らはハナニムの体であり、人類の父母であり、ハナニムの中心になるのです。いくら全知全能のハナニムでも、相対なくして喜べば、「狂ったハナニムだ」と言うことができるのです。
絶対的なハナニムの前に、私たち人間は、相対的存在です。絶対的な愛を中心として一体にならなければなりません。そのように、ハナニムとアダムとエバが一体になっていれば、そのアダムとエバを中心として生まれた息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、ハナニムの息子、娘です。そのようになったならば、ハナニムの血族としてこの地上に家庭を築き、宗族を成し、民族を成し、国家を成し、世界を成していたはずであり、永遠であられるハナニムの愛を中心として結ばれたその因縁は、断ち切る者がいないので、その国自体がハナニムの愛を基盤とした地上天国になることを皆さんは知らなければなりません。
(54-64, 1972.3.11)
アダムとエバが堕落していなかったならば、アダムがエバを愛するのはハナニムの代わりに愛することであり、エバもアダムを愛するのはハナニムの代わりに愛することだ、という観念がここで形成されるのです。それゆえに、アダムとエバの生活は、ハナニムの生活を表示するものになります。
アダムとエバが喜べばハナニムも内的に喜ばれ、アダムとエバが悲しめばハナニムも内的に悲しみを一緒に感じられるようになっています。愛は、ハナニムのものであり、アダムのものであり、エバのものだからです。一つの愛なので、そのようにならざるを得ないというのです。
(95-248, 1977.12.4)


本来、堕落していなければ、左翼と右翼はありません。統一です。「頭翼思想」や「神主義」は必要なく、そのまま天国に行くのです。救世主も必要ないのです。アダムとエバから「頭翼思想」によってハナニムの前に行くのであって、再び戻る必要は何もありません。すべて天国に直行するのです。アダムとエバが堕落していなかったならば、天国の王子、王女として天国に行くのです。アダムとエバは、ハナニムの王孫でしたが、堕落したためにそのようになれなかったのです。
アダムとエバとは誰かといえば、ハナニムの体です。エバは、ハナニムの実体の夫人です。ハナニムは、霊的に縦的な父になります。垂直的な父、縦的な父です。皆さんの心には、その二つの父母の血統を受け継げる本然的基準があるので、堕落したとしても永遠に変わりません。
創造主は縦的な父母として、横的な父母を縦的な愛の相対として造られたのです。それゆえに、アダムとエバは、ハナニムの永遠の愛のパートナーです。ハナニムの相対です。アルファとオメガだといいました。ハナニムから愛を始めたので、戻ればハナニムの友人になるのです。あとでハナニムに戻らなければなりません。
(227-274, 1992.2.14)
アダムとエバは、誰を中心として結婚生活をしたのでしょうか。ハナニムがそれを干渉されたでしょうか。アダムとエバが息子、娘を生みましたか、生みませんでしたか。生みました。カインとアベルを生みました。カインとアベルを生んだのですが、ハナニムが「おい、アダムとエバよ! お前たちは一緒に暮らして息子、娘を生みなさい!」とおっしゃって生んだのがカインとアベルですか、自分勝手に生きながら生んだのがカインとアベルですか。自分勝手にして生んだのです。自分勝手に生んだのに、誰が喜ぶでしょうか。サタンが喜ぶのです。アダムとエバは、サタンを中心として結婚したのです。これを否定できません。
(234-299, 1992.8.27)
韓半島がアダム国家ならば、日本はエバ国家です。韓国がなぜアダム国家ですか。地理的に見るとき、韓半島は男性の生殖器と同じです。ちょうどローマがそうです。地中海が女性の陰部のようで、イタリアが男性の生殖器のようです。ですから、二つが一つにならなければなりません。このような地域は、いつも文化が離れられません。一つの文化が帰着して離れることができないのです。なぜなら、愛の基盤の上に立ったのと同じ立場だからです。地政学的なすべてのものを見ても、ローマと地中海は、男性と女性が一つになったものと同じだというのです。
今から父と母に代わって総合的な文化時代が訪れてきます。これは、アダムとエバが堕落した時に失ってしまったものを再び取り戻す場なので、その周辺国は、一緒に堕落した3天使長の立場です。アダムとエバ、3天使長と同じです。韓国を中心として3天使長は、中国とソ連アメリカです。アメリカは、天の側的な天使長であり、サタン側的な天使長が、中国とソ連です。台湾とインドもそうです。これがちょうどそのような立場にいるというのです。


アダムとエバが家庭を失ってしまったその時に、アダムとエバを失ってしまい、3天使長がすべて堕落しました。それを復帰しなければなりません。それゆえに、韓半島において、ローマ教皇庁ができないことを収拾しなければなりません。ローマ教皇庁は、来られる主のために備えるというみ旨をもっていましたが、失敗しました。
(235-80, 1992.8.29)
日本は、サタン側の国です。天照大神あまてらすおおみかみの国を、天国のエバとして完全にひっくり返さなければなりません。次子権を日本人以外の第二世に、奪って返さなければなりません。韓国と日本は、アダム国家とエバ国家なので一つだというのです。一つにしなければなりません。日本が日韓併合をする時には、銃刀で一つにしようとしましたが、ムン総裁は、自由の環境で、愛で一つにするというのです。
エデンの園において、女性は一人であり男性は5人ですが、アダムは目がぼーっとしていて女性を奪うことができないのです。そのようにしようとすれば、息子、娘をすべて抱かなければなりません。息子、娘をもってこそエバを取り戻せるのです。息子、娘をすべて結婚させたので、エバは行く所がないのです。日本自体が国家的にこのようなことをしなければなりません。
そのようにすることによって、世界を代表したエバ国家が出生しゅっしょうし、それがアダム国家と一つになる日には、天使長国家であるアメリカまで加担して、三つの国が一つになるのです。
(265-178, 1994.11.20)
「成約時代」と言うとき、「成約」とは、アダムとエバを創造して、アダムとエバの家庭を完成することをいうのです。すなわち約束を成すことです。
そして、アダムとエバの本然的な基準に帰らなければならないのですが、堕落の血族、個人、家庭、宗族、民族、国家、世界の50億人類と、歴史時代に霊界に行った数多くの先祖までぶら下がっています。いくら歴史時代に忠誠を尽くし、精誠を尽くしてハナニムを愛したとしても、それは、すべて過ぎていってしまい、み旨を成せる成約時代に達し得ない、忠誠であり精誠だったというのです。
ハナニムは、アダムを造られ、アダムからエバを造られたので、ハナニムが責任をもつべきことは、アダムを再び造ることです。ハナニムはアダムを造らなければならず、地はエバを造っておかなければなりません。そして、エバを中心としてカインとアベルの二人の息子を失ってしまったので、これを取り戻すのです。そのように種をいたので、それを収めなければなりません。母を中心としてアベルは右側であり、カインは左側だというのです。三角形の線と同じになるというのです。
地でそれを準備しなければなりません。それをどのようにすれば解放できるのですか。個人的にカインとアベルを蒔いたのであり、アダムとエバを中心として母と息子、娘が植えたので、これを世界的に蕩減しなければなりません。
(244-233, 1993.2.14)


