八大教材教本 訓読

八大教材教本は、人類へ恵与された神聖なる御言であり、真のお父様がその畢生の掉尾まで精選された遺言書です。

天聖経 8-5

八大教材教本 天聖経(2012年版)p2280-2315

【天啓の御言】(8-5)

 


3) 家庭盟誓と祝福家庭の伝統

 

① 侍ることで生活の天国化を実現

ハナニムは、妄想的なハナニム、観念的なハナニムではありません。抽象的なハナニムではありません。生活的な主体性をもち、私たちが生活している生活の主人として、常に共にいらっしゃるのです。侍られているだけではありません。共同的な愛を中心として、共同的な生活をしていらっしゃるハナニムです。夢のような話です。
(168-111, 1987.9.13)
私の意識と直感と感覚器官の一切までもお父様のものであり、私が感じて意識する全体がお父様のものだという観が決定しなければなりません。そのようにならない限り、心情を通して動く天を所有できないことを、はっきりと知らなければなりません。
(8-294, 1960.2.14)
ハナニムを心の中に迎えて侍り、私たち人間が体の立場から完全に一つになり得る起源をつくらなくては、この悪魔世界を清算できません。このような観点から見るとき、侍りの時代、すなわち侍義の救援時代だとみなすのです。侍ることによって救いを受けるのです。
ハナニムは、あの空の遠く彼方にいらっしゃるお方ではありません。私たちの生活圏内の主体者として、ハナニムに侍らなければなりません。
(144-274, 1986.4.25)
皆さんは、ハナニムがいらっしゃるということを1日に何度、自覚しますか。24時間中に、何度、ハナニムがいらっしゃる、ということを感じますか。侍ることによって救いを受けようという人が、24時間中の1、2時間程度侍ればよいのですか。空気よりも、切迫して必要なものがハナニムです。水よりも、切迫して必要なものがハナニムです。ご飯より、もっと貴重なものがハナニムです。しかし、皆さんはそのように感じていますか。
(33-230, 1970.8.16)
今から、皆さんは侍る生活をしなければなりません。今までの信仰生活は、信仰によって救いを受けましたが、今後は、侍ることによって救いを受ける時代です。
(161-218, 1987.2.15)
本来、堕落しなかったならば、私たちは、ハナニムに侍ることによって行くべき道を行くようになっているのです。侍るには、皆さんの生活と心で、共に侍らなければなりません。
(150-213, 1961.4.15)
侍る生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、侍って実践しながら生活する天国は迎えていません。すなわち生活的な面において、主体であられるハナニムを知らないのです。
(6-226, 1959.5.17)


ハナニムは、宇宙の中心存在であられるので、その近くに行けば、千年、万年、主管を受けたとしても、もっと主管を受けたいと思うのです。ハナニムを中心とした侍る道理がそのようになっているので、今日、私たち人間もそのような位置で主管を受けることができるならば、それ以上の幸福はないという事実を、私たちは考えてみることさえできなかったのです。
(77-328, 1975.3.30)
皆さんは、侍る生活をしなければなりません。なぜ、侍る生活をしなければならないのでしょうか。ハナニムの愛を受けるためだ、という事実を知らなければなりません。したがって、まずハナニムに侍らなければなりません。ハナニムに侍らなければならないのです。
(78-30, 1975.5.1)
1日24時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。ハナニムのためです。ハナニムのために見て、聞かなければならず、感じるのも、ハナニムのために感じなければなりません。私たちは、地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。
(35-284, 1970.10.25)
ハナニムが喜ばれ、悲しまれることを常に鑑別しながら暮らす人は、悪人になろうとしてもなることはできず、天の法度に背こうとしても背くことはできません。そのような男性は、どれほどの美人が誘惑しても負けません。そこに同化しないのです。
(40-297, 1971.2.7)
今日、家庭を脱皮する不幸な青年男女がたくさんいますが、その原因は、どこにあるのでしょうか。それは、天倫の法度に一致した愛が失われてしまったからです。ですから、家庭を中心として、その家庭にハナニムを定着させ得る、天地父母が顕現しなければならないのです。
(21-155, 1968, 11.17)

 

 

② 真の父母と一体となった生活をしなければならない

最後に残るものは何でしょうか。ハナニムプラス人間、すなわち神人であり、神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同様に神人の人生観であり、神人の世界観です。そして、それはハナニムに対して人間が漠然と知るといった程度の立場ではなく、人間が離れようとしても、永遠に離れられない立場です。ハナニムと人間は、本来、離れてはいけない立場から離れていったので、離れてはならない立場以上の立場に到達しなければなりません。そのような立場で、神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければなりません。
(65-127, 1972.11.5)
皆さんは、侍義時代、すなわち侍る生活をする時代において、正確な中心をもっていかなければなりません。ハナニムに侍るにおいては法度があります。その法度に背く時は、ハナニムは非常に憤慨されます。子女を愛している父母が、その子女の一言の言葉によって胸にくぎが刺さったり抜けたりする思いを味わうのと同じように、ハナニムも、人間を愛していらっしゃるがゆえに、怒りも多いお方なのです。万が一誤れば、ハナニムから怒りを買うようになります。それゆえに、先生も先生なりに、常にハナニムを喜ばせてさしあげようとしているのです。
(17-287, 1967.2.15)


皆さんも、皆さんのことを考えてくれる人を訪ねていくでしょう? ハナニムも同じです。そのハナニムを占領できる道は、誰よりもハナニムのことを考え、ハナニムのために奉献しようとするのです。その人を中心としてハナニムは訪ねていくのです。
(128-172, 1983.6.12)
人間においては、ハナニムを愛することが第1の戒めですが、愛する時は、死ぬほど愛さなければなりませんか、一時的に愛さなければなりませんか。皆さんは、ハナニムを死ぬほど愛しますか、死ぬほど愛しませんか。たとえ雷に打たれて死んだとしても、愛さなければならないのです。ハナニムを死ぬほど愛さなければなりません。死ぬほど愛さなければならないとすれば、死ぬ前までに、できないことはありません。
(37-25, 1970.12.22)
この道を行くためには、愚かでなければなりません。忠臣たちは、別の見方をすれば愚かな人々です。少し愚鈍に見えます。くまのような性格をもっているのです(注:熊には愚鈍な人という意味がある)。自分の腕を切られたとしても、「ああ、ここがあまり切られなかった、もっと切りなさい」という、そのような間抜けで愚かな点がなければなりません。熊やいのししは、銃に打たれた時に、動くのに足手まといになる部分があれば、その部分を口で切り落として逃げていきます。死についてはあとで考え、まず邪魔になる部分を切ってしまうのです。そのような、間抜けで愚かな何かがなければなりません。忠臣、烈士は、愚かでなければなりません。少しは間抜けでなければならないのです。
(26-143, 1969.10.19)
レバレンド・ムーンとは、どのような人でしょうか。一つの芸しかない人です。愚かに、ただまっすぐにしか行けない人です。口をちょっと閉じて適当に回っていけばよいのに、なぜしきりに悪口を言われるようにするのでしょうか。それは、多くの人々の反対を受けてこそ、一つの峠を越えていくことができるからです。ところが、皆さんは回っていく考えをしているでしょう? では、どうして世の中のすべてのものを切って、行かなければならないのでしょうか。母と父の愛に引っ張られれば、まっすぐに行けないからです。今まで、ハナニムがまっすぐな道を訪ねてこられたので、まっすぐに行かなければならないのです。
(97-257, 1978.3.19)
ハナニムがそのように寂しいお方であり、孤独なお方であられるので、私が死ぬ日まで、そのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの基盤でも拡大させ、ハナニムのために生きる人を集めることが使命だ、と思って歩んできたのです。
悪口を言われ、むちで打たれても復讐ふくしゅうすることを知らず、愛で耐えてきたのは、ハナニムの息子として生まれたからであり、そのお方のみ旨を立てなければならない責任があるからです。しかし、この伝統をいかに立てていくかということを考えながら、ふらつき、あるいは腰が曲がり、いずりながら、「これだけは残さなければならない」としながら闘ってきたのです。
(82-47, 1975.12.30)


今から、皆さんはまことの父母と共に生活しなければなりません。それゆえに、真の父母はおじいさんの立場であり、自らの父と母の立場であり、自分たちは長子の立場だというのです。これが違うのです。3代が共に生活するという結論です。ハナニムが自分と共にいて、真の父母が自分と共にいて、自らの父母が共にいることを感じて生活しなければなりません。「ハナニムはいない、死んだ」という考えはもてない時代に入ってきました。
(131-97, 1984.4.16)
父母の愛を受けようとすれば、何をしなければならないでしょうか。父母が愛する、すべてのものを愛さなければなりません。そのようにしたのちにおいて、初めて愛を受けるのです。家庭でいえば、自分の父母から愛を受けることを願うならば、その息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに愛されなければならない、ということを知らなければなりません。これをしないで愛を受けようとする人は、泥棒どろぼうです。父母が貴く思うものを、すべて自分勝手にめちゃくちゃに引き継いでは、愛を受けることはできないのです。
(133-26, 1984.7.1)
皆さんは、先生の血と汗の代価をもって買ってきた人々です。先生の体を与えて買ってきた人々です。したがって、皆さんは、先生と同じ仕事をしなければなりません。先生は食口シックたちを誇りたいのです。このような立場から、公約しましょう。
(11-164, 1961.7.20)
皆さんは、実体のハナニムの立場に立っている真の父母が恋しくて、泣かなければなりません。しきりに会いたいと思わなければなりません。ご飯一膳いちぜんでも炊き、水でも1杯くんでおき、そのようにしながら侍りたいと思わなければなりません。そのような、切実な心をもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていれば、できるのです。そのようにすれば、先生を中心として心情一致が成され、先生と共に呼吸することにより、先生の人格基準と、それを後ろだてする先生の過去と、そこに絡まった事情がどのようになっているのかを知るようになり、さらにはそれを相続し、引き継ぐことができるのです。
(38-75, 1971.1.1)
エデンの園でアダムとエバは堕落して、その堕落圏内で生活したので、直接的な侍る生活をしてみることができませんでした。侍ることができなかった人間には、天国に入っていく資格はありません。
しかし、皆さんは、堕落の血統を受けて生活したとしても、復帰の路程を蕩減とうげんし、地上で実体をもってアダムとエバが侍ることができなかった真の父母に侍り、ハナニムに侍って生きてから行ったという条件を立てることにより、天国に入っていける資格になるのです。それで、天国の市民権を得るようになるのです。
(150-233, 1961.4.15)
皆さんが考えるハナニムに対する侍義の生活とは、どのようにしなければならないものでしょうか。ハナニムを一体だと考え、真の父母を一体だと考え、生活するすべてのものが一体となって、私が生活するときに、「このすべてのものはハナニムのものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば、私のものである」という観念をもたなければなりません。


この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、国も世界も真の父母のものであるならば、私は真の父母の息子なので、すべてのものは私のものだ、という結論が出てくるのです。
(161-231, 1987.2.15)
成約時代には、ハナニム自体が真の父母の姿をして万民の前に現れるようになります。政治によるいかなる力を投入したとしても、負けない偉大な力を統一教会がもっているのは、正にこのためです。生きているハナニムを私たちが直接、目で見て、感覚をもって体恤たいじゅつできる圏内で、体験を繰り返しながら歩んでいくのが、私たち統一教会の道です。
(御旨と世界-286)
人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行ったとしても、出会わなければならないお方が真の父母です。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自らの子孫をすべて失ってしまうハンがあったとしても、真の父母に出会うならば、歴史を取り戻し、時代を取り戻し、未来を取り戻すことができるのです。このようなお方が正に真の父母だということを、皆さんは知らなければなりません。
(35-237, 1970.10.19)
참부모チャムプモ(真の父母)」というその名前3文字を考える時、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界に戻っていくことができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させることができる内的な因縁が決定され、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めてハナニムを解怨かいおん成就してさしあげることができる中心が決定されるのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動することができるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。
(43-144, 1971.4.29)
ハナニムを解放しようというのです。真のハナニムの権威を中心として、理想の境地で人類始祖と共に無限な幸福を褒めたたえながら暮らせる中で、侍られながら過ごされるべきだったハナニムが、このように悲惨になったという事実を知ったので、そのハナニムを私たちの手で解放してさしあげようというのです。
これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、ハナニムにとっては、限りなくうれしい知らせです。福音の中の福音です。このように見るとき、仏教を立てられたお方もハナニムであり、儒教を立てられたお方もハナニムであり、イスラームイスラム教)を立てられたお方もハナニムであり、キリスト教を立てられたお方もハナニムなので、すべての宗教が、もろ手を挙げて歓迎しなければならないのです。
(176-242, 1988.5.11)
皆さんが真の父母と完全に一つになる時、国家があるのであり、宗族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地のあらゆる栄光の価値を総合した実体基準が、真の父母です。真の父母を世の中のお金と換えることができますか。自分の生命と取り替えることができますか。それゆえに、昔とは違うのです。皆さんがどこに行ったとしても、真の父母に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子、娘も、千代、万代の後孫も、そのようにしなければなりません。それゆえに、統一教会は違うのです。
(30-237, 1970.3.23)