真の愛の礎石を、誰がおいたのですか。人間がおいたのかハナニムがおいたのかという問題の答えは、ハナニムです。人間が生まれる前に鉱物をつくられ、植物をつくられ、昆虫をつくられ、すべてつくっておかれたのです。聖書を見れば、一番あとで人間を造られたのであり、最後に造られたのがエバです。
それゆえに、結局ハナニムは、誰と連結するのですか。女性と連結しなければなりません。ハナニムが礎石をおいた目的は、地上でアダムとエバが一つにならなければならないからです。アダムとエバが一つにならなければなりません。それでは、アダムとエバは、横的な面において、プラスとマイナスを中心としてどこに行って一つになるのでしょうか。男性と女性が一つになるのです。男性と女性は、凹、凸で一つになるのです。
ハナニムは心的存在と同じなので、アダムの心に性相が入っていき、エバの心に形状が入っていき、彼らが結婚式をするようになるのです。結局は、私たちの心と体が一つになることと同じです。
ハナニムと私たちの心が一つになることが、霊肉一体と同じ立場に立つのです。霊肉一体の男性と霊肉一体の女性がハナニムと一つになって結婚式をするのです。結婚式は、1日、一時に1双で結婚するのです。その結婚式は、アダムとエバの結婚式であると同時に、ハナニムの結婚式だというのです。
それで正分合です。「正」で分かれたものが合わさるときは、それらだけで合わさるのではありません。アダムとエバだけではなく、ハナニムから一つになるのです。
(269-125, 1995.4.9)
縦横を中心として運動することにより面積が生じるのですが、この面積の中で、ハナニムの真の愛を中心として、アダムとエバが内外に同じ姿を備えるようになります。そして、私たち人類の先祖の位置で初愛を結ぶことにより、永生的で内的なハナニムの存在と、この肉的で一生的な存在が一つになるのです。それで、ハナニムの心の血筋と体の血筋を受け継ぐことにより、その子女は、ハナニムとアダム完成のすべての基準を受けるようになり、ハナニムが永生されるので、私たち人間も永生するというのです。永生論理がここから展開するのです。
それゆえに、愛でなければ人間がハナニムの形状を受け継ぐことはあり得ません。ハナニムご自身が人間の形状、体の形状を受け継ぐことはできないというのです。そのように愛が重要なのです。それで、ハナニムの愛の理想を完成させるのに絶対的に必要なのが、絶対主体の前の絶対対象だというのです。その対象的な存在がアダムとエバです。
ここは、内的な形状であったものが実体として分かれ、再び完全なアダムとエバを中心として愛によって一体となることにより、結局は、心的実体であるハナニムがここに内的に入ってこられ、体的な実体であるアダムとエバが愛で一つになるのです。ここにおいてハナニムもアダムの形状に似て、アダムもハナニムの内的な形状に似て地上に定着するのです。これが家庭の基盤です。これを知らなければなりません。これが宇宙の根本です。
(294-244, 1998.8.5)


 

4) 真の愛の初舞台は真の家庭

ハナニムは、まことの愛でアダムとエバを造られました。そのアダムとエバは、ハナニムの本来の性相と形状が展開した実体です。ハナニムの見えない性相と形状が実体として現れたのが、創造されたアダムとエバです。それゆえに、大きくなって上がっていかなければなりません。大きくなってハナニムと一つにならなければなりません。完成したアダムとエバになっていたならば、彼らの心と体が自動的に一つになるのです。しかし、堕落のために彼らの心と体が闘ったのです。今まで、これが分かりませんでした。ハナニムの創造理想どおりに人間が完成したとすれば、心と体は闘いません。闘う人になったということ自体が、「ハナニムはいない」と否定し得る条件になるのです。
(238-29, 1992.11.19)
真の愛は、一人では成すことができないのです。相対がいなければなりません。皆さんも、自分の相対が自分よりも立派であることを願いますか。誰でも、自分の息子、娘が自分よりも立派であることを願うというのです。そのような心は、ハナニムから来たのです。それゆえに、ハナニムも、愛の相対がハナニムより立派であることを願っていらっしゃるという事実を知らなければなりません。愛の相対が横的にも縦的にも自分より立派であることを願う本然的起源は、ハナニムにあったというのです。
(203-103, 1990.6.17)
女性の心と男性の心が一つになり、女性の体と男性の体が一つになれば、ハナニムの形状になるのです。そのようになれば、その中心にハナニムが臨在し、永遠に定着できるというのです。正分合作用が3段階を経て、心的基準と体の基準が一体理想を成すのです。愛の一体、縦横に理想世界の一体圏が成されるというのです。心身一体という概念に、すべてのものが統合されるのです。
愛が一体となることにより、実体のハナニムとして地上に定着し、繁殖した家庭がハナニムの家庭になり、ハナニムの一族になり、ハナニムの民族になり、ハナニムの世界になるのです。そのようになれば、堕落による心と体の闘いがすぐになくなります。
ハナニムの性相と一つになっているので、自然にハナニムの愛が臨在して男性と女性の相克がなくなるのです。衝突なく、自動的にお互いが愛せるようになるのです。そこにハナニムが臨在され、家庭において心的な存在となり、夫婦は体的な存在として一体を成し遂げるのです。
(294-313, 1998.8.9)
真の夫婦というものは、真の生命体を中心として、男性と女性が真の愛によって結束した夫婦です。そのような夫婦が真の夫婦です。社会は、そのような因縁を連結しなければなりません。兄弟圏の心情を横的に拡大した相対圏が真の社会、真の国家、真の世界です。人間は誰しも、自分自身が宇宙の代表になりたいのです。


真の愛を背景とする因縁を中心として見れば、すべてが平等なので、それに背く者は、立つ位置がなくなるのです。唇は、真の愛によって連結します。それゆえに、生命・愛と血統、これが自分自身です。
(190-214, 1989.6.19)
真の愛の第一故郷は、真の家庭です。真の家庭とは何ですか。そこには真の父・真の母・真の夫・真の妻・真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。
(215-243, 1991.2.20)
父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り、子女はその真の愛に無限に感謝するようになり、父母は大きな喜びでその犠牲を補うのです。このように犠牲的な真の愛の力は、授け受けする作用を発展させ、真の家庭で、そして、真の世界で永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところで、永生の理想世界が顕現するのです。
しかし、このような真の愛が欠如した家庭と国と世界は、抜け殻にすぎず、むしろあらゆる不信と反目と不倫の納骨堂のうこつどうになってしまうのです。
人間の純粋な真の愛が成長して完成する場は、真なる家庭です。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛、そして、真の兄弟の愛が共に完熟して実践される真の愛の初舞台は、真の家庭です。真の父母の真の愛を通してハナニムの真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通して真の国と真の世界人類に対する普遍的真の愛を訓練させる、平和世界の基本核の場が真の家庭です。それだけでなく、父母と子女間に受け継がれる真の愛を通して、過去と現在と未来の世代が一貫した真の愛の価値観によって連結していくようになる、歴史的連結の輪の基本単位も真の家庭です。
(288-199, 1997.11.28)
おじいさんとおばあさんは、父と母のために死を覚悟して、命を懸けて愛する、これがどれほど幸福ですか。また、母、父は、息子、娘のために生命を懸けて愛するというとき、どれほど幸福ですか。
皆さんは、「愛のために死ぬ」と言うのですが、孫がおじいさんのために死ぬことが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために、愛を中心として生命を捧げようとする家庭が真なる家庭だという結論が出てきます。
(162-140, 1987.4.5)
ハナニムが最も好まれるものとは何ですか。ハナニムが最も好まれるものとは、真の愛ですが、真の愛が最も喜ぶ相対的基準は何かといえば、アダムとエバの家庭です。この家庭は、理想的なハナニムの立場に立てられたものです。
(263-177, 1994.8.23)


レバレンド・ムーンが教えてあげる真の愛の道、真の愛の男性と女性が行き、真の家庭が行き、真の国が行き、真の世界が行く道は、絶対的です。一つしかないのです。二つではありません。それを教本として、すべての人が向かい合える所が家庭だというのです。
(135-158, 1985.11.12)
祝福を受けた夫婦がけんかをすれば、どのようにするのですか。夫婦がけんかをすれば、自分の息子、娘を呼んでおいて、その次には信仰の息子、娘を呼んでおいて、許しを請わなければなりません。
カインとアベルが、行くべき伝統に背いたので、カインとアベルに、自分の息子、娘と信仰の息子、娘がアベル、カインの立場にありますから、彼らが一つになれるように導けず、反対のことをしたので、子女の前に悔い改めなければなりません。そのような時が来るというのです。共同運命です。息子、娘が誤ったとすれば、父母に許しを請わなければなりません。もし夫、父が誤ったとすれば、その息子、娘と夫人に許しを請わなければなりません。それが真の愛を中心とした真の家庭です。
(135-38, 1985.8.20)
宗教は、ハナニムを尋ね求めていくのです。ハナニムの教えを尋ね求めていくのです。それを成し遂げるのは、ハナニムではなく人間です。相対的な愛を尋ね求めていくのですが、どこでそれを定着させるのかといえば、教会でもなく世界でもありません。正に家庭だというのです。
家庭に真の愛の種を植えなければなりません。真の家庭によって拡大するためなのです。そこには宗教観念がありません。天地正教も必要なくなります。
(259-62, 1994.3.27)


 

第2章 天国と真の家庭

 