 

③ 伝統と家法を正しく立てよう

先生が心配していることは、いかにすれば統一教会の名を後世に残せるかということではなく、いかにすれば先生の伝統を受け継いだ人々を後世に残せるかということです。
ですから、今まで、伝統を重要視しなさいという教育をしてきているのです。
(35-115, 1970.10.4)
今まで私たちは、いい加減に生きてきたのであり、言葉もいい加減に使ってきました。しかし、今から、私たち祝福家庭も規律を立てなければなりません。腹が立ったからといって、父母が子女を自分勝手に棒でたたき、「この駄目息子」という世俗的な卑しい言葉を使ってはいけません。今からは、すべてが一新されなければなりません。ハナニムを中心として、言葉から、態度から、生活から、一新した立場に立たなければなりません。
(28-252, 1970.1.22)
個人生活は、どのようにしなければならないかということを、はっきり糾明しなければなりません。また、家庭生活は、どのようにしなければならないかということも、はっきり糾明しなければなりません。過ぎし日に漠然と生きてきた生活を改め、これからは具体的に生きていかなければなりません。
(24-28, 1969.6.22)
父母は、子供のために存在します。もし父母のために父母がいるとすれば、「父母」という言葉は出てきません。今後、統一教会の原理を中心として、倫理観が形成されなければなりません。父母は、どのようにあるべきですか。子女を生む父母は、子女のために存在しなければなりません。それが倫理の第1条です。それには、説明が必要ありません。息子のために存在しようとする立場は、不幸な立場ではなく、幸福な立場です。
(62-214, 1972.8.25)
皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであると同時に、息子のものです。そのようになるとすれば、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に、ハナニムのものです。ゆえに、皆さんは、まずハナニムのものとなり、子女のものになったのちに、自らのものとなるのです。そのようになる時、初めて完成がなされるのです。ですから、父母を敬うその法度は、地上に残っていて、人間生活に残っているのです。ここから、「父母を敬い、子女を愛しなさい」という言葉が出てきたのです。父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そのようにして初めて「私」という人間が四方を区別し、上下を区別できるのです。
(18-209, 1967.6.8)
伝統を残さなければならず、その次には、善なる立派な子孫を残さなければなりません。小心者の子孫ではなく、強く雄々しい立派な子孫を残さなければなりません。そのようになれば、たとえその国が滅びる運勢圏にあったとしても、滅びません。滅びるべき立場から、新しい恩人が現れるのであり、追われる立場から、新しい勝利の旗がついてくるのだという事実を知らなければなりません。残すべきその伝統は、大韓民国だけでなく、万民が喜べる伝統にならなければならず、そして善の子孫も残さなければなりません。これができなければ、天の前にもっていく礼物がなくなります。
(99-329, 1978.10.1)


いかにして私たち祝福家庭の息子、娘たちが先生のように生き、そのように3代を生きることができるか、ということが大きな問題です。3代が共に功臣になるならば、天下にいない、あの天上世界の功臣になるのだ、ということを考えてみましたか。ですから、自らの息子、娘を抱き、今から教育して、そのような思想を入れることに精誠を尽くさなければなりません。
(51-269, 1971.11.28)
未来に対して、どのように暮らすことが、幸せに暮らすことでしょうか。私が幸せに暮らすことが問題なのではありません。子孫を教育しなければなりません。子孫の前に残してあげなければなりません。今まで、統一教会を指導してきた先生自身もそうですが、皆さんもかわいそうな道を歩んできました。避難民として定着できなかったのです。荒野路程を歩んできたのです。今から私たちは、定着しなければなりません。そして、定着しようとすれば、闘って勝利しなければなりません。カナン7族を滅ぼしたように、戦って勝利しなければ定着することはできないのです。この民族を中心とした闘いにおいて、必ず勝利しなければなりません。
(77-251, 1975.4.13)
父母は、死んでも、天道は、残していかなければなりません。その家庭は、何のために存在するのでしょうか。自らの子女のために存在するとしても、まずハナニムのために生き、国のために生きなければなりません。結局は、そのことが自らの子女のために生きる道です。そのようにしてこそ、子女たちはハナニムの運と世界の運と共にあり、国の運と共にあることができるのです。したがって、祝福されて生んだ貴い子女たちが苦労したとしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなく、ハナニムと、世界と、国の運勢に拍子を合わせなければなりません。
(21-87, 1968.10.27)
私たちがハナニムから受けた純粋な血統を、いかにして保有するかが問題です。堕落した血統ではなく、純粋な血統をいかに保存していくのかというのです。彼らのために、心から心配しなければなりません。
汚染されていないエデンの園においても堕落したのですから、この罪悪世界できれいになるということは、非常に難しい問題とならざるを得ません。罪悪世界で生まれた父母は、たとえ苦労したとしても、祝福を受けて生まれた子供たちには、汚染されていない環境をつくってあげなければなりません。私たちが犠牲になったとしても、二世たちのために早くそのような環境を準備しなければならない、というのが先生の考えです。急がなければなりません。
(御旨と世界-550)
習慣的で、世俗的な家庭であってはいけません。「今はこうであるが、今後は良くなるだろう」と考えてはいけません。既に完全でなければいけません。現在が問題です。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得るのです。エデンの園でも、このような1日をもてなかったことが、堕落の証拠です。過去・現在・未来が一致し得る位置が、理想的な位置です。現在を捧げることができなければなりません。地上の永遠の足場となれるか、ということがハナニムの願いなのです。これは、歴史的な総合点です。
(21-77, 1968.10.20)


イスラエル民族がカナン復帰を成し遂げたのちに滅亡したのは、彼らが既存の環境に同化し、習慣化されたからです。より豊かに暮らし、よく食べて贅沢ぜいたくをする生活にすべての精神を注いだので、滅亡したのです。彼らは、異邦人であっても、相手が金持ちの家ならば結婚しました。
また、権力をむさぼり、知識を好みました。結局、既存のカナン文化に同化され、選民の精神を売り飛ばしたので、彼らは滅亡したのです。
(144-134, 1986.4.12)
習慣は、最も凝り固まった悪いくせです。結婚したのち、皆さんが子供たちを育てながら習慣的な生活をするようになれば、それが体に染みついてしまいます。そのような環境の中では、特別な精誠や祈祷をする時間がありません。子供たちがそばで騒ぎ立てるので、祈祷をする時間がないのです。
(30-125, 1970.3.21)
私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからといって、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべてを連結しなければなりません。したがって、昔、独りで修養の生活をしていた時の努力をするだけではいけません。「昔、努力していた時の何倍も努力しよう」という決意と覚悟を添付させなければいけません。悪に対して挑戦していく生活は、ややもすれば疲れて後退しやすいのです。家庭をもった時は、独りでいた時の何倍も努力しなければなりません。家庭は、中心をつかんでいる立場です。私たちは、現実を避けることはできません。前後・上下・左右の関係を家庭で完成しなければなりません。過去の信仰形態ではいけません。過去の一方的な信仰態度をもっていてはいけないのです。
(27-85, 1969.11.15)
皆さんは、1代のために生きる家庭になるのではなく、世界と永遠のために生きる家庭にならなければなりません。
また、愛の基盤を広げ、万民の心情を集めて、ろうそくのあかりをつけ、香をたいて祈りを捧げ、天と地、万民と共同の因縁を結んで生きたのちに死のう、という家庭にならなければなりません。そのような家庭になれば、いかなる苦難が迫ってきても、ハナニムがその家庭を保護してくださるはずです。天が種として残しておくのです。
(100-306, 1978.10.22)
祝福家庭は、家庭の伝統を立て、家法をつくらなければなりません。そして、子女たちの教育基準と家庭の規範をつくらなければなりません。そのようにしなくては、もし父母が誤り、子女たちの追及を受けるようになれば、返す言葉がないのです。
(21-87, 1968.11.3)
これからは匕首あいくち(短剣)をもって、切るべきところは切り、解剖すべきところは解剖しなければなりません。皆さんの思いどおりにしてはいけません。統一教会は、天国を成さなければならない教会なので、個人ではなく、家庭を取り戻さなければならないのです。家庭生活で模範となることができない人は、世界的な指弾を受けるでしょうし、全天宙的な指弾を受けることでしょう。
(30-230, 1970.3.23)


 

第2章 家庭盟誓の各節の解説

   

1) 家庭盟誓第1節の解説

第1節
天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。」

 

① 「天一国主人」

イ) 天一国とは
ハナニムの王権を樹立したのは、ハナニムではありません。まことの父母です。天一てんいちこくをつくったのは、ハナニムではなく、真の父母だというのです。「天一」という言葉は、天宙平和統一国です。「天」という字は、分けて書けば「二人」です。二つの世界だというのです。これは水平です。天の国と地上の人、天の人と地上の人の二重構造になっています。皆さんは、心と体が二重構造になっているでしょう? 心と体が一つになっていますか、なっていませんか。闘っている人は、天一国の国民になることができません。
(364-101, 2002.1.1)
天一国では、主権と国と民が必要なので、昨年のハナニム王権即位式は、その主権復帰です。それから、ハナニム祖国定着大会は土地復帰であり、それから天一国の国民として入籍するのです。分かりますか。ですから、カードをもっていてこそ、その国の民になるのです。
(364-275, 2002.1.3)
天一国は、二人が一つになる国です。天は、二人でなければなりません。父母が二人でなければならないというのです。世の中の万物も、すべてペア・システムになっているではないですか。天一国とは何ですか。昆虫世界、動物世界、すべてペア・システムになっています。それが一つにならなければなりません。二つのもの、二人、二人の父母、二つの性格、主体と対象が一つになった所に本然の足場ができ、ハナニムが立つことができるのです。
聖書にもそうあるでしょう? 二人、三人が祈祷すれば・・・。ハナニムまで合わせれば三人でしょう? 同じです。二人、三人が国の基盤になるのです。家庭の基盤であり、国の基盤であり、世界の基盤になるのです。そこから家庭が生じ、宗族の出発が始まるのです。二人以上がそのようになるというのです。
(2002.2.19)
皆さんの国がありますか。この国のすべてのことに対して総結論を下さなければなりません。ですから、今からは家庭盟誓カヂョンメンセ文も「天一国主人」、主人になるのです。「天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として・・・」それが主体だというのです。このようにするのです。分かりますか。家庭盟誓文が変わるのです。家庭盟誓文に主人ができました。誰でも語ることができますか。「天一国」という言葉は、永遠に真の父母によって生まれた言葉なのです。ハナニム王権樹立をし、天地父母安着生活圏を経て、地上・天上和合統一大会を経て、天宙・地上・天上平和統一解放聖火式が終わったので、新しい国が必要だというのです。
(396-149, 2002.11.5)


ロ) 天一国主人の姿と生活
私とあなたは、心と体が一つになった同じ位置、すなわち夫婦一心、父子一心という位置です。一心は、一つは上にあり、一つは下にある状況では成すことができません。父は上にいらっしゃり、息子、娘は下にいるとすれば、一心になることはできません。お互いに同等な立場で、平面的な位置にいてこそ、一心になるのです。内的・外的関係が平面線上の位置に立ってこそ、一心になるというのです。
夫婦も同じです。横的関係において、内外関係、前後関係の位置に立って初めて一心になるのであって、上下関係では絶対に一心になることはできません。
(41-30, 1971.2.12)
一心統一です。目が一心にならなければならず、鼻も一心であり、すべて一心です。体と心も一心であり、女性と男性も一心です。国の宗族も一心であり、国も一心にならなければなりません。
王が願うとおりに一心にならなければならず、世界の大統領と一心になり、ハナニムと一心になり、天地の大統領と一心統一になれば、世界は一つの国になるのです。その統一された国は、他の人の国ではなく、正に私の国なのです。
(284-76, 1997.4.15)
統一教会の第1条件が、心身一体です。それで、ハナニムが天地創造される時、絶対信仰・絶対愛・絶対服従を命じたのです。私が言えば、信じたとおりに実体が現れます。現れなければ、投入して現れるようにして成すのです。いくら大きなものでも、私が命令したとおりに成されるというのです。願った以上に投入するので完成するのです。
(400-203, 2003.1.1)
心と体が一つになり、一心・一体・一念・一和の姿でハナニムの前にまことの孝子になり、国の前に忠臣、世界の前に聖人、聖子せいしの道理を果たし、純潔な孝誠の心で、「私は、永遠に真の父母に侍って暮らします」と言うことができる群れにならなければ、天一てんいちこくの民になれません。
私一人だけで幸せに暮らそうとは考えられないということを発見しながら、世の中のどのような困難や幸福な環境があっても、それを越えて不幸な場にまでも私が行って、開拓の王子の立場でハナニムの代身者になろうと思えてこそ、天一国を相続し得る相続者になるのです。


一緒に暮らしたいので、真の父母様が苦労していらっしゃれば、私は千倍、万倍苦労してもよく、あらゆるものをかき集めてその生活圏内に相対基準を造成し、真の父母様を誰よりも解放された喜びの立場に立てようとしなければなりません。
自分は、極の極の場で苦難を消化しながら感謝することができ、称賛を捧げ、侍り、奉じる栄光を、天の前に永遠に、後代の前に誇りを残してあげようと考えることができる人になってこそ、天一国の主人になれるのです。
(396-157, 2002.11.5)
天国の主人になるということは、孝子になったのちに言う言葉です。孝子、次に忠臣・聖人・聖子の家庭です。聖子の家庭が真の家庭です。真の家庭になってこそ天国の主人になるのです。
(400-204, 2003.1.1)
皆さんは、孝子にならなければならず、孝父にならなければならず、それから孝聖にならなければなりません。それから、純潔、純血、純愛を中心とした家庭基盤の上に、ハナニムの前に家庭的孝子にならなければなりません。一人だけではありません。家庭全体が孝子にならなければなりません。
そして、孝子忠臣家庭、それから孝子聖人家庭、孝子聖子家庭です。そのような立場に、個人から天宙まで、あの国、天の国の王権を相続できる王子、王女としての遜色そんしょくのない、主人の代身者にならなければなりません。私たちは、常にそのような訓練をしなければなりません。「天一国主人」という言葉は、そのような意味です。
(406-316, 2003.3.12)
私たちの願いは何かというと、ハナニムと同じ位置に立ちたいということです。同位権です! 同居権は一緒に暮らすことです。それから同参権です。同行権でも同参権でも同じです。一緒に参席し、一緒に行動しなければなりません。そして、それから同愛権、一緒に愛の目的のために暮らすということです。
ですから、イエス様も、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われたのです。「わたしは真理であり、生命であり、みことばである!」と言いましたが、「愛」という言葉が抜けました。統一教会天一国は、愛を中心としていくのです。
それで、皆さんの願いは何かというと、父母様と同じ所にとどまりたいということです。それが願いでしょう? 父母様と一緒に暮らしたい、父母様とすべてのことに同参して行動したいというのです。そして、何をしようというのですか。愛を中心として、永遠に一緒に、幸福に、自由に、解放された所で暮らすのです! アーメン! そのような意味で、天一国平和統一、平定時代が来たということです。
ですから、皆さんが動くところは、一人で動くのではなく、皆さんの国が従ってくるのです。霊界全体が、天の国全体が従っていき、地上世界と万民が擁護する中で、主人の資格で暮らしているというのです。ですから、ハナニムの愛の伝統を自分の一族を通して、私が一国の伝統の骨のような思想に仕えるべき主人にならなければなりません。
(396-152, 2002.11.5)


 

② 「私たちの家庭は真の愛を中心として」

イ) 家庭盟誓の前提条件は「真の愛を中心」
摂理的な観点から見るとき、復帰摂理の時代は終わったとみなしています。復帰摂理時代が終われば、本然の創造理想の世界へ越えていくようになるのです。復帰摂理時代が終わるという言葉は、堕落したサタンの権限の世界が終わり、ハナニムが地上と天上世界を直接管理する時代に越えていくということです。このような時が来るので、統一教会においては「家庭盟誓カヂョンメンセ」というものを宣布したのです。家庭盟誓は、一般の人が唱えるのではありません。
家庭盟誓は、誰もが唱えることができるものではありません。家庭盟誓の8項目の書き出しは「私たちの家庭はまことの愛を中心として」であり、それが前提となっています。それは何を意味しているのでしょうか。真の愛はサタン世界と関係ない基盤から、という意味です。
(263-194, 1994.10.4)
堕落することにより、偽りの愛を中心として、偽りの生命、偽りの血統が連結した世の中になってしまったので、これを克服して越えるためには何をもたなければならないかというと、真の愛と、真の生命と、真の血統の位置を占めなければなりません。そのようにしなければ、これを克服することはできません。このことを、はっきりと知らなければなりません。
家庭盟誓に真の愛を前提条件とした理由は、堕落がなかったエデンの園の本然の世界に入っていることをいうためです。真の愛と、真の生命と、真の血統が、ハナニムと共に一体的理想を成したならば、そこには偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統がありません。地上で生活しても、それ自体が地上天国と天上天国になるのであり、永遠の世界の出発を形成するようになっていたのですが、これを堕落によってすべて失ってしまったのです。
(263-194, 1994.10.4)
家庭盟誓は、1から8までの「天一てんいちこく主人、私たちの家庭は真の愛を中心として」というものが表題になっています。これから皆さんが、真の愛を中心として一つにならずに霊界に行けば、ハナニムに侍って暮らすことができません。
(268-98, 1995.3.12)
今まで、歴史を通じて数多くの宗教の宗主そうしゅや、数多くの聖賢、賢哲たちが現れましたが、真の愛とは何の関係もありませんでした。このようなすべてのものを解決するために、この地上にイエス様がメシヤとして来られ、新郎新婦の基盤を築こうとされたのです。それでは、メシヤが来られて成さなければならないこととは何でしょうか。
新しい家庭と、新しい宗族と、新しい国家と、新しい世界に向かって新しい皇族圏を設定しなければなりません。皇族圏の直系先祖は誰でしょうか。本然の愛とハナニムの直系子女であり、真の愛を中心として真の生命と真の血統の基盤を中心とした堕落していない人です。そのお方が種です。その種から根が出てくれば、中心の幹の根となるでしょうし、そこから幹が出てくれば、中心の幹、中心の芽へと大きくなっていくのです。これが縦的に大きくなるにしたがって、そこに対応して横的世界へ拡大していくことから、家庭と宗族が連結され、民族、国家、世界が連結されるのです。
(263-194, 1994.10.4)


家庭盟誓の最初の部分は、どのようになっていますか。「私たちの家庭は真の愛を中心として」です。真の愛を中心として成すのです。堕落したので、真の愛をもつことができなかった人は、家庭というものをもつことはできません。それを知らなければなりません。真の愛をもつことができなかった人は、本来、ハナニムの前に家庭をもつことができなくなっているのです。堕落とは何かというと、真の愛が腐っていることです。それでは、真の愛とは何ですか。ハナニムとのみ関係を結んだ愛です。自分や国家や、また世の中の習慣性や風習、あるいは国民の伝統性といったものがありますが、そのような関係を結んだ愛ではありません。ハナニムとだけ関係を結んだ愛です。
堕落したので、ハナニムとだけ関係を結んだ愛になることができませんでした。サタンの愛と関係を結んだのです。それが家庭だけではなく、サタンの家庭を越えて宗族、民族、国家、世界、そして天上世界にまで拡大されているのです。私たちが堕落した人間として生まれ、その生活環境で身につけたすべての習慣や伝統は、ハナニムとは関係がありません。これを否定し、これを解決するのはどんなに難しいことか分かりません。純粋な本然のハナニムの愛は、どのように本質的基準へと帰っていくのでしょうか。ハナニムの愛に接するためには、自らの愛という習慣性、愛という伝統を完全に否定しなければなりません。
愛を中心として、家庭では孝子をいい、国では忠臣をいい、世界では聖人をいい、天地では聖子せいしの道理をいいます。すべて愛と関係を結んで連結していくのですが、そのような愛ではありません。堕落したために、偽りの愛が世の中の果てまで来ました。ここは、数多くの曲折の愛があります。歴史始まって以来、複雑な愛で連結された生死の境、国が滅び、あらゆることがすべてここに積み重なっているというのです。ここからそれを訪ねていくのが、どれほど骨を折るかということです。ですから、聖書は、真の愛を求めていくにおいて、「死なんとする者は生きる」としたのです。死を決心しなくては、その場に行くことができないのです。それを今まで、誰も分からなかったということです。
(274-195, 1995.11.3)
ハナニムがこの地上の人間と共に生きることができないのは、この統一観が、家庭で成し遂げられなかったからです。これが成し遂げられれば、ハナニムが再び来られて共に生きるようになります。真の愛といえば、「心と体が一つ、夫婦が一つ、子女が一つ」というコンセプト(観念)がそこに集約されていなければなりません。この三つが一つになれば、真の愛の家庭は、地上天国と天上天国の出発になるのです。
ハナニムと真の父母様を中心として一つになる時、地上天国と天上天国を建設することができます。ですから、地上天国はどこからでしょうか。私と家庭から、息子、娘からです。
(260-185, 1994.5.8)


ロ) 真の愛はハナニムとのみ関係した愛
統一教会は、まことの愛の理想によって神人と心身を統一する所です。ハナニムは、真の愛と、真の生命と、真の血統をもっていらっしゃるお方であり、私たちはそこから出てきたので、私たちにも、真の愛と、真の生命と、真の血統がなければなりません。人間は、ハナニムの真の愛を中心として、父子一体の関係をもって生まれたので、ハナニムの心と体が真の愛によって統一されているように、私たち人間の心と体も真の愛によって自然に統一されていなければなりませんでした。ところが、サタンの愛と、生命と、血統を受け継いだ堕落人間の体はサタンの側に立ち、そして心は神側の一線に立って、これらが継続して闘っているのです。
(201-354, 1990.4.30)
真の愛の起源であるハナニムは、父の立場から人間に絶対不変の真の愛を相続しようとされました。真の愛の中では完全調和と統一が成されるので、ハナニムの真の愛は、そのパートナーである人間に完全に相続されるのです。それだけではなく、このような真の愛の属性によって、相続権と同居権、同参権が自然に生じるので、人間もハナニムの子女として同行できるようになっていたのです。
また、人間相互間においても、真の愛を中心として相続権、同居権、同参権を享受するようになっていました。そして、人間はハナニムの真の愛を中心として、各自の理想と幸福を所有し、自然にこれを先代から後代に伝承するようになっていたのです。そのような世界が、創造本然の世界でした。
(205-156, 1990.8.16)
創造本然の人間は、その心と体にハナニムの真の愛をもち、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。言い換えれば、心は、真の愛を中心としてハナニムに感応し、体は、その心に自動的に共鳴するようになっているのです。心と体が闘うことのない真の統一の起源は、ハナニムの真の愛をそのまま受け継いで体験するところにあります。心と体が統一体になるという人間の理想は、ハナニムの真の愛を完全に所有する時に成し遂げられるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになるのです。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、宗族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。
(234-270, 1990.9.2)
真の愛というものは、永遠にハナニムと連結しています。真の愛の根は、自分を中心として連結されていません。根本的にハナニムと連結されているのです。そして、ハナニムは永遠の存在なので、真の愛に連結されれば自動的に永遠の存在になれるのです。これは、すべて理論的です。
(229-45, 1992.4.9)
真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきたハナニムのこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまえる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。
(284-71, 1997.4.15)