1) ハナニムの創造理想は四位基台と真の家庭

本来、ハナニムは、天地万物を創造され、すべてのものが人間を通じて完成するようになさることにより、ハナニムの威信と人間の威信を立てようとされました。そのようになれば、人間の完成はもちろん、ハナニムの創造理想の完成も自動的に完結するという結論に到達するのです。
そのようになっていれば、ハナニムは万宇宙の中心の権威を備えられ、人間はその息子、娘として一体となり、ハナニムの理想的愛の世界がこの地上に実現していました。そして、ハナニムの悲しみが始まるのではなく、ハナニムの喜びが始まっていたのです。そのようになっていれば、ハナニムは、喜びの中で、人間の権威を100パーセント褒めたたえたことでしょう。
ハナニムが人間をそのように高く褒め称えられることを見倣い、人間も、同じように、ハナニムに対して高く褒め称えたことでしょう。そのようになれば、共同運命に置かれるようになっていたというのです。
(92-145, 1977.4.1)
ハナニムは、人間始祖アダムとエバを中心として、万物を主管するだけではなく、愛の家庭を築こうとされました。私たち統一教会では、この基準を「四位よんい基台の完成」と定義しています。結局、ハナニムのみ旨とは創造理想を完成することですが、その創造理想を完成するということを具体的に言えば、それは四位基台の完成だというのです。
それでは、四位基台とは何でしょうか。完成したアダムと完成したエバが、ハナニムの愛の中で祝福を受け、そのお方の息子、娘になると同時にハナニムが願われる夫婦となり、その次に、ハナニムが願われる家庭を築くためには子女がいなければならないので、子女を完成させることです。
(80-268, 1975.11.2)
ハナニムのみ旨は、創造理想を完成することによって成されます。それでは、ハナニムの創造理想とは何でしょうか。もちろん万物をつくることがハナニムの創造理想でもありますが、アダムとエバを中心として創造理想を成そうとされたというのです。ハナニムの創造理想の完成、み旨の完成とは何でしょうか。ハナニムを中心として、ハナニムの愛を中心として四位基台を完成することにより、創造理想も完成し、み旨も完成するのです。言い換えれば、「ハナニムのみ旨の完成」という言葉は、常にハナニムの愛を中心として四位基台的愛の基盤を内包しているという事実を、皆さんははっきりと知らなければなりません。
(102-174, 1978.12.24)


四位基台は、愛を中心として東西南北が備えられていくことです。愛を除けば何もありません。その愛は、アダムだけの愛ではありません。エバだけの愛ではありません。アダムとエバが統一された位置で、ハナニムの愛を連結させなければならないのです。ハナニムの愛を連結させたその位置には、アダムとエバの愛があると同時に、息子、娘の愛が介在します。
私たちがしばしば言う「三対象理想」という言葉も、アダムを中心として見れば、天がいて、妻がいて、子女がいるという意味です。これは3掛ける4は12、12数の対象圏のことをいっているのです。またこれは、愛を中心とした人々の三つの位置についていっている言葉です。
ところが、今まで信仰生活をしてきた人々は、ハナニムの愛を中心として創造理想を完成するという、そのようなみ旨が分かりませんでした。それは、ハナニムのみ旨の完成、創造理想の完成をいうのです。それが四位基台の完成です。四位基台を完成すればどのようになるのでしょうか。天と地が定着するようになります。天と地が初めて定着するようになるのです。天は上の軸と等しく、地は下の軸と等しいので、これを中心として一つになるのです。
ここで子女は、中央の軸に向かって一つになれる平面的な形態を備えなければなりません。そして、これが育つことにより、中央に上がっていって一つの円形を描き、さらには愛の理想である球形を成すのです。
(170-62, 1987.11.8)
すべてのものは、中央線を通らなければなりません。なぜ人の鼻は、上から下に垂直に下りているのでしょうか。中央を失ってしまってはならないからです。顔を見れば、目はハナニムを象徴し、口は万物を象徴しています。それで、歯が32本です。4掛ける8は32、歯は32本です。これは全体数を表しています。4数は東西南北であり、8数は全体数を代理したものです。乗数なので、4掛ける8は32、全体を象徴しているのです。それは、万物を食べなさいという意味です。これは、外的なものを取り入れることです。そうしながら、話すということは、内的なものをはき出すことです。すべて四位基台になっています。授け受けする道理です。
(174-220, 1988.3.1)
縦横に備えられた愛の圏が、四位基台の愛の圏です。そのようになった時に、初めて父母が父母として登場するのです。父母として登場するので、横的な面において初めて実体的なハナニムの代身者として登場するのです。ハナニムがアダムとエバを造って感じられた喜びを感じさせるために、横的な子女を養育できる力を人間に許諾されたのです。これがハナニムの創造理想です。
(64-33, 1972.10.22)
ハナニムを中心としてアダムとエバが愛を感じたとすれば、その愛はハナニムの愛であり、その四位基台はハナニムを中心とした四位基台です。それから子女ですが、この子女関係は、ハナニムを中心として相対的です。ところで、相対となっている子女を生み、ただそのままではどこにも使うことができません。教育をしなければなりません。大きくなっていかなければなりません。大きくなっていく中で、男性は右側、女性は左側に行かなければなりません。
(233-75, 1992.7.30)


新しい時代の四位基台は、アダムとエバの息子、娘から始まります。ですから、アダムとエバが結婚して繁殖すれば、結局は、四位基台圏を成すようになっているのです。
(本然の息子、娘として)入っていくには、どのように入っていくのでしょうか。ハナニムの本来の心情と、ハナニムが願われた理想家庭を中心として、相対圈が新たに生じるのです。四位基台は3段階でしょう? ハナニム、アダムとエバ、息子、娘です。この場合が縦的です。これが横的に展開していかなければなりません。横的に着陸することにより、縦的な要素がこれを基盤として、無数に平行に広がっていくのです。これが一つのモデルとなります。
アダムが理想とした四位基台が全世界的に発展していくためには、このような伝統的な家庭の内容を完成させなければなりません。これを完成させなければ、横的な連結を成すことができません。別々に分けて考えてはいけないというのです。アダムとエバが結婚して暮らせば、既にハナニムは右側に来ていらっしゃり、自分の息子、娘は左側に立つのです。これが一つです。この三つが一つになっていることを知らなければなりません。
(240-14, 1992.12.11)
横的に見れば、アダムは長男です。次男はイエス様であり、完成したアダムは三男です。縦的原理から見れば、三男は3代目でしょう? ですから、おじいさんの立場が第1代であり、父の立場が第2代であり、第3代は息子であり、それは孫の立場です。このようになっていたものが反対を向けば、孫がおじいさんの立場になります。反対に、祖父・父・孫となるのです。それゆえに、先生に絶対服従していくことによって、ハナニムの国の四位基台、3代圏を完成し、ハナニムの国に入っていけるのです。ですから、蕩減とうげん復帰です。
(258-208, 1994.3.17)
統一教会主体思想は、ハナニムを中心とした思想です。この主体思想の中で、秩序的段階について言えば、3段階がなければなりません。ですから、父母と夫婦と子女がいるのです。この中心がハナニムと因縁を結び、四位基台理想を拡大させ得る愛の理想圏なのです。これが、私たちの主体思想の内容です。
愛は、拡大する力をもっています。それが集約されれば一つになります。それゆえに、拡大し得る理想と連結し、全人類を抱いて生きていこうとするので、拡大させなければなりません。これを拡大させたのが、私たち人間の繁殖です。アダムとエバの二人を、横的に拡大させたのです。それゆえに、主体思想の内容を要約すれば、ハナニムが、愛を中心としては絶対的な主体です。その次にはまことの父母です。その次には自分たち夫婦です。自分たち夫婦が真の父母の代わりとなり、子女をもつのです。これが四位基台です。
(164-93, 1987.4.26)