真の愛とは何でしょうか。自らの生命までも投入し、また投入しようというこのような立場、与え、また与えて忘れる立場からのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫くのです。死の世界も貫いて上がっていくのです。生命の世界でも、強い心でも、どこでも貫いていくことができるのです。愛の通じない所はありません。愛は、秘密の部屋にも通じるのです。
(256-179, 1994.3.13)
真の愛とは何でしょうか。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことです。立派な父母とは、どのような父母でしょうか。投入して、投入して忘れてしまう父母です。「私が大学に行かせてあげたので、私が老いれば養って、その代価を払わなければならない」と言って、それを手帳に記録して計算書をあらかじめ準備する父母は、偽りの父母です。そのような父母は、ハナニムのように理想的な孝子に対することができない父母です。
(239-62, 1992.11.23)
真の愛というものは、何をするのでしょうか。真の愛は、いったい何をするのかというのです。皆さんの心と体が闘っているのを、すべて統一するのです。今まで、心と体が統一しなかったのは、真の愛がなかったからです。偽りの愛をつくっておいたからです。真の愛でなければ一つにすることはできません。堕落は、偽りの愛によるものだったので、真の愛でなくては一つにする道がないのです。
(259-292, 1994.4.17)
真の愛とは何でしょうか。全体を投入し、また投入し、また投入しようとすることです。永遠に投入するところから真の愛の真の相対を中心として、一つになれる道ができるのです。
(268-13, 1995.2.7)
真の愛とは、天理を立てるためのものです。ですから、愛も原理原則に基づくのです。愛は原理上にあるのでしょう? 自由も原理主管圏、すなわち原理上にあるのであって、原理を否定するものではありません。
(303-165, 1999.8.17)

 

ハ) 真の愛の基盤は真の家庭
まことの愛の第一の故郷は、真の家庭です。そこには真の父、真の母、真の夫、真の妻、真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。
(215-243, 1991.2.20)
家庭には、男性と女性がいます。それでは、その男性と女性は、どのような男性と女性ですか。創造理想から見るとき、再創造過程に適合した男性と女性です。すべてのものは同じです。男性と女性は、心と体が一つにならなければなりません。心と体が一つになるならば、男性が一つの主体、プラスになり、心と体が一つになった女性をマイナスとして、それと一つになろうとするのです。


このようにして、夫婦が大きなプラスかマイナスになり、子女を中心として一つになろうとするのです。家庭は、この原則に従って、男性と女性がこのように主体と対象によって一つになるのです。プラスとマイナスがこのように一つになったものが父母になり、夫婦になり、兄弟になり、このように主体と対象によって一つになるための3段階の内容を備えて結束したものが家庭です。
(268-13, 1995.2.7)
心と体が一つになり、夫婦が一つになり、父母と子女が一つになる、それ自体の力は何でしょうか。愛の力です。真の愛の力です。それでは、真の愛の力は、どこから出発するのでしょうか。皆さんが結婚する時、相手が自分よりも百倍、千倍、万倍、無限大に素晴らしいことを願うのです。無限大です。そのような心は、どこから来たのでしょうか。ハナニムから来ました。人間もそうであるように、ハナニムも、ご自身の対象が無限大の価値になることを願っているのです。ですから、絶対的であり、永遠であり、唯一的な対象の愛を中心として願うのです。その愛の力は、どんどん大きくなろうとするのです。小さなところから大きくなっていこうとするのです。真の愛だけが大きくなることができるのです。そのようにして、この愛を通じて宇宙と連結されるのです。すべて同様の公式です。
(268-13, 1995.2.7)
人間は、なぜ生まれたのでしょうか。それは愛のためです。真の愛のためです。真の愛とは、いったいどのようなものでしょうか。宇宙のすべてのものを与えても得られない価値をもっているものです。その真の愛をつかめば、ハナニムをつかむことができます。ハナニムの本体をつかむことができます。ですから、結婚というものは偉大なものです。どんぶり勘定式ではありません。
縦的に完成し、横的に完成し、ハナニムと一体となるのです。縦横の完成や前後完成という、すべてのことがそこで成し遂げられるのです。
(249-294, 1993.10.10)
皆さんは真の人間になりましたか。真実の子女がいるかというのです。子女のために、父母は投入して忘れてしまい、また投入します。そして夫は妻のために、また妻も夫のために投入して忘れてしまい、兄弟もやはり同じように投入して忘れてしまう、このような基準が、創造理想の愛を中心として、真のハナニムが願った理想的な出発点だったのです。
(253-66, 1994)
父母は家庭の王であり、宗族の中心は宗族の王になるのであり、民族の中心は民族の王になるのであり、世界の中心は世界の王になるのです。アダムとエバがこのようになるのです。ハナニムを主体にすれば、人間は対象になるのです。それで、家庭の中心の王、すべての中心の王になれば、ハナニムもここで王になるのです。プラスであり主体です。いくら大きくても、この公式に適合しなければなりません。
(268-13, 1995.2.7)
ハナニムは、相対のためにこの宇宙を造りました。ハナニムも独りでいれば、孤独です。皆さんも独りでいれば孤独でしょう? ですから、相対が必要です。パートナーが必要なのです。それは何のパートナーですか。愛のパートナーです。そのような愛の主体であるハナニムが投入して忘れ、無限に投入して忘れてしまう観念をもって始めるならば、その相対となるパートナーも、無限に投入し、無限に注入し、刺激することができる相対として立たなければなりません。


それで、これを結論づけようとすれば、ハナニムの愛は、投入して忘れてしまう思想です。このような思想なので、自ら自身を消耗させる奉仕と犠牲の精神によって宇宙が生じ始めたのです。宇宙の存続が始まりました。それで、ハナニムも愛の相対が必要です。皆さんも愛の相対が必要でしょう? ハナニムも真のハナニムなので、真の愛を中心として真の相対と愛し合うことができる、そのような位置を中心としてこの地上に定着しようとするのです。定置が始まるのです。
定着する基盤は何かというと、家庭です。これが基礎です。これが単位です。公式は単位を通して連結するのです。ハナニムが喜ぶことができ、ハナニムが踊ることができ、ハナニムが笑うことができ、ハナニムが歌うことができる定着的出発地はどこでしょうか。それは国でもなく、世界でもなく、いかなる男性や女性でもありません。男性と女性が一つになってハナニムの相対的立場で定着できる家庭です。そこから、すべてのものが出発するのです。すべての出発です。理想、自由、幸福、すべてのものの出発です。すべて同じ公式です。
(268-13, 1995.2.7)

 

真の愛を実践しなければなりません。家庭盟誓カヂョンメンセを暗唱する時は、必ず心と体が一つになり、夫婦が一つになり、息子、娘が一つになった上で唱えるのです。偽りの愛が始まることによって、心と体が分裂し、夫婦が分裂し、兄弟が分裂したので、蕩減とうげん復帰の原則によって一つになり得る家庭を取り戻すためには、心と体が一つになり、夫婦が一つになり、兄弟が一つになり得る位置を再び築かなければなりません。そのようにすることによって、天上天国と地上天国とが連結されるのです。
(260-317, 1994.5.19)

 

③ 「本郷の地を求め」

イ) 本郷の地の真の意味
本郷とは、どのような所でしょうか。行きたくて、見たくて、暮らしたい、そのような所です。私たちの心が行きたいと思い、心と共に体が行きたいと思う、そのような所です。心が慕うと同時に体も慕い、永遠に安息することができて幸福の基台だと誇ることができる本郷を、私たちは訪ねていかなければなりません。それゆえ、今までの歴史過程において、数多くの人々がこのような本郷を慕い、追求し、欽慕きんぼする途中で死んでいきました。また、今までの数多くの宗教人や哲人たちも、この本郷の地を探すために苦労してきたということを、私たちは知らなければなりません。ですから、本郷の地は必ず現れなければならないのです。
(23-74, 1969.5.11)
本然の園は、理想の園です。有無相通ユムサントン(注:すべてのものが相通ずること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や、文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。
(7-37, 1959.7.5)


本来、人間始祖が堕落していなければ、その本郷はどこでしょうか。アダムとエバが生きたエデンの園であり、その村であり、その山河であることに間違いありません。今日、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間たちは、「本郷!」と言えば、自分たちが生まれた所を思い浮かべますが、今日の人類が追求し、慕っている理想的な本郷というものは、あまりにもでたらめなものです。今日、統一教会が探し求めていく最高の目的地はどこでしょうか。失ってしまった本郷を捜し求めていかなければなりません。その本郷には両親がいらっしゃり、兄弟がいて、親戚しんせきがいます。そこは、彼らが悲しみの中で私たちを迎えるのではなく、永遠の喜びと幸福の中で迎えることができる所であり、そしてその喜びが一時的な喜びで終わるのではなく、永遠に続く、そのような本然の場所を私たちは訪ねていかなければなりません。
(23-74, 1969.5.11)
本然の地は、悪が宿る所ではありません。悪と絶縁し、あふれる本然の愛を中心として、永遠無窮に幸福を謳歌おうかして暮らす永遠の統一世界です。本郷というものは、幸福を謳歌し、父母の愛と家庭の愛に浸り、天地万物を主管しながら天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所です。
(18-102, 1967.5.28)
私たちが本郷の地を慕うのは、そこには誰よりも近い父母と兄弟と親戚がいて、常に私を導いてくれ、いつ、どのような時に訪ねていっても常に私を変わらず迎えてくれるからであり、私が困難な目に遭えば、それに同情し慰労してくれ、私を喜んで迎えてくれるからです。
もしそれがなければ、本郷が慕わしく、恋しくて訪ねていったとしても、切に恋い慕った心情はなくなり、かえって嘆息の条件をもって帰ってくるようになることを知らなければなりません。本郷の地には、必ず迎えてくれる人がいなければなりません。
(23-80, 1969.5.11)
本郷というと、皆さんは何を連想しますか。本郷には自らの愛する父母がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟がいます。私たちが故郷を遠く離れて外国に行くようになれば、その本郷の範囲は広くなり、祖国、すなわち国までが本郷に入ってくるようになります。また、宇宙、あるいは天宙という見地から見れば、この世界が私の本郷になります。このように、眺める範囲が大きくなればなるほど、その本郷の範囲もそれに比例して大きくなっていくということを、皆さんは生活過程においてよく感じるはずです。
(7-22, 1959.7.5)
まことの本郷を取り戻すことができる、その先祖とは誰ですか。ハナニムです。ハナニムであり真の父母です。真の先祖によって連結した真なる国ならば、真の父母と真のハナニムに出会わなければ事が成されないので、歴史始まって以来、偽りの父母によって誤ったことを真の父母によって復帰することにより、地上でハナニムと真の父母をおいて天上天国と地上天国が完成できるのです。
(267-321, 1995.2.5)


ハナニムの愛と一体となり、同苦同楽(注:共に苦しみ共に楽しむ)の喜びを備えれば、永生を中心として、ハナニムの愛の世界とハナニムの家族と皇族の一員として、間違いなく栄華を極めるハナニムを、栄光の中にお迎えして暮らせるのです。それが、私たちの本然の国であり、本郷です。皆さんは、そこを訪ねていくのです。
(264-155, 1994.10.9)
本郷を訪ねていかなければなりません。本郷の基地、エデンで堕落せずに完成していれば、私たち人類の先祖は、ハナニムと同苦同楽できるそのような本郷の基地に行くのです。宗教指導者や父母や先生の指導を受けることなく、良心の命令に従って自らの行くべき道、天理の大道たいどうを行くのです。「良心を教育しよう」という言葉を聞いたことがありますか。良心は、自らの一生において知らないことがありません。
(262-117, 1994.7.23)
皆さんは、みな故郷をもっているでしょう? ところで、ハナニムの本郷はどこでしょうか。ハナニムの本郷の地があれば、その本郷から一族が生じ、その一族から民族が生じ、民族から国家と世界が生じ、それによって地上に天国が生じるはずです。この地球ぼしにハナニムの本郷の地があるとすれば、行きたいですか、行きたくありませんか。行きたいのです。ひどく愚かな母、父、お兄さん、お姉さんが暮らす故郷であっても行きたいと思う人間であるのに、ハナニムの本郷に行きたいとは思わないでしょうか。ハナニムの本郷は、私たちすべての故郷であるのに、行きたいと思わないならば、それはうそです。
(23-152, 1969.5.18)
ハナニムがこの地上に着地し、家庭をもって生活できる所ができるようになれば、そこは、人類全体を代表した位置になるのです。ゆえに、ハナニムが生活を出発したその家庭基地は、人類の本郷の地になるのです。それゆえに、ハナニムが暮らすその根本の出発地が故郷になるのです。
堕落したがゆえに、ハナニムを中心として、その出発地から出発できませんでした。家庭がそのような立場になれなかったのです。そのような故郷がありません。先生が現れることによって初めて、真の愛を中心としてハナニムと真の父母が一つになって着地し、出発できる起源を備えたのです。そこは、人類の本郷の地とならざるを得ません。復帰はなされましたが、復帰されたそこが、本然の形態の出発基地と同じなので、そこは、ハナニムの愛を交わすことができる真の愛の基地であり、人類の本郷の地となるのです。
(289-142, 1998.1.1)
ハナニムが願われる国、すなわち祖国は、どこでしょうか。人類の祖国は、どこでしょうか。人類の真の父母が来られる、その国が祖国です。それが道理です。祖国はどこでしょうか。人類の真の父母が来られる国です。人類の本郷の地はどこでしょうか。アフリカなど、国は数多くありますが、人類の本郷の地は、人類の真の父母として来られたそのお方の生まれた故郷が、宇宙とこの歴史的な世界の本郷の地になるのです。
(156-233, 1966.5.25)


ハナニムが願われる祖国は、どこでしょうか。人類の本郷の地は、どこでしょうか。真の父母様が誕生された故郷こそ、歴史的であり、宇宙的であり、世界的な本郷の地になるのです。先祖と、思想と、伝統を受け継がなければなりません。それをしなければ、継子ままこの扱いを受けます。韓国民族は、選民にならなければなりません。そのようになるためには、先生が内外をひっくり返さなければなりません。韓国が本郷であり、祖国であるとすれば、すべての世界的な文明は、韓国で成就しなければなりません。私たちが韓国を本郷の地とするためには、今日、忠誠、精誠、愛、犠牲の祭物になることを覚悟しなければなりません。そのようにしなければ、韓国は本郷としての資格を失うようになります。良いものをつくるためには、実践が必要です。血と汗と涙を流しながらでも成し遂げなければなりません。
(15-283, 1965.11.2)

 
もし韓国がハナニムの願われる、この世界の本郷の地となり、宇宙万民の祖国となれば、その国の新しい文明は世界を支配し、その国の言語は世界語になり、その国の男女は世界的な男女になるはずです。本来の父母を中心として生まれていれば、言語は一つです。堕落したがゆえに分かれたのです。それで、韓国が祖国の地、本郷の地となり、ハナニムが願われる国になれば、今後、韓国は持ち上げられることでしょう。ハナニムが踊れば、韓国を持ち上げて踊るのです。今までハナニムは、1日として踊ったり笑ったりすることがお出来になれなかったのです。
(156-233, 1966.5.25)
愛の本山が韓国です。人類の愛の家、愛の故郷、愛の国を成し遂げられる本郷の地は、韓国です。それで、真の父母だというこの人は、真の愛を中心とした絶対不変的な家庭理想を中心として、国家形態、世界、天国、地上と天上天国を連結する直通行路を開拓したのです。外国でも、そのようなことを知っています。ですから、自らの国を捨て、韓国に来て生活しようとするのです。
(290-287, 1998.3.2)
地上天国でハナニムの家族として生活した人々が行く所、そこが霊界の天上天国です。天上が私たちの本郷の地です。天上天国が私たちの本郷の地なのです。しかし、人間の堕落後、今までそのような地上天国が築かれることはなかったので、天上天国は空いています。天上天国に入っていった人はいないのです。
(161-12, 1987.1.1)

 

ロ) 私たちが求めていかなければならない本郷の地
懐かしい本郷の地は、どこですか。父と母がいる所です。それは、間違いありません。今の人間世界は、堕落したアダムとエバがハナニムの前から追放され、失楽園したのちに結婚して、息子、娘を生むことによって繁殖した50億人類によってできている世界です。「そうではない」と言う人はいません。このように病気になったので、行くべき道が分からないのです。事件が起こり、孤児として流れてきました。出発が不明確であり、目的地が不明確です。人類は、どこに行くべきかを知らないのです。どのようになるのか、誰も知りません。それを知らないので、ハナニムが50億人類に教えてあげようと、まず先生に教えてくださったのです。統一教会に入ってくれば、ハナニムを知らない人はいません。
(228-220, 1992.4.3)


堕落することによって、私たちは本郷の地を失い、故郷を失ってしまったのです。本来、私が堕落しないで生まれていれば、この世で生きて死ぬ時に、どこで死にますか。本郷の地です。それで、死んでも本郷の地に埋めてもらいたいと思うのです。暮らすならば、どこで暮らしますか。本郷の地です。故郷の地で暮らすはずなのに、生まれてみると怨讐おんしゅうの地であり、悲しい地であったのです。
今、生きているこの場所は、私たちが本拠地とし、幸福の基台であると賛美し得る地でしょうか。違います。それゆえに、通り過ぎなければなりません。家庭よ過ぎ去れ、国よ過ぎ去れ、世界よ過ぎ去れ、共産主義も民主主義も過ぎ去れ! 先生が願うのは、本郷の地の愛主義であり、父母の愛を分け、血肉を分けた兄弟主義です。イエス様は、漠然とそのようなことを叫びましたが、今は具体的です。
(155-32, 1964.10.6)
本郷を求めなければなりません。本郷は、どこでしょうか。イエス様の本郷は、どこでしょうか。イエス様が死ななければ、イスラエルの国がイエス様の本郷になっていたはずです。世界の祖国の出発は、イスラエルの国を中心としてなされていたはずです。イエス様がこの地上で負う責任と、担当しなければならない使命とは何でしょうか。本郷の地を創建しなければならないということです。堕落した全人類の前に、本郷の地となるためには、すなわち故郷の地となるためには、天が探し立てた父母が登場しなければなりません。そのようにならなければ、本郷の地が現れることはできません。父母がいないのに、兄弟が現れることができますか。できないのです。
故郷には誰がいますか。親戚しんせきがいて、兄弟がいて、父母がいなければならず、それから家庭を中心とした所有物がなければなりません。なぜ故郷を恋しく思うのでしょうか。自らの命の心情的な因縁がそこから始まったからです。それゆえに、自らの生命の価値を重要視する限り、故郷を忘れてしまってはいけません。
(155-321, 1965.11.1)
「希望の祖国の一時が早く来てください!」。天の一国家を立てることによって、今まで天の前に怨讐であった大サタンを審判し、悪を取り除いてしまい、善だけを中心とした平和の天国をこの地上に成し遂げなければなりません。それがハナニムの願いであり、イエス様の願いであり、今までの摂理路程において多大な貢献をした私たちの先祖の願いだったということを、皆さんは、はっきりと知らなければなりません。
(155-321, 1965.11.1)


今までの人間たちは、ハンを抱き、悔しく、かわいそうなハナニムであることを全く考えませんでした。よく分からなかったのです。ご自身の息子、娘である世界の万民が、怨讐の鉄柵てっさく網にかかり、「死にそうだ」と言う恨みの声が天地に響き渡っているのに、ハナニムが「ああ、お前たちは、何をそのように大きな声を出しているのだ。私はちょっと寝なければならない」と言って、腹をなでて眠るハナニムでしょうか。ハナニムは、休むことなくこの地を復帰してきているということを知らなければなりません。
(156-233, 1966.5.25)
「本郷の地を求めて」と言いました。ですから、今までの宗教世界では、出家を命令し、独身生活を命令したのですが、統一教会はその反対です。還故郷です。「故郷に帰りなさい」というこの言葉は、宗教世界の歴史にはなかった福音の中の福音です。これは、一度しかない朗報の中の朗報です。そうであるのに、還故郷の道をのろのろ歩んでいた罪人たちが、どれほど多いでしょうか!
(264-187, 1994.10.9)
それで、盟誓メンセ文の第1節は何ですか。「まことの愛を中心として、本郷の地を求め」です。その地を訪ね求めていかなければなりません。「ハナニムの創造理想である地上天国と天上天国を完成すること」を誓うのではありません。創建しなければなりません。私の手でつくらなければならないのです。悪魔の世界から、きれいに取り戻してこなければなりません。サタンの世界圏を完全に回復しなければなりません。それゆえに、完成ではなく、創建なのです。これが違うのです。
(261-88, 1994.5.22)
故郷に帰っていって孝子、忠臣になり、ハナニムの創造理想であるモデル的家庭と国をつくりあげ、王権を成就することによって、地上天国と天上天国になるはずでした。しかし、堕落してもう一つの世界ができたので、これをハナニムの大家庭の理想を中心として一つにしなければなりません。そのままにしておいてはいけないのです。天上世界と地上天国を一つに連結しなければなりません。これを早めるためには、発奮し、情熱的な立場から発展させなければなりません。
(267-153, 1995.1.4)
「私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建する」ということは、地上天国と天上天国を私がつくるということです。家庭を失ってしまったので、家庭をつくらなければならないということです。私たちの家庭は真の愛によって、本郷の地を中心として、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建するのです。本郷の地です。家庭を中心とした本郷の地です。国ではありません。故郷へ帰らなければならないということです。
皆さんにそのような家庭があれば、故郷の地へ帰っていき、地上天国と天上天国をつくりあげなければなりません。故郷さえ取り戻せば、今は、国と世界のすべてが自然に一つになるのです。心配する必要はありません。地上天国と天上天国が自然に成し遂げられるのです。それが家庭から起きるのです。
(260-156, 1994.5.2)


還故郷とは何でしょうか。真の愛の根源地がハナニムなので、その本然の地に帰っていき、その根や枝や実と共に永遠に生きようということです。愛を中心として、平和に、幸福に、永遠に暮らそうというのが、本郷に帰っていくということの道理です。簡単なことです。
(252-269, 1994.1.1)
いかに本郷を連結し、ハナニムと連結するのでしょうか。本来、皆さんが生まれた所が故郷ではないですか。すべての人々は、故郷から全世界に横的に連結されるのです。
今まで、全世界の人々は、天側の故郷をもつことができませんでした。それを失ってしまいました。本然のアダムの位置を探し出すことができなかったのです。私たちがその場所を探し出していかなければなりません。そこに帰っていかなければなりません。その場から家庭を出発し、宗族を出発して、国と世界まで進んでいかなければならないのです。
これは理論的です。観念的なことではありません。そのようにすれば、行くことのできる道がすべて現れているのです。個人の基盤の上で先祖のアダムを復帰し、イエスの立場を復帰しなければなりません。そのようにすれば、完成時代において、再臨主である真の父母を中心として本郷に入っていくことができるのです。そこに入っていけば、すべてのものは皆さんの所有となるのです。皆さんの立場は、そのような立場です。皆さんがそのような概念さえはっきりと知って歩んでいくならば、サタンは退いていくのです。ですから、宗族的メシヤの使命を完遂しなければなりません。
(248-27, 1993.5.30)
定着する所で何を相続してあげるのでしょうか。個人ではありません。家庭です。それを知らなければなりません。それで、家庭盟誓カヂョンメンセが出てくるのです。ですから、家庭盟誓を徹頭徹尾、教育しなければなりません。
この家庭盟誓を見れば、第1節は、真の愛を中心として、本郷の地を求め、創造理想である地上天国と天上天国を創建しようという内容です。それ一つをもって、すべて成し遂げることができるのです。
(268-226, 1995.4.2)

 