四位基台は、父母を中心とした真の愛の起源を表しています。その次には、父母と子女の完全な愛の一体を表しています。それは、一時的なものではなく、永遠です。永遠であると同時に、絶対的だというのです。その愛の起点とは、唯一であり、不変であり、絶対的です。そのような愛は、ハナニムだけにあるのでもなく、父だけにあるのでもなく、母だけにあるのでもありません。家庭的基盤の上、真の家庭の基盤の上に成立するのです。
その愛を中心とした家庭の信義は、絶対的です。愛は、すべての関係においても絶対的です。そこでは、一つが侵犯されるということは全体の破壊を意味するので、そのようなことは容認できません。したがって、四位基台自体は、愛が侵犯され得る問題において、自らの生命を凌駕りょうがしたとしても、これを擁護し、保護しなければなりません。ここで最も恐ろしいことは何かというと、この愛の基盤が破壊されることです。それが一つの核となって拡大したものが世界です。
そのようにして、一つのアダム家庭からその息子の家庭が生まれ、父母の家庭と息子の家庭が一つにならなければなりません。それで、四位基台が生じれば、この四位基台は将来、霊界の四位基台へと移っていくのです。
(106-57, 1979.12.9)
ハナニムの創造理想の最後とは何でしょうか。原理でいえば、責任分担を完成し、愛を中心として四位基台の家庭理想を完成することです。なぜ四位基台が必要かというと、父子関係の家庭理想を成さなければならないからです。父母の愛を中心として一つになったその縦的伝統を受け継いだアダムとエバが、横的伝統を展開させていかなければならないのです。
アダムを起点として12支派が生まれ、その12という数字を中心として360日という日が拡張されたように、すべての民族の拡張のための摂理の基準を立てることが創造理想の完成だというのです。
そのような面から見るとき、「み旨の道」におけるみ旨とは何でしょうか。創造理想の完成です。創造理想の完成とは、四位基台の完成をいうのです。父を中心とし、母を中心とし、息子を中心とし、娘を中心としたものではありません。真の愛を中心とした四位基台の完成です。
真の愛を中心として、これが責任分担の完成です。責任分担の完成というのは、すべての愛の理想を基準として男性と女性が完全に一つになり、ハナニムが創造なさったすべての基準に一致すれば、その地上において縦的な基準として受け継いだアダムとエバの伝統を、肉身を通して初めて横的に展開させていくことをいうのです。息子、娘を一人か二人だけ生むようにはなっていません。アダムとエバの時代が来れば、東西南北に息子、娘をたくさん生むようになっているのです。
(228-249, 1992.7.5)
一人の男性は、必ず一人の女性と共に家庭を形成しなければなりません。そのようにしなくては、統一世界に行くことができません。過去の信仰者たちは、家庭を捨てていきましたが、捨てた家庭を高い次元において再び取り戻し、勝利の家庭として新しい基台の上に立てなければ、天国に行けません。一つの家庭が形成されたからといって、その家庭だけで、天国に入っていけるのではありません。四位基台を形成して初めて行くことができるのです。


どこで四位基台を成さなければならないのでしょうか。この地上で成さなければなりません。いつ成さなければならないのでしょうか。自分が死ぬ前に成さなければなりません。それを成さなくては、国家を迎え得る国民になることはできず、世界を迎え得る人類になることはできず、ハナニムのみ旨が成されなければ天国世界を迎え得る天民になることはできないのです。
(45-62, 1971.6.13)
皆さんは、妻をもって幸福だと思うかもしれませんが、私は、そのように思いません。女性も幸福なのではありません。幸福なのではなく、十字架を背負ったのです。主体である人は、相対を幸福にしてあげなければなりません。子女がいれば、その子女も幸福にしてあげなければなりません。三大十字架を背負わなければならないのです。ですから、四位基台の復帰が最も難しいのです。それは、世界を征服することに比喩ひゆすることができます。
(46-95, 1971.7.25)
皆さんの息子、娘は、ハナニムが数千年の歴史を経ながら数多くの預言者、烈士を犠牲にさせて探し出された一つの家庭を通じて、願いのともし火のごとくに生まれた貴い息子、娘です。各家庭の息子、娘が四位基台の完成という神聖な目標の帰一点をもたらすことを考えるとき、その息子、娘に対しても、日がたてばたつほど、本当に感謝しなければなりません。父母がそのような心をもつようになれば、その息子、娘たちは絶対に飢えて死ぬことはありません。
(33-177, 1970.8.11)
今、皆さんは、堕落圏内にいます。長成期完成級で祝福を受けた家庭は、上がっていく道があります。それは、先生に従っていける道をいうのです。しかし、皆さんの父母と、皆さんの四位基台が一つにならなくてはなりません。ノアじいさんが方舟はこぶねを造る時、その夫人がよく協助したと思いますか。息子、娘がどれほど批判したと思いますか。「ハナニムが審判される」と言って、1日でもなく120年間、弁当を持ってアララテ山に登っていき船を造ったのですが、ノアの妻がよく協助したかを考えてみてください。ノアの妻が協助しないのですから、その息子、娘に至っては、協助しないのは当然でしょう。皆さんは、オモニと完全に一つにならなければなりません。
(137-111, 1985.12.24)
立体的な四位基台を成さなければなりません。上下の位置、前後の位置で一体を成さなければなりません。そのようになれば、いくら転がしても、止まった時は垂直になるのです。サッカー・ボールを置いた時、中心は垂直です。一点しかありません。それゆえに、家庭において四位基台の立体理想が成されなければなりません。
(295-201, 1998.8.28)