④ 「本然の創造理想」

ハナニムのみ旨とは何でしょうか。まことの愛です。創造理想を完成しようというのです。ハナニムの創造理想を完成しようとは、どういうことでしょうか。四位よんい基台を完成しようということです。アダムとエバが結婚することによってハナニムと人類が一つになっていれば、万物がすべてその愛の上で一体となるので、ハナニムを占領し、創造された被造物を占領できる第2の主人になるのです。ハナニムは目に見えない主人となり、私たちは目に見える主人となるのです。ハナニムは内的なハナニムであり、私たちは外的なハナニムになろうというのです。みなハナニムになりたいという欲望をもっています。
(276-253, 1996.2.24)
ハナニムの創造理想である四位基台の完成は、愛によってアダムとエバがハナニムと一つになることです。上下、前後、左右にハナニムが入ってくるのです。そのようにして、何をしようというのでしょうか。第1は、人間の愛とハナニムの愛を完成することです。神人愛の完成です。一体です。愛して一つになれば、所有権が決定します。永遠の愛には、愛の所有権が決定されるのです。夫の前の女性に対して、夫が永遠の所有権をもつのであり、女性の前の男性に対して、女性が永遠の愛の所有権をもつようになるということを知らなければなりません。
(276-253, 1996.2.24)


ハナニムのみ旨とは何ですか。創造理想を完成することです。創造理想とは何ですか。四位基台を完成することです。四位基台の完成とは何ですか。愛の理想、一体理想を完成することです。ぴたっとこのようになるのです。愛ゆえに、すべてのものが生じたとみるのです。ですから、どのような愛ですか。真の愛です。真の愛は、どこから始まるのですか。自分の全体を投入するところからです。投入して忘れてしまうのです。ハナニムは、創造する前から絶対信仰の上でつくったというのです。
(276-299, 1996.3.10)
ハナニムは縦的な父であり、縦的な主体であって、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ構成体を完成させるのです。立体的な構成体というものは、縦横が一つになり、前後が一つになっていなければなりません。それで、縦的な存在とは何かというと、父子の関係です。横的な関係、東西の関係は夫婦の関係であり、兄弟の関係は前後の関係です。このように、一つの家庭に、愛の理想の一つの球形を形成しようとすることがハナニムの創造理想です。
それでは、ハナニムはどこにいらっしゃいますか。中央にいらっしゃいます。父として代表し、夫として代表し、母として代表し、妻として代表し、息子として代表し、お兄さんとして代表し、弟として代表できる、中心存在としていらっしゃることを願われたのがハナニムの創造理想です。それはどういう意味かというと、ハナニムは、男性と女性と永遠に共に暮らしたいということです。彼らが父母になれば、父母の位置で永遠に共に暮らしたいと思うのであり、彼らが夫婦になれば、夫婦として永遠に暮らしたいと思うのであり、ハナニムは父母であられるので、父母として永遠に人間と共に暮らしたいと思ったその基台が家庭だったのです!
(267-224, 1995.1.8)
本来、ハナニムの創造理想というものは、真の父母を標準としてつくられたのです。創造のすべての始まりは、真の父母を標準として、すべての被造物を創造されたのです。真の父母が完成する時間、すなわちアダムとエバが完成した段階に入っていき、真の父母が聖婚式を行うその時間は、ハナニムの聖婚式と同じです。一箇所において成されるのです。ハナニムは真の愛の主人であり、真の愛の根となられるお方なので、その真の愛を中心として、これと人間が一つになり、真の愛の根をこの平面世界、人間世界、地上世界に拡張することを願ったのが創造理想でした。
しかし堕落によって、血統的にはサタンの血肉を受けました。このサタンの血と、サタンの血統と、地獄をすべて取り除いたとしても、天国に入っていくことは難しいのです。これをすべて取り除いたとしても、私たち人間は、ハナニムの創造理想を中心として、ハナニムと真の父母が真の愛を中心としてもつことができる、その血統的因縁の世界とは、元から関係がないからです。
(266-58, 1994.12.11)


良心は最高の理想を願い、体も最高の欲望をもつのです。それゆえに、皆さんが考えても、男性でも女性でも、何を願うかというと、この世界の王になり、女王になることを願うのです。それがハナニムの本来の創造理想です。横的に無限大の中心存在となり、縦的にはハナニムと同じ存在になるのです。ハナニム以上の最高の存在がいますか。それでは、女性と男性は何かというと、ハナニムの聖殿です。目に見えないハナニムの内的な実体なのです。
(272-277, 1995.10.8)
ハナニムが願われた創造理想は、最初は一粒の種を植えることです。これが公式です。一粒の種を植えるのです。そのように植えられた一粒の種が、絶対的な男性の代表です。二つではありません。女性も同じです。そのような女性がクイーンであり、そのような男性がキングです。そのようなキングとクイーンが愛で一つになることが理想です。そのように連結するところにハナニムが臨在されるのです。堕落世界には、そのような内容の理想的な公式基盤がありません。
(271-328, 1995.9.3)
愛は一体を成すのです。父子一体、夫婦一体、兄弟一体という言葉は、愛を離れてはありません。男性と女性の体は、ハナニムの実体です。これが一つになる時は、縦的な基準を求めて上がっていくのです。この一点に集まるのです。縦的基準がまず連結されるのです。
縦は、引力に引かれて下りてきます。横よりも早く下りてきます。自然に来て縦的基準がぴったり中心となり、これらが一つになって回るようになれば、この全体が一を中心として球形を成すのです。これが核となり、アダムとエバが夫婦になって一つの愛の球形体を完成するのです。その位置が息子、娘の完成した愛の実体です。その位置が天国家庭の愛の理想の完成体です。その位置が男性と女性が理想としたハナニムの創造理想であり、根源的な核心点を爆破、結実させたそれ自体なのです。
(262-189, 1994.7.23)
平和の世界において根源となるものとは何でしょうか。ハナニムが中心になるのです。ハナニムを中心として、ハナニムのみ旨とハナニムの創造理想を中心として、その方向を一致させ、目的の一致を成し遂げるところにおいて、平和の世界が可能だったのです。ハナニムのみ旨とは何でしょうか。これは重要な問いです。統一教会では、ハナニムのみ旨は何だといいますか。第1は、創造理想を完成することです。簡単です。それでは、創造理想の完成とは何でしょうか。四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。理想的家庭です。簡単なことです。その理想家庭になっているかということが問題です。
(261-289, 1994.7.24)
ハナニムの創造理想から見るとき、真の男性と真の女性を描き、真の愛と真の生命と真の血統を連結させて、それが安着した位置から家庭が出発するならば、ハナニムの愛とハナニムの生命とハナニムの血統が縦的に降りてきて天と地が一つになり、地で定着し、横的に拡大していかなければなりません。相対的な愛を中心として家庭ができれば、個人と家庭を中心として、宗族になり、民族になり、四方性を備えるようになるのです。
(259-192, 1994.4.10)


ハナニムの創造理想は、父母理想を創造したのです。そのように、父母というものが重要なのです。天国の中心存在も父母なので、父母様が王になるのです。地上の父母から王が始まるのです。それは、すべてのものの中心だというのです。地の上の地上天国、天上世界の中心だというのです。天国の王権と地上の王権は内外です。
私たち人間においては、心と体の関係と同じことです。ですから、体と心は一つになるのです。結局は何かというと、創造理想、すべての天地の目的は父母を中心とした家庭形成だというのです。
トゥルー・マン(true man:真の男性)とトゥルー・ウーマン(true women:真の女性)、トゥルー・カップル(true couple:真の夫婦)、トゥルー・チルドレン(true children:真の子女)、この三つが、一つになって一つの家庭単位を形成するのです。これは公式と同じものです。絶対に引き離すことはできません。なぜですか。真の愛を中心として一つになったものは、いくら強い力を加えても分けることはできません。ハナニムもどうしようもありません。それは永遠に一つです。絶対的に一つです。
(265-288, 1994.11.27)
摂理史の主流となるのは創造理想です。そうです、皆さんがハナニムのみ旨を知らなければなりません。多くの人がハナニムのみ旨と言いますが、その内容を誰も知らないというのです。これをはっきりと知らなければなりません。私が知っている有名な神学者に、このようなことを尋ねてみると、「ああ、ハナニムのみ旨というのは、簡単でありながらも難しい」と言うのです。世の中に、そのような話がどこにありますか。神学者たちが、ハナニムのみ旨に対する定義を下せないでいます。ですから、教派が多くなるのです。キリスト教が定義を下せないので教派が多くなったというのです。標準となる結論を下せなかったということです。
ハナニムのみ旨とは何ですか。ハナニムのみ旨は創造理想の完成です。そうではないですか。ハナニムの心は二つですか、一つですか。ハナニムが絶対的である以上、ハナニムのみ旨も絶対的に一つだというのが論理的な結論です。
それでは、創造理想の完成、これは何ですか。それは四位基台の完成です。それでは、四位基台の完成とは何ですか。愛の理想の完成です。愛とは、どのような愛ですか。真の愛です。そのように言えば、すべて入っていくのです。
(247-116, 1993.5.1)
未来において、私たちが天上天国の中心になり、地上天国の中心となるのです。天上天国は縦的基準であり、地上天国は横的基準ですが、これが一つになって地上天国と天上天国が統一されるのです。これは、ハナニムの真の愛を中心として、統一的大家族の編成を模倣したものです。これがハナニムの創造理想です。
(269-80, 1995.4.8)


真の愛を中心として、ハナニムが人間を無限の価値をもつ者として完成させることによって、ハナニムも真の愛の完成を成し、永遠の理想愛が宿る創造理想世界が完成するのです。
(254-106, 1994.2.1)
ハナニムの愛の理想は、一人では完成することができません。これは、必ず家庭を通して、夫婦の結婚を通して成されるのですが、今までこの内容が分からなかったので解決できませんでした。堕落して偽りの父母となることによって、いまだに偽りの後孫は天国に入ることができないのです。ハナニムが創造理想によって立てられた天国に、入っていけません。この中間段階にとどまっているのです。イエス様も同様です。イエス様がなぜ楽園に行かれたのかというと、結婚することができなかったからです。
それゆえに、霊界にいるすべての先祖たちも、すべてばらばらになっているのです。どこに行くのかというと、どれほど愛し合っている夫婦が霊界に行ったとしても、ハナニムの国、天国に入っていけません。中間天国のような所に入っていき、自らの心霊状態に該当する場所に行くのです。ですから、家族が10人いれば、みなばらばらになっているのです。
(272-289, 1995.10.13)
世界と同化し得る核、モデルケースを家庭で完成させようとするのがハナニムの創造理想です。それは、夫婦を通じて成されます。それゆえに、もし夫婦がまっすぐ行かずに曲がるようになれば、四大心情がめちゃくちゃになります。家庭で完成した心情圏は、天国に入っていくようになっていて、そのようにできなければ、天国ではなく地獄に行くようになるのです。
初愛の貴さを知らなければなりません。これを知ることによって、統一教会の家庭がどれほど素晴らしい家庭になるでしょうか。
(257-216, 1994.3.15)
ハナニムのみ旨は、創造理想の完成です。創造理想の完成は、四位基台の完成であり、四位基台の完成は、真の愛の理想の完成です。これが堕落したので、再び戻ってくるためにはどのようにしなければならないのでしょうか。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰、皇族圏復帰を成し、そのように生きて天国に入っていける本然の基準を完成しなければなりません。これが統一教会の摂理史の主流です。創造摂理が主流ですが、堕落したので復帰摂理がすべて主流になったのです。
(247-143, 1993.5.1)

 

⑤ 「地上天国と天上天国を創建」

イ) 地上天国と天上天国の出発基地は家庭
アダム家庭は、ハナニムの理想と一致したまことの愛の家庭を成さなければなりませんでした。人間始祖のアダムとエバは、ハナニムの無形の性稟せいひんを実体的に完成し、ハナニムのみ旨と愛を宇宙に伝えるという期待の中で創造されました。アダムとエバとその子女たちは、全人類が従うことができる根本原理を、生活の中で確立しなければならなかったのです。