父母の前に孝子になるだけではいけません。夫婦がいなければなりません。ですから、四位基台を成さなければなりません。これは絶対原理です。このようなことを考えてみるとき、今日、個人的四位基台、家庭的四位基台、国家的四位基台はどのようになっていますか。家庭的四位基台形態を拡大したものが国家であり、国家的四位基台形態を拡大したものが世界であり、世界的四位基台形態を拡大したものが天宙なのですが、その根本は家庭です。
そのように行く中で、サタンが1匹もついてくることができないように整備する、家庭四位基台の教育がジャルジン教育です。そこを通らなければ落ちるのです。国籍を失った家庭になるのです。登録をするためベツレヘムに行って、赤ん坊のイエスを馬小屋で出産するという、それ以上に悲惨なことも起きるのです。その道を訪ねていかなければなりません。
(297-187, 1998.11.20)
ハナニムを愛すれば愛するほど、永遠の父母の愛を受けるようになるのです。孝子になればなるほど、その父母の愛を余すところなく受けるのです。忠臣になればなるほど、聖君の愛を余すところなく受けるのです。真の夫になればなるほど、妻の愛を余すところなく受けるのです。
(83-207, 1976.2.8)
素晴らしい善なる夫、善なる妻とは、どのような人でしょうか。妻として、ハナニムの代わりに、父母様の代わりに絶対視する夫をもった者、夫としてそのような妻をもった者が真の夫婦です。ハナニムを絶対視し、父母を絶対視し、夫婦を絶対視し、そのもとに生まれた子女を絶対視しなければなりません。これが統一教会でいう四位基台理想です。
(147-231, 1986.9.28)

 

2) 真の家庭は天国の民の生産工場

女性は、宇宙を与えられても、ハナニムを与えられても換えることができない貴い宝物をもっていることを知らなければなりません。愛を実現できる根源の王宮が私にあることを知らなければなりません。ですから、ハナニムは、どれほど安全な場所にそれを入れておかれたでしょうか。おしりの肉がなければ、どのようになっていましたか。凍りついていたでしょう。
男性たちは、どのようになりますか。保護するのにどれほど良くできていますか。すべての精力、すべてがそこに集まっているのです。それゆえに、それは、自分と同じような人を再びつくりだせる器官です。母、父となり得るその場所というものは、どれほど神秘の王宮でしょうか。
天国に行けば生産地がありません。ハナニムが人を造られたのは何ゆえでしょうか。垂直には繁殖がないからです。垂直の位置は一点しかありません。ハナニムは、一点、垂直の位置で愛をなすので、そこでは繁殖することができません。霊界では繁殖ができません。それゆえに、横的な360度が必要です。横的世界には、東西南北に繁殖していける位置がいくらでもあります。
ですから、それが、天国の民を生産するための生産地だというのです。その国の民として来る人は、すなわち天国の息子、娘です。ハナニムご自身の愛する息子、娘になるのです。その人は、ハナニムご自身を中心とした細胞と同じです。私たちの生命は、その国に行けばハナニムの細胞と同じです。ハナニムご自身になるのです。根本から来たので、根本へ帰っていくのです。


それゆえに、男性と女性は、霊界に行けば一つの体となってハナニムに似るのです。最後は神化するようになるのです。ハナニムに似なければなりません。「ハナニムは二性性相だ」と言ったでしょう? 二性性相は何から出発したのかというと、愛から出発しました。愛の結実として本然のハナニムに似て、帰ってくるのです。ですからハナニムも、お一人では孤独なのです。ハナニムは、花の咲く愛の園をつくり、色とりどりの花が満開となり、愛の香りであふれたその園の中で、昼寝をしたり、動き回ったりしてみたいと思われたのです。そのようなハナニムだったのです。
(206-137, 1990.10.3)
生殖器は、まことの愛を中心とした王宮であり、真の生命を中心とした王宮であり、真の血統を中心とした王宮です。最も貴いものです。これがなくなれば天地がなくなり、これがなければハナニムの理想、ハナニムの家庭、ハナニムのみ旨を成し遂げられないのです。これは、全体を完成し得る一つの起源です。
(216-218, 1991.4.1)
子供は一人だけ生めばよいのに、なぜハナニムはたくさん生むようにされたのでしょうか。これが問題です。一人だけ生めば、アダムとエバの二人しかいません。そのようになれば、どのようになっていたでしょうか。二人だけで生きなければなりません。一家庭だけで暮らすのです。そのようになれば、世界がなくなります。天国をつくろうとすれば、横的に広げていって数多くの家庭を生産しなければなりません。そのようにしてこそ、天国の民が生まれるようになっているのです。霊界では繁殖がありません。地上の夫婦は、天国の民を生産する生産工場です。
すべてを満たそうとすれば、一度にはできません。ですから、数多くの世代を継いで生まなければならないのです。そのようにして天国の民が増えていくのを御覧になるとき、ハナニムは喜ばれるのです。その国では、食べることも、着ることも、寝ることも、何も問題になりません。自動車も必要なく、工場も必要ありません。すべてのものが準備されている所です。自分が願えば、ひゅーっと飛んでいくのです。信じることができないほどに早い所です。1歩動けば、数千マイルを移動するのです。
(246-69, 1993.3.23)
先生は見え、ハナニムは見えないだけです。結婚初夜に夫婦同士で盛んに愛し合う時、既にハナニムが入ってきてアダムとエバと一つになるのです。人間を創造した目的は何ですか。霊界では繁殖することができません。霊界の民を創造する所が地上の家庭です。天の民をたくさん生んで育てたのちに逝く人が栄光の位置に立つのです。栄光の位置に立ちたいと思えば、今から息子、娘をたくさん生まなければなりません。
(249-323, 1993.10.11)


地上は、天国の民を生産する生産基地です。霊界では繁殖がありません。堕落することによって、悪魔の息子、娘になってしまったのです。それゆえに、これを接ぎ木する役事をして、天国の民に戻さなければなりません。それゆえに、皆さんがあの世に行く時は、嫁に行く娘が婚礼家具をもっていくのと同じように、天国の民をどれだけ復帰して連れて帰っていくかが問題です。
ハナニムは、孫を見ることができませんでした。アダムとエバを通して孫を見ようとしたのですが、見れなかったことがハンです。それゆえに、この地で息子、娘を生んで育て、その人々をすべて抱いてくることを願っていらっしゃるのです。その広大無辺な天国には、数千億の民が必要だというのです。先生は、それを知っているので、監獄に行きながらも、一つの生命を救うために、ご飯も食べずに、夜も寝ないで生涯活動してきたのです。夜を朝だと思い、朝を夜だと思ったことが何度もあるのです。そうしながら、一つでも多くの生命を救おうとしているのです。そこにおいては、あらゆる国境を超越しているのです。
(212-309, 1991.1.8)
人間は、誰もが愛を中心として結婚生活をする中で、連結するようになっています。完全な愛を成したその基準の上で完全な息子、娘が生まれるのと同じように、ハナニムの子女圏とハナニムの兄弟圏とハナニムの家庭の理想的夫婦圏を生んで育てなければならないのが、地上で生きる私たち人間の責任です。
霊界では繁殖が不可能です。霊界は中心です。中心は、面積がないので、息子、娘を生める空間がありません。ですからハナニムは、膨大な天国に行って暮らすようにするために、平面的、立体的空間をつくられ、ハナニムの国の国民を生産するようになさったのです。
それゆえに、夫婦というものは、天国の国民をつくる分工場です。そうだとすれば、この地上で息子、娘をたくさん生んで連れていくことが、その世界を相続し、所有権を得ることのできる相対圏となるのです。息子、娘がいない人は、そのような相対圏がありません。一つになった素晴らしい相対圏をたくさん、12ヵ月の12数以上もたなければなりません。
(255-265, 1994.3.11)
ハナニムを誇り、男性となり、女性となったことを誇らなければなりません。そのような男性、女性となって、天国の民を繁殖しなければなりません。これは鉄則です。アダムとエバは、繁殖をしなければなりません。心と体が一つとなり、ハナニムの愛によって霊的五官と肉的五官が一体となり、真の愛で永遠に一つにならなければなりません。そのようになり得る男性、女性として、永遠に出会え得る男性は、永遠の人類を代表した王権をもった王であり、女性は、王権に対する王妃です。母と父は、心の中において万世の母であり、万世の父です。真の愛には、そのような背後が連結されていることを知らなければなりません。
そのような姿勢を備えた愛を中心として一つになり、結婚を通してその愛を訪ねていくのです。愛ゆえに行くのです。結婚は、二人だけではなく、縦的なハナニムを占領するためのものです。東西に分かれ、どこに来て爆発するのか分かりますか。垂直線です。垂直線で爆発してぶつかるので、戻ってこなければなりません。戻って、上がっていかなければ下りていくのです。ここでハナニムは下りてきて、私は上がっていくことにより、ハナニムが中心に入っていくのです。


このようにして下りてきてみると、ハナニムが愛の中心核になっているのです。ここにおいて、このように垂直になっているのを水平にしようとするので、息子、娘が必要なのです。それゆえに、このような垂直をつくっても息子、娘を生むことができなかった男性と女性は、天上の位置に行ってハナニムに侍ることができません。
息子、娘を生んで愛してみた人であってこそ、ハナニムの二性性相、理想的主体であるハナニムに侍ることができるのです。皆さんも、真の父母に侍るためには息子、娘を生まなければなりません。息子、娘を生むことができなかった人が養子をとったならば、自分の息子、娘を生んだ以上にその息子、娘を愛する訓練をしなければなりません。ですから大変です。それゆえに、統一教会では、「愛する息子、娘をたくさん生みなさい」と言うのです。
統一教会の子供たちは、天運に乗ってきます。食べることは心配いりません。その中からは、判事も出てくるはずであり、検事も出てくるはずであり、大統領も出てくるはずであり、あらゆる人が出てくることでしょう。五色燦然さんぜんと輝く光が出てくることでしょう。
それゆえに、真の愛を中心として、母として恥ずかしくなく、父として恥ずかしくなく、天国の民をたくさん連れていかなければなりません。
(210-375, 1990.12.27)
今日、夫婦というものは、天国の民を生産する工場です。ですから、息子、娘をたくさん生んで、入っていけば不幸ではありません。あの世に行けば、高い位置に行くのです。東西南北を中心として見れば、四季が3ヵ月ずつで12ヵ月です。
ですから、イエス様も12弟子を選んだのです。イエス様を中心として、3弟子は、東西南北の代表型と同じです。ハナニムを中心として、これが四方を備えたのです。
(233-247, 1992.8.1)
地上の家庭は、天国をつくるための横的な世界です。縦的な世界は繁殖することができません。横的な世界で息子、娘が増えれば、彼らがハナニムの民となるのです。
皇族が繁殖すれば、長孫ちょうそん(長子の長子)だけを残し、すべてが民となります。親戚しんせきになるというのです。親戚にも長孫がいるでしょう? 宗族たちも、宗族たちを合わせた長孫がいなければならないのではありませんか。それがアダムとエバです。アダムとエバは、伝統的な永遠の王と王妃です。しかし、民主世界では、これがすべてなくなるのです。天国の民を生産するための生成基盤は、天の家庭基盤ではなく、地上の家庭基盤です。息子、娘を生むということは、天国の民を生産するということです。
(234-165, 1992.8.10)