そのようになれば、アダムとエバの後孫たちは、心と体を一つに完成し、ハナニムと一つになった個人、夫婦が一つになった家庭、また子女たちと一つになった家庭を築き、全地上に自由と、平和と、幸福と、希望の満ちあふれた安定した基盤が成し遂げられていたはずです。その典型が家庭や国家にとどまることなく、世界と全宇宙に広がっていくのがハナニムの理想でした。家庭で成された天国の模型が国家全体に拡大され、国家圏の天国が全世界に拡大され、世界圏の天国が全天宙に拡大されるのです。
(288-167, 1997.11.27)
人間の最も基本的な心性と人格は、家庭から形成されます。家庭は、愛と人格、そして生命の出発であり、その根本基台となります。人の一生というものは、家庭の基盤の上で父母の愛によって生まれ、息子、娘の位置から夫婦の位置、父母の位置、祖父母の位置へとその位相を異にしていく中で愛の人格体として完成し、結局、子孫の愛情の中で暮らしたのちに、最終的に天国に行くようになっているのです。これが創造原理です。
家庭を通して歴史と国が生まれ、理想世界が始まります。これがなければ、個人の存在する意味もなく、血統の伝承もありません。したがって、家庭は、すべての価値と理念、そして制度と体制を優先する、最も貴い人間の愛と生命の本拠地となるのです。
(288-167, 1997.11.27)
ハナニムを歓迎し、真の父母と共に、地上で家庭を中心としてハナニムに侍りながら生きることによって、地上の家庭から地上天国・天上天国の家庭となり、すべて統一された世界へ入っていくのです。ですから、皆さんの家庭でハナニムが暮らせなければなりません。ハナニムが暮らしたいと思われるエデンの家庭を築かなければなりません。ハナニムは、アダムとエバの家庭で暮らせなかったので、皆さんの家庭にハナニムをお迎えして暮らさなければなりません。
宗族的メシヤとして、皆さんの一族がハナニムに侍らなければなりません。皆さんの国がハナニムに侍らなければなりません。皆さんの世界がハナニムに侍って暮らし、天地がハナニムに侍って暮らさなければなりません。そのようにハナニムに侍り、共に暮らせる出発基地が家庭です。私たちの家庭が地上天国と天上天国の出発基地だということを知らなければなりません。
(270-103, 1995.5.7)
ハナニムは真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば、すべてが同じ体となります。父母は、ハナニムの代身としての生きているハナニムであり、夫と妻は、お互いにもう片方のハナニムであり、息子、娘は、もう一つの小さなハナニムです。このように3代が真の愛を中心として築いた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を築かなければ、天国は築けません。家庭というものは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎となるので、家庭で愛するのと同じように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合、ハナニムは、全体の宇宙の父母であり、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃるのです。
(298-306, 1999.1.17)


ハナニムを中心として一つになる時、千態万状に回るようになるのです。したがって、父母が子女を愛するのを見習って、兄弟間においても、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛して一元化された家庭には、家庭愛が花開くのです。またこれは、社会愛になることができます。これがさらに進めば、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば世界ができるのです。しかし、今日の世界においては、これが漠然としているのです。
(28-170, 1970.1.11)
アダムとエバが堕落していなければ、ハナニムは、何をしてあげようとされたのでしょうか。ハナニムは、祝福によって結婚式をしてあげ、息子、娘を生ませてハナニムが喜ぶことができる家庭を編成し、これを繁殖させて宗族と民族を編成しようとされたのです。これがさらに広がっていけば、その世界は、何主義の世界でしょうか。神主義の世界であると同時に、アダム主義の世界です。その世界に、理念があるとすれば、それはアダム主義の理念であり、そこに宇宙観があるとすれば、アダム主義の宇宙観であり、天宙観があるとすれば、アダム主義の天宙観であり、生活観があるとすれば、アダム主義の生活観です。
五色人種の皮膚が色とりどりなのは構わないのです。それは環境によって変わったことなので、数多くの民族の皮膚の色が異なるのは構わないというのです。それでは、どうして数多くの民族の言語が異なるようになったのでしょうか。人類始祖が堕落したので、天が分立させたのです。
(156-202, 1966.5.25)
家庭というものは、世界を縮小させた横的な基盤です。ここから、国家と世界が展開していくのです。家庭とは何でしょうか。家庭は、世界の横的な縮小型であり、絶対的な中心の前に、相対的な基準です。それでは、私とは何でしょうか。絶対的な中心がとどまることができる基台です。
(26-258, 1969.11.9)
兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するものですが、それは肉となるのです。平らになっているところに肉がついたのです。ここから円形が生じるのです。ですから、円形をつくるのが兄弟であり、国民です。兄弟が広がって国民になるのです。
ですから、兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。多くの兄弟たちが育つ家庭は、世界の人類を抱いて理想的な地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。それゆえに、兄弟はここから広がっていくのです。
(235-268, 1992.10.11)
家庭は、どのような家庭でしょうか。ハナニムは、おじいさんの位置です。アダムは、現在の家庭を代表していて、息子、娘は、未来です。ハナニムは、過去の象徴であり、父母は、現在の象徴であり、息子、娘は、未来の象徴です。このような愛の理念を中心として、一つの家庭で四大心情圏と三代王権が展開しなければなりません。この心情が完成すれば、どのようになるでしょうか。ハナニムが地上の表面に姿を現され、家庭においてはおじいさんの位置に立たれ、その家庭を治めて天上天国と地上天国が一つになって完成できるようにされるのです。それで、繁殖した子女たちは、二つの国の相続者として連結されるのです。
(236-259, 1992.11.8)


家庭は、地上天国と天上天国のモデルです。そこには、祖父、祖母、母、父、夫婦、赤ん坊まで、4代の系列があります。これを拡大すれば、世界各国においても、祖父、祖母、母、父、自らの夫婦、赤ん坊のような4代の段階になっています。
個人は家庭のために、家庭は宗族のために、宗族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために犠牲にならなければなりません。より大きなもののために犠牲になるという原則を中心として外国に出ていったとき、自らの家庭の祖父、祖母、父、母、自らの夫婦、息子、娘以上に、また自分の国の人以上に世界の国の人を貴く思うならば、天国の本宮と一致した位置で完成し、天国のどこへでも入っていくことができるのです。
(252-265, 1994.1.1)
地上天国と天上天国の民を愛さなければなりません。これは兄弟です。三つの愛がそこから成されるのです。兄弟同士で愛することができる、このような一つのモデルが天国の軸です。理想的天国建設の一つの軸です。地上の軸です。地上軸、天上軸となり、地上の国と天上の国が交代して天国を育てていくならば、天は発展していくのです。
なぜハナニムが人間を造られたのかというと、縦横の理想構成を願ったからです。なぜ子女を必要とされたのかというと、横的な前後を中心として球形を成さなければならないからです。それで、創造されたのです。
(219-168, 1991.8.29)
ハナニムを中心として地上天国と天上天国が統一され、縦的にハナニムと真の父母を中心として横的にカイン、アベルが一つになるのです。愛のゆえにつくったので、地上天国と天上天国は愛で一つになるのであり、ハナニムの本然的な理想を中心とした主体と対象も、愛の理想を中心として一つになるのです。この宇宙、創造世界は愛から始まりました。それゆえに、ハナニムも愛を中心として一つにならなければなりません。地上天国と天上天国の対応的な主体は何かというと、愛です。
(243-323, 1993.1.28)
人間の完成は、真の愛を中心として心と体が永遠に一つになり、そのようになった男性と女性が永遠の夫婦の愛を成し、そのような夫婦の愛を成した父母が真の父母の立場となって、そのような父母を中心とした歴史が、先祖から千年、万年、変わることなく継続することによって、これを縦から横的に拡大するのです。そのようになった世界は、地上天国と天上天国になります。そこで天地合徳が成就されるのです。
(207-58, 1990.10.28)
統一教会の「原理」の驚くべき点は何でしょうか。今までは、地上天国と天上天国がどのように一つにならなければならないかという理論的な根拠を知りませんでした。それは、真の愛を中心としてアダムとエバから始まるのです。ハナニムは、内的なアダムの人格を代身し、アダムは、ハナニムの外的な人格の代表者なのです。この二つが一つになるのです。それゆえに、ハナニムの愛はアダムと共に出発するのですが、一つは縦的な出発であり、もう一つは横的な出発です。理論がちょうどそのようになっています。


そのようになることによって、地上天国と天上天国が一体となるのです。それを理論的に説明することが可能です。今までの既成教会の神学をもってしては、それは不可能です。彼らは、創造主は神聖なものであり、被造物は卑しいものと見ているのです。そのように見ていながら、愛の理論をどのようにして立てることができますか。一遍に問題になるのです。彼らが主張しているように、ハナニムは、何でも思いどおりにすることができるお方でしょうか。違います。ハナニムにも思いどおりにできないことがあるのです。愛を中心としては、ハナニムも思いどおりにできないのです。
(226-169, 1992.2.4)
家庭は、全人類の男性と女性を縮小したものです。人類といえば、それは男性と女性です。家庭は、すべてのものを拡大できる種です。種から繁殖して家庭、そしてその家庭が増え、それらの家庭が連合して数が増大することによって宗族となり、民族となり、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。
(273-48, 1995.10.21)
家庭は機関車です。ですから、トンネルを過ぎて目的地に走っていくようになれば、一番後ろを走っていた皆さんの国と世界は、自動的に天国に到着するのです。
(269-291, 1995.5.1)

 

ロ) 天国創建は祝福家庭の任務
家庭盟誓カヂョンメンセの第1節は、環境復帰です。失ってしまったすべてのものを蕩減とうげん復帰しなければなりません。今までの宗教は、出家を要求し、独身生活を要求してきましたが、統一教会において初めて還故郷を命令したのです。「還国」です。世界的にとてつもない事件が起きたのです。宗教界にとって、これ以上の幸福はありません。それは言葉だけではありません。
(269-105, 1995.4.9)
本郷の地を求め、それから何ですか。地上天国と天上天国を創建しなければなりません。追放されたので、すべてを失ってしまったのでしょう? 求めて何をするのですか。地上天国と天上天国を築かなければなりません。私が創造しなければなりません。失ってしまったので、すべてつくらなければなりません。盗まれたので、再び取り戻してつくっておかなければならないのです。千年、万年かかってもしなさいというのです。それで、統一教会では還故郷を唱えたのです。これは、宗教界にない出来事です。
(288-323, 1998.1.1)
地上天国と天上天国は、アダムとエバが失ってしまったので、私たちが取り戻さなければ、ハナニムもそれを取り戻すことはできません。悪魔は、さらにそれを破壊しようとするのです。地上天国と天上天国は、私たちが取り戻さなければなりません。「本郷の地を求め」と言いました。ですから、今まで宗教世界では、出家を命令し、独身生活を命令したのですが、統一教会はその反対です。還故郷です。「故郷に帰りなさい」というこの言葉は、宗教世界の歴史にはない福音の中の福音です。これは、一度しかない朗報の中の朗報です。
(264-187, 1994.10.9)


家庭盟誓が出てきたことを、ハナニムがどれほど喜び、まことの父母がどれほど喜び、家庭がどれほど喜びますか。「本郷の地を求め」です。この地球ぼしが本郷の地です。本郷の地において、本然の創造理想である地上天国と天上天国を完成するのです。何を通してですか。愛を通してです。みな本郷に帰っていける愛の道に従ってきたのです。堕落した人々の本然の愛を復帰して、再創建するのです。
(297-209, 1998.11.20)
地上天国と天上天国が一つになり、そこでハナニムの真の愛を中心として、一致した家庭生活をした人が、地上で暮らしたのちに天国の家庭へ移動していくのです。ですから、個人救援時代ではありません。キリスト教では、個人救援というのですが、それは違います。家庭救援がハナニムのみ旨です。堕落は家庭で起きたので、復帰も家庭で成さなければなりません。そのような時代が来ました。今までの地上の歴史時代においては、なかったことです。初めて家庭が、新しく定着時代に入ってきたのです。
(260-304, 1994.5.19)
家庭盟誓を暗唱できることが、歴史上どれほど良い福音の中の福音かということを知らなければなりません。それで、「私たちの家庭は」と、私たちの家庭が出てきます。「私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め−自分が生まれた本郷です。故郷の地が最も貴いのです−本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します」です。創造理想とは、ハナニムを中心とした創造理想をいうのです。地上天国と天上天国をつくるのが創造理想でした。ですから、創造理想を堕落によって成すことができなかったので、復帰しなければなりません。本郷の地を中心として創造理想の地上天国と天上天国をつくるということです。
(260-188, 1994.5.8)
本然の創造理想の地上天国と天上天国を、私がつくらなければなりません。家庭を失ってしまったので、私たちの家庭がつくらなければなりません。本郷の地は、家庭を中心とした本郷の地です。国ではありません。それで故郷に帰らなければならないのです。皆さんにそのような家庭があれば、故郷の地に帰って、地上天国と天上天国を成し遂げなければなりません。
今、故郷さえ取り戻せば、自然に国、世界、すべてが一つになるのです。心配する必要はありません。地上天国、天上天国が自然に成されるのです。家庭で展開されるのです。
(260-156, 1994.5.2)
「本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します」。ここに「創建」という言葉を使いました。どうして「創建」というようになったのかというと、これは、私たちが再びつくらなければならないからです。ただ、そのままできるのではありません。つくらなければなりません。再創造しなければなりません。地上地獄になっており、天上地獄になっているので、私たちが再びこれを再創造しなければならないのです。


「本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します」。私たちがつくらなければならないということです。私個人において、地上天国と天上天国になるのが家庭です。家庭においてつくらなければならないので、家庭盟誓です。これをつくらなければなりません。それは、私たちがつくらなければならないのです。
(260-304, 1994.5.19)
家庭盟誓の第1節は、還故郷です。故郷の地の環境へ帰っていくのです。ですから、「本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国」と言ったのです。そこで失ってしまったのでしょう? 創造は、誰がするのですか。私たちがしなければなりません。私がしなければなりません。家庭がすることができなかったので、アダム家庭がしなければなりません。
先生が、その基盤をすべて築いてあげました。反対されなければ、今は、そのようなみことばと内容をもってどこに行こうと、自動的に覇権を掌握できるのです。どこかに行って、口を開けて話さなければなりません。眠っている町中の人々を起こして、「集まってください」と言うのです。それでも集まらなければ、棒でたたいて、強制的にでも引っ張ってきて、30分、1時間、2時間、説教するのです。「悪い話であれば反対しなさい」と言うのです。
聞けば、有り難く思うようになっているのです。そのような絶対的権限をもって、一方的に一気に推し進めても、副作用がない環境条件ができあがってきているのに、これを目で直視しながら行動できなければ、ばかだというのです。そのような者たちは、乞食こじきに奪われてしまうのです。しもべになるのです。
(283-75, 1997.4.8)
私たちの一片丹心とは何でしょうか。失ってしまった本郷の地を取り戻し、本郷の祖国を創建しようというのです。今日、「再建」という言葉を言うでしょう? 再建とは、あるものを取り壊して再びつくることです。
統一教会の群れは、再建ではなく、創建しようというのです。これは材料もなく、このこぶししかありません。本郷の地がありますか。本郷の国がありますか。ありません。ないので創建するのです。創建するのですが、何を材料にするのでしょうか。皆さんのこぶしが材料であり、皆さんの体が材料であり、皆さんの骨が材料です。この体を動かし、骨を削り、すべての血と肉を注ぐようになれば、世界の金銀財宝が飛ぶように入ってくるのです。それで、材料を購入しようというのです。
(155-53, 1964.10.6)
皆さんにとって、家庭盟誓の文をもったのは有り難いことです。他郷で悲しく歩んできた宗教圏でしたが、家庭盟誓は、「帰郷しなさい」と言っているのです! 「還郷しなさい」と言っているのです! 「故郷へ帰りなさい」と言っているのです! 忘れることのできない言葉です。
(283-77, 1997.4.8)

 

ハ) 還故郷と宗族的メシヤの使命完遂
個人的なゴルゴタを越え、家庭的なゴルゴタ、宗族、民族、国家的なゴルゴタを越えて世界的なゴルゴタに向かっていかなければなりません。天は、私たちを前に立てていくことを望んでいるのではなく、今まで天が前に立って私たちの行くべき道を開拓し、私たちに「来なさい」と言っているのです。このような道を行けなければ、滅びます。滅びなければなりません。千回、万回、死ぬようなことがあったとしても、この道を行かなければなりません。今日、韓国人の手により、このような本郷が創建されれば、世界の人々は、私たちを祖国の民として迎えることでしょう。


私たちは、天が願われる園に向かって、きょうも歩み、あしたも歩んでいける準備をするために集まったのです。ですから、力と精誠をすべて捧げ、世の中の何ものよりも貴く思いながらこの道を行くのが、生まれながらの生涯の目的であることを、皆さんは絶対的に知らなければなりません。
(155-53, 1964.10.6)
故郷へ帰っていかなければなりません。今まではすべて追い出されました。追い出されたので、復帰していかなければなりません。完成した家庭として訪ねていけるのです。それで、本郷の地に訪ねていって何をしようというのでしょうか。そこで暮らすのではありません。失ってしまった地上天国と天上天国を、私が捜し出して築かなければなりません。
今は、サタンが本郷の地を占領しているので、天国をつくらなければならないのです。なぜこれをしなければならないのでしょうか。まことの父母が築き上げたものを相続してあげようというのです。真の父母が来て、世界的舞台において本郷の地を訪ねていき、アダム家庭が失ってしまったものを復帰して地上天国と天上天国を完成し得る基盤を築き上げたのです。先生が世界的基盤を築いたので、皆さんは、宗族的基盤を築かなければなりません。
(266-144, 1994.12.22)
なぜ宗族的メシヤとしての責任分担を果たさなければならないのでしょうか。第1の理由は、皆さんの父母を救ってあげなければならないからです。父母は第一のアダムの立場であり、皆さんは第二のアダムの立場です。父母を復帰し、再創造してアダムの使命を完遂しなければなりません。
第2の理由は、皆さんには故郷が必要だからです。宗族的メシヤの使命を果たすことによって、自分の故郷をもてるようになるのです。結局、宗族的メシヤの責任分担を果たさなければならない理由は、アダム家庭を完成するためです。具体的には、宗族を教育しなければなりません。
(217-126, 1991.5.12)
宗族的メシヤがいなければ、家庭基準を中心としてすべて連結されません。それが連結できなければ、皆さんの故郷はあり得ません。先生の故郷はあっても、皆さんの故郷はありません。家庭をすべて復帰しておけば、今後、入籍時代が到来します。入籍時代が到来すれば、支派の編成が起こり、入籍する順序の系列ができるのです。先に入籍する人々がお兄さんになり、彼らを先祖のように侍る新しい体制ができます。全世界をすべてそのようにして、初めて地上天国の完成が成されるのです。
(210-273, 1990.12.25)


統一教会の教団は、宗族です。私の血が共に動じるのです。私が涙を流せば涙を流さなければならず、私が喜べば喜ばなければなりません。血族です。五色人種を超え、文化背景の異なるすべての国家基準を越えて、壁を突き崩して一つに団結した新しい天国創建のための民族です。この民族が神聖になれば、天国の「創国」が顕現するのであり、そのような神聖な「創国」の民族として生きていく時、「創世界」が展開するのであり、その世界の上に天宙的な地上天国と天上天国が連結するのです。
(168-136, 1987.9.13)
今、先生は、皆さんに「メシヤ」という名前を与えました。宗族的メシヤです! それでは、皆さんはどのようにしなければなりませんか。メシヤとして何をしなければならないのでしょうか。国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤになり得るすべてのものを準備しておいたのです。
皆さんのために、山のように大きな宝物を準備しました。皆さんがメシヤになりさえすれば、宝石の山のようなものが連結され、水が流れ下っていくように、皆さんにすべて相続されるのです。
(189-247, 1989.4.9)
地上天国で生きた人が、死んで入っていく所が、永遠の天の国、天国です。それでは、ここでどのように一体となるかを考えなければなりません。これからは、ほかのことを考える必要はありません。自分を中心として、このすべてのことを、完成し、解決し得る最後の終着点にとどまっていることを知らなければなりません。そして、これをどのように完成するかという問題が残っているのです。
それは、私自身の心と体の問題であり、家庭の夫と妻においては、自分と相対の問題であり、父母を中心として子女がいれば、親と子の上下関係の問題です。これが、皆さんの家庭全体が共通に連結された完成の表題となっていることを知り、どれか一つでも偏れば、すべてが傾くというこの事実を、皆さんは知らなければなりません。
(298-53, 1999.1.1)
「終りの日」が来たというのは何ですか。私たち人間の前に、本郷の地を取り戻せる時が近づいたということです。故郷の地で暮らせる人類が、歴史的な祖国を創建できる時代が近づいたということです。
ですから、創建理念をもってこられるイエス様に、「王の王」というレッテルを付けておいたのです。それは不思議でしょう? なぜそのようなものを付けておきましたか。しかし、それは偽りではなく事実です。動機がなくては、結果は出てきません。その結果の内容を追及してみれば、必ず動機があるのです。その動機は、人間が分からない動機です。すべてハナニムが動かすのです。
(155-32, 1964.10.6)
先生が願っていることは、今日の統一教会の青年男女を、どこにおいても通じ得る人々にすることです。国が慌ただしくなる時に、どのような分野でも任せられる人々をつくらなければなりません。
じっと座って土ばかり掘って農作業だけしているのならば、いっそのこと死んでしまったほうがよいのであって、そのようなことで何ができるのですか。土を掘るにしても、一度行けば、村の人々が想像もできない仕事をしてくるのです。10年後、20年後にそれを知る時が来るはずです。私たちがそうです。とんでもないことをしながら、ほかの人ができないことをするために、準備している人々です。行こう! 行こう! 本郷の地に早く行こう! 本郷の地に早く行こう! しよう! しよう! 伝道を早くしよう! あらん限りの力を尽くして闘おう! しよう! しよう! 早くしよう! 一致協力して何をしようというのですか。真のみ旨を立てようというのです。
(155-51, 1964.10.6)


私たちは、きょうも行き、あしたも行かなければなりません。皆さんを指導する先生も、この道を歩んでくるために袋だたきにも遭ったのです。監獄にも、何度も行きました。先生の監獄生活を計算すれば、何年くらいになると思いますか。監獄にも入り、むちで打たれて血を吐いたこともあり、悲しみと迫害の中で、ありとあらゆる恥ずかしさと惨状も味わいました。父母のハンも、親戚しんせきの恨も、国の恨も、民族の恨も、数多くの宗教の恨も受けました。
しかし、行くべき道がそれよりももっと大きく、もっと貴いということを知っていたので、それらは問題にならなかったのです。ですから、きょうまで歩んできたので、あしたもまた行かなければならず、あした行けば、あさってもまた行かなければならず、今年行けば、来年もまた行かなければならず、10年、20年、40年の人生を歩んできたならば、また生涯が終わる時まで行かなければなりません。そのようにして行くべき本郷の地が残っているのです。その本郷の地とは、どのような所でしょうか。行きたい所、行って会いたい所、会って暮らしたい所です。
その道が、今日の世の中のどのようなものよりも、私の周囲のどのようなものよりも貴い道であることを知り、どのようなものよりも切実であるがゆえに、それらをすべて捨てていかなければならない運命があるのです。ですから、今日、これが私たちの行く統一の道であり、師が歩んでいく道であることを皆さんは知らなければなりません。生涯の最後まで行かなければならないのです。
(155-53, 1964.10.6)
家庭の最終着点の美化を、完成しなければなりません。芸術的な家庭理想を備え、ハナニムに侍り、真の父母様が自分の家庭に来られれば、永遠に離れたくないと思われるような家庭を築かなければなりません。同じようにハナニムも永遠に離れたくないと思われるような家庭を築かなければなりません。万民のすべての責任者、指導者、さらには天国にいる真の父母様の直系の息子、娘、そして皇族圏があるとすれば、どのような皇族圏もその家に行って暮らしたいと思えるようなモデル的家庭を築かなければなりません。それが私たちの責任です。天は、このことを、今の時代の当面の課題として提示していることを知らなければなりません! 成就しなければなりません! 責任をもった中心者にならなければなりません! そのようになれば、ハナニムが願われる地上天国、永遠の家庭の出発がなされるのです。
(298-54, 1999.1.1)

 

2) 家庭盟誓第2節の解説

第1節
天一国主人、私たちの家庭は真の愛を中心として、ハナニムと真の父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の家庭の道理を完成することをお誓い致します。」