 

3) 天国の民の教育は真の家庭で

地上にある家庭は、天国に連れていく民を再創造する工場です。私たちは、その工場の主人の役割をなしたのちに霊界に行くのです。ですから、正しい道さえしっかりとつかんでおけば、息子、娘を教育する必要はありません。自然になされるのです。自分のハナニムをすべてもっているのです。教育は必要ありません。堕落したので、このようになったのです。堕落することによって、根本が分からなくなったのです。
(254-246, 1994.2.13)
ハナニムが願われるものは、失ってしまったエデンのまことの家庭です。その真の家庭に立てられる真の父母、真の父母の前に立てられる真の夫婦、真の夫婦が愛し得る真の子女のいる家庭が、ハナニムが一緒にいたいと思われる天の家庭だということを、皆さんは知らなければなりません。このような家庭が現れれば、その時には、イエスも兄弟と共に喜ぶことができるのです。そのような家庭が現れなければなりません。
(8-114, 1959.11.22)
真の家庭は、真の男性と真の女性が一つになって夫婦として出発するのです。息子、娘を生んだのちに真の家庭が出てくるのです。心と体が完全に一つになった男性と女性が永遠の愛を中心として一つになったところから、分かれることのない子供が出てくるようになるのです。母、父が分かれたところから、感情的に分かれた子供が出てくるのです。心と体が一つになり、真の愛を中心として一つになった夫婦から、心と体が一つになった子供が出発するというのは、自動的な結論です。そうでなければ、家庭に真の愛がとどまることができません。ハナニムは、真の愛がない所に臨在なさることはできないのです。これは論理的な結論です。
(270-324, 1995.7.23)
天国の倉庫に入っていこうとすれば、ハナニムの愛とハナニムの生命とハナニムの血統的因縁を中心として、きれいにならなければなりません。そのようになろうとすれば、生まれた時からハナニムの息子、娘であり、育っていく時もハナニムの息子、娘であり、暮らすのもハナニムの家庭でなければなりません。そのように暮らしてから行く所が地上天国であり、天上天国です。それゆえに、天上世界にも、そのような家庭、そのような一族が入っていくのです。
個人救援ではありません。ハナニムの愛を受け得る息子、娘として、ハナニムの愛を受け得る兄弟として、ハナニムの愛を行使できる夫婦として、またハナニムがアダムとエバを愛したのと同じように、第二創造主の立場から、ハナニムの代わりに自らの息子、娘を愛していくのが人生行路です。始まりも愛であり、過程も愛であり、終わりも愛です。愛の教科書に一致し得る完成品として入っていく所が天国です。そこに入っていく時には、個人で入っていくのではありません。家庭全体が入っていかなければなりません。
(226-307, 1992.2.9)
妻が夫に対する時は、どのようにしなければならないのでしょうか。「私とあなたは、共に生まれ育った双子の兄妹なので、私たちは、別れようとしても永遠に別れることができないことを、今やっと分かりました」と言いながら、手をしっかりと握り締めなければなりません。アダムとエバエデンの園から追い出される時、分かれていくことによって悲しみの涙を流しましたが、今、復帰時代においては反対の涙を流さなければなりません。天国の息子、娘になることができなかったことを、私の一生を通して復帰しなければならないのです。
(238-254, 1992.11.22)


国を建てようとすれば、王がいなければならず、女王がいなければなりません。息子、娘がいなければなりません。また、王国を守れる中心家庭がなければなりません。ですから、今、イエス様は、楽園に行って待っているのです。天国は、一人で入っていくようにはなっていないのです。
(265-94, 1994.11.20)
愛の所有を中心とすれば、相対の故郷が私の故郷になり、相対の家庭が私の家庭になり得るのです。そこにおいて、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成が成されるのです。ハナニムの教本に提示されたすべての内容を成すことができなかったことを、今日、真の父母を通して再現し、知るようになり、それを再度、実行することにより、堕落していない本然的立場において、ハナニムが完全にハンの峠を越えて教育に対する定義を下せるのです。そのようになることにより、天国の民として、合格者、合格家庭になるのです。
(226-173, 1992.2.4)
キリスト教における聖神聖霊)は、女性神ですが、霊的に、また実体的に二つの世界を生んで育てなければならない責任があったように、統一教会で祝福を受けた女性は、二つの世界に対する責任を負わなければなりません。天国の民もつくらなければならず、サタン世界の民をすべて拒否し得るようにならなければならず、その人々を統治できるようにならなければなりません。
皆さんの息子、娘は、ハナニムの国の民です。ある一国家の市民ではありません。天国の民だというのです。皆さんは、このような目的をもって育てなければならないのであり、そうでなければ、今後、皆さんの家庭には希望がありません。地獄に行くようになるのです。
(216-277, 1991.4.7)
父母様は、いつも私のために生きた父母様だということを知って、今からでもその父母様のみ旨を私がすべて相続し、今後、誕生する子孫を大切に育て、私のような人にはしないと決心して立ち上がらなければなりません。それだけが先生の望む、たった一つの願いです。
その貴い息子、娘を再び皆さんのような息子、娘にして、どうするのかというのです。「私はこうだったが、将来の私の子孫はそのような息子、娘にしない」と決意して精誠を尽くし、ハナニムがエデンの園でアダムとエバを造って喜ばれたように、息子、娘を真の息子、娘にするために保護しながら抱いて育て、堕落した子孫の前轍ぜんてつを踏ませないようにしなければなりません。
再びそのような道を行かないように最善を尽くして育て、ハナニムの前で祝福を受けるように、私が準備し、すべての内容を備えさせてあげなければならないという責任感をもって将来の家庭を築いていけば、天国の息子、娘になるのです。
(158-272, 1967.12.29)